和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

七平さんの試み。

2017-07-14 | 道しるべ
平成4年3月号「Voice」山本七平追悼記念号。

そこに、谷沢永一・渡部昇一の
書評対談「山本七平を読み切る」がある。

各本の相関図を明示してくれております。
本の水先案内地図にしたいと思いました。

さてっと、引用は谷沢氏から

谷沢】 七平さんは、最初から完璧にできあがった
ライターという自覚はなかったと思う。
ひとつひとつスタディーをやってゆこうという試みの意識
があったのではないか。・・・・
とにかく思いつくところ、いいたいところから書いていった。
だからどういうものになるかわからない。
七平さんは、あくまで自分のなかから湧き出てくるものだけにしか
関心がないというタイプでしたから。(p204)

そういえば、
山本七平ライブラリー11「これからの日本人」。
その井尻千男氏の解説が思い浮かびました。

それは、「勤勉の哲学」の序文を引用しておりました。
その一部を孫引き

「だが問題は単に外部に対していかに答えるか
ということではない。われわれ自身が、
それに答え得る形で自己を把握してはじめて、
自己の伝統が呪縛にならず、これを制御しかつ
活用しうる。そしてそれをなしうることが、
将来の発展への基盤であることはいうまでもない。・・」

こうして序文を引用したあとに井尻氏は
こう指摘しておりました。

「この文章とその立場は、
さまざまに展開する山本学の基調である。
自己認識を深めることと、他者への説得を
同時に考えようとする姿勢といってもいいものである。」
(p482~483)


うん。最後に、谷沢・渡部対談から
ここも引用しておきます。

谷沢】 ・・陸軍憎し、軍隊憎し、で凝り固まったのが、
小説では野間宏になり、論壇では丸山真男になる。
ところが司馬さんと山本さんは、これはもっと
根が深いと考えた。ここが根本の分れ目じゃないですかね。

渡部】それが重要なんですね。

谷沢】だから司馬、山本は戦後すぐに現われる存在ではなかった。
戦中と同じことがまた戦後に行われていることを見届けて、
それからやおら立ち上がった。
つまり進歩的文化人への観察です。ここに二人の共通点がある。
その結果、ほかの、進歩的文化人に対する毒つき反論というか、
売り言葉に買い言葉的反論は、全部消えてしまった。
残ったのは、戦中戦後のなりゆきを、
日本人の社会対応神経の構造としてみた人だけだった。
だから七平さんは、戦後社会をほんとうに生きた人です。
(p209)
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文化的廃棄物の再利用。

2017-07-11 | 本棚並べ
十代の終わりから、二十代のはじめの頃。
私はイザヤ・ベンダサンに、浮かれておりました(笑)。
ところが、ついていけない。
ミーハーの限界に気づきました。
山本七平氏の著作は、ベンダサンとは違うんだ
と自分に言い聞かせて(笑)。
それっきり、ベンダサン熱がさめて
自分の視界から消えておりました。

こんかい、渡部昇一追悼文を読んでから、
渡部氏の著作をパラパラとめくっていたら、
そうだ山本七平を読もうと思ってしまったわけです。

とりあえず、古本で一冊ずつ、購入していなかった
「山本七平ライブラリー」全16巻を揃え始めて、
今日届いた本で、全巻揃いました。

うん。60歳を過ぎたら、
山本七平を読むことが出来るかもしれない。
と思い始めました(笑)。

身近な本棚に並べて、
七平氏が語りだすのを待つことにします。

今日届いた本、山本七平ライブラリー6「徳川家康」。
その「あとがきにかえて」は山本良樹さん。
良樹(よしき)さんの文のはじまりは

「91年の暮れ、12月の10日に父が逝き、
私の手元には父の遺稿、この『徳川家康』が遺った。
・・・
夜、誰ひとり人も居ぬ山本書店で父の机に座り、
背後の書架から父の蔵書である史料を引き出して広げる。
原史料としては、徳富蘇峰の『近世日本国民史』の
戦国時代編がきわめて有効に使われていた。
その『近世日本国民史』全巻は、
公立の図書館から廃棄されたもので、
いわゆる大蔵書の一部と呼ばれるような大げさなものではなく、
むしろ文化的廃棄物の有効な再利用といったところであった。
父の驚嘆すべき和漢の知識といったものも意外と
こういったところに収集のヒントがあったのかも知れない。
父は『一出版人の人生論ーー語りおろし半生記』という
文章の中で、こう語っている。
『復員後ブラブラしている間は本ばかり読んでいた。
当時は中国関係の古本が二束三文で売られていた。
貧乏なのでそういう本を買って読んだ。
漢文はあまり速くは読めないので経済的だという利点もあった』
戦後、進歩的文化人達がこぞって民主主義信仰に走った頃、
父は二束三文の文化的廃棄物となった和漢の古典に眼を留め、
そこから日本人論という名の鉱脈に出会うまで、
『知』の竪穴を、孤独に、たった一人で、
穿(うが)っていたに違いない。・・・」(p457~p458)


はい。検索したら
『一出版人の人生論ーー語りおろし半生記』は
平成四年三月特別増刊「Voice 山本七平追悼記念号」に
未発表の文として掲載されておりました。

はい。これは、私の本棚に探すとありました。
昔のミーハーの記念として買ってあったものでした。
あってよかった(笑)。


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深代惇郎「ふがいない話」

2017-07-09 | 朝日新聞
深代惇郎の天声人語に
「ボルテージ」と題するコラムがあります。

ちなみに、深代惇郎氏は昭和4年生まれ。
朝日新聞に入社して
昭和46年ヨーロッパ総局長、
昭和48年1月論説委員、
同年2月から50年11月1日、
入院するまで『天声人語』を執筆。
昭和50年12月17日、急性骨髄性白血病のため死去。

では『天声人語』のコラム「ボルテージ」の
最後の箇所を引用。

「書くことがなくて、・・・
雪月花にも感慨がわかないときは、
政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、
そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」
(48・12・3)


山本七平著「『知恵』の発見」(さくら舎)を
ひらいてみたら、こんな箇所がありました。

「誰かを批評すると、
したほうがむしろ害を受ける。
というのは、何も業績がないのに相手と
対等のような錯覚を持ってしまうからである。
否、時には相手以上だという錯覚を持ち、
それでいて内容はカラだという
状態に陥りやすい。」(p110)


藤原正彦の「管見妄語」を読みたいと
思って古本で注文。
「グローバル化の憂鬱」が届く。これは
週刊新潮2012年8月~2013年8月までの
コラムをまとめた一冊でした。
その頃はどんなだったか?
「はじめに」には、こんな箇所がありました。

「今、本書を読み直すと、政治経済に
関するものがこれまでに比べてやや少ない。
年の前半は、長年続いた自民党無能政権に愛想を
つかした結果生まれた民主党政権が、
自民党の数倍も無能な素人集団と判明した時期である。
呆れ果てて声も出なかったのだろう。
この内閣の時に東日本大震災が起きたのは
今考えても無念だ。
また年の後半に政治経済が少ないのは、
久しぶりの安部内閣の手綱さばきが見事すぎて
声が出なかった。
大々的な金融緩和と公共投資を柱とする
アベノミクスは、本欄で私が以前から主張していた
ことでもあり、文句のついけようもなかった。
外交や国防に至っては首相が次々に打つ手の
鮮やかさに舌を巻くばかりで陶然としていた。
かろうじて箸にも棒にもかからない
教育改革を見つけ批判しただけだった。」
(p3~4)

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蔵書をすべて渡部に贈る。

2017-07-08 | 道しるべ
先頃、思い出して
「山本七平ライブラリー」の
購入していない巻を、古本で注文。
それがポツリポツリと届きます。
うん。遅読でも、古本購入はすぐ来る(笑)。


13巻「日本人とユダヤ人」の解説は向井敏。
そこの解説に、引用されていた箇所を孫引き。

「面白いのはこの『隣百姓』という言葉である。
隣が田植えをはじめれば自分も田植えをする、
隣が肥料をやれば自分もやる、・・・・・
『何と自主性がない』などという文化人がいたら、
そういう方が少々頭が足りないのであって、
自ら隣(模範)を選び、その通りにやるのは
立派な一つの自主性であり、しかも的確にまねが
できるということは、等しい技量をもたねば
不可能であるから、その技量に到達するよう
自らを訓練することも自主性である・・・・」


ちなみに、「山本七平ライブラリー」
14巻「日本教徒」の解説は渡部昇一。

ここに、『自ら隣(模範)を選び』と
いえそうな箇所がありました。


「キリスト教以前のゲルマン人の考え方を
シュナイダー教授が解明したと同質の方法で、
日本人の精神構造を解明しつつあったのが
山本七平さんだったのだ。
私はシュナイダー教授を天才だと思って尊敬しているが、
同じ意味で山本七平さんは天才だと思っている。」(p344)


はい、シュナイダー教授の、おさらいをしておきます。

渡部昇一著「後悔しない人生」(PHP研究所)から

「留学先のドイツでも、私が教わったシュナイダー先生は
素晴らしい先生だと思って、かなり入れ込みました。
もちろん、生徒のそういう気持ちは、
自ずと先生に伝わるものです。
シュナイダー先生は、1998年のクリスマスの次の日に
亡くなられましたが、『蔵書をすべて渡部に贈る』
という遺言状を残され、後日、カートンボックス151箱
の蔵書が、私のところに送られてきました。
明治以来、何十万人もの日本人が留学したことでしょうが、
かの地の先生が、日本人留学生に自分の全蔵書を託して
死ぬという例は、あまりないのではないでしょうか。
私の上智大学の弟子たちも、みなシュナイダー先生に
なついていました。ドイツに行けば必ず先生のところに
お伺いしましたし、先生が東京に来られれば、
みんなでお世話したりしたものです。
ある時、先生は『日本という国を知って、私の人生は変わった』
とおっしゃって下さいました。その時、私も
『先生とドイツを知って、人生が変わりました』
とお答えしたのを憶えています。
先生は発見されるものなのです。」(p55~56)

ちなみに、渡部昇一著「青春の読書」(WAC)に

「子供の頃から私は先生を尊敬するクセ(?)があって」
(p599)の数ページ先(p609)に

「ドイツ(ミュンスター大学)につくと、
すぐにそこの英語学教授のカール・シュナイダー先生に
『英文法の歴史を調べたいので博士論文の指導をお願いしたい』
と英語で言うと・・先生はびっくりなされた様子で、
『突然、論文の指導をと言われても困る。
何か書いたものがあるなら見せて欲しい』ということだった。
幸いに私の修士論文は英語で書いてあったので、
航空便で上智大学から送ってもらった。
その論文はシュナイダー先生から、さらにハルトマン先生に
渡された。そして、お二人の先生がともに私を
博士候補として認めて下さったのである。」


せっかくなので、
忘れないうちに、こちらも引用しておかなきゃ(笑)。
山本七平監修「ビジネスマンのための『この一冊』」(講談社)
そこに渡部昇一氏はヒルティの『幸福論』をとりあげており
後半で渡部氏はこう書いておりました。

「大天才の生涯とか教訓はわれわれにはあまり参考にならない。
ヒルティは天才的なところはない。実直な実務家であり、
その分野でしかるべき成功ーードイツの百科事典にのるほどの
成功ーーをとげる一方、法律や歴史についての立派な業績を
残している。そして高齢に至るまで仕事を続け、
その間に随想集三巻、つまり『幸福論』をも残した。
このぐらいの偉さの人の教訓の方がわれわれの
『身の丈』に合っていると言うべきではあるまいか。」(p217)


あとは、山本七平著「民族とは何か」(徳間書店)。
ここに、村松剛氏と渡部昇一氏との対談が載ってました。


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みんないなくなってしまった。

2017-07-01 | 前書・後書。
梅棹忠夫の
「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」
を読む。雑誌上下二段組で13ページほど。

せっかくなので、その最後を引用。


「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。かれらはみんなほとんど同年輩で、
20世紀の初頭にうまれでて、
この世紀をいきてきた人たちである。
これらの20世紀人たちの手によって、
日本の学問はおおきく展開した。
極東におけるローカルな一文明にすぎなかった
日本文明は世界的なものとなった。
これらの人たちによって、
日本の学問は普遍性を獲得したのである。
わたしたちの世代は、
それをこの先人たちからひきついだのである。
しかし、みんないなくなってしまった。
ひとりずつ消えて、そしていま、
最後の巨星が消えた。
ひとつの時代がおわったのである。」


先学のなかのお一人、
西堀栄三郎といえば、
東芝が思い浮かびます。
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