和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『これ、あんたのだろう』

2020-12-31 | 本棚並べ
福永光司訳「荘子内篇」の文庫を寝ながら、パラパラと
めくっていると、『松栢』という言葉があるのでした。

はい。はじめて読むので、気になった箇所から引用。
徳充符篇第五のはじめに近いところにそれはありました。
ここは、福永光司氏の訳で、途中から

「・・・しかし、人間誰しも
動き流れる水に自分の姿をうつすものはなく、
静かに澄んだ水面をこそ鏡とするであろう。

そのように、ただ動かないもののみが、
不動を欲するすべての存在を不動にするのだ。

いったい、地上に生い出ずる樹木の種類は無数であるが、
冬夏を通じて常に青々としているのは、ただ松と栢(柏と同じ)
とだけであり・・・・」
(「朝日文庫「荘子内篇」p220)

ちなみに、ここは
「魯の兀者王駘有り。」とはじまります。
最初に引用した箇所の原文は

『人莫鑑於流水。而鑑於止水。
 唯止能止衆止。受命於地。
 唯松栢獨也在。冬夏靑靑。・・・』

もどって、『徳充符(とくじゅふ)』とは

「徳の満ちた『しるし』のこと。
『符』は、竹や木の札に文字を記して二つに分かち、
当事者が一方を所持して後日の証しとする『わりふ』の意で、
そこから『しるし』の意味に用いられる。ここでは、
真に道を体得した人が、その高い内面性の表現として
有する形体を指している。・・・・・」
(ちくま学芸文庫『荘子内篇』p161。福永光司/興膳宏訳)

はい。古典はいろいろなところで、
現在にも顔をのぞかせるのですね。
この引用から思い浮かんだ文があります。
それは司馬遼太郎が谷沢永一に書いた『私事のみを』でした。

うん。引用しなきゃわかりませんよね(笑)。
ここでは、『私事のみを』全文を引用することに。

「唐突のようだが、ギリシャ語で象徴ということは割符のことだという。
まことに情けないことだが、作家は割符を書く、他の片方の割符は
読者に想像してもらうしかないのである。どんなすぐれた作品でも、
50%以上に書かれることはない。

小説は、いわば作り手と読み手が割符を出しあったときにのみ
成立するもので、しかも割符が一致することはまずなく、
だから作家はつねに不安でいるのである。
( ひろい世間だから、自分とおなじ周波数をもった人が
  二、三千人はいるだろう )と、
私などは思い、それを頼りに生きてきた。
しかし割符の全き一致など、満員の地下鉄のなかで自分とそっくりの
顔や姿の人間をさがすようなもので、ありえないことにちかい。

私の場合、谷沢永一氏がそれを示してくれたということを言いたい
ために、このように平素は口にしないことを書いているのである。
私は私事や私情を文章にしないように心掛けてきたが、谷沢永一という
人についてふれねばならぬ場合にかぎって、このように手前味噌を書く。

建築家なら建てた作品がすべてで、余蘊(ようん)はない。
画家の場合も、画布や絵具という物質が、最低限、自己主張してくれる。
小説は言語の集積にすぎず、言語は相手の大脳の中に入ってはじめて
生きはじめるものなのである。

だから、いつもこの道の者は割符を持って沙漠を歩いているような
ものである。私の場合、幸運だった。沙上でにわかに出くわした
人が谷沢永一氏で、『これ、あんたのだろう』といって、
割符の片方を示してくれた。
割符は、巨細となく一致していた。
こんな奇蹟に、何人の作家が遭うだろう。
 ・・・・」

はい。全文引用しようと思ったのですが、
これでまだ半分。ここまでにしときます。
じつは、このあとに、あの有名な
『敗戦の日は、私は23歳の誕生日をむかえて8日目の
ことだった・・・・・40歳前から、23歳の自分に対して
手紙を書くようにして小説を書くようになった。・・』
という箇所へとつながってゆくのでした。

この司馬さんの文は
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋・文庫あり)
谷沢永一著「司馬遼太郎」のあとがき(PHP研究所・1996年)
谷沢永一著「完本読書人の壺中」巻末月報(潮出版社・1990年)
などで読むことができます。

あれっという間に、明日は2021年。
時々休みますが、2021年1月1日も
当ブログは書きこみをいたします。
来年もよろしくお願いいたします。




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20年以上前のはなし。

2020-12-30 | 朝日新聞
雑誌WILL2021年2月号。
そこの櫻井よしこさん。

櫻井】隔世の感を禁じ得ません。
私は20年以上前、講演で『慰安婦は強制連行ではない』と
発言して糾弾されました。

今ほど慰安婦のウソに気づいている人たちが少なかったので、
当時はすさまじいバッシングの嵐に晒された。
仕事場には大量の抗議の手紙が届き、
紙がなくなるまでFAXが送りつけられ、
抗議の電話は鳴りやみませんでした。
なかでも目立っていたのが、北海道発の抗議です。
主として北海道教職員組合から、ほぼ同じ文言の
抗議が届いたのを覚えています。(p43)

阿比留瑠比(産経新聞論説委員)と櫻井さんの対談は、
題して『晴らされた濡れ衣』。

阿比留】 2014年8月5日、朝日新聞は慰安婦報道について
検証記事を載せ、9月には本社で記者会見を開き、当時の
木村伊量(ただかず)社長らが吉田証言をめぐる一連の
慰安婦報道の誤りについて謝罪した。ただ、植村氏の
記事に関しては『事実のねじ曲げなどはない』と強弁していました。


対談のはじまりには、編集部からとして、植村隆記者が
「『慰安婦記事を捏造した』等の指摘で名誉を傷つけられたとした、
として櫻井氏と小社(WILL)および・・・総額1650万円の損害賠償
と謝罪記事の掲載を求める訴訟を提起した。」
その訴訟の経緯を短くまとめておりました。

「2018年11月、札幌地裁は櫻井氏の記事は
『植村氏が意図的に虚偽の事実を報道したとの印象を与えるから
原告(植村氏)の社会的評価を低下させるものであるが、
当該記述には、真実性・真実相当性が認められ』るとして、
植村氏の請求を棄却。

植村氏は地裁の判決を不服として控訴したが、
2020年に札幌高裁は一審判決を支持し、
『その摘示された事実又は意見ないし論評の前提と
されている事実が真実であると証明されているか、
真実と信じることについて相当な理由があると認められ』る
として、植村氏の控訴を棄却した。

そして2020年11月、最高裁は
植村氏の上告を退ける決定を下した。

これにより、請求を棄却した、一、二審判決が確定。
5年以上にわたる法廷闘争は、
櫻井氏の勝訴、植村氏の敗訴に終わった。」(p30~31)

うん。この箇所も引用しておきます。

櫻井】 ・・・・
朝日新聞は2014年、福島第一原発事故に関する
『吉田調書』についても『所長命令に違反、所員の9割が撤退』
などと事実に基づかない大記事を書いた。

記事の間違いを指摘する産経新聞や門田隆将さんに対して、
『謝罪や訂正をしなければ法的措置を視野に入れる』といった
主旨の抗議書を次々に送りつけました。

結局、朝日は誤報を認めて・・・・(p36)

さて、今年2020年の最高裁の棄却判決のあとに

櫻井】 最高裁判決を報じる産経の記事を、
安倍前首相がフェイスブックでシェアして、
『植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したという事ですね』
とコメントしました。
すると植村氏側は、安倍前首相に投稿を削除するよう抗議の文書を送り、
『誠意ある対応をお執り頂けない場合には法的措置を執らせて頂く』
と迫った。(p36~37)


はい。WILL2月号には、櫻井よしこさんの
20年来の重みが集約されて語られております。





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鬼の戯画化と翻弄と。

2020-12-29 | 本棚並べ
昨日、注文してあった古本の文庫が届く。
福永光司の「荘子 内篇」(中国古典選12・朝日文庫・昭和53年)。

さっそく福永氏による、はじまりにある内篇解説をひらく。
解説の終りには、文庫版「荘子」の刊行にあたってとあり、
こう書かれておりました。

「この文庫版『荘子』6冊のうち、
第1冊の『内篇荘子』は今から20数年前、昭和20年代の後半、
わたくしが戦地から復員して大阪の北野高等学校に教諭として
勤務していたころ執筆された。
 ・・・・・
とくに『内篇荘子』は・・高校生を主とする若い人々に
『荘子』の思想のあらましを理解してもらうために執筆
されたものであり、アカデミックな注釈書・研究書として
の配慮がほとんど加えられていないので・・・・」

うん。こういうのを読みたかったんだ(笑)。
さて、『内篇解説』のはじまりを引用しておくことにします。

「荘子は中国民族の生んだ鬼才である。
鬼才の『鬼』とは、人間ばなれしている、世の常と異なっている、
まともでないという意味であるが、荘子は中国の歴史が育てた
最も偉大なまともでない思想家なのである。
だから『荘子』のなかには、
『論語』に見られるような篤実温厚な人生の智恵や、
『孟子』に見られるようなひたむきな理想主義の教説は
ほとんど見られない。『論語』や『孟子』が、そのままで、
倫理の教科書となりうる性格をもつのに対して、
『荘子』は必ずしも、そうではないのである。」

はい。とりあえず、ここには、福永光司氏の解説の
1ページ目の全文を引用しておくことにします。
つづけます。

「孔子や孟子はまともな世界に住んでいる。
まともな世界とは、常識的な思考が肯定する世界、
世俗的な価値が権威をもつ世界である。
荘子はこの常識的な思考と世俗的な価値とを哄笑する。

だから彼の手にかかれば、孔子の謹厳さもたちまち
独りよがりのおっちょこちょいとなり、
絶世の美人も忽ちグロテスクなしゃれこうべとなる。
当代の聖賢も彼の前では翻弄され、古今の歴史も彼の前では戯画化され、
宇宙の真理も彼の前では糞尿化される
( 荘子の知北遊篇に「道は尿溺(しにょう)に在り」—――
  真理は糞小便のなかにあるという言葉がある  )。

彼はその翻弄と戯画化と糞尿化のなかで、
人生と宇宙の一切を声高らかに哄笑するのである。
荘子は痛快な諧謔の哲学者であり、天成の大ユーモリストである。」

はい。これが福永光司氏が
戦後すぐの高校生に向かって語りはじめる
『荘子内篇』のはじまりの言葉なのでした。




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「方言と大阪」

2020-12-28 | 本棚並べ
谷沢永一編「なにわ町人学者伝」(潮出版社・昭和58年)の
最後に、肥田氏による「大阪の名著発掘」が掲載されていて、
10冊の本が紹介されておりました。その最後に
猪飼九兵衛著「方言と大阪」(1948年)が取りあげられており、
気になっておりました。まずはその紹介文から引用することに、

「著者は大鉄百貨店(現・近鉄百貨店アベノ店)の
 専務取締役という純然たる経済人であったが、
 自分の知っている大阪弁をどうしてもまとめておきたい
 熱意からこの書物を完成した。幸いなことに、
 著者の生家は元禄時代以来十数代も続いた大阪の旧家であり、
 そうした背景の重みがこの書の内容に独特の厚味を添える。
 そして、肩ひじはらぬあたたかい記述が、さらにこの書物を
 一層親しみふかくする。
  ・・・・・・・
 昭和23年はまだ戦後の物の不自由な時代であった。
 この本の装幀は芹沢圭介の手染の表紙、山内金三郎の挿画、
 本文は謄写版の二色刷という、当時としては手づくりの
 精一杯の贅沢な雅装に仕立ててある。
 ただし、三百部限定出版であったため、この名著も
 広く知られずにいるのである。」(p173)

はい。この紹介文が気になっておりました。
ネットの「日本の古本屋」さんで検索すると、
5500円+送料370円=5870円が一番安かったので、
注文しました。それが届いておりました。

和紙に染められた芹沢圭介による題字と著者名と表紙絵。
このカバーはとりはずして額に入れておきたくなります。

本のサイズは19㎝+13.5㎝に、厚さが1.8㎝。
文字は、昔のガリ版刷りといった手書き感です。

うん。「まへがき」は方言まじりで書かれております。
そのはじまりを引用。

「わたしが東京のさる処に勤めてました頃、
明治も末に近い38年 そこは九分通り地下(ぢげ)の人達で、
使ふてなさる言葉は江戸っ子、大阪ものは私一人、
まことに心淋しふして居ましたが、日が経つほどに
仕事にも馴れて来(き)、馴染も出来(でけ)
やっと落付いて其日が送れるやうになってくると、
ぼつぼつ性来(しょうらい)の地金(ぢがね)が出て
話し声が大(おほ)きふなりだしました。
ある日、蓆を三千枚ばかり買ふため電話で何気(なにげ)なく
『お店におまへんか』と聞合せますと、私の席に近い人達が
ペンの手を止めて何(なん)やら皆私の顔を見てなさる様な
風(ふう)でしたが、こっちは別に気にもせず
『・・・にまかりまへんか』『まけときなはれ』と云ふと
ワッと一座から哄笑が揚がりました、ハッと気がついた大阪弁、
しかし地声は大きいのやし、云ふたもんは云ふてしもたもんやし、
先方は大阪弁でもよくわかり、こちらの云ひ値にまけて呉れて話は済み、
受話機をガチャリと架けて頭をかきかきちゃがまると
又一ときの曝笑でした。それから私は『おまへんか』といふ
ニックネームを頂戴する事となりました。・・・・・」

はい。芹沢圭介の和紙染め表紙絵を、これは美術品として購入。
ということで、5870円は、すこし高い程度だと自分に言いきかせ、
せっかく購入したのですから、もう少し引用をつづけます。

「・・・尚東京は一流と三流のお人が案外多く、
又大阪は二流どころが可成り沢山あり、
中産階級=問屋=町人を中心とする處柄でしたから、
北船場などの純大阪町人のうち(家庭)の言葉が
ほんまの大阪弁で相当に品(ひん)のよい情のあるものでして、
船場は船場、はしばしははしぼし、いろまちはいろまちと
狭まかった大阪でもそれぞれはっきりして居りましたなりに
各其昔を伝へて来て居ましたが、大正も年を重ねますると、
今日までのはしばしが局部的に一つの中央をつくり出して参り、
左様の新興各区のお人達にはむかし大阪の方言は案外縁の薄い
ものでして、てまへどもの様に・・・・・・」

さて「まへがき」の最後も引用して、しめくくります。

「・・御恥しきことながら、まとまった大阪方言の書物も
あまり見掛けませぬことでもあり、止むに止まれぬ昔こひしの
心からですで、同好辱知の御人達も居られませうから、
足らぬところは補ふてくだされ違ふているところは改めて下されて
しかるべきものの出来る踏台にもなりますようなれば、
私として此上のよろこびは御座りやへん
         昭和22年冬            」


そうそう、最後には
そろばんの挿画のわきに
「方言と大阪 三百部限定 実費頒布
   第百十三号也  」とありました。
三百部中の百十三番を古本で購入。
この「百十三」の文字は赤字で記入されておりました。


はい。この本の5870円が高いか安いかは、
きっと意見の分かれるところでしょうが、
購入でき私はよかったと思っております。
それから、和紙の表紙は、取りはずして、
額装して身近に掛けておくことにします。
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金鼓(こんぐ)を首にかけて。

2020-12-27 | 本棚並べ
古本を買うようになって、新しく気がつくことは、
本を読まないのは、私一人だけじゃないってこと。
最初の数ページだけ、読んだ形跡がある古本だと、
ああ、これは私の読書と同じだと同輩と出会った、
気持になるのは、これはもう古本の教えでしょう。

さてっと、杉浦明平著「今昔ものがたり」
(岩波少年文庫・1995年)があります。
うん。以前に今昔物語を読もうとして、この本を
買ってありましたが、最初の『悪人往生』を読んで、
あとは読まずに、そのままになっておりました。

少年文庫をひらいて、その最初の数ページしか
読まないのですから、私の読書の底の浅さ(笑)。

今回この少年文庫を出してきました。
いまでも今昔物語を読む気でいます。

杉浦明平氏の「あとがき」の始まりは

「この本は『今昔物語集』のごく一部です。
どうして『今昔物語集』という題名になったかというのは、
全31巻1059篇の短い話のすべてが『今は昔』という形で
語り始められているからです。・・・・その頭の部分から
『今昔物語集』と呼ばれるようになったのでしょう。・・」

うん。この少年文庫には39話が選ばれておりました。
わたしが読んだのは、最初の『悪人往生』なのですが、
これだけしか読んでいないのに、これが印象に残って
おりました。『あとがき』には、こう指摘されております。

「この本の始めの5篇は、本朝仏法部から撰り出した作品です。
中でも巻頭の一篇『悪人往生』は胸のすかっとするほど
気持がよいと思いませんか。・・・」

うん。巻頭の一篇の挿画とともに、印象に残っておりました。
そうして、そのままになっていたのですが、
こんど、神田秀夫著「今昔物語」(岩崎書店・昭和50年)を
ひらいていたら、こちらには27話が載せてあるのですが、
そこに『悪人の念仏』と題して、この『悪人往生』が
載っておりました。神田秀夫氏の本には、
話の最後にきちんと出典が載せてあります。

(巻19の第14 讃岐国多度の郡の
 五位法を聞きて即ち出家するものがたり)

うん。これなら、原文のありかを知ることができます。
というので、岩波文庫で探してみると、
池上洵一編「今昔物語集 本朝部 中」にありました。

うん。せっかくですから、原文の一部を引用。

「其の後、入道、着たりける水干袴に、
布衣・袈裟など替えつ。

持たる弓・胡録などに金鼓(こんぐ)を替へて、
衣・袈裟直く着て、金鼓を頸に懸て云く、
『我れは此より西に向て、阿弥陀仏を呼び奉て、
金を叩て、答へ給はむ所まで行かむとす。
答へ不給ざらむ限は、野山にまれ、海河にまれ、
更に不返まじ。只向たらむ方に向行き也』と云て、

声を高く挙て、
『阿弥陀仏よや、をいをい』と叩き行くを・・・・」
(p89)


はい。岩波少年文庫はというと、
いまだ第一話の17ページしか読んでいないのでした。



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切手と絵封筒と老若男女。

2020-12-26 | 手紙
記念切手が手元にあって、
さて、そんなに手紙を書かないので、
どうしたものかなあと、思っておりました。

きたむらさとし・松田素子著「絵封筒をおくろう」(文化出版局)
が2007年に出ておりました。古本で購入、それが届く。
ネットで、絵封筒と検索しても、楽しめます。

「絵封筒をおくろう」のカバーは、
横長にした封筒が、美術館見学風景を描いております。
真中の大きな額には、宛先が書かれてる。
右側の額には、切手がそのまま貼ってある。
8人も描かれていて、みんながこちらに背をむけて
その額縁をみている姿として描かれております。


はい。葉書には、宛先の面には、切手の場所が指定され、
描けないことになっておりますが、どうやら
封筒には、絵を描いてもよいようです。
切手も宛名の面なら、どこに貼っても許されるようです。
しらなかったなあ。

記念切手で、日本画の花鳥風月など、
大判の切手があったりすると、貼るだけで躊躇するのですが、
額縁を描いて、掛け軸などを描いて、そのなかに
記念切手を貼れば、それでいいのだと思うと、楽しくなります。

はい。あとは、手紙を書くだけですが、
肝心の手紙は、めったに書かない(笑)。
けれども、いざ書くときは、この手がある。
うん。これからは、躊躇せずに、大判の記念切手を貼ることが
できそうです。

さて、この本のはじまりを引用しておくことに。
絵本編集者の松田素子さんが書いておりました。
そのはじまりは

「私が絵封筒を初めて見たのは、イギリス在住の
絵本作家きたむらさとしから届いた封筒でした。

それが縁で、その後イギリスの出版社アンデルセン・プレスで、
社長のクラウス・フルーガー宛に届いた、たくさんの
絵本作家たちの絵封筒を見ることになったのです。
 ・・・・・

封筒に絵を描くということは、これまでにも古今東西
いろんな人たちが、なにげなく、あるいは意識的に
行なっていたことであるにちがいありません。
それぞれが個人的に、点のようにしていたことが
どんどんとつながり、いまやプロもアマもなく、
老若男女を問わず、これほどの広がりを見せ
はじめていることに感動します。
 ・・・・             」(p2)

はい。昨日この古本が届いて、夜は夢中で
ページをめくっておりました。
まるで、短歌の枕詞のようにして、
切手からはじまる絵封筒の世界がひろがっておりました。


はい。切手が動きだし、相手へ届く瞬間のたのしみ。
ということで、記念切手の数だけ豊かな想像がひろがりそうです。

はい。来年、切手を貼るのがたのしみになりますように。

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まだ、早すぎる。

2020-12-25 | 本棚並べ
神田秀夫氏は1913年東京生まれ。
神田秀夫著「荘子の蘇生」(明治書院・昭和63年)の
最後の跋が印象的なので引用しておくことに。

「私どもの時代は、社会が公務を先にせよと云う毎日だったから、
自分のために読む本はいつも後廻しになるという、奇妙なところがあった。
私の場合、荘子がそうだった。随分と前から資料を買い漁って
貯えていながら、読まずに楽しみに取って置いた嫌いがある。

ほんとにう読みだした50代は、徹夜する体力が、そろそろなくなりだし、
読まずに取って置いた楽しみをやっとわが物にするようになった今は、
眼をいたわるようになり、虫眼鏡も離せない始末。
人にも援けられるようになった。・・・・・

もともと私の場合、荘子は、読むべき因縁もあった。
武蔵という7年制の高校にいた時分、校友会誌で
先生がたが若い日に読まれて感銘の深かった本という
アンケートを採ったことがあった。そうしたら、
教頭の山本良吉先生の回答に、
論語とともに荘子が出て来た。

晁水山本良吉は、大拙鈴木貞太郎、
東圃藤岡作太郎・西田幾太郎らの、
あのグループである。同郷同世代の親友同士らしい。

・・当時、何かの折に、荘子の話をして下さいませんか、
と山本先生に云ったことがある。ところが、
『まだ、君がたには・・・(早すぎる)』と一笑に付された。

アンケートでは感銘が深かったの何のと書かれながら、
教室では四書集注本の論語しか教えて下さらない。
生意気ざかりの私には、この子供あつかいが、いたくこたえた。

おのれ、読まずに措くものか。そうして、いくらか読めたのは、
何時(いつ)かというと、57年後の今。—―――
意気地がないと云えばないが、そうして
一生持ち続ける意気地を培ってくれたのでもある。
そう取って私は武蔵に、衷心感謝している。・・・」
(p434~435)

うん。こういう箇所は、
あとになって、ふと思い出しそうなので、
その時になって、本を探しだせないことがないように、
いま引用しておくことにします(笑)。


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八方破れの構え。

2020-12-24 | 本棚並べ
前田利鎌(まえだとがま)著「臨済・荘子」(岩波文庫)の
古本は、81円+送料257円=338円で注文。

うん。今年最後の読書は、荘子かもね(笑)。

さてっと、あれこれ拡散してしまうと自覚している
私の読書ですが、それならば、はじまりの出会いを、
しっかりと握りしめているのに限ると、最近やっと、
そんなことを、思うようになりました。

今回の場合は、
神田秀夫論稿集①「東から見た河と江と」(明治書院・昭和58年)。
神田秀夫著「荘子の蘇生 今なぜ荘子か」(明治書院・昭和63年)。
この2冊。
その1冊目に「日本における荘子」(p373~)がありました。
そのはじまりを引用。

「誰でも生涯に2度や3度は著者とのめぐりあいを経験するものだろうが、
私のばあい、一番深い影響を与えられた本は、荘子だった。

国文の畑に育って、日本の古典を常食としているに拘わらず、
戦後の自分の思想の背骨になっているものは何なのだろうと
自己分析をしてみると、かえって、それは漢文の荘子であることを発見する。

そのコスモスにカオスを対置した八方破れの構えといい、
土俵のない所で物をいわなければならなかったために発明された
寓話風な表現の方法といい、それの持つ詩的な文体といい、
自分がこの戦後20余年を、かろうじて、すりぬけるように
生きのびてきた際の支え柱というか、精神的エネルギーというか、
すくなくとも精神の陣は、荘子によって立ってきたように思うのである。

殊に最近のような世情、ますます生き難くなってきた状況を見るにつけ、
聞くにつけ、オリジナルな荘子のありがたさを感じることが多い。
もちろん、それは荘子を蝕ばんだ神仙譚や、ある部分の思弁の空転に、
自分を魔睡させたいなどということではない。

近代の一個人の著作とは性質を異にする以上、
夾雑物は夾雑物として排除しなければならぬが、
排除しても、なお且つ、大いなるあら玉の如く、
磨き甲斐のあるオリジナルな発想が、荘子のなかには、
ぎっしりつまっていることを私は感じるのである。
・・・」

はい。こうはじまっておりました。
うん。やっと荘子へのスタートラインに立てた。
手がかりを掴めたそんな気がしてくるのでした。
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修行者「あづみ」

2020-12-22 | 本棚並べ
神田秀夫著「今昔物語」に載っている「久米寺」は
こうはじまっておりました。

「今はむかし、大和の国(今の奈良県)の吉野の郡に、
竜門寺という寺がありました。ふたりの人が、そこにこもって、
『仙の法』というものを修行していました。
『仙の法』というのは、いわゆる仙人になる術です。仙人になると、
老いもせず、死にもせず、その通力で空を飛ぶことができます。

ふたりの修行者の名は、『あづみ』と『久米』といいました。
『あづみ』がまず行(ぎょう)をおえて、飛んで空にのぼりました。
そのあとから『久米』も仙人になって、空に飛びあがりました。

さて、久米が、空を飛んでわたっていくと、
吉野川の岸で、若い女の人が、川にはいって洗濯をしているのが
見えました。・・・・・・・」(p54)


はい。久米さんはつとに有名なので、
ここでは『あづみ』さんのことを私は思い描きます。

そういえばと思い浮かんだのは、
須賀敦子著「遠い朝の本たち」(筑摩書房・文庫もあり)。
この本は、『しげちゃんの昇天』からはじまっておりました。
そのはじまりは

「しげちゃんにさいごに会ったのは、1951年に私が女子大を
卒業して35年もたってからで、場所は調布のカルメン会修道院
の面会室だった。・・・函館の修道院にいた彼女が・・・
東京の病院で治療をうけるために調布の修道院に来ている、
そう聞いて、私はさっそく出かけて行ったのだった。
 ・・・・
しげちゃんと私はもともと、六甲山脈のはずれにあたる
丘のうえのミッションスクールで、小学校からの同級生だった。
・・・・・・
卒業も間近なある日・・・・・
しげちゃんが低い声で言った。私は、来年卒業したら、
たぶんカルメン会の修道院にはいる。えっ?
と私は問い返した。その修道院の戒律がきびしくて、
一度、入会したら、もう自由に会うこともできなくなるのを
知っていたからである。一日中、沈黙の戒律をまもり、
食事のときもだまって聖書の朗読を聴きながら食べるという話は、
中世みたいで恐ろしくもあった。
しばらくのあいだ私はあきれて彼女の顔を見ていた。・・・」

うん。引用がどんどん長くなるので、あとはカット。
神田秀夫著「荘子の蘇生」(明治書院・昭和63年)を
古本で購入。404円+送料347円=751円でした。
函入で、読んだ形跡のない本です。
とりあえず、ひらいた章は「日本に於ける荘子」。
そこに、前田利鎌著「臨済・荘子」(岩波文庫)の
前田利鎌氏のことが紹介されておりました。
その箇所を引用。

「・・最大の事件は、前田利鎌によって
『臨済・荘子』が書かれたことである。(昭和4・2大雄閣出版)。
前田利鎌は大正時代の一高・東大、哲学科の出身で、卒論は
『ファウストの哲学的考察』。卒業後は東京工大の講師、
昭和5年教授。昭和6年病没、34歳。・・・・

『臨済・荘子』は・・・
あの禅宗の方で知らぬものなき臨済宗の宗祖を論じ、
それと並行して荘子の思考の構造を解明したもので、
著者が意図的にそう書いているわけではないにかかわらず、
読み終ってみると、かの鎌倉・室町の昔に五山の禅僧が
荘子を再輸入したのも、むべなる哉、そうなるべき必然があったのだ、
ということを頷かせる、重大な本である。
論ずる者は哲学科の出身で、西洋哲学の造詣があり、従来の
漢学者の解説的編者とは、くらべものにならぬ論理的な彫りの
深さがあるのみならず、この本には、34歳で没するまで、
終身童貞、ひまさえあれば只管打坐、精進につとめた著者の
主体的情熱が脈々と流れていて、その迫力は圧倒的である。
・・・・」(p181~182)

はい。さっそく岩波文庫の安い古本「臨済・荘子」を注文。
その本が届くまでの間、思い浮かべるのは、3つ。

ひとつは、
「『あづみ』がまず行をおえて、飛んで空にのぼりました。」
ふたつめは、「しげちゃんの昇天」。
みっつめは、34歳で没した前田利鎌氏のこと。
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むかしむかしの本は今。

2020-12-21 | 本棚並べ
日本古典物語全集⑧は
神田秀夫著「今昔物語」(岩崎書店・昭和50年)でした。
その解説で神田秀夫氏は、こう指摘されておられます。


「・・それにしても、この『イマハムカシ』ということばは、
おもしろいことばです。・・・・
むかしむかし、むかしはむかしのきょうにして、
さらにむかしよりのむかしにあらず。

という、近松門左衛門の『井筒業平河内通』という浄瑠璃の
文句がありますが、あじわい深いことばだと思います。
わたしたちは、よく『むかしむかし』といいますが、
その『むかし』のときは、それが『きょう』だったので、
けっしてはじめから『むかし』だったのではありません。
どんな遠い『むかし』も、いちどは『いま』だったことがあるはずです。

そう思うと、『むかし』が『むかし』でなくなります。

今昔物語も、『今はむかし』のことになったが、
などといって書きだしながら、いつのまにか筆が熱してきて、
『むかし』が『いま』のことになっているところがあります。
わたくしも、そうでした。

850年もまえに、もう『むかし』だったことを書くのですから、
850年あとの今日は、もちろん、むかしもむかし、大むかしの
こととして、博物館のガラスのなかに陳列するように
ひややかに書けるものだと思って、この仕事をしました。

だが、さて、やってみると、わたくしの筆も熱して来て、
これは『むかし』じゃない、『今』だ、と思うことが、
たびたびありました。このへんが文学のおかしなところです。」
(p265~266)


はい。ここで、私は、神田秀夫氏の古本をネット検索し
てみます。私にとって、氏の著作を読むのは今でしょ。
こうして、読むよりも買う古本がまた本棚に増えます。
これは、古本じゃない、私にとっての新本だと、
出会いを大切して、安物古本を注文することに。

何を言っているのやら、
当ブログで、神田秀夫氏の本が紹介されるときは
それは、わたしが買ったのを、読み始めたなと
どうぞ、ご理解ください。
まったく、何を言っているのやら。後は、
神田秀夫氏の本を読んでからのお楽しみ。


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イソップ童話。

2020-12-20 | 本棚並べ
古本で、イソップ童話集があると、
買っております。ということで、今回も買いました。

石井桃子訳とあります。
絵は、装画集団6B。
表紙裏をみると、非売品となっておりました。
石井桃子さんの「あとがき」の真中頃からの引用。

「たとえば、ずるいことをしてはいけないとか、
勤勉でなければいけないとかいうことを人に伝えたいばあい、
寓話の作者たちは、ずるさとか、勤勉とかいうような、
抽象的なことばを使わないで、ずるさをあらわすような動物や、
勤勉そうな鳥などをもってきて、その動物たちを動かして、
ずるいことをすると失敗するぞ、とか、勤勉なものは、
くらしにこまらないぞということを聞き手に理解させようとします。
 ・・・・・・・
おとぎ話とちがって、寓話には、魔法がでてきません。
そのかわりに、わたしたちが、毎日のくらしのなかで
ぶつかるできごとがでてきます。・・・・・」

最後にはこうありました。

「この本には、できるだけ、幼い子どもたちにおもしろいものを、
そしてまた、絵が重要な要素になっている本なので、
絵になるものをという考えで、お話を選びました。
子と親の、見て、読んでたのしめる本、というのが、
私たち(さし絵をかいてくださった方々や出版社の方々と、私)
のねらいでした。」

はい。18話が載せてあり、
その第1話は「とりと けものと こうもり」。
第1話の、はじまりと、さいごとを引用することに。


「むかし、とりと けものが せんそうを しました。
どちらも つよくて、ながいこと、しょうぶが つきませんでした。」

「けれども、やがて、とりぐんも けものぐんも、
せんそうに つかれて、なかなおりを することに なりました。

その そうだんかいの せきじょうで、こうもりの やりかたは、
おかしいではないか、という はなしが でました。

そして、こうもりは、とりからも、けものからも、
なかまはずれにされて しまいました。

それから というもの、こうもりは、いつも くらがりや
きの うろの なかに かくれて、ゆうがた うすぐらく
ならないと そとに でてきません。」


え~と、昨日、雑誌2月号「WiⅬⅬ」が届きました。
その巻頭随筆のひとりに、日下公人がおります。
2頁の文は「繁栄のヒント」という連載です。
その途中から引用。

「安ければよい・・・ではない時代を生き抜く日本の力は、
赤ん坊の数とその育て方にあると思っている。

それから成人にもっと活躍の場を与えることが急務である。」


このあとに、日下さんは、こう書いておりました。

「ハンス・モーゲンソーは、
同盟国には名誉ある同盟国と不名誉な同盟国の二種類がある
とも言っている。

名誉ある同盟国は、
その加入によって同盟全体の勝利が約束される国で、
さもないのは勝敗には関係なく単に自分のこと
(たとえば戦後の分配に参加する利益だけ)を
考えて右往左往する国のことだ、と言っている。

例えばイタリアは、日本の敗北が近いとみるやたちまち
日独伊の三国同盟を破り捨て、連合国の側に立って日本に宣戦布告した。
そして戦後は、戦勝国になりすまして日本に賠償金を要求した。

呆れたものだが、日本は黙って支払った。・・・・・
誰が負担するかはあまり考えない国である。
とも言えるし、よくそれだけ続いたものだとも言える。

実力が物をいう時代が来たという前に、
実力とは何かが変化していることに
敏感でなくてはならない。・・・・」

はい。日下公人氏のは、短い文なのに、内容が深くって、
私には引用したりない、もの足りない引用となりました。
機会がありましたなら、2頁なので立ち読みでもいかが。



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墨でぬったところには。

2020-12-19 | 本棚並べ
テレビより、ネットでトークを見聞きしています。

ネットでは、米国の大統領選の話題が沸騰して、
何だか、寅さん・梅ちゃん・狩人なんて言葉が、
出てくる。それにあとはピーと言葉が途切れる。
そうして、見ている途中で画面が真っ暗になる。

うん。まっ黒といえば墨を塗りつぶしたような
イメージがまず浮びます。ネットの画面の黒と、
敗戦後の教科書の墨ぬりつぶしと。

今日本棚から取り出したのは、
鶴見俊輔と中学生たち「大切にしたいものな何?」(晶文社)。
絵が南伸坊。この絵がたのしく印象に残ります。

鶴見】 ・・・1945年の8月15日で、日本が降伏したでしょう
・・・使っていた学校の教科書を『まちがっていました』という
ことで墨をぬった。・・・・

隣りのページ(p119)には、南伸坊さんの絵が印象的です。
平家物語の那須与一(なすのよいち)が馬上から海に乗り出し
弓を引き絞っている図です。
『昔の教科書(敗戦直後)の一頁』とあります。
教科書の文字は
『与一、目を閉ぢ あの扇の真中を射させたまへ。と、
●●●●●見開けば風やや静まり、扇も少しくおちつきて』

この●の箇所が、墨をぬった箇所で
注として
『スミでぬったところには
【一心に神に祈りて】と入ってたそうです
なーんかヘンだよね、どこがイケないの?』

と与一の絵の脇にコメントがありました。


うん。このページには、
すっかり忘れていたのですが、
新聞の切り抜きがはさんでありました。

その新聞切抜きも紹介することに。
2014年3月6日の朝日新聞に掲載された
週刊文春の広告でした。その広告左の見出し。

『「慰安婦問題」A級戦犯 ●●新聞を断罪する
火付け役記者の韓国人義母は詐欺罪で起訴されていた』

はい。●●にはいる新聞名は何でしょうか?
その「火付け役の記者」が、逆切れして、
櫻井よしこさんを、起訴していたのですが、
最近になってやっと最高裁で、却下されており、
皆が忘れた頃に、おくればせながら、おおやけに、
「火付け役の記者」の犯罪性が白日のもとに、示されたことになります。

う~ん。
敗戦後の黒塗りの教科書から、●●新聞、
そして、いまは米国大統領選の、情報黒塗りつぶしと、
墨ぬりはつづきます。


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読むより買うんが好きなんや。

2020-12-18 | 本棚並べ
寝ながら、夢をみることがありますよね。
醒めたら、すっかり忘れてる夢ならいいのですが、
醒めても、夢の断片が残っていることがあります。
その夢は、断片のまま、途切れて消えてゆきます。

本を読んでも、読むとすっかり忘れてしまいます。
本の断片から、本の言葉を捜しても見当たらない。
うん。夢の断片と、本の断片。
本なら、もう一度読み返せますが、夢をもう一度?



さてっと、本を読んでも、すぐに忘れるのは、
これは、年齢に関係ないのかもしれないなあ。

ちょっと、読んだり、見たりしたあとで、
後日、断片が思い浮かぶことがあります。
うん。こういう場合は、書き留めておくに限る。
これは、一回きりのチャンスなのかもしれない。
後では、すっかり忘れ消えているかもしれない。
そういうことで、このブログでは、備忘録がてら、
その断片を、書き留めておくことにしております。

今日は、グレゴリ青山著「ブンブン堂のグレちゃん」(ちくま文庫)
から、この箇所。「古本と少女」(p114~115)。
グレちゃんが、寝ころんで、つげ義春作品集「ゲンセンカン主人」を
読んでいます。古本屋に学生が、当時の千円の本を、何度も見に来る。
つげ作品の一コマは、古本屋の少女と、古本屋の主人の会話。

『いまの学生さんよほどあの本がほしいのね。
 毎日見に来てるわ』

『ああいうのを本の虫ってんだな』

 
グレちゃんは、古本屋にアルバイトに来ているので、この場面を、
『古本と少女ごっこ』として遊べる機会をうかがうのでした(笑)。
さて、私が思い出した最終コマにさしかかります。

『これお願いします』
『毎度 おおきに』

・・とは思ったものの
お店に毎日来るような学生はいなくて
いつの間にか、

『あの おじいさん毎日来はるな』

『ああいう人は、本を読むより、買うんが好きなんや』

「古本と少女」ごっこをすることなど
忘れてしまたグレちゃんでした。


はい。以上引用終わり(笑)。




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主なき家。

2020-12-17 | 地域
コロナ禍に、妻の実家へ毎週水曜日出かけています。
車で、30分ほどの距離にある家は、今は空家なので、
雨戸をあけて、風を通します。
11月からは、植込みの枝切や、草取り。
さいわい、晴れの日が多く。主(あるじ)なき家を
訪れることが毎週のようにあります。
もし、コロナ禍がなければ、私はこんな頻度では
こなかっただろうなあ。そうすると、
コロナ禍が、私には幸いしているということになります。

ブログで読ませていただいている「ひげ爺さんのお散歩日記」
のおかげで、ちっとも覚える気がなかった花の名前を知りました。
「ほととぎす」の花が足元に咲いていたと思ったら、
「つわぶき」の黄色い花が、次に来た時に咲いていました。
畑のまわりの木々の枝をそろえていると、
「さねかずら」の赤い実がところどころにあったり、
つぎに行った際には、「まさき」の実がなっている。
いままで、気にもしなかった草木を、名前とともに知るのでした。

家の中に据え付け本棚の下の引き戸には、切手帳があり、
最初の頃は、スタンプが押された切手の収集帳だったのが、
年賀はがきのお年玉プレゼントの最後の賞の干支の切手が
きちんと収集帳の一冊としてあったり、そのあとからでしょうか
15円切手からはじまって、各種の記念切手がつづきます。
シート購入なので、どんどんとたまっていったようです。
その収集のはじまりと、経過とを切手帳の並び具合で
知ることができます。

妻の両親が住んでいた空家は、
私たちが結婚するすこし前に、新築された家でした。
いまは、空家となりました。こうして行けるのを、
私はコロナ禍に感謝しております。
なぜなら、こんな機会がなかったならば、
私は他の事にかまけていたでしょうから。


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「いや私が払ってもいい」

2020-12-15 | 本棚並べ
昨日の寝床本も、谷沢永一編「なにわ町人学者伝」。
うん。目次を見ると、10人が紹介されております。
そのお1人を読むだけで、私は満腹感となります。
富永仲基からはじまり、5人目が山片蟠桃でした。

そういえば、と今日になって本棚からもってきたのは
「山片蟠桃賞の軌跡1982‐1991」(大阪府・平成元年)。
うん。定価が載っていないので、非売品だったのかも
しれません。いつ買ったのか忘れましたが、
天牛書店のラベルがあって、下に鉛筆で1500円とある。
ネットで購入して、楽しく読んだ記憶があります。

「山片蟠桃賞の軌跡・・」の最後にある「監修のことば」は
谷沢永一・山野博史の名前がありました。
せっかくね、本棚から取り出したので、ひらいた箇所を引用。
蟠桃賞の最初の受賞者はドナルド・キーン氏でした。
受賞記念の講演も載っているのです。そこから引用。

「1941年の秋、私はコロンビア大学の4年生になりまして、
日本語と日本思想史の勉強を正式に始めました。
日本思想史の組に学生は私一人だけでした。
当時の日本は人気がありませんでした。

教師であった角田柳作(つのだりゅうさく)先生のことを
気の毒に思いまして、
『一人のために準備するのはもったいない、私はやめます』
と言いましたけれども、
先生は、『一人でもじゅうぶんです』とおっしゃいました。

その秋のは、『江戸時代の思想』という課目でしたが、
私一人のために、講義の準備をして毎回たくさんの本を
教室まで運んでくださいました。なにか問題があると本を開けて調べて、
講義は1時間のはずだったのに、だいたい2時間半は続きました。
私一人のためだったのですが、ときどき日本人の聴講生も来ました。

その時初めて、山片蟠桃という名前を聞きました。
私は特別に山片蟠桃に興味がありませんでしたが、
角田先生は、日本の思想史の中でとりわけ変わったもの、
いわゆる独立思想家、そういう人びとのことに関心がありまして
 ・・・・・・・・・

私は日本語の手ほどき程度しか知らなかったのですが、先生は、黒板が
真っ白になるほどたくさんの漢字やいろんなことばを書いてくれました。
私には意味がさっぱり分かりませんでしたが、その漢字を自分のノート
の中に書き込んだものでした。

そして、12月8日となりました。
アメリカでいうと真珠湾攻撃の翌日、教室に角田先生の姿は見えません
でした。一時的でしたけれども、敵性外国人として抑留されたのです。」

 このあとに、キーン氏は、アメリカの海軍の日本語学校にはいります。
 戦争中の仕事に関して、つぎに述べられておりました。

「私の仕事はだいたい翻訳でした。
日本軍が残したいろんな書類の翻訳でしたが、書類のほとんどは実に
つまらないものでした。全然関心をもたせないようなものばかりでしたが、
私は、ある日、誰も手をつけていないような書類を見つけました。
それは、日本人の兵隊が残した血まみれの日記でした。
悪臭がして、きたないものでした。やっぱり人の血で染めた
ようなものを読むのはあまり楽しいものではありません。

ある日、それを読もうとしたんですが、行書で書いたもので、
当時の私は行書や草書をあまり知らなかったのですが、だんだん、
その人間味のある字に関心をもつようになりました。
どんな陸軍とか海軍の書類よりも、日記とか手紙のほうが
はるかに私に訴える力をもっていたのです。
そして私はそれを専門にすることにしました。 」

 あとは、飛ばして、戦後の箇所に触れます。
 はい。いずれも付箋を貼ってあった箇所なのでした。

「ある時、私は誰かに語った覚えがありますが、
『大学から給料をもらっているけれども、給料なしで教えてもいい』
と言いました。もう少し考えてから、
『いや私が払ってもいい』とさえ言ったのです。
私はそう信じていました。授業は実に楽しかったです。

頭のいい学生(きょう、1人ここへ来ていますが)にめぐまれたら、
教えることほど楽しいことはないんです。さらに大切なことは、
教えながら、いろんなことを学生から学ぶんです。それは確実です。
・・・・」(~p58)

うん。もどって「なにわ町人学者伝」から
谷沢永一が指摘する、山片蟠桃(p50)のはじまり

「内藤湖南は『近世文学史論』と題する近世学問史の一節で、
特に『関西人材の富』を指摘している。
 ・・・・・
近世期の長い300年間を通じて、端から端まで
他人の学説に依拠するところなく、完全に自発的な創見と
発明を以て立論したのは、富永仲基・・三浦梅園・・
そして山片蟠桃の『夢の代』と、詮じ詰めればただこれだけである。

関東の学者は儒教の公式に忠実な教条主義の次元で、
派閥を作っては広く門戸を張り、勢力の拡張に一生の精力を消耗する。
それに較べると往々にして関西には、強靭な個性を発揮して
時流におもねらず、学界の俗見から見事に超脱して、
学問本来の最も根柢な、知的探求心を自在に深めた存在が見られる。
・・・・・・・・」

うん。そのあとに筒井之隆氏による簡略にして、
具体的な山片蟠桃の経歴がたどられていて、読みやすく
手応えがありました。

「いや私が払ってもいい」と、ドナルド・キーンさん。
「いや私が払ってもいい」と、私なら安物の古本買い。


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