淡交社の「古寺巡礼京都⑬」(昭和52年)は広隆寺です。
矢内原伊作氏の文が掲載されている。
そのはじまりは、
「久しぶりに京都を訪れて、今日は太秦に行くのだと言ったら、
宿の女主人に『へえ、映画村にお行きやすのどすか。』と
言われてこちらが驚いた。ちかごろは、広隆寺よりも映画村の
ほうが有名になっているらしい。」
この矢内原伊作氏の文では、仏像を語る箇所が印象深い
ので、その箇所を引用してみます。
「宝庫は、しかし実際は、倉庫のようなところに収められている。
寺の当事者はおそらく最大限の努力と苦心と注意を払って霊宝館
を管理し、そこに仏像その他を陳列しておられるのだろうから、
それを倉庫などと言っては申しわけないが、来歴不明の、
さまざまな時代のさまざまな性格の仏像が雑然とならべられている
この殺風景な建物の内部からは、正直なところそんな印象を与えられる。
仏像はそれぞれ、それがあった場所を失い、
身にまとっていた空間を失って、いわば裸にされているように見える。
しかし、嘆いてばかりいるには及ばない。裸にされることによって、
美しいものがいっそう美しくあらわれ出ることもあるのである。
宝冠弥勒半跏思惟像の比類のない美しさはまさに
そういう美しさではなかろうか、と私には思われる。」(p71)
「霊宝館には、この像とならんで、わが国の仏教美術史の各時代
を代表するすぐれた作品が所せましとばかりひしめいている。
実際、このせまい館内を一巡すれば、われわれは奈良、貞観、弘仁、
藤原、鎌倉、という風に展開する仏像彫刻の時代様式の変遷のあとを、
それぞれのすぐれた作例について容易に見てとることができるのである。
・・・・霊宝館の入口を入ってすぐ左の壁際にならんでいる十二神将の像、
私はこれが殊のほか好きである。
・・・・とりどりの武具を手にし、思い思いの姿勢で忿怒をあらわしている
十二神将にはまた独特の不思議な魅力がある。忿怒をあらわしていると
いっても、優美を特徴とする藤原時代の作だけあって、顔貌は静かで、
怒っているというよりはむしろ、戦わなければならないのを悲しんで
いるかのようである。体軀もまた静かで、リズミカルな躍動感はありながら、
力強いというよりはむしろ優雅な身のこなしである。甲冑など細部は
精巧でありながら煩わしさがなく、すっきりとして爽やかである。
木彫十二神将像の最古の作例であり、またおそらく最も美しい作品である。」
(p74)
ここに、「怒っているというよりはむしろ、
戦わなければならないのを悲しんでいるかのようである。」
と矢内原氏は指摘されております。
それでは、宝冠弥勒半跏思惟像を矢内原氏は
どう語っておられるか。そこを引用してゆきます。
「・・救いがたい衆生をいかにして救うかが、この菩薩の『思惟』の
内容であろう。しかし広隆寺のこの宝冠の半跏思惟像は何かを
考えているようには見えない。考えているというよりは、むしろただ
夢みているように思われる。・・・半跏思惟像はただ微笑している。
・・・もっとも、微笑にもいろいろある。・・・・・
法隆寺の釈迦三尊や百済観音にはきびしい神秘的なものがある。
あの端麗で慈愛にあふれた中宮寺の弥勒像の微笑もまた、
仏から人に向うものだ。ところが、この広隆寺の思惟像は人間に
向って微笑みかけているのではない。自らの内部からあふれ出る
精神の生命が微笑となっているといった感じである。
眠っている幼児がときおり無心に微笑むことがあるが、
この像の微笑はそれに近い。
それは、いかにして人間を救うかを考えている姿ではない。
それ自身が救いなのだ。無心の歓喜に指はほとんど踊っている。
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・広隆寺像にあっては、
指先と頬とのあいだに3ミリか4ミリの空隙がある。
ということは、この像はもともとこの空隙を埋める程度に、・・・・
厚く漆で塗りあげられ、その上に金箔がおかれていたものであろう。
・・・・・とうてい想像もできないが、今日見られる像が直線的抽象的で
あるのに比して、もっと曲線的で肉づきの豊かなものだったであろうし、
今日の像が人間的写実的であるのに対して、
もっと超人間的神秘的だったであろう。
これは私の想像にすぎないが、しかしこのように想像してみてはじめて、
今日のわれわれが見るこの像の類のない純粋さの秘密の一斑が納得される
のではないだろうか。これは、その上に漆を塗って仏像として造形される
以前の、彫刻の素型のもつ清純さである。つまり裸の美しさである。」
(p73)
うん。こうして引用してくると、
矢内原伊作氏の文の最後のしめくくりまでも
引用しておきたくなります。以下はその最後の箇所。
「・・・街の騒音はここまでとどき、隣の映画村からはマイクで呼びかける
声がしきりに聞こえてくる。竹藪のむこうに殺風景なコンクリートの建物が
迫ってきていて、それは撮影所の建物なのだった。・・・・・・
われわれの現代の文化と過去の文化、
それが何の関係もなく小さな塀ひとつを隔てて隣りあっているというのは、
いたるところにあることではあるが、思えば奇怪なことである。
何の関係もないということはあるまい。関係がないとしたら、
そこに関係をつけ、美しい古いものを現在と未来に生かしていくことが
われわれの責務ではないだろうか。そんな風に私は思ったが、
思っただけで難問が解けるものでもない。
難問がどうであれ、美しいものは美しい。それはそうだが、
美しいものはわれわれが難問にたちむかい、われわれ自身の
現実の課題を解決するのを求めてやまないように私には思われる。
それが美しいものの力であり生命であるように思われる。」(p76)