和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

はじめての宮澤賢治童話

2023-06-30 | 他生の縁
はい。漫画とテレビで育ったせいで、
とんと童話など読まずに育ちました。

ですから、宮沢賢治といえば、ますむら・ひろしの漫画で
猫たちの宮沢賢治童話集はパラパラとひらきましたが、
それでも、直接に賢治の童話集は読まずに、この年となりました。

アニメ映画『銀河鉄道の夜』は、細野晴臣の音楽が印象深かった。
宮澤賢治の詩『永訣の朝』は、国語の教科書で知りました。その程度です。

はい。そんな程度の「袖触れ会うも」体験の私の宮沢賢治であります。
この年になって、宮沢賢治の童話を、読みはじめようと思うたのしみ。

宮澤賢治を山にたとえるならば、その山への水先案内人は
なんだか、大勢みつかりそうです。ということで、はじまりの宮沢賢治は、
いろいろな方の賢治体験を読めば、はじめのとっかかりがつかめそうです。

ということで、まず、ひっかかったのが梅原猛の賢治論でした。

梅原猛氏は、宮沢賢治の童話と詩とを天秤にかけておりました。

「 その意味で賢治の童話は、賢治の詩よりも一層詩的なのである。 」(p16)

「しかし、詩は童話よりはるかに難解である。正直に言えば、
 私(梅原)には賢治の『春と修羅』における詩の三分の二はよくわからない。
 童話の中にもわからないものはないわけではないけれど、
 しかしそれは主に未定稿のものであり、その意味では
 編集の段階で何か疑問があると思われるものが多い。
 一応完成したと思われる彼の童話は私にはほぼ理解できるのである。

 そして、童話を読むごとに私は改めてその童話のもっている深い意味に
 気がつくのである。賢治ほど私に言葉のもっている深い意味を教えて
 くれる詩人はいない。・・ 」
      ( p16~17 「賢治の宇宙」佼成出版社・1985年 )


はい。私などはこれで登山の入り口がはっきりした気分になります。
宮澤賢治の山脈があるのなら、賢治の詩の山をこの際、度外視して、
まずは宮沢賢治の童話の山から登頂をはじめれば展望がひらけそう。

はい。お笑いください。70歳からの手習い。
何だか、遠足の前日のソワソワ感でもって、
いまだ、賢治童話を読んでいないのでした。

ということで、まずは『注文の多い料理店』(新潮文庫)を古本で注文。
はい。これが届く前にここはもうすこし梅原猛氏の文を引用することに。

「 賢治が生前発表した唯一の童話集は『注文の多い料理店』である。
  ここに・・九つの童話が収録されている。・・・

  この賢治が生前自ら発行した唯一の童話集は、
  無視されがちであり、多くの全集ではそれがばらばらに配列されている。

  小倉豊文氏がいうように、これは賢治理解にとってまちがったことであり、
  やはり賢治が自らつくった童話集はその順で読まれ、
  ゆっくり味わわなくてはならないと私は思う。・・・ 」

 このあとに、梅原氏は、『注文の多い料理店』の序文を引用して
 そのあとに、こう語っておりました。

「 賢治の言うとおり、その童話には作りごとがないのである。
  無理な構成とか奇矯な修飾は賢治の童話にはまったくない。 」
 
 そして、『注文の多い料理店』の序文から、この箇所を引用しています。

「 それは賢治の言うとおりに、

 『 かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、
   11月の山の風のなかに、ふるへながら立って 』いたりしたときに、

  自然に浮かんできた心象風景にちがいないのである。 」(~p21)



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粗末にしてはいけない価値

2023-06-29 | 短文紹介
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬舎新書・2023年6月30日発行)。
はい。パラパラとひらくのですが、本文の最後の方にある、ここを引用。

「 日本語は、音節言語で極めて発音しやすく、外国人も学びやすい。
  のみならず、ほとんど母音で終わる開音節性で、響きの美しい言語でした。

  さらに、重要な役割を持った語を後ろに配するという一貫性のある
  文の構造をしていましたね。

  そして、常に相手の遇し方に気を配り、
  敬語という特別な言語形式を持っていましたね。

  しかも、相手との心理的な距離によって臨機応変に言語形式を変える
  というユニークな相対敬語の言語だったではないですか。

  また、ひらがな・カタカナという、世界にたった一つしかない
  文字を千年以上も使い続けていましたね。
  文章は、漢字にひらがな・カタカナを交ぜて記し、この上なく
  意味のとりやすい効率的な様式を採用していました。

  そして、語彙の豊かさにかけては、世界のトップクラス。
  とくに、心理を表す語彙は、極めて豊富。

  さらに、概して、漢字は漢語を、ひらがなは和語を、
  カタカナは外来語や擬音語・擬態語を表すというぐあいに、
  文字で語の出自(しゅつじ)や性質まで区別している。

  おまけに、フリガナまで動員して、意味の豊かさを追求する。
  こんな面白い言語が、どこにあるでしょうか?
  世界中探したって、日本語以外には見つかりません。

  独自性を持った言語ほど、人類の進歩に役に立ちます。
  日本語は、粗末にしてはいけない価値を持っている言語です。

  どうか、そのことに気づいてください。こうした特色を持った
  日本語に支えられて、日本独自の文化が生まれているのです。

  奈良時代にはすでに、他の言語では決して真似できない
  短歌という独自の文学形態を生み出し、

  平安時代には、世界の人に読んでもらえるような
  巧みな心理描写を駆使した傑作を誕生させています。

  現代だって、日本語の特質であるオノマトペをふんだんに使った
  コミックで、世界中の若者たちを魅了しているではありませんか。

  日本人自身が、日本語に対する積極的な価値を見出し、誇りと
  自信を持って守らなければ、誰も日本語を守ってはくれないのです。
  言語学者のデイヴィッド・ハリソンさんは、こう言い切っています。
 『 私が確信していることはただ一点、言語が外部の人間によって
   【 救われる 】ことはありえないということだ  』。
  日本人が日本語を守らなければ、日本語は消滅するのです! 
  そして、日本語を子供たちに喜んで教えてあげてください。・・ 」

                         ( p271~272 )


はい。分かりづらかった『ユニークな相対敬語の言語』とか
そして『音節言語』とかの具体的紹介は、各章で触れられておりました。
うん。私のパラパラ読みはここまで。
はい。私の受け取ったメッセージは引用したこの箇所でした。
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つつましく決意に満ちた

2023-06-28 | 先達たち
注文してあった新刊が今日届いている。
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬社新書)。

「あとがき」から、この箇所を引用してはじめます。

「・・私は、その後大腸がんを患い手術。
 それから4年後には今度は膵臓がんになってしまい、手術。

 ようやく健康を取り戻しつつあった時、それまでの自分の
 日本語学関連の研究をまとめておく必要を感じ・・刊行しました。

 刊行し終わっても、まだ寿命が残っているようでした。

 せっかく生かしていただいているのだから、
 ずっと気になっていた日本語の危機についてきちんと考えてみよう。
 ・・・     」(p280)

ちなみに、山口仲美さんは1943年生まれ。
こうして、新刊を手にできるありがたさ。

え~い。ここはいっきに、この新書の
本文最後の箇所を引用しておくことに。

「 最後に、私の心に残り続けるジョン・グーレさんの詩の
  一部を引用して結びにしたいと思います。

    死にゆく言葉はそっと崩れ落ちる
    あの村でもこの村でも
    静かに倒れていく――叫ぶこともなく
    泣きわめくこともない
    さらりと、ふいにいなくなる
    鋭い目を持たなければ
    その静かな破滅に気づかない
    そしてつつましく、決意に満ちた心がなければ
    それを止めることはできない

  鋭い目を持たなければ、世界言語から見ると、
  一地方語にすぎない日本語に静かに忍び寄る破滅に気づかないのです。
  それを未然に防ぐのは、つつましく決意に満ちた日本人の心なのです。」

                 ( p277~278 )



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Hanada8月号

2023-06-27 | 前書・後書。
月刊Hanada8月号「安倍晋三元総理一周忌大特集号」。
最後のページ下の「編集長から」に

「 この一年、安倍総理のこと思わない日はありませんでした・・・
  編集しながら、改めて、いろいろなことを思い出してしまう。・・ 」

はい。特集を組んでいただき、ありがとうございます。
私のように、すぐに忘れてしまう者には有難いかぎり。

ここでは、巻頭随筆を紹介。
渡辺利夫の巻頭随筆「新・瘦我慢の説」、
この回は、朝鮮への言及でした。

①イザベラ・バード『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』講談社学術文庫
②グレゴリー・ヘンダーソン『朝鮮の政治社会―渦巻構造の分析』サイマル出版社
③シャルル・ダレ『朝鮮事情』平凡社東洋文庫

の3冊の引用を重ねながらすすめております。
とりあえず、3冊からの引用のあとに、渡辺氏はこう記します。

「政治文化の伝統という拘束からみずからを解き放つというのは、
 そう簡単なことではない。1948年に独立した国家が大韓民国である・・

 この国の・・荒々しい権力抗争は、
 李朝時代のそれを彷彿させるようになお激しい。
 歴代大統領の末路は、日本などでは想像さえできないほどの悲惨さである。

 李承晩(イスンマン)は失脚して亡命先のハワイで客死。
 朴正煕(パクチョンヒ)は側近により暗殺、
 全斗煥(チョンドウファン)は反乱事件の首謀者として死刑判決、
 盧泰愚(ノテウ)は懲役十七年、
 廬武鉉(ノムヒョン)は投身自殺、
 李明博(イミヨンパク)は懲役十七年、
 朴槿恵(パククネ)は弾劾を受けて大統領を追われた・・・ 」

「 ・・・左派エリートたちは、
  韓国は『間違って作られた国』だと考えていると
  李栄薫(イヨンフン)は『反日種族主義―日韓危機の根源』
  のなかで指摘している。そうに違いない。

 『過去史清算』とか『積弊清算』とかいう物言いは、そういう
 彼らのセンチメントを政治用語化したものなのであろう。・・・   」

ちなみに、巻末随筆はというと平川祐弘氏の「詩を読んで史を語る」
こちらの連載は、もう14回目です。


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百年前の賢治

2023-06-26 | 思いつき
大正12年(1923年)の関東大震災から、今年が百年目の2023年。
そういえば、大正10年12月に宮沢賢治は岩手の稗貫農学校教諭になっています。
関東大震災の前には、賢治はどうしていたのだろうか?

大正11年3月頃、『精神歌』『黎明行進歌』『応援歌』など作り生徒と歌う。
大正11年11月、トシ没(24歳)『永訣の朝』『無声慟哭』群の詩を書く。
大正12年7月~8月、生徒の就職依頼のため青森、北海道経由樺太旅行。
詩『青森挽歌』『オホーツク挽歌』を書く。

年譜によると、当時の気象状況も載せておりました。
大正10年。大暴風雨で県下被害甚大
大正11年。この年も二度にわたり大暴風雨の被害甚大。
大正12年。この年、60年来の大風雪。
大正13年。この年、旱害のため県下五割減収。

    ( 宮澤賢治年譜 原子朗 )


大正12年5月には、稗貫郡立稗貫農学校が、花巻農学校となり開校式。

山折哲雄氏の文によれば、

「大正10年から15年までの期間、賢治は花巻農学校の教師をしていた。
 『春と修羅』をはじめ、つぎつぎと詩の大作を書いていたときである・・」

「 賢治は昭和元年に花巻農学校を退職して、花巻町の下根子で自炊生活を
  はじめた。そして『農民芸術概論』を書き、『羅須地人協会』を設立 」

   ( p14~16 「賢治の風光」佼成出版社・1985年 )

山折哲雄著「わが人生の三原則」(中央公論新社・2013年)の
本の最後に、賢治と中也とを並べている箇所がありました。
そのはじまりは、「風土と詩人」

「私(山折哲雄)の故郷は岩手県の花巻市です。
 宮澤賢治の生家から二、三百メートル離れたところに実家があります。
 両親などから生前の賢治について、よく話を聞かされて育ちました。
 ・・賢治の作品には子どものころから親しみ、自分なりに読んできました。」

「・・・賢治もまた何度か上京しました。
 しかし身体が強健でなく、生計を立てる手段もなかった賢治は、

 その都度、故郷に引き戻されてしまう。故郷脱出を諦めざるを得なかった。
 つまり異文化の世界へ水平移動をすることができなかったのです。

 その結果、水平方向を塞き止められた賢治のイマジネーションの奔流は、
 垂直方向の宇宙の高みへと翔け昇っていった。
 賢治の想像力の本質を、私はそう解釈しています。  」(p164)




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安倍晋三氏の街頭演説。

2023-06-25 | 産経新聞
産経新聞を購読しております。といっても
見出しだけパラパラ見て、テレビ欄を見る程度です。
一面コラム「産経抄」も、ほとんど読みません。

けれど、2023年6月24日の産経抄は忘れたくない。
それでここに再録しておきます。コラムの最後は、

「 安部氏が街頭演説中に凶弾に倒れて、もう1年が経とうとしている。 」

はじまりの方からも適宜引用をしてゆくことに。

「・・・令和元年夏の参院選で安部氏の街頭演説中に
 『辞めろ』『帰れ』などと大声でやじを飛ばし、
 北海道警に排除された男女が道に損害賠償を求めた
 訴訟の控訴審判決で、札幌高裁は22日、男性への
 賠償命令を取り消した。当然だといえる。

 男性は警官の警告を無視して大声での連呼をやめず、
 演説車両に向かって突然走り出すなどしていたのである。

 道警の対応を違法として賠償を命じた昨年3月の1審判決には、
 強い危惧を抱いた。・・警察を、さらに萎縮させると。

 元年7月13日の小欄は、同じ参院選で東京都中野区での
 安部氏の街頭演説中に起きた事件の顛末を紹介している。

 やはり『安部氏辞めろ』と騒いでいた一団が、
 女性に『演説が聞こえない』と注意されても静まらず、果てに
 女性のスマートフォンを取り上げ、地面にたたきつけて壊したのだった。
 ・・・・・

 民主主義の原点といえる街頭演説の邪魔をする『こんな人たち』・・

 1審判決は、演説妨害の過激化や警察警備の弱体化を予感させた。・・ 」
 
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蒙古襲来と怨霊追善。

2023-06-24 | 道しるべ
産経新聞の2023年6月6日。平川祐弘氏の正論欄で紹介されていた
テレングト・アイトル著『超越への親密性――もう一つの日本文学の読み方』
をひらく、平川氏が指摘されていた論文は、その本の最後にありました。
はい。とりあえず、私はそのところだけでも読んでみる。

蒙古襲来からとりあげられているのですが、
「フビライの帝国は遊牧型、農耕型、海洋型の社会が融合するように
 して拡大し、大都を中核として大ユーラシア交易圏ができあがってゆく」
その大局的な見地で、「フビライの帝国は全南宋を無傷のままに接収」
する具体的な流れを指摘してゆきます。

そのあとに、鎌倉幕府と北条一族へ焦点を定めております。
1278年(弘安元年)7月、建長寺の開山である禅僧蘭渓道隆(1213~78)が
没し、北条時宗は傑出した禅僧を招くために、宋僧無学祖元を迎えます。

「・・南宋政権はこの時点で崩壊して消えて二年も経っていたが、
 それを知ってか知らずか北条時宗は、仇敵フビライ・ハーンの元朝の
 支配下に置かれ、民間貿易・交流が自由で盛んだった寧波へ二僧を
 派遣した・・・

 これはつまり、鎌倉幕府は、元朝軍の第一次『蒙古襲来』の被害に
 見舞われた4年後、同じく元朝支配下の寧波仏教界へ公式に二人を派遣し、
 元朝の仏教界において傑出した僧を招請するために自由に出入をし、
 かつ元朝の禅僧無学祖元を迎えることに成功したということになる。」
                          ( ~p449 )

このあとに、無学祖元への言及がはじまります。

「無学祖元は日本に上陸した後、まず建長寺の住寺として迎えられた。
 1281年、第二次『蒙古襲来』(弘安の役)が過ぎると、
 『祖元は元寇も片づいたので時宗に対して帰国の希望をもらしはじめた』
 という・・・   」(p452)

「北条時宗は無学祖元が帰国の希望をもらしたことに驚き・・・
 円覚寺がちょうど落成したので、1282年、無学祖元を開山始祖として
 プレゼントした。ねらいは慰留するためである。それに加えて

 『蒙古襲来』も片づいたので、御霊信仰に従い、
 北条時宗はさらに円覚寺の開山にあたって、
 『 亡くなった日本や元の兵士など、敵味方両方の戦没者を追悼する 』
 という悲願をも託したという。

 敵味方なく外国の戦没者の霊を平等に祭るという点において、
 おそらく円覚寺の創立は、近代を除き日本史上、最高の
 格式と最大の規模のものといえよう。  」(p453~454)

こうして開山の記念説法である祈祷文の現代語訳にして載せております。
「この開山祈祷文は無学祖元の「語録」の形で現在まで残っている。・・
 それは明らかに檀那の北条時宗によって依頼された祈祷文を念誦しており」

まあ、その現代語訳を引用してみます。

「 わが日本国を助け、堅固な妙高山のように、
  わが軍の勇敢さは金剛力士のように、

  わが国が豊作で民の飢饉がないように、
  わが民が安楽して疾病がないように、
  わが国が永遠に続くように、・・・・

  古代から前年までの、わが軍と敵軍が戦死し、
  溺死した衆生の魂が帰するところなくさまよい、
  ひたすら速くそれらを救うようここで祈願し、
  
  皆苦界を超えるよう祈願します。
  仏界・法界において差がなく、
  怨親悉く平等でありますように(筆者訳)  」(p454)

このあとに、p457には、こうありました。

「 かくして日本史上最大の国難をもたらした宿敵、
  また無学祖元にとっても仇敵のモンゴルの怨霊が祭られることになる。

  そして元来、国内における敵味方なく
  怨親平等に怨霊が供養される祭祀は、
  
  今度外国の敵の怨霊をも内包するようになり、
  したがって『怨親平等』という死後の世界の平等は、
  被害側の日本と旧南宋の禅僧と元朝モンゴル帝国との
  現世の対立を超越することになる。

  元来の祟りや災いを避けるための信仰が、
  ここでは別の次元で受容され、揚棄され、
  普遍的な意味を具有するようになったといえよう。

  当時日本国内では、円覚寺の開山祭祀は
  宗教上最大のイベントであったばかりか、
  幕府のお抱えの禅僧無学祖元によって営まれたので、
  その祭祀によって、禅林の慈悲深さと寛大さが改めて明証され、
  怨霊鎮魂という伝統と信仰もより尊ばれたことであろう。

  実際、九州各地をはじめ日本の東北各地までモンゴル兵士の
  犠牲者の塚・追善の塔・板碑などが多く創られたのである。 」(p458)


はい。論文の内容は細部に詳しく、だいぶ端折りましたが、
私はこれだけでも、読めてよかったです。

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これ、やめないでおきましょう。

2023-06-23 | 絵・言葉
須田剋太画伯の『街道をゆく』の挿画をカタログで眺めていると、
落ち着かない気分になってきて、それを合点させくれる言葉を欲しくなる。

ということで、「司馬遼太郎が考えたこと」の9巻・11巻・14巻をとりだす。
司馬さんと、須田画伯との仕事での出会いがあってからでした。

「 須田さんは旅をしているうちに、
 
 『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』

  と言いはじめたのです。これとは『街道をゆく』のことです。
  私(わつち)はこのおかげですっかり健康になりました。
  などといって上機嫌でした。

  はじめのころ須田さんは65歳でした。私は17歳も下で、
  まだ40代でしたから、須田さんがずいぶん年長に感じられましたし、
 
  いずれお弱りになるだろうと思い、そうですね、
  といいかげんにうなずいた記憶があります。

  そんなわけで、あのようにながい歳月を
  ご一緒するはめになってしまったのです。・・ 」

    ( p497 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

ということで、須田画伯の挿画をもっとも身近でよく味わっていた
司馬さんの言葉が、画伯の挿画のもっとも雄弁な水先案内人になります。
そういう視点で、司馬さんの言葉をもう一度引用しておきたくなります。

「 剋太の芸術を語るのに多くの喋々(ちょうちょう)を要しない。
  芸術は心の表現であるという素朴で初原的な姿勢を、
  かれは半世紀のあいだすこしも外すことなく続けてきた。

  その間、装飾性に韜晦(とうかい)せず、流行でもって渡世せず、
  道元によって触発された自分の精神のかがやきと
  その光の屈折をすこしでも表現しようとして生きてきた。・・・  」

    ( p199 「司馬遼太郎が考えたこと 9」新潮文庫 )

「 おそらく画家(須田画伯)には、土霊のようなものに
  感応しやすい生来の感受性が備わっているのであろう。

  この場合の土霊とは、伝統の文化がついに土までしみこみ、
  さらに草木に化(な)り、ついには気になって
  宇宙を循環しているといったようなものである。

  もっとも画家の場合、とくにその抽象絵画において・・・
  土霊というにおいは、まったく遠い。

  しかし、その生き方においては、確乎(かつこ)とした
  日本文化のなかにひそむ土霊の上に立っている。

  絵を描く者は中世の捨聖(すてひじり)のように
  生きねばならないというふうにして生きつづけてきた
  この人の姿勢にそのことを感じざるをいえない。 」

  (p14~15 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )

『街道をゆく』の挿画で、神社仏閣を描いた箇所をみていると
司馬さんの言葉が思い浮かんできます。

「 画家(須田画伯)には、尋常人のもたない幸運があった。
  40歳前に京都や奈良に現れたとき、この人にとって、

  そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
  とほうもなく新鮮だったことである。

  かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
  さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた
  一個のういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての

  平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
  奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。

  この時期の画家はほとんど漂泊者・・だったといっていい。
  奈良の寺や宿に仮寓(かぐう)し、ふるい世の仏師が畏れと
  ともにきざんだ彫刻を写生したり、さらには古建築の構造美を
  自分のものにしたりした。すでに40をこえていたが、なお、
  独自の修業法をとる画学生であることがつづいた。

  繰りかえすようだが、画家は、山頭火などのように
  みずから漂泊者と規定したわけではなく、自然にそうであった。

  ついでながら、諸事、このひとにあっては、ことごとしくない。 」

  ( p18~19 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )


「 そのくせ画を創りあげるときには、
  造形を創るという匠気をいっさいわすれ、
  
  地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの
  躍動をつかみあげることにのみ夢中になる。

  しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、

  たいていは、花や野の樹々といったおだやかな生命を見つめ、
  そのなかに天地を動かすような何事かを見極めつくそうとする。 」

  ( p194 「司馬遼太郎が考えたこと 9」新潮文庫 )


うん。どうしても、司馬さんと須田画伯との密接な距離感を思います。
そのヒントになりそうな箇所としては、

「 この人(須田画伯)の無自覚にちかい出離と、
  その強烈な才能をいとおしむ人が、そのつど
  出てきては、たんねんに保護した。・・・・

  奈良に仮寓していたころ、東大寺の上司海雲(かみつかさかいうん)氏が、
  大仏殿を半裸のすがたで物狂おしく写生していたこの人を見つけ、
  やがて親しくなった。
 
 『 善財童子(ぜんざいどうじ)をみたような思いがした 』

  という旨のことを、後年、上司氏はこの人について書いている。
  ・・・・・・     」

  ( p20~21 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )


はい。『 そのつど出てきては、たんねんに保護した。 』
その最後のバトンを司馬さんが受け継いでおられたのじゃなかったのか。
そうすると、この箇所があらためて印象深く思い返されます。

「 須田さんは旅をしているうちに、

 『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』

  と言いはじめたのです。これとは、『街道をゆく』のことです。 」

   ( p497 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

 
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文庫版とワイド版

2023-06-22 | 前書・後書。
司馬遼太郎著『街道をゆく』の「モンゴル紀行」と「南蛮のみち」を
古本で注文してあったのが届く。

はい。『街道をゆく』は古本で、本のサイズが選べるのがうれしい。
単行本と文庫本と文庫本のワイド版とがあり。私はワイド版を選ぶ
( なんだか、岩波文庫のワイド版が思い浮かぶのでした )。

うん。買うとほっとして読まないことがある私です。
とりあえず「南蛮のみち🈩」をパラリとひらく。
パリからはじまっているようです。

「 彼女が案内してくれた小ぶりなレストランは、
  ホテルから徒歩で十数分の街角にあった。・・・

  私はむかしから食事量がすくない。
  それに未経験の食べものへの冒険心にとぼしいために、
  同席者に快感をあたえることができない。

  せっかくパリにきてステーキでもないのだが、
  ともかくもその小ぶりなのを注文した。

  この短(たん)を、須田画伯がつねにうずめてくれた。
  この夜も時差や旅の疲れというものは画伯の食欲には無縁らしく、
  おどろくばかりの多い量の食物を、みなが食前酒を飲みきらないうち
  たいらげてしまった。

  もっとも自己についての認識は詩的で、
  極端に食が細いと信じておられ、
  そうでもないですよ、といったりすると、
  犬が噛みつくような勢いで否定される。・・・  」(p12)

はい。須田画伯がゆく。
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タケノコ飯・おでん・まんじゅう。

2023-06-21 | 他生の縁
古本で、森浩一著「食った記録」(sure・2005年)を手にしました。
「喜寿記念特別出版」とあります。

あれれ、ここにも、司馬遼太郎・須田剋太画伯がおりました。(p28∼30)

「四川省のあと雲南省に滞在し、昆明から上海へ飛んだ。
 1981年のこの回の旅は、最初に江南の各地を見てまわったので、
 旨いといってもぼつぼつ中国料理に飽きかけていた。

 それに機内では暇だったので、ぼくが
 『今、ものすごく食べたい日本食はなんですか。一点ずつ記入してください』
 のメモをまわした(口絵参照)。

 すると一番に司馬さんは青いボールペンで『タケノコ飯』と書かれた。
 ・・・・因みに、ぼくはこの時、『おでん』と書いた。

 同行の須田剋太画伯は『まんじゅう』。
 須田さんは服のポケットにエンピツやケシゴムとともに
 無造作に饅頭がほおりこまれているのに驚いたことがある。

 司馬さんはタケノコ飯がすごく好きだった。・・・・

 司馬さんは偏食とはいえ、このように好きなものをはっきり主張される。
 そのことが清張さんと違っていた。

 『街道をゆく』の『中国・蜀と雲南のみち』で、
  竹内叔雄の『竹の本』のなかの焼筍の作り方を引用している。

  そのあと『こういうものは現実に食べるのはおろか、読んで想像するほうがいい。
  想像するだけであふれるような味覚を感じてしまう』。と述べておられる。

  人間の胃袋には限りがある。
  ぼくには不可能なことだが、想像で食べて満足する。・・・

  ぼくは2001年の暮れに急に入院する破目となり、
  それから医学的には『病人』扱いである。
  強がっていても、意図的に食物の量をへらしたり・・・

  でも今もっとも食べたいもの(気分だけであっても)はある。・・・」

はい。こうして食にまつわる、ご自身のさまざまな本からの抜粋で
なりたっている一冊なのでした。本文イラストも森浩一。

ちなみに、私はこの引用した箇所だけでもう満腹(笑)。
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オノマトペからの眺望。

2023-06-20 | 前書・後書。
オノマトペといえば、私に思い浮かぶのが
山口仲美編「暮らしのことば擬音擬態語辞典」(講談社・2003年)なのですが、
ここに擬音語擬態語に、新しい眺望がひらける本が出ておりました。

今井むつみ・秋田喜美著「言語の本質」(中公新書・2023年)
副題が「ことばはどう生まれ、進化したか」。

言語と身体の関わりについての着眼点を『記号接地問題』として
本書ではとらえられているようです。

「 オノマトペ? そう、『げらげら』とか『ふわふわ』とか、
  日本人の生活になくてはならない、あのコトバである。

  実は、『オノマトペ』は今、世界的に注目されている。

  それも『ちょっと変わったおもしろいコトバ』としてではない。
  言語の起源と言語の習得の謎を明らかにする上で大事なコトバ、
  『言語とは何か』という哲学的大問題を考える上で
  大事な材料として脚光を浴びているのである。・・・・・・

  ・・秋田(喜美)は、・・一貫して、他言語との比較や
  言語理論を用いた考察により、オノマトペがいかに言語的な
  特徴を持つことばであるかを考えてきた。

  ・・今井(むつみ)は認知科学、発達心理学の立場から、
  言語と身体の関わり、とくに音と意味のつながりが
  言語の発達にどのような役割を果たすのかという問題に興味を持ち・・

   二人でオノマトペ談義をしていると、いつも最後は
  『オノマトペとは』ではなく、『言語とは』という問題に
  話が跳んでしまうことに、あるとき気がついた。・・    」
               ( 「はじめに」から )


そういえば、とあらためて思い浮かんでくるのは、
山口仲美氏が2014年に「大学教授がガンになってわかったこと」
(幻冬社新書)を出版されていたことでした。

   

コメント (2)
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関東大震災と西條八十

2023-06-19 | 地震
今日になって、関東大震災について、思い浮かんだのは、
筒井清忠著「西條八十」(中公叢書・2005年)でした。
その箇所を引用。

「・・(西條)八十は月島にいる兄英治夫婦の許に向かった。
 件の兄は例の芸者と月島に住んでいたのだが、
 
 月島が海底に沈んだという流言が流れ案じられたのである。

 しかし、大混乱の中容易に前へ進めず結局、
 夜を上野の山で過ごすこととなった。深夜、疲労と不安と飢えで、
 人々は化石のように押しだまってしゃがみ、横たわっていた。

 しゃがんでいた八十の隣の少年がポケットから
 ハーモニカをとり出し吹き出そうとした。

 八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないかと案じ、
 止めようとしたが少年は吹きはじめた。

『 それは誰も知る平凡なメロディーであった。
  だが吹きかたはなかなか巧者であった。
  と、次いで起った現象。―― これが意外だった。

  ハーモニカのメロディーが晩夏の夜の風にはこばれて
  美しく流れ出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。
  おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。 』

  人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
  ある者は立ち上がって塵を払ったり歩き廻ったりした。 」(p102)


これについては、注釈の箇所も引用しておかなきゃ。

「 すぐれた八十研究者上村直己は『西條八十とその周辺』において
 『 これはにわかい信じがたい 』としている。・・・・・

  筆者には、大地震後人々が音楽でいやされる映画
 『桑港(サンフランシスコ)』(w・s・ヴァン・ダイク監督 1936年)
  との共通性の方が印象的である。 」(p128)


うん。つぎに思うのは、震災直後の不安のなかで
私なら、どんな平凡な曲が聴こえてくればよいだろう?
それとも、曲は聴きたくないのだろうか?

ダメだ。広報が繰り返し鳴り響いている場面しか思い浮かばない。
コメント (1)
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カードシステムの入り口。

2023-06-18 | 思いつき
梅棹忠夫著「知的生産の技術」では、
はじめて読んだ際に、カードシステムが印象に残りました。

清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書・1959年)をひらくと、
そのカードシステムへと、たどり着くまでの準備段階が、
分かりやすく語られているような、そんな気がしました。

そう思える箇所を引用しておくことに。

「・・この最初のイメージや方向は大切にしなければいけない。
 是非、これは紙にハッキリ書きとめておくことにしよう。
 
 書きとめること自身、そう楽な仕事ではない。
 しかし、書きとめるという小さな作業によって、
 曖昧なものが明確になることが多いのだ。   」(p19)

「・・ここで肝要なことは、
 こういう観念や思いつきを大切にするということである。

 真面目に文章の修業をしようというのなら、
 観念や思いつきをトコトンまで大切にしなければいけない。

 直ぐ紙に書きとめておかねばいけない。
 書きとめるとなると、これもなかなか容易ではないが、
 何としても、ハッキリと文字にしなければいけない。

 これを大切にしないで・・・・・嘆くのは無意味である。 」(p20)


うん。その次も、この機会に引用しちゃいます。

「観念や思いつきを大切にするというのは、
 それを深く考えること、書物などでよく調べることである。

 ・・・短文として最後的な仕上げをする必要はない。
 
 ・・・独立の短文として完成してしまわぬ方がよいであろう。

 ・・・それが進行する過程で、二つの新しい事実が生まれてくる・・
 
 一つは、今まで考えもしなかった観念や思いつきが心に浮かんで来る。
 これも大切にしなければいけない。考えて、調べて、部分品に作り
 上げねばいけない。

 もう一つは、このような部分品が出揃って来ると、
 最初のイメージ自体が変化して来る。
 曖昧だったイメージが明確になって来るし、
 貧しかったイメージが豊かなものになって来る。

 ところが、イメージが明確な豊かなものになって来ると、
 それにつれて、新しい部分品が必要になって来る。 
 また新しい思いつきが何処からともなく現われて来る。

 逆に、今まで大いに役に立つだろうと思って、一生懸命に
 仕上げて来た部分品が不要になって来ることもある。・・・  」(p21)


ふう。私はここまでで満腹。ここまでにします。
これは第一章「短文から始めよう」からの引用です。
本文はここから、つながってすすんでゆくのでした。

何かを書かなくちゃいけなくなった時、あらためて、
またの機会に、つづきを読みすすめられますように。


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宮沢賢治と時代。

2023-06-17 | 思いつき
山折哲雄氏の文(「賢治の風光」佼成出版・1985年 p14)に、
「 大正10年から15年までの期間、賢治は花巻農学校の教師をしていた。」
とありました。

するってえと、関東大震災の大正12年は、賢治は花巻農学校の教師だった、
ということになります。はい。今年は関東大震災から100年目でした。

また、山折哲雄著「絆 いま、生きるあなたへ」(ぽぷら社・2011年6月)
には、こんな箇所があったのでした。

「 賢治が生まれたのが明治29年8月、
  そのわずか二か月前にマグニチュード8.2とされる
  『 明治三陸地震 』が発生しました。その直後の
  大津波で22000人が犠牲になったことを思いださずにはいられません。

  また誕生から4日後には、岩手秋田県境を震源とする
  内陸直下型の『 陸羽地震 』(M7.2)がおき・・・

  ・・賢治がわずか37歳で短い人生を閉じた半年ほど前の
  昭和8年3月3日には、約3000人の死者、行方不明者をだした
  『 昭和三陸地震 』(M8.1)がおきていたのです。

  加えて昭和5年から9年にかけて、『 東北 』の地は
  たびたび大凶作と大飢饉に見舞われていました。・・   」(p52~53)

関東大震災から100年目に、思い浮かべるのは、
宮沢賢治と、地震・津波・凶作・飢饉との関連。
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地裁で処分されちゃった裁判記録

2023-06-16 | 数値・資料。
新書の対談本は、パラパラと読めますね。
けれども、パラパラと忘れてしまいます。

一読、忘れたくない箇所があると載せたくなります。

平山】 だけどさ、酒鬼薔薇事件を含めた大量の裁判記録、
    各地の地裁で処分されちゃったんでしょう(2022年10月に発覚)。
    あり得ないよね。

春日】 とんでもないよね。
    確かに資料は膨大だから、保管が大変ではあると思うけど。 

  ・・・・・・

平山】 裁判記録の紛失は、酒鬼薔薇事件だけじゃなくて
    他の少年事件もさ、重大犯罪をいっぱい廃棄しちゃったわけでしょ。
    ・・・

春日】『 少年には罪がない 』と本気で思ってる輩が捨てたんじゃない?
     ・・・
    地方裁判所って結構、変な判決出すからね。

    ただ、俺なんかが鑑定書を書くのは結構しょぼめの事件だけど、
    それでも資料をいろいろ預かるの。証言録とか。
    そういう資料も積んだら2メートル近くの高さになる。・・・・

    それを全部読むの。付箋をつけて。・・・
    しかも、鑑定書だって100枚以上は書くわけ。
    それで、読むのは5人とかさ(笑)。

平山】 じゃあ、酒鬼薔薇事件なんかの関係資料は
    ものすごい量っていうことだね。

春日】 トラックいっぱいみたいな量じゃない?

平山】 だけどさ、デジタルで保管すればいい話なのにねぇ。

( p129~130 春日武彦・平山夢明「『狂い』の調教」扶桑社新書2023年 )


はい。読んだ箇所は、お気楽に忘れてしまうわけなんですが、
こんな再度思い浮かぶ箇所は備忘録として載せたくなります。             
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