和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

年の暮れの、中〆めの挨拶。

2024-12-29 | 道しるべ
今年は12月になってから庄野潤三を読んでいます。
といっても、遅々として読みすすめませんけれど。
楽しい。始めて読むせいか躓くようにハッとする。
ハッとすると、立ち止まっちゃうのは何時もの癖。
全集の月報には、さまざま交際のひろがりがあり、
枝葉を広げるように、周りを思いめぐらす楽しみ。

ということで、来年も『 貫く棒の如きもの 』
つながりで、庄野潤三を読んでいると思います。
そこからつながる横拡がりのようにたどる読書。

ということで、歳末までブログ更新予定ですが、
いちおう、飲み会での中締めという〆めの挨拶。
こんなブログですが、来年もよろしく願います。
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お年玉と、ナマハゲと、サンタ。

2024-12-27 | 道しるべ
久米仙人は修行のあとに、まずは空を飛べたのですが、そういえば、
サンタクロースもトナカイと共に空を飛んでおりました。
ちなみに、ネット検索すると、

『 ドイツの古い伝承では、サンタクロースは双子で、
  一人は紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、
  もう一人は黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをする・・
  現在、ドイツでは聖ニコラウスは「シャープ」と「クランプス」
  と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩き、
  良い子にはプレゼントをくれるが、悪い子にはクランプス共に命じて
  お仕置きをさせる。 』

という箇所がでてくる。比較でナマハゲも出てきておりました。


庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の、佐藤春夫の章に、
三歳の男の子をつれて、佐藤春夫氏のお宅へ伺う場面がありました。
印象に残るので、庄野潤三全集第十巻(講談社)をひらくと、
その場面が載っております。それは、
講談社版・佐藤春夫全集の月報に、庄野氏が書いた文でした。
その月報の全文をあらためて読むと、最後にこんな箇所があります。

『 世の中には、とかく自分の子供は可愛いがるが、
  よその子供は見向きもしないという人間が多い。
  佐藤先生は、自分の子供であるとほかの親の子供であるとを問わず、
  わが前に現われて、『 思邪(おもいよこしま)無し 』
  というふるまいがありさえすれば
  ( こまっしゃくれたのは論外として )、
  すべてそれを楽しむという風があたのではないか。
  区別なんか無かったように思われる。

  私たちは、よくお近くにいる竹田さんの小さいお嬢さんが
  お正月に晴着を着て、打ち連れて先生のところへ挨拶に見えると、
  心からこれを歓迎するというまなざしで頷いて居られたのを思い出す。
  草木や川や雲をめでるように、
  先生は子供をめでて居られたのである。  』
            ( p256~257 庄野潤三全集第十巻・講談社 )

  こういう下地があってこその、お年玉なのでしょうか。
  サンタクロースがプレゼントを配るようにして。
  はい。そんなことを、思い浮かべました。

  そうそう。クリスマスが終わって、
  『 なまはげ 』が活躍するのは、
  昔は小正月の1月15日だったのが、
  現在は12月30~31日におこなわれているようです。



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ピアノの上のお供え。

2024-12-26 | 道しるべ
庄野潤三著「野菜讃歌」(講談社・1998年) の最後には、
日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」がありました。

庄野潤三氏の家のことが、気になります。
たとえば、仏壇はあるのだろうか? とかね。
「 大きなかめ 」はあることがわかりました。

『 私の書斎に大きなかめが置いてある。古備前の水がめ・・ 』
                ( p239 「野菜讃歌」 )

『 ・・ピアノの近くに置いてある。水がめなのに、
  不思議にピアノのそばにあるのがよく似合う。
  家の中にあっても、ちっとも気にならない。
  ときどき、掌でさすってみる。  』( p241 同上 )

さて、『私の履歴書』から抜き出しているのですが、
履歴書の最後から引用しておきます。

『 書斎のピアノの上に父と母の写真を置いてある。
  毎朝、朝食の間に妻はお茶をいれて、
  この写真の前へ持って行く。それが私たちの一日の始り。 』
                       ( p251 )

どうやら、庄野家には、仏壇がないらしい。

『 父母の命日、二人の兄の命日にかきまぜを作って、
  ピアノの上にお供えし、二人で手を合せる。お盆やお彼岸にも作る。

  ・・長男と・・次男に知らせて、取りに来させる。
  会社が休みの日で、次男が車に子供を乗せて来ると、
  先ずピアノの前に並んで手を合せてくれる。
  私も妻もうしろで手を合せる。 』 ( p252 )


この『私の履歴書』の最後は、
大坂へお墓参りに行った際に、
『 ・・帝塚山の兄の家へ行って、お仏壇に手を合せる。・・ 』(p253)

という箇所がありました。
うん。やはり、東京の庄野家には仏壇はないようなのです。

ちなみに、お墓については、長女の夏子さんの文にありました。

『 ・・父と母はよく訪ねてきてくれて、
  サンドイッチや昼寝を楽しんでいました。
  ある時、近くのお寺に案内しました。
  深い山の中に静かに建つ、曹洞宗の立派なお寺です。
  明るい墓地は小鳥のさえずりが聞こえ、
  お正月は大人も子供もお参りに来て
  『 おめでとう 』の声があふれます。

  先祖を大切にする父は、とても気に入り、
  ここにお墓を作りました。
  南足柄市にある、玉峯山長泉院です。
  私にお墓のお守りを託したのだと思います。・・  』
        ( p78 「 庄野潤三の本 山の上の家 」 )




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元気にしております

2024-12-18 | 道しるべ
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)も、
「山芋」の章を読んでから、残り少ない章を読みました。

「山芋」の次は「雷」でした。その「雷」のなかに、
浜木綿を大阪の生家の庭から掘って、東京まで持って帰ったことが
書かれております。

「 大浦が生家の庭で兄に手伝って貰って、
  この浜木綿を株分けしたのは、小学三年生の晴子を連れて、
  母の病気見舞いに大阪へ帰った時であった。その年の二月に
  正太郎が生れたので、細君と安雄と赤ん坊は留守番をした。

  二人が帰ったのは、丁度お彼岸のいい天気の日であった。
  母は思ったよりも元気で、大浦が赤ん坊の写真を見せると、
  うれしそうに手に取って眺めていた。一年前に大浦の母は
  脳血栓で倒れた。それ以来、失語症になって、
  病気がよくなってからも、
  みんなと話をすることが出来なかった。

  それで、こちらの方からいろんなことを話しかけるのだが、
  あとは母の表情を見て、自分の話が通じていると思うよりほかない。
  物足りないといえば、物足りない。しかし、
  生命を取り戻したのに、贅沢はいえなかった。・・・・ 」(p230∼231)

「 彼は母にいつ東京へ帰るということはいっていなかった。
  母が苦しんでいる時でなくて、楽になって眠っている時に
  そばを離れることが出来たことを彼は仕合せに思った。
  それから半月ほどで大浦の母は亡くなった  」(p236)


『 夕べの雲 』をさっとですが、読み終えたので、
次は庄野潤三のどの本を読みましょう。と思っていたら、
昨日注文してあった古本が届く。
庄野潤三著『 ワシントンのうた 』(文芸春秋)でした。
ぱらりとひらくと、『 ザボンの花 』のことが語られております。

「・・私にとってははじめて書く新聞小説である。
 どんな風に書けばいいか分からなくて、まるっきり自己流で書き始めた。

 新聞小説は、明日の続きがどうなるかと読者に期待をもたせる
 というのだが、私はそんなこと、全く考えないで、
 自分の好きなように書いた。

 大阪から東京へ引越して来て、
 麦畑のそばの家に住むことになる矢牧一家が、いったい
 どんなふうに新しい土地での生活に馴れてゆくか、
 どんな出来ごとが待ちかまえているかを書くことにしたのである。

 矢牧一家の新しい土地での生活を、
 正三となつめと四郎の三人の子供たちの上に起る
 出来ごとを中心に書いてゆくことにしたのである。
 
 私は、大阪の生家に大きな病気から立ち直った母がいて、
 日本経済新聞をとって、毎晩、私の連載を読んでくれ、
 よみ終ると切抜を作ってくれていることを聞いていた。

 そこで、病気の母に向って、
 『 私たち、元気にしております。こんなことをして暮しております 』
 と知らせるつもりで『 ザボンの花 』を書き続けた。
 母に読んでもらうために書いた小説である。・・ 」(p142∼143)


庄野潤三の年譜をひらくと、
昭和30年(1955)34歳に『ザボンの花』を日本経済新聞夕刊に
連載(152回完結)とあります。
昭和39年(1964)43歳に『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載
(127回完結)と出てきます。

講談社文芸文庫の終わりの方に、庄野潤三による
「 著者から読者へ『夕べの雲』の思い出 」が載っております。

『夕べの雲』を書くきっかけが語られておりました。

「或る日、私は渋谷から乗った地下鉄のなかで日経新聞の文化部長を
 している尾崎さんと顔を合せた。すると、庄野さん、新聞小説を
 お書きになるお気持はありませんかと訊かれた。

 ・・・・あるいは、挨拶代りにちょっと話してみただけで
 あったのかも知れない。
 ただ、日本経済新聞とは私は縁があった。
 昭和30年に、『 プールサイド小景 』で芥川賞を受賞したあと、
 日本経済新聞から依頼があって、夕刊に『 ザボンの花 』という
 小説を書いた。新聞小説として成功したかどうかということは別として、
 作者としては気持よく仕事が出来た。いい思い出が残っている。

 ほかの新聞からいわれたのなら・・・
 多分、引込み思案の気分の方が強く働いただろう。・・・ 」

はい。このような思い出が書かれておりました。ということで、
『夕べの雲』の次に私が読むのは『 ザボンの花 』にします。
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「 山の上の家 」

2024-12-11 | 道しるべ
今日は、主なき家の草ぼうぼうの畑の周りの細葉刈り。
細葉(マキ)の天辺を平らにする作業。
半日ですまそうと安易にはじめたのですが、
脚立を持ち出したりして一日仕事。それも道路側のみ。

はい。やっつけ仕事で今年はおしまい。
帰ってきたら、古本が届いている。
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社・2018年初版で2019年第三刷)
門外漢なので、当てずっぽうの注文でしたが、
目次をみると、「 庄野潤三全著作案内 」という箇所がある。
以前に古本屋のリストに並んでいた、庄野潤三の本たちの
題名が、どうも、全集以降の本でしたので、これは
どこから手をつけてよいものだか道案内人がほしかったのでした。
その案内本らしいのでした。有難いなあ。夏葉社さん。

その中に上坪裕介の文がありました。こうあります。

「・・それは平成21年に庄野潤三が88歳で亡くなるまで続けられた。
 『愛撫』で文壇にデビューしたのが28歳の頃だから、
 おおまかに活動期間が60年とすると、その全期間の実に八割、
 およそ50年間をこの生田の山の上を描くことに費やしたことになる。

 そういう意味で『 夕べの雲 』は記念碑的な大きな意味を持つ。
 『 貝がらと海の音 』からはじまる晩年の連作シリーズは
 その集大成であり、庄野は自身の文学を最晩年まで深化、
 成熟させた稀有な作家であった。

 庄野潤三というと初期の・・・・評価された作品を思い浮かべる
 読者も多いだろう。しかし、このようにあらためて振り返ってみると、
 それらの作品が書かれた時期はほんの10年ほどの短い期間であり、
 全体を俯瞰してみれば庄野文学の本筋は『 夕べの雲 』以降の
 作品群にこそあるとわかる。・・・・   」( p103∼104 )

ありがたい。格好の道案内人に指示された気がしております。
今年も残り少なくなりました。12月は庄野潤三を読むことに。


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谷川俊太郎の芝生。

2024-11-22 | 道しるべ
谷川俊太郎氏が亡くなり、検索していたら、
谷川俊太郎選の「永瀬清子詩集」(岩波文庫・2023年10月13日発行)がある。
ちょっと気になり、新刊で注文。昨夜6時頃届く。

私が思い浮かぶ、谷川俊太郎の詩集は、
『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社・1975年)です。
はい。内容よりも、私は題名がいつまでも忘れられずにおりました。
そこにある、最初の詩は『 芝生 』。その詩の出だしはこうです。

         芝生     谷川俊太郎

       そして私はいつか
       どこかから来て
       不意にこの芝生の上に立っていた
        ・・・・ 
  ( 注: あと四行あるけどカットしました )

この『 芝生 』というのが、気になりました。
さてっと、谷川俊太郎選『永瀬清子詩集』(岩波文庫)の
はしがきは、谷川俊太郎でした。そのはじまりを引用。

「 私の最初の詩集『 二十億光年の孤独 』が出てしばらくして、
  珍しく父・徹三に永瀬清子を読むようにすすめられた。

 『 荒地 』『 列島 』『 時間 』などに拠る詩人たちに比べると、
  当時あまり話題にあがらない詩人だったが、
  父の書庫に詩集『 諸国の天女 』があったので読んでみた。
  ・・・ここに他の現代詩の書き手にない何かがあった。・・・  」

それでは、現代詩の書き手だった谷川俊太郎は
どのような少年だったのか?河合隼雄と谷川俊太郎の
対談に『 元禄の会話 』というのがありました。
その場面を引用。

谷川】 ・・・この間も、ぼくが小学校1年生のときに
    父と一緒に写っている読売新聞のコピーを
    持ってきてくれた人がいて、
    家庭訪問みたいな記事なんだけれど、
    もうギョッとしちゃった。

河合】 写真だけじゃなくて記事の内容ですか?

谷川】 そうなんです。母が教育論なんかしゃべっていて
    おかしかったんだけど、ぼくがね、
    母と記者が話しているときに客間に出ていって、
    そこにあった瀬戸物に対して、
   『 お母さま、これは元禄時代の焼き物でしょう 』
    っていうの(笑)。

河合】  ええっ (笑)。

谷川】  そうすると母はね、
    『 違うわよ。これは朝鮮の物よ 』っていうの。
    と、ぼくはね、
    『 朝鮮でも時代は元禄でしょう 』(笑)。
    もうこれは慄然としましたね。
    そういう下地があったから、母は・・
    怒ったんだと思いますね。

河合】  その元禄の会話も載ってるんですか。

谷川】  載ってるんですよ (笑)。
     ・・・・・・・
   
   (  河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」光村図書 )
 ( 谷川さんと対談副題は「人間ばなれをした孤独を知る人」とありました)

もう少し引用したいけど、引用過多になるのでここまでにして。
父親の谷川徹三の対談などをひらくと、正法眼蔵を病室にもっていて
読んだりとか、宮澤賢治に関する文もあったりする。
どのような思いで、父は息子と対していたのか?
ということで、もう一度『はしがき』を引用しておわります。

「 私の最初の詩集『 二十億光年の孤独 』が出てしばらくして、
  珍しく父・徹三に永瀬清子を読むようにすすめられた。・・・・ 」


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羽根つき

2024-11-15 | 道しるべ
ネットで古本を注文する際、有難いことに表紙画像を確認できる。
アマゾンだと、それを拡大できて、帯の文句まで読める。

ちょっと前でしたが、庄野潤三著「丘の明り」(筑摩書房)。
これが凾入りで帯があり、その帯をよめました。

「   庄野潤三作品集    永井龍男

   庄野潤三という人は、日本の作家の
   誰も持っていない境地を切り開いた。
   しかも、実に静かにだ。たとえば・・
    ・・・こういう小説が書けたら、
   どんなにたのしかろうと思うが、
   この人のほかには絶対に、誰にもかけない。   」


「丘の明り」(筑摩書房・昭和42年発行)。
各文芸雑誌などに掲載された作品をまとめた一冊でした。
ちなみに、定価は1円+送料350円=351円。
はい。買っちゃいました。

私はといえば、庄野潤三の小説は未読。
ただし、庄野氏の学生時代の先生が詩人の伊東静雄であり、
私は詩人を先生に持つ庄野氏がどのような作品を書くのか、
気になっておりました。それで、帯の文句に惹かれました。

こういう場合、ついつい他の作品にも手がでてしまいます。
庄野潤三随筆集「自分の羽根」(講談社・昭和43年)購入。
随筆集をひらくと、まずは表題となった「自分の羽根」を
読む。はい。4ページほどですから、すぐに読めちゃう(笑)。
そのはじまりを引用。

「 先日、私の娘と部屋の中で羽根つきをやった。
  冬休みがもう終りになるという頃だった。
  小学五年生の娘は、
  私が一日机の前で浮かぬ顔して仕事をしているのを見て、
  運動不足になることを心配したらしい。

  『 羽根つきをしよう 』 という。
  『 もう外は真っ暗だよ。 それに庭はドロンコだ 』
  『 部屋の中でやれるよ 』

  本当にやれるかと私は危ぶんで立ち上ったが、
  なるほどやって見ると、出来る。
  少しつき合いをしているうちに、
  ひとつどれだけ落さずに続けられるか、
  やってみようということになった。

  一番長く続いたのが五十回で、
  あとは大抵三十回にならないうちに
  どちらかがしくじった。・・・・・・・・

  ・・・弧をえがいて落ちて来る。その動きがきれいである。
  『 いいものだなあ 』と思いながら、私は打ち返していた。

  『 われわれの先祖はたしかにすぐれた美感を持っていた。
  お正月の女の子の遊びに、羽子板でこういうものを打つことを
  考え出すなんて。まるい、みがいた木の先に鳥の羽根をつけて、
  それでゆっくりと空に飛び上って行き、落ちて来るまで
  全部見えるようにこしらえるとは、よく考えついたもんだ! 』

  いい年をした親父になって、今ごろこんなことを
  感心しているのは、あまり賞められたものではない。   」(p185~186)

  
はい。これは随筆の始りの箇所で、これからが読みどころなのでしょうが、
私には、この箇所が読めればじゅうぶん(笑)。

さっそく、「日本のわらべ歌全集24・佐賀長崎のわらべ歌」(柳原書店)の
この箇所が思い浮かびました。最後にそれを紹介して終ります。

「 佐賀の子供たちは、初正月のお祝いにもらた羽子板で、
  手製の羽根をついて遊んだ。

  明治の頃までは、現在のように二人がつき合うのではなく、
  一人で羽根を落とさないように、何回つけるかを較べあうものであった。

  その頃の佐賀では、子供のいる家では、
  羽根つきの羽根は、たいてい手製であった。
  それはお正月の主料理に鴨(かも)が多くて、
  どこでも鴨の羽毛があったからである。

  冬になると有明海に鴨が渡って来て、鴨猟がはずむ、
  暮れの街には、乾物や荒物を売っている店にも
  鴨がぶら下がり、お歳暮用に売られていた。

  子供たちは、ムクロ(無患子・むくろじ)の木の
  黒くてかたい実に小さい穴をあけ、
  むしった鴨の羽根の中から一番形のいいものを選んでさしこみ、
  クサビを打ちこんで抜けないようにする。
  かたい羽根はシンに、柔らかい羽毛はフワリと落とすための
  抵抗にというふうに気を使ったようである。・・・    」(p46)


うん。この説明のあとにある、羽根つき歌も最後に引用しておきます。


       大黒さんという人は   ( 羽根つき )

      大黒さんという人は
      ここのお国の 人でなし
      天竺天から 舞いおりて
      一つ俵を ふんまえて
      二つにっこり 笑うて
      三つ盃 さしよって
      四つ世の中 よいやさ
      五ついつもの ごとくなり
      六つむくろじ 手にすえて
      七つ何事 言わしゃんす
       ・・・・・・・・・
       ・・・・・・・・・


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柳田國男の母。

2024-11-10 | 道しるべ
「日本わらべ歌全集10上」(柳原書店)は、「石川のわらべ歌」です。
小林輝治氏が、あとがきを書いております。そのはじまりに

「  伝承歌謡の収集に対して、これは
   『 今の時代の一番重要な仕事かもしれない 』
      ( 柳田國男『民謡と歌謡と』昭和31 )
   ということばにうなずいて、今では30年が経っている。・・ 」
                          (p237)

ああそうだ、そうだ。と思い出したように、柳田國男。
以前に、柳田國男を読もうと思ったことがありました。
けど、思うだけで結局は一冊くらいしか読めなかった。
はい。柳田國男の著作山脈のどこかにきっと私にふさわしい登山
コースがある。それがわかりさえすれば展望がひらけるかもしれない。
そんなことを思いながらも、糸口もつかめなく、過ごしておりました。
はい。結局はホッポリだしたまま、読まなかったわけです。

今回は、わらべ歌という登山口から柳田國男山脈の展望がひらける。
そんな期待をもって読み齧りでもチャレンジしたいと思うわけです。

はい。そんなわけで、
筑摩書房の「新編 柳田國男集」の第10巻にある
『 母の手毬歌 』を、おもむろにひらきました。
今回引用するのは、そこにある『 母の手毬 』 。

 「私の母は、今活きていると106歳ほどになるのだが、
 もう50年前になくなってしまった。

 男の子ばかりが8人もあって、
 それを育てるのに大へんな苦労をして、
 朝から夜までじっとしている時がないくらい、
 用の多いからだであったのに、
 おまけに人の世話をすることが好きで、
 よく頼まれては若い者に意見をしたり、
 家庭のごたごたの仲裁をしてみたり、とかく理屈めいた話が多く、
 どちらかというと女らしい所の少ない人であったが、
 それでいて不思議に手毬だけを無上に愛していた。

 うちには女の子は一人もないのに、余った木綿糸さえ見れば、
 きっと自分で手毬をかがって、よその小娘にも遣れば
 またうちにも置いたので、私たちの玩具箱には、
 いつも2つも3つもごろごろしていた。

 そうして私たちがたまたまついてみたり揚げてみたりしていると、
 傍へ寄って来て正月でない時にも、自分で上手に遊んでみせてくれた。
 しかし母のはいつでも揚げ毬の方であった。
 そうしてその歌が村の女の子たちの歌っているのとは、
 大分にちがっていた。それを何べんも聴いているうちに、
 わざは真似ることができなかったが、
 歌だけは私も大よそ覚えてしまったのである。・・ 」
      ( p244~245 「新編柳田國男集」第十巻 1979年 )

いそいで、柳田國男の略年譜をひらく。
そのはじまりに

1875年(明治8) 7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川 
         ( 現 神埼郡福崎町辻川 )に生まれる。

とあります。お母さんも出身は、その近くだったのでしょうか。

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戦陣の伽(とぎ)。

2024-10-18 | 道しるべ
桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」のはじまりは
『大名と御伽衆』。まず「御伽衆について」という4ページの文。

はい。私はこの箇所で、もう満腹。
すこし腹ごなしを兼ねて、引用してみます。

「 御伽(おとぎ)というのも、
  御咄(おはなし)というのも、
  すべて敬称である。

  しからば、伽(とぎ)とは何であろうか、
  伽とは、その語源に至っては詳らかでないが、
  字のごとく、人が加わることである。

  すなわち、人が大勢集まって眠らずに夜を過ごすことである。
  戦国時代以前には、単に通夜の意味にのみ用いられたらしい。

  通夜には種々な場合があって、
  一般にいえば、庚申待(こうしんまち)とか、
  武士でいえば、戦陣の夜警などである。

  そして、かかる際の通夜すなわち伽ということを
  妨げるのは睡眠であり、その睡眠を克服するには
  咄(はなし)によるほかない。
  咄によって伽を遂行するのである。

  従って、伽をするということは、咄をすることを意味し、
  この両語は遂に混用せられるに至ったのであろう。
  現在でも、山口県などでは、茶話(ちゃばなし)のことを
  茶伽(ちゃとぎ)と言っているようである。

  戦国時代には咄が大いに流行した。その起源は、
  なんといっても、戦陣の際の伽にあったと思われる。
    ・・・・    」  (p12)

  戦陣といえば、そういえば、衆議院選挙の最中ですね。
  ここでは、つい選挙と戦陣とを結びつけたくなります。
  ユーチューブで、さまざま御伽衆の語らいが聞けます。

桑田忠親氏は御伽衆の資格をこう指摘されておりました。

「 まず第一に、咄巧者、すなわち話術に巧みであること、
  第二に、その咄に適応する体験と技術の所有者たることを
  必要としたらしい。

  特殊な技術のあることは、それのみで御伽衆の資格となる場合が多いが、
  御咄衆としては、体験があっても肝心の咄そのものが下手では困るし、
  いくら咄巧者でも体験の伴わない、聞きかじりや、作り咄では、
  これまた値打ちが少ない。 」 (p14)


ユーチューブでは、高橋洋一氏の話を私はわりかし聞いている方です。
安倍晋三氏から電話がかかってきたとか、出向いたとか、
高市早苗さんから電話があったとか、現在の御伽衆のひとりに、
高橋洋一氏をあげてもよさそうな気がしております。
咄は訥々としておりますが、実務経験が豊富で、数理に明るい、
こういう御伽衆をそばに先陣をすごしている、
選挙という明暗を、御伽衆の語らいで聞いている気分になります。



  

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時代考証の首根っこ。

2024-10-01 | 道しるべ
桑田忠親氏の紹介文に

「明治35年、東京都生れ。日本史学者。・・昭和62年5月5日没」とあり、
そのなかで、気になったのは
「のち大河ドラマの監修・時代考証などにも活躍・・」という箇所でした。

はい。桑田忠親著「定本千利休」(角川文庫)をひらいているのですが、
パラパラ読みの私でも、そういえば、考証的な細部に惹かれます。

時代考証といえば、そういえば、
徒然草が思い浮かびます。どこでもいいのですが、
たとえば、第208段は
「 経文などの紐を結ふに、上下より襷に違へて 」
とはじまっております。ここは島内裕子現代語訳で
短いので全文引用してみます。

「お経の巻物などの紐を結ぶ際に、上下に襷(たすき)がけに交叉させて、
 その紐二本の中を通して、紐の端っこを横から引き出すのが、
 現在では普通の結び方である。そのようにしてあったのを、

 華厳院の弘舜僧正(こうしゅんそうじょう)が、
 紐をほどいて、巻き直させた。
『 これは、最近のやり方である。大変に良くない。正しくは、
  ただ紐をくるくると巻いて、上から下へ、紐の端っこを通して、
  差し挟むのが正しいやり方である 』と申された。
 弘舜僧正は、このような故実を、よく知っておられる老碩学であった。」
                ( p399 「徒然草」ちくま学芸文庫 )

 島内さんの【評】も、短いので引用。

「 寺院に伝わる故実を正しく伝える記事である。ここに登場している
  弘舜僧正の弟子が、第82段と第84段に登場した弘融僧都である。 」


ひょっとしたら、徒然草のような、時代考証を交えた古典の王道を
桑田忠親氏は歩いて来たのかもしれないと思うわけです。ここから、
放映中のNHK大河ドラマから、時代考証へ思いを馳せたくなります。
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千利休

2024-09-27 | 道しるべ
いつかは、千利休を読んでみたいと、
思ったことがありました。

まず、古本で千利休関連の本を買っておく。
私がはじめたのは、それでした。
読まなくっても買っておくと
それなりに溜まってゆくものですね。

たとえば、桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)
というのを買ってありました。はい。読んではおりませんでした。

そのあとがきをひらくと、そのはじまりにはこうありました。

「私が千利休の研究に志し、その根本史料である利休自筆書状の
 蒐集を始めたのは、東京大学の史料編纂所に勤めていた昭和10年、
 33歳の頃であるが、それらの根本史料をもとに、
 『 千利休 』と題する評伝を著わしたのは、昭和17年、40歳の
 ときである。・・・  」(p232)

はい。今回初めてあとがきをひらいてみました。
それじゃってんで、本文のはじまりはどうなっているのか?

「 茶の湯というのは、要するに、遊びごとであり、
  楽しみである。この点では、今も昔も同様であろう。・・  」
                          (p8)

はい。本文は、こうはじまっています。
やはり、古本で購入した本に
臼井史朗著「 昭和の茶道 忘れ得ぬ人 (淡交社・平成5年)に
その桑田忠親がさまざまな方の中に登場しておりました。
そこからも引用。

「昭和61年2月15日の深夜のことである。
 隣りの家から火が出た。博士(桑田忠親)の家は、
 みるみるうちに類焼、全焼してしまった。・・・

 すでにその頃、博士は83歳となっていたのである。
 もうほんとうに晩年だった。3万冊にも及ぶ厖大な
 蔵書と資料は、一瞬のうちに烏有(うゆう)に帰してしまった。
   ・・・・・

 たまたま未亡人を訪ねた時、焼跡に黒こげになって残っていた
 鞄の中から発見された、多くの手紙を拝見する機会を得た。
 火煙をくぐり、水にぬれて残った手紙類ばかりであった。 」

こうして、松永耳庵・川端康成・井上靖・司馬遼太郎の手紙を
紹介したあとの最後には、こうありました。

「水と火をくぐりぬけ、ボロボロになってしまった
 これらの来翰を見るにつけても、その学殖の文学への
 ひろがりを嗅ぎわける思いがした。それは、
 戦国時代を研究テーマとしたその核のひろがりでもあった。

 とくに、茶道史を実証史学の爼(まないた)にのせ、
 その研究成果を数多く公刊し、歴史理解への道を
 大衆のためにひらいたその業績は、茶道史に不朽のものとして残る。

 博士は、昭和62年5月逝去。85歳。生涯が学究一途の旅だった。 」
                         ( ~p105 )

ちなみに、この本のはじまりは佐々木三味で、
そこには、終戦で焼けた道具類の手紙が紹介されておりました。
そこにも、火事のことがでてきております。

「 空爆避けの山疎開は山火事にて大事な道具を喪いし之由
  其道具こそまことに数奇な運命とも可申候   」(p26)

とか

「 名古屋の友人伊藤幸楽主人は今様に 水ツケの焼け跡から
  茶器類をホリ出シ 小生ニモ珍しき事なる旨通知ありたるに
  蕨の絵をかき
    春山に やけ太りたる わらびかな
  と申送り候処 それらを取繕ふて 木曽川町の仮寓で
  名古屋より疎開中の茶友を招き 会致度由 
  楽げに茶会記を添へ申来りて候
  又左近君は爆風にて散々に家を崩されながら
  之を自分にて幾分修理し 道具類を纏めつつある旨申来り
  到処此喜劇のみ承わり居候
  茶道には非常時無く 平常心是道 茲に御喜ひ申上候
                         敬具  」(p28)


うん。雑本ばかりですが、千利休の本もすこしづつ溜まってきたので、
パラパラと読み始められますように。まずはパラパラと、この秋は、
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)からひらけますように。
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急がば回れ。

2024-09-17 | 道しるべ
清水幾太郎著「流言蜚語」のはじめの方にこうあります。

「・・報道、通信、交通がその機能を果たさなくなった時、
 社会の大衆は後になっては荒唐無稽として容易に片づけることの
 出来るやうな言葉もそのまま受け容れるのであって、
 どんな暗示にも容易にひっかかってしまふものである。

 軽信性は愚民の特徴だと言はれるが、
 かういふ場合に動じないのは余程の賢者か狂人である。

 関東大震災の時に落着いてゐたために助かった
 若干の人は、その落着きを賞讃されたが、
 しかしこの同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々に対して
 世間は最早この落着きを讃へはしない。
 この場合にはそれは落着きといふ名さへ与へられないのである。 」

             ( p18 「清水幾太郎著作集2」講談社 )

『 この同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々 』とあります。
どちらかといえば、私はその多くの人々の一人になるタイプです。
そんなことを思い浮かべては、つぎへと行きます。

うん。今こうして地元の関東大震災の記録を引っくり返しているのは、
いまならば、まだ地震が起きていない。
いまならば、『 急がば回れ 』という落着きが示せる。

ということで、ここでは、
『 急がば回れ 』を故事・ことわざ辞典で調べてみる。


「 急ぐときには危険な近道より、
  回り道でも安全な本道を通って行け。

 用例:     宗長のよめる
      もののふのやばせの舟は早くとも
           急がば廻れ瀬多の長橋  (醒睡笑-1) 」


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水田三喜男と田中角栄・福田赳夫

2024-05-03 | 道しるべ
水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(日本経済新聞社・昭和46年)
をせっかくひらいたので、気になる箇所を引用。

第二次池田内閣を語った箇所でした。

「日本経済の中には高度成長の要因というか、
 潜在力が蓄積していることをみてとって、
 このエネルギーの引き出し役をしたというのが
 池田政策の基本となているものであり、
 私どもはその片棒をかついだのであった。

 敗戦という事実のために、日本経済はかえって
 戦前に見られなかった新しい幾多の有利さに恵まれた。

 植民地を土台とした先進国のブロック経済に圧迫され、
 孤立化に追いこまれていた日本は敗戦によって初めて開放され、
 どこの国からも門戸が開かれるようになったことはまたとない機会であったし、
 
 終戦によって質のいい労働力があり余っていたことも幸いであった。
 それよりも国民の優秀な頭脳は何よりもの無形財産であった。

 明治の先人が偉かったために、教育の普及度が物を言うようになり、
 国際水準の技術を消化する能力は十分であって、戦争による
 科学技術のたちおくれを取り戻せる可能性は十分であった。

 また中共やソ連の建設五ヶ年計画がしばしば農業の不作によって
 挫折した事実を見てもわかるように、わが国がここ数年来、
 農業不作を経験していないことは、はかり知ることの出来ない
 潜在力の蓄積とみなければならない。

 さらに財閥の解体と農地の開放に併せて、古い指導者が追放され、
 日本の社会は若返って経済の体質も柔軟性を回復した。

 したがって伸びようとする潜在力の躍動がようやく
 随所に見られるようになってきたのである。
 そこで私どもは考えた。

『 日本経済は伸びる力をもっている。伸ばすのはいまだ。
  伸びられる時に伸ばさなければならない 』と。

 この考えがいわゆる所得倍増計画となって現れたのであった。」(p120~121)


もう一ヵ所引用。

「・・・経済を成長させる念願の方は、何やかや若干の実績を
 残し得た気持ちでいる。私は閣僚として、いわゆる
 神武景気と、岩戸景気と、いまのいざなぎ景気の
 三つの好況に遭遇しているので、世間からは
 積極的な高度成長論者とされているようである。

 しかしながらこの十年間を通じて私が実際的に心を砕いた仕事は、
 経済成長を刺激する仕事よりも、むしろ好景気によって悪化した
 国際収支をなおすための仕事の方が多かったようである。
 大蔵省で退任のあいさつをしたとき、

『 いつも私が引き締めのにくまれ役を買って、
  国際収支をよくすると、そのあとを受け継いで、
  こんどは予算の大盤ぶるまいをして、
  いい子になれる運命のいい星の下に生まれているのが、
  田中角栄君であり、福田赳夫君である 』

 と言って笑ったのであるが、冗談ではあっても、
 この二人にくらべるとやはり私が一番貧乏性に生まれている
 ことになるのかもしれない。   」(p135~p136)


つい最近、中村隆英(たかふさ)著
「昭和史」(東洋経済新報社文庫上下)を手にしました。
私のことですから、前書きと後書きをパラパラとめくるだけです。
そこに、田中角栄とあります。最後にそこを引用。

「 仕事をしながら思ったことをいくつか書きつけておきたい。

  まず、高度成長が終わるまでのところは
  書くのが比較的楽しく、そのあとが苦しかった。

  昭和前半は政治と軍事の時代、後半は経済の時代と
  分けていいように思っていたが、

  とくに田中角栄内閣のあとは、政治史がつまらなくなるのである。
  首相が交代しても、局面が変わるわけではなく、
  書きたいことがなくなってしまうのである。
  徳川幕府の老中が交代しても、
  政策はめったに変わらなかったようなものである。・・・  」
               ( p894 文庫下巻 )
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初陣。

2024-04-28 | 道しるべ
衆院東京十五区補欠選挙に立候補した『 飯山あかり 』さん。
その投票日が今日で、夜の8時から開票。

月刊Hanada6月号の門田隆将さんの巻頭コラム。
2ページで短いけれど、その最後の方だけ引用。

「・・誇りも哲学もない『岸田政治』によって、
 安倍晋三氏暗殺から2年も経たない内に、
 日本は≪ あり得ない国 ≫になってしまったのだ。

 そのうえ政治資金規正法の不記載問題で検察の動きを察知するや、
 すぐに宏池会の会長をやめ、会計責任者が立件された三派閥の中で、
 自分だけには何の処分も科さないという離れ業をやってのけた。
 日本のトップとして自らの身の処し方も知らぬ首相・・・・ 」

はい。今晩の開票まえに、あらためて
門田隆将氏のコラムの最後の箇所を引用しておくことに。


「 そんな中で『 日本を豊かに、強く。 』とのスローガンを
  掲げて生まれたのが日本保守党だった。

  中東研究者の飯山あかり氏は3月5日に立候補を表明し、街頭に立った。

  そこでは、まさに移民、LGBT、中国、太陽光発電、再エネ賦課金
  ・・・・等々の根本問題が訴えられた。

  与野党の中でどこも主張していない、真反対の政策。

  それは、まさに日本を守ろうする保守・
  現実派の主張そのものといえた。
  私は、飯山氏の奮闘に期待する。

  そして、自民党にいる保守・現実派の高市早苗氏、
  有村治子氏、小野田紀美氏、杉田水脈氏ら、
  日本を憂う女性政治家たちに期待する。

  いつの日か、これら女性政治家が
  手を携えて日本を守ってくれることを夢見るのである。 」(p27)
  
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飯山あかり選挙演説。

2024-04-18 | 道しるべ
16日・17日とユーチューブにて、
飯山あかりの選挙戦演説から目が離せませんでした。

ちなにみ、酒井なつみさんの応援演説には、蓮舫さんの笑い顔がありました。
さっそく、長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月25日初版)を
取り出してくる。そこに、忘れないように短歌で蓮舫が歌われておりました。

  高飛車に津波対策費仕分けせし蓮舫が『節電してください!』だなんて

p61にありました。その前の方には、菅直人首相も登場しております。

  かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸

  おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ

  顔見せぬ菅宰相はかなしけれ1億2000万人のみなし子

p45~47にありました。


ついつい忘れっぽい私なのですが、
印象鮮明な保守党選挙演説の3名。
飯山あかり・有本香・百田尚樹。


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