和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

終戦後、新聞やラジオで。

2021-11-16 | 先達たち
野原一夫著「編集者三十年」(サンケイ出版・昭和58年)が古本200円。
はい。買ってパラパラめくると柳田国男氏が登場する場面がありました。

場面は、終戦の年、雑誌『展望』を創刊するところでした。

「臼井(吉見)が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは
10月12日である。・・・・

柳田国男は、これからさき、自分が世の中の
お役に立ちそうな仕事は三つほどあると言った。

一つは国民固有の信仰。
これが、どんなふうに歪められているか、
それを証拠をあげて明らかにしたい。

もう一つは、人の心を和らげる文学。
それについても考えてみたい。

第三には、国語の普通教育。国語を、今後の
青少年にどう教えるのがいいかということだ。

よく口のきける少しの人と、
うまく物が言えない多くの人が、
いりまじるようなことになれば、どうなるか。

みんなが黙りこくっていた時代よりも、
不公平がひどくなるかもわからない。
自由には均等が伴わなくてはならない。

あの戦時下の挙国一致をもって、ことごとく
言論抑圧の結果と考えるのは事実に反している。

利害に動かされやすい社会人だけでなく、
純情で死をも辞さなかった若者たちまで、
口をそろえて一種の言葉だけをとなえつづけていたのは、

強いられたのでも、欺かれたのでもない。これ以外の
考え方、言い方を修練する機会を与えれなかったからだ。

こういう状態が、これからも続くならば、
どんな不幸な挙国一致が、
これからも現れてこないものでもない。

その柳田国男の言葉は臼井に深い感銘を与えた。
まさにこれは重大事で・・・・

現に新聞やラジオでとりかわされている言葉には、
『よく口のきける少しの人』の、ハンコで押したような
一種の、これまでのそれの裏返しみたいな、
どぎつくわかりいい考え方、言い方が出て来て、
あちこちで、その口真似がはじまっていた。

その国語教育の問題を、随想のかたちで我々の雑誌に
連載していただきたいと臼井はたのんだ。
柳田国男は快諾した。」(p86~87)


柳田国男をいつか読もうと思ったのは、あれは、
いつだったのか。それがいまだに読まないまま。
こうなりゃ、読まなくてもいいパラパラめくる。
題名だけでも、目次だけでも、めくりましょう。
はい。そうしましょう。
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後藤新平を抜擢(ばってき)。

2020-04-11 | 先達たち
月刊雑誌Voice5月号の巻末コラム。
渡辺利夫氏の連載です。
日清戦争での後藤新平の業績をとりあげております。
途中から引用。

「日清戦争に勝利し凱旋する兵士の検疫事業は不可欠であった。
・・・罹患(りかん)した兵士を検疫なくして帰還させるわけにはいかない。

往時の陸軍次官の児玉源太郎は、そのために後藤を抜擢(ばってき)、
広島宇品(うじな)の似島(にのしま)、大阪の桜島、
下関の彦島(ひこしま)の三つの離島に検疫所を設置、

似島では3ヶ月間に441艘の船籍、13万7000人の検疫を展開した。

ドイツ留学時代に起居をともにした北里柴三郎の協力により
大型蒸気式消毒罐13基を導入してことにあたった。

後の記録によれば、3つの離島で罹患が証明された兵士の数は、
コレラ682人、腸チフス126人、赤痢179人であった。

この数の罹患者が検疫なくして国内の各地に帰還していった場合
の事態の深刻さはいかばかりのものであったか。

戦争に明け暮れていた欧米列強は、児玉・後藤の検疫事業に
大いに関心を寄せていたが、その迅速性と効率性に舌を巻いたらしい。
・・・ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世は・・
その大成功に賛辞を惜しまなかったと伝えられる。

相馬(そうま)事件という奇怪なお家騒動に巻き込まれて
内務省衛生局長を辞し、浪々(ろうろう)の身をかこっていた
後藤はかくして復活。新たに台湾総督として赴任する
児玉に同道、総督府民政長官として植民経営史に
その名を残す・・・・・・」


雑誌Voiceの巻末コラムといえば、
谷沢永一の『巻末御免』が思い浮かびます。
うん。そのバトンがこうして引き継がれてる。

ちなみに、先月号のVoice4月号の巻末コラムからも
この機会に引用しておくことに。
そこでは、後藤新平の思想ということで語られておりました。

「後藤新平という官僚政治家がいる。・・・・
政治家の思想であれば、それが現実にどういう関わりを
もっていたかという観点が重要になろう。この観点からして
後藤は高く評価されるべき存在だと私は考える・・・・

後藤の台湾統治とは、思想と現実の見事な一致であった。

後藤思想の出発点であり、到達点ともなったフレーズが、
『人類モ亦(また)生物ノ1(ひとつ)ナリ』である。
人間とは『生理的動機』に発し、『生理的円満』を求め、
生命体としての生をまっとうするために生きる、そういう存在だ。
ならば、台湾住民が生理的円満を得んとどのような環境の中で
生きているのか。このことを徹底的に調査・研究したうえでなければ、
台湾統治のための政策の立案や施行などできない。・・・・

総督府民政長官として台湾の民政を担わされた後藤は、
一代の軍政家・児玉源太郎を総督に仰ぎ、
その権威と権力のもとで存分に働いた。・・・・・」


うん。新聞の一面コラムばかりがコラムではありませんでした。



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バイバイキン。

2020-03-28 | 先達たち
土曜日は、産経新聞3月28日の読書欄。
「花田凱紀(かずよし)の週刊誌ウォッチング」。

うん。最初を引用。

「・・『週刊ポスト』(4・3)、石戸諭さんによる
120分インタビューのタイトルが
『百田尚樹「安倍さんには失望したわ」』。
百田さん、ツイッターで・・見出しがひどいと怒っている。
たしかにインタビューの中で百田さんはこう語っている。

『安倍さんは今のところ、私が見る限りベストに近い総理です。
これ以上の政治家は今の日本では見あたらないでしょう』

そう前置きして、『その安倍総理でもこのくらいの対応しか
できないのか、という失望がありました』
が、まぁ、こういうタイトルをつけたくなる
編集長の気持ちもわかる。」


はい。具体的になればなるほど、専門家でも
『暗黙の前提』をもとに、語ることはよくあります。
前置きは、ちょくちょくはぶかれ、誤解を生みやすい。

まあ、わたしは本を読むのは、前書きと後書きだけ、
ちっとも内容に分け入って読むことはありません(笑)。

さてっと、新型コロナウイルスにも
『暗黙の前提』があるのじゃないか?
ひょっとすると、そんな視点があるのじゃないか?

そう思えてきたのは、年の功でお婆さん。
月刊誌WILL5月号の曽野綾子の文を
読んだからでした。

うん。意地悪ばあさん曽野さんは言います。

「つまり世の中が、論理ではなく、
予想しがたい現実によって或る決着を見ると、
私の本性の一部はいきいきと反応した。・・・・
こんな愚かしい逸話を思いだしたのは、
やはりコロナ騒ぎのおかげである。
文学とは荒々しい状況を好むものだ、
ということは、カミュの『ペスト』によっても
表わされている。穏やかな日常より、
如何ともしがたい運命の荒波の中に
置かれた人間の方が、より明晰な
人間らしさを見せるものだ。・・」

こうして曽野お婆さんは、文の最後のほうで
こう指摘するのでした。

「コロナは呆気なく終わるだろうが、
日本人は時々、日常性の範囲にない
暮らしをする方がいい。・・・・」(p32)


はい。アンパンマンでは、
その都度、バイキンマンが登場して、
アンパンマンをやっつける。やられても、
アンパンマンは立て直し、バイキンマンに
むかってゆく。やがてバイキンマンは
バイバイキンといって、遠くに飛ばされて、
その回は終ります。

うん。この非常事態にあって、
『コロナは呆気なく終るだろう』という
曽野お婆さんの言葉に希望を託して、
無事の解決を祈るばかりです。

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職人かたぎ。

2020-02-12 | 先達たち
思い浮んで、長谷川如是閑の文をひらく(笑)。
本棚から出したのは、
井上靖・臼井吉見編「くらしの伝統」(主婦の友社)。
これ古本で300円。「非売品」とあります。
うん。古本で購入すると、非売品とか私家版とか
新刊書店でお目にかからない本を購入できるうれしさ。

目次は「手仕事」「衣・食・住」「四季おりおり」と
おおきく三章にわかれており。解説は樋口清之。

はじめの章「手仕事」の最後は、
 「職人衆昔ばなし  齋藤隆介」とあり、
その本からの引用になっておりました。
そのひとつ前に
 「職人かたぎ  長谷川如是閑」とあり、
25頁の文が引用掲載されておりました。
そこから、適宜引用してゆきます。
そのまえに

  幸田露伴 1867(慶応3)年7月生~1947(昭和22)年7月
  長谷川如是閑 1875(明治8)年11月~1969(昭和44)年11月
  落合太郎 1886年8月~1969年9月 東京生まれ。

という三人の年代を記してから、はじめます。
生島遼一著「春夏秋冬」(冬樹社)に

「私の旧師(落合太郎)は
『おれが一番なりたかったのは大工さんだ』
というのが口癖だった・・・」(p56)

とあり、気になりました。それでもって、
長谷川如是閑の文を読みたくなる(笑)。

「職人かたぎはその本場は江戸だったので、
職人の話というと、主人公はきまって江戸っ子だった。
職人かたぎの伝統は古いが、江戸時代になって、
その生粋(きっすい)の形が江戸ででき上ったのである。」
(p155)

さてっと、長谷川如是閑の『職人かたぎ』は
こうはじまります。

「私は職人でもなく、職人研究の専門家でもないが、
明治の初めに生まれて、日本の職人道が、その伝統の
姿をまだそのまま持ち続けていた明治時代に育ったので、

ことに自分の家が、先祖代々江戸の大工の棟梁だった
というようなことから、書物に出ている職人ではない
本物の職人の間に育った・・・・・

若いうちから、職人の話をするとじきに泣きだす、
といって笑われたものだが、これは職人社会の
実生活が、言葉や文章によってではなく、じかに
私の心にしみ込んでいるせいかもしれない。」
(p134)

これがはじまりです。
う~ん。外国との比較や、職人の貴重なエピソードが
ならぶのですが、残念。そこは省略して、
文の最後に、5頁ほどの「『職人かたぎ』補遺」
から引用します。そのはじまりは

「先月号に載った『職人かたぎ』に書き落とした話を
思い出しているところへ、谷中の五重塔焼失の報を聞いた。
浅草に住み朝夕親しんだ塔だけに、思い出は尽きぬものがある。」
(p153)

うん。江戸っ子と文学がこの補遺にありました。
長くなるけれど引用することに。

「明治文学の初期に職人の文学を書いたのは、
やはり江戸っ子の露伴だった。明治文学の始めは、
江戸時代の戯作本の流れをついだものだったが、
明治の十年代の半ばごろから、いわゆる明治文学が
起こった。その作者はみな江戸っ子だったが、
面白いことには、その明治文学開拓者の第一人者の
坪内逍遥は、江戸っ子ではなく名古屋人だった。
逍遥一人を除いて明治文学の開拓者の全部は江戸っ子だった。
逍遥も子供のころから戯作本に親しんで、18の歳に東京へ出て、
私がその塾に世話になった、30未満の年ごろの逍遥は、
りっぱな、東京言葉と言うよりはむしろ江戸っ子言葉を使っていた。
江戸っ子の私の父から子どものころ聞かされたようなその江戸っ子
言葉をなつかしがった。そのころ地方人には小説が書けなかったのは
人物の会話を東京言葉で書くことができなかったからだ。

その江戸っ子の小説家も、職人をテーマにしたのは露伴だけだった。」
(p156)

はい。補遺の最後の箇所を引用。

「職人とは縁の遠い環境に育った露伴だが、
それはおそらく下町育ちの獲物(賜物?)だったろう。
漱石は同年生まれの江戸っ子だが、山の手育ちなので、
職人の世界には全く無知だったが、しかし
漱石の仕事に打ち込んだ名人かたぎは、
やはり江戸っ子式のそれで、どこかに
職人かたぎに通じるものがあった。
博士号の辞退なぞも、生来の気むずかしや
ばかりのせいでもなかったらしい。
ことに私は朝日新聞の同僚だったので、
いろいろのことを頼んだが、
博士号辞退なぞという気むずかしさは全くなくて、
私はしばしばその社員としての忠実さに打たれたのだった。
そうしてそれが私の空想の職人かたぎに通じる
ものがあるように思われて、うれしかった。」
(p157)

はい。京都からはなれて、
「江戸っ子の職人かたぎ」
の話になりました。





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正月対談(1971年)。

2020-01-02 | 先達たち
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社・昭和59年)。
ここに、司馬遼太郎と桑原武夫の対談が載ってる。

まずは、この本の紹介。
はじまりに山田稔氏の「楽しき逸脱」という8ページの
紹介文が載っており、各対談のはじまりには、
桑原武夫氏のコメントがついておりました。
司馬さんとの対談のコメントは、こうです。

「司馬さんとは何度も対談した・・・
いつもこれほど楽しい話相手はない。
しかし、それはこわい相手ということでもある。
今回は・・・・私が少し押され気味というところであろう。」

ちなみに、司馬さんとの対談の題名は
「『人工日本語』の功罪について」とあります。
コメントをつづけます。

「自然言語から文明言語に移るときに
失われてしまうもののあることは否定できないが、
この移行は歴史的に不可避なものである。

そのさい混乱を少なくし能率をあげるために、
人工的規制を加えることが多くの滑稽さを生む
ことは事実である。

文学者ないし文筆にたずさわる者の任務は、
機能化されたことばの組合せの中に、
人間の自然の美しさをどのようにして
生かすかを工夫するところにある。・・」
(p44)

はい。この対談の最後の箇所を
引用してみることにします。

司馬】 ですから、日本語というか、日本語表現の場所は、
もうどうしようもないものがあるのかもしれない。

桑原】 いや、日本語はもうどうしようもないと、
あきらめに話をおとさずに・・・・、正月早々だから・・・(笑)。
まあ、日本語は、いままで議論したように、基礎はできた。
   ・・・・・・・・・・・・・
コンピューターを動かすには、少なくともそれなりの
論理性がなければならないんです。ですから、
コンピューターが普及する過程で、
ちょっと楽天主義のようですが、おのずとわれわれの
生活に論理性ができてくるのではないでしょうか。
もちろんコンピューターというのは一つのたとえですが、
日本人は論理性がないから駄目なんだ、
という決め込みはいけませんよ。ですから、
司馬さんが亡くなる時代には、日本語がもっと
よくなる可能性はあると思います。

司馬】 理屈も十分喋れて、しかも
感情表現の豊かな言語になる。

   ・・・・・・・・・・・

桑原】 さっき司馬さんがおっしゃった、
理屈が十分喋れて、しかも感情表現が豊かな日本語・・
そこに持っていくのは、われわれ生きている者の
義務じゃないでしょうか。

司馬】 いい結論ですね。


対談の最後を引用しました(p66~68)
ちなみに、この対談が掲載されたのは
「文藝春秋」1971年1月号とあります。
司馬さんが亡くなったのは1996(平成8)年。
亡くなってから、四半世紀が過ぎるのでした。



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志ん生・小さん・春団治。

2019-05-27 | 先達たち
小林秀雄と桑原武夫の、
お二人の話し方が気になる。

そういえば、以前に、小林秀雄の
講演カセットテープを聞いたことがあった。

さてっと、まずはじめは小林秀雄。

「小林秀雄百年のヒント」(新潮四月臨時増刊)。
脇には「誕生百年記念」(平成13年)とあります。


そこに安岡章太郎・粟津則雄の対話
「小林秀雄体験」というのがあります。
そこから引用。

安岡】・・・・小林さんは、
失敗というようなことは絶対に嫌いなんですね。
嫌いというか、二度、三度と同じ失敗はしない方です。
昔、講演旅行は、菊池寛が連れていってくれたんだそうですよ。
戦争中は、文士に金が入らない時代なんです。ある時、
高松の小学校で講演があった。体育館みたいなところに、
筵が敷いてあって、入っていったら、目の前に
爺さんが孫を連れて、真正面で座って見てるって言うんですよ。
その瞬間に、小林さんはほとんどなんにもしゃべれなくなっちゃった。
それで、栗林公園のなかを一晩じゅう、ぐるぐる、ぐるぐる
歩きまわったっておっしゃってました。・・・

粟津】 小林さんは、考えに考え抜いたことを、
軽快に話しますね。

安岡】 江戸っ子ですからね、江戸っ子のおしゃべいりは、
いわば、自転車に乗って駆け抜けるようなしゃべり方ですよ。
だから、さあーっと軽快にしゃべるということは、
大変、これはいいんですね。
僕は、中村光夫さんの雑文のなかで読んだんだけれども、
小林さんのお母さんは、世間話の名人というおふうに
書いてありましたね。

粟津】 そうですか。

安岡】世間話の名人というのは、
ビートたけしというのがいるだろう。
あれも江戸っ子みたいだね。江戸っ子というか、
田舎の下町だからね。そういうところはあるな。
ロジックがあるんですよね、三段論法みたいなのが。
ビートたけしのおっかさんにしても。

粟津】 小林さんのおしゃべりは演奏だからね。

安岡】うん。演奏なんです。まさに。

粟津】いつか、大岡昇平さんが賞を取られたときに、
会がありましてね。小林さんが最初に挨拶をされて。
「大岡君は・・・」ってちょっと志ん生みたいな声でね。
・・・・
(p176~177)

うん。どこで切ったらよいか。引用に迷います。
小林秀雄の声が『志ん生みたいな』というのを
引用したかっただけです(笑)。


さて次は、桑原武夫。
富士正晴著「桂春団治」(河出書房)の
「序にかえて」を桑原武夫が書いております。
そこから、引用。

「当時、落語の名人といえば、
小さんというのが定説であった。
私は現物を聞いたことは二度しかない。
もちろんうまいが、江戸ッ子という言語的制約の
しからしむるところか、さっぱりして枯淡ですらあったが、
私が一流の芸術には不可欠だと思う一要素、
むるっとした艶っぽさ・・・・
そうした感じのものに欠けていて、
これを至芸などといっている江戸っ子文化とは、
薄くはかないものだという気がした。
東京の寄席などに通じているある先生に
一度春団治をお聞かせしたが、
いっこうに感心されなかった。・・・
あの微妙で猥雑な上方弁がわからなくては、
春団治は味わえない。・・・・・

私は、芸術とは何かということを考えるとき、
具体的なものによってしか考えられない私は、
・・・・・
話芸における独創ということを考えるとき、
春団治がいつも支えとなっている。
芸術の大衆性という点についても同じである。
春団治を忘れてはならない。・・・」


え~。
江戸っ子と上方弁の、対決の一幕。
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夢は、雑誌をかけめぐる。

2018-12-21 | 先達たち
「編集者 齋藤十一」(冬花社)を、取り出してきてめくる。
追悼文が並ぶ本なので、ボケっとして見過ごしている箇所が
読み直すとでてくる(笑)。

今回は齋藤十一の晩年ということで気になった箇所、

石井昴氏の「タイトルがすべて」と題した文には

「齋藤さんの一言一言が編集者としての私には
血となり肉となった。我田引水になるが、
新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事
によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」

こう書いた人には、こんな箇所がありました。

「齋藤さんに最後にお目にかかったのは
お亡くなりになる半年前だった。
・・・鎌倉の行きつけの店まで食事に行った。
・・・・『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』」

早川清氏の「最後の企画」という文には

「亡くなる五ヵ月前に・・・ある企画のタイトルだった。
『どうだ、読みたくなるだろう』
齋藤さんが自信に満ちた口ぶりで語った『最後の企画』。
・・・」



坂本忠雄氏の「編集という天職」には

「葬儀の際の美和夫人の会葬者への謝辞によれば
『きのうの夢で新しい雑誌をつくった、
 題名も目次のタイトルも全部出来たが、
 もう実現することが出来ないから内容は言わない』と、
或る日齋藤さんは口にされたとのこと。
私はそれを聞きながら、齋藤さんにとって
編集という仕事は本当に天職だったんだな、
と身内に戦慄するような感動が走り抜けたのを
ありありと覚えている。」


うん。谷内六郎さんが最期の企画の表紙絵を描くなら、
雑誌の上を、かけめぐる小さな齋藤さんが十一人いて、
雑誌の目次の上でぐるぐると走っている絵を描く(?)。



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菅官房長官の一日。

2018-09-06 | 先達たち
北海道で今日の午前3時ごろに地震があり。
それを知らずに7時ごろ起き出してきてから、
テレビをつけていると、菅官房長官が出てくる。

そうだ。
谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)に、
菅官房長官に触れた箇所がありました。
長くなるのをいとわず、引用していきます。



「ところでその安倍総理に負けないくらい働いているのが、
菅官房長官です。菅氏にはどうも、
『総理以上に働かなければ』と思っているフシすらある。

菅官房長官は、毎日決まって朝4時半には起床。
6時にSPさんが来て、一緒に散歩し、7時からは
だいたいいつも総理官邸裏のホテルで朝食をとりながら、
誰かに会うというのが、菅官房長官の一日の始まり方です。
起床してから6時までの間は、すべての新聞と、週刊、月刊
の雑誌などくまなく点検します。

それをしなくてはならないのは、官房長官とは職制上、
すべての行政機構を束ねる人、会社でいえばトップを支える
最高執行責任者(COO)だというだけでなく、
毎日二度、午前と午後に記者会見をし、
質問に答えなくてはならないからです。

記者会見の頻度、実施する人の位の高さ、
和英双方同時通訳と手話通訳の提供、
それに会見場の収容人員の規模のどれをとっても、
英国ダウニング街10番地の首相府、
米国ホワイトハウスをはるかに凌駕します。
世界標準からいえば、過剰サービスだといっても
おかしくないほどです。

ともあれ菅長官は、この仕事を連日続け、失言したり、
ましてや舌禍事件を起こしていません。
東京新聞の有名記者のように、長官を不機嫌にさせ、
不用意な発言をするよう仕向けているとしか思えない
質問を繰り出す人がしくこく食い下がろうとも、
菅長官はあまり顔色を変えず、特別に不機嫌にもならずに、
ごく淡々とやり過ごしている。
真似のできることではありません。

一日が終わると、長官には夜の会合が二階建て、三階建てで
入っていることが珍しくなく、朝4時台に起きるからといって、
そう早く帰宅できるわけでもないようです。

この日課を毎日続けるとは強靭な体力、気力を必要とするでしょうが、
土日ともなると、菅長官もほとんどすべての週末を当てて、
平日には聞けない突っ込んだ話を官僚たちにさせてみたり、
利害が折り合わない役人を両方連れてきて、
目の前で議論させ落としどころを探らせたり
といったことで潰している、つまり休んでいないというのです。

朝から晩までの、この日程を、毎日変わらず続ける菅長官は、
風邪をひいたり熱を出したりしないのかと事情を知る人に
聞いたことがあります。『風邪もひくし、熱も出しているんです。
でも、我慢して続けるんですね』とのこと。

5年以上続くと別段不思議とも思われないかもしれませんが、
民主党(当時)政権から代わったばかりのころ、これは衝撃でした。
なぜと言うに、それ以前の官邸の住人に、ここまで自分に厳しく、
働き詰めに働く人などいなかったからです。
・・・総理も官房長官も、ほとんど滅私奉公の働きぶりなのです。

それは霞が関に文字通り衝撃を与え、それ以前の
『官僚にバカにされる政治』は一新、
『官僚が畏怖する政治』に変わりました。・・・
のんびりなど構えてはいられないと思う人の働きぶりでしょう。
自民党総裁の座を狙い、ゆくゆくは総理になりたいと思う人は、
これくらいの働き方を5年も6年も続けられるか、
まずは自分の胸に手を当てて問うてみるべきです。」
(p157~p159)


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北大路欣也・原節子・橋本忍。

2018-08-21 | 先達たち
「新潮45」9月号には、
どういうわけか、北大路欣也・原節子・橋本忍と
三人が揃っているのでした。

まずは、俳優の北大路欣也さん
「わが役者人生の『支柱』」と題しております。
とびとびに引用。

「『八甲田山』では、雪中行軍演習で青森歩兵第五連隊
を率いる神田大尉を演じたのですが、雪山ロケの終盤、
まるで最後の晩餐だとでもいうように、囲炉裏端で
お世話になった土地の方々と夕餉を囲んだんです。
横には高倉健さんもいらっしゃいました。
十和田の旅館でのことでした。
暖かな火を見つめていると、ふと家庭を持ちたくなりましてね、
彼女との結婚を決心しました。知り合ってから十年以上経った
34歳の時です。仲人は『八甲田山』の総指揮者、橋本忍さんでした。」
(p128~)
そして、新婚旅行に行くためだった期間が
小林正樹監督の映画『燃える秋』に化けることとなります。

「ロケはイランで行われ、テヘラン、イスファハン、シラーズと
都市を北から南へ移動していきます。・・・
僕たちがロケから戻って三カ月後、世界三大ホテルと言われる、
イスファハンのシャー・アッパースホテルが爆破され、
パーレビ国王が国外脱出をしてイラン革命が起きました。・・
妻は初めて、俳優だけではなく、スタッフの皆さんがいかに
過酷な現場で働いているかをつぶさに見ることになりました。
・・実感したのでしょう。彼女はそこで僕を支える覚悟をし、
以来ずっと応援してくれています。
あのタイミングで、彼女がロケ現場に同行を許されたのは、
僕たち夫婦のその後を運命づけるものだったのです。」


「初めて体感したのは、僕が十三歳の時でした。・・
父は『うちの子を俳優にするつもりはないから』と
断ったそうです。・・ところが、ある日突然プロデューサーと
監督さんがうちに訪ねて来られて、僕の目の前に脚本を置くと
こう言われました。『君、勝麟太郎役をやりなさい』。
それが父主演の映画『父子鷹』(1956年)です。
劇中でも父と親子の役でした。」

「僕は若いころ、酒ばかり飲んでいた。
特に25歳から30歳の頃はむちゃ飲みばかりしてました。
・・29歳の頃、僕は(高倉)健さんに東京の第一号に
出来たアスレチックジムに連れていかれて、
『脱げ、やってみろ』と、健さんと同じメニューを
やらされたんです。もちろん、すぐにダウンですよ。
できるわけがない。僕はみんなの前で
『お前の職業は何だ』と健さんに聞かれました。
『俳優です!』と答えると、『俳優がこんな体力でできるか!』
と、叱られました。・・」

まあ、こんな調子で語られる8ページ。
飽きたら、雑誌の前の写真帖をご覧ください。
そこには、ドイツにいった16歳の原節子が、
着物を着てニッコリしています。4ページ。

つぎに、
西村雄一郎氏による
「追悼・橋本忍」。

「・・その橋本忍が、7月19日、ついに亡くなった。享年100。
『羅生門』でデビューし、『生きる』『七人の侍』
という超弩級のシナリオで、黒澤明にライターとして
鍛えられた。・・」

とはじまる6頁。

これじゃあ、映画の雑誌かなあ?
はい。2018年「新潮45」9月号は、
そうも、読めちゃうのでした(笑)。
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理系出身者の残念な失敗例。

2018-06-03 | 先達たち
高橋洋一著「『文系バカ』が、日本をダメにする」(WAC)を
パラリと読む。

ここが引用したくなる。


「私は、マスコミや官僚の世界だけでなく、
政治家にも理系的な教養や考え方が必要だと思っている。
イギリスのサッチャー元首相は化学者だったし、
ドイツのメルケル首相はもともと物理学者である。

残念なことだが、日本の政治家に
『政治家にも理系の発想を』と言っても、
あまり説得力がない。
何しろ、理系の首相としては、
鳩山由紀夫さん、菅直人さんの名前が挙げられるからだ。
鳩山さんは東大工学部出身で、菅さんは東工大出身だ。
この二人が代表例となってしまうので、
私の論にまったく説得力がなくなってしまう(笑)。

菅さんは東日本大震災で原発事故が発生したときの首相だったが、
なまじ物理のことがわかっているものだから
『俺は、原子力のことはわかっている』と思ってしまった。
そこが大きな問題だった。科学の分野は非常に奥が深く、
一人ですべての分野がわかるわけではない。
科学的な考え方をする人は、科学に対して謙虚でないといけない。
原発事故時の菅さんの例は、理系出身者の残念な失敗例である。


・・・鳩山さんは、東大工学部(計数工学科)を出た後、
スタンフォード大学院に留学している。
政治家になるつもりはなかったらしく、
学者の道を歩んでいた。・・・
それでも、あとを継がなければならなかったのか、
政治家になった。最初の選挙に出たときには、
『政治を科学する』と言っていた。これは、
けっこうカッコいい言葉だった。しかし、
政治家になってからは、その言葉を忘れてしまったのだろうか。
政治家になってからの鳩山さんには、科学的な発想は見受けられず、
『宇宙人』と揶揄されるようになってしまった。

たとえば、鳩山さんは、首相在任中に
沖縄の基地問題に関して、『最低でも県外』と言って、
状況を混乱させた。その後、『当時は、海兵隊が必ずしも
抑止力として沖縄に存在しなければならないとは思っていなかった』
と発言を変えた。しかし、学べば学ぶほど、
沖縄の海兵隊の重要性がわかったとして、
結局、県外移設は断念した。・・・」(p182~189)


菅直人と鳩山由紀夫の二人の首相時代のことを、
わたしは、すっかり忘れてしまっておりました。
さすがに、理系は「残念な失敗例」を忘れない。

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道元からいわせれば邪道でしょうな。

2018-04-07 | 先達たち
谷川徹三対談集「九十にして惑う」の
「道元『正法眼蔵」の読み方」は
まず素野福次郎氏(大正元年生れ)から語っておりました。

素野】私の若いころは、
戦争が壁のような感じで立ちはだかっていて、
好むと好まざるとにかかわらず、
避けては通れなかったわけです。
戦争にいって死ぬというのは、
既定の事実のような感じで横たわっていた。
そうなるとやはり死ぬ前に、
自分がここに生かされていることの
意味を確かめたくなるものなんですね。
そんなことが契機で、
道元に触れるようになったのだと思います。

谷川】 すると、戦前ですか。

素野】召集されたのが昭和16年ですから、
その前後ですね。
(p159)



谷川徹三氏も語ります。

谷川】 道元の禅は公安禅ではありません。
只管打坐です。しかし、その只管打坐すらしていません。
『正法眼蔵』を読むだけです。
道元からいわせれば邪道でしょうな。
私は昭和40年に喉頭がんで築地のがんセンターに入院し、
リニアックという大きなグルグル廻る
放射線治療器で治療を受けました。
あとでがんにもいろいろあって、
喉頭がんは転移率が低いということがわかりましたが、
そのときはやはり、死を意識せざるを得ませんでした。
その入院のとき持っていったのが、『正法眼蔵』でした。
それから道元が一段と魅力を増してきて、
最近ますます大きなものになっている感じがします。
(p162) 
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そうすれば必ず何人かは。

2018-04-06 | 先達たち
谷川徹三対談集「九十にして惑う」(竹井出版・昭和61年)
が古本で安かったので購入。

谷川徹三氏の本は未読。
ですが、詩人の谷川俊太郎のお父さん。
ということは、知っておりました。

略歴をみると

「明治28年愛知県常滑市生まれ。
一高を経て、西田幾太郎を慕い
京都大学哲学科へ進み大正11年卒業
・・・・」

とあります。
その対談のなかに
素野福次郎氏との
「道元『正法眼蔵』の読み方」
と題する対談がありました。

その対談の最後を引用。

谷川】 『正法眼蔵』にチラリとでも触れて欲しいですね。
そうすれば必ず何人かは、あの道元の魅力に打たれるはずです。
『正法眼蔵』が難解だというなら、まず『随聞記』でもいい。

素野】 道元に対する態度、もっと大きくいうなら
宗教とのかかわり方は人さまざまだし、
またそれでいいと思うのです。
しゃちほこばる必要はない。
日々の行動のヒントを得るといったことだって、
いいと思うんです。

谷川】 とにかく手にとって欲しい。
そして読みに読め、ただひたすらに読め、
と言いたいですね。
それが道元に近づく王道です。

(p179)



こんな箇所も引用。

素野】 道元は宋でなかなか正師にめぐり会えなかったのですね。

谷川】 そうです。
正師とすべき人に会えないまま、
諸山歴訪の旅にのぼり、
一時は帰国しようかと考えたりもします。
その途中で、かねて名声を耳にしていた
如浄が天童の住持になったことを聞いて、
急いでまた天童山に登るんです。
・・・・(p164)

うん。
そういえば、曹洞宗のお経「修証義」に

南無帰依佛、
南無帰依法、
南無帰依僧、
佛はこれ大師なるがゆえに帰依す、
法は良薬なるがゆえに帰依す、
僧は勝友なるがゆえに帰依す、
佛弟子となること必ず三帰による
・・・

という箇所があったなあ。
まわり道でも、
また、道元とつながりました。
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大勢順応主義がなく、流行追随主義がない。

2018-04-05 | 先達たち
ひさびさに、本棚から取り出した
「桑原武夫集」をパラリ。

「桑原武夫集」(岩波書店)は、全10巻。
その10巻目の月報に、こんな箇所。


「・・着想が独創的で、
ほとんど奇想湧くが如くであること。
文において然り、また談において然り、
大勢順応主義がなく、流行追随主義がない。
誰も指摘しなかった問題を、
誰も気づかなかった角度から照し出す
ということがあって、たとえその問題が
天下の大事でなくても、読んで面白く、
聞いて愉しい。
 ・・・・・
奇想は、劇的でなく、感情的でなく、
一本気でなく、一見奇とみえて
実は理路の当然なるものである。
とりのぼせて熱くなった頭を冷やすには、
けだし『桑原武夫集』が、無上の良策だろう。」


はい。文藝春秋が書いていようが、
週刊文春が書いていようが、
週刊新潮が書いていようが、
まして、朝日新聞が書いていようが、
大勢順応主義で、流行追随主義の
マスメディアや、コメンテーターが
どのように語り、報道していようが。

いまこそ試される
『大勢順応主義がなく、
 流行追随主義がない。』

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書斎で転倒し。

2017-05-28 | 先達たち
hanada7月号。
渡部昇一先生追悼特集の
到知出版社代表取締社長・藤尾秀昭氏の文に、

「昨年の8月1日、2日の二日間、山形の旅館・萬国屋で
取材させていただくことになっていました。・・・
先生はその年の6月はじめに
書斎で転倒し、腕を骨折。
6月下旬にお会いした時はお元気だったのですが、
萬国屋で久しぶりお会いした時、
私はそのお姿を見て驚きました。
両腕を二人に抱えられ、
自力で立つことができないのです。・・・」(p316)

思い浮かんだのは、
谷沢永一・渡部昇一対談
「人間は一生学ぶことができる」(PHP研究所)にある
この箇所でした。


谷沢】 ・・私も『ここは書斎で調べて来ないといけない』
という場合に、しんどいと思うことが多くなりました。
また、重い本を持って階段を上がり下りすることは危ないのです。
前へ転ばなくても後ろへ転ぶ場合があります。

渡部】 私も書庫に入るのがしんどくなりました。
いわんや積んだ本をかき分けて探すというのは・・・(笑)。
老人になるということは、億劫な人間になるということでしょう。
これは余計な話だけれども、今度、最後の愚考をやるつもりで、
書庫にエレベーターをつけました。
階段を上り下りして、本を持ち出したり、しまったりするのが
億劫だし西洋の本は思いのほか重いので、
それを抱えて転んだりしたら大変です。
肉体的な問題でいえば、年をとると、躓(つまず)きやすくなります。
家の中でも、ちょっとした段差に躓いて転ぶこともある。
・・・・(p228~229)

ちなみに、この本は平成19年(2007年)5月発行。
その10年後なのでした。合掌。
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いつかは読もう。

2017-03-05 | 先達たち
以前、「伊豆川余網」というレビューを書く方がいらっしゃった。


本を買うけれど、いつか読もうと自分に言い聞かせて(笑)。
そういえば、こんなレビュアーさんがいらっしゃった。
と思い出しました。

本を読むのは、めんどくさいのですが、
詩や、対談や、講演などは、読みやすく苦にならない。
というのがあります。

ネットで、本の検索をすると、
その本のレビューを読めたりして、
そのレビュアーを検索すると、
いろいろと他の本も取り上げておられる。

今回、気になったのは、
カスタマーレビュー「ござねぶり」さん。
この方が、
城山三郎対談集「失われた志」(文藝春秋)を
取り上げていたので、それではとネット注文(笑)。

はい、未読。いつかは読もう。
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