goo blog サービス終了のお知らせ 

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

私は田舎者だから。

2021-12-27 | 先達たち
古本に「私の中の日本人・続」(新潮社・1977年)があった。
単行本200円なので買っておきました。

このなかに、河上徹太郎による「福原麟太郎」と題する
5頁ほどの文が入っています。うん。私はこの箇所だけを
30~40年ほど前に読んだことがありました。
「私の中の日本人 福原麟太郎」と題して、
何かのエッセイ集にはいっていたものでした。

(ちなみに、この特集は、『波』に各界の方々にこのテーマで、
  書いてもらったものを本にまとめられたものでした。)

この短文の中に今でも印象に残っている箇所がありました。
先生を語っているのですが、こんな箇所なのでした。

「芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、
先生を作るのはお弟子である。
今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。

さういへば吉田松陰が良師であったのは、
彼の資質もさることながら、久坂や高杉、
殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつた
からだともいへよう。」
 (「私の中の日本人・福原麟太郎」)

はい。この箇所は、分かったようで、分からない。
でも、印象にだけは残っていて、気になっておりました。
なぜ、こんなことを思い出したかというと、
うん。これが手掛かりになるかもしれない、
そう思える言葉と、最近であったのでした。

それは、モーリス・パンゲの本が
ちくま学芸文庫にはいった際に、
解説を書いた平川祐弘氏の文にありました。
ちょっと、その箇所を引用してみます。

「モーリス・パンゲさんは1929年フランスの中部モンリュソンで生れた。
エコール・ノルマン・シュペリュールの出身で1958年に来日した。

東京大学で教えたほか東京日仏学院長も勤めた。
その種のキャリヤーの人の中には早く本国の大学教授の
ポストに就きたい、という焦りにかられる人も見かけるが、
パンゲさんにはそうした人にありがちな日本蔑視や知的倨傲
がおよそ無かった。『私は田舎者だから』などと言った。

1968年に帰国し一旦パリ大学のフランス文学の専任講師となったが、
東大駒場の教養学科フランス分科の英才に教えた時の方が面白かった、
と感じた。それで1979年、人も羨むパリ大学の職を捨ててまた戻って来た。
 ・・・・・・・・

パンゲさんは日本文をほとんど読まない。ところがそのパンゲさんの
日本に関する英文や仏文の資料の取捨選択、そしてテクストの読みが
抜群に鮮やかなのである。歴史的事実のチェックも正確だが、
心理的特質の解釈はさらに秀逸なのである。

長年、日本の学生に接したことにより日本的オイディプスの
正体がはっきり浮かびあがって見えたのだろう。
本書を読んで、
日本文が読めずとも日本人の心理を正確に把握することは、
ラフカディオ・ハーンやパンゲさんのように
日本の学生と親しく接した人には可能なのだ、
ということを私は遅蒔きながら悟った。・・・・」

(p664 モーリス・パンゲ『自死の日本史』ちくま学芸文庫 )

うん。
「先生を作るのはお弟子である。
今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。」

という、河上徹太郎氏の言葉が、今頃になって、
その理解の糸口が掴めてきた気がするのでした。
そうか、これを『遅蒔きながら・』というのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『あなたもそう思いますか』

2021-12-16 | 先達たち
Hanada2022年1月号。平川祐弘氏の自伝連載のなかに、
粕谷一希座談「書物への愛」(藤原書店・2011年)について
触れられている。なんでも、小谷野敦が名誉毀損で
粕谷・平川の座談に関連して、告訴をしたというのでした。

「敗訴でも宣伝になると思っているのだろうか。
事実、彼(小谷野)の敗訴に終わったが、それでも
勝訴したとブログの上で一旦は言い張った。

浮き沈みの激しい男であった。
野球選手の生涯打率三割維持は難しい、著作家も
学者も第一線でいつまでも筆陣を張れる人は稀である。

だが世間には小谷野に味方する若者もいた。
ネット上で、・・・平川の本を出すのはけしからん、
『平川は神道だ』『天皇崇拝だ』などとレッテルを貼る。
・・・」(P349)


はい。このあと『書物への愛』を紹介しながら、
「今度読み直し実のある対談だったと思った。
公平を期したい方は、そちらもお読み願いたい。」

はい。さっそく古本で注文し、それが昨日届く。
8名との座談が掲載されており、平川氏との対談は
65ページもあり、よみ甲斐があり、楽しめました。

いろいろなことが語られており、
こんど受賞された正論賞での受賞挨拶の内容を
もっと具体的に話されているような重量感があります。
はい。読めてよかった。

ここでは、神道についてが、対談のところどころに
出てくるので、ひろってみます。
佐伯彰一氏のことを語る箇所にもありました。

平川】 ・・佐伯さんは独自の広い世界も持っています。
海軍に行き、日米戦争の体験もある。神道の家なので
神道のこともわかっている。それから物凄い博識。
文章は、ある意味、饒舌なところもあるけれど、
それもそれで非常な魅力を持っている。(P147)

平川】 ・・・・佐伯彰一先生も、東大定年直前に、
神道のことを言い出したのですが、それまでは、
神道などタブーで、口になどしてはいけな風潮でした。

このあとに竹山道雄氏への言及がつづきます。

平川】 ・・・昭和57(1982)年のことだったと思いますが、
一緒に京都へ旅をした。竹山道雄氏は、『京都の一級品 東山遍歴』
という本を出しているくらい、京都に詳しかったのですが、
最後に下鴨神社に行って、
『やはり神社に来るとほっとしますね』と言うと、
『あなたもそう思いますか、私もそうなんです』といわれた。
要する日本人の底辺の感性は、こういう神道的なもので
できているような気がします。・・・」(P154~155)


平川】それで僕がアメリカでハーンを取り上げようとした時、
ロナルド・モースという柳田国男の研究者から、
『マリウス・ジャンセンは、宣教師の家庭の出だから、
神道や民俗学などというと、必ず嫌われるぞ』と予言されました。
・・・ハーンを研究してから本当に仲が悪くなった。・・・・

ハーンは、『宣教師というのは、神道を一番理解できない人間だ』と
書いているが、ハーンは多くの宣教師の家では禁書扱いだったらしい。

・・・明治以来、来日した西洋人学者にも、宣教師系統と、
モース、フェノロサ、ハーンといった非宣教師系統がいる。
それで、やはりいい仕事をしてるのは、どう見ても非宣教師系統です。
キリスト教以外の文明の理解という点で違うわけですね。(P175)

うん。イタリアでの体験も語っておられました。

平川】 差別というより、日本人の遠慮が大きいと思う。・・・
 
・・・イタリアに講演をしに行ったら、キリスト教が
日本に広まったのは善だと決めてかかっているのが大勢いて、
とりわけイエズス会の連中はたちが悪く、儒教の天とキリスト教の天は
同じだと言って宣教した。中村正直も、それならいいと思って改宗した
わけですが、『だからこそ、本当のことがわかった時、中村正直は、
最後は神道で葬式をしたんだ』と私が講演の最後でイタリア語で言った
とたんにシーンとなってしまった。『冷い風が講堂を吹き抜けた』と
在イタリアの中山悦子さんがその時の感じを伝えてくれました。

ところが活字になると、その最後の『神道で葬式をした』という
箇所が消してあったので、校正の際、
『これは大事ですから、復活してくれ』と要求したんです。

すると、ある日本人の学者から『イタリアのイエズス会のところで、
そんなことまで言っていいんですか』と言われました。
そういう遠慮があるんですね。

しかし、学問というのは、そういうところを
はっきり言うことこそ大事でしょう。・・・」(P186~188)


はい。なんだか、外国でも日本人の遠慮の陰にかくれて
神道は、活字にもならないような状況でいたようです。
いまも、そうなのかなあ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外山滋比古『失敗談』

2021-11-25 | 先達たち
ネットの古本を注文するのですが、
この頃は、新刊同様の本を手にすることが多くなりました。

外山滋比古著「失敗談」(東京書籍・2013年)が、
きれいで帯付き200円。はい。外山氏の著作は好きなので、
手元になくって古本で安ければつい買います。

はい。私には好きな落語家の噺を聞いているような、
そんな気分を味わわせてくださる方なのでした。

ああ、これも以前聞いたことがあるなあ。
そんなことを思いながら、パラパラとめくる楽しみ。
同じ話を聞いているのに、またしても頷いてしまう。
はい。今回もありました。そんな箇所を引用します。

「つくづくよく忘れる。
書いたこともすぐ忘れる。
5分前に書いたことも忘れ、
思いつくと、新しい考えのように思ってまた書く。
くりかえすつもりはなくてくりかえしている。

そういう原稿を集めて、本にして出版したことがある。
それを意地の悪い匿名書評家がおもしろがってとり上げて、
ケチョンケチョンにやられた。

酔っ払いがクダをまいているみたい、
くだらぬことをくりかえして、読んでいると、
ハラが立つという痛快な書評である。・・・」

はい。それについて、すこし続けたあとに、
こうありました。

「記憶のいいひとは、年をとると、
頭がいっぱいになって、はたらかなくなる。
すくなくとも新しいことを考える力を失ってしまう。
頭のいい学者は40歳ぐらいで学者バカになることが多いのは、
忘却力が弱いからである。

あまり勉強しないで、しかも、どんどん忘れて頭の掃除をすれば、
40や50で半ボケになったりする心配はない。年をとるにつれて、
もの忘れが多くなるのは、自然が頭の老化を防いでくれている
ようなものだと考えると、人生はいつも新鮮である。」

はい。まったく勉強をしなかった私などは
『あまり勉強しないで』などと語られると、
これをきっかけにして、つい笑いだします。
まだ、つづきますので引用をつづけます。

「忘れっぽい人間は、若いときには、
まわりからバカにされるが、年をとると、
地力を発揮しはじめる。若いときには、
よけいな知識がじゃまして見えなかったことが、
見えてくる。新しい知識なんかいらない。

自分の頭で考えを生みだしたい。
ひとのこしらえたものを借りたり盗んで、
わがもの顔をするのは知的欺瞞ではないか、
とふそぶくことができる。」


はい。そうだそうだと『うそぶく』私がおります。
えい。最後まで引用しちゃいましょう。

「ひとのまねをするのは、記憶がよすぎるのである。
忘れっぽければ、まねるものがないから安心である。
労せずして、オリジナルになれる。

そう考えるのが忘却型人間である。
忘却型人間の強味は、年も忘れることである。

何歳になっても、青年のように溌剌としていることができる。
ひょっとすると、年も忘れ、死ぬことも忘れかねない。」
(p153~156)

うん。寄席など入ることはない私ですが。
ついつい笑って、この箇所を読んだことも忘れてしまう私がいて、
きっとまた、新鮮な気分で読み直すだろうなあと思う読後感あり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

力微なりといえども我々の学問は。

2021-11-21 | 先達たち
「臼井吉見を編集長とする思想文芸誌『展望』が筑摩書房から
創刊されたのは、終戦の年もおしつまった12月25日である。」
(p80・「編集者三十年」野原一夫著)

その創刊号には、三木清の絶筆に、永井荷風に、柳田国男が
目次にならんでおりました。
永井荷風の『踊子』については、こうありました。

「承諾を得たのは20年2月で、そのなかの一篇が『踊子』だった。
発表されるあてもない小説の執筆に、この老文豪はいのちを燃やし
ていたのである。しかし、戦時下の日本でこの・・原稿が日の目を
みるはずはなかった。・・・それがかえって『展望』のためには
さいわいした。・・・・

臼井が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは10月12日である。
・・尊敬の念を抱いていたこの民俗学の泰斗に、できれば原稿を書いて
もらいたいと臼井は考えていた。」(P85~86)

その『展望』という雑誌とは異なるのですが、
柳田国男著『先祖の話』という本があります。
ちなみに、柳田国男略年譜をみると

1945年(昭和20)70歳 戦死していった若人のために
『先祖の話』を執筆(翌年刊)

とあります。その『先祖の話』には自序があり、
自序の最後の日付はというと、昭和20年10月22日。

その自序のはじまりは、こうでした。

「ことし昭和20年の4月上旬に筆を起し、5月の終りまでに
これだけのものを書いてみたが、印刷の方にいろいろの支障があって、
今頃ようやく世の中へは出て行くことになった。

もちろん始めから戦後の読者を予期し、平和になってからの
利用を心掛けていたのではあるが、まさかこれほどまでに
社会の実情が、改まってしまおうとは思わなかった。

  ・・・・・・・・・・・・

強いて現実に眼をおおい、ないしは最初からこれを見くびってかかり、
ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今までひとつとして
成功していないことも、また我々は体験しているのである。
 ・・・・・
力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て
大いに働くべきで、空しき咏嘆をもってこの貴重なる過渡期を、
見送っていることはできないのである。

先祖の話というような平易な読み本が・・・・・
まず多数少壮の読書子の、今まで世の習いに引かれて
知識が一方に偏し、ついぞこういう題目に触れなかった人たちに、
新たなる興味が持たせたいのである。

・・・・事実の記述を目的としたこの一冊の書物が、
時々まわりくどくまたは理窟っぽくなっているのは、
必ずしも文章の拙なためばかりではない。
一つにはそれを平易に説き尽すことができるまでに、
安全な証拠がまだ出揃っておらぬ結果である。

このたびの超非常時局によって、国民の生活は
底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、
悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。
・・・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペロッとした一枚の紙切れ。

2021-11-21 | 先達たち
「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三)日経プレミアシリーズ。
はい。新書でした。そこで
小山さんが、アメリカやイギリスの図書館の様子を指摘しておりました。

小山】・・・アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
大事な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。

 少しカットして、その次に

梅棹】 ・・・ほんとにおどろくべき話やけれど、わたしが
始めるまで、自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。
発表したものが全部どこかへいってしまうんやな。

もう古い話やけど、わたしが還暦のときに自分の著作目録という
ものをこしらえて、それを桑原武夫先生のところへ持っていった。
そしたら桑原さんは、『こんなもんつくって、大迷惑だ』って
言いながら『場外大ホームランや』って。・・・・・・・・・

・・・桑原先生は
『みんな真似しよう思っても、もういまさらでけへんやろ』って。
ほんとに信じられない話だけど、みな自分が書いたものを残して
なかったわけです。

自分でやらなければ、だれも残してくれない。
わたしは中学校のときのものから残っている。
ガリ版やけど、中学校のときのもあります。・・・・(p80~82)


ここに『ガリ版』が登場しておりました。

川喜田二郎著作集別巻には
「ある小集団の発生――梅棹忠夫君との交友から」(p64~67)
がありました。この別巻にはまたこんな箇所があるのでした。

「1964年に愚著『パーティー学』で、
次いである仲間の集会で暫定的に『紙キレ法』と称して説明したら、
同席の友人梅棹忠夫さんが、私の用意したガリ版刷り資料の
一隅に自筆した『KJ法』という一語を指さし、『これにせよ』と
すすめてくれたのである。それに端を発し、
翌年1月にこの名を正式に定めた次第だった。・・・」(p252)

はい。ガリ版についてはこれまでにして、最後に、
川喜田二郎氏による梅棹忠夫について、引用しておくことに。

「梅棹君と私とは、お互いに対照的なほどちがっていた。
中学時代の登山では、彼はチームワークがうまく、私はへただった。
・・・梅棹君は文学青年で私は哲学青年だった。
彼は万事スッキリ好みなのに反し、私や後輩の川村俊蔵君などは
万事ゴツゴツと野暮ったかった。
彼は気分の高揚するときと落ちこむときとの波の上下が極端だった。
・・・・・・・・

しかしその彼が、国立民族学博物館の仕事にかかり出してからは、
高揚したレベルのまま安定しているようである。
それに、時おり話しあっていると、ずいぶん人間的成長が感じられる。

やはり人間は誰しも、自分が真剣に取り組んでいる仕事を通じて
成長するものだと思わずにはいられない。・・・」(別巻・p66)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦後、新聞やラジオで。

2021-11-16 | 先達たち
野原一夫著「編集者三十年」(サンケイ出版・昭和58年)が古本200円。
はい。買ってパラパラめくると柳田国男氏が登場する場面がありました。

場面は、終戦の年、雑誌『展望』を創刊するところでした。

「臼井(吉見)が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは
10月12日である。・・・・

柳田国男は、これからさき、自分が世の中の
お役に立ちそうな仕事は三つほどあると言った。

一つは国民固有の信仰。
これが、どんなふうに歪められているか、
それを証拠をあげて明らかにしたい。

もう一つは、人の心を和らげる文学。
それについても考えてみたい。

第三には、国語の普通教育。国語を、今後の
青少年にどう教えるのがいいかということだ。

よく口のきける少しの人と、
うまく物が言えない多くの人が、
いりまじるようなことになれば、どうなるか。

みんなが黙りこくっていた時代よりも、
不公平がひどくなるかもわからない。
自由には均等が伴わなくてはならない。

あの戦時下の挙国一致をもって、ことごとく
言論抑圧の結果と考えるのは事実に反している。

利害に動かされやすい社会人だけでなく、
純情で死をも辞さなかった若者たちまで、
口をそろえて一種の言葉だけをとなえつづけていたのは、

強いられたのでも、欺かれたのでもない。これ以外の
考え方、言い方を修練する機会を与えれなかったからだ。

こういう状態が、これからも続くならば、
どんな不幸な挙国一致が、
これからも現れてこないものでもない。

その柳田国男の言葉は臼井に深い感銘を与えた。
まさにこれは重大事で・・・・

現に新聞やラジオでとりかわされている言葉には、
『よく口のきける少しの人』の、ハンコで押したような
一種の、これまでのそれの裏返しみたいな、
どぎつくわかりいい考え方、言い方が出て来て、
あちこちで、その口真似がはじまっていた。

その国語教育の問題を、随想のかたちで我々の雑誌に
連載していただきたいと臼井はたのんだ。
柳田国男は快諾した。」(p86~87)


柳田国男をいつか読もうと思ったのは、あれは、
いつだったのか。それがいまだに読まないまま。
こうなりゃ、読まなくてもいいパラパラめくる。
題名だけでも、目次だけでも、めくりましょう。
はい。そうしましょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後藤新平を抜擢(ばってき)。

2020-04-11 | 先達たち
月刊雑誌Voice5月号の巻末コラム。
渡辺利夫氏の連載です。
日清戦争での後藤新平の業績をとりあげております。
途中から引用。

「日清戦争に勝利し凱旋する兵士の検疫事業は不可欠であった。
・・・罹患(りかん)した兵士を検疫なくして帰還させるわけにはいかない。

往時の陸軍次官の児玉源太郎は、そのために後藤を抜擢(ばってき)、
広島宇品(うじな)の似島(にのしま)、大阪の桜島、
下関の彦島(ひこしま)の三つの離島に検疫所を設置、

似島では3ヶ月間に441艘の船籍、13万7000人の検疫を展開した。

ドイツ留学時代に起居をともにした北里柴三郎の協力により
大型蒸気式消毒罐13基を導入してことにあたった。

後の記録によれば、3つの離島で罹患が証明された兵士の数は、
コレラ682人、腸チフス126人、赤痢179人であった。

この数の罹患者が検疫なくして国内の各地に帰還していった場合
の事態の深刻さはいかばかりのものであったか。

戦争に明け暮れていた欧米列強は、児玉・後藤の検疫事業に
大いに関心を寄せていたが、その迅速性と効率性に舌を巻いたらしい。
・・・ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世は・・
その大成功に賛辞を惜しまなかったと伝えられる。

相馬(そうま)事件という奇怪なお家騒動に巻き込まれて
内務省衛生局長を辞し、浪々(ろうろう)の身をかこっていた
後藤はかくして復活。新たに台湾総督として赴任する
児玉に同道、総督府民政長官として植民経営史に
その名を残す・・・・・・」


雑誌Voiceの巻末コラムといえば、
谷沢永一の『巻末御免』が思い浮かびます。
うん。そのバトンがこうして引き継がれてる。

ちなみに、先月号のVoice4月号の巻末コラムからも
この機会に引用しておくことに。
そこでは、後藤新平の思想ということで語られておりました。

「後藤新平という官僚政治家がいる。・・・・
政治家の思想であれば、それが現実にどういう関わりを
もっていたかという観点が重要になろう。この観点からして
後藤は高く評価されるべき存在だと私は考える・・・・

後藤の台湾統治とは、思想と現実の見事な一致であった。

後藤思想の出発点であり、到達点ともなったフレーズが、
『人類モ亦(また)生物ノ1(ひとつ)ナリ』である。
人間とは『生理的動機』に発し、『生理的円満』を求め、
生命体としての生をまっとうするために生きる、そういう存在だ。
ならば、台湾住民が生理的円満を得んとどのような環境の中で
生きているのか。このことを徹底的に調査・研究したうえでなければ、
台湾統治のための政策の立案や施行などできない。・・・・

総督府民政長官として台湾の民政を担わされた後藤は、
一代の軍政家・児玉源太郎を総督に仰ぎ、
その権威と権力のもとで存分に働いた。・・・・・」


うん。新聞の一面コラムばかりがコラムではありませんでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バイバイキン。

2020-03-28 | 先達たち
土曜日は、産経新聞3月28日の読書欄。
「花田凱紀(かずよし)の週刊誌ウォッチング」。

うん。最初を引用。

「・・『週刊ポスト』(4・3)、石戸諭さんによる
120分インタビューのタイトルが
『百田尚樹「安倍さんには失望したわ」』。
百田さん、ツイッターで・・見出しがひどいと怒っている。
たしかにインタビューの中で百田さんはこう語っている。

『安倍さんは今のところ、私が見る限りベストに近い総理です。
これ以上の政治家は今の日本では見あたらないでしょう』

そう前置きして、『その安倍総理でもこのくらいの対応しか
できないのか、という失望がありました』
が、まぁ、こういうタイトルをつけたくなる
編集長の気持ちもわかる。」


はい。具体的になればなるほど、専門家でも
『暗黙の前提』をもとに、語ることはよくあります。
前置きは、ちょくちょくはぶかれ、誤解を生みやすい。

まあ、わたしは本を読むのは、前書きと後書きだけ、
ちっとも内容に分け入って読むことはありません(笑)。

さてっと、新型コロナウイルスにも
『暗黙の前提』があるのじゃないか?
ひょっとすると、そんな視点があるのじゃないか?

そう思えてきたのは、年の功でお婆さん。
月刊誌WILL5月号の曽野綾子の文を
読んだからでした。

うん。意地悪ばあさん曽野さんは言います。

「つまり世の中が、論理ではなく、
予想しがたい現実によって或る決着を見ると、
私の本性の一部はいきいきと反応した。・・・・
こんな愚かしい逸話を思いだしたのは、
やはりコロナ騒ぎのおかげである。
文学とは荒々しい状況を好むものだ、
ということは、カミュの『ペスト』によっても
表わされている。穏やかな日常より、
如何ともしがたい運命の荒波の中に
置かれた人間の方が、より明晰な
人間らしさを見せるものだ。・・」

こうして曽野お婆さんは、文の最後のほうで
こう指摘するのでした。

「コロナは呆気なく終わるだろうが、
日本人は時々、日常性の範囲にない
暮らしをする方がいい。・・・・」(p32)


はい。アンパンマンでは、
その都度、バイキンマンが登場して、
アンパンマンをやっつける。やられても、
アンパンマンは立て直し、バイキンマンに
むかってゆく。やがてバイキンマンは
バイバイキンといって、遠くに飛ばされて、
その回は終ります。

うん。この非常事態にあって、
『コロナは呆気なく終るだろう』という
曽野お婆さんの言葉に希望を託して、
無事の解決を祈るばかりです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

職人かたぎ。

2020-02-12 | 先達たち
思い浮んで、長谷川如是閑の文をひらく(笑)。
本棚から出したのは、
井上靖・臼井吉見編「くらしの伝統」(主婦の友社)。
これ古本で300円。「非売品」とあります。
うん。古本で購入すると、非売品とか私家版とか
新刊書店でお目にかからない本を購入できるうれしさ。

目次は「手仕事」「衣・食・住」「四季おりおり」と
おおきく三章にわかれており。解説は樋口清之。

はじめの章「手仕事」の最後は、
 「職人衆昔ばなし  齋藤隆介」とあり、
その本からの引用になっておりました。
そのひとつ前に
 「職人かたぎ  長谷川如是閑」とあり、
25頁の文が引用掲載されておりました。
そこから、適宜引用してゆきます。
そのまえに

  幸田露伴 1867(慶応3)年7月生~1947(昭和22)年7月
  長谷川如是閑 1875(明治8)年11月~1969(昭和44)年11月
  落合太郎 1886年8月~1969年9月 東京生まれ。

という三人の年代を記してから、はじめます。
生島遼一著「春夏秋冬」(冬樹社)に

「私の旧師(落合太郎)は
『おれが一番なりたかったのは大工さんだ』
というのが口癖だった・・・」(p56)

とあり、気になりました。それでもって、
長谷川如是閑の文を読みたくなる(笑)。

「職人かたぎはその本場は江戸だったので、
職人の話というと、主人公はきまって江戸っ子だった。
職人かたぎの伝統は古いが、江戸時代になって、
その生粋(きっすい)の形が江戸ででき上ったのである。」
(p155)

さてっと、長谷川如是閑の『職人かたぎ』は
こうはじまります。

「私は職人でもなく、職人研究の専門家でもないが、
明治の初めに生まれて、日本の職人道が、その伝統の
姿をまだそのまま持ち続けていた明治時代に育ったので、

ことに自分の家が、先祖代々江戸の大工の棟梁だった
というようなことから、書物に出ている職人ではない
本物の職人の間に育った・・・・・

若いうちから、職人の話をするとじきに泣きだす、
といって笑われたものだが、これは職人社会の
実生活が、言葉や文章によってではなく、じかに
私の心にしみ込んでいるせいかもしれない。」
(p134)

これがはじまりです。
う~ん。外国との比較や、職人の貴重なエピソードが
ならぶのですが、残念。そこは省略して、
文の最後に、5頁ほどの「『職人かたぎ』補遺」
から引用します。そのはじまりは

「先月号に載った『職人かたぎ』に書き落とした話を
思い出しているところへ、谷中の五重塔焼失の報を聞いた。
浅草に住み朝夕親しんだ塔だけに、思い出は尽きぬものがある。」
(p153)

うん。江戸っ子と文学がこの補遺にありました。
長くなるけれど引用することに。

「明治文学の初期に職人の文学を書いたのは、
やはり江戸っ子の露伴だった。明治文学の始めは、
江戸時代の戯作本の流れをついだものだったが、
明治の十年代の半ばごろから、いわゆる明治文学が
起こった。その作者はみな江戸っ子だったが、
面白いことには、その明治文学開拓者の第一人者の
坪内逍遥は、江戸っ子ではなく名古屋人だった。
逍遥一人を除いて明治文学の開拓者の全部は江戸っ子だった。
逍遥も子供のころから戯作本に親しんで、18の歳に東京へ出て、
私がその塾に世話になった、30未満の年ごろの逍遥は、
りっぱな、東京言葉と言うよりはむしろ江戸っ子言葉を使っていた。
江戸っ子の私の父から子どものころ聞かされたようなその江戸っ子
言葉をなつかしがった。そのころ地方人には小説が書けなかったのは
人物の会話を東京言葉で書くことができなかったからだ。

その江戸っ子の小説家も、職人をテーマにしたのは露伴だけだった。」
(p156)

はい。補遺の最後の箇所を引用。

「職人とは縁の遠い環境に育った露伴だが、
それはおそらく下町育ちの獲物(賜物?)だったろう。
漱石は同年生まれの江戸っ子だが、山の手育ちなので、
職人の世界には全く無知だったが、しかし
漱石の仕事に打ち込んだ名人かたぎは、
やはり江戸っ子式のそれで、どこかに
職人かたぎに通じるものがあった。
博士号の辞退なぞも、生来の気むずかしや
ばかりのせいでもなかったらしい。
ことに私は朝日新聞の同僚だったので、
いろいろのことを頼んだが、
博士号辞退なぞという気むずかしさは全くなくて、
私はしばしばその社員としての忠実さに打たれたのだった。
そうしてそれが私の空想の職人かたぎに通じる
ものがあるように思われて、うれしかった。」
(p157)

はい。京都からはなれて、
「江戸っ子の職人かたぎ」
の話になりました。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正月対談(1971年)。

2020-01-02 | 先達たち
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社・昭和59年)。
ここに、司馬遼太郎と桑原武夫の対談が載ってる。

まずは、この本の紹介。
はじまりに山田稔氏の「楽しき逸脱」という8ページの
紹介文が載っており、各対談のはじまりには、
桑原武夫氏のコメントがついておりました。
司馬さんとの対談のコメントは、こうです。

「司馬さんとは何度も対談した・・・
いつもこれほど楽しい話相手はない。
しかし、それはこわい相手ということでもある。
今回は・・・・私が少し押され気味というところであろう。」

ちなみに、司馬さんとの対談の題名は
「『人工日本語』の功罪について」とあります。
コメントをつづけます。

「自然言語から文明言語に移るときに
失われてしまうもののあることは否定できないが、
この移行は歴史的に不可避なものである。

そのさい混乱を少なくし能率をあげるために、
人工的規制を加えることが多くの滑稽さを生む
ことは事実である。

文学者ないし文筆にたずさわる者の任務は、
機能化されたことばの組合せの中に、
人間の自然の美しさをどのようにして
生かすかを工夫するところにある。・・」
(p44)

はい。この対談の最後の箇所を
引用してみることにします。

司馬】 ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、
もうどうしようもないものがあるのかもしれない。

桑原】 いや、日本語はもうどうしようもないと、
あきらめに話をおとさずに・・・・、正月早々だから・・・(笑)。
まあ、日本語は、いままで議論したように、基礎はできた。
   ・・・・・・・・・・・・・
コンピューターを動かすには、少なくともそれなりの
論理性がなければならないんです。ですから、
コンピューターが普及する過程で、
ちょっと楽天主義のようですが、おのずとわれわれの
生活に論理性ができてくるのではないでしょうか。
もちろんコンピューターというのは一つのたとえですが、
日本人は論理性がないから駄目なんだ、
という決め込みはいけませんよ。ですから、
司馬さんが亡くなる時代には、日本語がもっと
よくなる可能性はあると思います。

司馬】 理屈も十分喋れて、しかも
感情表現の豊かな言語になる。

   ・・・・・・・・・・・

桑原】 さっき司馬さんがおっしゃった、
理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・
そこに持っていくのは、われわれ生きている者の
義務じゃないでしょうか。

司馬】 いい結論ですね。


対談の最後を引用しました(p66~68)
ちなみに、この対談が掲載されたのは
「文藝春秋」1971年1月号とあります。
司馬さんが亡くなったのは1996(平成8)年。
亡くなってから、四半世紀が過ぎるのでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志ん生・小さん・春団治。

2019-05-27 | 先達たち
小林秀雄と桑原武夫の、
お二人の話し方が気になる。

そういえば、以前に、小林秀雄の
講演カセットテープを聞いたことがあった。

さてっと、まずはじめは小林秀雄。

「小林秀雄百年のヒント」(新潮四月臨時増刊)。
脇には「誕生百年記念」(平成13年)とあります。


そこに安岡章太郎・粟津則雄の対話
「小林秀雄体験」というのがあります。
そこから引用。

安岡】・・・・小林さんは、
失敗というようなことは絶対に嫌いなんですね。
嫌いというか、二度、三度と同じ失敗はしない方です。
昔、講演旅行は、菊池寛が連れていってくれたんだそうですよ。
戦争中は、文士に金が入らない時代なんです。ある時、
高松の小学校で講演があった。体育館みたいなところに、
筵が敷いてあって、入っていったら、目の前に
爺さんが孫を連れて、真正面で座って見てるって言うんですよ。
その瞬間に、小林さんはほとんどなんにもしゃべれなくなっちゃった。
それで、栗林公園のなかを一晩じゅう、ぐるぐる、ぐるぐる
歩きまわったっておっしゃってました。・・・

粟津】 小林さんは、考えに考え抜いたことを、
軽快に話しますね。

安岡】 江戸っ子ですからね、江戸っ子のおしゃべいりは、
いわば、自転車に乗って駆け抜けるようなしゃべり方ですよ。
だから、さあーっと軽快にしゃべるということは、
大変、これはいいんですね。
僕は、中村光夫さんの雑文のなかで読んだんだけれども、
小林さんのお母さんは、世間話の名人というおふうに
書いてありましたね。

粟津】 そうですか。

安岡】世間話の名人というのは、
ビートたけしというのがいるだろう。
あれも江戸っ子みたいだね。江戸っ子というか、
田舎の下町だからね。そういうところはあるな。
ロジックがあるんですよね、三段論法みたいなのが。
ビートたけしのおっかさんにしても。

粟津】 小林さんのおしゃべりは演奏だからね。

安岡】うん。演奏なんです。まさに。

粟津】いつか、大岡昇平さんが賞を取られたときに、
会がありましてね。小林さんが最初に挨拶をされて。
「大岡君は・・・」ってちょっと志ん生みたいな声でね。
・・・・
(p176~177)

うん。どこで切ったらよいか。引用に迷います。
小林秀雄の声が『志ん生みたいな』というのを
引用したかっただけです(笑)。


さて次は、桑原武夫。
富士正晴著「桂春団治」(河出書房)の
「序にかえて」を桑原武夫が書いております。
そこから、引用。

「当時、落語の名人といえば、
小さんというのが定説であった。
私は現物を聞いたことは二度しかない。
もちろんうまいが、江戸ッ子という言語的制約の
しからしむるところか、さっぱりして枯淡ですらあったが、
私が一流の芸術には不可欠だと思う一要素、
むるっとした艶っぽさ・・・・
そうした感じのものに欠けていて、
これを至芸などといっている江戸っ子文化とは、
薄くはかないものだという気がした。
東京の寄席などに通じているある先生に
一度春団治をお聞かせしたが、
いっこうに感心されなかった。・・・
あの微妙で猥雑な上方弁がわからなくては、
春団治は味わえない。・・・・・

私は、芸術とは何かということを考えるとき、
具体的なものによってしか考えられない私は、
・・・・・
話芸における独創ということを考えるとき、
春団治がいつも支えとなっている。
芸術の大衆性という点についても同じである。
春団治を忘れてはならない。・・・」


え~。
江戸っ子と上方弁の、対決の一幕。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢は、雑誌をかけめぐる。

2018-12-21 | 先達たち
「編集者 齋藤十一」(冬花社)を、取り出してきてめくる。
追悼文が並ぶ本なので、ボケっとして見過ごしている箇所が
読み直すとでてくる(笑)。

今回は齋藤十一の晩年ということで気になった箇所、

石井昴氏の「タイトルがすべて」と題した文には

「齋藤さんの一言一言が編集者としての私には
血となり肉となった。我田引水になるが、
新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事
によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」

こう書いた人には、こんな箇所がありました。

「齋藤さんに最後にお目にかかったのは
お亡くなりになる半年前だった。
・・・鎌倉の行きつけの店まで食事に行った。
・・・・『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』」

早川清氏の「最後の企画」という文には

「亡くなる五ヵ月前に・・・ある企画のタイトルだった。
『どうだ、読みたくなるだろう』
齋藤さんが自信に満ちた口ぶりで語った『最後の企画』。
・・・」



坂本忠雄氏の「編集という天職」には

「葬儀の際の美和夫人の会葬者への謝辞によれば
『きのうの夢で新しい雑誌をつくった、
 題名も目次のタイトルも全部出来たが、
 もう実現することが出来ないから内容は言わない』と、
或る日齋藤さんは口にされたとのこと。
私はそれを聞きながら、齋藤さんにとって
編集という仕事は本当に天職だったんだな、
と身内に戦慄するような感動が走り抜けたのを
ありありと覚えている。」


うん。谷内六郎さんが最期の企画の表紙絵を描くなら、
雑誌の上を、かけめぐる小さな齋藤さんが十一人いて、
雑誌の目次の上でぐるぐると走っている絵を描く(?)。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅官房長官の一日。

2018-09-06 | 先達たち
北海道で今日の午前3時ごろに地震があり。
それを知らずに7時ごろ起き出してきてから、
テレビをつけていると、菅官房長官が出てくる。

そうだ。
谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)に、
菅官房長官に触れた箇所がありました。
長くなるのをいとわず、引用していきます。



「ところでその安倍総理に負けないくらい働いているのが、
菅官房長官です。菅氏にはどうも、
『総理以上に働かなければ』と思っているフシすらある。

菅官房長官は、毎日決まって朝4時半には起床。
6時にSPさんが来て、一緒に散歩し、7時からは
だいたいいつも総理官邸裏のホテルで朝食をとりながら、
誰かに会うというのが、菅官房長官の一日の始まり方です。
起床してから6時までの間は、すべての新聞と、週刊、月刊
の雑誌などくまなく点検します。

それをしなくてはならないのは、官房長官とは職制上、
すべての行政機構を束ねる人、会社でいえばトップを支える
最高執行責任者(COO)だというだけでなく、
毎日二度、午前と午後に記者会見をし、
質問に答えなくてはならないからです。

記者会見の頻度、実施する人の位の高さ、
和英双方同時通訳と手話通訳の提供、
それに会見場の収容人員の規模のどれをとっても、
英国ダウニング街10番地の首相府、
米国ホワイトハウスをはるかに凌駕します。
世界標準からいえば、過剰サービスだといっても
おかしくないほどです。

ともあれ菅長官は、この仕事を連日続け、失言したり、
ましてや舌禍事件を起こしていません。
東京新聞の有名記者のように、長官を不機嫌にさせ、
不用意な発言をするよう仕向けているとしか思えない
質問を繰り出す人がしくこく食い下がろうとも、
菅長官はあまり顔色を変えず、特別に不機嫌にもならずに、
ごく淡々とやり過ごしている。
真似のできることではありません。

一日が終わると、長官には夜の会合が二階建て、三階建てで
入っていることが珍しくなく、朝4時台に起きるからといって、
そう早く帰宅できるわけでもないようです。

この日課を毎日続けるとは強靭な体力、気力を必要とするでしょうが、
土日ともなると、菅長官もほとんどすべての週末を当てて、
平日には聞けない突っ込んだ話を官僚たちにさせてみたり、
利害が折り合わない役人を両方連れてきて、
目の前で議論させ落としどころを探らせたり
といったことで潰している、つまり休んでいないというのです。

朝から晩までの、この日程を、毎日変わらず続ける菅長官は、
風邪をひいたり熱を出したりしないのかと事情を知る人に
聞いたことがあります。『風邪もひくし、熱も出しているんです。
でも、我慢して続けるんですね』とのこと。

5年以上続くと別段不思議とも思われないかもしれませんが、
民主党(当時)政権から代わったばかりのころ、これは衝撃でした。
なぜと言うに、それ以前の官邸の住人に、ここまで自分に厳しく、
働き詰めに働く人などいなかったからです。
・・・総理も官房長官も、ほとんど滅私奉公の働きぶりなのです。

それは霞が関に文字通り衝撃を与え、それ以前の
『官僚にバカにされる政治』は一新、
『官僚が畏怖する政治』に変わりました。・・・
のんびりなど構えてはいられないと思う人の働きぶりでしょう。
自民党総裁の座を狙い、ゆくゆくは総理になりたいと思う人は、
これくらいの働き方を5年も6年も続けられるか、
まずは自分の胸に手を当てて問うてみるべきです。」
(p157~p159)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北大路欣也・原節子・橋本忍。

2018-08-21 | 先達たち
「新潮45」9月号には、
どういうわけか、北大路欣也・原節子・橋本忍と
三人が揃っているのでした。

まずは、俳優の北大路欣也さん
「わが役者人生の『支柱』」と題しております。
とびとびに引用。

「『八甲田山』では、雪中行軍演習で青森歩兵第五連隊
を率いる神田大尉を演じたのですが、雪山ロケの終盤、
まるで最後の晩餐だとでもいうように、囲炉裏端で
お世話になった土地の方々と夕餉を囲んだんです。
横には高倉健さんもいらっしゃいました。
十和田の旅館でのことでした。
暖かな火を見つめていると、ふと家庭を持ちたくなりましてね、
彼女との結婚を決心しました。知り合ってから十年以上経った
34歳の時です。仲人は『八甲田山』の総指揮者、橋本忍さんでした。」
(p128~)
そして、新婚旅行に行くためだった期間が
小林正樹監督の映画『燃える秋』に化けることとなります。

「ロケはイランで行われ、テヘラン、イスファハン、シラーズと
都市を北から南へ移動していきます。・・・
僕たちがロケから戻って三カ月後、世界三大ホテルと言われる、
イスファハンのシャー・アッパースホテルが爆破され、
パーレビ国王が国外脱出をしてイラン革命が起きました。・・
妻は初めて、俳優だけではなく、スタッフの皆さんがいかに
過酷な現場で働いているかをつぶさに見ることになりました。
・・実感したのでしょう。彼女はそこで僕を支える覚悟をし、
以来ずっと応援してくれています。
あのタイミングで、彼女がロケ現場に同行を許されたのは、
僕たち夫婦のその後を運命づけるものだったのです。」


「初めて体感したのは、僕が十三歳の時でした。・・
父は『うちの子を俳優にするつもりはないから』と
断ったそうです。・・ところが、ある日突然プロデューサーと
監督さんがうちに訪ねて来られて、僕の目の前に脚本を置くと
こう言われました。『君、勝麟太郎役をやりなさい』。
それが父主演の映画『父子鷹』(1956年)です。
劇中でも父と親子の役でした。」

「僕は若いころ、酒ばかり飲んでいた。
特に25歳から30歳の頃はむちゃ飲みばかりしてました。
・・29歳の頃、僕は(高倉)健さんに東京の第一号に
出来たアスレチックジムに連れていかれて、
『脱げ、やってみろ』と、健さんと同じメニューを
やらされたんです。もちろん、すぐにダウンですよ。
できるわけがない。僕はみんなの前で
『お前の職業は何だ』と健さんに聞かれました。
『俳優です!』と答えると、『俳優がこんな体力でできるか!』
と、叱られました。・・」

まあ、こんな調子で語られる8ページ。
飽きたら、雑誌の前の写真帖をご覧ください。
そこには、ドイツにいった16歳の原節子が、
着物を着てニッコリしています。4ページ。

つぎに、
西村雄一郎氏による
「追悼・橋本忍」。

「・・その橋本忍が、7月19日、ついに亡くなった。享年100。
『羅生門』でデビューし、『生きる』『七人の侍』
という超弩級のシナリオで、黒澤明にライターとして
鍛えられた。・・」

とはじまる6頁。

これじゃあ、映画の雑誌かなあ?
はい。2018年「新潮45」9月号は、
そうも、読めちゃうのでした(笑)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理系出身者の残念な失敗例。

2018-06-03 | 先達たち
高橋洋一著「『文系バカ』が、日本をダメにする」(WAC)を
パラリと読む。

ここが引用したくなる。


「私は、マスコミや官僚の世界だけでなく、
政治家にも理系的な教養や考え方が必要だと思っている。
イギリスのサッチャー元首相は化学者だったし、
ドイツのメルケル首相はもともと物理学者である。

残念なことだが、日本の政治家に
『政治家にも理系の発想を』と言っても、
あまり説得力がない。
何しろ、理系の首相としては、
鳩山由紀夫さん、菅直人さんの名前が挙げられるからだ。
鳩山さんは東大工学部出身で、菅さんは東工大出身だ。
この二人が代表例となってしまうので、
私の論にまったく説得力がなくなってしまう(笑)。

菅さんは東日本大震災で原発事故が発生したときの首相だったが、
なまじ物理のことがわかっているものだから
『俺は、原子力のことはわかっている』と思ってしまった。
そこが大きな問題だった。科学の分野は非常に奥が深く、
一人ですべての分野がわかるわけではない。
科学的な考え方をする人は、科学に対して謙虚でないといけない。
原発事故時の菅さんの例は、理系出身者の残念な失敗例である。


・・・鳩山さんは、東大工学部(計数工学科)を出た後、
スタンフォード大学院に留学している。
政治家になるつもりはなかったらしく、
学者の道を歩んでいた。・・・
それでも、あとを継がなければならなかったのか、
政治家になった。最初の選挙に出たときには、
『政治を科学する』と言っていた。これは、
けっこうカッコいい言葉だった。しかし、
政治家になってからは、その言葉を忘れてしまったのだろうか。
政治家になってからの鳩山さんには、科学的な発想は見受けられず、
『宇宙人』と揶揄されるようになってしまった。

たとえば、鳩山さんは、首相在任中に
沖縄の基地問題に関して、『最低でも県外』と言って、
状況を混乱させた。その後、『当時は、海兵隊が必ずしも
抑止力として沖縄に存在しなければならないとは思っていなかった』
と発言を変えた。しかし、学べば学ぶほど、
沖縄の海兵隊の重要性がわかったとして、
結局、県外移設は断念した。・・・」(p182~189)


菅直人と鳩山由紀夫の二人の首相時代のことを、
わたしは、すっかり忘れてしまっておりました。
さすがに、理系は「残念な失敗例」を忘れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする