史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

亀岡 Ⅱ

2019年12月14日 | 京都府

(馬路町先人顕彰碑)

明治維新人見中川両姓唱義碑

 

淸聲千古(中川人見両姓戊辰唱義碑)

 

 西園寺公望が慶應四年(1868)に山陰道鎮撫使として馬路に着陣した際に中川、人見両氏が陣営に参じたことを顕彰した石碑である。篆額は西園寺公望。竹越與三郎撰文、根岸好太郎の書。建立は中川小十郎。実父中川禄左衛門、養父武平太、叔父謙二郎らの名前が刻まれている。

 

中川謙二郎先生碑

 

中川小十郎先生之碑

 

(堀ノ内)

 

中川小十郎生家

 

 馬路町先人顕彰碑の道路を挟んで向い側辺りが中川小十郎の生家跡、即ち中川禄左衛門旧宅に当たる。堀に囲まれていたことから、「堀ノ内」と呼ばれていた。現在、無住となっており、母屋も取り壊されている。辛うじて蔵と土塀、長屋門が残されているが、いずれも老朽化が著しく、倒壊するのも時間の問題かもしれない。早期に保存の手を入れてもらいたい。

 

(長宮)

長宮

 

馬路

 

(典學社跡)

 

典學社跡

 

 注意していないと見逃してしまいそうな小さな石碑である。典學社は嘉永年間に桑田郡で開かれた最古の私塾で、中川小十郎の父や叔父謙二郎らも門下であった。塾長中條侍郎の娘梅野はのちの三輪田真左子(三輪田学園創始者)。真左子は、日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立にも関わり、中川謙二郎の招きにより東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の講師も務めた。

 

 

(四ツ辻)

 中川小十郎は、六歳のとき中川武平太の養子となった。小十郎は武平太の家で幼少期を過ごした。この家も無住となっており、建物の荒廃が進んでいる。

 

中川武平太旧宅

 

(人見龍之進旧宅)

 人見龍之進は、人見一族を代表して山陰道鎮撫使に同行するとともに、総督西園寺公望の宿泊施設として自らの屋敷を提供した。西園寺は馬路滞在の三日間をここで過ごした。この屋敷も人が住んでいないらしく、ほとんど幽霊屋敷の様相を呈している。

 

 

人見龍之進旧宅

 

(導養寺)

 狭い境内の片隅に北村龍象講学遺蹟碑が建っている。

 北村龍象は、明治大正期の教育者。幕臣の子として京都に生まれ、戊辰戦争に従軍の後、馬路に居を移した。典学社の後を継ぎ、四年にわたって塾を運営した。その後も馬路に残り、馬路学校と呼ばれる塾を開くなどして地域の青少年教育に尽くした。

 

道養寺

 

北村龍象先生講學遺蹟

 

(金輪寺)

 

金輪寺

 

頼君三※處士墓

※=森という漢字の左下の「木」が「豆」

 

 

櫻井新三郎源頼直墓

 

 神尾山金輪寺は、亀岡市街から十キロメートルほど離れた山の中にある。最寄りの集落からでも四キロメートル以上も山道を登らなくてはいけない。

 金輪寺の創建は延暦二年(783)。その後、一時衰微したが、寛治年間(1087~93)に栂尾高山寺の明恵上人により再興され、隆盛を誇った。往時には堂宇が立ち並ぶ巨大寺院であった。今も本堂の屋根や扉に菊の紋が使われているのが、由緒正しさを物語っている。幕末、当寺の住職大橋黙仙は、勤王で知られた。寺の庫裏に勤王の志士が集まり、密議を交わしたといわれる。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎や戊辰戦争に従軍して上京し江戸で暗殺された桜井新三郎の遺髪を持ち帰り、供養のために本堂裏に遺髪碑を建てた。

 

 

 

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