史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

結城 Ⅱ

2014年11月16日 | 茨城県
(結城城跡公園)


表忠之碑

 結城城は、治承年間(1177~1180)に結城朝光が築いたとされるが、確証はない。結城家は関東八家の一つとして勢力をふるい、戦国時代には宇都宮市、佐竹氏らと伍して生き残った。天正十九年(1591)には、徳川家康の次男秀康を養子にもらいうけ、慶長六年(1601)の越前への国替えまで関東の雄として栄えた。結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、その後、元禄十三年(1700)、水野勝長の入部以降、明治に至るまで水野氏の居城として使用された(結城市結城2486‐1)。
 現在、城跡には何の遺構もない。片隅に戊辰戦争にて死傷した新政府軍の氏名を背面に刻んだ表忠之碑が建てられている。

(妙国寺)


妙国寺


笠間藩士の墓


 妙国寺には、戊辰戦争で戦死した六人の笠間藩士の墓がある(結城市結城1570)。いずれも慶応四年(1868)四月十六日、下野小山における戦死者である。
 右から川崎忠兵衛。番頭。隊長。六十七歳。
 秋元金吾。大砲方。三十六歳。
 藤江右膳。目付。軍監。四十三歳。
 川崎保蔵。戦士。十八歳。
 川俣善七郎。大砲方。四十九歳。
 中村庄三郎。戦士。二十六歳。

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桜川

2014年11月15日 | 茨城県
(真壁伝承館)


真壁伝承館

 桜川市の真壁地区は伝統的建造物がよく保存された街並みが見どころとなっている。古い建物を生かした町作りは日本中のあちこちで見られるが、これほど江戸末期から昭和初期に至る様々な建造物が残る町は、私の知る限り真壁が唯一ではないだろうか。
 真壁の中心にあって、観光の拠点となるのが真壁伝承館である。まずここに立ち寄って情報を仕入れることをお勧めしたい。かつて、この場所には真壁陣屋が置かれていた(桜川市真壁町真壁1)。

(伝統的建造物群保存地区)


猪瀬家薬医門

 伝承館で仕入れたパンフレットによれば、現在真壁には四十七の伝統的建造物が保存されているらしい。
 猪瀬家は、堂々たる薬医門(江戸末期から明治初期建造)を備えた住宅である。猪瀬家は、真壁氏と同盟関係のあった佐竹源氏の家臣で、明治期から昭和初期にかけて二代にわたって戸長や町長・県議などを務めた家柄である。


関根家

 関根家は明野地区(現・筑西市)出身で、この地に移り住んだ。店舗を兼ねた住居で下駄屋を営んでいた。一時期煙草も販売していたという。

(常永寺)


常永寺


勤王志士 贈従四位 櫻任蔵之墓


贈従四位 清浄院勇譽真金居士(櫻任蔵の墓)

 常永寺に、真壁出身の草莽の志士、櫻任蔵の墓がある(桜川市真壁町古城47)。
 櫻任蔵は、文化九年(1812)の生まれ。父は小松崎玄達という医者であった。早くから水戸に出て藤田東湖の門に入り、のちに宮本茶村について学んだ。藩主斉昭の雪冤運動に奔走され、処罰された。のち斉昭より禄を受けることになり、以来諸藩の有志と交わるようになった。特に薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の吉田松陰らと往来し、安政五年には鳥取に潜行して、挙兵を勧説した。その後、大阪に潜伏して時機を待ったが、安政六年(1859)病没。四十八。墓は小松崎家墓域にあり、左側面に櫻任蔵の戒名、背面には櫻任蔵の名前を見ることができる。

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笠間 Ⅴ

2014年11月08日 | 茨城県
(真浄寺)


真浄寺


藤江家之墓 (藤江右膳の墓)

 藤江右膳は、笠間藩士。目付・軍監。慶応四年(1868)四月十六日、下野小山で戦死。四十三歳。傍らの墓誌によれば、藤江家の遠祖は享保十六年(1731)に日向延岡で自刃したという。
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水戸 元吉田 Ⅱ

2014年11月08日 | 茨城県
(車塚)


車丹波守憤恨の地碑

 水戸市元吉田の住宅街の中に、ぽっかりと細長い空間があって、その入り口に「車丹波守憤恨の地」と記された石碑が建てられている。奥に車丹波の墓がある(元吉田2416)。
 ここを訪ねるまで、「遺恨の地」だと思っていたのだが、正確には「憤恨の地」である。車丹波斯忠は、戦国時代佐竹氏の家臣である。関ヶ原の戦後処分で佐竹氏が水戸五十四万石から秋田十八万石に転封されることに反発し、徹底抗戦を主張して水戸城奪還を企てたため、捕えられ磔刑に処された。


吉田松陰來拝之地

 水戸を訪れた吉田松陰は、車丹波の話を聞いて深く感動し、車塚に参拝している。
 車塚は雑草がぼうぼうと伸びて手入れされた様子がない。「吉田松陰來拝の地」と書かれた木製の立札も、根元が折れて壁に立てかけられている有様である。


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水戸 酒門共有墓地 Ⅳ

2014年11月08日 | 茨城県
(酒門共有墓地 つづき)
 酒門共同墓地を歩くのは、三~四回目になる。今回は、これまで見つけられなかった野村達次郎や蔭山五郎兵衛、横山信好らの墓を訪ねるため、墓地を隅からすみまで歩いてみることにした。結果的に概ね目当てにしていた墓に出会うことはできたが、梅村速水(初代高山県知事。梅村騒動と呼ばれる騒乱を引き起こした)の墓だけはどうしても見出すことはできなかった。


野邨先生墓標(野村辰次郎墓)

 門人によって建てられた野村辰次郎の墓標である。題字は東久世通禧。諱名は廣と称し、辰次郎は幼名。戊辰戦争では市川三左衛門討伐に参加し、箱館まで転戦した。明治二十二年(1889)没。享年四十六。


蔭山五郎兵衛墓

 蔭山五郎兵衛広顕は、江戸で国事に奔走。投獄されて、明治四年(1871)釈放された。


横山信好君之墓

 横山家の墓地に、一族の墓が並べられている。その中に横山信好(遊撃隊士)の墓がある。

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鉾田 Ⅱ

2014年11月01日 | 茨城県
(厳島神社)


厳島神社

 鉾田市子生の厳島神社の表門近くに、吉田松陰がこの地を訪問したことを記念した石碑がある。
 石碑には「遺馨」という題字が刻まれる。徳川頼倫(第十五代紀州徳川家当主)の篆額。建碑は大正四年(1915)十一月。


遺馨 吉田松陰先生遺蹟碑

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小美玉

2014年11月01日 | 茨城県
(小川小学校)


小川小学校


水戸稽医館碑

 現在、小川小学校のある場所(小美玉市小川1649)は、かつて御殿山と称し、水戸藩では当初ここを藩主の遊息所とした。のち運漕奉行所を置いたが、文化元年(1804)奉行所が移転すると、医師本間玄琢が稽医館を開いて、近郷の有志を集めて医学を教授した。ペリー来航で攘夷論が高まると、時代の要請に基づいて小川郷校と改め、文武を兼ねた研修所となり、攘夷運動の拠点となった。
 小学校の校舎の前に稽医館跡の石碑があるが、生憎門扉が締まっており、近づくことができず。

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潮来

2014年11月01日 | 茨城県


水郷の町 潮来

 久しぶりに茨城県下の史跡を訪ねた。桜田門外の変から百五十年目というメモリアル・イヤーであった平成二十二年(2010)には、毎月のように茨城を訪ねたが、その後少し足が遠のいていた。今回は潮来から鉾田、小美玉を経て水戸市内に入り、笠間、結城、つくばを回る計画である。朝、四時過ぎに自宅を出て、六時半に潮来に着いた。

(長勝寺)


長勝寺

 石川於菟次郎(音次郎)の墓は、屋根で覆われている。石川於菟次郎は、小田原藩士。水戸学に傾倒し、藤田小四郎と倒幕を画策したが、佐幕派と密通しているとの疑いを持たれ、元治元年(1864)一月、潮来で自刃した。死を憐れんだ地元の人たちにより、長勝寺に葬られた。


石川於菟次郎墓

(浄国寺)


浄国寺


故 関戸覚蔵墓

 浄国寺に、「東陲民権史」を著し、「いはらき」新聞の創設者として知られる関戸覚蔵の墓がある。
 関戸覚蔵は、弘化元年(1844)十一月、潮来村に生まれた。生家は潮来の富豪に属する郷士の家で、父主禮の長男であった。父主禮は漢学の深い知識を有した人で、維新後は神社の社司を務めていた。覚蔵は、父の指導もあって漢学を学ぶようになった。二十歳台前半の頃、水戸藩は天狗党と諸生党の対立が激化し、ついに武力衝突にまで発展した。両派の対立は、武士階級のみならず、農村までもが二つに分れて対立した。関戸家は諸生派に加わったため、明治維新とともに形勢は一変した。関戸家も一家離散の悲劇にあい、この頃覚蔵も各地を流浪したという。明治六年(1873)、時の茨城県権令関新平が両派の融和を諭達したことから、ようやく故郷に戻ることができた。
 明治七年(1874)一月、覚蔵は東京師範学校の官費生となったが、病のため翌年退学して帰郷。同年十月、潮来村副戸長、さらに一年後には戸長に就任し、地方行政の役人として活躍した。
 明治十年代は、全国的に自由民権運動が盛んな時期であった。覚蔵も潮来村で開かれた政談演説会に出席し、民権思想を強く持つようになった。やがて公益民会という政治結社を設立した。明治十四年(1881)、県会議員選挙に行方郡から立候補して当選。県会では論客として注目され、幹部の地位にあった。明治十九年(1886)、県会議員を辞すると、県庁職員、さらに明治二十三年(1890)から六年間、衆議院議員を務めた。明治二十四年(1891)、「いはらき」創刊号を発刊して以来、新聞発行に情熱を傾けた。大正五年(1916)、七十三歳で没。

(関戸覚蔵顕彰碑)
 潮来は利根川の河口にある街である。潮来富士屋ホテルの裏手の川沿いに関戸覚蔵顕彰碑が建てられている。


関戸覚蔵顕彰碑

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