和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

谷川俊太郎の芝生。

2024-11-22 | 道しるべ
谷川俊太郎氏が亡くなり、検索していたら、
谷川俊太郎選の「永瀬清子詩集」(岩波文庫・2023年10月13日発行)がある。
ちょっと気になり、新刊で注文。昨夜6時頃届く。

私が思い浮かぶ、谷川俊太郎の詩集は、
『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社・1975年)です。
はい。内容よりも、私は題名がいつまでも忘れられずにおりました。
そこにある、最初の詩は『 芝生 』。その詩の出だしはこうです。

         芝生     谷川俊太郎

       そして私はいつか
       どこかから来て
       不意にこの芝生の上に立っていた
        ・・・・ 
  ( 注: あと四行あるけどカットしました )

この『 芝生 』というのが、気になりました。
さてっと、谷川俊太郎選『永瀬清子詩集』(岩波文庫)の
はしがきは、谷川俊太郎でした。そのはじまりを引用。

「 私の最初の詩集『 二十億光年の孤独 』が出てしばらくして、
  珍しく父・徹三に永瀬清子を読むようにすすめられた。

 『 荒地 』『 列島 』『 時間 』などに拠る詩人たちに比べると、
  当時あまり話題にあがらない詩人だったが、
  父の書庫に詩集『 諸国の天女 』があったので読んでみた。
  ・・・ここに他の現代詩の書き手にない何かがあった。・・・  」

それでは、現代詩の書き手だった谷川俊太郎は
どのような少年だったのか?河合隼雄と谷川俊太郎の
対談に『 元禄の会話 』というのがありました。
その場面を引用。

谷川】 ・・・この間も、ぼくが小学校1年生のときに
    父と一緒に写っている読売新聞のコピーを
    持ってきてくれた人がいて、
    家庭訪問みたいな記事なんだけれど、
    もうギョッとしちゃった。

河合】 写真だけじゃなくて記事の内容ですか?

谷川】 そうなんです。母が教育論なんかしゃべっていて
    おかしかったんだけど、ぼくがね、
    母と記者が話しているときに客間に出ていって、
    そこにあった瀬戸物に対して、
   『 お母さま、これは元禄時代の焼き物でしょう 』
    っていうの(笑)。

河合】  ええっ (笑)。

谷川】  そうすると母はね、
    『 違うわよ。これは朝鮮の物よ 』っていうの。
    と、ぼくはね、
    『 朝鮮でも時代は元禄でしょう 』(笑)。
    もうこれは慄然としましたね。
    そういう下地があったから、母は・・
    怒ったんだと思いますね。

河合】  その元禄の会話も載ってるんですか。

谷川】  載ってるんですよ (笑)。
     ・・・・・・・
   
   (  河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」光村図書 )
 ( 谷川さんと対談副題は「人間ばなれをした孤独を知る人」とありました)

もう少し引用したいけど、引用過多になるのでここまでにして。
父親の谷川徹三の対談などをひらくと、正法眼蔵を病室にもっていて
読んだりとか、宮澤賢治に関する文もあったりする。
どのような思いで、父は息子と対していたのか?
ということで、もう一度『はしがき』を引用しておわります。

「 私の最初の詩集『 二十億光年の孤独 』が出てしばらくして、
  珍しく父・徹三に永瀬清子を読むようにすすめられた。・・・・ 」


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羽根つき

2024-11-15 | 道しるべ
ネットで古本を注文する際、有難いことに表紙画像を確認できる。
アマゾンだと、それを拡大できて、帯の文句まで読める。

ちょっと前でしたが、庄野潤三著「丘の明り」(筑摩書房)。
これが凾入りで帯があり、その帯をよめました。

「   庄野潤三作品集    永井龍男

   庄野潤三という人は、日本の作家の
   誰も持っていない境地を切り開いた。
   しかも、実に静かにだ。たとえば・・
    ・・・こういう小説が書けたら、
   どんなにたのしかろうと思うが、
   この人のほかには絶対に、誰にもかけない。   」


「丘の明り」(筑摩書房・昭和42年発行)。
各文芸雑誌などに掲載された作品をまとめた一冊でした。
ちなみに、定価は1円+送料350円=351円。
はい。買っちゃいました。

私はといえば、庄野潤三の小説は未読。
ただし、庄野氏の学生時代の先生が詩人の伊東静雄であり、
私は詩人を先生に持つ庄野氏がどのような作品を書くのか、
気になっておりました。それで、帯の文句に惹かれました。

こういう場合、ついつい他の作品にも手がでてしまいます。
庄野潤三随筆集「自分の羽根」(講談社・昭和43年)購入。
随筆集をひらくと、まずは表題となった「自分の羽根」を
読む。はい。4ページほどですから、すぐに読めちゃう(笑)。
そのはじまりを引用。

「 先日、私の娘と部屋の中で羽根つきをやった。
  冬休みがもう終りになるという頃だった。
  小学五年生の娘は、
  私が一日机の前で浮かぬ顔して仕事をしているのを見て、
  運動不足になることを心配したらしい。

  『 羽根つきをしよう 』 という。
  『 もう外は真っ暗だよ。 それに庭はドロンコだ 』
  『 部屋の中でやれるよ 』

  本当にやれるかと私は危ぶんで立ち上ったが、
  なるほどやって見ると、出来る。
  少しつき合いをしているうちに、
  ひとつどれだけ落さずに続けられるか、
  やってみようということになった。

  一番長く続いたのが五十回で、
  あとは大抵三十回にならないうちに
  どちらかがしくじった。・・・・・・・・

  ・・・弧をえがいて落ちて来る。その動きがきれいである。
  『 いいものだなあ 』と思いながら、私は打ち返していた。

  『 われわれの先祖はたしかにすぐれた美感を持っていた。
  お正月の女の子の遊びに、羽子板でこういうものを打つことを
  考え出すなんて。まるい、みがいた木の先に鳥の羽根をつけて、
  それでゆっくりと空に飛び上って行き、落ちて来るまで
  全部見えるようにこしらえるとは、よく考えついたもんだ! 』

  いい年をした親父になって、今ごろこんなことを
  感心しているのは、あまり賞められたものではない。   」(p185~186)

  
はい。これは随筆の始りの箇所で、これからが読みどころなのでしょうが、
私には、この箇所が読めればじゅうぶん(笑)。

さっそく、「日本のわらべ歌全集24・佐賀長崎のわらべ歌」(柳原書店)の
この箇所が思い浮かびました。最後にそれを紹介して終ります。

「 佐賀の子供たちは、初正月のお祝いにもらた羽子板で、
  手製の羽根をついて遊んだ。

  明治の頃までは、現在のように二人がつき合うのではなく、
  一人で羽根を落とさないように、何回つけるかを較べあうものであった。

  その頃の佐賀では、子供のいる家では、
  羽根つきの羽根は、たいてい手製であった。
  それはお正月の主料理に鴨(かも)が多くて、
  どこでも鴨の羽毛があったからである。

  冬になると有明海に鴨が渡って来て、鴨猟がはずむ、
  暮れの街には、乾物や荒物を売っている店にも
  鴨がぶら下がり、お歳暮用に売られていた。

  子供たちは、ムクロ(無患子・むくろじ)の木の
  黒くてかたい実に小さい穴をあけ、
  むしった鴨の羽根の中から一番形のいいものを選んでさしこみ、
  クサビを打ちこんで抜けないようにする。
  かたい羽根はシンに、柔らかい羽毛はフワリと落とすための
  抵抗にというふうに気を使ったようである。・・・    」(p46)


うん。この説明のあとにある、羽根つき歌も最後に引用しておきます。


       大黒さんという人は   ( 羽根つき )

      大黒さんという人は
      ここのお国の 人でなし
      天竺天から 舞いおりて
      一つ俵を ふんまえて
      二つにっこり 笑うて
      三つ盃 さしよって
      四つ世の中 よいやさ
      五ついつもの ごとくなり
      六つむくろじ 手にすえて
      七つ何事 言わしゃんす
       ・・・・・・・・・
       ・・・・・・・・・


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柳田國男の母。

2024-11-10 | 道しるべ
「日本わらべ歌全集10上」(柳原書店)は、「石川のわらべ歌」です。
小林輝治氏が、あとがきを書いております。そのはじまりに

「  伝承歌謡の収集に対して、これは
   『 今の時代の一番重要な仕事かもしれない 』
      ( 柳田國男『民謡と歌謡と』昭和31 )
   ということばにうなずいて、今では30年が経っている。・・ 」
                          (p237)

ああそうだ、そうだ。と思い出したように、柳田國男。
以前に、柳田國男を読もうと思ったことがありました。
けど、思うだけで結局は一冊くらいしか読めなかった。
はい。柳田國男の著作山脈のどこかにきっと私にふさわしい登山
コースがある。それがわかりさえすれば展望がひらけるかもしれない。
そんなことを思いながらも、糸口もつかめなく、過ごしておりました。
はい。結局はホッポリだしたまま、読まなかったわけです。

今回は、わらべ歌という登山口から柳田國男山脈の展望がひらける。
そんな期待をもって読み齧りでもチャレンジしたいと思うわけです。

はい。そんなわけで、
筑摩書房の「新編 柳田國男集」の第10巻にある
『 母の手毬歌 』を、おもむろにひらきました。
今回引用するのは、そこにある『 母の手毬 』 。

 「私の母は、今活きていると106歳ほどになるのだが、
 もう50年前になくなってしまった。

 男の子ばかりが8人もあって、
 それを育てるのに大へんな苦労をして、
 朝から夜までじっとしている時がないくらい、
 用の多いからだであったのに、
 おまけに人の世話をすることが好きで、
 よく頼まれては若い者に意見をしたり、
 家庭のごたごたの仲裁をしてみたり、とかく理屈めいた話が多く、
 どちらかというと女らしい所の少ない人であったが、
 それでいて不思議に手毬だけを無上に愛していた。

 うちには女の子は一人もないのに、余った木綿糸さえ見れば、
 きっと自分で手毬をかがって、よその小娘にも遣れば
 またうちにも置いたので、私たちの玩具箱には、
 いつも2つも3つもごろごろしていた。

 そうして私たちがたまたまついてみたり揚げてみたりしていると、
 傍へ寄って来て正月でない時にも、自分で上手に遊んでみせてくれた。
 しかし母のはいつでも揚げ毬の方であった。
 そうしてその歌が村の女の子たちの歌っているのとは、
 大分にちがっていた。それを何べんも聴いているうちに、
 わざは真似ることができなかったが、
 歌だけは私も大よそ覚えてしまったのである。・・ 」
      ( p244~245 「新編柳田國男集」第十巻 1979年 )

いそいで、柳田國男の略年譜をひらく。
そのはじまりに

1875年(明治8) 7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川 
         ( 現 神埼郡福崎町辻川 )に生まれる。

とあります。お母さんも出身は、その近くだったのでしょうか。

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戦陣の伽(とぎ)。

2024-10-18 | 道しるべ
桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」のはじまりは
『大名と御伽衆』。まず「御伽衆について」という4ページの文。

はい。私はこの箇所で、もう満腹。
すこし腹ごなしを兼ねて、引用してみます。

「 御伽(おとぎ)というのも、
  御咄(おはなし)というのも、
  すべて敬称である。

  しからば、伽(とぎ)とは何であろうか、
  伽とは、その語源に至っては詳らかでないが、
  字のごとく、人が加わることである。

  すなわち、人が大勢集まって眠らずに夜を過ごすことである。
  戦国時代以前には、単に通夜の意味にのみ用いられたらしい。

  通夜には種々な場合があって、
  一般にいえば、庚申待(こうしんまち)とか、
  武士でいえば、戦陣の夜警などである。

  そして、かかる際の通夜すなわち伽ということを
  妨げるのは睡眠であり、その睡眠を克服するには
  咄(はなし)によるほかない。
  咄によって伽を遂行するのである。

  従って、伽をするということは、咄をすることを意味し、
  この両語は遂に混用せられるに至ったのであろう。
  現在でも、山口県などでは、茶話(ちゃばなし)のことを
  茶伽(ちゃとぎ)と言っているようである。

  戦国時代には咄が大いに流行した。その起源は、
  なんといっても、戦陣の際の伽にあったと思われる。
    ・・・・    」  (p12)

  戦陣といえば、そういえば、衆議院選挙の最中ですね。
  ここでは、つい選挙と戦陣とを結びつけたくなります。
  ユーチューブで、さまざま御伽衆の語らいが聞けます。

桑田忠親氏は御伽衆の資格をこう指摘されておりました。

「 まず第一に、咄巧者、すなわち話術に巧みであること、
  第二に、その咄に適応する体験と技術の所有者たることを
  必要としたらしい。

  特殊な技術のあることは、それのみで御伽衆の資格となる場合が多いが、
  御咄衆としては、体験があっても肝心の咄そのものが下手では困るし、
  いくら咄巧者でも体験の伴わない、聞きかじりや、作り咄では、
  これまた値打ちが少ない。 」 (p14)


ユーチューブでは、高橋洋一氏の話を私はわりかし聞いている方です。
安倍晋三氏から電話がかかってきたとか、出向いたとか、
高市早苗さんから電話があったとか、現在の御伽衆のひとりに、
高橋洋一氏をあげてもよさそうな気がしております。
咄は訥々としておりますが、実務経験が豊富で、数理に明るい、
こういう御伽衆をそばに先陣をすごしている、
選挙という明暗を、御伽衆の語らいで聞いている気分になります。



  

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時代考証の首根っこ。

2024-10-01 | 道しるべ
桑田忠親氏の紹介文に

「明治35年、東京都生れ。日本史学者。・・昭和62年5月5日没」とあり、
そのなかで、気になったのは
「のち大河ドラマの監修・時代考証などにも活躍・・」という箇所でした。

はい。桑田忠親著「定本千利休」(角川文庫)をひらいているのですが、
パラパラ読みの私でも、そういえば、考証的な細部に惹かれます。

時代考証といえば、そういえば、
徒然草が思い浮かびます。どこでもいいのですが、
たとえば、第208段は
「 経文などの紐を結ふに、上下より襷に違へて 」
とはじまっております。ここは島内裕子現代語訳で
短いので全文引用してみます。

「お経の巻物などの紐を結ぶ際に、上下に襷(たすき)がけに交叉させて、
 その紐二本の中を通して、紐の端っこを横から引き出すのが、
 現在では普通の結び方である。そのようにしてあったのを、

 華厳院の弘舜僧正(こうしゅんそうじょう)が、
 紐をほどいて、巻き直させた。
『 これは、最近のやり方である。大変に良くない。正しくは、
  ただ紐をくるくると巻いて、上から下へ、紐の端っこを通して、
  差し挟むのが正しいやり方である 』と申された。
 弘舜僧正は、このような故実を、よく知っておられる老碩学であった。」
                ( p399 「徒然草」ちくま学芸文庫 )

 島内さんの【評】も、短いので引用。

「 寺院に伝わる故実を正しく伝える記事である。ここに登場している
  弘舜僧正の弟子が、第82段と第84段に登場した弘融僧都である。 」


ひょっとしたら、徒然草のような、時代考証を交えた古典の王道を
桑田忠親氏は歩いて来たのかもしれないと思うわけです。ここから、
放映中のNHK大河ドラマから、時代考証へ思いを馳せたくなります。
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千利休

2024-09-27 | 道しるべ
いつかは、千利休を読んでみたいと、
思ったことがありました。

まず、古本で千利休関連の本を買っておく。
私がはじめたのは、それでした。
読まなくっても買っておくと
それなりに溜まってゆくものですね。

たとえば、桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)
というのを買ってありました。はい。読んではおりませんでした。

そのあとがきをひらくと、そのはじまりにはこうありました。

「私が千利休の研究に志し、その根本史料である利休自筆書状の
 蒐集を始めたのは、東京大学の史料編纂所に勤めていた昭和10年、
 33歳の頃であるが、それらの根本史料をもとに、
 『 千利休 』と題する評伝を著わしたのは、昭和17年、40歳の
 ときである。・・・  」(p232)

はい。今回初めてあとがきをひらいてみました。
それじゃってんで、本文のはじまりはどうなっているのか?

「 茶の湯というのは、要するに、遊びごとであり、
  楽しみである。この点では、今も昔も同様であろう。・・  」
                          (p8)

はい。本文は、こうはじまっています。
やはり、古本で購入した本に
臼井史朗著「 昭和の茶道 忘れ得ぬ人 (淡交社・平成5年)に
その桑田忠親がさまざまな方の中に登場しておりました。
そこからも引用。

「昭和61年2月15日の深夜のことである。
 隣りの家から火が出た。博士(桑田忠親)の家は、
 みるみるうちに類焼、全焼してしまった。・・・

 すでにその頃、博士は83歳となっていたのである。
 もうほんとうに晩年だった。3万冊にも及ぶ厖大な
 蔵書と資料は、一瞬のうちに烏有(うゆう)に帰してしまった。
   ・・・・・

 たまたま未亡人を訪ねた時、焼跡に黒こげになって残っていた
 鞄の中から発見された、多くの手紙を拝見する機会を得た。
 火煙をくぐり、水にぬれて残った手紙類ばかりであった。 」

こうして、松永耳庵・川端康成・井上靖・司馬遼太郎の手紙を
紹介したあとの最後には、こうありました。

「水と火をくぐりぬけ、ボロボロになってしまった
 これらの来翰を見るにつけても、その学殖の文学への
 ひろがりを嗅ぎわける思いがした。それは、
 戦国時代を研究テーマとしたその核のひろがりでもあった。

 とくに、茶道史を実証史学の爼(まないた)にのせ、
 その研究成果を数多く公刊し、歴史理解への道を
 大衆のためにひらいたその業績は、茶道史に不朽のものとして残る。

 博士は、昭和62年5月逝去。85歳。生涯が学究一途の旅だった。 」
                         ( ~p105 )

ちなみに、この本のはじまりは佐々木三味で、
そこには、終戦で焼けた道具類の手紙が紹介されておりました。
そこにも、火事のことがでてきております。

「 空爆避けの山疎開は山火事にて大事な道具を喪いし之由
  其道具こそまことに数奇な運命とも可申候   」(p26)

とか

「 名古屋の友人伊藤幸楽主人は今様に 水ツケの焼け跡から
  茶器類をホリ出シ 小生ニモ珍しき事なる旨通知ありたるに
  蕨の絵をかき
    春山に やけ太りたる わらびかな
  と申送り候処 それらを取繕ふて 木曽川町の仮寓で
  名古屋より疎開中の茶友を招き 会致度由 
  楽げに茶会記を添へ申来りて候
  又左近君は爆風にて散々に家を崩されながら
  之を自分にて幾分修理し 道具類を纏めつつある旨申来り
  到処此喜劇のみ承わり居候
  茶道には非常時無く 平常心是道 茲に御喜ひ申上候
                         敬具  」(p28)


うん。雑本ばかりですが、千利休の本もすこしづつ溜まってきたので、
パラパラと読み始められますように。まずはパラパラと、この秋は、
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)からひらけますように。
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急がば回れ。

2024-09-17 | 道しるべ
清水幾太郎著「流言蜚語」のはじめの方にこうあります。

「・・報道、通信、交通がその機能を果たさなくなった時、
 社会の大衆は後になっては荒唐無稽として容易に片づけることの
 出来るやうな言葉もそのまま受け容れるのであって、
 どんな暗示にも容易にひっかかってしまふものである。

 軽信性は愚民の特徴だと言はれるが、
 かういふ場合に動じないのは余程の賢者か狂人である。

 関東大震災の時に落着いてゐたために助かった
 若干の人は、その落着きを賞讃されたが、
 しかしこの同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々に対して
 世間は最早この落着きを讃へはしない。
 この場合にはそれは落着きといふ名さへ与へられないのである。 」

             ( p18 「清水幾太郎著作集2」講談社 )

『 この同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々 』とあります。
どちらかといえば、私はその多くの人々の一人になるタイプです。
そんなことを思い浮かべては、つぎへと行きます。

うん。今こうして地元の関東大震災の記録を引っくり返しているのは、
いまならば、まだ地震が起きていない。
いまならば、『 急がば回れ 』という落着きが示せる。

ということで、ここでは、
『 急がば回れ 』を故事・ことわざ辞典で調べてみる。


「 急ぐときには危険な近道より、
  回り道でも安全な本道を通って行け。

 用例:     宗長のよめる
      もののふのやばせの舟は早くとも
           急がば廻れ瀬多の長橋  (醒睡笑-1) 」


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水田三喜男と田中角栄・福田赳夫

2024-05-03 | 道しるべ
水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(日本経済新聞社・昭和46年)
をせっかくひらいたので、気になる箇所を引用。

第二次池田内閣を語った箇所でした。

「日本経済の中には高度成長の要因というか、
 潜在力が蓄積していることをみてとって、
 このエネルギーの引き出し役をしたというのが
 池田政策の基本となているものであり、
 私どもはその片棒をかついだのであった。

 敗戦という事実のために、日本経済はかえって
 戦前に見られなかった新しい幾多の有利さに恵まれた。

 植民地を土台とした先進国のブロック経済に圧迫され、
 孤立化に追いこまれていた日本は敗戦によって初めて開放され、
 どこの国からも門戸が開かれるようになったことはまたとない機会であったし、
 
 終戦によって質のいい労働力があり余っていたことも幸いであった。
 それよりも国民の優秀な頭脳は何よりもの無形財産であった。

 明治の先人が偉かったために、教育の普及度が物を言うようになり、
 国際水準の技術を消化する能力は十分であって、戦争による
 科学技術のたちおくれを取り戻せる可能性は十分であった。

 また中共やソ連の建設五ヶ年計画がしばしば農業の不作によって
 挫折した事実を見てもわかるように、わが国がここ数年来、
 農業不作を経験していないことは、はかり知ることの出来ない
 潜在力の蓄積とみなければならない。

 さらに財閥の解体と農地の開放に併せて、古い指導者が追放され、
 日本の社会は若返って経済の体質も柔軟性を回復した。

 したがって伸びようとする潜在力の躍動がようやく
 随所に見られるようになってきたのである。
 そこで私どもは考えた。

『 日本経済は伸びる力をもっている。伸ばすのはいまだ。
  伸びられる時に伸ばさなければならない 』と。

 この考えがいわゆる所得倍増計画となって現れたのであった。」(p120~121)


もう一ヵ所引用。

「・・・経済を成長させる念願の方は、何やかや若干の実績を
 残し得た気持ちでいる。私は閣僚として、いわゆる
 神武景気と、岩戸景気と、いまのいざなぎ景気の
 三つの好況に遭遇しているので、世間からは
 積極的な高度成長論者とされているようである。

 しかしながらこの十年間を通じて私が実際的に心を砕いた仕事は、
 経済成長を刺激する仕事よりも、むしろ好景気によって悪化した
 国際収支をなおすための仕事の方が多かったようである。
 大蔵省で退任のあいさつをしたとき、

『 いつも私が引き締めのにくまれ役を買って、
  国際収支をよくすると、そのあとを受け継いで、
  こんどは予算の大盤ぶるまいをして、
  いい子になれる運命のいい星の下に生まれているのが、
  田中角栄君であり、福田赳夫君である 』

 と言って笑ったのであるが、冗談ではあっても、
 この二人にくらべるとやはり私が一番貧乏性に生まれている
 ことになるのかもしれない。   」(p135~p136)


つい最近、中村隆英(たかふさ)著
「昭和史」(東洋経済新報社文庫上下)を手にしました。
私のことですから、前書きと後書きをパラパラとめくるだけです。
そこに、田中角栄とあります。最後にそこを引用。

「 仕事をしながら思ったことをいくつか書きつけておきたい。

  まず、高度成長が終わるまでのところは
  書くのが比較的楽しく、そのあとが苦しかった。

  昭和前半は政治と軍事の時代、後半は経済の時代と
  分けていいように思っていたが、

  とくに田中角栄内閣のあとは、政治史がつまらなくなるのである。
  首相が交代しても、局面が変わるわけではなく、
  書きたいことがなくなってしまうのである。
  徳川幕府の老中が交代しても、
  政策はめったに変わらなかったようなものである。・・・  」
               ( p894 文庫下巻 )
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初陣。

2024-04-28 | 道しるべ
衆院東京十五区補欠選挙に立候補した『 飯山あかり 』さん。
その投票日が今日で、夜の8時から開票。

月刊Hanada6月号の門田隆将さんの巻頭コラム。
2ページで短いけれど、その最後の方だけ引用。

「・・誇りも哲学もない『岸田政治』によって、
 安倍晋三氏暗殺から2年も経たない内に、
 日本は≪ あり得ない国 ≫になってしまったのだ。

 そのうえ政治資金規正法の不記載問題で検察の動きを察知するや、
 すぐに宏池会の会長をやめ、会計責任者が立件された三派閥の中で、
 自分だけには何の処分も科さないという離れ業をやってのけた。
 日本のトップとして自らの身の処し方も知らぬ首相・・・・ 」

はい。今晩の開票まえに、あらためて
門田隆将氏のコラムの最後の箇所を引用しておくことに。


「 そんな中で『 日本を豊かに、強く。 』とのスローガンを
  掲げて生まれたのが日本保守党だった。

  中東研究者の飯山あかり氏は3月5日に立候補を表明し、街頭に立った。

  そこでは、まさに移民、LGBT、中国、太陽光発電、再エネ賦課金
  ・・・・等々の根本問題が訴えられた。

  与野党の中でどこも主張していない、真反対の政策。

  それは、まさに日本を守ろうする保守・
  現実派の主張そのものといえた。
  私は、飯山氏の奮闘に期待する。

  そして、自民党にいる保守・現実派の高市早苗氏、
  有村治子氏、小野田紀美氏、杉田水脈氏ら、
  日本を憂う女性政治家たちに期待する。

  いつの日か、これら女性政治家が
  手を携えて日本を守ってくれることを夢見るのである。 」(p27)
  
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飯山あかり選挙演説。

2024-04-18 | 道しるべ
16日・17日とユーチューブにて、
飯山あかりの選挙戦演説から目が離せませんでした。

ちなにみ、酒井なつみさんの応援演説には、蓮舫さんの笑い顔がありました。
さっそく、長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月25日初版)を
取り出してくる。そこに、忘れないように短歌で蓮舫が歌われておりました。

  高飛車に津波対策費仕分けせし蓮舫が『節電してください!』だなんて

p61にありました。その前の方には、菅直人首相も登場しております。

  かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸

  おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ

  顔見せぬ菅宰相はかなしけれ1億2000万人のみなし子

p45~47にありました。


ついつい忘れっぽい私なのですが、
印象鮮明な保守党選挙演説の3名。
飯山あかり・有本香・百田尚樹。


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林野に安處(あんじょ)せり。

2024-02-17 | 道しるべ
2月14日(水)に法事がありました。いつからか、
できるだけ、お坊さんについて声を出し読むようにしております。
意味はわからなくても、いいや。とりあえず、声を出し読みます。

読経とでは延ばし方が違っているため、お坊さんの読経に
あわすことができないのですが、それでもいいや。と思うことにしてます。
そのうち、それなりに印象に残る所があるものです。
こんかい、気になった箇所を、引用しておくことに。


    三界(さんがい)は安き事無し。
    猶(なほ)火宅(くわたく)の如し。

    衆苦充満して甚(はなは)だ怖畏(ふゐ)すべし。
    常に生老病死の憂患(うげん)あり。
    
    是(かく)の如き等(ら)の火、
    熾然(しねん)として息(やま)ず。

    如来は已に三界(さんがい)の火宅を離れて、
    寂然(じゃくねん)として閑居(げんこ)し、
    林野に安處(あんじょ)せり。

    今此三界は、皆是れ我有(わがう)なり。
    其中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾子なり。

    而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し。
    唯(ただ)我一人(いちにん)のみ能く救護(くご)をなす。


はい。今回は、読経のこの箇所が気になりました。
久しぶりに集まって昼食を共に語りあっていたら、
この箇所も、すっかり忘れてしまっておりました。
今日になり、お経本をひらいておもいだしました。


コメント (2)
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「安岡章太郎」覚書。

2024-01-29 | 道しるべ
関東大震災は、大正12年9月1日。
安房郡でその記録「安房震災誌」が出来たのは大正15年3月。

読んでないのですが、安岡章太郎著「僕の昭和史1」は
こうはじまっておりました。

「僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。
 天皇の崩御は大正15年12月25日、御大葬は翌昭和2年2月7日・・・」

今回古本で注文したのは
安岡章太郎対談集「対談・僕の昭和史」(講談社・1989年)。
カバーもきれいな単行本がとどきました。
この対談集の最後には、田村義也氏との対談がありました。
田村義也といえば、

「安岡さんの著書の大半が田村義也装丁である。・・・・
 『僕の昭和史』(全3巻)と『対談・僕の昭和史』の装丁・・・

 第一巻が『ゴールデンバット』、第二巻が『ピース』、
 第三巻が『セブンスター』、対談集が『光』であったが、
 タバコのデザインも時代によって少しずつ違っている・・・・

 田村さんの装丁も・・・精興社の活版印刷のよさも生きた、
 とても素晴らしい出来ばえであった。 」
( p230  鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」 )

うん。『対談・僕の昭和史』が古本でも新刊並みの綺麗さで、
その素晴らしい出来ばえが味わえました。

それはそうと、田村義也・安岡章太郎の対談のなかに
興味深い箇所があったので、忘れないように引用しておきます。

安岡】 最近僕は、小説は文学の中心ではないように思いはじめている。
   これまでずっと小説が文学の中心だったわけだけど、一般に
   そういう考え方は変わってくるんじゃないかな。
   僕自身かなり変わってきていますけれど、
   伝記とか紀行とかいうものに対する関心が、ずっと大きくなりましたね。
   自分のことをいっていいかどうかわかりませんが、
   アメリカから帰ってきて書いたものの中では、やっぱり
  『志賀直哉私論』が大きいんですね。・・・・・・

田村】 あの本については、僕にも思い出があってね。
   岩波にいた頃のことなんだけど、小林勇さんがやってきて、
  『おれはきのう大変なことになった』と興奮していう。

   小林さんは、前の晩に、安岡さんが『文学界』に連載していた
   『志賀直哉私論』を読みだして大興奮したらしいんですね。
   たまたま一冊読みだしたら止められない。押し入れの中に
   積み重ねてあった雑誌のバックナンバーを探し出して必死に読んだ、
   そして、すごくおもしろかった、という・・・・

安岡】 僕は後でそれを聞いてうれしかったんだけど、とにかく
    あれは小林さんが70歳ぐらいのときですよ。
    その歳の人が文芸雑誌を引っくり返して読んでくれる
    というのはうれしかったね。
       ・・・・

安岡】 あのあと『流離譚』を書いたでしょう。
    あれは『志賀直哉私論』とほとんど同じ書き方です。
                       (p259~261)


話しは逸れるのですが、編集者・鷲尾賢也氏の文のなかに

「 調子にのると、安岡(章太郎)さんは おかしな格好になる。
  相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて書くのである。
  そうなったらしめたもので脱稿も間近い。・・・」
  ( p229  鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」 )

という箇所があって、気になっていたのですが、
どうしてそんか姿勢になるのかが、今頃になって判明しました。

世界文化社の一冊に、安岡章太郎著「忘れがたみ」があり、
私は読んでいないのですが、目次の次のページの写真。
それは、机に向かって執筆している写真なのですが、下に説明がある。

「昭和34年(1959年)頃の著者
 まだ脊椎(せきつい)カリエスが完治せず、坐っての執筆は無理だった。」

なあんだ。蹲踞の姿勢で執筆するのは、病気が原因だったのだ。


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享年69歳。

2024-01-25 | 道しるべ
田中美知太郎の短文のなかに、

「老人心理というようなものについて、
 わたし自身どれだけ知っているのか。
 知ったかぶりは笑われるだけであろう。
 
 しかし年とともに、死もまた光を失い、
 次第に平凡なものになって行くのではないかと考えたりする。」

「シリーズ牧水賞の歌人たちVol.5  小高賢」(青磁社・2014年)
という雑誌本がありました。

最後の方に、小高賢自筆年譜がある。

1944(昭和19)年0歳
 7月13日、東京下町に生まれる。・・秋口に疎開。・・
 祖母、母、兄とともに移る。中風の祖母、
 それに乳飲み子で、病弱な私の世話で、どれほど
 苦労したかというのが、晩年の母の繰り返した愚痴である。
 確かに、私の身体には切開した跡がいくつもある。
 脳膜炎になり、首を振ったとも聞かされていた。 
 父は昭和20年3月10日の大空襲を隅田川に浸かって助かったという。

この年譜の、最後はというと、

2013(平成25)年69歳
  ・・・長くお付き合いいただいた安岡章太郎さんが亡くなる。
  ショックであった。・・・・
  12月に、安岡章太郎『歴史のぬくもり』を編集刊行。解題を書く。

そして最後にこう付け加えてありました。

2014(平成26)年
  2月10日、脳出血のため急逝。享年69歳。

この編集後記をみる。

「・・・このムックの最終校了ゲラが小高さんから届いたのが2月10日
 ・・・同日、10日の午後4時過ぎにはメールがあり、書き出しは
 『東京は大雪。昨日、雪かきで腰を痛めました。年寄は困ったものです。』
  であり、結語もやはり
 『そのうち、打ち上げで一献しましょう。楽しみにしています。』であった。
  その僅か数時間後に訪れる唐突な死のことなど、
  微塵も感じさせない文面である。・・・・」


最初に引用した田中美知太郎氏の文の後半には、こうありました。

「・・・『死を思え』と哲学は教える。・・・
 ・・いつまで生きてみたところで、
 わたしたちには解くことのできない問題がいくらもある。
 人生の大切な問題は、これまでの歴史において解くことができなかったものを、
 これからの歴史において解くことができるなどと信じてはいけないとも
 言われている。
 われわれが今生において見たものがすべてなのである。・・・だから、
 限られた今生の間に永遠は垣間見られると言った方がいいかも知れない。
 ・・・・   」

 (p77~78 田中美知太郎著「古典学徒の信条」文芸春秋・昭和47年)


う~ん。とりあえず、小高賢年譜にでてくる
安岡章太郎歴史文集『歴史の温もり』(講談社・2013年12月発行)を
古本で注文することにしてみました。



 
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茶道と非常時

2024-01-09 | 道しるべ
昨年読んで興味を持った臼井史朗の本を
数冊古本で買ってあり、そのままだった。

臼井史朗著「昭和の茶道 忘れ得ぬ人」(淡交社・平成5年)。
とりあえず、途中からパラリとひらくと

「昭和20年8月、日本全土が焦土と化し飢餓のどん底で敗戦。
 しかし、20年11月には『茶道月報』は復刊する。・・ 」(p26)

このあとに、昭和23年頃の手紙が引用されておりました。

「まったくの廃墟の中で、風雅の道を、ともにもとめる心境に、
 悲しいまで情感がにじみ出ている。

 ・・・名古屋の友人伊藤幸楽主人ハ今様ニ
 水ツケの焼ケ跡から茶器類をホリ出シ
 小生ニモ珍らしき事ナル旨通知ありたるニ
 蕨の絵をかき
   春山ニやけ太りたるわらびかな
 と申送り候処 それらを取繕ふて 木曽川町の仮寓で
 名古屋より疎開中の茶友を招き 一会致度由
 楽げニ茶会記を添へ申来りて候

 又左近君ハ爆風ニて散々ニ家ヲ崩サレナガラ
 之を自分にて幾分修理シ 道具類ヲ纏メツツアル旨申来り

 到処此喜劇のみ承わり居候
 茶道ニハ非常時無ク 平常心是道
 茲ニ御喜ヒ申上候           


・・・・これも年次はさだかでないが敗戦直後の、松永耳庵より、
三昧宛の書信と思われるものであるが、
『 茶道ニハ非常時は無く、平常心あるのみ 』とあるあたりに、
茶友の心情がうかがわれる。

松永耳庵からの手紙は、まだまだある。紙一枚が貴重な時代である。
まともな便箋など一枚もなく、細字で毛筆、句読点、改行の余裕などは
まったくない。飢餓時代であるが、茶を通じての心は、
筆跡ににじみ出て心なごむようである。  」(~p29)


はい。この数ページの箇所を読んで
私は満腹。先を読む気がしなくなる。


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狭くする。広くしてくれる。

2023-12-23 | 道しるべ
田中泰延著「読みたいことを、書けばいい」(ダイヤモンド社・2019年)。
以前に古本で購入してありました。うん。題名にしてからが、いきなり直球。
その題名にひかれて買った一冊でした。

田中泰延氏は、1969年大阪生まれで、24年間コピーライター・CMプランナー
として活躍とあります。どうりで小見出しも、弾けるほどに、生きがいい。
目次から、その小見出しだけでも引用したくなります。

〇 だれかがもう書いているなら読み手でいよう

〇 他人の人生を生きてはいけない

〇 物書きは『調べる』が9割9分5厘6毛

〇 書くことはたった一人のベンチャー起業


うん。全球直球勝負といったところ。
今回読み直していたら、それでも微妙に個性的変化を混ぜて投げてくる。
いままでの経験を全力投球しているような一冊。
本棚に置いては、ときに手にとりたくなる一冊。
全力投球ならば、この箇所など引用したくなる。

「 書けば書くほど、その人の世界は狭くなっていく。・・・

  しかし、恐れることはない。なぜなら、
  書くのはまず、自分のためだからだ。

  あなたが触れた事象は、あなただけが知っている。
  あなたが抱いた心象は、あなただけが憶えている。

  あなたは世界のどこかに、小さな穴を掘るように、
  小さな旗を立てるように、書けばいい。

  すると、だれかがいつか、そこを通る。

  書くことは世界を狭くすることだ。
  しかし、その小さななにかが、あくまで結果として、
  あなたの世界を広くしてくれる。        」( p224~225 )


はい。あらためて読み直しても、それが、
コピーライター的用語なのかもしれないけれども、
鼻につかない。忘れなければ開こうと本棚へ戻す。



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