(願行寺)
願行寺
願行寺参道沿いに石碑がいくつか並んでおり、その中の一つが鎌原桐山碑である。碑の表面は摩耗してほとんど読めない。側面には漢文が刻まれているが、こちらも欠落、ひび割れ、摩耗がひどく、読み取れない。
鎌原桐山碑
(大林寺)
大林寺には鎌原桐山、山寺常山の墓がある。ようやく雨も小降りとなってきたが、傘をさしながら墓地を歩くことになった。
鎌原家の墓は参道左手の鎌原家の墓所の中にある。墓の前に「鎌原桐山墓」と記された小さな石標があるので、それを目印に探すと良い。
山寺常山の墓の在処は少し分かりにくい。墓地の奥の方に、山寺家の墓があり、それに向い合うようにして古い墓石が建てられている。
大林寺
朝曦院殿瑞鳳桐山居士(鎌原桐山墓)
鎌原桐山(かんばらとうざん)は、六代藩主真田幸弘、七代幸専(ゆきたか)、八代幸貫の三代に仕えて功績を上げ、学問も優れ、人望も高かった。昌平黌の学頭佐藤一斎と親しく、藩政の中央に身を置きながら、佐久間象山、山寺常山ら多くの門人を育てた。嘉永五年(1852)、七十九歳で没。
山寺常山幷妻渓月之墓
山寺常山は、二歳のとき父を亡くし、文政七年(1824)、十七歳のとき家を継いで、真田幸貫の近習となった。幸貫が松代の藩校を開こうとしたとき、常山を学校普請掛として重用した。江戸在勤時には佐藤一斎のもとに出入りした。佐久間象山との間には多くの書簡が残されているが、象山が吉田松陰の下田踏海事件に連坐して蟄居を命じられた折、蟄居の身でありながら藩主に意見を上申しようとしたため、常山は象山の身を案じ自分の名前で提出することにした。このことに怒った象山は、常山と絶交した。
(東条天王山)
鎌原桐山碑
鎌原桐山碑(佐藤一斎筆)をたずねて東条天王山を歩いた。天王山に入るには、イノシシ除けの金属製の柵が設けられており、ここを越えなくてはならない。つまりこの内側にはイノシシが棲息しているということである。何となく気色悪いがここで躊躇しているわけにいかない。意を決して中に入る。そこから数分で少し広くなった空間があり、鎌原桐山碑が聳えている。
東条天王山にはいくつか登山口があるが、玉依比売命神社の脇から登るのが一番近道である。
松田栄太郎之墓
鎌原桐山碑のある同じ空間に、戊辰戦争で戦死した松田栄太郎の墓がある。
松田栄太郎は、名を義意(好徳とも)といい、銃兵卒として従軍。三番小隊。更科郡長札村の人。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉にて戦死。十九歳。
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願行寺
願行寺参道沿いに石碑がいくつか並んでおり、その中の一つが鎌原桐山碑である。碑の表面は摩耗してほとんど読めない。側面には漢文が刻まれているが、こちらも欠落、ひび割れ、摩耗がひどく、読み取れない。
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鎌原桐山碑
(大林寺)
大林寺には鎌原桐山、山寺常山の墓がある。ようやく雨も小降りとなってきたが、傘をさしながら墓地を歩くことになった。
鎌原家の墓は参道左手の鎌原家の墓所の中にある。墓の前に「鎌原桐山墓」と記された小さな石標があるので、それを目印に探すと良い。
山寺常山の墓の在処は少し分かりにくい。墓地の奥の方に、山寺家の墓があり、それに向い合うようにして古い墓石が建てられている。
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大林寺
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朝曦院殿瑞鳳桐山居士(鎌原桐山墓)
鎌原桐山(かんばらとうざん)は、六代藩主真田幸弘、七代幸専(ゆきたか)、八代幸貫の三代に仕えて功績を上げ、学問も優れ、人望も高かった。昌平黌の学頭佐藤一斎と親しく、藩政の中央に身を置きながら、佐久間象山、山寺常山ら多くの門人を育てた。嘉永五年(1852)、七十九歳で没。
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山寺常山幷妻渓月之墓
山寺常山は、二歳のとき父を亡くし、文政七年(1824)、十七歳のとき家を継いで、真田幸貫の近習となった。幸貫が松代の藩校を開こうとしたとき、常山を学校普請掛として重用した。江戸在勤時には佐藤一斎のもとに出入りした。佐久間象山との間には多くの書簡が残されているが、象山が吉田松陰の下田踏海事件に連坐して蟄居を命じられた折、蟄居の身でありながら藩主に意見を上申しようとしたため、常山は象山の身を案じ自分の名前で提出することにした。このことに怒った象山は、常山と絶交した。
(東条天王山)
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鎌原桐山碑
鎌原桐山碑(佐藤一斎筆)をたずねて東条天王山を歩いた。天王山に入るには、イノシシ除けの金属製の柵が設けられており、ここを越えなくてはならない。つまりこの内側にはイノシシが棲息しているということである。何となく気色悪いがここで躊躇しているわけにいかない。意を決して中に入る。そこから数分で少し広くなった空間があり、鎌原桐山碑が聳えている。
東条天王山にはいくつか登山口があるが、玉依比売命神社の脇から登るのが一番近道である。
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松田栄太郎之墓
鎌原桐山碑のある同じ空間に、戊辰戦争で戦死した松田栄太郎の墓がある。
松田栄太郎は、名を義意(好徳とも)といい、銃兵卒として従軍。三番小隊。更科郡長札村の人。明治元年(1868)九月十一日、会津熊倉にて戦死。十九歳。
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