和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

園の中・林の中・樹の下・・

2025-01-11 | 詩歌
昨日、親類の葬儀。
私の実家は日蓮宗で、その親類も同じく、同じお坊さんでした。
実家の法事の際に、家でお坊さんにつられ読経しております。その調子で、
葬儀場でも、読経がはじまれば、普段通りに声をだす事ができました。
今は、火葬をする前に、葬儀場にて、初七日法要の読経もすませます。

その初七日法要の読経で、私は、はじめて聞く箇所がありました。
今回はそれを紹介します。

それは読経本の裏に印刷されている箇所でしたのでたどる事ができました。
『 妙法蓮華経 如来神力品 第二十一 』
『 その時に仏。上行等の菩薩大衆に告げたまわく。・・・ 』と始まります。

短い箇所なので、すぐに読めてしまいますが、
聴いていて、最初に私にもわかりやすかった箇所は後半でした。

『・・・もしは園の中においても。
    もしは林の中においても。
    もしは樹の下においても。
    もしは僧坊においても。
    もしは白衣(びゃくえ)の舎(いえ)にても。
    もしは殿堂に在っても。
    もしは山谷(せんごく)曠野にても。

    この中にみな塔を起て供養すべし。
    所以(ゆえ)はいかん。
    當(まさ)に知るべし是の處は。
    すなわち是れ道場なり。

    諸仏ここにおいて。
      阿耨多羅三藐三菩薩(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得。
    諸仏ここにおいて。
      法輪を転じ。
    諸仏ここにおいて。
      般涅槃(はつねはん)したもう。     』


次に、『 若(も)しは園の中においても 』のすこし前を引用してみます。

『 ・・・是の故に汝等(なんだち)。如来の滅後において。
  まさに一心に。受持読誦(じゅじどくじゅ)し。
         解説書寫(げせつしょしゃ)し。
         説の如く修業すべし。
  所在の国土に若しは受持読誦し。解脱書寫し。
  説のごとく修業し。若しは経巻所住(こうがんしょじゅう)の處あらん。』

 このあとに、
   若しは園の中においても。若しは林の中においても。・・・

と続くのでした。
さてっと、ここまで引用したからには、最初の難しそうな箇所を
引用して全文引用といきましょう。

『 その時に佛。上行等の菩薩大衆(ぼさつだいしゅう)に告げたまわく。
  諸佛の神力(じんりき)は。是(かく)の如とく無量無辺。
  不可思議なり。若し我この神力をもって。無量無辺。
  百千満億阿僧祇劫(ひゃくせんまんのくあそうぎこう)において。
  属累(ぞくるい)のためのゆえに。この経の功徳を説かんに。
  なお盡すことあたわじ。要を以て之れを言わば。
  如来の一切の所有の法。如来の一切の自在の神力。
  如来の一切の秘要の蔵。如来の一切の甚深(じんじん)の事(じ)。
  みなこの経において宣示顕説(せんじけんぜつ)す。
  是の故に汝等。如来の滅後において。まさに一心に。
  受持読誦し。解説書寫し。説の如く修業すべし。・・・・・・ 』


この『 若し我この神力をもって 』と
『 我 』という言葉がでてきますが、この我は、日蓮のことでしょうか。
などと思いながら、
繰り返される『 受持読誦(じゅじどくじゅ)し。
        解説書寫(げせつしょしゃ)し。・・修行すべし。 』

という箇所が気になるのでした。
まあ、そういうことで、ここに書き写しておくわけです。



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うたって聞かせて頂いた。

2024-12-24 | 詩歌
本棚を作り、その空白の棚に、本を並べてゆく。
とりあえず、本棚が埋まった時点で、もういいや。

空白の棚に、本を詰めてゆく作業はワクワクしたのに。
いざ、本が並ぶと、あの本の上の棚には、何を置こう、
右隣・左隣の棚には何をとあれこれ思い描くのが終了。
まるで、空白の棚に、言葉を詰め込みすぎたような気分になる。


それはそうと、庄野潤三の語る佐藤春夫です。

庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をあらためてとりだす。
そこに、読まずにあった、第6章『 佐藤春夫 』をひらく。

『 詩をうたって聞かせて頂いた 』という箇所がある。
九州での学生時代に伊東静雄氏を訪ねる場面なのでした。

「・・・秋の試験休みに帰省して、堺の伊東静雄先生を訪ねた折、
 雑誌で読んだ佐藤春夫の『 写生旅行 』がよかったという話をしたら、
 伊東先生も読んでいて、二人で『 写生旅行 』をたたえたことがあった。
 もともと佐藤春夫は現代の文学者のなかで
 伊東先生が最も尊敬する人であった。先生の二畳の書斎で、
 春夫の詩集『 東天紅 』のなかから『 りんごのお化(ばけ) 』
 という詩をうたって聞かせて頂いた・・・・       」(p162)

この章のなかに、三島由紀夫も登場しておりました。
庄野潤三がはじめて雑誌に掲載された『 雪・ほたる 』の箇所でした。

「 三島由紀夫は『 雪・ほたる 』を読んでいて、
  人なつこく私に話しかけた。
  ご自分で気に入っているところを朗読して下さいという。
  自作を朗読するというようなことは気恥しいので、
  三島由紀夫が何度もねだったけれども、朗読はしなかった。 」(p175)

ここでは、『 気恥ずかしいので・・朗読はしなかった 』とあります。
庄野潤三の家族が、大阪から東京へ引越してきた際に歌がありました。

「・・越して来て一年半くらいたったころに、
 この子(長男)が佐藤先生夫婦の前で『 お富さん 』を歌った。

 そのころ流行(はや)っていた歌謡曲で、
 『 死んだ筈だよお富さん 』という歌であった。

 長男はこのとき三歳で、最後の『 ゲンヤーダナ 』というところが、
 『 ゲンヤーナヤ 』というふうになって、
 佐藤先生も奥さんもふき出された。

 ・・・先生は甚(はなは)だ興趣を覚えるというふうに
 この子を見守っておられたばかりか、歌に終ると、
 『 よく出来たね 』といって、賞めてくれた。・・・・
 
 ・・・・子供が『 お富さん 』を歌ったのは、
 このとき一回だけであったが、先生も奥さんも
 いつまでも覚えていて、その後、私たちの顔を
 見る度にその子のことを尋ねて下さった。

 『  小生、自然と赤ん坊とが一番好きです。
   人間の最も自然なものが赤ん坊なのですから
   当然の事かと思ひますが、人生いかに生く可(べ)き?は
   小生によれば赤ん坊の如(ごと)く生きよだと思ひます 』

  これは、戦後、先生御夫婦がまだ信州佐久に居られ頃に、
  先生から頂いた手紙の一節である。・・・・・
  草木や川や雲をめでるように、先生は子供をめでて居られた・・」

                         (p183~p184)
はい。『 明夫と良二 』などの作品で、
男の子が、唄いだす場面があることを、
その雰囲気が、印象深く残ったことを、
あらためて思い浮かべ反芻してみます。

この章ではさらに、
『 静物 』を書きあぐねている庄野氏に
佐藤春夫が語りかける場面があるのですが、
それは、次回のブログで取り上げてみます。


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うたふべきことは

2024-12-15 | 詩歌
庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の最後は、

「 庄野英二。私より六つ年上の兄で・・ 」

と兄さんを取り上げておられます。
庄野英二と庄野潤三の兄弟を思い浮かべると、
何だか、作品『 明夫と良二 』みたいです。

弟の良二が唄う場面がありました。

「 庄野潤三著『 絵合せ 』をひらいていると、
  良二が歌う場面がでてきます。


 『  ・・三月中ごろの或る晩、その良二が不意に
    ≪ サンタ・ルチア ≫をうたい出した。
  ついさっき会社から帰って、ひとりで遅い夕食を食べた姉の
  和子も細君も彼も、みんな呆気に取られた。
  歌は途中でとまったが、和子は、

 『 いいわ。いいわ 』といい、もう一回うたってと頼んだ。
 『 どうしたの、それ? 学校で習ったの。全部うたえるの、
   原語で。大したものね 』
  すると、良二は音楽の時間に女の先生がうたってくれたのだといった。
 『 教科書にのっているの? 』
 『 教科書にのっているのは、ただの日本語なの。
   それで先生が、その、イタリア語でうたって 』
 『 教えてくれたの 』
 『 そう 』              」


庄野潤三著「文学交友録」の締め括りに≪ うたうことは ≫とあります。
その箇所をここに引用しておきたくなりました。

「 チャールズ・ラムの『 エリア随筆 ≫の巻頭を飾る『南洋会社』は、
 年少の日にラムが半年ほど見習いとして勤めていた会社に寄せる思いを
 しみじみと語った随筆であるが、その中でエリアは当時の同僚であった、
 それぞれ変った癖の持主である現金出納係や会計係の何人かの
 横顔を紹介したあとに、

   『 うたふべきことはまだ沢山残ってゐる 』 (戸川秋骨訳)

 というところが出て来る。
 『 文学交友録 』の終りの章を書いた私にも、エリアと同じように、

   『 うたうことはまだ沢山ある 』

 の嘆きが残る。取り上げなくてはいけない人を
 落しているのではないだろうか。だが、
 もう終りにすべきときである。
 これでお別れすることにしよう。    」(p409・新潮文庫)


こうして連載は終るのでした。ここからあらためて、
良二が唄っている場面を、思い浮かべておりました。


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『 いいから、うたって 』

2024-12-07 | 詩歌
ネットで古本を購入しているのですが、
古本屋でも、そこで、一度見かけたものが、
同じ古本屋では、もう二度と御目にかかれない場合もあります。
そうかと思えば、一挙に同じ著者の作品が並んでいたりします。
ついこの間は、庄野潤三の本が一同に並んだことがありました。
単行本で凾入りで、庄野潤三著「絵合せ」(講談社・昭和46年)
が300円。はい。安いとついつい手がでます。買ってから見ると、
最後のページの余白に鉛筆で2000円と記してありました。
白色の布張りの本は、茶色のまだらがつきはじめておりました。
装幀が、栃折久美子とあります。「 庄野潤三作品集 絵合せ 」。
「あとがき」をひらくと、こうありました。

「・・・『絵合せ』は、もうすぐ結婚する女の子のいる家族が、
 毎日をどんなふうにして送ってゆくかを書きとめた小説で・・・

 確かに結婚というのは、人生の中で大きな出来事に違いないが、
 ここに描かれている、それひとつでは
 名づけようのない、雑多で取りとめのない事柄は、
 或は結婚よりももっと大切であるかも知れない。

 それは、いま、あったかと思うと、もう見えなくなるものであり、
 いくらでも取りかえがきくようで、決して取りかえはきかないのだから。」


はい、『 絵合せ 』をひらいていると、
良二が歌う場面がでてきます。

「 ・・三月中ごろの或る晩、その良二が不意に
  『サンタ・ルチア』をうたい出した。

  ついさっき会社から帰って、ひとりで遅い夕食を食べた姉の
  和子も細君も彼も、みんな呆気に取られた。
  歌は途中でとまったが、和子は、

 『 いいわ。いいわ 』といい、
  もう一回うたってと頼んだ。
 『 どうしたの、それ? 学校で習ったの。全部うたえるの、
   原語で。大したものね 』
  すると、良二は音楽の時間に女の先生がうたってくれたのだといった。
 『 教科書にのっているの? 』
 『 教科書にのっているのは、ただの日本語なの。
   それで先生が、その、イタリア語でうたって 』
 『 教えてくれたの 』
 『 そう 』
 『 うたって 』
  今度は、良二は恥しくなって、うたわない。 
 『 いいから、うたって 』
  そんなふうに改まっていわれると、声が出ない。
  和子と細君に二人がかりで催促されて、
  良二はうたわないわけにゆかなくなった。   」(p13~14)

 
そのすこし後に、主人公(お父さん)の意見がさりげなくはさまる。

「 もともと良二は、わらべ歌くらいが似合っている。
  不意に家の中でこの子がうたい出すのは、
  いつも学校で習った曲にきまっているが、
  その中にいくつか、わらべ歌があった。

  二月くらい前になるが、何かの拍子にそのことを思い出した。
 『 四けんじょ 』というので、九州地方のわらべ歌である。

 『 一けんじょ 二けんじょ
   三けんじょ 四けんじょ  』

 というので、それだけ聞いたのでは何のことだか分からない。
 これは良二が小学五年のころに習った。
 やっぱりその時も家の中で出し抜けにうたい出した。  」


はい。数行端折ってもいいのでしょうが、この間は貴重なので
そのままに続けて引用してみます。

「 『 四けんまほただの のりくらのうえに 』
 
  というのが出て来る。
  はじめは何だかまた、はかない歌をうたっている、
  と思ってきいていたが、あとで良二を呼んで尋ねてみた。
  
  『 何だ、それは。何の歌だ 』
  『 これ? 』といってから、
  『 四けんじょ、だったかな 』
  『 四けんじょ? 四けんじょって何だ 』

  すると、良二は音楽の教科書を取って来て、そこをひらいてみせた。
  『 けんじょ 』は、けわしいところ、従って
  『 四けんじょ 』は、四番目のけわしいところという意味らしい。

  『 牛はこびの人が 』と良二はいった。
  『 道を通って行って、うんとけわしいところがある。
    そういうことをうたってあるんだって 』
  『 なるほど 』
  『 あめうしけうしは、いろいろな牛ということなの 』

   いろいろな牛がけわしい山道をいくつも通って行かなくてはいけない。
   それで、牛も難儀するし、ついている人も難儀する。
   最後のところは、

  『 さるざかつえついて
    じっというて それひけ 
     それひけ      』となる。
  この『 じっというて 』というのがいい。
  牛も人も、同じように汗をかいているみたで、いい。  」(~p16)


はい。わらべ歌というのは、どんな歌なのかと、
めくったのは『日本わらべ歌全集25」(柳原書店)の「熊本宮崎のわらべ歌」。

最後にそこからの引用をしておくことに。

       いちけんじょ    ( 鬼きめ歌 )

    一けんじょ 二けんじょ
    三けんじょ 四(し)けんじょ
    しけんも おたかの 乗鞍の上に
    雨うし こうし 猿坂(さるさ)が杖ついて
    じいと ばば こるふけ     ( 水俣市丸島町 )


「 『 一けんじょ 二けんじょ 』ではじまる鬼きめ歌は、
  一部、語句の違いを認めながら、県下全域に残存する。

   ・・・・・・・・・・

   実際は、林道春の『徒然草野槌』(元和7=1621)にもあるとおり、
   頼朝のころ、鎌倉でうたわれた『 一里間町(けんちょう) 二間町 』
   が変化して鬼きめ歌になったものであろう。  」 (p30)
    

 
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つるかめ、つるかめ

2024-12-02 | 詩歌
庄野潤三の短編に「丘の明り」がありました。
家庭の子供たちとの話がとりあげられているのですが、
『 こうちょく 』の話しから、死後硬直へと入った際に、
『 縁起でもないことを口にした時は 』という箇所がありました。

ちょいと、すぐに忘れるので引用しておきます。

 『 ああ、そう 』
 とんでもないことをいひ出したものだ。
 そこで私たちは急いで『 つるかめ、つるかめ 』といった。
 縁起でもないことを口にした時は、
 すぐにかういつておかないといけない。
   『 つるかめ、つるかめ 』
   『 つるかめ、つるかめ 』
 それで、私の質問は途中で立ち消えになつてしまった。

この短編は、最後になっても気になる箇所がありました。
どうしてだか、『 わらべうた 』が出てくるのです。
はい。こちらも引用しておくことに。


  これで三人の話はおしまひである。・・・・・

  ところで昨夜、お風呂にひとりで40分も入つてゐた下の男の子が、
  やつと出て来て、湯上りのタオルを身體に巻きつけたまま、
  急に間延びのした聲で、

 『 向うお山で ひかるもーのは 』

  とうたひ出した。  
  さういひながら、廊下をこいらへ歩いて来る。

 『 つきか ほーしか ほーたるかー 』

  おや、妙なうたをうたひ出したな、と私は思つた。
 『 何だ、それ 』
 『 学校でならつたの 』
  そういつて、下の男の子は、

 『 つきならばー おがみまうすが
   ほたるなんぞぢや あーかんべー 』

  と、しまひまでうたつた。
 『 唱歌か 』
 『 うん。わらべうた 』
  下の男の子は、部屋から音楽の教科書を取つて来て、台所で私に見せた。
 『 向うお山で 』といふ題で、
  譜の上のところに関東地方のわらべうたと書いてある。

 『 もう一回、うたつてみてくれ 』
  私がそういふと、下の男の子は、
  身體にタオルを巻きつけたままの恰好で、うたつった。・・・・



『日本わらべ歌全集』から数県の目次をみてみましたが、
『向う・・・』というわらべ歌はあるにはあるのですが、
 どうやら、これは庄野潤三氏の創作わらべ歌のようです。

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「わらべ歌」の源流へ

2024-11-29 | 詩歌
もう11月28日となりました。何とか今月中に
「日本わらべ歌全集」(柳原書店)を読み終える予定は中断。
私の興味の賞味期限は、まあ、ここいらあたりとなります。
全集をひらくのはここまでにして、またふたたび、興味の潮が
満ちることを期待しながら、本棚へともどすことにします。

ところで、収穫がありました。
岩波文庫『 わらべうた 日本の伝承童謡 』
文庫の最後にある、浅野建二「解題」がわらべ歌の姿を
歴史の中へと辿ってゆく魅力を感じました。
ということで、「解題」を、ちょっと触れておくことに。
どのような具体例がでてくるかを列挙してゆきます。
まずは、

〇 「日本書紀」巻24 皇極天皇の2年の条・・
    岩(いは)の上に  子猿米焼く
    米だにも 食(た)げて通らせ 
    山羊(かましし)の老翁(をぢ)
〇 宣長「古事記伝」

〇 藤原通憲「本朝世紀」に
  天慶8年7月九州より上洛した志多良(しだら)神を
  諸人が歌い囃したという神事歌謡(童謡)6首
     月は笠着る、八幡は種蒔く、いざ我等は荒田開かむ。
     しだら打てと、神は宣ふ、打つ我等が命千歳。
     しだら米早買はば酒盛れ、其の酒富の始めぞ。

  の如く、当時の老若男女を狂信的ならしめた歌舞で、
  『 しだら打つ 』 (手を叩く義)という歌遊の事象は、
  更に『建久3年皇太神宮年中行事』の鳥名子の舞歌にまで
  伝承された。即ち、同書に
      
     しだら打てと、父が宣へば、打ち侍べり、習ひ侍べり
     袙(あこめ)の袖、破れて侍べり、帯にやせむ、
     襷(たすき)にやせむ、いざせむ、いざせむ、鷹の緒にせむ。
       
はい。これが解説のはじまりの方にあります。
最後には、この岩波文庫の本文から、これからの時期のわらべ歌を

       大寒小寒  ( 寒気 )   東京  P130

     大寒(おおさむ) 小寒(こさむ)
     山から小僧が泣いて来た
     なんといって泣いて来た
     寒いといって泣いて来た


        霰やコンコン    秋田    P140

      霰(あられ)や コンコン 豆 コンコン
      鰯(いわし)コ とれだら 籠背負って来い
 
      霰や コンコン 豆 コンコン
      鰰(はだはだ) とれだら 樽持って 来い



        雪コンコン     宮城  p142

      雪 コンコン 雨 コンコン
      お寺の屋根さ 雪一杯た~まった
      小僧 小僧 ほろげ(揺すぶっておろす意) 
      和尚さんほろがねがら おらや~んだ


         雨コンコン    福島   P143

      雨コンコン 雪コンコン
      おら家の前さ たんと降れ
       お寺の前さ ちっと降れ


         雪やコンコン   京都  p144

       雪やコーンコン
       霰やコーンコン
       お寺の柿の木に
       一ぱいつ~もれ
         コーンコン


         じいじいの      石川 p146

       じいじいの ばァばいの
       綿帽子雪が降るわいの
       おおと(玄関・表口)の蔀(しとみ)も立てさっせ
       背戸の烏も啼くわいの
       摺鉢(すりばち)かぶって走らっせ


        堅雪かんこ      青森  p148

      堅雪か~んこ 白雪かっこ
      しんこの寺さ 小豆パッとはねた
      は~ねた小豆コ すみとって
      豆コ ころころ 豆コ ころころ



はい。このへんで引用をおわります。           


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『 あやとりの記 』

2024-11-27 | 詩歌
石牟礼道子さんの名前は知っていても、本は未読でした。

渡辺京二著「もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙」(弦書房)
渡辺京二発言集「幻のえにし」(弦書房・2020年)

石牟礼道子さんへの水先案内人・渡辺京二さんの2冊をひらく。

「 石牟礼さんの作品を若い人に勧めるとしたら、全部勧めるね(爆笑)。
 でもね、『 あやとりの記 』を読んでもらいたい。
 『 あやとりの記 』はいいですよ。これはね、
 どこかの雑誌に最初から児童文学として書いたんだけど、
 もちろん単なる児童文学じゃない作品に仕上げてるんだけどね。
 一応子供向きになてるから入りやすいでしょうね。・・・・ 」
             ( p64 「幻のえにし」 ) 

「 私の考えでは、これは石牟礼さんがこれまで書かれた
  作品のうちで最高のものです。完璧な仕上がりといってよく、
  しかも包含するものが非常に深い。・・・・

  その描写の魅力をうかがうために、
  ひとつだけ情景を取り出してみましょう。
  みっちんは火葬場の岩殿に興味をもっていて、
  その日もまわりの松の幹にかくれて様子をうががっているのですが、
  岩殿はそれを知っていて木苺の蔓をさし出したりして
  少女を釣り出そうとします。みっちんがなかなか出て来ないので、
  岩殿は『 大寺(うでら)のおんじょ 』の唄を歌い出します。
  これは78行にわたる即興の物語詩で、大変面白いものですが、
  爺さまの唄い躍る姿につられて、みっちんは思わず
  『 おんじょの舟をば 曳いてくる ほっ ほっ 』と、
  唄の最後のフレーズを口真似しながら跳び出してしまうのです。

  この情景はぜひご自分でお読みいただきたい。
  そうすれば、こんな情景はいまだかつて
  日本近代文学で描かれたことがなかったという事実を、
  心からご承認いただけるものと思います。   」
           ( p64∼65 「もうひとつのこの世」 )

はい。わらべ歌を読んでいると
「ちなみに、作中に出て来る民謡風の唄はみんな作者の創作であります。」
          ( p59 「もうひとつのこの世」 )

という指摘も気になるのでした。
これならやっと『 あやとりの記 』(福音館文庫) が読めるかもね。         

 
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とんとこ舞い納め

2024-11-26 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23下」(柳原書店)は、「大分のわらべ歌」でした。
まずは、あとがきから引用。

「・・・わらべ歌は、村落の子供たちの間にうたい継がれた歌であり、
  世が世であれば当然次の世代にうたい継ぐべきはずの歌である。
  ・・・・・・・

 録音マイクの前に立って、
 『 私がこの世に生きた証の歌だから、いい音で録音願います 』
  と、深々と頭を下げた素朴な古老。
 『 墓場に持っていくのは勿体ない歌だから 』
  と、前置きしてうたってくれた古老。・・・・・

 いずれも、ここ数年の間に次々とこの世を去ってしまった。

 本書の刊行が、こうした伝承者たちの期待に応え得るものであることを思うと、
 感慨もひとしおであり、同時に柳原書店の『日本わらべ歌全集』出版の企画が、
 この上なくありがたいものに思われるのである。
 柳原書店のスタッフの方々に深甚の敬意と謝意を表して筆を擱くことにしよう。

           昭和61年8月        加藤正人          」


ここには、手まり歌『 緒方のしゃんしゃんの 』から引用。
まずは、その解説から

「 大野郡緒方町には、寿永2年(1183)に緒方惟栄が創祀した
  一宮八幡社・二宮八幡社・三宮八幡社があり、
  緒方三社の名で親しまれている。この手まり歌は、
  旧暦10月14日、15日の三社祭で繰り広げられる御神幸行列の
  はなやかさを、数え歌にしてうたったものである。 」


      緒方のしゃんしゃんの

    緒方のしゃんしゃんの 祭礼に
    一では鉄砲 二では弓
    三ではしゃんしゃん大神輿(おおみこし)
    四では白旗猩々緋(しょうじょうひ)
    五では五人の団扇(うちわ)どり
    六つで六頭(むかしら)舞い立てて
    七つでなんにもお揃いで
    八つで屋敷を舞い立てて
    九つこれまで舞うてきて
    十でとんとこ舞い納め
     トコ イッキトセ
             ( 大野郡千歳村舟木 ) p54
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船は白金 艪(ろ)は黄金

2024-11-25 | 詩歌
土曜日の夜から熱が出て38.4。何にもする気がおこらず、
寝ていたら、腰が痛くなってくるし・・・。

「日本わらべ歌全集19上」は「広島のわらべ歌」です。
手まり歌に惹かれました。そこを引用。

        長吉でぶちに(でぶちは、出額で「おでこ」のこと)


     セッセのセ 
     長吉でぶちに 笹植えて
     その笹折んな 枝折んな
     上(かみ)へ参ろうと 出かけたら
     後(あと)からお小夜(さよ)が 泣いてくる
     泣く涙は どこへ行く
     泣く涙は 船に積む
     船は白銀(しらがね) 艪は黄金(こがね)
     ヤーレ押せ押せ 都まで
     都みやげに 何もろた
     都みやげに 帯もろた
     帯をもろがた まだ絎(く)けぬ
     絎けてたもれや 針三本 針三本

             ( 安芸郡音戸町・倉横町 )


「 おでこへ笹を植えるという奇抜な発想でうたい出す
  愉快な手まり歌。・・・・

  『 船は白銀、艪は黄金 』以下は、
  『 淋敷座之慰 』( 延宝4年成 )にある
  鞠もの歌から出たものらしく、
  東北地方から九州鹿児島まで、ほぼ類似の歌詞でうたわれている。
  
  江戸時代より伝承されてきた手まり歌の名歌として評価が高い。 」
                            ( p32 )


ここを読んだときに、私に思い浮かんだんのは、
西條八十の『 かなりや 』でした。
詩集『砂金』に載っているようです。

        かなりや   西條八十

     ――唄を忘れたカナリヤは、後の山に棄てましょか。
     ――いえ、いえ、それはなりませぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、背戸の小藪に埋けましょか。
     ――いえ、いえ、それもなりまぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、柳の鞭でぶちましょか。
     ――いえ、いえ、それはかはいそう。

     ――唄を忘れたカナリヤは、
       象牙の舟に、銀の櫂(かい)、
       月夜の海に浮かべれば、
       忘れた唄をおもひだす。

             (p55 「詩集西條八十」ハルキ文庫 ) 

私には、西條八十の『カナリヤ』の詩の中で、どうして
『 象牙の舟に、銀の櫂 』へと結びつくのだろうかと
今まで不思議に思っておりました。わらべ歌の文脈では、
各行での『 長吉でぶちに 』がごく自然に惹かれます。

コメント (2)
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信楽焼とわらべ歌

2024-11-23 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14下」(柳原書店)は、「滋賀のわらべ歌」でした。
全国同じようなわらべ歌があっても、各巻を開く楽しみは異なります。

この巻からは、『 雨のショボショボ 』を紹介するのですが、
まずは、その解説から引用。

「 狸が徳利さげたユーモラスな『 酒買い狸 』の土焼き人形は
  本県(滋賀県)の特産品。甲賀郡信楽町の信楽焼で
  全国的に知られており、飲み屋の店頭に置かれるほか、
  個人宅の庭や玄関にも飾られている。

  この人形は藤原銕造(てつぞう:初代、明治9~昭和41年)が
  明治末期に創作し、少しずつ姿勢を変えて大正期に現在のものに
  近いスタイルにまとめた、といわれている。  」( p118 )


      雨のショボショボ   ( 雨 )

     雨のショボショボ   降る晩に
     マメドが徳利持って  酒買いに  
                   ( 長浜市元浜町 )

「 雨が降り出したときや、いつまでも降り続いて
  外出できない退屈時に口ずさまれた歌で、
  
  同系のものが県下各地でうたわれた。
  ただし、大津市をはじめ湖南地方では
  『 マメダ 』と略称する豆狸(まめだぬき:小狸)が、
  湖北の長浜などでは『 マメド 』となる。  」(p118)

「 『 雨のショボショボ 』の歌は、
  滋賀県をふくむ関西各地でひろくうたわれているが、
  明治・大正期の民謡文献には見当たらず、
  比較的新しいものと観察される。

  恐らくは、人形がかなり出回るに至った大正期に、
  それを見た子供たちがうたい出したのだろう。

  雨と結びついたのは、人形がバッチョ笠をかぶっているだけでなく、
  『 マメダ 』と『 雨だ 』の押韻連想があった、と思われる。 」
                        ( p119 )  
   
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詩とわらべ歌。

2024-11-21 | 詩歌
町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」(岩波文庫)の
最後にある解説をめくったら、上田敏の名前が出ておりました。
そこを引用。

「・・上田敏が明治37年1月発行の『帝国文学』に掲載した 
 『楽話』(「文芸講話」所収)という文章の中で

『 一体、私は我邦音楽界の急務として、
  なるべく早く実行したいと思ふ事業がある。
  それは民謡楽の蒐集である。

  文明の普及と共に、山間僻地も自ら都会の俗悪なる諸分子を吸収して、
  醇朴なる気風の消滅すると共に、古来より歌ひ伝へたる民謡も
  全然滅亡しそうであるから、今のうち早く蒐めて保存することは、
  歴史家其他の人の急務であるが、私の目的は左様いふ考古学上の
  事に止まらず、実は他日国民音楽を大成する時に、
  一種の尚ぶべき材料と成るであろうといふ考だ云々 』
 
  と述べているのが早い。わが国の文学界にこの語が
  頻出するようになったのもこの頃から以後のことらしく・・・」(p402)


そういえば、永瀬清子著「すぎ去ればすべてなつかしい日々」(福武書店)
をひらいていたら、そこにも上田敏の名前が登場しておりました。
3ページほどの短文の題は『 詩を書き始めたころ 』とあります。
はじまりは

「 大正11年の秋、名古屋の電気局へ父の転任が決まり、一家
 (父母、私をかしらに3人の娘、4人目に初めて生れた男の子の誠一・・)
  が金沢を発つ事になった。・・・・・  」(p52)

それから真中を端折って後半を引用しておきます。

「 大正12年の2月半ばごろ、末の妹が激しい大腸カタルで入院し、
  私はつきそって1ヵ月ほど看病した。 ・・・・
  父母は私の親身の看病を感謝してくれて、
  何でも好きなものを買ってあげようと言ってくれた。
  その時私は新聞で『 上田敏詩集 』の広告を見ていたので
  躊躇なく『 この本を買って下さい 』と言った。

  そのころ、女の人はほとんど詩を書いてはいなかったし、
  まともな女性には用のないものだとも思われていた。

  男でも家や身を省みぬ道楽者、或は無頼の人間の仕事と
  思われていたので、父や母にはやや心配だったと思う。

  しかし私は今まで何一つほしがったり無理を言った事はなかったし、
  父母もいったん何でも買ってやると言った以上、嘘はつけぬと考え、
  『うつのみや』に注文し病室に早速とどけてくれた。

  早春の光のさしそめた妹の枕辺で、
  私はくり返しその本を読みふけり、
  私も詩人になるほかないと心に決めたのであった。
  それが私の詩の道に入る最初のきっかけとなったのであった。 」(~p54)


はい。ここで上田敏へと寄り道していると先にすすめそうもないので、
ここでは、民謡・上田敏・詩・永瀬清子の組み合わせのチェックのみ。
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『 離るるるるるるるる 』

2024-11-19 | 詩歌
昨日のブログでの引用箇所で、名前を
浅野健二氏と打ち込んでしまったのですが、
浅野建二氏が正解でした。つい、パッと見て引用すると
こんな間違いをおこします。ひとのことは言えませんね。

さてっと、その浅野建二氏というのは、どういう方かと、
検索していたら、なあんだ、自宅の未読本にありました。

岩波文庫の
『わらべうた 日本の伝承童謡』と 『日本民謡集』。
どちらも、編者のひとりとしてあります。
どちらも、町田嘉章・浅野建二編とあります。
どちらも、買っても、未読のままひらいてもなし。
はい。まだひらきません。

そのまえに、岩波文庫
『 新訂 閑吟集 』がありました。
こちらは、浅野建二校注とあります。


本棚から出して、とりあえず、パラパラとめくります。
ここでは、校注を読む楽しみ。ひとつ引用してみます。

 
『 ただ人には、馴れまじものぢゃ 馴れての後(のち)に
        離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの  』 


はい。このあとの校注は、どう書かれているか。

「 『 ただもう、あまり人に馴れ親しむものじゃないわ。
    一度馴染んでしまったら、離れる時が大変ですもの 』

  という意で、過度の馴染みをいましめる歌。

  『隆達』の『 胸の間に蛍あるらん、焦(こが)るるるるるる、
        いつもよなよな憧(あこが)るる 』などと同様、
  『離るる』意を強調するために、
  『 る 』を重ねた唱法が特色。
  『 大事ぢゃる 』は、大事である、の転。

  人に馴れることをいましめる歌は、『古今集』恋五の
  『 見ても又またも見まくのほしければ馴るるを人は厭ふべらなり 』
  をはじめ、『宴曲集』巻四の
  『 留余波(とどまるなごり) 』『 行余波(ゆくなごり) 』を経て  
  近世歌謡にまで及んでいる。直接の継承歌に
  『 たんだ人には馴れまいものよ、馴れての後は
     るるんるる、身が大事なるもの、離るるが憂いほどに 』
           ( 松の葉・第一・裏組「賤(しず)」 )。
  下句は
  『 あたりの野辺の白真弓(しらまゆみ)、・・・・
    馴れぬほどは何にせん、馴れての後はそるぞくやしき 』
             ( 義経記・今様 )と同調。     」
                        ( p103~104 )


はい。ここだけを引用しただけで、もう私は満腹です。
とりあえず、この岩波文庫3冊を身近に置いておきます。
たいていは、しばらくして読まずに本棚へともどします。

今月の目標は、他へ寄り道せずにパラパラでも、
『日本わらべ歌全集』を何とか各巻ひらくこと。

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この子のかわいさ。

2024-11-18 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23上」(柳原書店)は、「福岡のわらべ歌」。

子守り歌の箇所にある。解説から、まず引用してみます。

「 東北から九州まで、広く各県に分布する子守歌・・・
  可愛さの表現に、星の数、松葉の数、砂の数をうたうのは、
  『 閑吟集 』以来の常套だが、伝承は古く、限りなく
  こまやかな母親の愛情が忍ばれる。
  この系譜の歌で最もすぐれたものは、
  静岡県沼津のものという浅野健二博士の指摘がある。‥」(p216)


はい。では、福岡と静岡の歌を順にならべてみます。


        坊やはよい子だ    ( ねかせ歌 )

     坊やはよい子だ ねんねしな
      坊やのかわいさ かぎりない
     山では木の数 草の数
      草の数より まだかわい
     天にのぼれば 星の数
      星の数より まだかわい
     千本松原 小松原
      松葉の数より まだかわい
                   ( 行橋市行事 )
        ( p216 「日本わらべ歌全集23上・福岡のわらべ歌」 )



       この子のかわいさ    ( ねさせ歌 )

     坊やはよい子だ ねんねしな
     この子のかわいさ 限りなさ
     天にのぼれば星の数 七里ヶ浜では砂の数
     山では木の数 萱(かや)の数
     沼津へ下れば千本松 千本松原小松原
     松葉の数より まだかわい
     ねんねんころりよ おころりよ   ( 沼津市大岡 )

        ( p198 「日本わらべ歌全集11・静岡山梨のわらべ歌」 )


 子守歌では「 ねかせ歌 」以外に子守が歌う「 守り子歌 」があり、
 そちらも引用しておかなければバランスがとれないのでしょうね。
 ここには、宮崎県の「 守り子歌 」から2つ。

        いやだいやだよ   ( 守り子歌 )

     いやだいやだよ 泣く子の守りは
     子からせつかれ 親からがられ(叱られ)
     世間の人から にらまれる     ( 串間市笠祇 )


         雨の降る日と   ( 守り子歌 )

     雨の降る日と 日の暮れぐれにゃ
      親の在所が なつかしや ハーヨイヨイ
     この子(か)泣かんちゅて わしゃ守り来たが
      いつも泣きべす 泣き暮らす ハーヨイヨイ
     わしが死んだら 誰(だい)が泣いちぇくりゅか
      浜の松の下で せみが鳴く ハーヨイヨイ
     せみじゃござらん おっかさんでござる
      おっかさん泣きゃんだ わしゃ死なん ハーヨイヨイ
                   (  延岡市島野浦 )

  ( 以上はp424 「日本わらべ歌全集25・熊本宮崎のわらべ歌」 )  


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永瀬清子のわらべ歌。

2024-11-17 | 詩歌
「日本わらべ歌全集18下」(柳原書店)は、「岡山のわらべ歌」。
最初の「岡山わらべ歌風土記」(署名はなしでした)の文には、
最後の方に、永瀬清子の名前がでてきておりました。

「 赤磐熊山町出身の詩人、永瀬清子さんには、
  もう憶えている人が絶えてしまった歌を
  いくつかうたっていただいた。      」( p20 )


うん。『 詩人とわらべ歌 』というのは、気持ちのいいテーマです。
永瀬さんの詩はわからないけど、私が永瀬さんをはじめて知ったのは、

鶴見俊輔著「らんだむ・りいだあ」(潮出版社・1991年)でした。
この本のはじまりの文が『 ひろびろとした視野 永瀬清子・・ 』
となっていて、鶴見氏が京都の岩倉から大阪の箕面へ、
葬式にでかける場面から、はじまっておりました。

「 ・・お寺の庭はいっぱいだったが、私にとっては知り人はいなかった。
  やがて拡声器から、詩を読む声が流れてきた。せきこんだような、
  つっかけをはいて先をいそいで歩いてゆくような速さで、

     いつかあの世であったら
     あなたも私も、女の詩人として
     せいいっぱいのことをしたのだと
     肩をたたきあってわらいたい

  私のおぼえているままを記すと、そういうふうにつづいた。
  それは、私がそれまでにきいたことのない詩の読まれかたで、
  私の心をみたした。 ・・・・・    」( ~p8 )


ああ、そういえば、思いかえすと、もっと早くに私は知っておりました。
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書・1979年)でも、
永瀬清子の名前が登場していたことを思い出します。その目次を見ると、

『諸国の天女』(p188)と、
『悲しめる友よ』(p208)と、二カ所に引用がある。

まあ、それから私は永瀬清子という人を思い浮かべるようになったのですが、
まあ、私のことですから、それっきり、忘れておりました。

思潮社の現代詩文庫1039「永瀬清子詩集」の最後の方には、
飯島耕一・谷川俊太郎・大岡信の文が載り、そのあとには、
干刈あがたの『伝える、伝えられる』という文が載っておりました。
ここは、干刈さんの文から引用。

「 私は永瀬清子の詩を読みながら、もっと早く読んでいればよかった、
  と思う一方で、もし20代の時にこれらを読んでいたら、
  私にはこの明りは見えなかったかもしれない、とも思います。

  私は自分が生活経験を重ねてみて、
  女が家の中にいることや子育てで身動きできないこと
  自体が不幸なのではない、その中には考える種がいっぱいあり、
  命に近いところにある豊かさをいっぱい感じられる場所なのに、
  そのことに気がつかないことが不幸なのだ、と思うようになりました。

  そこからものごとを見つめたり考えたりしたい、と思うようになった
  私に、ようやく見えた明りだったのではないかと。
  私の永瀬清子の詩の読み方は、大ざっぱなもので、
  折々ぱらぱらと頁を繰って、わかりやすいものに取りつく、
  というようなものです。・・・・          」( p153 )

はい。こんな箇所は読んでいたので、
折あらば、永瀬清子の本があれば、古本なので買っておりました。
買ったはいいのですが、読まずにありました。そんな一冊に
永瀬清子著「光っている窓」(編集工房ノア・1984年)がありました。
今回この本の目次をめくってみると、『 消えてゆく子守唄 』がある。
はい。その5ページほどの文を紹介しておくことに。

年譜によると、永瀬清子は1906年に岡山県熊山町松木に生まれるとあり、
2歳の時父の勤務先金沢市へと一家赴く。とあります。
その金沢で妹が入院した際の、付き添いのおばさんが
ひょんなことに、永瀬さんの家に始終来るようになったそうです。
それが永瀬清子さんが11歳の頃とあります。

「 ・・・身よりのない人なので別に用事のない時でも
  坐りこんでキセルで煙草を吸っていた。・・・
 『 おばさんはここが一番の極楽や 』といい、   
  少しずつ何か手伝ってはお茶をのんでいた。
  ・・・昔はおんば日傘だったともいい、
  種々の唄など知っていて私たちに教えてくれた。・・・
  私たち姉妹はいつも唄って唄ってとせがみ、
  母も老女をあわれんで好きにさせておいた。

  子守唄は母も教えてくれたが母のは故郷の岡山地方のものであり、
  おばさんが教えてくれた地元の金沢地方のは、湿っぽい北陸の空気や、
  何ともいえぬ沈んだ色あいを含んでいて、
  私に忘られぬ印象を与えた。・・・  」( p70 )

 こうして、永瀬さんが覚えている歌が引用されておりました。


      うぐいすや うぐいすや
      一夜のお宿を借りかねて
      梅の木小枝に巣をかけて
      花の咲くのを夢にみて

      一本折っては腰にさし
      二本折っては振りかたね
      三本目に日がくれて ・・・


「 私がなぜそんなに長く記憶していられたのかと・・人が私にきいた。
  一つは金沢では私一家はよそ者で、土地の人ほどそれらの唄が
  自然そのものでなかった、という事がある。私自身の好奇心の
  強さもある。また若いながらにこの唄の美しさを失うまいと思い、
  意識的に長い間心の中でくり返して来たのでもあった。 」(p73)

うん。この指摘も引用しておきます。

「 私の考えでは子守唄は、
  五線紙にのる小学唱歌などがゆきわたる前には、
  娘や老母たちの愛唱の唄でもあったのではないかと思う。 」(p73)


やっと、私にとって永瀬清子詩の読み頃を迎えるのだ。
そんなワクワク感でもって今日ブログを綴っています。






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幼児口遊(クチスサミ)

2024-11-16 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14上」(柳原書店)は、「三重のわらべ歌」。

普段は4ページの、地域新聞をとっております。
わらべ歌の関連で、お手玉の記事が気になりました。
そこには、手作りのお手玉を贈ったとあります。

「 中学生の頃から、趣味で編み物や洋裁などをしている・・・
  現在も月に1回・・編み物サークルなどで活動しながら、
  手芸をたしなんでいる。

  お手玉は、洋服作りの過程で出る端切れを有効利用しようと
  作ったもので、『 いろんな人に昔の遊びに親しんでもらえたら 』
  という思いから、小学校や福祉施設への寄贈を思いついたという。

  今回は、地元の〇〇小学校と孫が通う学校、
  地域の老人ホームの3カ所に100個ずつ贈るため、
  計300個作った。・・・    」
             ( p4  2024年11月13日 房日新聞 )

三重のわらべ歌のなかに、お手玉の説明がありました。

「 お手玉は、手まりと共に女の子の遊びの双璧だが、
  そのルーツは『 いしなどり 』(擲石・投石)といって、
  数個の小石を撒き、その中の一個を上にあげている間に
  撒いた石二、三個をさらえ、落ちて来た石も一緒につかみ取る   
  遊びであった。

  この遊びの歴史は古く、赤染衛門の『 栄花物語 』にも
  見えるほか、江戸期には喜多川守貞の『 守貞漫稿 』にも
  『 いしなご 』として述べられている。

  現在のように布の小裁(こぎれ)を縫って作るようになったのは
  室町以降でその呼び名も、関東は『 お手玉 』、
  上方は『 おじゃみ 』『 おこんめ 』が一般的だが、
  『 石ナンゴ 』(東国)、『 ナナツゴ 』(越前)『 ヲノセ』(伊勢)
  などいろいろある。・・・  」
        ( p88 「日本わらべ歌全集14上・三重のわらべ歌」 )


せっかく、ひらいたので、引用をつづけます。

         子供は風の子   ( 寒気 )

    子供は風の子 じじばば火の子
      ( 繰り返す )   
                 ( 亀山市南崎町 )

  「 『 子供は風の子』の唱え文句は、
    天保2年序にある『 尾張童遊集 』(小寺玉晁著)の
    『 幼児口遊(クチスサミ) 』の項にも出ている。
    これもまた古い伝承をもっている。      」( p156 )

 
 この本のあとがきは服部勇次氏。この全集について語っております。

「  『日本わらべ歌全集』全27巻39冊の第1回配本は
   尾原昭夫氏の『 東京のわらべ歌 』と
   高橋美智子氏の『 京都のわらべ歌 』が
   昭和54年も押しつまった12月、同時に刊行された。

   あれから早くも13年になる。・・・・
   当初、全国47都道府県を網羅して伝承わらべ歌を採集調査し、
   しかも楽譜もつけるという計画に、果たして全巻無事に
   完成できるかどうかと危惧した・・・・

   今回刊行される『 三重のわらべ歌 』は第38回目の配本であり、
   あと完成まで『 山口のわらべ歌 』一冊になったという。
    ・・・・・・・・・・・

               平成3年11月    服部勇次   」

          つづれさせ    ( こおろぎ )


       つづれさせ つづれさせ
       ぼっこさせ ぼっこさせ  
              ( 安芸(あげ)郡芸濃(げいのう)町 )

   注:  つづれ = 綴れ。ぼろ着物。
       ぼっこ = ぼろ着物をいう方言。  

    「 こおろぎの鳴き声の聞きなしである。
      こおろぎが鳴き出すと秋も深まり冬も近い。
      綴れを刺して冬支度をする季節になったと
      教えているのだという。         」( p168 ) 


 
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