本棚から須賀敦子著「遠い朝の本たち」(筑摩書房)を
とりだしてくる。
まぶしい感じがして、
こりゃ汚せないぞと、丁寧に読んだ記憶があるけれど、
しっかり、カバーが手垢で汚れてる(笑)。
さてっと、この本に
「ひらひらと七月の蝶」と題した文があり読み直す。
はじまりは
「高台の家の窓からは、冬の夕方、
赤やうすむらさきに染まった空のむこうに、
逆光のなかの富士山が小さくみえる日があった。
家に近い、もう暮れかけた光林寺の境内には、
ささらを逆さにしたような欅のこずえがしらじらと光っている。
もうすこし顔をうつむけると、ほとんど真下に、
勾配を上手に使った隣家の庭があって、
着物姿の小柄な老人が、
手を腰にあてたかっこうで空を見上げている。」
こうして、1938年に父の転勤で
麻布本村町に住んだ時の様子が語られて
隣家の「気むずかしそうな」老人を
語った小文なのでした。
その老人が原石鼎(はらせきてい)という
俳人であるのを知るのでした。
正確には、知らずに過ごしていたのでした。
こうあります。
「もし、俳人あるいは歌人を、
詩人という言葉から隔離する習慣が日本になくて、
この詩形ないし作品をより普遍的、本質的な
批評言語の対象とする習慣がもっとはやく
この国に確立されていたら、
石鼎の名は、ずっと早く、
私の視界にはいっていたはずだと思う。
発句を連詩の手法から切り離してしまった
子規や彼の弟子たちは、
孤児化したこの詩形が、
やがて『職業』詩人たちの手に落ち、
子規自身が見下した江戸末期の俳諧師と
おなじように、詩と権威を結びつけることに
なるのを想像しただろうか。・・・」
須賀さんの、この小文の最後を引用。
「だが、現在の私がなによりも口惜しく思うのは、
隣が詩人の家だったというのに、
あまりにも幼くて、それについて
ひとつの深い想いも持たず、
心を潜ませることもなかったことだ。
いまもかぎりなく尾をひいて、
そのころの自分が、はずかしい。
夕月に七月の蝶のぼりけり
新聞にあったその句は、
昭和25年、石鼎の死の前年の作で、
私が渋谷の寄宿舎にいたころだから、
時間的には合致しないが、それを読んで、
いつも空を仰いでいた小柄な老人の
孤独な姿が記憶に戻った。
二階の窓からそれを見ている少女だった
自分の姿が老人のそれに重なり、
ひらひらと夕月の空にのぼっていきそうだった。」
注文してあった古本がとどく。
大岡信著「詩歌ことはじめ」(講談社学術文庫)。
はじめの方にこうありました。
「私はかねがね、詩歌の作者たちが
歌人、詩人、俳人というふうに分かれていることに
あき足らない思いをしてきました。
つまり専門俳人とか、専門歌人というふうに
いまではなっていて、
ひとりで詩人でもあれば、歌人でもあり、
俳人でもあるというような人がかりに現代にいると、
この人はむしろ素人扱いされる。
そういう現状に対して不満を抱いております。
私自身は現代詩しか書けませんけれど、しかし、
やろうと思ったら短歌でも俳句でも、
とにかくそのときに応じて書きたければ
書けばいいじゃないかという考えを持っている人間です。
明治時代にはそういう人はたくさんいたのです。
・・・」(p32~33)
とりだしてくる。
まぶしい感じがして、
こりゃ汚せないぞと、丁寧に読んだ記憶があるけれど、
しっかり、カバーが手垢で汚れてる(笑)。
さてっと、この本に
「ひらひらと七月の蝶」と題した文があり読み直す。
はじまりは
「高台の家の窓からは、冬の夕方、
赤やうすむらさきに染まった空のむこうに、
逆光のなかの富士山が小さくみえる日があった。
家に近い、もう暮れかけた光林寺の境内には、
ささらを逆さにしたような欅のこずえがしらじらと光っている。
もうすこし顔をうつむけると、ほとんど真下に、
勾配を上手に使った隣家の庭があって、
着物姿の小柄な老人が、
手を腰にあてたかっこうで空を見上げている。」
こうして、1938年に父の転勤で
麻布本村町に住んだ時の様子が語られて
隣家の「気むずかしそうな」老人を
語った小文なのでした。
その老人が原石鼎(はらせきてい)という
俳人であるのを知るのでした。
正確には、知らずに過ごしていたのでした。
こうあります。
「もし、俳人あるいは歌人を、
詩人という言葉から隔離する習慣が日本になくて、
この詩形ないし作品をより普遍的、本質的な
批評言語の対象とする習慣がもっとはやく
この国に確立されていたら、
石鼎の名は、ずっと早く、
私の視界にはいっていたはずだと思う。
発句を連詩の手法から切り離してしまった
子規や彼の弟子たちは、
孤児化したこの詩形が、
やがて『職業』詩人たちの手に落ち、
子規自身が見下した江戸末期の俳諧師と
おなじように、詩と権威を結びつけることに
なるのを想像しただろうか。・・・」
須賀さんの、この小文の最後を引用。
「だが、現在の私がなによりも口惜しく思うのは、
隣が詩人の家だったというのに、
あまりにも幼くて、それについて
ひとつの深い想いも持たず、
心を潜ませることもなかったことだ。
いまもかぎりなく尾をひいて、
そのころの自分が、はずかしい。
夕月に七月の蝶のぼりけり
新聞にあったその句は、
昭和25年、石鼎の死の前年の作で、
私が渋谷の寄宿舎にいたころだから、
時間的には合致しないが、それを読んで、
いつも空を仰いでいた小柄な老人の
孤独な姿が記憶に戻った。
二階の窓からそれを見ている少女だった
自分の姿が老人のそれに重なり、
ひらひらと夕月の空にのぼっていきそうだった。」
注文してあった古本がとどく。
大岡信著「詩歌ことはじめ」(講談社学術文庫)。
はじめの方にこうありました。
「私はかねがね、詩歌の作者たちが
歌人、詩人、俳人というふうに分かれていることに
あき足らない思いをしてきました。
つまり専門俳人とか、専門歌人というふうに
いまではなっていて、
ひとりで詩人でもあれば、歌人でもあり、
俳人でもあるというような人がかりに現代にいると、
この人はむしろ素人扱いされる。
そういう現状に対して不満を抱いております。
私自身は現代詩しか書けませんけれど、しかし、
やろうと思ったら短歌でも俳句でも、
とにかくそのときに応じて書きたければ
書けばいいじゃないかという考えを持っている人間です。
明治時代にはそういう人はたくさんいたのです。
・・・」(p32~33)