(大福寺)
池内陶所先生之墓
大福寺に池内大学とその妻の墓がある。池内大学は、文化十一年(1814)に近江に生まれた。幕末京都の烏丸下長者町に住み、医業の傍ら青蓮院宮、知恩院宮の侍読となり、公家の子弟を教えた。安政年間、外交問題、将軍継嗣問題が起こると、青蓮院宮・三条実万らに入説した。安政五年、水戸藩に降下された密勅事件にも関与し、梁川星厳、梅田雲浜とともに尊皇攘夷論者として知られた。安政の大獄が起こると、伊勢に逃げたが逃れ難きを知り、京都町奉行所に自首し、江戸に檻送された上で糾問された。死罪は免れたが、退蔵と改名して大阪に籠居した。しかし、尊攘派から「裏切者」とにらまれることになった。文久三年(1863)土佐藩山内容堂が上京の途中、大阪に立ち寄った際、酒席に招かれ、その帰途、暗殺された。下手人は岡田以蔵らというが、以蔵以外の下手人は不明である。池内大学の首は、耳が削がれ、その耳は紙箱に入れ油紙に包まれ、一つは正親町三条実愛、もう一つは中山忠能の両大納言の屋敷に投げ込まれた。この事件がきっかけとなり両卿は退任した。
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池内陶所先生之墓
大福寺に池内大学とその妻の墓がある。池内大学は、文化十一年(1814)に近江に生まれた。幕末京都の烏丸下長者町に住み、医業の傍ら青蓮院宮、知恩院宮の侍読となり、公家の子弟を教えた。安政年間、外交問題、将軍継嗣問題が起こると、青蓮院宮・三条実万らに入説した。安政五年、水戸藩に降下された密勅事件にも関与し、梁川星厳、梅田雲浜とともに尊皇攘夷論者として知られた。安政の大獄が起こると、伊勢に逃げたが逃れ難きを知り、京都町奉行所に自首し、江戸に檻送された上で糾問された。死罪は免れたが、退蔵と改名して大阪に籠居した。しかし、尊攘派から「裏切者」とにらまれることになった。文久三年(1863)土佐藩山内容堂が上京の途中、大阪に立ち寄った際、酒席に招かれ、その帰途、暗殺された。下手人は岡田以蔵らというが、以蔵以外の下手人は不明である。池内大学の首は、耳が削がれ、その耳は紙箱に入れ油紙に包まれ、一つは正親町三条実愛、もう一つは中山忠能の両大納言の屋敷に投げ込まれた。この事件がきっかけとなり両卿は退任した。
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