和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

行きに行き歩みに歩んで。

2020-04-30 | 詩歌
gooブログの、お仲間「きさらの詩」さん。
その2020年4月28日は「ナニワノイバラ」でした。

トトロトロトロ(笑)と片道40~50分の散歩が、
語られてます。そこの花の写真もありました。

今日。私に思い浮んだのは、またもや蕪村。
蕪村に「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」
という不思議に色あせない詩があります。
漢詩と俳句とが魅力的な調合で結びついた詩。
そんな感じなのですが、ここでは、
中村草田男訳で引用してみます。
最初に、漢字の序文があります。
そこも、草田男訳で

 私はある日昔馴染の老人を訪ねるべく
 生地(くに)へ向かった。淀川を渡り毛馬堤に沿って進んだ。
 たまたま一人の女が同じく帰省(さとがえり)しようとするの
 に会った。先になり後になりかなりの距離(みちのり)同じ
 方向であったので互いに語りあうようになった。
 容姿(すがた)はいかにも美しくこぼれるような色気が
 見る人を惹きつけた。それが忘れ難くて一種の歌曲18首を
 作った。私が仮にその女の身の上になってみて、かくもあろうか
 と思われるその女の懐(おも)いを述べてみた。
 (次の作品がそれであって)名づけて春風馬堤曲と言う。

    春風馬堤曲 十八首

私は今日藪入りの一日をもらって、大阪(なにわ)を出て
長々と道を辿り、長柄川沿いに下って参りました。

吹くのは長閑(のどか)な春風。堤はどこまでも長く
目ざす生家はまだまだ遠いのです。

ふと思ひつき堤を下りて春草を摘もうとすると、
棘の木や茨の木が路を遮っている。
棘(とげ)や茨(いばら)のくせに何を妬くのか・・・・


こうして草田男の訳で、全文引用したいのですが、
ついつい長くなるので、あとは、芹と蒲公英とが
出てくる箇所をピックアップしてみます。

大川沿いの小流には頃あいの石が点々と散っている、
その石を足場にして今度はうまく青々とした芹を手に入れた。
 ・・・・・・

さあいよいよここへ参りました。草の生えそろった中に
路は三岐(みつまた)に分かれていて、その一つが近道で、
いらっしゃいと私を迎えていてくれるかのようです。

蒲公英が花をつけていて、あちらにいくつか、こちらにいくつか、
こちらのいくつかは黄に、あちらのいくつかは白いというように、
そうです。ハッキリ覚えています。いつかもこんな時
この路を通ったのでした。

そうと気づけば急に懐しく、手早に折り取れば蒲公英の茎は
短く切れて、そこから真っ白な乳が溢れ出て参りました。


あとは、最後を原文で引用しておわります。

故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆくゆく)
楊柳長堤道漸くくだれり

矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春

君不見古人太祇が句
 藪入の寝るやひとりの親の側(そば)


はい。途中をカットした春風馬堤曲の引用は
ここまで(笑)。

今日から天気予報では暑くなりそう。
それなら蕪村の夏の句も引用します。


 行々(ゆきゆき)てここに行々(ゆきゆく)夏野かな

注】行々てーーー文選・古詩に『行々重行々、与君生別離』。
また朗詠集にこれを引用した源順の
『行々重行々、明月峡之暁色不尽』がある。

注が先になりましたが、この句の中村草田男訳は

「太陽が真上から直射し、草が眼もくらまんばかりに
照り返している夏野、行きに行き歩みに歩んで、自分の体は
今ここのこの場所まで来ている。これから先も依然として、
こういう中を行きに行き歩みに歩んでゆくばかりである。」

はい。勝手に私がフォローさせて頂いているgooブログの方は、
そういえば、表題からみても、どうも歩いて行く方が多いなあ。
ということでブログの表題の断片を引用、

京都散歩・京めぐり・散歩・三歩・フィールドノート・お出かけ日記
河童の散歩・曲がり角の向うに・山歩き・お散歩日記。
(ほかに表題とは関係なくても、お出かけしているブログが多い)。
ブログの表題を見ても何やら、うれしいことに、
「行きに行き 歩みに歩んで ゆくばかり」の健脚ぞろい。







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祖父(じいじ)の最終講義。

2020-04-29 | 道しるべ
平川祐弘氏が産経新聞(令和2年3月4日)のオピニオン欄で
芳賀徹氏への追悼文を書いており、印象に残っております。
そこには、こうある。

「・・芳賀と私はその小学4年以来、中・高・大・大学院・留学、
そして勤め先の東大教養学部も同じで、比較文化研究の
大学院を平成4年の定年まで担当した。その芳賀が2月20日、
88歳で草葉の陰に去った。・・・・・」

現在、平川祐弘氏には、『自伝』を雑誌に連載しております。
月刊Hanadaの6月号で、その連載は23回目をむかえております。
はい。23回目だけ、読んでみました(笑)。

はじまりは
「・・『神曲』読書の思い出を綴ることにしたい。」
とあります。
以下、年代順に配列しなおして、要約し引用。

1950年

「18歳のとき、私は大学の課外演習で島田謹二先生から
上田敏訳でダンテの詩数篇を習った。・・・ダンテに材をとった
ダンヌンチオの『燕の歌』や『神曲』そのものの敏訳はすばらしかった。
島田先生は地獄篇第5歌を西洋文学の時間にとりあげ、
バオロとフランチェスカの条りを熱をこめて説明された。

  姫はいふ、かなしみにありて
  楽しかりし日を思ふばかり痛ましきはなし

朗誦するごとく読まれた先生の声音がいまも耳に響く。
学友の絹村和夫が謄写版で用意したプリントの美しい
字体もなお眼底にある。

学生時代を通じなにが印象深いといって、大学にはいりたての、
いわば白紙の頭に滲(し)みこむような、立派な講義ほど
心魂(しんこん)に徹するものはない。・・・・
もっとも私のダンテ読書は地獄篇第5歌どまりで、それより
先へは足を踏み入れずにいた。・・・」(p347)

1954年

「ソルボンヌでは私が到着した1954年晩秋は
『神曲』地獄篇の1、3、5歌が題材に選ばれた。・・・・
気詰まりのなかで、友人もなく、最初の冬は孤独で、荒涼としていた。
朝起きた時パリは暗く、夕方帰る時も暗い。・・・・クリスマスになる。
学生たちは帰郷して大学都市は火が消えたようである。
自分を迎えてくれる家庭もなく、寮と学生食堂の間を往復した。
そんなはなやぎの失せた中で迎えた元旦、
『神曲』のフランス語訳の地獄篇第1歌を声に出して読んだ。
我と我自らを励ますように読んだ。

  そして、辛うじて難破から逃れて浜辺に辿りついた男が
  苦しそうに肩で息をつきながら振り向いて荒海を見るように、
  私の魂も、まだまだ逃げのびようとしていたが・・・・   」

1959年

「イタリアへ行って私がイタリア語の勉強を始めた・・」(p348)


1964年「助手になる。」

「外国に長くいた私は、人より遅れ学部卒業後11年で助手になった。
後輩が常勤講師や助教授になっている。学期試験の時、そうした人の
試験の補助監督を毎学期7回ずつさせられた。
・・・裏では悪口を言われ、表では無視された。
私がフランス文学会に出向いて発表すると、
『私は聴きませんから』とわざわざ私に御挨拶するTなどもいた。
フランス語教室で親睦旅行に行くと『助手はその隅の女中部屋に
泊れ』と部屋割りをしたのは年下のWである。しかし
大学院助手として私は精励恪勤(せいれいかくきん)した。
60歳の定年までこのままで構わない、と決めたのは
勤めて1年経ったある夕方のことで、すると気が落ち着いた・・・」

このあとに、当時平川祐弘氏から原典講義を受けた
井上隆夫氏の回顧を引用されております。
その井上氏の文も引用

「大学の語学授業も進んで来れば、当然ながら原典購読
・・・本当の原書を手にしたのは、平川先生の授業で、
イタリアの国民的作家マンゾーニの『いいなづけ』の購読授業
を受けた時でした。・・・こちらはイタリア語の初歩を終えたばかり。
・・この出来の悪い学生に、先生は苛立ちもせず懇切に説明をして
下さる。

  この再帰代名詞siの使い方は『自分を』という意味ではなく、 
  むしろ本来の用法から発展して主語的に用いられるように
  なったもの。『人は』という意味に解釈した方がよい

などと細かい文法説明がある。それで意味がすっと呑み込める。
さらに圧巻は、文章解釈のために
英語訳をはじめドイツ語訳、フランス語訳など
複数の外国語訳を用意して、日本語訳(これは学生も買ってもっている)
と比較を行なってくれたことで、それを聞くと
手持ちの日本語訳のひどさが浮き彫りになってしまう。
平川先生の授業で、翻訳には広い素養が必要なのだということを
実感した。」(p357)

これを受けて平川氏の文がつづきます。

「廉価なRizzoliの文庫本を私は揃えておいて
東大や東外大の授業にも用いた。マンゾーニは
仏訳本で一度駒場で、
英訳本で一度東京女子大の牟礼キャンパスで教えた。

井上学生は・・・辞書を片手に読み始めた時の昂揚感と
幸福感は、50年後の今でもはっきりと覚えているという。

私もまた外国語の文法を教えて幸福だった。
『いいなづけ』は20余年間、教室で教えて全38章を訳し終えた。
カトリックの国の学者は大学卒業後、自己にふさわしい職に
就くまでの中途半端な期間を煉獄と呼ぶ。・・・・・」(~p358)

1968年

「春に東大医学部で発火し、たちまち全学、
いや全国にひろがった大学紛争・・・

当時の過激派学生は口実を設けて
学生大会でストライキを一たび可決させるや、
後はもはや民主主義的手続きを尊重しない。

『もうやめよう』という気運が一般学生の間で盛り上がっても、
その時は学生大会を開かない、開いても真夜中過ぎまで
会議を引き延ばせば普通の学生は帰宅してしまう。
スト中止は可決させない。だから無期限ストの様相を呈する。

・・・・新聞は第一面では学生の暴力行為を戒め、
社会面では『純粋な青年の行動』を讃える。
そんな煽動に乗る者は、学生にも助手にも教師にもいる。

ストライキに反対で下北沢に一室を借りた連中に、
私は『神曲』を英訳でずっと教えた。
初めのうちは毎週土曜日の午後、切符を買って通ったが、
紛争が終わらない。しまいに回数券を買った。

・・・・警察力の及ばない学内で、
一般学生が暴力学生に立ち向かえるはずはない。
1968年の12月に研究室は過激派学生に占拠された。
助手の私はストライキに同調しない大学院生を連れて
八王子のセミナーハウスへ泊りに行った。」

はい。雑誌6月号の、連載23回目のしめくくりを、平川氏は
「1969年の年賀状に私は天国篇第13歌の一節を印刷して送った。」
として、年賀状の文面を引用しておりました。
うん。引用しておきます(笑)。


  良し悪しを言うにせよ是非を論ずるにせよ
  細かい判断もなしに肯定否定を行なう者は
  愚か者の中でも下の下たる者だ。

  だから、はやまった意見はとかく
  狂った方角へ曲がりこむ。
  その上、情が知にからむ。

  真理を漁ってそれを取る技を心得ぬ者は、
  来た時と同様手ぶらで帰るわけにはゆかぬというので
  むやみと岸を離れたがるが、それが危険なのだ。


さてっと、昨日の産経新聞「正論」欄での平川祐弘氏の
「コロナ禍の災い転じて読書の福」と題する文のなかに

平川氏の奥様・依子さんが登場します。
孫娘に語る場面でのセリフがひとこと。
その箇所を引用。

「スマホのゲームに溺れないかと心配する家内は
『祖父(じいじ)の本でも読めば』と言う。
だが帰国子女は米国の高校の宿題に追われ、
馬耳東風、私の著作集など見向きもしない。」

はい。見向きもされない、祖父(じいじ)の本。
それを、ちょこっとですが紹介できました(笑)。



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祖父(じいじ)の本でも読めば。

2020-04-28 | 産経新聞
文化人放送局の「加藤&阿比留のなんだかなぁ」では、
いつも最初に、阿比留さんが産経新聞の購読お願いを
しています。もう少し楽しそうに営業すればなあ
と毎回思ってニコニコしながら見ている私がいます。

うん。今日4月28日の産経新聞は読み甲斐があります。
なんせ、読書に関する話題で、私の興味をひきました。

一面の産経抄コラムでは、
橋本治著「大不況には本を読む」を引用して

「不況になると、人が以前より
本を読むようになる理由を2つ挙げる。
1つは不景気になると暇になる。確かに読書は、
時間あたりの単価が安くつく娯楽といえる。
もう1つは、不況が収束したらどうすればいいのか、
多くの人が考えるようになるからだ。」

こうして、コラムの最後も引用しておきます。

「今回のコロナ禍にも、そのままあてはまる。
ウイルスの感染はいつかは収束する。
その後の日本と世界はどうなっているだろう。

人の働き方から国の統治のあり方まで、
大きく変わらざるを得なくなる。そのなかで、
どのように生きていくべきなのか。
道しるべを求めて、やはり
『コロナ禍にも本を読む』しかない。」

それに呼応するような文が、載るのが産経新聞。
今日のオピニオン『正論』欄は、平川祐弘氏の文。
題して『コロナ禍の災い転じて読書の福』でした。

はい。引用しなきゃね(笑)。
テキサスにいた孫娘さんが、飛行機が飛ばなくなる前に
帰国していたことから書きはじめております。

「コロナ報道で気が滅入ると、チャンネルを変える。
だがスポーツ番組は前に見たものと同じだ。
テレビは消す。では何をするか。

隔離下は読書にかぎる。少年のころ対米英戦の空襲下、
光が漏れぬよう電灯を遮蔽し、英語教科書を朗読した。すると父が
『昔、ロンドンの下宿で隣の少年の声を聞いた時のようだ』と言った。
戦時下でも英語は一生懸命勉強した。」

具体的な読書計画も入れておられます。

「今度のコロナ禍も、これを機に
日本人の読書習慣を復活させ、持久戦を生き抜きたい。
オンライン授業が無理なら『坊っちゃん』『風と共に去りぬ』
『レ・ミゼラブル』等を読ませる。感想を送らせ、先生は自宅で採点する。

近代史の自習には『福翁自伝』や『坂の上の雲』を読ませる。
コロナ禍の災い転じて読書の福としたい。」

「ただ図書館は閉鎖だ。・・・・・
漱石全集や鴎外全集を読み通すなら、
文学部卒業以上の実力がつく。」


「狭い室内で子供が騒ぐと面倒だ。読書を課すがいい。
スマホのゲームに溺れないかと心配する家内は
『祖父(じいじ)の本でも読めば』と言う。
だが帰国子女は米国の高校の宿題に追われ、馬耳東風、
私の著作集など見向きもしない。」

このあとが、やっと平川祐弘氏の読書指南の本題となります。
二冊。まずは昨年中公文庫再刊の今村均著「幽集回顧録」をあげ
ております。うん。ここではカットして二冊目だけを引用します。

「日本は・・・みな英語の発信が不得手である。
例外は上皇后陛下である。美智子さまは海外で知られない
日本近代詩を英訳し、そのご朗読DVD付き詩集、
『降りつむ』(毎日新聞出版)を出された。
題は永瀬清子の詩で、

 かなしみの国に雪が降りつむ
 失いつくしたものの上に雪が降りつむ
 その山河の上に
 そのうすきシャツの上に
 そのみなし子のみだれた頭髪の上に

これは今村が描くものとは別の国破れた光景で、
戦災孤児は降る雪にふるえている。
陛下の朗読を日英両語で拝聴し、
深い強いお声は詩人の声と驚きつつ感得した。
日本語と英語を通して、悲しみを糧(かて)として
生きた昭和20年代の日本人の感情が立体的に蘇(よみがえ)る。

このご本も意外な光を敗戦後の日本に当てる。
孫にはその気持ちがまだわからない。
だが当時を生きた者にはわかる。そして私は思う。

ウイルスと苦戦する令和の日本もまた
『地に強い草の葉の冬を越すごとく』このさき生きるであろう。

『その下からやがてよき春の立ちあがれと雪が降りつむ』。

Snow falls-Ah,  with what merciless mercy.
On this country of sorrow.

『 非情のやさしさをもって雪が降りつむ
  かなしみの国に雪が降りつむ  』

翻訳は外国語から母国語にするものと私は確信していた。
しかしこの英訳の世界には訳者の解釈に独特な力があり、
原詩が意外な光を浴びて英詩として輝き、
新しい命を帯びている。尊いことである。」


はい。今朝さっそく朗読DVD付き詩集『降りつむ』を
古本で注文しました(笑)。本は読まなくとも朗読なら、
今すぐにでも聴きたい。と思いました。
そして、今村均の文庫。これも古本で注文。

漱石全集や鴎外全集は読めないけれど、そして
「風と共に去りぬ」「レ・ミゼラブル」は読まない私ですが、
朗読のDVDと、陸軍大将・今村均の戦後を読んでみたい。

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マスク・若水・菖蒲・鯉のぼり。

2020-04-27 | 短文紹介
今月。読売新聞も購読してます(笑)。
うん。明るい言葉はないものか。

読売新聞の月曜日は、読売歌壇・読売俳壇。
読売歌壇のはじまりの選者は小池光氏。
その最初の一首は、

 手に入れたマスク一箱神棚に
       供へて思わず柏手をうつ
          あきる野市 大西国子

その選評はこうでした。

「マスクがない、ない。
やっとの思いで入手できたその一箱、
思わず神棚に供えて柏手(かしわで)をうつ。
なかなかここまでする人は少ないだろうが、
よくわかる心境である。」

読売歌壇といえば、私は岡野弘彦氏の名前が思い浮かびます。
そして、岡野氏といえば、忘れてばかりのわたしが思い出すのは、
「新年の若水を汲み」の記事でした。

「私の生まれは三重県の雲出川の上流で、昔ふうにいえば伊勢、大和、伊賀の三国が接するところの神社です。歌の道を選んでいなければ、35代目の神主でした。・・五歳のときには、父にいわれ、新年の若水を汲(く)みました。そのとき、氷の張る川に向かって唱える歌があります。

  今朝(けさ)汲む水は 
  福汲む水汲む宝汲む命永くの水汲むかな

最初に覚えた歌は、これでした。」(夕刊1998年9月17日)

さてっと、新年からはだいぶたちましたが、
もうすぐ、五月ですね。
菖蒲の節句が思い浮かびます。

そういえばと、200円で買ったまま開かなかった古本
中川久公著「宮司が語る京都の魅力」(PHP研究所)が
あったことが思い浮かぶ。
そこから「端午の節供」を引用しておわります。

「『端午(たんご)の節供』といえば、男児のお祭りとして、
武者人形や鯉のぼりを思い浮かべる方も多いことでしょう。
この行事にも、さまざまな習俗が見られます。

端午の節供とは、五月五日に行う節供です。
江戸幕府が定めた五節供のひとつで、
『菖蒲(しょうぶ)の節供(せっく)』とも呼ばれます。

『端』は初めという意味で、
古くは五月初めの午の日を『端午』といいました。
『続日本紀』によりますと、
この日には競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)を行い、
宮中では菖蒲蔓(しょうぶかずら)を身につける儀式が
執り行われていました。

古代の人々は、菖蒲に殺菌効果があることを
経験から学んでおり、そのことから
菖蒲で邪気を祓う信仰が生まれました。

このような儀式は、鎌倉時代に宮中においては
次第に衰えていきましたが、それとは逆に
民間では盛んになっていきました。
 ・・・・・・・・・

また、この日に柏餅を食べたり、
菖蒲湯に入ったりするのは、
比較的古い時代からの風習と思われます。
中国では、この日に、薬草を摘む風習や、
ヨモギで作った人形を戸口にかけて
邪気を祓う風習があります。

日本でも『養老令(ようろうりょう)』に、
五月五日を節日にするとあり、早くから同じような
風習を行っていたと思われます。

鯉のぼりは非常に面白い飾り物ですが、
これは吹流しから変化したものと考えられます。
鯉は非常に長命な魚で、生命力も強く、

中国の『後漢書(ごかんじょ)』李膺伝(りようでん)の
故事によると、黄河中流の急流にある竜門を登った
鯉は竜になるといわれていました。
竜門という困難を唯一突破できる魚を縁起物として、
男児の立身出世を願って生まれた飾り物だと思われます。」
(p73~75)
はい。このページには菖蒲が咲いている写真と
鯉のぼりが風になびいている写真とがありました。


そういえば、GOOブログのなかでも、
散歩の途中で見かけた鯉のぼりの写真が載っていたり、
鯉のぼりのスケッチがあったりしています。

今日のGOOブログでは、ちょうど
「飲兵衛の酔写アルバムPartⅡ」に
「鯉のぼり(泳いでいます川の中)」と題して
写真が載っており、印象的なのです。


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花いばら。

2020-04-26 | 詩歌
与謝蕪村の俳句をパラパラとめくっていると、
花が時々登場しておりますが、それがどんな花なのか、
私にはさっぱりわからないのでした。

たとえば、有名な

  菜の花や月は東に日は西に

とあれば、「菜の花」なので、間違える心配なし。
それでも、

  花いばら故郷の路に似たる哉

  愁ひつつ岡にのぼれば花いばら

何て出てくると、「花いばら」とは
どのような花なんだろうと、映像が結ばない私です。
季題の花いばらは、
「茨の花。枳殻(からたち)ではなく、野茨のことであって、
白色の五弁花をつけ芳香に富む。」とありますが、
さてっと、どんな花なのか? さっぱりです。

このGOOブログに「ひげ爺さんのお散歩日記ー3
日々新た、今日は今日、明日は明日の風がふく」の
4月25日に「ナニワイバラ(難波薔薇/浪花茨)」とあり、
その写真が掲載されておりました。
そのブログによれば
「1輪7~8cm… これが原種だそうですから信じられないほど大きなバラです。
写真を撮っていると、ほのかに良い香りがしてきます。
蔓には鋭い棘があり、蔓は長く伸びれば10メートルにもなるそうです。」
とあります。

うん。蕪村の「花いばら」と同じかどうかは
私にはわからないけど、これだと俳句から映像が浮かびます。
ありがたい。



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夏河を越すうれしさよ。

2020-04-26 | 詩歌
産経新聞は1カ月3034円。昨日集金に来られました。
古本・中村草田男全集(全19巻)はそのうち3冊欠の
16巻を、送料共で3030円で購入したばかり。

新聞を、見出しと一面コラムとテレビ欄を見るように、
この全集も、各冊の巻末解説と月報とを読めればいい。
私はそれで満腹。はい満足。

さてっと、たのしい話。
いまの報道では、楽しみを語ると、不謹慎と写る。
では当ブログは、あえて楽しみを、取りあげます。

中村草田男著「蕪村集」は、蕪村の句の解説。
そこから引用。

 夏河を越すうれしさよ手に草履

この句を、草田男はどう解説しているのか。
その途中から引用してゆきます。

「蕪村は宝暦4年ごろ丹波に遊んだが、そのまま同7年まで
いわゆる与謝の地に滞留してしまった。この地の明媚な風光が
彼をいかに魅了したかは、帰洛後谷口姓を与謝姓に改めた
ことからも知られる。この3年間、彼は美景の中に悠遊しつつ、主に
画技の研鑽に努めたのであるが、一方俳諧の同好の士をも多く得て、
それとの交遊をも楽しんだのである。

この句には
【白道上人のかりのやどりたまひける草屋を訪ひはべりて
 日くるるまでものがたりして・・・云々】の言葉があって、その続きに、
【前に細川のありて潺湲(せんかん)と流れければ】という前書を付けて
誌されているものである。つまり、白道上人の草庵へ訪い寄った時の
実経験がそのまま句作の動機となっているわけである。

 ・・・・・・・・

この句は写生句らしい直接さを比較的のがすことが
なくてすんだまれな例として珍重する足る。
しかし、もしこの句に前書がなかったならば、
我々は主人公として一人の少年の姿のみを想像するに相違ない。

私はしばしば蕪村における『青春』を問題にしてきたが・・・・・
むしろ我々が終生『思い出』の中に老いざる姿として保持し続ける
『少年時代』という意味に近い性質のものである。・・・・」

ちなみに、前書きの中の、
潺湲(せんかん)とは、水が流れる音のこと。

うん。私の手元には中村草田男全集がありました。
中村草田男全集の第7巻は、「芭蕉・蕪村」。
その巻末解説・井本農一氏。そこから引用。

「・・『蕪村集』は、元来昭和18年10月5日に・・・
小学館から刊行された書・・・中村草田男は当時43歳で、
旧制成蹊高等学校の教授であった・・・・
中村草田男としても国文学関係の著者の一冊ぐらいは持ちたい
ところであったかと推察される。なおまた俳壇においては、
有名な新興俳句に対する当局の弾圧が昭和15年2月以来顕在化し、
草田男に対しても反伝統的であるという非難や警告が陰に陽に
発せられ、自由な作家的活動が制約された状況でもあった。・・・・・

草田男は四百字詰原稿用紙600枚に近いこの書の原稿執筆に、
かなりの精魂を傾けたと察せられる。
この種の原稿を書き慣れない草田男が、
戦時下の校務の傍らに執筆したのであるから、
相当の日時を要したであろうことも察するに余りがある。

それはまたこの書の内容が充実していて、
博引旁証のいわゆる国文学的方法でないとしても、
作家としての草田男の文学的能力が
十分に発揮されていることによっても解る。
この書がいかに充実しており、作家としての
草田男の能力がいかに発揮されているか・・・・」
(p477~478)

はい。2020年4月26日(日曜日)に家で、
蕪村の句を、あらためて読むうれしさよ。

    夏河を越すうれしさよ手に草履
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荻窪の『デカメロン』。

2020-04-25 | 古典
はい。今朝起きたて、本棚から取り出したのは、
ボッカッチョ『デカメロン』(河出書房新社・平川祐弘訳)。

はい。いつかは読もうと古本で買ってあった一冊。
はい。読まずにしまってあった厚さ4.5㎝の単行本。
2014年に、古書ワルツから購入し、そのままでした。
うん。今が読み頃と、
「第一日」をひらく。そのはじまりは
「『デカメロン』すなわち『十日物語』が始まる。・・・・」

うん。はじまりだけを引用します(笑)。

「しとやかな皆さま、つらつら思いますに、
皆さまがた女性は天性たいへん感じやすくていらっしゃいます。
それだけに本書のこの出だしの部分は皆さまに重苦しい不快な
印象を与えるのではないかと懸念されてなりません。

それと申しますのも、事もあろうに、
ペストの思い出が本書の冒頭に現われるからでございます。
ペストは今でこそ過去のものとなりましたが、しかしそれを
目撃した人、見聞きした人には、痛切な思いを残しました。
一人残らず心の傷を負いました。しかし(そのお話をしますために)
皆さまが恐怖に怯えて『これ以上先はもう読みたくない』
などと言い出されては大変でございます。

それにこの『デカメロン』は先へ読み進んでいただければ
おわかりになりますが、読者の皆さまが悲嘆にくれるという
ような書物ではけっしてございません。・・・」


はい。こうして『第一日まえがき』は、はじまってゆきます。
うん。私はここまで。
あとは、本文を飛ばして、本の最後をひらき
訳者による解説を読みだす。
解説だけでも、p708~p769と、読みでがある。
うん。解説の最後の「結びにかえて」を引用することに、

「一切の教職を去った私に2007年、
荻窪の読売文化センターから講義の依頼があった。
私は話すように書く人でなく書くように話す人なので、
・・講演の場合はいつもあらかじめ書いて準備する。
荻窪でもそのように講義し、できれば結果を・・まとめようと心がけた。
第二第四土曜日の午後の講義であった・・

・・30代の末に読みかけて、そのまま放置しておいた
『デカメロン』だったが、75歳の時、翻訳の話が舞い戻った。
・・・半世紀前にイタリアで幸深い青春を過ごした一日本人として、
自分で自分に課した使命の一端ををいま晩年に果たすことができ、
運命に感謝せずにはいられない。

・・・・老来の私は気分が高まった時、その気分を鎮めるためにも
『デカメロン』を訳したりもした。私よりひとまわりも年若い友人で
学会長などを務めた者が、天分に恵まれながら真に後世に残すに
足る業績も残さぬまま養老院へはいってしまった。
それを聞いた時は、なんということであろうか、と思い、
第十日の物語を訳し続けた。・・・・」


はい。私はもうお腹がいっぱいです。そうそう、
思い出しました。以前、ここまで読んで、本の厚みに怖気づいて
『デカメロン』を本棚に戻したのでした。




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手を洗う、芥川龍之介。

2020-04-24 | 詩歌
芥川龍之介といえば、
私の中学の国語教科書(?)に、トロッコという作品が
載っていたような気がします。いまは、どうなんでしょう?

はい。私はといえば、小中学生の頃から、
文といえば、4~5頁以上は読めませんでした。
したがって、短編の芥川龍之介という印象があります(笑)。

さてっと、最近の本のパラパラ読みをしていたら、
ちらりと、なにげに芥川龍之介が顔を出すのです。

たとえば、徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」
のはじまりに、登場しておりました。

「芥川龍之介の遺稿『歯車』は、一人の自殺せんとする
人間の絶望が読む者の胸を惻々(そくそく)と搏(う)つ作品である。
こちらの気が滅入っているときなど、深夜に一人ではとうてい
読み切れない。『暗夜行路』を開いた芥川が
『どのくらい僕の阿呆だったか』を感じて落涙するところなどは、
あわれというよりもおろかなりである。

それが芥川を慰めることになるかどうかは知らないが、
私はせめてもの回向(えこう)と思い、自分の本棚では
芥川全集を志賀直哉全集の隣に置いている。・・・」

はい。これは「『索引』のない社会」のはじまりの箇所でした。
次に、中村草田男の「俳人としての芥川龍之介」を読みました。

こちらは、自分を律するような潔さでもって、芥川の俳句と
切り結んでゆく読後感があります。これは要約できないので、
その最後を引用して、私は満足(笑)。

「最後に、彼の作品中、私の最も愛好する二句を挙げれば

 元日や手を洗ひをる夕ごころ

    自嘲
 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

前者の優秀な所以は、わざわざ説明するまでもないであろう。
『夕ごころ』というような説明的な言葉が、この句の場合に
限って、いささかも邪魔にならない。・・・・・・・・」
(中村草田男「魚食ふ、飯食ふ」みすず書房・p276~299)

はい。元日や手を洗ひをる芥川龍之介。
ウイルスや、元日とはいわず手を洗ひ。
神棚へ、「祓いたまえ、清めたまえ」。




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牡丹(ぼたん)と、全集。

2020-04-23 | 詩歌
gooブログ内に『京都園芸倶楽部のブログ』があり、
4月21日・4月12日と本満寺のボタン(牡丹の花)の写真が
載っているのでした。

そういえば、と本棚から
中村草田男著「蕪村集」(大修館書店)を取り出す。
この本は、蕪村の句に、草田男氏が解説をしている。
たのしい本でした。

蕪村に牡丹の句があります。
その句を解説した草田男さんの文に
『牡丹は『気』の横溢した花である。』とあります。

うん。はじめからいきましょう(笑)。
まずは、蕪村の句から、

『 牡丹切(きつ)て気の衰ひしゆふべ哉(かな) 』

これを草田男氏は訳すのでした。

「自ら丹精をこめて咲かせた牡丹である。
このまま庭に置こうか、切って部屋の中に移して身辺に飾ろうか、
切るとなれば花弁のゆるまない今のうちでなければならないーー
かく迷ったあげくにある夕べついに決心して切りとった。

さて切りとってみると、何日来かの思案が解決したので安堵もするし、
同時に、花を失ってしまった庭の株を見るとむざんなことをしたような
気もするし、あれこれで何だか一種気抜けがしたように覚える。

主人公がいかにも牡丹を熱愛しており、
切る切らないを重大関心事としている様子があらわされている。

牡丹は『気』の横溢した花である。
それを木から切ってしまえば、美しさに変化はなくとも
『気』の力の大半は失われる。そのことが主人公の心理にも影響している。

一事を解決した後の安堵と気の弱りである。・・・」(p142~143)


はい。中村草田男全集の古本が届きました。
大学の図書館の廃棄本とあったので、まず月報はないものと
思っておりましたが、ちゃんと月報も本に挟まってありました。
布張りの白の表紙も、おもったより綺麗で、背表紙のラベルも
きれいに取ってありました。むろん函はなし。
大学の図書室に、中村草田男全集を置かれた方がいて、
大学の図書館から、中村草田男全集を廃棄された方がいる。
ページもめくられなかったような、そんな全集が手にはいる。

大学図書館の白布張り全集に触れもせで、
かなしからずや、本を説く君。

というような雑念が思い浮かびます(笑)。
ヨ~シ。白布張り古本全集を読みながら、
私は、読み跡をつけてゆくのだ。

そう。毎回古本が届くと思います。うん。
『棒ほど願えば、針ほどかなう』で行きます。



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「索引」の夜明け。

2020-04-22 | 前書・後書。
中国のネット上では、自国に不利な情報を流せば、
すぐにでも、削除されるという情報があります。

はい。それが、検閲社会ならば、
じゃ、日本は、検索社会である。
として、いいのじゃないか。索引ができる社会へと
向かっているのじゃないか。

こう思ったのは
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和社会」(文藝春秋・1991年)
のまえがきを、読んだからでした。

この本の題名は、編集者が考えたものですから、
あんまり、題名は気にしなくてもよいのでした(笑)。

本文は、昭和48年~平成3年まで、おもに雑誌への掲載文が
まとめられておりました。そのなかには
「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文もあります。
この本の「あとがき」で、徳岡氏は

「視聴者(新聞の場合は読者)が判断を下せばよい。
 それが出来ないほど大衆はバカではない。」

と記しておりました。この本の「まえがき」は4頁ほどの文です。
題して「『索引』のない社会」としてあります。
まえがきも、雑誌に掲載された文で
昭和55年7月号『諸君!』に「『索引』なき社会」として
載った文なのでした。

うん。この「まえがき」から引用したいのですが、
どこから引用すればよいのか?
いちばん最後の三行を引用してみます。

「幸か不幸か、この国は『索引なき社会』だ。
時に応じ機に乗じ、だれでも無責任な説をなし、
世に好まれるものを書きとばすことが可能だ。
流行すたれば、世間は都合よく忘れてくれる。
・・・・(1980年5月記)」

はい。40年前のこの国は、こうだったのです。
これが印象鮮やかなのは、40年後の現在の
ネット社会と、つい比べたくなるからです。

はい。そんなことを思いながら、
では、40年前の「この国」を引用してゆきます。

「・・索引のない本は、内容を覚えていないかぎり、
簡単には役に立たないからである。
ジョン・トーランドのThe Rising Sunは
2・26事件から終戦までの日本を書いた面白い本だが、
私も翻訳に参加した訳書には索引がなく、
原著には23ページも索引がついているので、そのほうを重宝している。
ほとんどの翻訳物が同断で、邦訳にだけ索引がない。

一般に横文字の本は、詩か小説か随筆でないかぎり索引がついている。
ついていなければ、まともな本として信用されないからである。
必ずしも研究の用でなく、読んだだけで楽しい本でも、たとえば
ドーバー・ウィルソンのWhat Happens ㏌ Hamlet には
綿密な索引と引用索引がついている。」

はい。まだまだ、引用を続けさせてください(笑)。

「現代日本文学全集(筑摩版)は、正字・旧仮名遣いの貴重な全集だが、
その別巻1『現代日本文学史』は中村光夫、臼井吉見、平野謙各氏が
それぞれ明治、大正、昭和を分担執筆した好著でありながら、
人名、事項いっさい索引がない。不便このうえない。
野口武彦『谷崎潤一郎論』、中村光夫『永井荷風論』、同『漱石と白鳥』
本多秋五『「白樺」派の文学』・・・・・どれ一つ索引がない。
これらの本すべて、非常に役に立ちにくい、
一度読んだあと、必要なときに必要なページが
開けるほど読者の記憶力はよくないからだ。」

このあとが、新聞への言及となるのでした。

「新聞記者の書いたものになると、この傾向はさらに顕著になる。
大新聞の特派員が在任中の見聞を書き溜めて一冊にした本など、
索引はおろか参考文献一覧もインタビュー対象者一覧も欠く。
私が書いたものを含め、すべてから実に薄っぺらな印象を受ける。

それだけならまだいい。20年前のソ連、10年前の中国を書いた
特派員報告書に至っては噴飯ものが珍しくない。本だけならともかく、
表芸の新聞記事がそうで、林彪の失脚は自由主義諸国の故意のデマだとか、
中国航空のスチュワーデスはやさしくて、その態度を見ただけで安全がわかる
(私なら機長の態度のほうを見るところだ)等々と書いたのに、
いまだに中国通で通っている人がいる。

現に北京からしきりに『近代化』を報じている特派員の中にも、
毛沢東が死んだとき・・・・・・・・・・・と書いた人がいる。
それらは読者の健忘症をたのみつつ時に応じて
カメレオンのように変身していこうという、新聞記者のツラ汚しである。

学者の中にもカメレオンがいる・・・・・・・・・
そんな世論指導者に操られる日本民衆が気の毒だ。

それらはすべて索引が完備していて、
それが累積していく制度さえあれば、こわくて書けない文章である。
索引がないから、日本の学者やジャーナリストは、
世の流れに浮かぶうたかたのような説を立て、
そのくせ枕を高くして眠ることができる。

索引のない物ばかり読んでいるから、
日本人の思考もいつのまにか非索引的になっていく。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
こうして見てくると、日本人の論理活動の
大部分は、書きとばし、読みとばしであるとわかる。」

うん。まだあるのですが、
4頁の全文を引用してしまいそうなので、ここまで。

こうして引用していると、
この文の40年後。ネット社会に突入した現代は
「日本人の論理活動」にドエライ刺激を与えている
ということになるのだと結論づけてもよいのでしょうか。





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本を待つ時間。

2020-04-21 | 本棚並べ
芳賀徹著「きのふの空」(中央公論美術出版)に
大学新聞に寄稿した2頁の文(昭和59年4月)がありました。
そこに中村草田男の本を推薦しております。

「・・中村草田男の作品が好きで、
草田男の本はひそかに皆読んでしまっているというような、
そんな、すがたのいい学生にめぐりあってみたいものである。
草田男は昨年夏、82歳で亡くなったが、彼こそ
現代日本が世界に誇りうる詩的天才の一人であった。」
(p68~69)

紹介文はこの後に、草田男の単行本4冊を列挙してる。
うん。あらためて、その4冊を、ネット検索をしていると、
草田男には全集があることに、はじめて気づかされる。

さらに、検索していると、日本の古本屋さんに、
「東洋学園大学の廃棄本」として、全集19巻のうち16冊ですが、
16冊で2030円とある。2030円+送料1000円=3030円。
一冊につき、189円ほどです。うん。しばし躊躇して(笑)、
注文することにしました。

後は、本が届くのを待つばかり。
古本屋は、光書房(神奈川県藤沢市藤沢)。本の説明には
「廃棄証明書付、天に印有、見返しにシール貼付け」
さてっと、古本が届くまでの時間。
この時間を楽しみます。

司馬遼太郎著「昭和という『国家』」(NHK出版)で
こんな箇所がありました。

「私が『坂の上の雲』という小説を書こうとした動機は、
もうちょっと自分で明治を知りたいということでした。
動機のうちの、いくつかのひとつに、やはりみなさん
ご存じの中村草田男(1901~83)の俳句がありました。

  『降る雪や明治は遠くなりにけり』
草田男は明治34年の生まれでした。松山の人であります。
大学生であることを30歳ぐらいまで続けていた暢気な人でした。
・・・・・」(p162~163)

この「暢気な人」からの連想は
中村弓子著「わが父草田男」(みすず書房)でした。

「父親の死後、一家を支えるべき長男であるのに
神経衰弱で休学などして愚図々々している父(草田男)のことを
日ごろから徹底的に蔑視していたある親戚が、ある機会に
父に向かって『お前は腐った男だ』と思いきり罵倒した。
父はそのとき『俺はたしかに腐った男かもしれん。だが、
そう出ん男なのだぞ』と内心思い、受けた侮辱とそれに
対抗する自負心の双方を、訓読みと音読みで表わす
『草田男』の名を俳号としたのである。・・・・・・
句帳の中の『草田男』の俳号の現われる位置から推測して、
昭和3年の前半のことであろうと思われる。・・・」(p74)

こうして、本が届くのを
待っている時間の楽しみ。

それにしても、芳賀徹氏は、中村草田男を
「現代日本が世界に誇りうる詩的天才の一人であった。」
と言い切るのですからね。
その詩的天才が3030円で読める。
光書房と、それから東洋学園大学とに感謝しなきゃ。

そして、「そんな、すがたのいい学生」と
いつの日か、楽しい会話をしてみたい(笑)。


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とはいえ。

2020-04-20 | 産経新聞
産経新聞の産経抄(4月18日)。
一読忘れられず、引用しておきます。


「中国・武漢市当局は17日、新型コロナウイルス感染
による死者と感染者数を訂正・・・・・

とはいえ、中国当局の出す数字は、誰もが眉唾もの
だと分かっている。今回の訂正も、果たして実態を
表しているかは判然としない。

南京事件の犠牲者は35万人などと、
荒唐無稽なことを平然と主張する国の
データを真に受けられる道理がない。」

はい。このあとに国連の専門機関、
世界保健機構(WHO)のトップを務める
テドロス事務局長を取り上げておりました。
ここでは、コラムの最後の箇所を引用しておきます。

「テドロス氏はこれまで中国のコロナ対策を称賛し、
武漢市から各国が自国民を退避させた措置に
『過剰反応だ』と懸念を示した。

WHOが緊急事態宣言を出した後の2月3日にも『(中国への)
渡航や貿易を不必要に妨げる措置は必要ない』と訴えている。
中国経済への配慮としか思えない。

『日本人より国連の方が信用できる』。
十数年前、ある大物政治家が力説するのを聞いた。
自国を信じず、国際機関を信仰するような戦後の病は、
やはり克服する必要がある。」

はい。産経新聞といえば、昨日の日曜日は
連載「新聞に喝!」があり、4月19日は酒井信彦氏でした。
めずらしく、新聞じゃなくてテレビを取り上げておりました。

「・・テレビには、コロナウイルス問題に関して
実に大量の情報が流されている。ワイドショーには
いわゆるタレントも出演して勝手な感想をしゃべっているが、
医学の専門家でも異なった見解があるのだから、
タレントの存在は全く無用というより有害であろう。」

そして顕著になった、テレビのニュース報道の劣化を
書いておられます。

「用意された原稿を読み上げて事実関係を伝える
ニュースを『ストレートニュース』というが、以前は
すべてこのスタイルだったと記憶する。それが
いつしか過剰な演出が施されるようになった。」

こうして2点指摘したあとに

「・・そもそも深刻な問題であればあるほど、
冷静に淡々と報道しなければならない。

過剰な演出が加わると、それはドラマチックになって、
かえってリアリティーが失われてしまい、
本来持つべき警戒心も損なわれてしまう。」

そして締めくくりは
「現在、テレビメディアには、演出を排した、
一層冷静な報道姿勢が求められる。」とありました。

はい。「冷静な報道姿勢」を、視聴者は選べる。

それはそうと、昨年の台風で水濡れした本に
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文芸春秋・1991年)
がありました。フニャフニャなので、あきらめて
古本で注文。もったいない本舗から届きました。
本21円+送料257=278円。帯付きで、ページ読み後なし。
うん。そのあとがきから、引用。

「・・私は一貫して『書く』部門にいた。・・・・
私は終始、新聞記者でいたかった。社内でしか通用しない
肩書を愛する新聞社員にはなりたくなかった。」

「日本のジャーナリズムの世界には料理人や
盛りつけ係や配膳人は掃いて捨てるほどいるが、
荒海に出て魚を獲る漁師は実に少ない。

・・・・大衆の嗜好に合うよう整形手術を施した
うえで提供する。それはテレビも同じで、
私はニュースキャスターなど有害無益なものだと思っている。
現場で取材した記者が書いた原稿をアナウンサーが読み、
視聴者(新聞の場合は読者)が判断を下せばよい。
それが出来ないほど大衆はバカではない。」

「・・・他社の記者が北京を追放されたのに
自分ひとりだけ残留させてもらったようなとき、
その記者はひたすら真理を犠牲にして『社の利益』に奉仕する。
文化革命のときが好例である。新聞の紙面に出ている
記事がみなホントだと思って読んでいる読者は、いいツラの皮だ。」

文化大革命の際に、残留させてもらったのは、いったい、
日本のどこの新聞社だったのか?うん。それは忘れても、
「国際機関を信仰するような戦後の病は」
「克服する必要がある」。

とはいえ。29年前の徳岡孝夫氏のセリフを、
さいごに、あらためて、引用させてください。

「視聴者(新聞の場合は読者)が判断を下せばよい。
それが出来ないほど大衆はバカではない。」

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草田男の夏。

2020-04-19 | 詩歌
今日の読売新聞(4月19日)の一面に、こうありました。

「新型コロナウイルスの感染拡大で、国内では18日、
新たに582人の感染者が確認され、クルーズ船を除く
累計感染者数は1万人を超えて1万432人に上った。

4月に入り連日、数百人規模で感染者が増えており、
30歳代以下の若い世代への感染の広がりも目立つ。

今月7日と16日に発令された緊急事態宣言を受けて
各地で実施されている外出自粛や休業要請により、
いかに感染拡大に歯止めがかかられるかが今後の焦点となる。」


うん。気持ちも縮こまりがちになる。
こんな際は、楽しい話をしたくなる。
本棚からとりだしたのは
中村弓子著「わが父草田男」(みすず書房・1996年)。

この本に、弓子さんが聞き手となって
山本健吉氏と対談している箇所がありました。
そのはじまりは山本氏でした。

「『メルヘンというと、どうしても私は草田男さんの
全体の話にわたってしまうんです。メルヘンだけ
っていようりも、草田男さんの全体の話をしているうちに、
メルヘンの話になるんじゃないかと思うんですが。・・・」
(p40)

そのあとに、中村草田男の童話集『風船の使者』が文部省の
芸術選奨をとった際のエピソードが語られていました。

「あのとき、選考委員に江藤(淳)君と、丹羽文雄氏も入ってたんです。
江藤君なんか非常に感心して、丹羽文雄氏もびっくりしたんです。
われわれ小説家っていうのは、人生の暗い面、恥ずかしいような面
ばっかり書くもんだと思っていた。こんな明るいというのか、
生命に溢れたというのか、輝かしい面ばっかりしか書かない人
っていうのは珍しい、そんな批評をやってましたよ。・・・」(p41)


うん。私は童話集『風船の使者』を読んでいません(笑)。
さて、つぎは中村弓子さんの文『わが父・草田男』から
そのはじまりを引用。うん。わたしは夏になると、自然に
この文を思いだします。今回は早めに取り出しました。

「  毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

夏こそは父の季節であった。・・・・・
暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、
『瀬戸内海の凪(なぎ)の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』
などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにしている
かのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として句作に出かけていた。
 ・・・・・・・・

『文学というもは女々しい男のやるものなんですよ』
と父はよく言っていた。女々しいというわけは、
いわゆる生活力のある男々しい男はどんどん行動をして
現実をじっと見つめたりしない。だから非力な女々しい男こそが
現実を凝視できるのだ。しかしそれはやはり男でなければならない。
なぜならその現実から感受したものを取りだしまとめて作品化する
にはまた別の大変な力が必要だから。・・・・」(p57~58)

うん。草田男のメルヘンと、草田男の夏。
はい。昨夜は、BSの「オズの魔法使」を録画して見てました(笑)。


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空也上人。六波羅蜜寺。

2020-04-18 | 京都
昨年。台風の雨漏りで、濡れちゃった本
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・1965年)を、
あらためて古本注文。岐阜県の古本倶楽部でした。
本代1円+送料350円=351円。それが昨日届く。
この本の副題は「東山遍歴」となっておりました。

さっそく、気になっていた
「六波羅蜜寺」のページをひらく。
うん。ここは、はじまりから引用。

「六波羅とよばれるのは六波羅蜜寺のあたり一帯の地だが、
かつてはここに平家一族の邸宅すなわち六波羅第があり、
広大な地域を占めていた。
東山から鴨川まで、北は松原通りから南は今の博物館あたり
までにおよんでいた。清盛の治世には、音羽川の水をひいて
池苑をつくり、一族郎党の家が5200余もあった。

平家が西海落ちするときに、忠盛・清盛・重盛の墓から遺骸を掘りだして、
域内の仏寺において、すべての館に火をかけた。その後
頼朝がここに館をつくって、上洛するときに泊まったが、
これも火災にかかった。承久乱の後にここに幕府の探題がおかれ、
京都以西の治安維持にあたっていたが、140年後に後醍醐天皇の
軍の赤松則村に攻められ、探題はみずから館を焼いて滅んだ。

まことに変転をきわめてた治乱興亡のあとだが、
もともとこのあたり一帯は墓地であり、それが右(注:上)の
ように政事軍事の中心となり、墓地はしだいに現在の
東山山麓にうつって、そこが鳥辺野と呼ばれるようになった。
・・・
いま、このあたりはごたごたした乱雑な町並みで、その中に
色彩剥落した六波羅蜜寺が電信柱や立看板や塵箱にかこまれている。」
(p115~116)

このあとに疫病に関する記述がでてきております。

「戦乱や火災や疫病などが不断につづいたころに、
品格の高いものが作られた。かつてはどこの国でもそうだったが、
まだ実用と精神的表現とのあいだに区別がなく、現代のように
芸術や詩が特殊な人にゆだねられた専門領域ではなかった。
ことに宗教はすべての人のものだった。

天暦5年(951)に悪疫が流行して、
市中は死屍累々たるありさまだった。
空也上人はここに草堂をいとなんでいたが、
これを救おうとして、十一面観音を刻み、
金泥大般若経600巻を写し、この祈願によって疫病もやんだ。
お寺の説明には『青竹を八葉の蓮片のごとく割り、茶を立て、
中に小梅干と結昆布を入れ、仏前に棒じた茶を病者に授け、
歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて、ついに病魔を鎮められた』とある。

そして、この観音を本尊にして西光寺を建立した。
その弟子の代に、寺号を六波羅蜜寺と改めた。

この寺の境域内に前記のように、
平家の六波羅第や鎌倉幕府の探題がつくられ、
たびたび兵乱にまきこまれ、本堂だけが
保元、平治、応仁の乱にも残ったが、破損もはなはだしかったのであろう。
尊氏の息義詮が、貞治2年(1363)に再建し、後には、
信長も秀吉も修理した。もとは天台宗だったが、
いまは真言宗である。」(p116)

このあとには、鬘掛地蔵・平清盛像・空也上人像・菩薩地蔵座像
が写真入りで竹山道雄氏の解説がなされておりました。

ちなみに、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)
の竹山道雄年譜をひらくと、1963(昭和38)年60歳のときに
「『藝術新潮』3月号から『京都の一級品』の連載を21回に
わたって行ない毎月1回の東山遍歴を楽しんだ。」とあります。

1983(昭和58)年80歳のときには、
「秋、夫人保子、娘依子と婿平川(祐弘)と一緒に京都へ
二泊三日の旅をした。・・」とある。
その翌年の1984年6月15日に亡くなっておられます。

あらためて、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」から
京都旅行の、場面をひらく。

「1983年『竹山道雄著作集』が完結した年の秋、
竹山夫婦と私たち夫婦と四人で京都へ行った。
竹山としては見納めのつもりであったろう。
東寺からはじめて三十三間堂、養源院、清水寺、鳥辺野、
六波羅蜜寺などを丁寧に見てまわった。

あれから30年近く経ったいま妻に
『あの時どこがいちばん印象に残った?』とたずねたら
『六波羅蜜寺』と依子は答えた。私もそうだと思ったが、

よくきいてみると、依子は鬘掛(かずらかけ)地蔵から、
私は空也上人像から感銘を受けたのだった。

人間は同じ六波羅蜜寺へ行き、同じ彫像を眺め、
同じ人の説明を聞いても、自己の主観にしたがって、
このように別箇の印象を記憶に留める。・・・・」(p417)

うん。今度京都へ行くことがあったなら、
行きたいところは決まりました。


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歴史・京都・芸能。

2020-04-17 | 京都
本の活字の中には、お宝が隠れているのじゃないか。
それを読み解く楽しみがあるのじゃないか。

というのが、私にも思い当たります。
いかんせん、私は長い本を読まない。
それなのに、本の大切さは思う。

安い古本が、ネットで簡単に手に入るようになって、
これほどに、わたしには有難いことはなく。
まるで、駄菓子屋でお菓子のクジ引きをひくような
ワクワク感で、買った本をひらく楽しみがあります。
はい。ハズレもあります(笑)。

前置きが長くなりました。
林屋辰三郎著「歴史・京都・芸能」(朝日選書)が
古本で200円なり。

さっそく、「あとがき」をひらく。
手応えがあり、当りでした。

「正直なことをいうと、わたくしはこの小論集を、
10年のち65歳の定年退職の時に予定していた。
それまでは・・随筆風の・・懐旧的な書物は出版するまいと考え、
・・まだまだ研究書の著述をせねばと気負っていたわけである。

ところが思いがけないことが起った。
昭和44年1月22日午前10時に、勤務先であった
立命館大学に辞表を提出することになったのである。
・・大学紛争と関連して・・その責任を回避する形でなく
明らかにするためには、本職を辞するほかはなかった・・」

はい。あとがきは、昭和44年10月と書かれております。
更に、歴史という学問にとりつかれた話もでてきます。
中学時代の吉原好人先生を語って

「先生がほんらい西洋史の先生であって、たまたま上級の
国史を担当された・・35年前の教場の有様が、髣髴として
思い起されてくる。・・歴史の事実の興味以上に研究の
面白さを学んだし、世界の歴史との関連で日本の歴史を
教えていただいた。・・・

昭和7年第三高等学校に進学して、中村直勝先生の
教えをうけ、いよいよ史学科志望をきめた。・・・・・

やがて大学に進んで西田直二郎先生のもとで、
文化史への眼をひらいていただいた。その上に大学の
学生としてのみならず、当時先生の主宰された
京都市史(第一次)の編纂員として奉職することになり、
歴史研究の道はおのずから京都探求の
道につながって行ったのである。」

「京都とわたくしとの関係は、昭和3年、
東京から京都にうつり、京都一中へ編入学した
時にはじまった。・・・・・・

芸能との関係は、京都大学の卒業論文に
『近世初期における遊芸の研究』を提出して
いらいのことである。・・・卒業は昭和13年・・
そのころの精神史流行のなかで、わたくしは
やはり社会史につよくひかれて、中世の
民衆生活を研究課題とするようになり、
とくにその具体的なあり方として、
芸能をえらんだのであった。・・・

京都も芸能も、歴史を学んだわたくしに
とってのふるさとにほかならない。こんどの
書物の題名に三題噺のような題名をつけたのも、
・・・・この3つは、決してそれぞれが分立して
存在するのではなく、互いに相関わりあって
一つの世界をつくっているように思われる。・・・」
(~p311)

専門の雑誌やら、新聞に掲載された文を
まとめて一冊にされた本なので、わたしみたいな
パラパラ読みの読者には、なんとも有難い。

うん。せっかく著者の「あとがき」を引用したので、
「あとがき」と、比べたくなる本文を引用してみます。

1964年9月、「歴史地理教育」に掲載された文
『研究者と教育者』から引用してみます。
そこで、一般の教育者について語る箇所がありました。

「・・もちろんいろいろと事情もあろうが、自信をもって
教壇に立っている人は、意外に少ないのではあるまいか。
このあいだも教育テレビをみていて気付いたのだが、

歴史は暗記するものではない、考えるものである
という命題は正しいが、
考えるために必要で十分な素材を与えないで、
古代の農村生活をこどもたちに考えさせるだけであるから、
こどもたちは現代の感覚や常識で古代を議論している。

古代の共同体がまるで学級会のような調子だが、
先生もこれを成功として是認しているようにみうけられる。
それは歴史の授業ではなく、古代を教材とした
現代の『社会』の授業という意味でしかない。

現代でこそ、封建的関係ということは
悪の価値基準に属するであろうが、
中世では立派な進歩であり、正の価値基準に属することで、
その確保のために農民たちは努力してきたということが、
これでは少しも判らない。

歴史の授業ならばその辺の最小限の素材は、
まず記憶させておかないかぎり、
考えることさえ困難であるように思える。

 ・・・・・・・・・

そのような場合、教育者もいわゆる研究者のうけうりでなく、
自ら研究者となって自信をもった授業が必要になる。
先生もこどもと同じ参考書をもって、一緒に考えることが、
必ずしも正しい歴史教育とはいえない。
・・・それにしても教育者の研究者としての自覚によって、
大部分の点は克服できるのである。・・・・

いわゆる研究者などより、いわゆる教育者の方が、
はるかに広い分野を担当しているという自覚がたいせつである。」
(p58~59)

うん。200円の古本の中から、
こういう言葉を拾い読みできる有難さ。

ハイ、わたしはここまで。
後になり、気になれば、本棚を探せます。

うん。
『京都も芸能も、歴史を学んだわたくしにとって
ふるさとにほかならない。』(p311)

万事飽きっぽい私に、京都関連の古本は例外。
やっと『ふるさと』に触れることができたのかも。
あるいは、そんな手応えを、感じられたのかも。

ということで、安い古本をひらいていたら、
とんでもない、当たりクジを引いたような、
そんな楽しい、『京都』の古本なのでした。






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