史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「「会津の悲劇」に異議あり」 八幡和郎著 晋遊舎新書

2017年07月29日 | 書評
「会津の悲劇」ばかりを強調し、会津藩を「悲劇のヒーロー」に仕立て、敵役の薩長は全て「悪」という論調には正直にいって辟易しているが、本書の八幡和郎氏の主張は、「会津の悲劇」を真っ向から否定するものである。我々は同じ史実を見ているはずなのに、見る人によって右にも左にも見えてしまう。これが歴史の難しさであり面白さでもあるが、結局真実は何だろう。後世の人間は結局真実を知ることはできないのであろうか。
会津武士のルーツは大半が信濃で、三河、近江、甲斐、出羽と続く。江戸以前からの会津武士が、保科氏に取りたてられた比率は低いという。筆者は、純粋な会津魂は土着のものではなく、信州の気質こそが会津魂そのものと主張する。それが事実としても、会津という土地で何代にもわたって生活をすれば、それは立派な会津人なのではないか。幕末の会津武士のルーツが会津にないからといって、会津藩士が幕末史に足跡を残した事績をいささかも毀損するものではないだろう。
筆者の批判の矛先は、藩校日新館における教育に及ぶ。藩校では漢学しか教えない。意味も分からず素読をするのは「アルカイーダの神学校のようなもの」とたとえるが、これはちょっと言い過ぎではないか。この時代、日新館に限らず藩校における教育は漢学が中心であったが、アルカイーダのように過激思想を植え付け、テロリストを育成しようというものではない。
有名な「ならぬものはならぬのです」という「什の掟」についても、「一方的な推しつけによる幼児教育は、現代的な教育論の立場からは強く批判されている」とする。しかし、百五十年前の教育を現代の尺度で批判するのにどれほどの意味があるのか。そもそも育成しようという人材像が、当時と現代ではまるっきり違うのではないのか。
松平容保は忠義の人として知られるが、筆者にいわせれば江戸幕府ではなく、孝明天皇に忠義を尽くしただけで、「将軍より天皇に忠実であるべき」というのであれば、明治天皇の意向に沿うべきだという。そうではなかったということは、単に孝明天皇に従順だっただけと指摘する。しかし、その当時の明治天皇はまだ十六歳の少年であり、孝明天皇のような政治向きの判断ができたわけでなく、実質的には岩倉具視や薩長の言いなりであった。その天皇の意向に沿えというのは、容保に酷かもしれない。
筆者は、身分を越えて士分に登用されることを期待して新選組に参加する若者を「ヤクザに身を投じる若者」と「共通の心理」というが、そこまで貶めるのはどうだろう。勤王の志士は「彼らの主張は筋が通っていたし、市民から支持もされていた」と一方的に評価するが、テロを繰り返す不逞浪士に全面的に正義があるとも言い難い。私も決して新選組を手放しで称賛する気はないが、ヤクザと同一視するのも違和感がある。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で「明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑に処するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした」と記述したことに対して、「これはひどい誤解」「事実と違うことを創作するべきではない」と批判する。しかし、戊辰戦争後、会津藩士が斗南に流刑同然に送られたことは、柴五郎の手記にも記載されていることだし、何も司馬先生だけが主張していることではない。司馬先生の小説にしても、随筆にしても、フィクションをあたかもホントの話のように語る場面があって、読者は騙されないように注意する必要がある。そのことは否定しないが、本件をもって司馬先生を批判するのはちょっと筋違いのように思う。
一方で坂本龍馬が「船中八策」を後藤象二郎に示したと記述しているが、先に紹介したように青山忠正先生に拠れば、「船中八策」は後世の創作であり、もともと存在しないものである。筆者こそ、史実にないことをさもあったかのように書いていることを反省すべきであろう。龍馬暗殺犯についても、見廻組の佐々木只三郎が、会津藩在京公用人の手代木直右衛門の実弟であるという事実をもって、「暗殺を指示したのは松平容保ないし、その弟で桑名藩主の松平定敬らしい」と結論付けているが、これもあまりに裏付けに乏しい。
筆者は「まえがき」で「できる限り中立な立場から、頑固固陋な悪玉でも、逆に悲劇の主人公となった正義漢でもない、会津藩の真実を明らかにしていきたい」としているが、正直にいってとても「中立な立場」とは思えなかった。
一方で「斗南は寒風吹きすさぶ未開地ではない。実収は表高より低い七〇〇〇石だったと広く信じられているが、これはどう考えてもおかしい」という主張は耳を傾けるに値する。悲劇を潤色するために、実収を過小に評価した気配が濃厚である。

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4 コメント

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著者より (八幡和郎)
2017-07-30 12:35:40
拙著を紹介頂きありがとうございます。少し、誤解のある部分を指摘しておきます。
松平容保は保科正之の遺言に従えば朝廷でなく幕府に忠実であるべきだったのに朝廷(孝明天皇は独裁者だったので朝廷と同義)の意向にそったので、幕府に対しては忠実でなかったし、朝廷が集団指導体制になったのちは、朝廷の意向に従ったわけでないので、一貫した哲学がないという意味です。
会津や新撰組が京都市民から評判が悪かったのは歴史的事実です。
会津藩士たちが斗南で辛苦をなめたのは事実ですが、そもそも、地元民の評判が悪くて猪苗代でなく斗南への移転を望んだのは山川浩ら会津側です。また、もともと食料備蓄もない斗南の地に無計画に人員整理もせずに大人数を送り込んだのも山川浩らの責任で新政府の問題ではありません。それどころか、新政府はそれなりに支援もしています。
会津土着の人々の気質は小原庄助さんに代表されるように福島県人全般と同じくおおらかです。一方、会津武士は200年たっても典型的な信州人のものです。
日新館の教育については、山川健次郎が13歳になっても九九さえおしえられていなかったというだけでもどんなものか明らかでしょう。
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ご指摘有り難うございます (植村)
2017-08-01 08:22:42
八幡和郎先生

ご多忙の中、ご丁寧なコメントを頂戴して大変有り難うございます。会津藩士が自ら猪苗代ではなく斗南を択んだという話を私が知ったのは、比較的最近(精々5年くらい前)のことで、司馬遼太郎が「街道をゆく 白河・会津のみち」を書いた80年代、「斗南へ挙藩流罪」と書いた時点ではこれが通説だったのかとも考えたりしています(もっともその十年後の「北のまほろば」でも同じ主旨のことを書いていますが)。これは私の想像でしかありません。司馬遼太郎大好きなもので、済みません。今後ともよろしくお願いします。
返信する
Unknown (野田)
2017-11-09 12:25:44
会津プロパガンダを指摘してる唯一の本ですね。
会津プロパガンダによる嘘がバレてきてる昨今
脱会津プロパガンダの入門書だと思います。

最近また会津プロパガンダの嘘
死体埋葬禁止が嘘だったと証明する
史料が会津で発見されました。
会津プロパガンダは歴史の捏造という
だけでく、地域分断やWGIPにも繋がります。

もはや会津にプロパガンダだったと
山口などに謝罪する勇気はないと思います。
ネットを通じで世間に知らしめるしか
ありません。

八幡さんの出版は勇気ある行為です。
必ず会津プロパガンダ洗脳者が
叩きにくるにもかかわらず
出版を刊行したんですから。
頭が下がりますよ。
返信する
ありがとうございます (Unknown)
2019-02-05 01:12:01
会津観光史学Q&A

Q会津観光史学って何ですか?
A会津を独善的に正義の被害者と位置づけ、薩長土肥を何の証拠もないのに悪の加害者だと位置づける中国や韓国の反日政策に類似した被害者商法です。

Q会津恨文化ってなんですか?
A会津観光史学をベースに土着した日本で唯一、会津地方のみに根付いてる文化です。

Q会津が京都守護職に就いたのは、会津が誠実で正義感溢れる土地柄だったからというのは本当ですか?
A嘘です。まず、京都守護職に推されていたのは福井です。天皇が直々に指名しただのなんだのは会津観光史学による誇張です。そもそも何を根拠に任命した側が、会津=正義感があり、誠実だと判断したのか不明です。どこにもそのような史料はありません。

Q会津は京都守護職に就いて何をしましたか?天皇を護っていたというのは本当ですか?
A会津は新撰組などを使って志士の惨殺を行ったり、新撰組の内ゲバ(芹沢鴨等の殺害等)を内密に処理したりしていました。会津は天皇を護っていたのではなく、新撰組などを使い、京都の市街地を警備してたに過ぎません。天皇の身辺を警護してたわけではありません。会津観光史学による誇張です。

Q池田屋騒動は天皇を拉致する山口の企てであり、その企てをキャッチした新撰組が成敗したというのは本当ですか?
A嘘です。まず新選組は、そのような情報をキャッチしてはいません。たまたま発見した会合であると新撰組の永倉の手記に記されています。山口の木戸の日記にも、新選組に捕縛されている滋賀の古高を救うために集まった会合だと記されています。経緯は以下の通りです。屋敷に武器を隠していた古高が新撰組に捕縛され天皇を山口に連れ去る画策を尋問されますが、古高が否定したので、新撰組の土方が五寸釘を使い古高に拷問を加えます。逆さづりにされ、脚を五寸釘で刺しまくられた古高は拷問に絶えかね天皇の拉致計画を認めてしまいます。が、これは拷問自白ですので本当ではありません。天皇を山口に連れ去るという企ては、古高の拷問自白以外に明確な根拠は、幕府側にも尊攘側にもありません。直ぐに永倉が古高の自白通りに行動しますが、1人の浪士に出くわすこともなかったので、片っ端から旅籠を捜索してます。が、結局何も出てこないので諦めて帰ろうとした時に偶然池田屋に浪士が集結してるのを発見し、その後踏み込んでいます。池田屋と四国屋で張っていたというのも創作です。

Q会津が天皇と幕府の忠臣だというのは本当ですか?
A嘘です。まず、会津は公儀に近い大名領でありながら贋金を製作したりシナと密貿易を行っていました。次に会津は、徳川幕府が崩壊しそうになると、ドイツに対して国土(新潟・北海道)売却を条件に後ろ盾になるように打診しています。会津が天皇と幕府の忠臣だったという嘘は、会津観光史学以前の会津名誉回復運動から言われだした嘘です。

Q恭順を示してる会津に薩長がなだれ込み会津戦争になったのは本当ですか?
A嘘です。新政府は、奥羽・北越に対して和平交渉から入ってます。交渉に応じなかった地域が反政府として討伐されました。会津が恭順を示していたのは嘘で、前途でも述べた通り、ドイツに国土を売ってまで戦争しようとしたのは会津ですし、奥羽・北越の同盟も、戦争に躍起な会津・仙台等について行けない東北の小さな地域が次々に離脱しています。会津戦争は、新政府との和平を蹴った会津から白河や今市に侵攻して勃発しています。

Q会津戦争では薩長が蛮行を働いたといわれてますが本当ですか?
A嘘です。鹿児島・山口が蛮行を働いたという史料はありません。あるのは会津系作家や会津贔屓でアンチ薩長の作家の著作物だけです。逆に会津の蛮行は、北関東・東北・北越・道南の史料に掲載されていますし、外国人の報告書にも会津兵による蛮行が記されています。また、会津を討伐したのは、鹿児島・高知を主力に新政府に恭順した東北の地域です。山口は北越に主力を送っています。

Q白虎隊士中二番隊の自刃は史実ですか?
A飯沼貞吉が老年の時に証言した以外に何の証拠もありません。

Q会津の家臣が斗南に行ったのは山口が決めたのですか?
A会津の家臣団のみで会議され会津の山川が決断しました。山口の木戸は、猪苗代を推していました。

Q斗南に行った会津家臣団は、復興に尽力し、鳩侍と恐れられていたのは本当ですか?
A嘘です。怠けてたので斗南の領民から馬鹿にされていました。そもそも恐れる対象に鳩を持ち出すでしょうか?拾い食いをしてたので鳩みたいだと軽視されていたのが史実です。

Q会津は名誉回復されましたか?
A明治政府によって回復されました。松平は華族になってますし、有能な人材も活躍の場が与えられ、斗南に行った家臣も2年で解放されています。また、松平の長男は山口の女性と結婚してます。本当に賊のままなら嫁がせないはずです。

Q会津戦争時の会津兵の死体は、見せしめに埋葬されなかったのですか?
A埋葬されました。会津兵埋葬禁止は会津観光史学による嘘です。歴史家の大山先生が論破してますし、会津若松の市役所などでも嘘だとしています。また、2008年に会津士族の判の手記が発見され、新政府に金銭を貰い死体を埋葬したと記されていました。そもそも残ってる史料には、どの死体にも触るなというものであり、会津兵の死体を放置せよなどとは記されていません。
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