史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

松江 Ⅱ

2017年06月10日 | 島根県

(白潟公園)


青柳楼の大燈籠

 夜行バスで京都駅前から松江へ移動。松江には午前五時過ぎに行き着く。この日は隠岐の島に渡って、島内の史跡を巡る予定であったが、七類港行のバスが出るまでの数時間、松江市内を散策することにした。松江のテーマは「錦織かよ」である。
 松江駅から西へ六百メートルほど歩くと、宍道湖畔に白潟公園がある。この公園のシンボル的存在が、大きな石燈籠である。
 この石燈籠は、もともと明治初期から松江の歓楽地として賑わった白潟天満宮の裏にあって、代表的な料亭の一つ「青柳楼」にあったものである。当時、その辺りは宍道湖の浪打ち際であって、高さ六メートル余りの石灯篭は、入江の灯台の役割を果たしていたもので、松江の名物の一つとなっていた。その後、宍道湖の埋め立てにより取り残されていたが、松江開府三百五十年祭に因んで、昭和三十三年(1958)、現在地に移設された。錦織かよ(別名・玄丹かよ)が芸妓として務めていたのが青柳楼の隣にあった鳴玉楼だったことから、この石燈籠も「お加代燈籠」とも呼ばれている。


玄丹かよ像

 白潟公園の宍道湖沿いに錦織かよの胸像が置かれている。台座には、刀の切っ先に突き刺したカマボコを向けられるかよの姿が描かれている。


錦織かよ像の台座のレリーフ

(光徳寺)


光徳寺


侠女お加代の墓

 松江市石橋三丁目に光徳寺に錦織かよの墓がある。
 錦織かよは、天保十三年(1842)、出雲生まれ。父錦織玄丹は松江藩士であったが、盲目となったため浪人し、現在の松江市新町洞光寺下に住んで針医をしていた。慶応四年(1868)、山陰道鎮撫使西園寺公望が西下したとき、かよは二十七歳。城下で酌婦をしていた。鎮撫使は、親藩である松江藩に対して四箇条の難題を示し、その催促のために川路利恭副総督(薩摩藩士。川路大警視の養子。後に奈良県知事、熊本県知事、福岡県知事などを歴任)を松江に下した。この時、城下は目も当てられぬ混乱となった。勝気なかよは、自ら進んで川路の接待にあたり、刀の先に突き刺したカマボコを口で受けた。家老大橋筑後が引責切腹ときくや、助命に一身を捨てようと決意し、首尾よく米子城三の丸本陣に入り込み、西園寺に面談し、赦免状を得た。彼女がみずから馬で安来に駆け付けたとき、家老は切腹寸前であったという。玄丹かよと呼ばれ、侠女として名を高めた。大正七年(1918)没。

(善導寺)


善導寺

 慶応四年(1868)五月、隠岐騒動の責任を負い、松江藩士山郡右宇衛門は、善導寺で切腹して果てた。善導寺は山郡家の菩提寺であるが、右宇衛門の墓は残されていないという。

(松江大橋北)
 松江大橋の北に電信発祥の地の石碑を発見。これまで東京、横浜、神戸、京都などの比較的大都市で電信発祥の地を見てきたが、地方都市では初めてであった。


松江電信発祥の地

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御所 Ⅷ

2017年06月03日 | 京都府
(宗像神社)


宗像神社


花山院邸跡

 今はだだっ広い空間が広がる御所であるが、その昔、公家の屋敷が軒を並べていた。概ね、その位置も特定されているので、そのうちいくつかを紹介しよう。
 宗像神社は、花山院家の邸内にあった神社である。邸宅が廃された後は、社殿のみが残った。花山院家からは、幕末花山院家厚、家理という父子を生んだ。家厚は安政六年(1859)、鷹司輔煕が安政の大獄で失脚すると、七十一歳の高齢で右大臣に任じられ、文久二年(1862)までその任にあった。その子、家理は安政五年(1858)の廷臣八十八卿列参の一人。慶応四年(1868)一月には家理を盟主と仰ぐ一隊が宇佐の御許山で挙兵したが、短期間で鎮圧されている。

(貽範碑)
 貽範(いはん)碑は、賀陽宮邸跡に建てられている。賀陽宮は、伏見宮邦家第四王子朝彦親王といい、孝明天皇の信任が厚く、還俗して中川宮と称して天皇を扶助した。邸宅の庭にあった榧の巨木に因んで賀陽宮と称した。しかし、尊攘派が力を持つと公武合体派の宮は敵視され、維新後には徳川慶喜との関係を疑われ広島に移された。
 手元の漢和辞典によれば「貽範」とは「手本を残す」という意味だそうである。


貽範碑

(西園寺邸跡)
 西園寺公望を生んだ西園寺家の邸宅跡である。同じ場所に邸内社であった白雲神社も残っている。西園寺公望は、この場所で家塾立命館を開設した。立命館大学の前身である。


西園寺邸跡


白雲神社

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東山七条 Ⅱ

2017年06月03日 | 京都府
(法住寺)


此付近 坂本龍馬北添佶摩など
土佐志士寓居跡

 三十三間堂の南側、法住寺の駐車場の前に、歴史地理史学者中村武生氏の手により、最近石碑が建てられた。幕末、この付近に坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいたことを示すものである。龍馬はこの辺りで妻となる楢崎龍と出会ったとされる。龍の母貞と妹君江がこの場所で賄いの仕事をしていたという。北添佶摩の書簡にも、佶摩が龍馬とこの付近の住宅で暮らしていたことが記されている。元治元年(1864)の池田屋事件の際には、京都守護職などの役人が踏み込み、貞や君江が連行された(間もなく釈放)。

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霊山・高台寺 Ⅵ

2017年06月03日 | 京都府
(伊藤博文詩碑)
 井上馨の詩碑を訪ねた後、今度は伊藤博文の詩碑を探して山の中をさまよったが、結局出会う前に高台寺の広大な霊園に出てしまい、仕切り直しすることになった。最短距離を進むことにし、正法寺の墓地を突き抜け、そこから山を登った。父はここで登山を断念したが、そこからわずか七~八分進んだところで、目の前に石碑が現れた。井上馨の詩碑と同様、木戸孝允の三十三回忌に寄せてつくられた漢詩が刻まれている。


伊藤博文詩碑

追懐往事感無窮三十三年夢寐
中顔色威容今尚記名声輿望
古誰同蕭曹房杜忠何比蜀相楠
公義暗通墓畔題詩新緑桜山
鵑叫尽血痕紅 祭松菊公墓

(幕末志士葬送の道)


天誅組総裁松本謙三郎奎堂大人顕彰碑

 神葬墓地に、平成二十八年(2016)九月二十五日、天誅組総裁松本奎堂顕彰碑が建てられた。この日は奎堂の命日であった。



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東山

2017年06月02日 | 京都府
(将軍塚青龍殿)


将軍塚と青龍殿

 将軍塚へは、清水寺の境内を経由する道と岡崎方面から登る道の二通りがある。前もって父に調べてもらった結果、岡崎公園から長楽寺へ抜けて、門前を左折してあとはひらすら山頂を目指すルートを採用することにした。長楽寺の前を通過して約二十五分で青蓮院の門前に出る。
 この日は久しぶりに父も同行することになった。以前は私の史跡巡りによく付き合ってくれたが、八十を越えてさすがに私のペースについて来られなくなってきた。今回はたかだか三十分足らずの登山であるし、東山山頂に登るのもこれが最後の機会かもしれないということで、同行してくれることになった。
 父は余程嬉しかったらしく、将軍塚で会う人ごとに
「下から登ってきましてん。」
「今年で八十六になります。」
と言い触らす。それを聞いた相手は
「ほーっ」
と感嘆し、決まって「お若いですね」というものだから、有頂天であった。
 青龍殿は、国宝青不動を祀る建物で、清水寺の舞台の4・6倍の広さを誇る大舞台が新設されている。ここから京都市内が一望できる。京都が山に囲まれた盆地であることや、御所がかなり広い場所を占めていることなどが一目でわかる。
 円形の古墳状の塚には、桓武天皇が和気清麻呂を伴ってこの地に至り、京都を都とすることを決めたという言い伝えが残る。この場所に将軍(坂上田村麻呂)の像に甲冑を着せたものを埋め、都の安泰を祈ったと伝えられる。将軍塚の周りには東郷平八郎や黒木為禎といった武人が植えた松がある。


東郷(平八郎)手植えの松


黒木(為禎)大将手植えの松

 また庭園には大隈重信が植樹を記念した石碑もある。傍らの松は、大隈の手植えの松から四代目という。


大隈重信公 手植松

 さて、今回将軍塚を訪問した目的は、その近くにある井上世外(馨)詩碑を訪ねることにあった。将軍塚青龍殿から少し離れた山頂公園から清水寺方面に下る道の途中にこの石碑は立っている。


井上世外詩碑

 井上世外詩碑と、この後紹介する伊藤博文詩碑は、二人が明治四十二年(1909)、木戸孝允の三十三回忌列席のために上京し、その際に作詩した七言絶句を石碑にしたものである。

天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外

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銀閣寺

2017年06月02日 | 京都府
(中沼了三先生講書之邸址)
 銀閣寺前の道の両側にはお土産を売る店がぎっしりと並ぶ。その喧噪を抜けて、銀閣寺の前を左に折れると突き当りが八神社である。神社境内に入らずにそこも右手に折れると、大文字山への登山道である。数分も歩くと左手に中沼了三が明治以降、住居を構え講義を行ったという跡地に至る。


贈正五位中沼先生講書之邸址

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花園 Ⅱ

2017年06月02日 | 京都府
(妙心寺大法院)


妙心寺

 臨済宗大本山妙心寺も、京都にいくつかある巨大寺院の一つである(右京区花園大藪町20)。境内は方500㍍に及び、塔頭は四十余。そのうちの一つ大法院には幕末の思想家、佐久間象山の墓がある。


妙心寺大法院


妙心寺大法院
路地庭園

 毎年、四月から五月の春季と、十一月の秋季に限って公開されている。ようやくゴールデンウィークに京都を訪ねることができた。真っ先に妙心寺大法院に直行する。インターネットで調べても大法院が春の特別公開を実施しているのか、さほど熱心に宣伝している様子はなかったので、ここを訪れるまで半信半疑であった。
 拝観料は七百円。庭の見える客殿の広間に案内されると、お茶とお菓子が提供され、ボランティアの方がこの寺の由来などを解説してくれる。
 この寺は、寛文二年(1662)真田信之の孫娘長姫が創建したもので、以来真田家の京都における菩提寺となった。墓地には真田信之やその子の信吉、長姫らの墓が残されている。
 客殿を囲む庭は、路地庭園と呼ばれ、茶室に付随したものである。新緑と紅葉の季節のみ公開される。新緑が目に鮮やかであった。
 住職は、昨年亡くなった九重親方(元横綱千代の富士)と親交が厚く、入り口には九重親方の写真や書が飾られている。近く横綱千代の富士の銅像を境内に建てる計画もあるそうである。
 客殿には象山の書「真賞」が掲げられている。ボランティアの方にその意味を聞いてみたが、残念ながらご存知なかった。
 この寺に象山の墓があるのは、象山が真田家の封じられた松代藩の出身だった縁である。元治元年(1864)京都で暗殺された象山は、この寺に葬られた。この墓を建立したのは、象山の子恪次郎である。


象山佐久間先生墓

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