史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御船 Ⅰ

2017年04月08日 | 熊本県
(御船町役場)


御船町役場

 初日の最初の訪問先は御船町である。予め御船町役場商工観光課にしつこいくらい場所確認のためのメールを送らせていただき、お蔭でほとんど迷うことなく、各史跡を訪ね当てることができた。
 最近はグーグル・マップのストリートビューで、現地を訪れることもなく「下見」することもできる。便利なものである。


郷土先哲の碑

 御船町役場の敷地内に郷土先哲の碑が建てられている。御船町が生んだ五人の先哲とは。宮部鼎蔵、光永平蔵、松崎慊堂、増永三左衛門、林田能寛のことをいう。

(城山公園)
 増永三左衛門は、肥後藩の命をうけ、家業の金鋳場を利用して海岸防備のため大砲鋳造を開始し、独創的考案により入筒砲(層成砲)を発明完成し、造砲史上不朽の名を残した。慶応三年(1867)、没。六十五歳。
 町役場の裏にある城山公園の市内を見下ろす高台に顕彰碑が建てられている。


増永三左衛門顕彰碑

(妙見坂公園)
御船の合戦の主役は、何と言っても薩軍三番大隊長永山弥一郎であろう。
永山は、他の薩人がそうであったように西郷が征韓論に敗れた際に下野したのではなく、政府がロシアと千島・樺太交換条約を結んだことに反対して辞官帰郷したものであった。
西南の役勃発前夜も、主戦論が大半を占める中、武装蜂起に最後まで反対した。信念の人である。
その永山が衝背軍を迎える南下軍の総指揮官となった。南方の苦戦が伝えられると憤然として「八代口の官軍を抑えられなければ、再び諸君に見えることはない。」と言い残して御船方面へ急行した。
永山は酒屋の前に酒樽を置き、その上に腰掛けて長刀を振るって指揮を取ったと言われる。御船は小さい街で、捜せばすぐ見つかるだろう、と高を括っていたのだが、遂に探し当てられなかった。
敗色が明らかとなると、永山は老婆に大金を払って近くの民家を買い取り、紅蓮の中で自刃して果てた。政府が衝背軍を派遣することは、将棋で言えば定石といっても良い。それを事前に察知して手を打っておかなかった薩軍は迂闊であった。永山はそれを痛切に悔やみ、自責していたに違いない。それが壮烈な最期となって表出したのではないか。


妙見坂公園

御船・妙見坂一帯は、西南の役有数の激戦の地である。熊本隊の墓、薩軍砲台跡が残る。


熊本隊の墓

 熊本隊士十一人の合葬墓である。御船方面における戦闘で亡くなった熊本隊士は六十余といわれる。一方で官軍の戦死は約五十。双方多数の犠牲が出た。

(熊本諸隊奮戦之地)


熊本諸隊奮戦之地

 妙見坂公園に通じる道に熊本諸隊奮戦之地碑がある。佐々友房の率いる熊本隊は、駒返り山や盗人塚山に拠って奮戦した。

(薩軍本陣跡)
商店街の方何人かに聞いたところ、薩軍本営跡は既に取り壊された、という。今は「御船運送」の車庫になっていて跡方もない。建物は古くなって取り壊さざるを得なかったとしても、せめて標柱の一つでも立てておいて欲しかった。このままでは知る人もいなくなってしまう。


薩軍本営跡

「御船運送」以前は酒屋であったという

商店街には熊本県庁跡もある。薩軍による熊本城攻城戦が始まった時、危険を避けて御船に県庁を移した。ところが、戦火は御船にも及ぶことが予期され、わずか二日で他に移転した。今は印刷屋さんになっているが、建物の造りは昔のままである。


熊本県庁跡

(御船街中ギャラリー)
 熊本県庁跡の建物の隣は、林田能寛の生家跡で、現在は街中ギャラリーとして、個展や文化交流の場として貸し出されている。


街中ギャラリー

(妙晄寺)
 妙晄寺には林田能寛の墓がある。
 林田能寛は、家業の商業の傍ら、慈善事業や公益事業に力を尽くした。中でも郷土の人材養成のため文武館を建て、また八勢の難所に巨万の私財を投じて眼鏡橋をかけ、交通の便をはかった。明治十八年(1885)、年六十九で没。


妙晄寺


林田能寛墓

(法光寺)


法光寺


丁丑戦死之碑

 法光寺山門を入って左手に丁丑戦死之碑がある。側面に戦死した熊本隊士の名前がぎっしり刻まれる。

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