和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

秋の気配・9月。

2020-08-31 | 本棚並べ
ふりむけば、神輿も祇園祭もなかりけり
コロナ禍の年の、秋の夕暮れ。

明日からは、9月ですね。
古本で買ってあった写真集に、
泉本宗悠著「茶花がたり」(淡交社・平成28年)がありました。
古本で700円。新刊で税込み2860円なので、高いやら安いやら、
ちょっと判断に迷いますが、古本でなければ買わなかった一冊。

茶会での茶花の写真集です。
映画をビデオで見るように、
一度だけの茶会の茶花を写真集で見る。
はい。泉本氏の文章も味わえる。
一箇所引用。「長月」の箇所でした。

「・・・毎年9月の中秋の名月の日、
奈良の唐招提寺では、開祖・鑑真和上と共に、
月を愛でる法要・観月讃仏会(かんげつさんぶつえ)が挙行され、
御影堂では裏千家ご宗家の奉仕による献茶式が執り行われます。
堂内に安置されてる鑑真坐像の脇の花瓶には、芒(すすき)や
女郎花(おみなえし)、萩や吾亦紅(われもこう)など秋の花が
入れられ、大広間には東山魁夷画伯が10年以上もの歳月をかけて
和上のために描いた・・・襖絵が堂内を包み込みます。・・・・」
(p115)

右側のp114には、クメール陶器 黒釉壺花入(カンボジア製)
に、底紅木槿・吾亦紅・矢筈芒・女郎花・萩・桔梗・菊葉藤袴
が、すっきりと活けてある茶花の写真。

最後の著者紹介には
泉本宗悠(いずみもとそうゆう)昭和21年(1946)生まれ。
昭和50年裏千家今日庵に入庵。とあります。
「はじめに」は
「『花は野にあるように』
利休七則に挙げられるこの一則は、茶の湯における
花を入れるための指針となるものです。・・」
こうはじまっておりました。
そして、「あとがき」の1ページ前には

「花もなく実もなき枯木いけて見よ 
       心の花は何かまさらむ  宗旦歌」

とあるのでした。索引を入れて全175頁。
はい。古本で出会えてよかった。
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信ずるに足る友人。

2020-08-30 | 産経新聞
安倍晋三氏について、新聞を読みたかった。
産経新聞2020年8月30日一面の古森義久氏の文を読む。

氏は、2006年9月30日の頃のことから始めております。

「・・・当時、ニューヨーク・タイムズの安部首相への
論調は不当なほど厳しかった。小泉政権の若き官房長官として
憲法問題でも歴史問題でも『普通の国』の基準で明快に主張する
安倍氏に対して『危険なタカ派のナショナリスト』などとレッテルを
貼っていた。同紙のノリミツ・オオニシ東京支局長は
『安倍氏の説く日本の民主主義は幻想』とまで糾弾した。」

こうした論調のなかで、古森氏へ寄稿文の依頼が来る。
その依頼文に記したことを古森氏は、あらためて紹介しておりました。
今日の古森氏の文の最後の箇所を引用。

「『安倍首相は祖父(岸信介元首相)の助言を守る形で
日本の将来の防衛を日米同盟の枠内に堅固に保っていくだろう。
米国人は共和党、民主党の別を問わず、いま人気の高い日本の
新首相が完全に現代的で率直な、そして信ずるに足る友人である
ことを知るだろう』
この14年前の期待をこめた予測が現実に沿ったことに
・・・・私はささやかな満足を覚えている。

共和党のトランプ大統領も、民主党のバイデン副大統領も、
安倍首相の日米間の同盟や友好の強化の実績に手放しの礼賛を
いまや正面から表明した。

中国や北朝鮮という目前に迫った脅威や国難に対しては
米国との絆の強化はいまの日本には貴重である。

米国側の逆風をもかつてないほどの順風に変えたのは
ほかでもない、安倍首相自身の実力、努力、そして
信念と哲学だったといえよう。」
(ワシントン駐在客員特派員・古森義久)

はい。読みたい記事を、産経新聞で読めました。
ひょっとして、読めていない方のために、
ここに引用しておきます。
コメント (2)
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うつりやすし。

2020-08-29 | 京都
法然の言葉に
『凡夫の心は、物にしたがいてうつりやすし、
たとえば猿猴(えんこう)の枝につたふがごとし。
まことに散乱して、動じやすく、一心にしづまりがたし』
(p357「増谷文雄著作集⑨」)

これは、「法然と親鸞」と題した文にあるのですが、
ここに、サルが出てくる。
そういえば、長谷川等伯や海北友松の襖絵に
手長猿が描かれている場面があるのを思い浮かべます。

どちらも、サルが木の枝にぶら下がっている図です。
うん。『まことに散乱し、動じやすく、一心にしづまりがたし』
の象徴としての猿が描かれているのなら、
これまた、襖絵の見方がかわってきます。

そういえば、
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・昭和40年)に
長谷川等伯の襖絵を見ている場面が登場するのでした。

「ここにすわると、思わず息を呑む。・・・・
芸術家の精神はここに老松と猿の姿を借りてあらわれ、
われわれを日常には思いもかけない次元へと誘う。」
(p202)

そのあとに、こんな箇所があるのでした。

「この絵は、静中に動あり動中に静ありというふうで、
猿の一瞬の動作と・・・永遠を暗示するものとが対比している。
・・・何も描いてない部分は、
無限に広くしかも充実した空間であるが・・・それは・・
むしろ見る者が喚起されて自分の精神をもって満たす場所である。
一匹の猿と一本の枝によって、魔術が行われている。」
(p204)


はい。法然の言葉から、襖絵の猿へ、
移り木(移り気)な連想の引用でした。


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生け花と立花。

2020-08-28 | 京都
山崎正和著「室町記」の第五章にある
「茶と花(一)(二)」を読むと、生け花への、見方がかわります。

ということで、取り出したのは
吉村華泉『龍生派の生花と立華』(講談社・1982)。
私の妻の亡くなった母が、この派を学んでいて、
当然のようにこの本が本棚にありました。
はじめてひらきます。
最初に「龍生派の生花と立華」という4頁の文があり、
そこを引用してみます。

「・・・・野山に咲く季節の花々をとってきて、
その美しさをすこしでも長く保存させるために、
花瓶やありあわせの器に水をいれ、それに挿して
屋内の飾りとする、また、花の美しさを歌に詠じ、
その花を髪に飾るということなど、われわれの祖先は
感覚的に自然を生活のなかにとけこませる術にたくみ
だったといえるのです。

こうした風土のところに、中国から仏教が渡来してくると、
生活のなかの素朴な飾りとしての花々は、宗教的な儀式としての
『供華(くげ)』という形式のなかに、別の用途を見出すことに
なったのです。

この『供華』には、花盤(けばん)に花を短く盛る方法、
花弁を一枚ずつにして器に盛り、これを手で散らす散花(さんげ)の方法、
そして花瓶に花を立てて供える方法などがありましたが、このなかで
最後の方法が、のちに『立花(たてばな)』という、
いけばなの最初の様式に連繋していくことになるのです。

『供華』は仏にたてまつる花として、純粋に宗教的、
儀式的な意味をもったものでしたが、年月を経るにつれて、
それらの意味あいはあいまいになり、むしろ人々の鑑賞に供する
『座敷飾り』としての傾向が強くなります。
三代将軍足利義満が好んで催した『七夕御法楽供養の花会』などは、
そのような事実をうらがきしています。

そうした傾向はさらにすすんで、室町中期には
花そのものの美しさを観賞するだけでなしに、
そこに立てられた花、つまり、いけばなの作品が
問題にされるようになります。そこでは、明らかに、
自然の花の美しさを愛でるというよりも、
その花を挿し、立て、いけるといった、人間の行為のほうに
興味の中心が移ってきたことを示しているのです。

ここに、いわゆる『立花(たてばな)』の様式が確立するのですが、
これを育てたのが、八代将軍義政の同朋衆や禁裏の雑掌たちであり、
応仁の乱以後はそれが京都頂法寺の僧侶たちにうけ継がれていく
ことになるのです。

当時の『立花』は、自然描写的なものが多く、素朴なものだった
ようですが、安土桃山時代になると、時代の好みを反映して、
豪華雄大な規模のものが立てられるようになり、この時代の末に、
名人池坊専好が、ひきつづき江戸時代初期には二代池坊専好が
輩出するにおよんで、立花は『立華(りっか)』としての
様式を確立し、その最盛期を迎えることになるのです。

立華様式が確立した頃、村田珠光、千利休といった人々に
よって、簡素な精神を旨とする『侘茶』がはじめられ、
同時に茶席の花として『茶花』が創成されました。
これはいわゆる抛入花(なげいればな)といわれるもので、
花器も花材もすべて簡素なものを用いました。

一方、立華様式は次第に定形化し、自由な創意を失い、
形式的な技法の形骸を伝承するだけのものになっていくのです。

このような立華のあり方に疑問をもち、また反発していく立場から、
さきの『抛入花』が注目されはじめ、やがてそれは変革していく
時代感覚のなかで、新しい様式のいけばなとして考えられるように
なるのですが、これが『生花(せいか)』とよばれる、
より庶民的ないけばなだったのです。

立華様式にくらべて形式ばらず、手軽にいけれる点、
時代の好みに合致した点など、人々の興味はこの新しい
いけばな様式に強く集まって急速な流行をみせることになり、
生花は立華に代わって江戸時代を代表するいけばな様式へ
と発展していったのです。・・・・」


はい。はじまりの箇所だけを引用してみました。
へ~。65歳を過ぎると、こういうことへも興味がもてる。
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首相の国会出席日数。

2020-08-27 | 産経新聞
月刊Hanada10月号。
「蒟蒻問答」をひらく。久保紘之氏は語ります。

久保】 8月5日付の産経新聞で主要国の首相、大統領の
国会出席日数をまとめた国立国会図書館の調査報告書を
わかりやすく表にしていたけど、それによると
日本の首相が主要国の首相、大統領に比べ、いかに
国会審議で時間を浪費し、体力を消耗しているかが一目瞭然。

特に首相や閣僚が出席してテレビ中継される予算委員会は、
最終的にはアメリカ0日、英国1日、フランス2日に対して
日本は65日(ドイツは非公開)。
しかも安倍叩きのパフォーマンスで国民受けを狙う
野党のアピールの場で、肝心の法案審議などは放ったらかし。
不毛の場と化しています。

いまや国家間の外交交渉は首脳外交によって決着する場合が多く、
首相はそれだけ多忙になる。つまり長時間にわたって国会審議に
首相が拘束されれば、日本の国益を大きく損ねることにも
なりかねない。


うん。ここだけ引用して終りにするつもりでしたが、
もう少し対談相手の言葉も引用しておきます。

堤堯】 NHKの世論調査では『臨時国会を速やかに
開くべきだと思うか』に、『速やかに開くべき』が72%だ。
だけど国会を開いたところで、ロクでもない質問ばかり。
武漢ウイルスで国会の外は大変な騒ぎになっていた時に、
やれモリ・カケ・桜を見る会がどうのと、
擦り切れたレコードよろしく同じ質問の繰り返しだ。
あげく『ついでにコロナについても訊きますが』
(立憲民主党・福山哲郎)などと、
アホらしくて聞いていられなかった。

編集部】 しかも、何かといえば審議拒否。

(以上・p72)

はい。すぐに忘れてしまうので、
はい。ブログに書き写し、マスコミが指摘しないことを
指摘してくれることを感謝しながら、忘れないように。


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禅の、くさむら。

2020-08-26 | 正法眼蔵
「増谷文雄著作集⑨」に
中国民族と禅宗の関連を指摘した箇所があり、印象深い。

「・・・インド=アーリアンの思想的特色は、
分析的であり、論理的であることにある。したがって、
本来の仏教は、そのような傾向がつよい。
人間を分析して考える。認識の過程を分析して考える。
あるいは、修行の道程を幾段階にもわかって考える。
その仏教をそのままに受けとってみると、それは、わたしどもにも、
名目法数(みょうもくほっすう)のくさむらであるかに思われる。
しかるに、中国民族の思想的特色は、具体的であり、直観的であり、
また現実的である点に存する。その思想的特色をもって、かれらは、
しだいに、仏教を自己にふさわしいものに変容せしめた。
その傾向を端的にしめしているのは、ほかならぬ禅なのである。」
(p291)

「名目法数のくさむらであるかに思える」とあったのでした。
そうそう、「くさむら」といえば、
道元の現成公案(げんじょうこうあん)のはじまりの方に
忘れられない言葉がありました。

「華は愛惜(あいじゃく)にちり、
草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。」

この原文の、増谷文雄訳は

「花は惜しんでも散りゆき、
草は嫌でも繁りはびこるものと知る。」

増谷文雄氏は、「現成公案」の巻を説明するにあたり、
こう指摘されておりました。

「この一巻は、別に衆に示されたものではなく、ただ書いて、
これを『鎮西の俗弟子柳光秀』なるものに与えたものと知られる。
・・・・おそらくは、『正法眼蔵』の数多い巻々のなかにあっても、
まさに白眉となし、圧巻のものといって、けっして過言のとがめを
受ける懼(おそ)れはあるまい。」
(p38「正法眼蔵(一)」講談社学術文庫)

ちなみに、増谷文雄氏は「正法眼蔵(二)」で、
こんな指摘をしております。

「道元がこの『正法眼蔵』の巻々において、
しばしば試みている手法をあかしておきたいと思う。
道元は、まず、その冒頭の一節において、ずばりと、
そのいわんとするところを凝縮して語りいでる。・・・

幾度もいうように、この『正法眼蔵』の巻々は、総じて、
まことに難解である。まさに難解第一の書である。だが、その
難解にめげずして、さらに幾度となく読みきたり読みさるうちに、
ふと気がついてみると、その難解さは、しばしば、その冒頭の
一段において極まるのである。何故であろうかと思いめぐらして
みると、結局するところ、そこに、いまもいうように、もっとも
凝縮された要旨がずばりと語りいだされているからである。」
(p198~199・講談社学術文庫)

はい。ここでは現代語訳は避けて
現成公案の冒頭の一段を原文で引用しておきます。

「諸法の仏法なる時節、すなわち
迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、
まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、
華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」

増谷文雄氏は、その凡例で指摘されておりました。

「かならず原文を読んでいただきたい。
朗々と吟誦すべき生命のことばは、あくまでも
原文のものであることを、わたしは声を大にして
言わねばならない。」

はい。これであなたも、
道元の『正法眼蔵』の原文に、
わずかでも触れたことになり、
わたしは、ここからスタート。

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物にはなりませんわい。

2020-08-25 | 正法眼蔵
「それは貞応2年(1223)の春のこと、
道元は、師の明全にしたがって、宋に渡った。
なお23歳のころのことであった。・・・
そのころの彼には、『この国の大師等は土瓦のごとく』
におぼえて、ひとえに、『唐土天竺の先達高僧』たちに
ひとしからんとする念がもえていた。それは、つまるところ、
ほんとうの仏教とはなにかと訊ねいたる心であって、
その一心のゆえに、万波を越えたのである。」
(p82「増谷文雄著作集⑪」)

こうして、碇泊した船に、かの地の僧が椎茸を
買いにやってくる。その僧はことし61歳だという。

「その時、道元はまだ23歳の若僧であった。その若僧が、
すでに60歳をこえる老典座に向かって、

『座尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人の話頭を看せずして、
煩わしく典座に充てて、只管に作務す。甚の好事か有る』

と詰問した。まさに、青年客気のことばである。
その詰問は恥ずかしいものと思えば思うほど、
忘れることのできないものであったに違いあるまい。
かの老典座は、呵々(かか)として笑っていった。

『外国の好人、未だ弁道を了得せず、
 未だ文字を知得せざること在り』

日本からおいでのお若いのは、まだ仏教というものが
おわかりになっていないようだ、というのである。
それを聞いた道元は・・・・心が仰天するような思いをして、
では、いったい、仏教とはどんなことでありましょうかと、
取りすがるようにして問うた。すると、かの老典座の答えは、

『もし問処を蹉過(さか)せずんば、豈(あに)その人に非ざらんや』

というのであった。蹉過というのは、躓(つまず)きころんで
通りすぎるというほどのことであろう。そこのところは、
躓きころんで自分で越えてみなければ、物にはなりませんわい、
というほどのことであったが、その時の道元には、その意味すらも、
よく合点がゆかなかったという。だがそのことばは、いつまでも、
彼の耳の底にあってとどろきつづけたにちがいない。そして、
いま彼は、それをそのまま、中国語のままにここに再現している
のである。この一節は、そのような一節であって、わたしどもが
読みなれた日本人の漢文の行文とは、
まったくその類を異にしているのである。」(p340~341・同上)

この『典座教訓』の箇所を増谷文雄氏は
あらためて、こう記しておりました。

「それは、すばらしい場面であり、また、すばらしい文章である。
わたしもまた、幾度となく読み、幾度となく味わいいたって、
いまでは、ほとんど諳んじるまでにいたっている。時におよんでは、
その幾句かを暗誦して思うことであるが、この一節のなかにみえる
道元とかかの老いたる典座との対話の部分は、おそらく、その時の
中国語による対話を、ほとんどそのままに再現したものであろうと思う。
道元がこの『典座教訓』一巻を制作したのは、嘉禎3年(1237)の春、
・・・興聖寺においてのことである。・・すでに足かけ15年の歳月が
ながれている。だが、道元にとっては、その出会いとその対話とは、
生涯わすれえぬものであったにちがいないであろう。」(p340・同上)

う~ん。躓(つまづ)くといえば、
大谷哲夫全訳注「道元『宝慶記』」(講談社学術文庫)の
「はじめに」で、大谷氏は

「道元の仏法を学びたいと思いながら、
『正法眼蔵』『永平広録』に挑戦し、
躓き、それに頓挫し、あるいはそれを諦めている人びとに、
筆者は、まずは『宝慶記』の精読をすすめたい。

それは、若き道元の熱き求道の志が、そこに展開している
からである。さらにいえば、後の、現代にいたる日本が矜持すべき、
日本人たるきわめて鮮烈な精神の原点がそこにあるからである。
日本の新しい文化の展開は、道元の飽くなき求道の志気にこそ
あるのである。
『宝慶記』は、わが高祖道元が如浄に実参実究した室中の奥書である。・・・」
(p12~13)

ちなみに、道元が会った如浄の年齢は65歳でした。

はい。すぐつまづき、読むのを忘れているのですが、
このブログへと、引用を通じて読み進めますように。


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つかれた私達の目を。

2020-08-24 | 京都
「新版 私の古寺巡礼・京都 (下)」(淡交社)。
これが古本で届く。207円+送料300円=507円。
出品者は「日々感謝」とあります。

あれ。井上章一氏が書いており読んでみる。
「法界寺」をとりあげているのですが、
脱線したように語る『庭』の考察が印象に残る。
ので、その箇所を引用。

「けっきょく、京都の寺へやってくる観光客は、
美術や建築をもとめていないのだ。・・それよりは、
美しい庭にいやされたくて、でかけているのだと思う。

じじつ、京都で観光にわく寺々は、
たいてい庭園を売り物にしている。
庭の樹々や石、そして池がおりなすたくみな空間演出で、
拝観者をあつめている。ふだんの日常生活をわすれ、
いっときなりとも庭園美に酔いしれる。たいていの人が、
京都の寺にもとめているのは、けっきょくそれだろう。
  ・・・・・・・・
その意味で、多くの観光寺院は、庭園を舞台とする
テーマパークじみたものになっている。

余談だが、そういう寺院経営でもうかっている寺を、
京都では肉の山、肉山(にくさん)とよぶ。
身入りのないところは、肉がなくて骨ばかり、
それで骨山(こつざん)と称される。・・・・・・


どうして、あそこまで庭にこだわるのか。
仏教のどこに、ああいう美しさをもとめる、
宗教的な必然性があるのか。そのことを、
いぶかしく感じるのは、私だけでもないだろう。
仮説じみたことを、あえて書く。

京都の美しい庭は、その多くが室町時代以後に、
かたちづくられた。そして、戦国時代末期から、
どんどん洗練されていくようになる。

おそらく、それらは
室町将軍家や有力大名のありかたとも、つうじあっていただろう。
殺害をつとめとする。明日は、戦場で死ぬかもしれない。
そんな武人たちを、もてなしなぐさめる。美しい庭の数々は、
そういうもとめにおうじて、いとなまれたのだろう。

仏教が、庭の美をはぐくんだのではない。
戦士たちの殺伐とした心が、美しい庭を欲望した。
そうしてできた庭園の管理に、あとから僧侶たちが
なったのだと思う。そして、その同じものが、
現代文明につかれた私達の目を、今いやしているのである。」
(p184~186)


はい。あらためて、
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年)を
本棚から取り出してみたくなる。それにしても、
殺伐とした心が、京都の庭を欲しているのだ。
そう、繰り返して、つぶやいてみる。

追記。
さてっと、ここまで書いたのを読み直していたら、
「もうひとつの『風塵抄』・司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙」
(中央公論新社)の箇所が思い浮かぶのでした。

1994(平成6)年3月24日の司馬さんからの手紙。

「それにしても朝鮮半島人の誇り高さは、
人類のなかでもめずらしいのではないでしょうか。
『朝鮮人(韓国人)は、なぜああも誇り高いのでしょう』
と、井上靖氏にきいたことがあります。
『風濤』のなかの朝鮮漢文の激越さについての話題のときです。
『誇るべき何物ももたないために誇り高いのでしょう』
おだやかなはずの井上靖氏にしては、
息をのむようなきついことばでした。

われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、
日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦、光琳をもたず、西鶴をもたず、
桂離宮をもたず、姫路城をもたず、源氏物語をもたず
法隆寺をもたず幕藩体制史をもたなかったとしたら、
われわれはオチオチ世界を歩けないでしょう。・・・

それにしても、韓国・朝鮮史の空虚さは、悲惨ですね、
六百年、朱子学の一価値しかなかったための空虚だったと思います。
個々にはすぐれた人が多いのに、いまでも、社会的な発言となると、
反日一本ヤリです。朱子学一価値時代とかわりがないように思います。
・・・・・」(p277~278)


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思考と書く習慣。

2020-08-23 | 産経新聞
産経新聞に山崎正和氏の死亡記事。
産経新聞2020年8月22日(土曜日)の一面。
「山崎正和さんが19日、悪性中皮腫のため、兵庫県内の病院で死去した。
86歳。葬儀は近親者で行った。・・産経新聞『正論』が始まった
昭和48年からの執筆メンバー。・・・」

23面に坂本英彰氏による評伝があり、
一読目が覚めるような指摘がさりげなく書かれている。
これは、引用しておかなきゃね。

「・・・
令和元年秋、高齢者の孤独死が国内外で社会問題化する現象を
どう見るかという『孤独』をテーマにした本紙のインタビューに、
山崎さんは、内科医だった弟が退職後に孤独死していたことを明かした。

『自ら望んだ1人暮らしで孤独に死ぬことがいけないことか』。
山崎さん自身、取材の2週間ほど前に妻を亡くして1人になっていた
にもかかわらず、孤独を忌む風潮に反発した。

著書『柔らかい個人主義の誕生』や『社交する人間』で、
地縁や血縁から解放された現代人の心と行動を考察。
他人に束縛されない孤独は否定的なものではなく、むしろ、
『近代社会が獲得した成果』なのだとの考えを持っていた。」

はい。以前『社交する人間』は読んだことがあったのですが、
わたしには、あとあとちっとも、印象には残りませんでした。
こちらの新聞評伝のほうが鮮やかな印象をもちます。
評伝はつづきます。さらに、引用することに。

「素地は少年期を送った旧満州にある。コスモポリタン的な
感性を身につけ、引き揚げてからも長く桜が好きではなかったという。

高校生になる前に共産党に入ったが、
京大に入るころには暴力路線に幻滅していた。
大衆の付和雷同性と同じほど、
エリートのむき出しの権力志向を嫌った。

関西大助教授だったころに、当時の佐藤栄作首相の
秘書官から声がかかり、首相の私的諮問メンバーに加わった。
学生運動の時代だ。東大の入試中止という社会に大きなショックを
与える提案をしたグループにいたことを後に、痛快な思い出として
語っている。

東京に移らず関西にとどまった。権力の中枢に触れても
どっぷりつからない、新幹線で約3時間という距離間を
気に入っていたからだ。大阪では一教員として学生と向き合い、
東京では首相官邸に迎えられるという転換も楽しんだ。
・・・司馬遼太郎や梅棹忠夫ら多くの文化人と交流した。

平成30年の文化勲章の受章に際し、
『この道一筋』ではない自身の受章は、
社会や文化、伝統の転換を象徴しているとした。
『思考すること、書くことは習慣です』とも語った。」

はい。ほぼ評伝の全文を引用してしまいました。
山崎さんの『思考すること、書くこと‥』を、ここで
伝えようとする評伝となっておりました。
「あたりさわりのないこと」は、書かれていない評伝なので、
あとあとまで印象に残りそうです。

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いうことなかれ。

2020-08-22 | 正法眼蔵
道元の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読んでみたい。
そう思って本は買えど、未読のままになっておりました。

それはそうと、講談社学術文庫に
大谷哲夫著「道元『永平広録・上堂』選」がありました。
そのはじまりは
「わが国で初めての上堂(じょうどう)が行われたのは、
嘉禎2年(1236)陰暦10月15日、道元が京都深草に建てた
観音導利興聖宝林禅寺、通称興聖寺においてであった。
・・・・・
ところで、この上堂というのは、住職が法堂の上から
修行僧たちに法を説く禅林特有の説法形式で、多くの
禅者の『語録』はこの上堂語を収録している。・・・・」

この文庫の目次をパラパラとめくっていると、
「天童和尚忌の上堂」というのがある。
「天童和尚は道元の本師、天童如浄(にょじょう)のこと」
なので、気になってそこをひらいてみる。

現代語訳を以下に引用。
「天童和尚忌、寛元4年(1246)7月17日の上堂に、
道元は次のように偈頌(げじゅ)をもって示した。

 私が宋に留学して先師如浄のもとで仏道を学んだのは、
あたかも『邯鄲(かんたん)の歩』ということわざのように、
地方から大都市の邯鄲に出て、やがて都会風の歩き方をするうちに
田舎風の歩き方を忘れるのに似ている。

私は、如浄のもとで、日本で学んだ仏法を忘れ、
水汲みや柴運びの日常茶飯の中に真実の仏法を見いだした。

それは、如浄が、修行者である私にたいして、
仏法とはこういうものだ、と欺いたのだなどと言ってはならない。
師の天童和尚こそが、私道元に欺(あざむ)かれて
真の仏法を教え示してくれたのである。」

原文は

「入唐学歩邯鄲に似たり
運水にいくばくか労し柴もまたはこぶ
いうことなかれ先師弟子を欺むく、と
天童かえって道元に欺かる。」

ここに、
「日本で学んだ仏法を忘れ、
水汲みや柴運びの日常茶飯の中に
真実の仏法を見いだした。」

うん。学者肌で中国文献に通じ、
中国会話もペラペラだった道元が
水汲みや柴運びをしているのがわかります。

嘉禎3年(1237)の春、興聖寺において記された
『典座教訓(てんぞきょうくん)』があります。
ちなみに、典座とは禅院の台所方を務める者のことです。

ここは、増谷文雄氏の文から引用。

「船は商船であった。3月の下旬に博多を出て、
4月のはじめには無事に慶元府についた。・・・・
船は積んできた商品を売りさばくために、なおしばらく
碇泊していた。その船に、5月のはじめのこと、
ひとりの僧が椎茸を買いにやってきた。それは道元にとっては、
はじめて見るかの地の僧であったかもしれない。彼はよろこんで、
かの僧を自室に招じいれ、お茶をふるまって話をした。
聞いてみると、かの僧は、そこから程遠からぬ阿育王山で
典座の職にあるということであった。
『わたしは西蜀のものであるが、郷里を出からもう40年にもなる。
ことしは61歳ですよ。その間いろいろの禅林を訪れて修行したが、
いっこうに大したこともなかった。しかるに、去年の夏安居(げあんご)
あけに本寺の典座をうけたまわった。ちょうど明日は5月5日なんだが、
なんのごちそうもない。麺汁なりとと思うけれども、椎茸がない。
それで、わざわざやって来たのは、椎茸をもとめて、
雲水どもにごちそうをしたいからですよ』・・・」

このあとに、道元が御馳走するからとひきとめようとすると、
老典座は、どうしてもわたしが司(つかさど)らねばならぬという。

「そこで若い道元は、ずばりと遠慮のない問いをこころみる。
いや、それは詰問といったほうがよいであろう。・・・
あなたはもうお年である。それなのに、なぜ坐禅弁道にも専念せず、
古人の語録を読むこともせず、わずらわしい食事係などをひたすら
に努めて、なんのよいことがあるか、というのである。
ところが、それを聞いて、かの老いたる典座は、呵々大笑して
・・・・『外国からきたお若いかた』と呼びかけて、
あなたはまだ仏教のこともご存じないとみえる、といったのである。
・・・道元はもう必死にならなければならなかった。
『如何にあらんかこれ文字、如何にあらんかこれ弁道』と、
とりすがるようにして問うた。だが、そのとき、
かの老典座がいったことばは、
『もし問処を蹉過(さか)せずんば、豈その人にあらざらんや』
・・・・蹉とはつまずくということば。そこでじっくりと取り組んで、
つまずいてみるのもおもしろい。それではじめて物になるのだ。
そんな意味のかの老典座のことばであったと思われる。・・・」
(p82~85「増谷文雄著作集⑪」角川書店)

増谷文雄著作集⑨からの、引用。典座について。

「『・・・・・禅苑清規にいわく、衆僧を供養す、
ゆえに典座ありと。いにしえより道心の師僧、
発心の高きをあてきたるの職なり』

世の常識においては、賄方(まかないかた)などという食事の
ことをつかさどるものの地位は、けっしてたかいものではない。
しかるに、禅宗においては、それは六知事の一つとして、
きわめておもい役目である。そこには、中国人の仏教の把握のしかたの、
本質の一端があらわれており、また道元がかの地で学びえたいわゆる
『仏祖正伝』の仏法のかなめが存するのである。
 ・・・・・・
 そのなかにも流派を生じた。そのあるものは、
直観に重点をおいて、道場における坐禅修行に全力を集中する
傾向をしめした。臨済のながれがそれである。
また、あるものは、生活実践に重きをおいて、行住坐臥における
綿密な作法をもってゆかんとする。曹洞のながれがそれである。
そして、道元がこの国にもたらし、この民族のなかに
移し植えたものは、その後者であった。」(p290~292)


はい。正法眼蔵を読めなかった。
こうして、つまづいた場所からなら
正法眼蔵に、ゆっくりと取り組める気がします。
はい。発想だおれにならないよう、注意します。



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カボチャに向き合う。

2020-08-21 | 京都
古本で300円だったので買ってあった
求龍堂の澤木政輝著「京の美 都の響」(2011年)は
「京都芸大百三十年の歩み」と脇に書かれています。

うん。人物を絵画写真とともに紹介しているので、
パラパラと事典でもひらくような楽しみがあります。
はい。せっかく買ってあったので紹介(笑)。

草間彌生さんの箇所が、わたしに印象に残る。

「長野県松本市の旧家に生まれた草間は、
幼いころに強迫性障害を患い、物体の周りにオーラが見えたり、
動植物の話す言葉が聞えるという幻覚・幻聴を体験しながら、
次々に浮かぶイメージを記録するようにして絵を描いてきた。
 ・・・・・・
1948(昭和23)年、19歳で美術工芸学校4年に編入学。
絵画科に籍を置いたが、伝統的な日本画教育に嫌気が差し、
毎日部屋にこもって、カボチャを描いて過ごした。
カボチャは子供のころから造形的に魅せられた素材。
この時以来現在まで、草間の重要なモチーフの一つとなっている。
草間は京都で過ごした2年間を、『カボチャに向き合う日々』と
振り返っている。

やがてニューヨークに渡り、空腹と寒さに耐えながら
制作の日々を重ねた草間は、1957(昭和34)年10月、
十番街のブラタ画廊で開いた個展で衝撃的なデビューを果たす。
巨大なキャンバスに、無限に続くモノクロームの網を描いた作品は、
爆発的な反響を巻き起こした。世界が草間を発見した瞬間である。
・・・・」(p287~288)
はい。こんなふうに紹介されてゆきます。
うん。そんな方だったのですね。知らなかった。
隣のページには南瓜1994年ベネッセアートサイト直島での、
渚にどかんとカボチャのオブジェの写真。海岸と島々と空が、
背景で彩をそえています。

なんだか御伽噺の世界が、現代に展開されてゆくような、
「ちょっとそこまで」とニューヨークへ出かけたような。
はい。300円で垣間見る、美術の世界(笑)。
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高山寺の京都発見。

2020-08-20 | 京都
阿川佐和子さんの高山寺エッセイに、
梅原猛著「京都発見」⑦(新潮社・2004年)からの
引用がありました。
うん。この本⑦は、ちょうど古本でバラで買ってあった。
ということで、梅原さんによる高山寺の文を読むことに、
15頁ほどで、ところどころ印象深い写真も載ってました。
はじまりは

「京都から丹波へ抜ける周山街道を行き、高雄の神護寺を
すこし過ぎた所に栂尾(とがのお)の高山寺がある。
高山寺は二つのことで有名である。
一つは明恵上人がいたこと、もう一つは
『鳥獣戯画』を所蔵していることである。
高山寺は明恵が長く滞在した所であり、
明恵に対する上下の信仰があつく、
かなり栄えた寺であった。しかし、
当時の面影をそのまま伝えている建物は、
場所を移して建てられた石水院のみである。」

うん。15頁に、印象的な写真と文章がつまっているのですが、
ここでは、はじまりだけを引用しておわることに(笑)。

「・・・明恵は神護寺の文覚の弟子である。
文覚は神護寺の再興を念願し後白河法皇に寄進を強要し、
法皇の怒りに触れて伊豆に流罪になる。そして源頼朝の
平家追討の旗揚げを扇動し、頼朝が天下を取るや
平重盛の孫六代をかくまい、後鳥羽上皇の意向に反対して
守貞親王すなわちのちの後高倉院を擁立しようとして二度も流罪になる。
こういう所業を繰り返す文覚は怪僧といわれても仕方がなかろう。
一方、明恵は厳しく戒律を守り、あまねく衆生に慈悲を及ぼす
清僧中の清僧といってよかろう。どうしてこの怪僧の弟子に
このような清僧が出たのであろうか。

この師弟はどこかが似ている。師弟に共通なのは
道を求める狂気の熱情といってよいかもしれない。
文覚の行状を考えれば、彼が狂気の人であることは明白である。
しかし形は違うが、明恵も狂気の人といってよい。
世俗的な楽しみをむさぼる世間の僧を嘆き悲しみ、
欲望を断ち切り仏道への志を確立するために・・・・」

「しかし、いずれも狂気の人といってよいこの師弟は
仏教についての考えがかなり違う。明恵は奈良の東大寺で
華厳学を学び華厳僧になった。・・・・
師の文覚が復興しようとした真言密教はまさに玉体安穏、
鎮護国家を祈る仏教として栄えてきた。文覚はこの真言密教が
衰え、空海の故地である神護寺が荒廃しているのを悲しんで、朝廷や
幕府の加護を得て、七堂伽藍の完備した神護寺を復興したのである。

しかし、明恵はこのような師の仏教のあり方に疑問を持った。
立派な寺院を建て生活が豊かになると、僧は必ず堕落する。
僧たる者は貧乏寺で、かつかつに生きて、
もっぱら道を求めるべきであると明恵はいう。」
(p72~76)

はい。ここまで。
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「高山寺に行きたいね」

2020-08-19 | 京都
淡交社の「新版古寺巡礼京都」全40巻の
巻頭エッセイを読んでみたいと思っておりました。
はい。「古寺巡礼京都」20巻を古本で買って
パラパラひらいていたので興味を持ちました。
けれども、写真入りのこの冊子は古本でも高いので、
なかばは、あきらめておりました。
それでも、未練があって古本検索をしてると、
全40巻の巻頭エッセイだけをまとめて、
上下巻にした本が出ているのに気づく。
うん。好評だったのですね(笑)。

その「私の古寺巡礼京都(上)」淡交社が
古本で届く。もったいない本舗からです。
318円+送料350円=668円。帯つき。
白いカバーもきれいです。

最初にひらいたのは、阿川佐和子さんのエッセイ。
そこから引用。

「初めてこの寺を訪れたのは・・・・
普段、親不孝ばかり重ねている娘が突如、
思い立って両親に申し出た。
『日帰りで京都においしいもんでも食べに行きませんか?
私がごちそうするから』すると父は即座に、
『だったらついでに高山寺に行きたいね』・・・
『お前、行ったことがあるのか』
『ないです』
『どういう寺か知ってるのか』
『そりゃ、あれでしょ。あのほら、鳥獣戯画のお寺でしょ』」

こんな調子で阿川さんのエッセイは始まっておりました。

「初めて訪れた石水院の印象は、予想していたより
ずっと質朴でこぢんまりとした建物だったが、高台にあるせいか、
すがすがしいほどの広さを感じる。南に面した幅広の縁側からは、
清滝川を挟んだ向かい側にそびえ立つ向山の雄姿を望むことができる。」

はい。適宜引用してゆきます。

「明恵はそもそも武家の出であった。
8歳の年に母親を病気で失い、同じ年、
平家方についた父が戦死する。一気に孤児となった
明恵は叔父を頼って神護寺(高山寺のご近所)に入り
16歳で仏門へ入る。その生い立ちの寂しさを克服するがために
己に厳しく生きようとしたのか、明恵の生涯は総じて
ストイックである。
『立派な寺院を建て生活が豊かになると、
僧は必ず堕落する。僧たる者は貧乏寺で、
かつかつに生きて、もっぱら道を求めるべきである‥』
(梅原猛「京都発見」七より)。
栂尾の地は、まさに明恵上人にとって
『待ってました!』の環境だったのではあるまいか。」

鹿の話もでてきます。

「『最近は山から鹿が降りてきて、茶葉をぜんぶ食べちゃうんで
困ってるんですけどね。でも高山寺は明恵上人の強いご意志で
殺生禁断の地となっておりますから、鹿を殺すことも
追い払うこともできません。鹿もそのこと知って
来ているんじゃないですかねえ』
田村執事が楽しそうに苦笑いをなさった。
大樹の間を鳥が飛び交い、澄み切った空気のなかで・・・
高らかな声を響かせる。・・・・
回を重ねごとに私はこの寺が好きになっていく。
ちょうどいい広さ、ちょうどいい静けさ。・・・飾らぬ自然。
明恵上人の心とともに、何時間でもそこらへんに
座り込んでいたい気持になる。・・・」


うん。「古寺巡礼京都」のエッセイだけのエッセンス。
「新版私の古寺巡礼京都(上)」はちなみに2010年初版。
その時の新刊価格は1800円+税でした。

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大文字がとーぼった。

2020-08-18 | 京都
大村しげ著「京都 火と水と」(冬樹社1984年)。
古本で300円。
カバーはシンプルな薄茶色。
見返し表:鞍馬の火祭り
見返し裏:上賀茂神社の境内を流れるならの小川
そこだけ写真がカラー。

うん。今年の京都の大文字は、
要所要所を5~6点で点火しただけだったようです。
それでも、大文字。

1918年の京生まれ、京育ちの大村しげさんの
大文字はと、本をひらく。

「夜空に、一点ぽーっと灯った火がするすると延びて、
やがて、筆太の大の字がくっきりと闇の中に浮かぶ。
8月16日の夜の、お精霊(しょらい)さんの送り火である。
すると、点火を今か今かと待っていた緊張が、一瞬ほぐれて、
あたりにはどっと喊声が上がる。

  とーぼった とぼった
  大文字がとーぼった

こどもころは、どこのおうちでもみんな大屋根の火の見へ上がって、
大文字を見た。火の見は物干し。・・・・・」(p132)

大村しげさんの文はつづきます。

「大文字といっしょに京の夏も往んでしもうて、
いままで張りつめていたのが、ぺしゃんとなってしまう。
わたしが夏が好きやのは、7月は祇園祭で燃えているし、
お祭りがすんでも、まだお盆がある、大文字があると、
それを目当ての毎日やった。それが、大文字もすんでしまうと、
いっぺんに支えがのうなって、暑さがよけいにこたえる。
そして、地蔵盆までの間が、わたしには、夏でもない、秋でもない、
と宙ぶらりんの気分で、やりきれないのである。
それほど大文字は、わたしにとってはびしっと夏と別れる火で、
まぶたに焼きつくほど燃えるのが、かえってさびしさをつのらせる。」

うん。今年はといえば、コロナ禍での、やりきれなさ。
祭といえば、地元の苦労は大変なのですが、
祭のない今年は、のっぺりと過ぎてゆきます。
この機会に、わたしは「正法眼蔵」に目を通すのが目標。



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ああこれか。

2020-08-17 | 古典
増谷文雄氏の「道元を見つめて」。
そこに一読忘れられない箇所があるのでした。

「・・・わたしは浄土宗の寺の生まれである。
それにもかかわらず、今日にいたるもなお
一人前の僧侶の資格をとっておらないのであるが、
そのもとを訊(ただ)せば、若いころ
いささか仏教に対して疑問を抱いていたからである。
わたしの眼前にあったものは、いろいろの矛盾を含んだ
寺院生活であった。わたしには、それに妨げられてか、
仏教の本質がどうしても掴めなかった。そのわたしにとって、
仏教とは『ああこれか』と、いささかでも理解できたとするならば、
そのことを明かしてくれたものは・・『典座教訓』であると思っている。

道元禅師が『典座教訓』を書いたのは、
嘉禎3年(1237)の春のことである。とすると、
その文中の老典座との出会い(貞応2年、1223)を去ること
足かけ15年のころのことである。・・・・・

それは道元禅師を乗せた船が慶元府(けいげんふ)に着いて、
その積み荷を売りさばくために、まだそのまま船泊まりしている
時のことであった。阿育王山(あいくおうさん)から椎茸を買いに
きたという老いたる典座をとらえて、道元禅師は会話を始めた。
 ・・・・・
典座(てんぞ)とは禅院の台所方を務める者のいいである。
道元禅師には、その典座がいい年をして、そんな仕事に
一処懸命であるのが、どうも納得できなかった。
なぜもっと坐禅をしたり、語録を読んだりしないのか。
それが若い道元禅師の詰問であった。すると対手は、
呵々(かか)大笑していった。
  ・・・・・・
外国のお若いのは、まだ仏教とは何か、お解りになっていない
ようですねということであった。その一句を、わたしもまた
忘れることができない。その一句を初めて読んだ時には、
わたしは、あたかもわが腹中を指さして語られているような
思いをしたのである。・・・・・

  ・・・・・・・・・
あの『典座教訓』の一節を読んでいると、
わたしもまたその傍らにあって、その二人の問答を
じかに聞いているような思いがする。それほど
その一節は生々と記されている。それを書いたのは、
その時からすでに15年も経ってからのことであるが、
道元禅師の心のなかには、それがいつまでも新鮮な
かたちで生きていたからにちがいあるまい。

そして、わたしもまた、その一節に接することによって、
わたし自身の仏教の本質に関する課題はようやく結晶する機会を
得たと思っているのである。それまでのわたしは、なお、いったい
仏教などを研究してどうするつもりか、どこかあやふやな気持ちも
ないではなかった。それが、この『典座教訓』との出会いによって、
どうやら、仏教の研究に専注する自分の学問の方向がかたまって
きたようである。・・・・」

うん。還暦を過ぎるようになると、出不精の私でも、
親戚の葬儀や法事に呼ばれる機会があったりします。
そんな時に、檀家の減少やら、坊さんの跡継ぎの問題やらが、
語られたり、じかに肌で感じたりできるのでした。

増谷文雄氏の文を読めば、そうした現実の世界とは別の、
仏教世界の門前に、たたずんでいるような気になります。

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