(慈眼寺)
慈眼寺(じげんじ)は、天正十年(1588)、鷹司信房の妻嶽星院が父の熊本城主佐々成政の菩提を弔うために建立したもので、墓地には佐々成政の墓がある。当初、西陣の地に建てられたが、後に寺町丸太町に移され、寛文三年(1663)に現在地(上京区七番町)に再建された。墓地には南画家山本梅逸の墓がある。
慈眼寺
山本梅逸居士(山本梅逸の墓)
山本梅逸(ばいいつ)は、天明三年(1783)、尾張名古屋の生まれ。父は彫刻士山本友右衛門。初め張月樵に画を学ぶ。父が早世し、一時神谷天遊の学僕となった。中林竹洞と親交し、ともに京都に出て「芥分園画伝」や明・清の名蹟に学び、画技を磨いた。山水・花鳥をよくし、繊細な筆と姸麗な賦彩を特色とし、京洛の地に大いに行われ、名声竹洞と比肩した。煎茶をよくし、しばしば雅客を迎えて茶会を催した。藩侯の御殿落成に際し、江戸の谷文晁と襖絵を描いたこともある。一時江戸に下り、文晁の斡旋を得て画名上がったが、流行におぼれて次第に人気が落ちた。天保三年(1842)以降、ニ~三年間京都にとどまり、安政元年(1854)、七十二歳のとき名古屋に帰って、藩の御絵師格となった。笛や和歌にも長じた。門下に藤堂凌雲らがいる。門人梅所を養嗣子とした(同じ墓に梅所も葬られている)。安政三年(1856)、年七十四にて没。
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