「日本わらべ歌全集18下」(柳原書店)は、「岡山のわらべ歌」。
最初の「岡山わらべ歌風土記」(署名はなしでした)の文には、
最後の方に、永瀬清子の名前がでてきておりました。
「 赤磐熊山町出身の詩人、永瀬清子さんには、
もう憶えている人が絶えてしまった歌を
いくつかうたっていただいた。 」( p20 )
うん。『 詩人とわらべ歌 』というのは、気持ちのいいテーマです。
永瀬さんの詩はわからないけど、私が永瀬さんをはじめて知ったのは、
鶴見俊輔著「らんだむ・りいだあ」(潮出版社・1991年)でした。
この本のはじまりの文が『 ひろびろとした視野 永瀬清子・・ 』
となっていて、鶴見氏が京都の岩倉から大阪の箕面へ、
葬式にでかける場面から、はじまっておりました。
「 ・・お寺の庭はいっぱいだったが、私にとっては知り人はいなかった。
やがて拡声器から、詩を読む声が流れてきた。せきこんだような、
つっかけをはいて先をいそいで歩いてゆくような速さで、
いつかあの世であったら
あなたも私も、女の詩人として
せいいっぱいのことをしたのだと
肩をたたきあってわらいたい
私のおぼえているままを記すと、そういうふうにつづいた。
それは、私がそれまでにきいたことのない詩の読まれかたで、
私の心をみたした。 ・・・・・ 」( ~p8 )
ああ、そういえば、思いかえすと、もっと早くに私は知っておりました。
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書・1979年)でも、
永瀬清子の名前が登場していたことを思い出します。その目次を見ると、
『諸国の天女』(p188)と、
『悲しめる友よ』(p208)と、二カ所に引用がある。
まあ、それから私は永瀬清子という人を思い浮かべるようになったのですが、
まあ、私のことですから、それっきり、忘れておりました。
思潮社の現代詩文庫1039「永瀬清子詩集」の最後の方には、
飯島耕一・谷川俊太郎・大岡信の文が載り、そのあとには、
干刈あがたの『伝える、伝えられる』という文が載っておりました。
ここは、干刈さんの文から引用。
「 私は永瀬清子の詩を読みながら、もっと早く読んでいればよかった、
と思う一方で、もし20代の時にこれらを読んでいたら、
私にはこの明りは見えなかったかもしれない、とも思います。
私は自分が生活経験を重ねてみて、
女が家の中にいることや子育てで身動きできないこと
自体が不幸なのではない、その中には考える種がいっぱいあり、
命に近いところにある豊かさをいっぱい感じられる場所なのに、
そのことに気がつかないことが不幸なのだ、と思うようになりました。
そこからものごとを見つめたり考えたりしたい、と思うようになった
私に、ようやく見えた明りだったのではないかと。
私の永瀬清子の詩の読み方は、大ざっぱなもので、
折々ぱらぱらと頁を繰って、わかりやすいものに取りつく、
というようなものです。・・・・ 」( p153 )
はい。こんな箇所は読んでいたので、
折あらば、永瀬清子の本があれば、古本なので買っておりました。
買ったはいいのですが、読まずにありました。そんな一冊に
永瀬清子著「光っている窓」(編集工房ノア・1984年)がありました。
今回この本の目次をめくってみると、『 消えてゆく子守唄 』がある。
はい。その5ページほどの文を紹介しておくことに。
年譜によると、永瀬清子は1906年に岡山県熊山町松木に生まれるとあり、
2歳の時父の勤務先金沢市へと一家赴く。とあります。
その金沢で妹が入院した際の、付き添いのおばさんが
ひょんなことに、永瀬さんの家に始終来るようになったそうです。
それが永瀬清子さんが11歳の頃とあります。
「 ・・・身よりのない人なので別に用事のない時でも
坐りこんでキセルで煙草を吸っていた。・・・
『 おばさんはここが一番の極楽や 』といい、
少しずつ何か手伝ってはお茶をのんでいた。
・・・昔はおんば日傘だったともいい、
種々の唄など知っていて私たちに教えてくれた。・・・
私たち姉妹はいつも唄って唄ってとせがみ、
母も老女をあわれんで好きにさせておいた。
子守唄は母も教えてくれたが母のは故郷の岡山地方のものであり、
おばさんが教えてくれた地元の金沢地方のは、湿っぽい北陸の空気や、
何ともいえぬ沈んだ色あいを含んでいて、
私に忘られぬ印象を与えた。・・・ 」( p70 )
こうして、永瀬さんが覚えている歌が引用されておりました。
うぐいすや うぐいすや
一夜のお宿を借りかねて
梅の木小枝に巣をかけて
花の咲くのを夢にみて
一本折っては腰にさし
二本折っては振りかたね
三本目に日がくれて ・・・
「 私がなぜそんなに長く記憶していられたのかと・・人が私にきいた。
一つは金沢では私一家はよそ者で、土地の人ほどそれらの唄が
自然そのものでなかった、という事がある。私自身の好奇心の
強さもある。また若いながらにこの唄の美しさを失うまいと思い、
意識的に長い間心の中でくり返して来たのでもあった。 」(p73)
うん。この指摘も引用しておきます。
「 私の考えでは子守唄は、
五線紙にのる小学唱歌などがゆきわたる前には、
娘や老母たちの愛唱の唄でもあったのではないかと思う。 」(p73)
やっと、私にとって永瀬清子詩の読み頃を迎えるのだ。
そんなワクワク感でもって今日ブログを綴っています。