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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

独学と修養のすすめ。

2017-06-27 | 手紙
WILL7月増刊号「追悼 渡部昇一」に
平川氏が追悼文を寄せておりました。
そこには
「私も弔意を表する機会を失してはならぬと思い
・・・別れのご挨拶に代えさせていただく。」
との言葉がありました。

すると、今日の産経新聞正論欄に
その平川祐弘氏の文が掲載されている
見出しは「『正道』示した渡部昇一氏を悼む」。
今日のなので、容易にどなたでも、
産経新聞を買って読むことができます。

ということで、私はその一部だけを引用。

「・・・あのころ講和をめぐる論戦が
『文藝春秋』誌上で交わされた。
全面講和論とはソ連圏諸国とも講和せよ、
という一見理想主義的、その実は
容共左翼の平和主義的主張で、
私は南原繁東大総長のそんな言い分が
正しかろうと勝手に思い込んでいた。
それに対し米国中心の自由陣営との講和を優先する
吉田茂首相を支持したのが慶應の小泉信三塾長で、
朝鮮半島で激戦が続き米ソの話し合いがつかぬ以上、
全面講和の機会を待つことは
日本がこのまま独立できずにいることだ。
それでよいか、という。
その小泉氏に上智の学生だった渡部氏は
賛意の手紙を書いた。
すると小泉氏から返事が来たという。
・・・・渡部氏ほどの偉者(えらもの)は
東大にはいなかったと私は観察している。」

はい。
「東大教養学部では教養学科の一回生で
日本で最初の教養学士」である平川祐弘氏が
東大を観察した結論として、
偉者(えらもの)渡部昇一氏への
最新追悼文は、本日の産経新聞で全文読めます。
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もう一度探し出したぞ。

2017-06-26 | 詩歌
「本を書くためには
蚕が桑の葉を必要とするように
本が必要です。」(p49)

これは、雑誌WILL2008年2月号の対談での
渡部昇一氏の言葉。

「隙間の時間の使い方ということについて言えば、
私は待ち時間に何かを書く仕事はしません。
ひたすら本を読むか、昼寝をするだけです。
と言うのは、書く仕事には常に確認作業が必要に
なるからです。資料となる本、確認するために必要な本
のすべてが家にあります。」(p41)


これは、林望氏との対談「知的生活楽しみのヒント」(PHP)
にある渡部氏の言葉。
同じ本に、こんな箇所がありました。


「ハマトンは『知的生活』という本の中で、
溶鉱炉で鉄が溶けるまで熱するように、
頭を徹底的に使って白熱させてはじめて
書けるようになると言っています。
したがって、溶鉱炉の火を途中で
消してはいけないように、
書く作業も中断してはいけない。
そして、書くときは目の前に
無限の時間があるという感覚がなければ、
頭を白熱させられないとも言う。
私もそうだと思います。
次の予定を気にしながらではものは書けません。」(p44)

残念、私はハマトン著「知的生活」の
この指摘の箇所を探せませんでした。
どなたかご存知でしょうか?

とりあえず、先の雑誌の対談から
この箇所も引用。

「『知的生活』を書いたP・G・ハマトンから
ヒントを得たのですが、ハマトンは仕事がのるまで
時間がかかると言います。
これは溶鉱炉みたいなもので、
鉄を溶かすためにせっかく高温にしていても、
夜が来たからといって溶鉱炉を止めてしまうと、
一気に冷めてしまって使い物になりません。
また、鉄を溶かす温度まで上げようと思ったら
ものすごくエネルギーがいります。
ですから、溶鉱炉の温度が上がったら
鉄ができるまで一気に片づけてしまったほうがいい。
・・・」(p52)


渡部昇一著「ヒルティに学ぶ心術」(到知出版社)には

「私の場合、仕事をはっきり二つに分けています。
私は特に論文などを書く時は、それこそ絶対に
広大無辺な時間を持たなければ駄目だと思っています。
二時間後に何か予定があると思うと、
やっていても時間が気になります。・・・
たとえば本を読むのは断片的な時間がいい、
待たされている時間がいい。というのは、
本と言うのは、長く読んだからといって、
そうそう頭に入るものではありません。
私の場合・・・
本を読む時間に断片的な時間を使います。
仕事の違いによって、断片的な時間をたくさん
使ってうまくこなしていくのと、
大きく取った時間を使うのと、
意識して分けてやるべきではないかと思います。」
(p205~206)


断片的というと、p209にヒルティの言葉を引用して
おりました。

「・・・・体系的網羅的なものは、だいたい嘘である。
と言うのは、もしもこのことを確かめたいと思うならば、
どの科学の分野でもいいから、二十年前に書かれた
もっとも有名な体系的な教科書を見てみよ。
もう読むに耐えないではないか。だから、
体系的なものはおおむね虚偽である。
長続きするものはおおむね偶発的である。」

このあとp210で渡部昇一氏はこうつづけます。

「こういう信念があったから、
ヒルティは断片的なものを書いているわけです。
日本のほうで言えば、日本の古典には徹底的に
断片的なものが多い。和歌などというのは断片中の断片です。
俳句もそうです。芭蕉でも蕪村でも、ああいう短詩型のものは、
体系的な本は全く読まれなくなっても、読まれます。
『徒然草』のようなエッセイもそうです。
『論語』などもやはり聞き書きで・・・
これは、私は読書においてもしばしば
自分の教訓として得したことです。」


断片と、無限の時間といえば、
私に思い浮かんだのは、
ポエムと、永遠。
ということで
ランボーの詩「永遠」を引用。

 たうとう見つかったよ。
 なにがさ?永遠といふもの。
 没陽といっしょに、
 去ってしまった海のことだ。

 これは金子光晴の訳詩。
 では、堀口大学の訳詩は


  永遠
 
 もう一度探し出したぞ。
 何を? 永遠を。
 それは太陽と番(つが)った
 海だ。

 待ち受けている魂よ、
 一緒につぶやこうよ
 空しい夜と烈火の昼の
 切ない思いよ。

 ・・・・


うん。私には、
何やら、溶鉱炉の詩に思えてきます。
コメント (2)
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これぞまことの。

2017-06-24 | 手紙
古本購入の新月通正著「親鸞の旅」(法蔵館)。
そのはじまりをひらくと、こうありました。

「愚禿(ぐとく)親鸞ーーその名を教えてくれたのは、
確か、中学校の歴史の先生であった。
太平洋戦争のさなか、旧制高校生のころ、
文科系の連中が、片時も手を離しがたくしていたのは、
西田幾多郎博士の『善の研究』と、
あの『歎異抄』だったような記憶が残っている。

戦後、しばらく京都に住み、ご多分にもれず古寺巡礼をこころみて、
東西両本願寺に親鸞の法灯を訪ねたりした。
東本願寺の外堀をぶらついていると、
アメリカ空軍機が誤って爆弾を落した跡だ、
とえぐれた大きな穴を指す人がいた。・・・・」

と、ここで私はつまづき、先を読み進めない(笑)。

太平洋戦争と歎異抄といえば、そういえば、
と司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)を
本棚からとりだしてくる。
「学生時代の私の読書」と題した小文。
そこに、歎異抄が出てくる箇所がある。


「・・・・やがて、学業途中で、兵営に入らざるを
えませんでした。にわかに死についての覚悟を
つくらねばならないため、岩波文庫のなかの
『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。
・・・『歎異抄』の行間のひびきに、
信とは何かということを、
黙示されたような思いがしました。
むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような
自分をつくろうとする作業に、
多少の役に立ったような気がしています。
みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、
岩波文庫の『万葉集』をくりかえし読みました。
『いわばしる たるみのうへの さわらびの
 もえいづるはるに なりにけるかも』
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、
心をつねに拭きとる役目をしてくれました。」


せっかく本棚から司馬さんの本を持ってきたので
ついでに、数冊を取り出していました。

司馬さんと林屋辰三郎対談『歴史の夜咄』。
その「フロンティアとしての東国」のなかで

司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。
『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、
いまでも持っているというのは、
われわれの一つの幸福ですね。
非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で
語られたというのは坂東人の偉業だったと思いますね。
 (p171・小学館ライブラリー)

もう一冊は
梅棹忠夫編著「司馬遼太郎との対話 日本の未来へ」(NHK出版)

そこに「司馬遼太郎さんとわたし」という
梅棹さんへのインタビューが載っておりました。
そこからも、引用。

梅棹】 非常に思いやりがある。
個人的にもそういう場面が何度かありました。
私が目が見えなくなったというのに、彼は手紙をくれるんです。
『完全に失明したんじゃない。少し見えているらしい』
というので、手紙の字が五センチ角ぐらいの大きな字で
書いてある。あれはちょっと感激しました。それでも
私には見えなかったですけれどもね。大きく書けば
読めるかと彼は思ったんでしょう。
愛情を感じましたなあ。


梅棹】 やっぱり、思いがこもっているんですよ。
ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった・・・・
(~p214)

つぎは「これぞまことの文学」を読む番。

中央公論1992年8月号の
「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」を、
あらためて、読まなきゃ。
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山本七平氏の書評。

2017-06-23 | 本棚並べ
本棚から山本七平著「精神と世間と虚偽」(さくら舎)を
とりだしてくる。本の内容からいうと、
「山本七平氏の本棚」とでも題したい一冊。

以前に購入した時、パラパラめくりで(p143~)
「著者は語らず、史料をして語らしめよ」と題して、
辻善之助緒「日本文化史」を紹介しておりました。
さっそく、この「日本文化史」を古本で注文した
まではよかったのですが、まるで歯が立たない(笑)。

いつのまにか、山本氏の本ともども、
本棚行きというか、お蔵入りしておりました。

今回、この「山本七平氏の本棚」から
別の本を探そうと、あらためてチャレンジ。

とりあげられていた本は
比屋根安定著「福音と異教地盤」。

これが気になりました。

「・・・とにかく、日本人でありながら、
日本独自のことを知らないことは恥ずかしいことです。
日本の牧師ともあろう者が、仏教の書物一冊読んだこともなく、
西洋の生半可は知識ばかりふり回していたのでは、
日本の伝道など、とうていできるはずがありません。
アメリカ人で南北戦争を知らなかったり、
イギリス人でシェークスピアを知らなかったりするのと
同じで、日本の歴史、古代文化や宗教に無知であっては、
うたを忘れたカナリアのごとく貧弱であります。」(p111)

「そしておもしろいことは、この問題に
『問題』として対処しなければならなかったのが、
日本人キリスト教徒であったという点である。
確かにキリスト教は輸入宗教だが、
同じように多くの学問も輸入学問である。
したがって、欧米のある学者の業績を翻訳もしくは
翻案して講義していれば『学者』であり得る。
しかしそれは『本場』に行けば通用しない。
しかし相手はその知識と勉学には敬意を払い、
『そこまでわれわれの宗教を研究して知ってくれたのなら、
日本の宗教や文化を、われわれにわかるように
説明してくれるはずだ』と感じ、それをたのむ。
これは彼らにとっては当然のことなのだが、
たのまれた瞬間にその日本人たちは、
自らについて何一つ知らないことを思い知らされ、
愕然として『うたを忘れたカナリアのごとく貧弱』
だという思いにかられる。」(p112)

うん。今回は、この古本を注文します(笑)。


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昔『TVタックル』で。

2017-06-22 | 短文紹介
渡部昇一著「知の湧水」(WAC)の
終りの方に、

「・・下重暁子(しもじゅうあきこ)さんの『家族という病』である。
この本の悪魔性(?)を洞察した金美齢(きんびれい)さんが、
毒消しになるような本『家族という名のクスリ』(PHP研究所)を
出された・・・」(p271)


はい。『家族という名のクスリ』をネットで購入。
はい。読んでよかったです。
こんな箇所はどうでしょう。

「私が日本人の最大の欠点だと思っているのは、
『オール・オア・ナッシング』
というふうに考えがちなところだ。
日本は先の大戦に敗北し、それによって
戦前を捨てて180度向きを変えてしまった。
しかし、そんなことではいけない。
国が永続するためには
守るべき価値は守っていかなければならない。
『守るべきは守る』という精神の闘いに淡泊すぎた。
それどころか、それを避けて新しい価値に飛びつくか、
なあなあで打ちすぎてしまった。
その意味で私は、
〈 敗戦は日本という国そのものが変わり、
違う価値観の下にリセットされるべき大きな節目 〉
だったと言う下重暁子さんとは対極にいる。
有形無形の日本の伝統や文化が、
戦後バラバラに崩れていったのは
けっして好ましいことではなかった。
代わりに物質的な豊かさを手に入れた
という人は大勢いる。しかし、
最低限、かけがえのないものを置き去りにした
という痛みを抱えるべきなのだと思う。
それが平衡をもたらす。」(P117~118)


本の最後には、娘麻那さんとの対談でした。
そこからも引用。

「昔、『TVタックル』(テレビ朝日系)で
田嶋陽子さんと少子化問題で激論したことがある。
『なぜ産まないのか』という産まない側の考えは
大きく取り上げられるのに、
『なぜ産んだのか』という側は取り上げられない。
・・・・
来日したときのボーヴオワールの講演録を
読んだことがあって、彼女が大変な知識人である
ことはわかったけれど、同時に、彼女は
自由な生活を選んだ結果、大多数の女性の
置かれている苦悩が全然わかっていないということもわかった。
・・彼女の経験、蓄積からは、普通の人の日常を
踏まえた本当の意味での女性の代表にはなれないと思い、
そんな指摘をしたわけ。
すると田嶋さんは『想像力があるだろう』と言う。
殺人を経験しなければ殺人について語ってはいけないのか、
という難詰をしてきたのね。
私が、『文学を専攻したから、平均的な人よりは
想像力があると思うけれど、同時に想像力の限界も
承知しているつもり』と切り返すと、
『仕事を持つ女が子供を産み育てることの
大変さがわかるのか』と喚(わめ)きはじめた。
私は、『あなたの百倍知っている。
夫の身の回りの世話をし、二人の子供を育て、
かつ仕事を持っている。その大変さを承知で
産むことの大切さを語っているつもりだ』と。・・」
(p182~183)

はい。テレビを観てるだけだと、不思議と
田嶋陽子さんに軍配が上がるんですよね(笑)。
活字を読むのとでは、大違い。
ということで、読めてよかった。

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多田道太郎句集

2017-06-22 | 詩歌
芸林21世紀文庫の一冊「多田道太郎句集」。
気になったので古本で購入。

本積んで眺め飽きたか時雨来る (p68)

文庫の最後の解説は小沢信男。
解説のはじまりを引用。

「じつに、これは、これでも句集かしらん。
まず多田道太郎氏の俳句がある、のは当然として、
夫人の随筆がある。連句がある。詩がある。
知友のエッセーがある。このエッセーはこの句集が
生まれる由来を語ってもいて、
おのずから後記の体をなしています。
なにかこう、気がおけないにぎやかさで、
多田家の茶の間へ招かれたような。
こんな句集は四方を見わたしても比類がありません。
いや、待てよ。
たとえば『猿蓑』だって、発句も連句もエッセーもある。
あれは一門の撰集につき、さておくなら、
では与謝野蕪村の『春風馬堤曲』はどうか。
発句も、漢詩も、新体詩のようなところもあって、
しかも亡き友人炭太祇の句で締めている。
・・・・」


梅雨空や 多田の句集の新鮮さ

はい、初心者も一句書き添えたくなります(笑)。
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つながり読書。

2017-06-17 | 本棚並べ
日垣隆著「つながる読書術」(講談社現代新書)。

そこから引用。

「いま読んでいる本の中で紹介されていた文献を
手に入れよう。・・・・そこで『不要』と判断しない限りは、
すぐにネット書店で全部注文することにしています。
たいていすぐ届くので、届いた日に読み終えてしまうのがコツです。
さもなくば、どんどんたまるばかりでしょう。
・・・・ちなみに、学者やジャーナリストが、
本の内容を引用する場合、どの本のどこにその箇所が
あったかを忘れてしまうと大変なことになります。
・・・私は本を購入したときに、
『古典講座テキスト』とか、『・・・の参考文献』とか、
なぜこの本を買ったのかという理由や目的を、
最初のページに書き込んでおいたり・・・・
こうすれば、『つながり』を忘れることなく
・・・手っ取り早い方法です。
読書量が多くなればなるほど、この本をなぜ買ったか、
忘れてしまって当然です。が、その『なぜ』は、
とても重要なことですから、何らかの形で
判別できるようにすることをお奨めします。」(p139~140)


たしかに、なぜ、この本を買ったのだっけと
本を読まずにイライラしていることがたびたびあり、
私にも、御利益ありそうな『つながり読書』です。
『届いた日に読み終えてしますのがコツ』というのは、
私には無理(笑)。でもパラパラと開いてみることは
出来そうなので、まずは、そこから。


ちなみに、『WILL2008年2月号』に
渡部昇一と日垣隆との対談が掲載されていて、
そのつながりで、何冊か日垣氏の本を購入して
あったものでした。その何冊かをもう一度
開いているところ(笑)。


そういえば、最近は新聞雑誌の書評欄への興味が失せて、
本の中で紹介されている本へと比重が移動してます。

『最初のページに書き込む』は、
私にもできそう。
重要な『なぜ』つながり。
うん。その『つながる読書』。
これなら、私にもできそうです。
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巨大な図書館が。

2017-06-13 | 短文紹介
WILL7月号増刊「追悼渡部昇一」。
いいなあ。2冊買いました。
さっそく1冊さしあげました。
まだ、もう1冊買いたい(笑)。

鼎談から引用。

潮】 DHCテレビで『書痴の楽園】という番組の
ホストをやっていましたね。宮崎美子さんを相手に。

八木】 渡部さんのような、専門の英語学以外の
あらゆるジャンルに造詣の深い知識人の『死』というのは、
巨大な『図書館』が文字通り、一つ喪失したかのようなもの
だと思います。・・・(p33)


うん。読み応えのある増刊号追悼雑誌を、
どうも、ありがとうございます。




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湧水に触れる。

2017-06-12 | 本棚並べ
渡部昇一著「知の湧水(ゆうすい)」(WAC)を
パラパラとめくると、気になる本が数冊みつかる。

読む読まないは別として、
触手が動く本を拾います。

「努力論」

「『努力論』は私の最も重要な愛読書となり、
あれから六十年ほど経ついまでも、私の机の前、
三、四十センチ離れたところ、
つまり手の届くところにある。」(p114)


うん。これ一冊だけじゃなかったのでした。


「カトリックの信仰」

「最も尊敬している人と聞かれれば、
その一人に私は岩下壮一神父を挙げたいし、
学生に奨める本の一冊には、岩下神父の
『カトリックの信仰』を入れることにしている。」(p183)


「露伴翁家語」

「露伴の座談、対談本は多くあるが、私はまず
塩谷賛『露伴翁家語』から入ることを薦めたい。」(p116)


「川柳から観たユウモアの日本」

「偶然の幸運で、私は松村範三
『川柳から観たユウモアの日本』(磯部甲陽堂、昭和四年)
を学生の時に手に入れた。それは一千百ページもの大冊である。
神話の時代のイザナギノミコトから徳川秀忠、三河武士までの
日本通史を、江戸時代の川柳で叙述している『詠史』なのだ。」
(p137)


ノエル・バーバー著、原田栄一訳
「不吉な黄昏 ——シンガポール陥落の記録」(中公文庫)

・・・・・・(p24)


まだあるのですが、
私にも買えそうな範囲で、あげてみました。
はい、古本で購入(笑)。


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何を言ってるんだ。

2017-06-11 | 道しるべ
渡部昇一氏への追悼文。

中西輝政氏の雑誌への掲載が、3冊で読めました。
とりあえず上げてみると、

 Hanada7月号「大切な人の早すぎる死」
 WILL7月増刊号「『不死身の言論人』の早すぎた死」
 Voice7月号「渡部昇一先生を偲ぶ」

古典落語を話す落語家のように、各雑誌で
本題の内容は同じでも、微妙に導入部がかわります。
それは、それとして、中西輝政氏の
本題の気になった箇所を引用。
ここには、WILLの文章をまず引用してみます。

「・・・私が初めて渡部先生に直接お目にかかったのは、
1997年に出版した拙著『大英帝国衰亡史』がベストセラー
になったので、当時テレビ東京で渡部先生がホスト役を
つとめておられた対談番組にゲストとして招かれたときだった。
その頃の日本では、バブルが崩壊し隆盛を極めた経済大国・日本
がかつてのイギリスのように衰亡の道をたどるのでは、
という関心が強くあったので、局側が用意した番組の台本は、
話題をそういう方向へ持っていくようになっていた。

しかし話し始めると、イギリスをはじめとするヨーロッパの
歴史や文化に関わる細かな話やエピソードへと、
二人の対話はまさしく『あらぬ方向』に脱線し続けて、
場面は何だか二人物好きの学者が
『そうそう、それそれ』などと言いつつ、
何やらマニアックな話で勝手に盛り上ってゆくというものであった。
見かねたテレビ局のスタッフが割って入って
『撮り直ししましょう』と言い出した。
ところが渡部先生は
『こういう話こそ値打ちがあるんだ』
とたしなめられるのであった。私はその時
『この人はとても立派な学者なのだ』
と深く感じ入った。
世間が関心を抱く話題を大衆にわかりやすい口調で
説く評論家の役割も大切だが、
学問それ自体のよろこびを知る者同士が
時と場所を忘れて語り合う、この世の中には
そんな世界もあるのだということを
多くの人々に知ってもらうのも、
大切な文化の営みなのである。・・・」(p45~46)

この引用したテレビ番組の箇所は
雑誌Hanadaでは、こうなっておりました。

「しかし話し始めると、
ともにイギリスをはじめとするヨーロッパの
(アメリカではない!)歴史と文化に深い
愛着と強い関心を共有していたから、
そのうち二人の話はどんどんあらぬ方へと
『暴走』を始め、場面は何だかマニア的な
欧州史の話が次々に出て、二人の物好きの学者が
『そうそう、それそれ』とか言って
勝手に盛り上がってゆく。
見かねたテレビ局のスタッフが割って入って
『カット』の連続になり、はてはビデオの
『撮り直し』ということを口にするのであった。
しかし渡部先生は、
『何を言ってるんだ。こういう話こそ値打ちがあるんだ』
と強く窘(たしな)められた。・・・」(p302)


この機会にP・G・ハマトン「知的生活」を
読もうと思っております(笑)。
そこから引用してみます。

「今日の学校教育の内容はあまりにも
ヴァラエティに富んでいて、
若者たちはとりとめもなくいろんな分野の
ことを学ぶはめになり、結局、生半可な知識しか
身につけられないでいます。
若者が自分のエネルギーを思い切り集中するのは、
専門的な職業に従事している時だけです。
したがって、学校では教えない徹底した専門の
職業訓練には着実な効果があります。
わが息子たちは、不完全であっても多くのことを
すればほめられ、褒美をもらってきます。
完璧にものを学ぶとは一体どういうことなのか、
またそうするためにはとてつもない努力が
要求されるのだということを息子たちが
知らないままに終っても、彼らには罪はないわけです。
ですから、いい折を見つけて、
生半可な知識と完璧な知識の違いを、
御自分の息子さんにも体得させるようにしたほうがよいと思います。
・・・・」(単行本p109)



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私の机の前。

2017-06-10 | 幸田文
新刊購入。
渡部昇一著「知の湧水(ゆうすい)」(WAC)。
この本は雑誌WILL2014年3月~2016年12月号まで
連載された『遅の井の湧水』を改題したものだそうです。

うん。渡部氏が亡くならなければ買わなかったと思う。
雑誌のバックナンバーをそろえていたし
(読んでいなかったのですが)いつでも読めると思っていました。

あらためて、読めてよかった。
その「座談の愉しみ」に露伴が語られています。

「その後は、新制高校でも露伴に触れることはなかった。
大学でも教養課程の頃は無関心だった。ところが、
大学三年生の時に神藤克彦教授の授業に出たことで
一変したのである。神藤先生はスムーズに大学を
出られた方でなかった。旧制中学を出られてから、
しばらく家業についておられたが、向学の志やみがたく、
学費の要らない広島高師、広島文理大学に進まれたのであった。
学校から離れざるを得ない事情がありながら、
学問を憧れる気持ちが強く、ついにまた高等教育の場に
戻られた方には一つの特徴があると思う。
それは修養、立志伝中に出てくるタイプの
修養の期間があったということである。・・
学校のコースから離れざるを得なかった人で
向学心のある人は、自分の内省、修養によって
その志を育てるより仕方がない。
それは露伴も同じことで、彼がしばしば
修養の本・努力の本を書いたのは、
そういう体験を経ていたからである。
ある大学教授で露伴の研究家と称する人が、
露伴が小説や詩などの文学に専心せず、
修養書の多いことを嘆く主旨の文章を書いた人がある。
私は『この人は露伴の本当のところが分かっていないナ』
と思わざるを得なかった。
このように私が考えるようになったのは、
神藤先生のご自宅にほとんど日参するように
なったからである。・・・・先生はこう言われた。
『露伴の偉さが分かるためには、彼がどういう修養を
した人間であるかを知らなければならない。
そのためには、まず『努力論』を読むことだ。
『修養論』(私注:これは「修省論」でしょう)もよい
・・・・』というわけで、まず『努力論』を
薦めてくださった。大学の授業で挙げられる参考文献と異なり、
ご自宅で茶卓を前にして薦められる本は
先生自身の人格、あるいは人生が籠められているように感ずるものだ。
そして『努力論』は私の最も重要な愛読書となり、
あれから六十年ほど経ついまでも、
私の机の前、三、四十センチ離れたところ、
つまり手の届くところにある。」(~p114)

関連でp160~161も読ませます。


うん。いつか『努力論』をパラパラとめくったことが
あったけれど、ちっとも、私には理解できませんでした。
今年の夏。あらためて開いてみます。
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きついと思う。

2017-06-09 | 産経新聞
産経新聞の6月6日でした。
2面の下に、雑誌広告。
WILL7月増刊号「追悼渡部昇一」。
次の3面総合欄は
「一橋大学園祭 百田尚樹さん公演中止 実行委に圧力」
と見出しで、一橋大の校門写真と、百田さんの顔写真。

そこからすこし引用。

「一橋大の学園祭で開催予定だった作家の
百田尚樹さんの講演会が急遽中止になった問題を受け、
百田さんが5日、産経新聞の取材に応じ、
『百田尚樹という、自分たちが気に入らない人物に
話をさせないことが目的になっている。
言論弾圧以外の何ものでもない』
などと自身の見解を語った。
実行委側には、
『講演を聞いてショックで自殺したら、どう責任を取るのだ』
などといった意見が『手を替え品を替え寄せられた』といい、
百田さんは『ノイローゼになった学生や、泣き出す女学生も
いたようだ。19、20歳の学生がそんなにしつこくやられたら、
きついと思う』と・・・・」


うん。この『きついと思う』ことから何を学ぶのか?
転んでもただでは起きないでくださいね。
以下に引用する『希有なケース』を読んで、
さまざまケースがあることも知ってください。

たとえば、渡部昇一著「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP研究所)に
こんな箇所があります。


「『朝日新聞』の虚構報道は、私にさまざまな影響をもたらしました。
・・・執拗に授業妨害を受けました。とくにある障害者団体と団体は、
私が担当しているあらゆる授業に押しかけてきました。
たとえば、ある障害者団体は、活動家が障害者を乗せた車椅子を押して
教室に入ってきました。そんなとき私は障害者の手をとって、
『今あなたの車椅子を押しているのは悪い人ですよ』と語りかけました。
そうすると、障害者が私を批判するために来たという建前ですから、
車椅子を押している活動家は何も言えないのです。
当時、私は週六コマほど授業を受け持っていましたが、
すべての授業で妨害を受けるということが、
夏休み前後におよそ四カ月も続きました。
また、大学構内の最も目立つ場所に、『渡部教授を批判する』
という巨大な看板を立てられました。そこに書かれているのは、
『朝日新聞』の虚構報道をもとにした私への罵詈雑言です。
私がかつて子供の頃のことを書いた文章まで持ち出して
私を批判したものもありました。・・・・
それで六月か七月頃、抗議に来た団体の代表に
『立て看板には君たちの言い分だけを書いているけど、
僕の言い分も書かせてくれよ』と言って、
私は反論を書いたのです。
するとその団体は来なくなり、そのまま夏休みになりました。
ところが夏休みが明けると、顔ぶれを一新して、
またその団体の糾弾が始まりました。
かつてのメンバーは更迭されたのでしょう。
そこで私はまた、新しい責任者を説得して
立て看板に私の言い分を書きました。
やがて私への糾弾は下火となり、
立て看板も撤去されました。
結局、私は発言の訂正や謝罪を一度もすることなく、
この馬鹿げた騒動を乗り切ったのです。
私のところに押しかけてきた二つの糾弾団体は
とくに恐れられていた存在で、その団体に追及され、
対応の苦慮した大学は他にもありました。
教師が辞職に追い込まれたり、
大学側に『思想改善』のための講習会に出席せよと迫って、
講習費の名目で金銭を要求されたりしたケースもあると聞いています。
ですから、私が発言の訂正や謝罪をすることなく事態を
終結させたのは、希有なケースだと言われました。
あとで聞いたところでは、上智大学の事務局には
他の大学から
『過激な糾弾団体にどう対応すればいいか教えてほしい』と、
講師派遣の依頼がいろいろあったそうです。」
(p56~p59)


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めったにないんですが。

2017-06-08 | 他生の縁
雑誌WILL7月号増刊の
「追悼・渡部昇一」に
WILL本誌発行人鈴木隆一氏の話が掲載されております。
雑誌WILL発刊について語られておりました。

鈴木】 それは当初からこれで行こうというのがあったんです。
渡部先生を軸として谷沢永一、日下公人、岡田英弘、櫻井よしこ、
黄文雄といった先生がたを軸にして行こうと。
そして、これまでの保守系論壇誌と異なり活字は大きく、
分厚くなく、紙は白く、読みやすく。
いずれの先生がたも、すでに単行本の常連執筆者でもありました。
(p124)


聞き手】 (渡部)先生のご子息のお話で
『父はたくさん本を出していますが、鈴木さんのところで
出していただいた『渡部昇一「日本の歴史」』と
『渡部昇一 青春の読書』をことのほか喜んでいて、
私にも読めと言ってくれたんですよ。めったにないんですが』
とおっしゃっていましたね。

鈴木】 そうでしたね。一昨年、瑞宝中綬章を叙勲されました。
そこで青山の料理屋にご夫婦をご招待したことがありました。
この頃、出された料理はまあまあ手を付けられておりました。
そのときも、『勲章より、あれ(「渡部昇一 青春の読書」)を出して
いただいたことの方がよっぽどうれしいですね』
これまた恐縮の極みでありました。(p127)


私は『渡部昇一 青春の読書』を購入しておりませんでした。
古本で安くなったら買おうと思っていても、
いまだに安くならなかった。
この機会に、買うことにしました。


さてっと、この鈴木隆一氏の言葉のなかに
岡田英弘氏の名前が出て来るのでした。

そういえば、2017年6月5日の
読売新聞「編集手帳」に岡田英弘氏の名前。
そこを引用。

「図書館の棚に並ぶ知識人の著作集には、
手あかにまみれたものもあれば、
ほとんどまっさらなものもある。
著者がある時期の流行の波に乗ったか否か、にもよる。
著作集読破を趣味とする古田博司筑波大教授の意見では、
むしろ後者に今日でも読むにたえる文章が多い。
歴史学者、岡田英弘さんが先月、死去した。
本紙のデータベースでその名前を検索して見つかった記事は、
この20余年で10本もない。
マスコミにひっぱりだこだったとは言えない。
一連の著書は、様々な分野の目利きにより、
書評欄で紹介されてきた。・・・」

コラム『編集手帳』の前半を引用しました。
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教養と修養。

2017-06-07 | 道しるべ
WILL7月臨時増刊歴史通とあり
「追悼『知の巨人』渡部昇一」。

さてっと、その平川祐弘氏の追悼文に
こんな箇所。

「渡部氏の『知的生活の方法』は
よく売れて百二十万部出たという。
しかし私はこれが名著とは思わず、
自分が当時は狭いプレハブに住んでいたこともあり
『僕は書庫など造らない。書物は大学の図書室を利用する』
などと氏に言ってしまった。」(p96)

はい。追悼文で
こうして、書かれるのは、
平川祐弘氏ぐらいでしょうね(笑)。

さてっと、そのあとに
平川氏は渡部昇一著「幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法」
からの引用をしております。
そこに平川氏が取り上げられているからでした。

そこのところを、直接本にあたってみました。
平川氏の引用の少し前から引用してみます。

幸田露伴の努力論などをとりあげたあとに
渡部氏はこう指摘しておりました。

「これらの本は一種の修養書であるといってもいい。
ところが近代の教養主義は、修養という言葉を嫌がる傾きがある。
それは修養が立身出世の一手段と考えられるようになったからであろう。
しかし露伴の頃は修養は非常に重要なことであり、
大学でも倫理学が最も人気のある学科といわれていた。
たとえば新渡戸稲造博士は、現在は『武士道』という本を書いたことで
知られるが、当時の日本では、新渡戸稲造博士の主著は『武士道』ではなく
『修養』であると考えられていた。そのように修養書が人々に
受け入れられていた時代があったのである。
現代の知識人の多くが、人間を論ずるときに、
その修養的な面を省いて考えようとする傾向が強い
ように私には感じられる。それはなぜか。
・・・・私にはどうしても一定のコースに乗った
自分の将来の人生像が浮かばないのである。
そんな自分をどうするかを考えるためには、
古今の偉人の話からヒントを得て、
自分なりに考えるより仕方がない。
多くの人間には、そういう時期が必ずあるのではないのだろうか。」

「神藤先生のように、それから露伴のように、
自分で本を読んで自分の人生を考えるというコースしか
なかったのである。しかし私は、それが自分の人生を
非常に豊かにしてくれたように思う。
ゆえに私は、大学の教師になってからも、
しきりにそのようなことを書くようになったのである。
あるとき東大の平川祐弘先生が私の随筆を読んでくださって、
そこで私が紹介していた本を取り上げて
『なかなか珍しいものがあっていいが、
修養的なことは余計な話だ』というようなことを
述べられたことがある。・・・」


「露伴の語録に学ぶ自己修養法」(到知出版社)
の「はじめに」に出てくる言葉を引用しているのですが、
ここで、渡部氏は
露伴と漱石とをもってきております。

「露伴は、中学では夏目漱石と同じクラスにいたこともある
といわれている。漱石は、その後一高から東大に進んで、
第一回の文部省留学生になってイギリスへ留学する。・・
一方の露伴は、学歴といえば、中学を出たあとは
電信技術系の専修学校のようなところで学んだだけである。」

あらためて「はじめに」を読んでいると、
露伴が、渡部昇一氏で
漱石が、平川祐弘氏であるような気になります(笑)。


そうだとすると、
この平川氏による追悼文は、
漱石が、露伴を追悼しているみたいにも読めるなあ、
と思いながら読みました。

それにしても、「教養」と「修養」というのは
興味深いテーマとなります。
そのテーマの切り取り方を、
平川氏は見事にこの追悼文でやってのけたような気がするのでした。

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渡部昇一・追悼号

2017-06-06 | 道しるべ
今日の産経新聞の広告で知りました。
WILL歴史通7月号増刊
「追悼『知の巨人』渡部昇一」
さっそく、近くの本屋さんへ買いにゆく。
ありました。

自宅の身近な本棚に、スペースをあけて
そこに、以前に買ってあった渡部昇一氏の本を
ならべておりました。開かなかった本のほうが多い(笑)。

その本棚の上には、
竹山道夫と平川祐弘氏の本を並べてある。
ということもあって、
まず読んだのは、平川祐弘氏の追悼文。
そこに、こうありました。

「私も弔意を表す機会を失してはならぬと思い、
座談形式でなく、私が知る渡部氏と目に触れた
何冊かの書物をもとに、怱忙の間ではあるが、
拙い思い出を記し、別れのご挨拶に代えさせていただく」(p90)

渡部昇一著『青春の読書』については

「・・だがこの六百頁の大著について
信頼できる最大の批評家は私でなく読者だろう。
それも何代にもわたる読者だろう。
私は日本でこの書物が末永く読まれることを
希望せずにはいられない。」

平川祐弘氏らしい文になっておりました。

おまけに、別の個所ですが、
雑誌WILLと雑誌Hanadaとのことも
その経緯を理解できました。

「永久保存版」とあります。読めてよかった。
はい。心の籠った追悼雑誌をありがとうございます。
コメント (2)
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