(泰雲寺つづき)
鳳樹院泰庵霊明居士供養塔
以前訪ねた時は、梶原平馬の墓は風が吹けば倒れそうな木製の柱であったが、立派な石塔に建て替えられていた。
威光院普覚清忠居士(元木吉之助の墓)
元木吉之助(喜代之助とも)は六石二人扶持。家老内藤氏家臣。明治元年(1868)九月十七日、若松・泰雲寺にて自刃。三十五歳。
原早太(隼太とも)、大竹主計の墓が並んで置かれている。
原早太は、三百六十石。朱雀寄合一番隊中隊頭。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて負傷。二十六日、面川にて死亡。三十七歳。
大竹主計は四百五十石。軍事奉行番頭対席。遊撃隊頭。慶応四年(1868)九月五日、会津面川(御山とも)にて戦死。四十六歳。泰雲寺の墓に建てられた供養塔によれば、純義隊主将とされる。
原早太墓(右)
大竹親豪之墓(大竹主計の墓)(左)
内藤得道の墓
内藤得道は、越後の出身。善龍寺で修行し、会津藩軍事方の命を受け僧籍のまま密偵となった。戦争が城下戦に移ると得道は兄が住職を務める泰雲寺に身を寄せる。九月十七日、内藤一族の自刃の様子を見届けた得道はその遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。得道は灰燼の中から内藤家の者達の遺骨を拾い集め、ねんごろに埋葬した。のちに謹慎を解かれた介右衛門が泰雲寺を訪れた際に、得道の労をねぎらい内藤姓を与えた。
(慈光寺)
慈光寺
義範道覺居士(林忠吾の墓)
林忠吾は、六石二人扶持。青竜士中一番有賀隊付。明治元年(1868)九月十四日、若松諏訪神社にて戦死。二十二歳。墓誌には、没日が十一月十四日とある。
(陸軍大将柴五郎の碑)

陸軍大将柴五郎の碑(右)
湯殿山供養塔(左)
陸軍大将柴五郎が戊辰の敗戦を迎えたのは、十歳のとき。「湯殿山供養塔」の前に筵をしき、栗や柿などを売っていたことを、それから五十年後に追憶して和歌を詠んだ。石碑裏面に、柴五郎直筆の文字が刻まれている。
五十とせのむかしのままに残りけり
柿の実うりし道の辺のいし

鳳樹院泰庵霊明居士供養塔
以前訪ねた時は、梶原平馬の墓は風が吹けば倒れそうな木製の柱であったが、立派な石塔に建て替えられていた。

威光院普覚清忠居士(元木吉之助の墓)
元木吉之助(喜代之助とも)は六石二人扶持。家老内藤氏家臣。明治元年(1868)九月十七日、若松・泰雲寺にて自刃。三十五歳。
原早太(隼太とも)、大竹主計の墓が並んで置かれている。
原早太は、三百六十石。朱雀寄合一番隊中隊頭。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて負傷。二十六日、面川にて死亡。三十七歳。
大竹主計は四百五十石。軍事奉行番頭対席。遊撃隊頭。慶応四年(1868)九月五日、会津面川(御山とも)にて戦死。四十六歳。泰雲寺の墓に建てられた供養塔によれば、純義隊主将とされる。

原早太墓(右)
大竹親豪之墓(大竹主計の墓)(左)

内藤得道の墓
内藤得道は、越後の出身。善龍寺で修行し、会津藩軍事方の命を受け僧籍のまま密偵となった。戦争が城下戦に移ると得道は兄が住職を務める泰雲寺に身を寄せる。九月十七日、内藤一族の自刃の様子を見届けた得道はその遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。得道は灰燼の中から内藤家の者達の遺骨を拾い集め、ねんごろに埋葬した。のちに謹慎を解かれた介右衛門が泰雲寺を訪れた際に、得道の労をねぎらい内藤姓を与えた。
(慈光寺)

慈光寺

義範道覺居士(林忠吾の墓)
林忠吾は、六石二人扶持。青竜士中一番有賀隊付。明治元年(1868)九月十四日、若松諏訪神社にて戦死。二十二歳。墓誌には、没日が十一月十四日とある。
(陸軍大将柴五郎の碑)

陸軍大将柴五郎の碑(右)
湯殿山供養塔(左)
陸軍大将柴五郎が戊辰の敗戦を迎えたのは、十歳のとき。「湯殿山供養塔」の前に筵をしき、栗や柿などを売っていたことを、それから五十年後に追憶して和歌を詠んだ。石碑裏面に、柴五郎直筆の文字が刻まれている。
五十とせのむかしのままに残りけり
柿の実うりし道の辺のいし
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