(護国寺つづき)
富田家之墓
富田家之墓
富田鐵之助の墓を探して、護国寺の墓地を歩き回った。富田家の墓は五つほど見つけたが、鐵之助の墓と特定することはできなかった。
一つ目の富田家の墓は昭和五十五年(1980)に建てられた比較的新しいもの。二つ目は墓地北側にある立派な墓石ながら、被葬者が誰だか分からない。
富田鐵之助は、天保六年(1835)、仙台城下に生まれた。父は仙台藩士着座格富田壱岐。安政三年(1856)二十二歳で江戸に出て、勝海舟の塾に入り、蘭学、航海術、砲術を習得した。慶應三年(1867)、アメリカに渡り、翌明治元年(1868)帰朝した。その後、ニューヨーク総理事、清国上海総領事、イギリス公使館一等書記官、大蔵大書記官を歴任し、明治二十一年(1888)、第二代日本銀行総裁となった。しかし、松方大蔵大臣と議合わず翌年職を去った。明治二十三年(1890)、貴族院議員に勅選。翌年には東京府知事となった。明治二十七年(1894)辞した後は、富士紡績会社、横浜火災保険会社の創設などに活躍した。大正五年(1916)、年八十二で没。
今読み進めている「クララの明治日記」では富田夫人(杉田玄端の娘)が頻繁に出てくる。社交的な女性だったようである。
従三位勲三等 下田歌子墓
下田歌子は美濃岩村藩出身の女子教育家、歌人。嘉永七年(1854)の生まれ。明治五年(1872)から明治十二年(1879)まで女官生活を送ったのち、明治十四年(1881)に自宅で桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開き、上流家庭の女子の教育に当たった。明治十七年(1884)、宮内省御用掛となり、華族女学校の創設に参画し、明治四十年(1907)まで皇族や華族などの女子教育に携わった。他方で女性大衆への教育を目指して、明治三十一年(1898)には帝国婦人協会を結成し、翌年には同会付属実践女学校(現・実践女子大学)を創立した。また愛国婦人会や処女会中央部など、女性の国家的自覚を求める社会活動にも活躍する一方で、著作活動も活発に展開した。昭和十一年(1936)、八十二歳で没。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます