(東海寺)
東海寺
従二位勲一等子爵長岡護美卿墓
長岡知久子墓
長岡護美は、天保十三年(1842)熊本城下に生まれた。父は熊本藩主細川斉護で、護美は三男であった。分家して長岡姓を名乗った。文久二年(1862)、朝廷の京都警護の要請に応えて熊本藩も兵を送ることになり、先発隊として藩主の弟護美が勤王党とともに上洛した。護美は、実学党の長岡是容、横井小楠とも親しかったため、攘夷一辺倒の勤王党とは次第に距離を置くことになった。明治元年(1868)京都で参与に任じられ、朝廷に対して幕府を弁護した。明治三年(1870)熊本藩大参事となって、兄護久を援けて実学党の竹崎健次郎、徳富一敬らを抜擢して藩政改革を断行した。外遊ののち、元老院議官、高等法院陪席裁判官、貴族院議員等を歴任した。明治三十九年(1906)、六十五歳にて死去。
正四位細川韶邦朝臣墓
東海寺の細川家墓地には、熊本藩主細川韶邦(よしくに)、護久の墓もある。それにしても細川家墓地は荒れ放題である。石燈籠は倒壊したままだし、雑草は伸び放題である。何とかしてもらいたいものである。
細川韶邦は、天保六年(1835)の生まれ。細川護久、長岡護美は実弟である。万延元年(1860)に家督を相続すると、やがて肥後勤王党は穏健派、激派に分かれたため、韶邦は反論は公武合体である旨、論示した。慶応四年(1868)幕府が瓦解して初めて反論が勤王一途であることを表明した。維新後、初代熊本藩知事となったが、明治三年(1870)病のため隠居し、護久に家督を譲った。明治九年(1876)四十二歳で死去した。
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東海寺
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従二位勲一等子爵長岡護美卿墓
長岡知久子墓
長岡護美は、天保十三年(1842)熊本城下に生まれた。父は熊本藩主細川斉護で、護美は三男であった。分家して長岡姓を名乗った。文久二年(1862)、朝廷の京都警護の要請に応えて熊本藩も兵を送ることになり、先発隊として藩主の弟護美が勤王党とともに上洛した。護美は、実学党の長岡是容、横井小楠とも親しかったため、攘夷一辺倒の勤王党とは次第に距離を置くことになった。明治元年(1868)京都で参与に任じられ、朝廷に対して幕府を弁護した。明治三年(1870)熊本藩大参事となって、兄護久を援けて実学党の竹崎健次郎、徳富一敬らを抜擢して藩政改革を断行した。外遊ののち、元老院議官、高等法院陪席裁判官、貴族院議員等を歴任した。明治三十九年(1906)、六十五歳にて死去。
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正四位細川韶邦朝臣墓
東海寺の細川家墓地には、熊本藩主細川韶邦(よしくに)、護久の墓もある。それにしても細川家墓地は荒れ放題である。石燈籠は倒壊したままだし、雑草は伸び放題である。何とかしてもらいたいものである。
細川韶邦は、天保六年(1835)の生まれ。細川護久、長岡護美は実弟である。万延元年(1860)に家督を相続すると、やがて肥後勤王党は穏健派、激派に分かれたため、韶邦は反論は公武合体である旨、論示した。慶応四年(1868)幕府が瓦解して初めて反論が勤王一途であることを表明した。維新後、初代熊本藩知事となったが、明治三年(1870)病のため隠居し、護久に家督を譲った。明治九年(1876)四十二歳で死去した。
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