(天聖寺跡墓地)
天聖寺跡墓地
天聖寺は、本堂のほか不動尊堂、布袋堂、楼門、大門などの建造物を備えた大寺院であった。元治甲子の乱で寺内の塔堂の全てが尊攘派浪士の拠るところとなり、時の住持も尊攘活動に加担して勤行を怠り、しばらく天狗党の棲み処になったまま放置されて荒廃した。さらに明治三年(1870)六月、出火により伽藍の悉くが灰塵に帰した。以後、復興されないまま廃寺となってしまった。現在は墓地が残されているのみである(小美玉市小川1488付近)。
贈従五位 蛇口安太郎之墓
玖太郎千種氏義照君之墓
天聖寺跡墓地には、蛇口安太郎と千種玖太郎という二人の上州勢(天狗党から分離した他藩出身者グループ)の墓がある。
蛇口安太郎は盛岡藩士。城下花屋町の農民久保田弥七の長男。剣を見込まれて藩士蛇口家を継いだ。江戸に出て千葉周作門下で学び、文久三年(1863)、水戸武田耕雲斎党に加わって元治元年(1864)三月以降、各地を転戦した。天狗勢から分れて横浜の外人居留地を襲撃しようとして、同年九月三十日、小川にて戦死。二十六歳。
蛇口と並んで置かれている千種の墓石を読解すると、名は玖太郎とある。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載されている盛岡藩士千種保太郎と同一人物とすれば、やはり元治元年(1864)九月三十日、小川にて戦死。
天聖寺跡墓地には、七世本間玄琢や九世玄調ら本間一族の墓がある。
有斐院切磋玄琢居士(本間玄琢の墓)
本間玄琢は文化三年(1806)、城址の運送庁廃館に医学研究所を創立した。藩公から「稽医館」の名を賜った。玄琢の子孫も医者となり、斉昭の時代には稽医館は高度な医学研究所へと発展した。
本間玄調和卿
和卿は玄調の字。棗軒とも称した。常磐共有墓地にも墓がある。こちらの墓は、倒壊したために昭和に入ってから再建されたものらしい。
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天聖寺跡墓地
天聖寺は、本堂のほか不動尊堂、布袋堂、楼門、大門などの建造物を備えた大寺院であった。元治甲子の乱で寺内の塔堂の全てが尊攘派浪士の拠るところとなり、時の住持も尊攘活動に加担して勤行を怠り、しばらく天狗党の棲み処になったまま放置されて荒廃した。さらに明治三年(1870)六月、出火により伽藍の悉くが灰塵に帰した。以後、復興されないまま廃寺となってしまった。現在は墓地が残されているのみである(小美玉市小川1488付近)。
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贈従五位 蛇口安太郎之墓
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玖太郎千種氏義照君之墓
天聖寺跡墓地には、蛇口安太郎と千種玖太郎という二人の上州勢(天狗党から分離した他藩出身者グループ)の墓がある。
蛇口安太郎は盛岡藩士。城下花屋町の農民久保田弥七の長男。剣を見込まれて藩士蛇口家を継いだ。江戸に出て千葉周作門下で学び、文久三年(1863)、水戸武田耕雲斎党に加わって元治元年(1864)三月以降、各地を転戦した。天狗勢から分れて横浜の外人居留地を襲撃しようとして、同年九月三十日、小川にて戦死。二十六歳。
蛇口と並んで置かれている千種の墓石を読解すると、名は玖太郎とある。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載されている盛岡藩士千種保太郎と同一人物とすれば、やはり元治元年(1864)九月三十日、小川にて戦死。
天聖寺跡墓地には、七世本間玄琢や九世玄調ら本間一族の墓がある。
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有斐院切磋玄琢居士(本間玄琢の墓)
本間玄琢は文化三年(1806)、城址の運送庁廃館に医学研究所を創立した。藩公から「稽医館」の名を賜った。玄琢の子孫も医者となり、斉昭の時代には稽医館は高度な医学研究所へと発展した。
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本間玄調和卿
和卿は玄調の字。棗軒とも称した。常磐共有墓地にも墓がある。こちらの墓は、倒壊したために昭和に入ってから再建されたものらしい。
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