(藤枝家墓地)
腰椎ヘルニアを再発してもう三か月近くが経過したが、さっぱり改善の兆しもみられず、痛みと戦う日々が続いている。
この日も休みをとって朝から通院であった。診察が始まる時間には待合室は人であふれていて、いったい何時になったら自分の番が回ってくるのかとため息をついた瞬間、意外と早く自分の名前が呼ばれた。待合室にひしめいていた多数の老人は、診察よりもリハビリだとか注射や点滴が目的のようで、診察を待っている人は存外少ないのかもしれない。
幸いにして早々に病院から解放されたので、病院の近くでレンタカーを借りて久々に遠征することにした。腰は痛いが、運転席に座っているだけであれば痛みを忘れることができる。目的地は、高野長英が潜伏していたことで知られる群馬県中之条町である。
八王子JCTで中央道から圏央道に乗り換えようとしたところで、車の列が微動だにしない大渋滞に遭遇してしまった。いつもはだいたい日の昇る前にこの辺りは通過していて渋滞に逢ったことはなかったので、これは予想外であった。休日ならいざ知らず、平日の昼間でも普段からこんなに交通量が多いのだろうか。予定外の時間のロスとなりスタートから躓いてしまった。あっさりと中之条町遠征は諦めて、同じ群馬県ながら比較的近場の玉村町、桐生市にカーナビの目的地を設定し直した。
藤枝家墓地
竹さんより、「お探しの鈴藤勇次郎という人の墓は、実家である刀匠藤枝家に移されているらしい」という情報をいただいた。かつて前橋の隆興寺で鈴藤勇次郎の墓を探して、出会うことができなかった時点でギブアップしていたのだが、俄然再挑戦の意欲が沸いてきた。
といっても、藤枝家の墓がどこにあるかを探し当てる必要があった。玉村町歴史資料館に問い合わせたところ、実に懇切丁寧に地図付きで場所を教えていただいた。
近くに大きな墓地があるが、藤枝家の墓はそこから少し離れた畑の中に単独で存在している。
賢光院英義居士(藤枝太郎英義の墓)
藤枝英義(てるよし)は、文政六年(1823)、上野国川井村(現・玉村町)の生まれ。父は刀工藤枝英一。松平大和守家に仕え、主家が川越に移ると君命を受けて転住した。鈴藤勇次郎の実兄に当たる。明治九年(1876)、五十四歳で死去。
藤枝玉鱗子之墓(金華院玉鱗居士)
藤枝英一の墓
藤枝太郎英義、鈴藤勇次郎兄弟の父、藤枝英一(てるかず)の墓である。玉鱗子と号した。嘉永四年(1851)没。
為藤枝家先祖菩提
ということで、藤枝家の墓域にある墓石を一つひとつ確認したが、残念ながら鈴藤勇次郎の墓を発見することはできなかった。ただし、墓誌に藤枝英一や藤枝英義らの名前とともに、鈴藤勇次郎の名前も刻まれていたので、恐らく藤枝家の墓に合葬されているのだろう。
墓誌には、「幕末海軍士官小十人格咸臨丸乘組 賢栄院誠昌勇道居士 慶應四戊辰年八月二十四日 英一二男 鈴藤勇次郎(諱)致孝」と記録されている。
(慈恩寺)
廃藩置県後、川越藩を離れた藤枝英義は慈恩寺に移り住み、農具を作ったり、村人の相談に乗ったりして過ごした。
慈恩寺
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