史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

池田

2017年06月17日 | 福井県
(善徳寺)


善徳寺

 善徳寺の裏山に「水戸浪士の生墓」と呼ばれる墓がある。
水戸浪士約一千が、木本、宝慶寺を経て池田に入ったのは元治元年(1864)十二月八日のことであった。彼らは東俣から谷口までの沿道十か村に分宿し、善徳寺には小野斌男(藤田小四郎の変名)以下、三十人と馬五頭が止宿した。翌九日、浪士たちは出発に当たって、一夜の歓待を感謝して謡曲数番をうたって別れを惜しんだ。この寺に泊まった浪士のうち、石上庄兵尉藤原政治、篠田利助藤原元治の二人は、神妙な面持ちで住職観意和尚の前に出、申し出た。「二人はいずれ近いうちに死ぬ身である。その時は観意和尚に引導を渡してもらいたいが、それもできまいから、髻(もとどり)を持参したのでこれを遺骨代わりに墓を建て、供養してもらいたい」というと、深々と頭を下げ、紙に包んだ髻を老僧に差し出した。観意和尚は「死を急いではならぬ」と強い口調でたしなめた。彼らの髻は今も寺に伝えられ、「生墓」と呼ばれる墓は、裏山にある。


天狗党の生墓

(大庄屋飯田家)
 東俣(ひがしまた)は、中世越前国今南東郡池田庄の集落の一つで、古くから当地には「池田の三関」と呼ばれた関所が置かれていた(他の二つは、志津原、水海)。
 江戸期は越前国今立郡に属し、初めは福井藩府中本多氏の知行地、幕府領を経て、享保五年(1720)以降、鯖江藩領となった。
 武田耕雲斎らは東俣村の飯田彦治兵衛邸に宿泊した。飯田家は代々庄屋を務める家柄で、教養も高く、尊王の志も厚い人で、耕雲斎と話が弾んだという。浪士隊は、当地で一泊した後、大阪峠を越えて今庄宿へと向かった。


大庄屋飯田家

 飯田家の近くに猩々の杜と呼ばれる、樹齢数百年を越える欅の大木から成る森がある。この森に囲まれて、「猩々の宮」と称する祠がある。飯田彦治兵衛家の鎮守堂である。飯田彦治兵衛家は、文政十一年(1828)から安政六年(1859)までの約三十年間、池田郷の大庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄である。今も長屋門を備えた、格式を感じさせる佇まいである。


猩々の宮

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今庄

2017年06月17日 | 福井県
(明治殿)
 今は「福井県」と一括りにされているが、旧国名でいえば「越前」と「若狭」の二つに分かれる。越前は日本海に面した豪雪地帯である。一方の若狭は若狭湾に面し、比較的温暖な地域である。越前の人は語尾を引きずるような、特徴的な福井弁を使うが、若狭地方は関西弁が主流である。越前と若狭の違いは、現代でも明瞭である。現在は北陸トンネルがその境界であるが、それ以前は木ノ芽峠や板取・二ツ屋に関所が設けられ、人や文化の自由な行き来を阻んだ。今に至るまで越前と若狭で風土や文化が異なるのは、この境界の存在を抜きには語れない。
 今庄は、幾重にも重なる南条山地に位置し、北陸道の難所として知られた。福井から京や江戸へ行き来する人々が最初に宿泊したのが今庄宿であった。今では名物今庄そばが少し有名な山の中の寒村であるが、往時は越前でもっとも繁栄した宿場町であった。


明治天皇行在所御座所間阯

 公家や幕府役人、大名など貴人が宿泊する本陣は、享保三年(1718)に後藤覚右衛門が藩の本陣を仰せつかって以来、後藤家が務めた。後藤家は、福井藩の上領四十三ヵ村の大庄屋として格式も高く、宿場の指導的な地位を占めていた。敷地は間口約十間、奥行き二十七間、建坪は約百坪、部屋数も二十を数え、上段の間(殿様用の座敷)を始め、玄関、御式台、お次の間、お小姓部屋などを備えた広壮な住宅であった。
 明治十一年(1878)十月八日、明治天皇の北陸巡幸の際、行在所となったが、その後、後藤家は移住し、邸宅は撤去された。

 その後、後藤家宅は荒廃したが、これを憂えた篤志家の田中和吉氏が私財を投じて、旧御座所の間に檜造りの覆いを冠して、明治殿と称する建物を建設し、そこに行在所を再現した。
 明治十一年(1878)の巡幸の際、供奉したのは品川弥二郎、徳大寺実則、岩倉具視、大山巌、井上馨、大隈重信、川路利良ら。彼らは近在の宿舎に分宿した。


行在所

(昭和会館)
 田中和吉氏が昭和五年(1930)に脇本陣跡に資材を擲って建設したのが昭和会館である。この建物は、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造り三階建てで、社会教育の拠点として建てられた。以来、宿泊のできる研修の場として利用されたが、昭和三十年(1955)から昭和五十年(1975)まで、今庄町役場として使われ、昭和六十二年(1987)以降は今庄地区の公民館となっている。


昭和会館


脇本陣

 今庄宿の脇本陣は、加賀藩が本陣として利用したため、加賀本陣とも呼ばれた。

(若狭屋)
 旅籠屋若狭屋は、今庄宿五十五軒の旅籠屋の中でも規模が大きく、近隣の京藤甚五郎家らと同時期に建てられたものと推定されている。


若狭屋

(京藤甚五郎家)
 京藤甚五郎家は、塗籠の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上に、卯建(うだつ)が上がっているのが特徴の住宅である。今庄宿は、寛政十一年(1799)と文政元年(1818)の二度にわたり宿の大半が焼失する大火があった。京藤家はその後の天保年間(1830~1844)に再建されたものである。厚い土壁や土戸に周囲が覆われ、燃えやすい木の部分が外に出ないように建てられており、さらに隣家から火が移るのを防ぐ袖卯建のほかに、屋根にも瓦葺き土壁の卯建が設けられるなど、防火を徹底的に追求した構造となっている。
元治元年(1864)、天狗党の一行が宿泊し、当時造り酒屋でもあった当家の酒で風呂を沸かして浴したというエピソードや、彼らが刀傷をつけた柱が残っている。


京藤甚五郎家


天狗党による刀傷

(二ツ屋)


二ツ屋関所跡

 二ツ屋宿は、周囲を山に囲まれた地にあり、江戸時代には福井藩領であった。旧北陸道の宿場であり、また今庄宿からの中間宿駅として発達し、馬十二匹が常備されていた。慶長七年(1602)、宿の西方に関所が置かれ、藩士二名と足軽番士二名が警備した。天明七年(1787)時点の家数は四十六戸、うち旅籠五軒、茶屋五軒と記録されている。幕末には京都方面への旅人が多くなり、何かと問屋は多忙を極めた。明治二十六年(1893)の大火で二十数戸が焼失し、さらに明治二十九年(1896)の北陸線開通により街道の宿場の役割は衰え、人口も減少した。現在は、関所跡や制札場跡に木柱が建てられているだけで、人が住んでいる気配は感じられない。


明治天皇行在所


二ツ屋宿場跡

(板取宿)
 今庄宿をあとにした天狗党一行は、木ノ芽峠を進んだ。途中、板取関所を無事通過し、二ツ屋宿で昼食をとり、雪深い狭い道を木ノ芽峠へと急いだ。


板取宿


板取関所跡

(木ノ芽茶屋)
 板取宿跡の脇の道を上って行くと、今庄365スキー場の入口にたどり着く。このスキー場の名前の由来は、一年三百六十五日スキーができるということではなく(現にゴールデンウィークはさすがにスキー場の営業はしていない)、国道365号線からアクセスするために名付けられたものらしい。因みに福井県民のソウルフード「8番ラーメン」は国道8号線に因んだものである。実はこの日の夕食は、無性にラーメンが食べたくなって、迷うことなく8番ラーメンを選んだ。


木ノ芽茶屋


木ノ芽峠

 スキー場の中央を貫く勾配の急な坂を上って行き、突き当りを左に折れるとほどなく木ノ芽峠である。二匹の犬に激しく吠えかかられた。
 この峠の通行が重視された戦国時代には、この周辺に木ノ芽城、観音丸、鉢伏城、西光寺丸等が配置されていた。
 木ノ芽城跡に約四百年前に建てられたという木造茅葺の平屋がある。関所としての役割を越前藩主結城秀康から仰せつかり、前川家が建てたものである。
 元治元年(1864)十二月十一日、天狗党浪士一行はここを通過している。下半身が雪に埋もれ、上半身だけで泳ぐようにして峠にたどりついたといわれる。

 早朝、出雲大社を見学して宇龍港に出て、そこから引き返して安来、日吉津、琴浦、鳥取を経由して和田山から舞鶴若狭道路を経て小浜、若狭の史跡を回って、最終目的地である今庄へ。長い一日であった。
 今回、福井県の池田、今庄、大野郊外の史跡を回って、筑波山挙兵以来の天狗党の足跡をほぼ踏破することができた。天狗党の西上関係史跡は、茨城県内から栃木県、群馬県、長野県、岐阜県に及び、しかも交通の便が良くない場所が多いため、これを全て回るには相当なエネルギーを要する。初めて筑波山を訪問してから、気が付いたら十七年もの歳月が流れていた。これでようやく一区切りというところだが、実は未だ天狗党関係で行けていない場所が残っている。福井県と岐阜県の県境にある蝿帽子峠である。冬は深い雪に閉ざされる上に、片道三時間以上もかかる難所である。しかも途中、橋のない川を渡らなくてはいけなくて、それなりの装備も必要である。山登りの素人が簡単に挑戦できる場所ではない。どうやって蝿帽子峠行を実現したものか今思案中である。

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若狭

2017年06月17日 | 福井県
(神子)
 小浜市街から北東へ十五キロメートルほど走ると、神子(みこ)という静かな漁村がある。この辺りの海、そして風景は本当に美しい。神子浦は、木戸孝允夫人松子(幾松)の母の出身地である。因みに、福井県が生んだスーパースター五木ひろしは、この隣の美浜町の出身である。

 幾松は、天保十四年(1843)、小浜藩士木咲氏の子に生まれた。嘉永四年(1851)、父の死亡により、母は松子と弟を連れて京都御幸町松原下ルの提灯屋に再嫁した。のち三本木の吉田屋の芸妓竹中かのの妹分として貰われ、九歳で舞妓となり、十四歳のとき、姉の名を襲名して二代目幾松と名乗った。文久元年(1861)、桂小五郎(のちの木戸孝允)と出会い、以後献身的に尽くし、桂の危機を救った。維新後、木戸夫人となった。木戸没後は、木屋町別邸に帰り、剃髪して翠香院と号して亡夫の冥福を祈った。明治十九年(1886)、年四十四で没。


神子

(慶雲寺)


慶雲寺


幾松観音

 神子の集落の慶雲寺に幾松観音がある。昭和五十七年(1982)、幾松の命日に建立されたものである。

(民宿旅館細川)


民宿細川

 母・末子が子供を連れて実家の細川家に戻ったため、幼少の幾松は神子で五年ほどを過ごし、九歳のときに京都に移ったとされる。母方の祖父は医師細川益庵。現在、細川家は、民宿となっている。

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小浜 Ⅲ

2017年06月17日 | 福井県
(発心寺)


発心寺

 発心寺には国学者伴信友の墓がある。伴信友は、安永二年(1773)に父山岸維智(これとも)、母さよの四男に生まれ、長じて藩士伴信富(のぶまさ)の養子となり、藩主酒井忠進(ただゆき)の子守役などを務めた。元来勉学の士であったが、信友は享和元年(1801)、国学者本居宣長の学問に傾倒し、本居太平の計らいにより宣長の没後門人となった。「神社私考」「神名帳考証」などを著し、実証学者として名声を得た信友は、平田篤胤、橘守部、香川景樹と並び、「天保国学四大家」と称された。晩年は小浜藩の国学の基礎を築き、「若狭旧事考」などの郷土誌を編纂するなど、若狭の歴史と文化の発展に足跡を残した。弘化三年(1846)没。


伴信友之墓


伴信友翁之碑

 発心寺から近い場所に伴信友の顕彰碑が建てられている。

(きざき旅館)
 きざき旅館は、幾松末裔の宿である。即ち、幾松の父、小浜藩士木崎市兵衛の実家である。木崎市兵衛は、幾松が幼少のときに亡くなっており、これを契機に家族は京都に移ることになった。


きざき旅館

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鳥取 Ⅲ

2017年06月11日 | 鳥取県
(大雲院)
 前回池田慶徳の墓を見逃してしまった。松江から福井へ向かう途中、鳥取で大雲院に立ち寄った。


大雲院

 池田慶徳は、最初、東京の弘福寺に葬られ、のちに多磨霊園に改葬されたが、平成十五年(2003)、鳥取市大雲院に改葬された。


池田家之墓


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琴浦

2017年06月11日 | 鳥取県
(赤碕)


赤崎台場跡

 赤碕台場跡は、鳥取藩が文久三年(1863)から元治元年(1864)にかけて海岸防備の強化のため因幡国三カ所(浦富・賀露・浜坂)と伯耆国六カ所(橋津・由良・八橋・赤崎・淀江・境)に設置した台場の一つである。西洋式の城塞プランが採り入れられ、半円型となっている。



 何という花か名前は分からないが、海に向かって咲き乱れる可憐な花が印象的であった。


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日吉津

2017年06月11日 | 鳥取県
(養光院墓地)
 昨年、鳥取県内を走ったときも、日吉津(ひえづ)の養光院を訪ね、そこで須山萬(すやまよろず)の墓を探したが、実はそこでは墓地すら見付けることができず、撤退することになってしまった。改めて須山萬の墓の場所を調査し、養光院墓地は、養光院から数百メートル東へ行った場所にあり、そこに須山萬の墓があるが分かった。今回は間違いなく養光院墓地に行き着くことができた。

 須山家は数代の医家であった。萬は、十七歳で藩儒の正墻薫や江戸の名儒塩谷宕陰の教えを受け、のちに藩の周旋方に任じられ、勤王のため東西に奔走した。江戸に出て長州藩留守居役の僕(しもべ)と称して活躍しているところを、元治元年(1864)幕府のために捕えられた。一旦は逃げたが、再び捕えられ、討幕計画に加わったという罪で伝馬町の獄に投じられた。慶応元年(1865)、三月六日、斬首。年二十四。明治三十一年(1898)正五位を贈られた。墓碑側面に刻まれている漢詩は、萬が生前、父啓蔵に寄せたものである。


義芳院萬岳遜處居士(須山萬の墓)

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出雲

2017年06月11日 | 島根県
(出雲大社)
 出雲といえば、何と言っても出雲大社である。幕末維新の関連史跡というわけではないが、せっかくなので立ち寄ることにした。といっても、私が出雲大社を訪れたのは、午前五時半にもならない早朝だったので、広い境内には散歩を楽しむ人がまばらに見えるだけであった。神楽殿の脇の道を抜けると、日御碕へと通じている。


出雲大社拝殿

(宇龍港)
 今回、松江市内に宿をとり、早朝五時前に出発して目指したのは、宇龍港という辺鄙な漁港である。明治九年(1876)十月、萩で反政府の挙兵を起した前原一誠、奥平謙輔らは政府軍の手によって鎮圧されると、東京に向けて萩を出港し、途中悪天候のために宇龍港で停泊した。そのとき、地元民が県令佐藤信寛に通報したことから捕縛され、首謀者は全員斬首された。
 これまで佐賀の乱の江藤新平が捕縛された甲浦を訪問した私としては、ずっと前から一度は宇龍を訪ねたいと念願していたが、ようやく実現することができた。


宇龍港

 宇龍港は、鴎が群生していることを除けば、何の変哲もない漁港である。強いて特徴をいうとすれば、不釣合いなほど立派な日御碕(ひのみさき)神社という神社が存在していることくらいであろうか。


日御碕神社

 司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」(文庫本第七巻「衝撃」)によれば、明治九年(1876)十一月四日、「横山俊彦とその若党白井林蔵が、けもののように縄でからめとられ、もっこに入れられて松江警察署にはこばれてきた」。これを知った長州藩出身の島根県県令佐藤信寛は、同じく長州人である属官清水清太郎に命じ、船内に潜伏している前原らに接触させた。このとき清水は、「わが長州の士、弱かつ鈍といえども、いまだかつて一人も鳥獣の扱いを受けた者はおらぬ」と発言し、船中に向け佐藤県令と自分の手紙を届けさせた。前原は清水の説得に応じ船から出てきた。前原は、東京で明治政府の専制を批難することを望んだが、佐賀の乱の前例に従い、彼らの身柄は萩に戻され、そこで一週間ほどの審理の結果、前原以下八名が斬罪、終身懲役が六十四名という判決が下された。刑は同年十二月三日に執行された。

(ふれあいセンター)


前原一誠之碑

 この地で前原一誠が捕縛された史実を示すものは、ふれあいセンターの横の階段を上がったところにある、小さな石碑のみである。傍らにマジックインキで「日本で唯一の前原一誠卿を偲ぶ石碑」を書かれていたが、確かにそのとおりであろう。
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安来

2017年06月11日 | 島根県
(常福寺)
 山陰道鎮撫総督より切腹を要求された松江藩家老大橋筑後は、常福寺においてその時を待った。しかし、藩主松平定安の奔走で、死を免じられ、寸前で救われた。


常福寺

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隠岐

2017年06月11日 | 島根県
(西郷港)
 隠岐の島は、島根沖約五十キロメートルに浮かぶ島嶼である。松江市内からバスで揺られること三十分余りで、七類という港に着く。そこからフェリーで片道二時間半(高速船であれば一時間四十分ほど)で島後の西郷港に至る。決して近いとは言えない距離である。
 二等船室は片道二千九百二十円。連休中ということもあって、かなり人は多かったが、何とか一人分の横になるスペースを確保することができた。事前に隠岐汽船に問い合わせたところ、
「特に予約しないでも乗り損ねることはありません」
ということだった。ほとんど船が揺れることはなかったが、船に滅法弱い私は酔い止め薬を飲用して万全を期した。
 隠岐の島は、大小百八十の島から成る群島を指すが、このうち大きな島は、四つのみで、今回私が訪れたのは北方に位置する「島後」と呼ばれる島である。直径二十キロメートルのほぼ円形をしており、だいたい「五時」の方向に西郷港がある。ここでレンタカーに乗って島の史跡を訪ねる。その日の午後三時過ぎのフェリーで戻ることにしていたので、島での活動時間はわずかに三時間半。一刻の遅滞も許されない。
 レンタカーの店舗から歩いても数分という場所に隠岐騒動の石碑が建てられている。これが最初の史跡である。


フェリーくにが


隠岐騒動勃発地

 この地で「騒動」が起こったのは、慶応四年(1868)三月十九日。島民三千人が蹶起し、松江藩の役人を追い出して島民による自治政府が樹立 した。島民は藩の役人に餞別として米、味噌、酒を贈ったという、優しい「革命」であった。
 この場所は、隠岐代官所(陣屋)のあった場所で、維新後は隠岐県庁、鳥取県隠岐出張所、島根県隠岐四郡役所、隠岐島庁、隠岐支庁等が置かれた。隠岐騒動の際には、この陣屋の攻守を巡って、島民と代官所、松江藩兵との間に激戦が繰り広げられた結果、郡代が追放され、藩兵が引き揚げることとなった。島民はこの陣屋を中心に会議所、総会所と称する自治機関を設けて政権を確立した。明治二年(1869)二月、隠岐県設置とともに政権は明治政府に引き渡された。
 ここを起点に島内の隠岐騒動関連史跡を回ることとしよう。

(乃木ハウス)


乃木ハウス

 西郷の集落に乃木希典が泊ったといわれる住宅が残されている。

(西郷小学校)
 西郷小学校の校庭に隣接して、広い墓地がある。その真ん中辺りにロシア人墓地がある。
 この墓は、日露による日本海海戦の際、漂着したロシア軍人八人の遺体をこの地に埋葬して供養したものである。建立したのは、隠岐國在郷軍人会。


露国軍人墓

(中村)


中沼了三肖像(隠岐郷土館蔵)

 中沼了三の肖像画が隠岐郷土館に残されている。鳥羽伏見の戦いの際の出陣の姿を描いたもので、征討代将軍仁和寺宮から賜った陣羽織を着用し、浅見絅斎の太刀を手にしている。

 島後の中村という集落が中沼了三の出身地である。白鳥海岸展望台から南下していくと、道沿いに「中沼了三顕彰碑」と書かれた案内板が建っており、それを見逃さなければ、ここに行き着くことはさほど難しくない。ここは中沼了三の生家である。碑の近くに、奈良の十津川高校の同窓会による植樹などを見ることができる。


中沼了三先生顕彰碑

 中沼了三は、京都に遊学し、崎門学を極め、師の鈴木遺音の後継者となり、塾を開いたが、その先鋭な主張が幕末に時勢に合致し、憂国の志士が競ってその教えを請うた。維新後は新政府の参与参謀となった。
 この石碑の建立は、昭和五十一年(1976)、中沼了三先生顕彰会によるものである。

(玉若酢命神社)


玉若酢命神社

 玉若酢(たまわかす)神社は、隠岐の総社として創建された古社で、島の開拓にかかわる神と考えられている。現在の本殿は、寛政五年(1793)の建築で、隠岐造といわれる様式である。樹齢千年以上という杉の巨木が目を引く。


隠岐家住宅

 玉若酢神社に隣り合って、茅葺の隠岐家住宅がある。母屋の隣は宝物展示室となっており、奈良時代の駅鈴や光格天皇から下賜された唐櫃、ラフカディオ・ハーンの遺品などが展示されていて、受付の女性が熱心に説明をしてくれる。私の興味は母屋に残された隠岐騒動の傷跡であった。説明が途切れた瞬間を見計らって、刀痕を見ることができるか尋ねたところ、母屋自体は生活空間となっているので見学はできないが、刀痕は見学が可能という。早速、母屋の方に回って隠岐騒動の際の刀痕、弾痕を見学させていただいた。


隠岐騒動の際の刀痕

 慶応四年(1868)五月一日、松江藩軍十数人が隠岐家を襲った。当時隠岐家の当主、隠岐有尚は自治政府の会議所長老を務めていた。大黒柱に刀痕、中戸に火縄銃による弾痕が残されている。


弾痕

(水若酢神社)


水若酢神社

 水若酢(みずわかす)神社は、隠岐一の宮ともいわれる。本殿は、寛政七年(1795)二建てられたもので、妻飾りには鯉と波をかたどった美しい彫刻が施されている。水若酢神社の宮司は、忌部(いんべ)氏。幕末の当主忌部正弘は隠岐騒動における尊王派正義党のリーダー格であった。


私塾膺懲館跡

 水若酢神社の鳥居をくぐって右手に膺懲館跡を示す石碑が建てられている。
 膺懲館は、京都で中沼了三から崎門学の教えを受け、尊王攘夷に燃えて帰国した中西毅男(山田出身)が養父中西淡斎を講師として協力を得、島の若者を集めて隠岐国を外夷から護るために文武の道を教授した私塾である。ここで学んだ若者らは、その情熱を慶応四年(1868)の隠岐騒動に傾注した。建物は維新後、郡学校として使われ、明治三十年(1897)頃まで存続していた。

(隠岐郷土館)
 水若酢神社の東隣に隠岐郷土館がある。この擬洋風木造建築は、西郷港近くの松江藩陣屋跡に隠岐四郡町村連合会が、明治十八年(1885)に建築した旧周吉(すき)郡外三郡役所庁舎を、昭和四十五年(1970)に移築したものである。
 郷土館の展示は、岩石や化石、貝の標本、考古資料などが並ぶが、何といっても隠岐騒動のコーナーに注目である。


隠岐郷土館


村上寅之助之墓

 隠岐騒動関係展示の一角には、明治元年(1868)五月七日に死亡した村上寅之助の墓が置かれている。室内展示で墓石を見たのは初めてであるが、本物なのかレプリカなのか判然としない。この年月日は、松江藩の武力反攻にあって、隠岐自治政府が一時解散させられた時期に一致する。その時の犠牲者と思われる。


隠岐騒動関係の展示

 いずれも隠岐騒動の指導者。右は横地官三郎、左は井上甃介の写真と紹介である。

(白鳥海岸)


白鳥海岸

 島の北端に白鳥海岸と呼ばれる美しい海岸がある。地質学的にも興味深いものらしいが、全くの専門外であり、取り敢えずは景色を楽しむしかない。今回の隠岐の旅では、一切観光地らしい場所は訪問しなかったし、土地のうまいものも何も口にしなかったが、せっかくここまで来てそれも寂しいので、展望台から絶景を楽しむことにした。ゴールデン・ウィークというのに、この日この時間にこの場所に来た観光客は私一人だけであった。

 西郷港の売店で松本侑子著「島燃ゆ 隠岐騒動」(光文社文庫)を購入した。隠岐騒動にについて詳述した小説である。本来、これを読んでから隠岐を訪ねた方が良かったかもしれないが、まずは一読してみたい。

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