(結城城跡公園)
表忠之碑
結城城は、治承年間(1177~1180)に結城朝光が築いたとされるが、確証はない。結城家は関東八家の一つとして勢力をふるい、戦国時代には宇都宮市、佐竹氏らと伍して生き残った。天正十九年(1591)には、徳川家康の次男秀康を養子にもらいうけ、慶長六年(1601)の越前への国替えまで関東の雄として栄えた。結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、その後、元禄十三年(1700)、水野勝長の入部以降、明治に至るまで水野氏の居城として使用された(結城市結城2486‐1)。
現在、城跡には何の遺構もない。片隅に戊辰戦争にて死傷した新政府軍の氏名を背面に刻んだ表忠之碑が建てられている。
(妙国寺)

妙国寺

笠間藩士の墓
妙国寺には、戊辰戦争で戦死した六人の笠間藩士の墓がある(結城市結城1570)。いずれも慶応四年(1868)四月十六日、下野小山における戦死者である。
右から川崎忠兵衛。番頭。隊長。六十七歳。
秋元金吾。大砲方。三十六歳。
藤江右膳。目付。軍監。四十三歳。
川崎保蔵。戦士。十八歳。
川俣善七郎。大砲方。四十九歳。
中村庄三郎。戦士。二十六歳。

表忠之碑
結城城は、治承年間(1177~1180)に結城朝光が築いたとされるが、確証はない。結城家は関東八家の一つとして勢力をふるい、戦国時代には宇都宮市、佐竹氏らと伍して生き残った。天正十九年(1591)には、徳川家康の次男秀康を養子にもらいうけ、慶長六年(1601)の越前への国替えまで関東の雄として栄えた。結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、その後、元禄十三年(1700)、水野勝長の入部以降、明治に至るまで水野氏の居城として使用された(結城市結城2486‐1)。
現在、城跡には何の遺構もない。片隅に戊辰戦争にて死傷した新政府軍の氏名を背面に刻んだ表忠之碑が建てられている。
(妙国寺)

妙国寺

笠間藩士の墓
妙国寺には、戊辰戦争で戦死した六人の笠間藩士の墓がある(結城市結城1570)。いずれも慶応四年(1868)四月十六日、下野小山における戦死者である。
右から川崎忠兵衛。番頭。隊長。六十七歳。
秋元金吾。大砲方。三十六歳。
藤江右膳。目付。軍監。四十三歳。
川崎保蔵。戦士。十八歳。
川俣善七郎。大砲方。四十九歳。
中村庄三郎。戦士。二十六歳。