福永光司訳「荘子内篇」の文庫を寝ながら、パラパラと
めくっていると、『松栢』という言葉があるのでした。
はい。はじめて読むので、気になった箇所から引用。
徳充符篇第五のはじめに近いところにそれはありました。
ここは、福永光司氏の訳で、途中から
「・・・しかし、人間誰しも
動き流れる水に自分の姿をうつすものはなく、
静かに澄んだ水面をこそ鏡とするであろう。
そのように、ただ動かないもののみが、
不動を欲するすべての存在を不動にするのだ。
いったい、地上に生い出ずる樹木の種類は無数であるが、
冬夏を通じて常に青々としているのは、ただ松と栢(柏と同じ)
とだけであり・・・・」
(「朝日文庫「荘子内篇」p220)
ちなみに、ここは
「魯の兀者王駘有り。」とはじまります。
最初に引用した箇所の原文は
『人莫鑑於流水。而鑑於止水。
唯止能止衆止。受命於地。
唯松栢獨也在。冬夏靑靑。・・・』
もどって、『徳充符(とくじゅふ)』とは
「徳の満ちた『しるし』のこと。
『符』は、竹や木の札に文字を記して二つに分かち、
当事者が一方を所持して後日の証しとする『わりふ』の意で、
そこから『しるし』の意味に用いられる。ここでは、
真に道を体得した人が、その高い内面性の表現として
有する形体を指している。・・・・・」
(ちくま学芸文庫『荘子内篇』p161。福永光司/興膳宏訳)
はい。古典はいろいろなところで、
現在にも顔をのぞかせるのですね。
この引用から思い浮かんだ文があります。
それは司馬遼太郎が谷沢永一に書いた『私事のみを』でした。
うん。引用しなきゃわかりませんよね(笑)。
ここでは、『私事のみを』全文を引用することに。
「唐突のようだが、ギリシャ語で象徴ということは割符のことだという。
まことに情けないことだが、作家は割符を書く、他の片方の割符は
読者に想像してもらうしかないのである。どんなすぐれた作品でも、
50%以上に書かれることはない。
小説は、いわば作り手と読み手が割符を出しあったときにのみ
成立するもので、しかも割符が一致することはまずなく、
だから作家はつねに不安でいるのである。
( ひろい世間だから、自分とおなじ周波数をもった人が
二、三千人はいるだろう )と、
私などは思い、それを頼りに生きてきた。
しかし割符の全き一致など、満員の地下鉄のなかで自分とそっくりの
顔や姿の人間をさがすようなもので、ありえないことにちかい。
私の場合、谷沢永一氏がそれを示してくれたということを言いたい
ために、このように平素は口にしないことを書いているのである。
私は私事や私情を文章にしないように心掛けてきたが、谷沢永一という
人についてふれねばならぬ場合にかぎって、このように手前味噌を書く。
建築家なら建てた作品がすべてで、余蘊(ようん)はない。
画家の場合も、画布や絵具という物質が、最低限、自己主張してくれる。
小説は言語の集積にすぎず、言語は相手の大脳の中に入ってはじめて
生きはじめるものなのである。
だから、いつもこの道の者は割符を持って沙漠を歩いているような
ものである。私の場合、幸運だった。沙上でにわかに出くわした
人が谷沢永一氏で、『これ、あんたのだろう』といって、
割符の片方を示してくれた。
割符は、巨細となく一致していた。
こんな奇蹟に、何人の作家が遭うだろう。
・・・・」
はい。全文引用しようと思ったのですが、
これでまだ半分。ここまでにしときます。
じつは、このあとに、あの有名な
『敗戦の日は、私は23歳の誕生日をむかえて8日目の
ことだった・・・・・40歳前から、23歳の自分に対して
手紙を書くようにして小説を書くようになった。・・』
という箇所へとつながってゆくのでした。
この司馬さんの文は
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋・文庫あり)
谷沢永一著「司馬遼太郎」のあとがき(PHP研究所・1996年)
谷沢永一著「完本読書人の壺中」巻末月報(潮出版社・1990年)
などで読むことができます。
あれっという間に、明日は2021年。
時々休みますが、2021年1月1日も
当ブログは書きこみをいたします。
来年もよろしくお願いいたします。