和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

行方不明捜索。

2009-12-31 | Weblog
12月31日。今日は晴天。なれど風強し。
9時に地区の神社に、投光機の取り付け。
初出の参拝の用意。神社の役員は、掃除や夜の薪の準備をされている。
それにしても、風がつよいなあ。

昨日30日は、朝6時集合で、行方不明者の捜索に、
消防団を集めて夜明けをまっての捜索。消防団員は約50名集まる。
暮れで、ほとんどが家にいてくれたためだろう。
29日の夜から消防団の夜警を兼ねての捜索。
その後、午後11時頃に、家族と区長さんから、
明日の捜索依頼が消防団に来る。それから団員各自へと連絡。
朝6時に集合をかける。そのあとに、派出所の警察官と指示系統を確認。
30日。朝6時半から消防団は、6組にわかれて、昨日の捜索範囲を歩いて探す。
警察からは、7時を過ぎてから警察捜査官が28名ほど、
警察犬が2匹。あとで2匹追加。
8時ごろ、集合場所に戻って、おにぎりとカップラーメンで朝食。
そこで警察の指示に従い。再度同じ場所を見て回ることに。
市消防関連の主任によると、見つからない場合は、日没まで捜査とのこと。
おいおい。
11時過ぎ。軽トラで山を越えて探していた3人が、せっかくだからと
黒滝の広場によったら、そこに居るのを発見。携帯で発見連絡あり。
そのまま、車に乗せて集合場所へつれてくる。
そこで、救急車で病院へ。
消防団は、そこで整列し、発見の様子を団員に語ってもらい解散。帰り際に、警察の指揮者から、消防団のおかげでした。と挨拶される。機会があれば団員に報告しなきゃ。行方不明者は84歳男性。痩せてはいるが本人は毎日散歩しているとのこと家族の言葉に、最近数年前と現在とがゴッチャになるボケが出始めていたとのこと。白内障らしく視野が限定されていて、遠くにはいかないだろうと、思われていた。杖を持参していつも散歩していたとのこと。まさか、遠くにはいっていないだろうと、前夜の夜の寒さで最悪の事態を考えていたので。みつかってよかった。
消防団員一同ホッとして解散。
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打っちゃり。

2009-12-30 | 短文紹介
新聞は切抜かないで、まるまる一ページを手でやぶり。必要な箇所のまわりを折畳んでおくのが私の癖。というか、ただ機械的にちょっと気になる箇所を、やぶいておく。そんな惰性のなかで、ひさびさにこりゃファイルしておきたいと思った文がありました。
2009年12月29日産経新聞一面左上のコラム。
田中優子さんのコラムで「ちょっと江戸まで」。
今回が最終回だそうで、その題が「寺子屋の教育を取り戻せ」。
うん。よかった。
そういえば、産経12月5日の土曜日の「書評倶楽部」は、中島誠之助氏が本の紹介をしておりました。そのはじまり
「装丁の味わいの良さと手頃な厚さとは読書人を引き付ける。題名と著者の組み合わせは内容に興味を持たせるものだ。私はこのマジックに見事に引っかかって、あろうことか難解なこの本を日曜日の午後の読書に選んでしまった。2時間もあれば読み終えるのに読後の思考が10日経っても頭の中をぐるぐる回っている。詰まらないのか面白いのか分からない。結論が出ないのだ。一見うるさ型の佐高信と見るからに才女の田中優子が故人の杉浦日向子をあの世から連れ戻してさんざ酒の肴にしている。・・・」

こうはじまっているのです。
最後は引用でした。

「杉浦の『現代に笑いが少ないのは失敗してはいけないんだと子供のときから教えられているからで、失敗して当たり前というふうに育っていかなければ笑えないですよ』のひとことはガツンとくる。この本の語りに打っちゃりを食わないように、もう一度読んでやらねばなるまい。」

うんうん。お正月の読書はこれにいたしましょう。

「杉浦日向子と笑いの様式」(七つ森書館・¥1890)
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手伝ってくれ。

2009-12-29 | 短文紹介
季刊雑誌「考える人」冬号が発売されておりました。
新聞の広告によりますと、
「年を重ねることで、何かのとらわれから自由になり、精神がみずみずしく輝くようになる老年時代。面白い話が集まりました。28日発売です。ご期待下さい。」

なんて、メッセージが新聞に載っているじゃありませんか。
こりゃ、とにかく買ってみましょう。
すぐに、近所の本屋さんに電話。とどけてくれました。
読まず、ぱらぱらめくるだけ。それでも楽しめました。
まずは、アンケート「老年をめぐる私のおすすめ本3冊」。
そこに、二人。村田喜代子・関川夏央の薦める3冊がフムフム。
あとは、丸谷さんのインタビュー

「・・用例が大切なんですね。今度出たエバラ退蔵の『江戸時代語辞典』はとてもいいですね。近頃亡くなった尾形ツトムさんが整理編集した。エバラ退蔵が十万枚ものカードを作っていて、戦争中には防空壕の地面の下に埋めておいて助かった。しかしエバラさんは亡くなって、それを尾形さんが引き受けた。尾形さんの弟子たちが七十歳のお祝いをしたいといったとき、尾形さんは『そんなことする必要はないから、これを手伝ってくれ』といって弟子たちに手伝わせて、尾形さんが亡くなる直前に角川から出た。これはとてもいい字引きで、二万何千円もするものが、いま三千部出ているんだそうです。・・・」(p108)

養老孟司氏の言葉。

「私自身がニコニコ顔で思い出すのは、少し前に亡くなられた河合隼雄さんです。いつもニコニコして駄洒落ばかりおっしゃっていた。人の意見を訂正せずに聞いていらして、最後は文化庁長官で激務をこなされていてね。河合さんと何人かで勉強会を定期的に開いていたことがあります。会議室なんかを借りて、月に一回くらいだったか集まっていました。勉強テーマなんてそっちのけで、ずっと駄洒落や笑い話でした。懐かしいなあ。河合さんとの思い出はすべて笑いに満ちています。・・・」(p43)
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変人の笑い。

2009-12-28 | 手紙
今年はおくればせながら、外山滋比古著「思考の整理学」を読んで、外山氏の著作を読もうと思いたちました。というわけで、何冊か読み始めたのですが(笑)。遅々としてすすまないなあ。けれども、手ごたえは十分。その守備範囲は、私が漠然と思うその前を進んでおられるという、そういう意味での安心感があって、ゆっくりと読みすすめられます。もっとも私はエッセイを読むのがおもなのですけれど。

さて、昨日読んだのは「ユーモアのレッスン」(中公新書)。
ユーモアの守備範囲をどこいらまで置くかによって、その本の包容力が伝わるものです。
最初に気になった引用箇所はこれでした。

「新しいアイディアをつかんだ人は、だれでも変人になる。その考えが成功するまでは。」(p53)

う~ん。変人の間は、対人関係はギクシャクするものです。自分から巧まずしてユーモアを醸し出すようでなければ、変人もキツイだろうなあ。と思ったりするわけです。

音訳ということも取り上げております。

「音訳の傑作のひとつに簿記がある。
英語ではブックキーピング(bookkeeping)。
これを早口でなんども言っていると、ボキになるといういわけで、しかも、帳簿をつける(記)という文字をのせたところが心にくい。この訳語をつくった人はさぞ得意だっただろうが、いまではそういう苦心の作であることも忘れられてしまっている。それくらい名作である。」(p88~89)

ここで、ちょっとあとがきから
「ユーモアの正体をとらえるのは、すこし調べてみると、古来、難事となっていることがわかった。・・・ふつうにはユーモアの扱いをされてこなかった日本の俳諧、川柳、ことわざにも、ユーモアの心が流れていると考えて、いくつかとりあげた。これも新しい試みであるかもしれない。」(p227)

ということで、パーキンソンの法則から、夏目漱石・モンテーニュ・阿房列車・佐々木邦・徒然草・大岡政談・火焔太鼓・山吹・連句から座談会・スピーチと随筆の特性をいかして、アチラと思えば、すぐコチラと取り上げながら、昔からの枠にとらわれない笑いをさぐっており、私にはたいへん参考になりました。

う~ん。ここでは、とりあえず。パーキンソンの法則から、
有閑の老婦人のことを引用しておりました。

「このひとは、ボグナー・レージス(避寒地)にいる姪あてにはがき一本書くのに、まる一日を費やしてしまう。はがきはどこだったかとさがすのに一時間、メガネを見つけるのにもう一時間。アドレスさがして三十分。文面を書いて一時間と十五分。近くのポストへ投函しにいくのに傘をもっていこうか、どうしようかと迷って二十分かかる。忙しい人だったら、ひっくるめて、ものの三分とはかかるまいと思われることが、ひまな人には、こうして、迷い、心配し、あたふたして一日仕事になってしまうのである」

こうして引用したあとに、外山氏は「老婦人を思いうかべて、口もとがほころぶような文章である」(p173)としております。

そういえば、外山滋比古著「ことばの教養」(中公文庫)の最後の文は、「あとでなく、いま書く」という題でした。その文のおわりをつい引用したくなりました。


「こまめに手紙を書くには、手もとに七つ道具がそろっていることが案外、いちばん、大切なように思われる。便箋に封筒、切手、はがき、郵便番号帳、住所録など。手紙を書こうと思ったが、便箋が切れている。はがきを出そうと思うがはがきがない。あすにしようと思うと、もうだめである。きょう書くのをあすにのばすな。それが手紙を書くこつだ。郵便が来たときの何とも言えない気持をほかの人に贈るのだと考えて手紙を書くくせをつける。」

え~と。とりあえず昨日までで何枚でもないのですが、年賀はがきを出しました。

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対面し。

2009-12-27 | 短文紹介
産経新聞2009年12月27日は、
「知らなかった」鳩山首相についてが一面トップ。それとは別ですが
一面左上のコラムは加地伸行氏。その「古典個展」の最後にこうあります。
「鳩山首相に至っては、陛下と対面し敬礼したあと、陛下がまだ玉顔(ぎょくがん)を元の位置に戻されない前に、もう右手の認証受け取りに顔を向けていた。非礼、無礼極まりない。なにがいい育ちか。【論語】季氏篇に曰(いわ)く、『礼を学ばざれば、以て[人間として世に]立つなし』と。」

う~ん。来年は、自分のこととして、非礼・無礼にならないような生活を送ろうと思います。今年は何かと対人関係で非礼・無礼に気づかされることが多かったような気がしました。何よりもそれを自分では気づかなかったということを気づかされた。ということで、来年の目標のひとつを今日決めるのでした。
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本選び。

2009-12-26 | 短文紹介
今年は、外山滋比古著「思考の整理学」を読んで、あらためて外山氏の著作を読んでみようと思ったわけです。さて、けっこうエッセイとかを書かれておられる。よく読んでいないので、さて、どれを買ってよいものやら、迷います。
たとえば、「『読み』の整理学」というのは、「読書の方法」の解題。
「ことばのある暮し」(中公文庫)は「読み書き話す」(日本書籍)を文庫にするにあたって「書名を改め、内容の一部に手を加えた」とあります。

う~ん。「読み書き話す」といえば、この前の新聞の曽野さんの「読み書きしゃべる」を思い浮かべます。ところで、本にはカバーに著者紹介があったり、初版第何版とか書かれているページ上に著者略歴とかが短く書かれてあったりします。その短文に「著書に・・などがある」として数冊の本の題名が記されております。ここで編集者がどの本を選んでいるか。ちょっと面白く見比べております。むろん同じ出版社のものを取り上げるのが通常でしょうが、そうとばかりは限らないところが面白い。本を購入する参考となります。
外山氏のように、エッセイ本が多いので、案外、その本の中の著者紹介・略歴のところに載って選ばれている本を基準にするといいのだと、今回遅ればせながら思ったしだいです。う~ん。それにしても、私は古本でも購入するのを選んでいたり、探していたりする時というのは、本を読まない。たいてい本を読んでいても、途中に興味深い参考文献が載っていたりすると、その本を中途でやめてしまったりする。どうも、それが目にあまる。こりゃ、来年の課題です。

え~と。ついでに
外山滋比古著「ことばの作法」(ダイヤモンド社)に「国語と日本語」という文あり。

そこをひろげたら
「教育はまた実体のはっきりしない抽象語をハンランさせる傾向が強いから、人々は現実そのものよりもことばを怖れるようになる。それで空虚な表現上のごまかしをして、【建前】をつくろうことが流行する」(p139)

また、印象深かった箇所として

「ことばを気にする人がたしかにふえている。
戦後ずっと、乱れた、乱れたと言われつづけてきた日本語だが、現代はおどろくほどことばにやかましい。これまでこれほどことばに神経質になった時代はなかったのではあるまいか。実体は二の次にして、ことばや名称にこだわる。」


本を読み終わらないうちから、次の本を考え始めているのも「実体は二の次にして」ということでしょうか。
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読み書き喋り。

2009-12-25 | 手紙
産経新聞2009年12月25日の一面左上。
曽野綾子氏のコラム「小さな親切、大きなお世話」が掲載されておりました。
今日のテーマは、「『郵政問題』が示す暗い現実」。

さて、その最後を引用します。

「・・・郵政の取り扱い量が減っているという事実だ。
私は正直なところ日本郵政という会社の未来には冷たいような気もするが、郵便事業を守るには、日本人の『読み書きしゃべり』という3つ国語力表現を完璧にする教育をしなければならない。つまり現在の日本人は、まともな日本語も喋(しゃべ)れず漢字も知らず、ましてや作文能力も開発しなかった結果、短い手紙さえ気楽に書けるひとはごく少なくなった。これでは郵便の量も増えるわけがない。
その国の文化を支える完全な人間は、どの国語でもいいから、『読み書きしゃべり』の3つが揃って可能だという最低条件がある。それに該当する日本人が、今どれだけいるかという危惧が、郵政の問題より深く私の心に残ったのである。」


以上は、コラムの最後の箇所だけ引用しました。
そうか。来年私は「郵便事業」を守る。
そんなことを、年賀はがき一枚に苦戦しながら思うのでした。
ということで、手紙とは別ですが、
このブログ、来年もよろしくお願いいたします。
と、年賀はがきに代えまして、ご挨拶。
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ほぼ慈善事業。

2009-12-24 | 短文紹介
宮崎正弘著「朝日新聞がなくなる日」(WAC)に
雑誌「諸君!」に言及したあとに、こう書かれておりました。

「オピニオン雑誌の経営というのはほぼ慈善事業に近い。商業主義としてはコストがあわずまっとうな経営はできない。基本的にはマーケット需要ではなく、発行母体の経営状態に大きく左右される。日本一の出版社である講談社が、76億円の赤字決算(2009年3月発表)。・・・」(p96)

うん。そうか。オピニオン雑誌というのは、慈善事業に近いのだ。
その慈善事業の月刊雑誌の新年号を買ってみました。

WILL・正論・新潮45・Voiceと4冊。ちなみにWILLはもう2月号発売。
Viceの巻末コラム「巻末御免」の谷沢永一氏が終了して、次はどなたかと見れば「平成始末」と題して山折哲雄氏が連載をはじめておりました。

新潮45は、新春特別対談として養老孟司・内田樹。
そういえば、司馬遼太郎さんの晩年、私は週刊朝日の司馬遼太郎の新春対談を毎年たのしみにしておりました。とそんなことを思い出します。

正論は、金美齢の独占手記「私はなぜ日本国民となったか」。
こちらは、産経抄で取り上げておりましたので、それで雑誌購入。
正論の読書欄は、この回しか存じませんが、充実しておりました。
曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」を鷲田小彌太氏が書評しております。
「著者は極貧と殺戮が蔓延している国の最下層の人々を比較して、日本人はなんて世界知らずだ、無防備だ、と難じているのか。半分はそうだ。しかし他の半分、最重要部分は、無知と無防備が人間の生きる力を衰弱させ、人間に衰滅の道を歩ませると警告する。強い説得力を持つ部分だ。本書の魅力の一つに生活の知恵とでもいえる処世術が随所に出てくることがある。・・・・」(p287)

次の坂崎重盛著「神保町『二階世界』巡り」(平凡社)の書評は岡崎武志。
その次の潮匡人著「日本を惑わすリベラル教徒たち」(産経新聞出版)の書評はコラムニスト・清洲橋三郎(私ははじめて聞く名前です)。その清洲氏の書評の最後を引用。

「たとえば『悩む力』がベストセラーとなった東大教授の姜尚中氏について潮氏はこう記す。【 何が教授と私を隔てるのか。おそらく『知性』以前の感覚が違うのであろう。どちらが正常かは明言しない。ただ、いくら教授の主張が水平次元の支持を集めようと、私は認めない。『少数者』に甘んじる。姜謹製『自分を信じるしかない』『自分の知性を信じるしかない』『確信するまで悩むしかない』との御託宣こそデマゴギーである。私は『自分』も『自分の知性』も決して信じない。正統的な良識が私にそう告げる 】
真正保守として、潮氏が信頼にたる人物であることがよく分かるではないか。」

この次は長野晃子著「『恥の文化』という神話」(草思社)を稲垣真澄氏が書評しております。その下の短い無署名書評は、「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者」(平凡社)と、小山明子・野坂暘子著「笑顔の介護力」(かまくら春秋社)。

WILLは、一月号・二月号とつづけて『加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」徹底批判』を「新シリーズ現代史を見直す」で取り上げております。未読。
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年賀葉書。

2009-12-23 | Weblog
年賀はがきの、以前貰ったハガキを出してきて、整理しておりました。
いままで整理していなかったので、とにかくその人の数年分をまとめて輪ゴムで束ねるだけの整理。トランプの神経衰弱みたいな感じで。毎年同じ絵柄の人もいたり、当然のように毎年違ったり、家族の写真入りだったり、それを数年分みていると一日はすぐに過ぎます。そして、ああ、この人に書かなきゃと、忘れていた方のを書く。といっても全部で40名くらい。う~ん。それでも手際が悪く、時間ばかり過ぎる。

え~と。すぐに過ぎるといえば、
外山滋比古氏の新刊と古本を選んでいると、これもどれを買ったらよいのやら、迷うだけで時間が過ぎます。とりあえず最近買った本。

   忘却の整理学
   メモと日記の方法
   エディターシップ
   省略の文学
   学校で出来ること出来ないこと

あとは、買っても読んでいなかった本もあるし。まだ来ていない本もありますし。暮れから正月にかけて、読まなきゃ(笑)。うん。とりあえず見る。
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またたく間に。

2009-12-22 | 短文紹介
昨日は、暮れで何か読み残した本があるのじゃないかと、本の注文をあれこれと思い描いておりました。どれを注文しようか、金額はどうか。というような何とも情けない、あれこれに時間を費やしてしまった一日でした。
夜は夜で、少ない年賀はがきの宛名書き。ちょっと一行ほどを手書きでコメントを入れようとすると、これがまたたいへん。ぶっきらぼうな言葉使いが、目上の方にそのままに出てしまい。書き終わってから、この葉書を没にしようかと悩んだり。いいや、いいやと書き足して誤魔化したり。それで時間は過ぎます(笑)。

さてっと外山滋比古著「知的創造のヒント」に
「あえて読みさす」という章があります。

「リーヴァス、リチャーズ、エンプソンに出遭ってから数年は何も書かないでぼんやりしていた。別になまけていたわけではないが、まとまったことは何もできないし、書いたものもないから、ほかからは遊んでいるように見えてもしかたがない。
はじめのところを少しのぞいただけの、リチャーズとエンプソンのことがしきりと気になる。しかし、読めば一生その虜になってしまいそうである。いくら何でもそれは困る。あの先がどうなっているか、読めばわかるが、読まないで、自分なりの見当をつけるとすればどうなるか。そんなことも考えた。幸い、その先を知らないのだから、勝手なことが想像できる。その空想は自分の考えであって借りものではないはずだ。リチャーズとエンプソンは先生だが、はじめの手引きだけしてもらって、あとはひとりで考えることにしよう。その独り歩きがなかなか思うようにいかなくて意外に時間を食う。数年はまたたく間に過ぎた。
七、八年経ったころから、ぽつぽつ自分の考えが形をとるようになり出した。そうなるとたいして時間はとらないもので、一年くらいのうちに、一連の試論をまとめることができたから、それを一冊にして、最初の本を出した。・・・・」


こういう方が、学生の卒業論文について「思考の整理学」を書いたのですから。
それだけでも、学生は「思考の整理学」を読み直す必要がありますよね。
私の興味は、「読まないで」「数年はまたたく間に過ぎた」という箇所でした。
この感じが、外山滋比古氏の本には、味わいとしてある。
何度も、餅を搗いて、こねるような味わいがあり、
同じテーマであっても、さまざまな可能性を引き出してくるような文章さばき。
同じエピソードを使っても、視点を変えては、伸ばして拡げる余裕がある。
ということで、外山滋比古氏の新刊を買うかどうか。古本では、どんな本を注文しようか。などと、つまらないことで時間を費やしたのが、昨日の一日でした。
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ベスト1。

2009-12-20 | 短文紹介
産経新聞2009年12月20日の読書欄に、花田紀凱(かずよし)氏の書評が掲載されておりました。とりあげた本は、工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」。
そこに「ぼくが今年読んだノンフィクションのベスト1だ。」とある。
う~ん。暮れも押し詰まってくると、今年の「ベスト1」を教えてもらえる楽しみ。
これは、読んでみたい気がします。

外山滋比古著「思考の整理学」を読んでいたら、
ことわざについての文がある。
「学校教育では、どういうものか、ことわざをバカにする。ことわざを使うと、インテリではないように思われることもある。しかし、実生活で苦労している人たちは、ことわざについての関心が大きい。現実の理解、判断の基準として有益だからである。ものを考えるに当たっても、ことわざを援用すると、簡単に処理できる問題もすくなくない。」(p187)

こういう箇所を読むと、次に外山滋比古著「ことわざの論理」を読みたくなったのでした。
それをちょっと読んでしまうと、つぎに「思考の整理学」に、こんな箇所があったことが思い浮かぶ。

「忘れるときにも、ほかのことをすればいい。ひとつの仕事をしたら、すぐそのあと、まったく別のことをする。それをしばらくしたら、また、新しい問題にかかる。長く同じことを続けていると、疲労が蓄積する。能率が悪くなってくる。ときどき一服してやり、リフレッシュする必要があるのはそのためだ。しかし別種の活動ならば、とくに休憩などしなくても、リフレッシュできる。・・・・
つまらないことはいくらメモしてもいい。そうすれば、安心して早く忘れられる。大切なことは書かないでおく。そして、忘れてはいけない、忘れたら、とり返しがつかないと思っているようにするのである。人間は、文字による記録を覚えて、忘れることがうまくなった。それだけ頭もよくなったはずである。」(p118~121)

という言葉があった。
さて、外山氏の新刊に、そういえば「忘却の整理学」というのが出ております。

まあ、そういうことで、
工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」
外山滋比古著「忘却の整理学」
の二冊を、今日ネット注文。
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本年の本。

2009-12-19 | 古典
2009年も今日は12月19日。
今年も本の出合いがありました。
ということで、その本から、私が芋づる式に本が読みたくなった本をここにとりあげてみます。

幸田文台所帖・幸田文しつけ帖(平凡社)
どちらも、こりゃ、幸田文を読まなきゃと思わせてくれた本。
それでも、今年は読まなかったなあ、青木玉をまず読もうなんて思ったのが間違いか。
もう少し、読み方の攻略法をかんがえてゆきましょう。


安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(文庫)
うんうん。これで落語の楽しみがわかった気分。
ここから、落語へと向かうのか、それとも安藤鶴夫作品集へとむかうのか
どちらも、読まずに終りました。

徳岡孝夫著作
雑誌「諸君!」が6月号で最終号。その巻頭コラム「紳士と淑女」が覆面をぬいだのでした。それが徳岡孝夫氏。「完本紳士と淑女」(新書)もでたし、ああ、こんな方が日本にいらっしゃったのか。と思うことしきりの読書でした。でも5~6冊しか読んでない。

加藤秀俊著「メディアの発生」
これで、日本中世への水先案内人が出来ました。この案内にしたがって中世の古典へといざなわれてゆけばよいのだと、思うだけですが、思っております。古典を読まなきゃ。と書き込んでおきます。

外山滋比古著「思考の整理学」
卒業論文を種にして、文章・論文の書き方を、はばひろく脱線しているように書きならべてくれた貴重な一冊。なあに他の方が書いてくれなかった貴重さ。わかる方は読んでいるのでしょうね。いままで読んでなかったのがもったいないかぎり。でも若くして読んでもわからなかったかもしれず。この機会に味読するように、外山氏の他の著作を読みたいと今思っているところです。

宮崎正弘著「朝日新聞がなくなる日」
題名こそイカツイのですが、ああ、宮崎氏という方は、こういう方なのだと理解がすすむ一冊。肉声が聞えてくるような、気分になりました。


谷沢永一・渡部昇一対談
「平成徒然談義」・「老子の読み方」
徒然草がよいのは何となくわかったのですが、ついつい、すぐに忘れておりました。
こういう対談を機会にして読み直す楽しみ。
老子は初読なので、この対談の切り口を参考にしながら。

外山滋比古著「ことわざの論理」
あらためて、「いろはかるた」「ことわざ」へと興味をむけたいのでした。


そういえば、忘却についての新刊が外山氏の本であったようなのですが、
読みたい読まなきゃと思いながら、ある期間を境に、ふっと他の本へとうつってしまう。
忘却の正体を、もうすこし丁寧につかまえられるように。
と今年も書き込んでおこう。
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「書評・考」

2009-12-18 | 短文紹介
外山滋比古氏の本を、今何冊かめくっているところ。
寺田寅彦の随筆をほめていた、その外山氏の随筆を読んでいるわけです。面白いなあ。何にたとえればよいのやら。たとえば高浜虚子の五百句を思い浮かべます。とにかく期間をくぎって五百句を並べてある。良い悪いは別にして、それを読んでいると、時にこれはと思う句にぶつかる。秀句ばかり読んでいては味わえない醍醐味。それも、読み終わるころには、いつのまにやら虚子の世界に参入していることに気づかされる按配。

さて、随筆としての外山滋比古氏の文を読んでいると、短いながら時としてハッとさせられる文に遭遇するわけです。でも、それだけを取り上げてみても、一般の方には、けっこう説明がいるかもわからないなあ。と思ってしまう。けれども、読んでいると、なるほどなるほどと思わずにはいられないのでした。

そうこうして、少しずつですが、本を開いていたら、
「日本語の感覚」に「書評・考」という文があった。
中公叢書にして15ページ。うん。こういうのを読みたかったという書評に関する重要な指摘がなされておりました。ちなみに、この文が雑誌に書かれたのは1975年。その当時の書評の様子を語りながらの、あるべき書評の姿を、外国の様子をまじえながら語ってゆくのでした。あれこれと引用していたら全部になってしまうので(笑)。ここではすこし。

「書評は選ぶことでもある。おびただしく出版される本の中からほんのひとにぎりの本だけが書評を受ける幸福に恵まれる。どれを選ぶかは、ときに、どういう批評をするか以上に大きな意味をもっている。現在のところ、どの本を書評するかは、編集部できめられる場合が多い・・・・しかし、選ぶことの意味は実に思い。歴史はきわめて多くの選択によって決定される流れだとすら言える。選ぶ哲学がなくて選んでいることが多いが、批評の条件としても選択を没却することは許されない。・・」(p155・中公叢書)

うん。それにしても、この「書評・考」が読めただけでも、
外山滋比古著「日本語の感覚」を読めてよかった。
そう。そこだけしか読んでないのですけれど(笑)。
けど。書評に感心がある方には必読のエッセイ。
だと。私は思っております。
また。読み直そっと。
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第一級の。

2009-12-17 | 前書・後書。
徳岡孝夫著「五衰の人」(文春文庫)の
著者による「文庫版へのあとがき」によると、
「私は、それまで神風連と三島さんの関係を、小説家と小説の材料という通り一遍のものと思ってきたのを恥じた。三島事件を一から書き直すべきだと感じた。しかし、それを実行するには、私には力量と時間がない。やむを得ず、単行本を少し手直しして本書とした。編集の労をとって下さった文芸春秋の照井康夫氏に深く感謝する。」

うん。どうやら、単行本と文庫では、ちょっと違うらしい。
ところで、この文庫の解説を関川夏央氏が書いているのですが、
その最後から

「『五衰の人』をすぐれた歴史の記述としたのみならず、現代日本語表現者中第一級の完成された作家(オーサー)としての徳岡孝夫の姿を、私たちにあざやかに印象づけたのである。」

ちょっと私は古本でも手に入らなかった徳岡孝夫著「覚悟すること」の引用もでてきておりました。

「何かの事件を自転車で取材に行った。そして書いた記事の最後に『警察は鋭意捜査中』と書いたんですね。そのころの決まり文句です。そしたらデスクが、『おい、どれくらい鋭意に捜査してるんだ』と聞いたんです。『どれほど鋭意にと言ったって、そりゃあデスク、一生懸命やってます』と答えたら、『どれほど一生懸命やってるんだ』と畳みかけてくる。『いや、それはちょっと・・・』『そうか』ってやりとりがあって、デスクはその部分を削ったんです」(「覚悟すること」)

そして関川氏はこうつけくわえます。

「彼はそれ以来、新聞記者に独特のクリシェ(決まり文句)を使うことはなかった。思想の流行に流されることなく『王様は裸だ』と見とおして、事実の報告に徹しようとする姿勢は、こんなふうに鍛えられた。」

「・・・・帰国して大阪本社社会部に戻ったが、三十なかばではじめて箱根を越えて東京へ移り、『サンデー毎日』編集部に移籍した。彼自身が望んだことだが、当時の新聞界にはおなじ社内でも週刊誌を見くだす空気があり(いまもある)、いわば『積極的に身を落とした』のだった。それは、『えらそうなことはいわない』と自らを強く律する態度、ひるがえっていえば、『えらそうな作文をする』記者を鋭く批評する精神のありかたを体現し、新聞記者時代から作家となった現代まで、彼の方法を脈々とつらぬいている。」

「・・・『文学界』連載は95年秋からであるが、折りしもそれが決まったちょうどそのとき、徳岡孝夫は思いもかけぬ眼底出血に見舞われ、それ以前の脳腫瘍手術で大きく阻害されていた視力は、ますます弱まった。家人の朗読に頼る以外は『新しい資料は大半を捨て』『自分の記憶に頼って』書くことになり・・・しかしそのことがこの本をさらに『文学論』から遠ざけ、むしろ対象との間に、親しみと礼節とが適切に維持されるほどの距離を生じさせることに寄与した。すなわち、『事実を報告する』という古典的正統的な新聞記者の精神が再び光彩を帯びて立ち上がったのである。徳岡孝夫は『五衰の人』で『面白い人』三島由紀夫との交情について文飾なく語った。三島由紀夫の戦中派としての心象の出発点と変遷について、根拠ある忖度(そんたく)を書いた。その結果、意図したことではないにしろ、『昭和の看板を借りて店を張り、曲りなりにも人生稼業を営んできた』『昭和の子』(「戦争屋」の見た平和日本)である自分と、その戦後観について語ることにもなった。・・・96年、この『五衰の人』でも・・評伝と自伝を融合結晶させて、冷静に感動的な作品を書きあげた。『五衰の人』は、読者に、事件当時の年齢を問わず、歴史を共有できたと強く感じさせる作品である。近代文学を愛し、しかし近代文学に泥(なず)むことを自らに強くいましめ、さらに、『正義の人』に堕さぬために事実の記述を第一義としつつ、同時に『一概にはいえない』と現場でためらい懐疑する新聞記者の実情をも忘れないという著者の姿は・・・」


ついつい、解説の引用を重ねてしまいました。
おいおい、私は単行本「五衰の人」の何を読んでいたのだろうと、恥ずかしくなってきます。ということで、105円で買った文庫本の解説しか読んでないのですが、収穫がありました。

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伸縮高枝バサミ。

2009-12-16 | Weblog
今日は、午前中床屋。腕時計の電池交換。
午後は、ガラス窓に貼る、断熱シートを買いに出かける。
ついでに、裏の柚子が黄色になったので、それを採る伸縮高枝切りバサミを購入。
このハサミが1780円。おいおい、水で貼れる断熱シートは1180円×2個で、シートの方が高かった。ついでにブックオフへ。外山滋比古の本がほしかったので、寄ってみたのですが、なし。というか、めったに来ないので探し方が悪いのかもしれません。そのかわり、105円の文庫3冊。

   徳岡孝夫著「五衰の人」(文春文庫)
   曽野綾子著「ある神話の背景」(PHP文庫)
   日下公人著「お役所情報の読み方」(講談社+α文庫)

五衰の人は、解説を12ページも関川夏央氏が書いていたから。
曽野さんの本の解説は、詩人田村隆一で5ページ。
という解説読みの興味から。あと一冊はつい。

さてっと、外山滋比古の「ことばの教養」(中公文庫)に
「本とのつきあい」という3ページほどの文が入っていました。
そのはじまりは、

「古本屋をのぞくと、出たばかりの本が、もう古本になって並んでいる。手にとって、小口の底のほうを見ると、はじめのほうのほんのすこしが手あかで黒くなっている。これを売った人はこの本とのつきあいに失敗したな、と思う。おもしろそうだ、評判がいい、というので人は簡単に本を買う。ところが、何でも読めるというわけではない。われわれの心はなかなか、好みがうるさいのである。人見知りする。めったなものは受けつけない。いい加減に買い込んだものとのつきあいがうまく行ったら、それはよほど運のいい偶然である、と思ってよい。
ちょっとつきあって、これはいけない、と感じる。自信のある読書家は未練もなく古本屋へもって行って縁を切る。もうすこし思い切りの悪い人は、いずれまたの日に親しくなれるかもしれないと考えて本棚に並べる。それで、読みかけの本がどんどんたまる。本を読むのは、人とつきあうのに似ているのだが、・・・」(p183~)

短い文なのに、こんな箇所もあります。

「試験とか、いやな仕事を目の前にすると、われわれは謙虚になるらしい。その証拠に、ふだんなら、見向きもしないような難しい本が何となくおもしろそうに見えてくる。ちょっと挨拶してみようかと思って、かりそめに読み始めると、意外に興味をひかれて、なかなか、やめられない。かんじんな仕事はますます遅れることになる。あのデカダンな気持は本とのつきあいにはいつもどこかにつきまとっている。」


ところで、ブックオフで買った3冊とも、きれいな文庫本でした。



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