和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

苺を食べた

2025-03-18 | 詩歌
河合隼雄+谷川俊太郎「魂にメスはいらない ユング心理学講義」
(朝日出版社・1979年)には、付録の「注釈集」がありました
( 注:古本では、この付録が欠けてる場合もあります )。

この注釈集を読みたくなり、ひらく。
付録は、26ページの小さな冊子です。ここで、
河合隼雄が谷川俊太郎の詩を読み解いてます。
付録の最後に、河合さんが書いております。

「よもや自分が詩の解釈をやることになろうとは思ってもみませんでした。 
 別に熱心な詩の読者といういわけではなし、
 読んでもよくわからないといった程度でしかないのですが、
 それでも谷川さんの作品は以前から好きでした。・・・・

 編集部からユング派用語解説を兼ねた谷川さんの詩の解釈を
 ぜひと言われ、谷川さんご自身からもやってみてほしいとの
 お申し出がありましたので、
 とうとう身のほど知らずのことをやってしまいました。・・・
 読者の皆さんにとって何かの参考になればありがたいと思います。 」

谷川俊太郎の詩を引用してから、河合隼雄さんの解釈を載せています。
詩集「定義」から、詩「疑似解剖学的な自画像」を引用したあとの、
河合さんの解釈には、こんな箇所がありました。

「・・それにしても、自画像の冒頭から『 苺を食べた 』と言えるのは、
 ずいぶん幸福な幼児期を持った人でしょう。このことは、
 谷川さんの感受性の豊かさの源泉でもあるようです。・・ 」(p7)

p16には、別の詩に関して河合さんが感傷性へ言及した箇所がありました。
最後には、そこから引用しておきます。

「 ・・谷川さんという人には、日本人には珍しく
  感傷性が少ない感じを受けます。
  日本の詩というのは一般的には非常に感傷的で、
  詩人自身も子供のうちから抑圧され溜まりすぎるほど
  溜まったものを、成長してから一つのフォルムに入れて
  表現するというタイプの人が多いように思うのですが、
  谷川さんの場合、抑えつけられることの少なかった人
  ではないかという気がします。
  この意味で、自己肯定感が谷川さんには
  強いのではないかと思うわけです。・・・   」


手元には
 芸術新潮3月号「追悼谷川俊太郎」(2025年)
 谷川俊太郎詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」(青土社)
 ユリイカ「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」(1973年11月臨時増刊)
 LECTURE BOOKS「魂にメスはいらない」(朝日出版・1979年)
 谷川徹三著「人間であること」(現代日本のエッセイ・昭和47年毎日新聞)


さあ、今日明日には、待っていた曽野綾子さんの古本が届きます。
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読売歌壇 これはまた

2025-02-27 | 詩歌
土屋文明著「読売歌壇秀作選」(読売新聞社・昭和62年)という本。
この本の最後には「短歌八十年」という聞き書きが載っておりました。

「 読売歌壇の選歌評には、年齢のあじわいがあり、
   九十六年の健康をささえているものは   」という質問があります。

うん。検索すると、土屋文明は生れは群馬県(今の高崎市)。
1890年~1990年(平成2年)。
たいへんな高齢で長く歌壇選評をしていたのだなあ。 

せっかく、ひらいたので、本文から一箇所だけ引用。

  降りしきる雪のごとくにわが心君を思へば清くはかなし
                    茨城県 郡司珠希

この一首に寄せた土屋文明の選評は

「 これはまた、ひどく古典の一首だ。
  調子の乱れもなく一貫してまとまっている。
  ただし、いつも、この様な調子ですませては
  進歩というものは無くなってしまう。    」( p59 昭和59年より )


また、インタビューの箇所にもどると、こんな質問がありました。

「 土屋さんは読売新聞朝刊の歌壇欄と地方紙一紙の選評を担当している。
  一般的に、俳句の応募数は短歌の二倍といわれるが、
  読売新聞の場合の土屋さんあての応募はがきの数は、
  俳句への応募数とほぼ同じである  」 ( p234 )

これへの答えを、最後に引用しておきます。

「 いつも新しい人、新しい人と思いながら選をしますが、
  どうしても幾人かの人に偏りがちになります。
  どこか力が違うもんでネ。
  でも、なるべく新しい人を見いだすことに、
  新聞の歌壇欄の意義があると思います。・・・・ 

  歌の読み方にもいろいろありますが
  はがきはしまいまで全部読みますよ。・・・・
  いまのところ、二段式にしていまして、
  初めに目にとまったものだけを別にして置いて、
  それを何日か日をあけて二回読みしてから選評にとりかかります。 
  ・・読売の選歌は昭和二十二、三年ごろからやっていると思います。 」


はい。こういう新聞の歌壇俳壇というのは、
なかなか本になりにくい。古新聞を切り抜いていると、
なんだか、歌壇俳壇の歴史の流れを味わえているような感じになります。
ここに、言葉が息づいているというような。
ということで、まだ整理されていない古新聞があるわけです。
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さよなら三角また来て四角。

2025-02-26 | 詩歌
今日は、午前も午後も、もらって来て数年分
そのままになっていた、読売の古新聞を整理。

古新聞をめくっていると指が汚れてくるので、
ナイロン手袋でめくりはじまたのですが、
なかなかページがめくれないのでした。
さらに指にゴムをはめて頁めくりをしようとしたのですが、
こちらもうまくいかない。
午後になって、農作業などにつかうゴム手袋をつかってみる。
これが良好で、ペースがはかどる。
目次をみて、広告をみて、パラパラめくって、
とりあえず、目をとおすことに徹するのですが、
今日もまだ、終わらず、このあと数日かかりそうです。

切り取っているのは、読売歌壇・俳壇(月曜日)でした。
とりあえず、今日切り取った読売歌壇から収穫を引用。

  エッセーを四十編読んだ心地して
        歌壇を閉じて冷めた茶を飲む
                堺市  山口恵津子

  飼ひ猫は生老病死身をもつて示し静かに此の世を去りぬ
                日立市  鶴岡育枝

  娘ではないから言える初恋のはなしを『ヘルパーさん』吾は聞く
                新宮市  小野小乃々

  コーヒーを飲もうよ姉と喫茶店初めてかもね七十路にして
                福山市  石川茂樹


以上は、小池光選の一番目に載った短歌でした。
ちなみに、選者の二番目は、栗木京子さん。栗木さんの選も一首

  消しゴムのカスを残して孫帰る今度いつ来るまた来て四角
                高松市  好井喜久代

栗木さんの評を引用しておきます。

 「 祖父母の家で字や絵を書いて過ごした孫。
   消しゴムでなく、そのカスを残したところに臨場感が漂う。
  『 さよなら三角また来て四角 』を生かした結句も味わい深い。 」

     
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Kentucky Fried Poem

2025-02-24 | 詩歌
古本で長田弘詩集『 食卓一期一会  』が200円。
持っているには持っているのですが、いつのまにか、
黄色のシミがひろがり気になっており、買うことに。
こちらの古本はというと、シミもなくきれいでした。

はい。はじめての本のようにして『後記』を読む。
そのはじまりは

「 食卓は、ひとが一期一会を共にする場。
  そういうおもいが、いつもずっと胸にある。
  食卓につくことは、じぶんの人生につくこと。
  ひとがじぶんの日々にもつ人生のテーブルが、食卓だ。
  かんがえてみれば、人生はつまるところ、
  誰と食卓を共にするかということではないだろうか。 」

ああ、こういう詩集だったのか。とあらためて思う。
後記の最後も引用しておくことに。

「 これらの詩を書く機会をつくってくださったおおくの方々に、
  とりわけ『婦人之友』編集部に深く感謝する。
  直接間接にはげましていただいた
  安西均、石垣りん、鶴見俊輔、村本晶子の各氏に、
  手がけていただいた原浩子氏に感謝する。  ( 1987年8月 ) 」


長谷川四郎読本「ぼくのシベリアの伯父さん」(晶文社・1981年)
という古本をひらいた時には、長田弘さんの詩がトップにありました。
最後には、その詩を途中から引用しておきます。


     ・・・・・・
     じゅうぶんに火をとおす。
     カラッと揚げることが
     言葉は肝心なんだ。
     食うべき詩は
     出来あいじゃ食えない。
     言葉はてめえの食い物だもの。
     Kentucky Fried Poem じゃ
     オ歯にあわない。
     ぼくの伯父さん、あなたは
     今日どんな言葉を食べましたか?


私といえば、この長谷川四郎読本の最初の詩を読み、
もう満腹で、いまだ、その先は読んではおりません。
こんな時は、そっと本棚へ『食卓一期一会』の並び。
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寒山拾得の詩。

2025-02-14 | 詩歌
海北友松の『寒山拾得図屏風』をながめていたら、
寒山拾得をあらためて知りたくなり、古本を注文。

以前に久須本文雄著「寒山拾得(下)」講談社・昭和60年が
古本で安かったので買ってありました。そこに載る数篇の
詩を読んだことがあったので、あらためて久須本文雄氏の
本を注文してみることにしました。
今は上下を合わせた座右版「寒山拾得」(講談社・1995年)が
古本で買えるので注文し、それが届きました。

いったい、寒山拾得とはどんな人なのか?
最初に、解題とあり、寒山拾得の説明があり有難い。
ということで、そこから気になる箇所をピックアップ。

・・・天台山の近くの寒巌に隠棲していて、時々そこから
天台の国清禅寺に赴く。寺には拾得という食堂係がいたが、
寒山が来ると残飯などを入れた竹筒を彼に与えていた。・・・

この座右版には、最初に東京国立博物館蔵の『寒山拾得図』の
白黒写真が載せてありました。
はい。髪がボサボサで粗末な服装で、
右上方を見て二人して笑っています。
拾得かな、一人箒をかかえています。

寒山詩集については、序があり、そこから引用しておきます。

「 国清寺の僧・・に寒山・拾得らの言行を調べさせたところ、
  竹・木・石・壁などに書きつけた詩や、
  村里の人家の壁にも書き散らしたものおよそ三百余首、
  および拾得が土地堂の上に書いた偈などがあったので、
  これらを取り集めて一巻となした。  」(p24)

とりあえず、最初の方の詩をパラリとひらき、
一ヶ所引用しておきます。現代語訳で

五   吾が心秋月に似たり

   自分の心は、秋の夜空に輝く明月が、澄みきったみどりの
   深い淵の底までも、清くすき通って光り輝いているのに似ている。
   この清明な心に比べることのできるものは他に何もない。
   それで、どう説明したらよいのかその言葉もない。

     吾心似秋月  碧潭清皎潔
     無物堪比倫  教我如何説          ( p52 )


はい。物理学者の寒月君のことが思い浮かびました。


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園の中・林の中・樹の下・・

2025-01-11 | 詩歌
昨日、親類の葬儀。
私の実家は日蓮宗で、その親類も同じく、同じお坊さんでした。
実家の法事の際に、家でお坊さんにつられ読経しております。その調子で、
葬儀場でも、読経がはじまれば、普段通りに声をだす事ができました。
今は、火葬をする前に、葬儀場にて、初七日法要の読経もすませます。

その初七日法要の読経で、私は、はじめて聞く箇所がありました。
今回はそれを紹介します。

それは読経本の裏に印刷されている箇所でしたのでたどる事ができました。
『 妙法蓮華経 如来神力品 第二十一 』
『 その時に仏。上行等の菩薩大衆に告げたまわく。・・・ 』と始まります。

短い箇所なので、すぐに読めてしまいますが、
聴いていて、最初に私にもわかりやすかった箇所は後半でした。

『・・・もしは園の中においても。
    もしは林の中においても。
    もしは樹の下においても。
    もしは僧坊においても。
    もしは白衣(びゃくえ)の舎(いえ)にても。
    もしは殿堂に在っても。
    もしは山谷(せんごく)曠野にても。

    この中にみな塔を起て供養すべし。
    所以(ゆえ)はいかん。
    當(まさ)に知るべし是の處は。
    すなわち是れ道場なり。

    諸仏ここにおいて。
      阿耨多羅三藐三菩薩(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得。
    諸仏ここにおいて。
      法輪を転じ。
    諸仏ここにおいて。
      般涅槃(はつねはん)したもう。     』


次に、『 若(も)しは園の中においても 』のすこし前を引用してみます。

『 ・・・是の故に汝等(なんだち)。如来の滅後において。
  まさに一心に。受持読誦(じゅじどくじゅ)し。
         解説書寫(げせつしょしゃ)し。
         説の如く修業すべし。
  所在の国土に若しは受持読誦し。解脱書寫し。
  説のごとく修業し。若しは経巻所住(こうがんしょじゅう)の處あらん。』

 このあとに、
   若しは園の中においても。若しは林の中においても。・・・

と続くのでした。
さてっと、ここまで引用したからには、最初の難しそうな箇所を
引用して全文引用といきましょう。

『 その時に佛。上行等の菩薩大衆(ぼさつだいしゅう)に告げたまわく。
  諸佛の神力(じんりき)は。是(かく)の如とく無量無辺。
  不可思議なり。若し我この神力をもって。無量無辺。
  百千満億阿僧祇劫(ひゃくせんまんのくあそうぎこう)において。
  属累(ぞくるい)のためのゆえに。この経の功徳を説かんに。
  なお盡すことあたわじ。要を以て之れを言わば。
  如来の一切の所有の法。如来の一切の自在の神力。
  如来の一切の秘要の蔵。如来の一切の甚深(じんじん)の事(じ)。
  みなこの経において宣示顕説(せんじけんぜつ)す。
  是の故に汝等。如来の滅後において。まさに一心に。
  受持読誦し。解説書寫し。説の如く修業すべし。・・・・・・ 』


この『 若し我この神力をもって 』と
『 我 』という言葉がでてきますが、この我は、日蓮のことでしょうか。
などと思いながら、
繰り返される『 受持読誦(じゅじどくじゅ)し。
        解説書寫(げせつしょしゃ)し。・・修行すべし。 』

という箇所が気になるのでした。
まあ、そういうことで、ここに書き写しておくわけです。



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うたって聞かせて頂いた。

2024-12-24 | 詩歌
本棚を作り、その空白の棚に、本を並べてゆく。
とりあえず、本棚が埋まった時点で、もういいや。

空白の棚に、本を詰めてゆく作業はワクワクしたのに。
いざ、本が並ぶと、あの本の上の棚には、何を置こう、
右隣・左隣の棚には何をとあれこれ思い描くのが終了。
まるで、空白の棚に、言葉を詰め込みすぎたような気分になる。


それはそうと、庄野潤三の語る佐藤春夫です。

庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をあらためてとりだす。
そこに、読まずにあった、第6章『 佐藤春夫 』をひらく。

『 詩をうたって聞かせて頂いた 』という箇所がある。
九州での学生時代に伊東静雄氏を訪ねる場面なのでした。

「・・・秋の試験休みに帰省して、堺の伊東静雄先生を訪ねた折、
 雑誌で読んだ佐藤春夫の『 写生旅行 』がよかったという話をしたら、
 伊東先生も読んでいて、二人で『 写生旅行 』をたたえたことがあった。
 もともと佐藤春夫は現代の文学者のなかで
 伊東先生が最も尊敬する人であった。先生の二畳の書斎で、
 春夫の詩集『 東天紅 』のなかから『 りんごのお化(ばけ) 』
 という詩をうたって聞かせて頂いた・・・・       」(p162)

この章のなかに、三島由紀夫も登場しておりました。
庄野潤三がはじめて雑誌に掲載された『 雪・ほたる 』の箇所でした。

「 三島由紀夫は『 雪・ほたる 』を読んでいて、
  人なつこく私に話しかけた。
  ご自分で気に入っているところを朗読して下さいという。
  自作を朗読するというようなことは気恥しいので、
  三島由紀夫が何度もねだったけれども、朗読はしなかった。 」(p175)

ここでは、『 気恥ずかしいので・・朗読はしなかった 』とあります。
庄野潤三の家族が、大阪から東京へ引越してきた際に歌がありました。

「・・越して来て一年半くらいたったころに、
 この子(長男)が佐藤先生夫婦の前で『 お富さん 』を歌った。

 そのころ流行(はや)っていた歌謡曲で、
 『 死んだ筈だよお富さん 』という歌であった。

 長男はこのとき三歳で、最後の『 ゲンヤーダナ 』というところが、
 『 ゲンヤーナヤ 』というふうになって、
 佐藤先生も奥さんもふき出された。

 ・・・先生は甚(はなは)だ興趣を覚えるというふうに
 この子を見守っておられたばかりか、歌に終ると、
 『 よく出来たね 』といって、賞めてくれた。・・・・
 
 ・・・・子供が『 お富さん 』を歌ったのは、
 このとき一回だけであったが、先生も奥さんも
 いつまでも覚えていて、その後、私たちの顔を
 見る度にその子のことを尋ねて下さった。

 『  小生、自然と赤ん坊とが一番好きです。
   人間の最も自然なものが赤ん坊なのですから
   当然の事かと思ひますが、人生いかに生く可(べ)き?は
   小生によれば赤ん坊の如(ごと)く生きよだと思ひます 』

  これは、戦後、先生御夫婦がまだ信州佐久に居られ頃に、
  先生から頂いた手紙の一節である。・・・・・
  草木や川や雲をめでるように、先生は子供をめでて居られた・・」

                         (p183~p184)
はい。『 明夫と良二 』などの作品で、
男の子が、唄いだす場面があることを、
その雰囲気が、印象深く残ったことを、
あらためて思い浮かべ反芻してみます。

この章ではさらに、
『 静物 』を書きあぐねている庄野氏に
佐藤春夫が語りかける場面があるのですが、
それは、次回のブログで取り上げてみます。


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うたふべきことは

2024-12-15 | 詩歌
庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の最後は、

「 庄野英二。私より六つ年上の兄で・・ 」

と兄さんを取り上げておられます。
庄野英二と庄野潤三の兄弟を思い浮かべると、
何だか、作品『 明夫と良二 』みたいです。

弟の良二が唄う場面がありました。

「 庄野潤三著『 絵合せ 』をひらいていると、
  良二が歌う場面がでてきます。


 『  ・・三月中ごろの或る晩、その良二が不意に
    ≪ サンタ・ルチア ≫をうたい出した。
  ついさっき会社から帰って、ひとりで遅い夕食を食べた姉の
  和子も細君も彼も、みんな呆気に取られた。
  歌は途中でとまったが、和子は、

 『 いいわ。いいわ 』といい、もう一回うたってと頼んだ。
 『 どうしたの、それ? 学校で習ったの。全部うたえるの、
   原語で。大したものね 』
  すると、良二は音楽の時間に女の先生がうたってくれたのだといった。
 『 教科書にのっているの? 』
 『 教科書にのっているのは、ただの日本語なの。
   それで先生が、その、イタリア語でうたって 』
 『 教えてくれたの 』
 『 そう 』              」


庄野潤三著「文学交友録」の締め括りに≪ うたうことは ≫とあります。
その箇所をここに引用しておきたくなりました。

「 チャールズ・ラムの『 エリア随筆 ≫の巻頭を飾る『南洋会社』は、
 年少の日にラムが半年ほど見習いとして勤めていた会社に寄せる思いを
 しみじみと語った随筆であるが、その中でエリアは当時の同僚であった、
 それぞれ変った癖の持主である現金出納係や会計係の何人かの
 横顔を紹介したあとに、

   『 うたふべきことはまだ沢山残ってゐる 』 (戸川秋骨訳)

 というところが出て来る。
 『 文学交友録 』の終りの章を書いた私にも、エリアと同じように、

   『 うたうことはまだ沢山ある 』

 の嘆きが残る。取り上げなくてはいけない人を
 落しているのではないだろうか。だが、
 もう終りにすべきときである。
 これでお別れすることにしよう。    」(p409・新潮文庫)


こうして連載は終るのでした。ここからあらためて、
良二が唄っている場面を、思い浮かべておりました。


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『 いいから、うたって 』

2024-12-07 | 詩歌
ネットで古本を購入しているのですが、
古本屋でも、そこで、一度見かけたものが、
同じ古本屋では、もう二度と御目にかかれない場合もあります。
そうかと思えば、一挙に同じ著者の作品が並んでいたりします。
ついこの間は、庄野潤三の本が一同に並んだことがありました。
単行本で凾入りで、庄野潤三著「絵合せ」(講談社・昭和46年)
が300円。はい。安いとついつい手がでます。買ってから見ると、
最後のページの余白に鉛筆で2000円と記してありました。
白色の布張りの本は、茶色のまだらがつきはじめておりました。
装幀が、栃折久美子とあります。「 庄野潤三作品集 絵合せ 」。
「あとがき」をひらくと、こうありました。

「・・・『絵合せ』は、もうすぐ結婚する女の子のいる家族が、
 毎日をどんなふうにして送ってゆくかを書きとめた小説で・・・

 確かに結婚というのは、人生の中で大きな出来事に違いないが、
 ここに描かれている、それひとつでは
 名づけようのない、雑多で取りとめのない事柄は、
 或は結婚よりももっと大切であるかも知れない。

 それは、いま、あったかと思うと、もう見えなくなるものであり、
 いくらでも取りかえがきくようで、決して取りかえはきかないのだから。」


はい、『 絵合せ 』をひらいていると、
良二が歌う場面がでてきます。

「 ・・三月中ごろの或る晩、その良二が不意に
  『サンタ・ルチア』をうたい出した。

  ついさっき会社から帰って、ひとりで遅い夕食を食べた姉の
  和子も細君も彼も、みんな呆気に取られた。
  歌は途中でとまったが、和子は、

 『 いいわ。いいわ 』といい、
  もう一回うたってと頼んだ。
 『 どうしたの、それ? 学校で習ったの。全部うたえるの、
   原語で。大したものね 』
  すると、良二は音楽の時間に女の先生がうたってくれたのだといった。
 『 教科書にのっているの? 』
 『 教科書にのっているのは、ただの日本語なの。
   それで先生が、その、イタリア語でうたって 』
 『 教えてくれたの 』
 『 そう 』
 『 うたって 』
  今度は、良二は恥しくなって、うたわない。 
 『 いいから、うたって 』
  そんなふうに改まっていわれると、声が出ない。
  和子と細君に二人がかりで催促されて、
  良二はうたわないわけにゆかなくなった。   」(p13~14)

 
そのすこし後に、主人公(お父さん)の意見がさりげなくはさまる。

「 もともと良二は、わらべ歌くらいが似合っている。
  不意に家の中でこの子がうたい出すのは、
  いつも学校で習った曲にきまっているが、
  その中にいくつか、わらべ歌があった。

  二月くらい前になるが、何かの拍子にそのことを思い出した。
 『 四けんじょ 』というので、九州地方のわらべ歌である。

 『 一けんじょ 二けんじょ
   三けんじょ 四けんじょ  』

 というので、それだけ聞いたのでは何のことだか分からない。
 これは良二が小学五年のころに習った。
 やっぱりその時も家の中で出し抜けにうたい出した。  」


はい。数行端折ってもいいのでしょうが、この間は貴重なので
そのままに続けて引用してみます。

「 『 四けんまほただの のりくらのうえに 』
 
  というのが出て来る。
  はじめは何だかまた、はかない歌をうたっている、
  と思ってきいていたが、あとで良二を呼んで尋ねてみた。
  
  『 何だ、それは。何の歌だ 』
  『 これ? 』といってから、
  『 四けんじょ、だったかな 』
  『 四けんじょ? 四けんじょって何だ 』

  すると、良二は音楽の教科書を取って来て、そこをひらいてみせた。
  『 けんじょ 』は、けわしいところ、従って
  『 四けんじょ 』は、四番目のけわしいところという意味らしい。

  『 牛はこびの人が 』と良二はいった。
  『 道を通って行って、うんとけわしいところがある。
    そういうことをうたってあるんだって 』
  『 なるほど 』
  『 あめうしけうしは、いろいろな牛ということなの 』

   いろいろな牛がけわしい山道をいくつも通って行かなくてはいけない。
   それで、牛も難儀するし、ついている人も難儀する。
   最後のところは、

  『 さるざかつえついて
    じっというて それひけ 
     それひけ      』となる。
  この『 じっというて 』というのがいい。
  牛も人も、同じように汗をかいているみたで、いい。  」(~p16)


はい。わらべ歌というのは、どんな歌なのかと、
めくったのは『日本わらべ歌全集25」(柳原書店)の「熊本宮崎のわらべ歌」。

最後にそこからの引用をしておくことに。

       いちけんじょ    ( 鬼きめ歌 )

    一けんじょ 二けんじょ
    三けんじょ 四(し)けんじょ
    しけんも おたかの 乗鞍の上に
    雨うし こうし 猿坂(さるさ)が杖ついて
    じいと ばば こるふけ     ( 水俣市丸島町 )


「 『 一けんじょ 二けんじょ 』ではじまる鬼きめ歌は、
  一部、語句の違いを認めながら、県下全域に残存する。

   ・・・・・・・・・・

   実際は、林道春の『徒然草野槌』(元和7=1621)にもあるとおり、
   頼朝のころ、鎌倉でうたわれた『 一里間町(けんちょう) 二間町 』
   が変化して鬼きめ歌になったものであろう。  」 (p30)
    

 
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つるかめ、つるかめ

2024-12-02 | 詩歌
庄野潤三の短編に「丘の明り」がありました。
家庭の子供たちとの話がとりあげられているのですが、
『 こうちょく 』の話しから、死後硬直へと入った際に、
『 縁起でもないことを口にした時は 』という箇所がありました。

ちょいと、すぐに忘れるので引用しておきます。

 『 ああ、そう 』
 とんでもないことをいひ出したものだ。
 そこで私たちは急いで『 つるかめ、つるかめ 』といった。
 縁起でもないことを口にした時は、
 すぐにかういつておかないといけない。
   『 つるかめ、つるかめ 』
   『 つるかめ、つるかめ 』
 それで、私の質問は途中で立ち消えになつてしまった。

この短編は、最後になっても気になる箇所がありました。
どうしてだか、『 わらべうた 』が出てくるのです。
はい。こちらも引用しておくことに。


  これで三人の話はおしまひである。・・・・・

  ところで昨夜、お風呂にひとりで40分も入つてゐた下の男の子が、
  やつと出て来て、湯上りのタオルを身體に巻きつけたまま、
  急に間延びのした聲で、

 『 向うお山で ひかるもーのは 』

  とうたひ出した。  
  さういひながら、廊下をこいらへ歩いて来る。

 『 つきか ほーしか ほーたるかー 』

  おや、妙なうたをうたひ出したな、と私は思つた。
 『 何だ、それ 』
 『 学校でならつたの 』
  そういつて、下の男の子は、

 『 つきならばー おがみまうすが
   ほたるなんぞぢや あーかんべー 』

  と、しまひまでうたつた。
 『 唱歌か 』
 『 うん。わらべうた 』
  下の男の子は、部屋から音楽の教科書を取つて来て、台所で私に見せた。
 『 向うお山で 』といふ題で、
  譜の上のところに関東地方のわらべうたと書いてある。

 『 もう一回、うたつてみてくれ 』
  私がそういふと、下の男の子は、
  身體にタオルを巻きつけたままの恰好で、うたつった。・・・・



『日本わらべ歌全集』から数県の目次をみてみましたが、
『向う・・・』というわらべ歌はあるにはあるのですが、
 どうやら、これは庄野潤三氏の創作わらべ歌のようです。

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「わらべ歌」の源流へ

2024-11-29 | 詩歌
もう11月28日となりました。何とか今月中に
「日本わらべ歌全集」(柳原書店)を読み終える予定は中断。
私の興味の賞味期限は、まあ、ここいらあたりとなります。
全集をひらくのはここまでにして、またふたたび、興味の潮が
満ちることを期待しながら、本棚へともどすことにします。

ところで、収穫がありました。
岩波文庫『 わらべうた 日本の伝承童謡 』
文庫の最後にある、浅野建二「解題」がわらべ歌の姿を
歴史の中へと辿ってゆく魅力を感じました。
ということで、「解題」を、ちょっと触れておくことに。
どのような具体例がでてくるかを列挙してゆきます。
まずは、

〇 「日本書紀」巻24 皇極天皇の2年の条・・
    岩(いは)の上に  子猿米焼く
    米だにも 食(た)げて通らせ 
    山羊(かましし)の老翁(をぢ)
〇 宣長「古事記伝」

〇 藤原通憲「本朝世紀」に
  天慶8年7月九州より上洛した志多良(しだら)神を
  諸人が歌い囃したという神事歌謡(童謡)6首
     月は笠着る、八幡は種蒔く、いざ我等は荒田開かむ。
     しだら打てと、神は宣ふ、打つ我等が命千歳。
     しだら米早買はば酒盛れ、其の酒富の始めぞ。

  の如く、当時の老若男女を狂信的ならしめた歌舞で、
  『 しだら打つ 』 (手を叩く義)という歌遊の事象は、
  更に『建久3年皇太神宮年中行事』の鳥名子の舞歌にまで
  伝承された。即ち、同書に
      
     しだら打てと、父が宣へば、打ち侍べり、習ひ侍べり
     袙(あこめ)の袖、破れて侍べり、帯にやせむ、
     襷(たすき)にやせむ、いざせむ、いざせむ、鷹の緒にせむ。
       
はい。これが解説のはじまりの方にあります。
最後には、この岩波文庫の本文から、これからの時期のわらべ歌を

       大寒小寒  ( 寒気 )   東京  P130

     大寒(おおさむ) 小寒(こさむ)
     山から小僧が泣いて来た
     なんといって泣いて来た
     寒いといって泣いて来た


        霰やコンコン    秋田    P140

      霰(あられ)や コンコン 豆 コンコン
      鰯(いわし)コ とれだら 籠背負って来い
 
      霰や コンコン 豆 コンコン
      鰰(はだはだ) とれだら 樽持って 来い



        雪コンコン     宮城  p142

      雪 コンコン 雨 コンコン
      お寺の屋根さ 雪一杯た~まった
      小僧 小僧 ほろげ(揺すぶっておろす意) 
      和尚さんほろがねがら おらや~んだ


         雨コンコン    福島   P143

      雨コンコン 雪コンコン
      おら家の前さ たんと降れ
       お寺の前さ ちっと降れ


         雪やコンコン   京都  p144

       雪やコーンコン
       霰やコーンコン
       お寺の柿の木に
       一ぱいつ~もれ
         コーンコン


         じいじいの      石川 p146

       じいじいの ばァばいの
       綿帽子雪が降るわいの
       おおと(玄関・表口)の蔀(しとみ)も立てさっせ
       背戸の烏も啼くわいの
       摺鉢(すりばち)かぶって走らっせ


        堅雪かんこ      青森  p148

      堅雪か~んこ 白雪かっこ
      しんこの寺さ 小豆パッとはねた
      は~ねた小豆コ すみとって
      豆コ ころころ 豆コ ころころ



はい。このへんで引用をおわります。           


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『 あやとりの記 』

2024-11-27 | 詩歌
石牟礼道子さんの名前は知っていても、本は未読でした。

渡辺京二著「もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙」(弦書房)
渡辺京二発言集「幻のえにし」(弦書房・2020年)

石牟礼道子さんへの水先案内人・渡辺京二さんの2冊をひらく。

「 石牟礼さんの作品を若い人に勧めるとしたら、全部勧めるね(爆笑)。
 でもね、『 あやとりの記 』を読んでもらいたい。
 『 あやとりの記 』はいいですよ。これはね、
 どこかの雑誌に最初から児童文学として書いたんだけど、
 もちろん単なる児童文学じゃない作品に仕上げてるんだけどね。
 一応子供向きになてるから入りやすいでしょうね。・・・・ 」
             ( p64 「幻のえにし」 ) 

「 私の考えでは、これは石牟礼さんがこれまで書かれた
  作品のうちで最高のものです。完璧な仕上がりといってよく、
  しかも包含するものが非常に深い。・・・・

  その描写の魅力をうかがうために、
  ひとつだけ情景を取り出してみましょう。
  みっちんは火葬場の岩殿に興味をもっていて、
  その日もまわりの松の幹にかくれて様子をうががっているのですが、
  岩殿はそれを知っていて木苺の蔓をさし出したりして
  少女を釣り出そうとします。みっちんがなかなか出て来ないので、
  岩殿は『 大寺(うでら)のおんじょ 』の唄を歌い出します。
  これは78行にわたる即興の物語詩で、大変面白いものですが、
  爺さまの唄い躍る姿につられて、みっちんは思わず
  『 おんじょの舟をば 曳いてくる ほっ ほっ 』と、
  唄の最後のフレーズを口真似しながら跳び出してしまうのです。

  この情景はぜひご自分でお読みいただきたい。
  そうすれば、こんな情景はいまだかつて
  日本近代文学で描かれたことがなかったという事実を、
  心からご承認いただけるものと思います。   」
           ( p64∼65 「もうひとつのこの世」 )

はい。わらべ歌を読んでいると
「ちなみに、作中に出て来る民謡風の唄はみんな作者の創作であります。」
          ( p59 「もうひとつのこの世」 )

という指摘も気になるのでした。
これならやっと『 あやとりの記 』(福音館文庫) が読めるかもね。         

 
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とんとこ舞い納め

2024-11-26 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23下」(柳原書店)は、「大分のわらべ歌」でした。
まずは、あとがきから引用。

「・・・わらべ歌は、村落の子供たちの間にうたい継がれた歌であり、
  世が世であれば当然次の世代にうたい継ぐべきはずの歌である。
  ・・・・・・・

 録音マイクの前に立って、
 『 私がこの世に生きた証の歌だから、いい音で録音願います 』
  と、深々と頭を下げた素朴な古老。
 『 墓場に持っていくのは勿体ない歌だから 』
  と、前置きしてうたってくれた古老。・・・・・

 いずれも、ここ数年の間に次々とこの世を去ってしまった。

 本書の刊行が、こうした伝承者たちの期待に応え得るものであることを思うと、
 感慨もひとしおであり、同時に柳原書店の『日本わらべ歌全集』出版の企画が、
 この上なくありがたいものに思われるのである。
 柳原書店のスタッフの方々に深甚の敬意と謝意を表して筆を擱くことにしよう。

           昭和61年8月        加藤正人          」


ここには、手まり歌『 緒方のしゃんしゃんの 』から引用。
まずは、その解説から

「 大野郡緒方町には、寿永2年(1183)に緒方惟栄が創祀した
  一宮八幡社・二宮八幡社・三宮八幡社があり、
  緒方三社の名で親しまれている。この手まり歌は、
  旧暦10月14日、15日の三社祭で繰り広げられる御神幸行列の
  はなやかさを、数え歌にしてうたったものである。 」


      緒方のしゃんしゃんの

    緒方のしゃんしゃんの 祭礼に
    一では鉄砲 二では弓
    三ではしゃんしゃん大神輿(おおみこし)
    四では白旗猩々緋(しょうじょうひ)
    五では五人の団扇(うちわ)どり
    六つで六頭(むかしら)舞い立てて
    七つでなんにもお揃いで
    八つで屋敷を舞い立てて
    九つこれまで舞うてきて
    十でとんとこ舞い納め
     トコ イッキトセ
             ( 大野郡千歳村舟木 ) p54
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船は白金 艪(ろ)は黄金

2024-11-25 | 詩歌
土曜日の夜から熱が出て38.4。何にもする気がおこらず、
寝ていたら、腰が痛くなってくるし・・・。

「日本わらべ歌全集19上」は「広島のわらべ歌」です。
手まり歌に惹かれました。そこを引用。

        長吉でぶちに(でぶちは、出額で「おでこ」のこと)


     セッセのセ 
     長吉でぶちに 笹植えて
     その笹折んな 枝折んな
     上(かみ)へ参ろうと 出かけたら
     後(あと)からお小夜(さよ)が 泣いてくる
     泣く涙は どこへ行く
     泣く涙は 船に積む
     船は白銀(しらがね) 艪は黄金(こがね)
     ヤーレ押せ押せ 都まで
     都みやげに 何もろた
     都みやげに 帯もろた
     帯をもろがた まだ絎(く)けぬ
     絎けてたもれや 針三本 針三本

             ( 安芸郡音戸町・倉横町 )


「 おでこへ笹を植えるという奇抜な発想でうたい出す
  愉快な手まり歌。・・・・

  『 船は白銀、艪は黄金 』以下は、
  『 淋敷座之慰 』( 延宝4年成 )にある
  鞠もの歌から出たものらしく、
  東北地方から九州鹿児島まで、ほぼ類似の歌詞でうたわれている。
  
  江戸時代より伝承されてきた手まり歌の名歌として評価が高い。 」
                            ( p32 )


ここを読んだときに、私に思い浮かんだんのは、
西條八十の『 かなりや 』でした。
詩集『砂金』に載っているようです。

        かなりや   西條八十

     ――唄を忘れたカナリヤは、後の山に棄てましょか。
     ――いえ、いえ、それはなりませぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、背戸の小藪に埋けましょか。
     ――いえ、いえ、それもなりまぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、柳の鞭でぶちましょか。
     ――いえ、いえ、それはかはいそう。

     ――唄を忘れたカナリヤは、
       象牙の舟に、銀の櫂(かい)、
       月夜の海に浮かべれば、
       忘れた唄をおもひだす。

             (p55 「詩集西條八十」ハルキ文庫 ) 

私には、西條八十の『カナリヤ』の詩の中で、どうして
『 象牙の舟に、銀の櫂 』へと結びつくのだろうかと
今まで不思議に思っておりました。わらべ歌の文脈では、
各行での『 長吉でぶちに 』がごく自然に惹かれます。

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信楽焼とわらべ歌

2024-11-23 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14下」(柳原書店)は、「滋賀のわらべ歌」でした。
全国同じようなわらべ歌があっても、各巻を開く楽しみは異なります。

この巻からは、『 雨のショボショボ 』を紹介するのですが、
まずは、その解説から引用。

「 狸が徳利さげたユーモラスな『 酒買い狸 』の土焼き人形は
  本県(滋賀県)の特産品。甲賀郡信楽町の信楽焼で
  全国的に知られており、飲み屋の店頭に置かれるほか、
  個人宅の庭や玄関にも飾られている。

  この人形は藤原銕造(てつぞう:初代、明治9~昭和41年)が
  明治末期に創作し、少しずつ姿勢を変えて大正期に現在のものに
  近いスタイルにまとめた、といわれている。  」( p118 )


      雨のショボショボ   ( 雨 )

     雨のショボショボ   降る晩に
     マメドが徳利持って  酒買いに  
                   ( 長浜市元浜町 )

「 雨が降り出したときや、いつまでも降り続いて
  外出できない退屈時に口ずさまれた歌で、
  
  同系のものが県下各地でうたわれた。
  ただし、大津市をはじめ湖南地方では
  『 マメダ 』と略称する豆狸(まめだぬき:小狸)が、
  湖北の長浜などでは『 マメド 』となる。  」(p118)

「 『 雨のショボショボ 』の歌は、
  滋賀県をふくむ関西各地でひろくうたわれているが、
  明治・大正期の民謡文献には見当たらず、
  比較的新しいものと観察される。

  恐らくは、人形がかなり出回るに至った大正期に、
  それを見た子供たちがうたい出したのだろう。

  雨と結びついたのは、人形がバッチョ笠をかぶっているだけでなく、
  『 マメダ 』と『 雨だ 』の押韻連想があった、と思われる。 」
                        ( p119 )  
   
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