和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

とんとこ舞い納め

2024-11-26 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23下」(柳原書店)は、「大分のわらべ歌」でした。
まずは、あとがきから引用。

「・・・わらべ歌は、村落の子供たちの間にうたい継がれた歌であり、
  世が世であれば当然次の世代にうたい継ぐべきはずの歌である。
  ・・・・・・・

 録音マイクの前に立って、
 『 私がこの世に生きた証の歌だから、いい音で録音願います 』
  と、深々と頭を下げた素朴な古老。
 『 墓場に持っていくのは勿体ない歌だから 』
  と、前置きしてうたってくれた古老。・・・・・

 いずれも、ここ数年の間に次々とこの世を去ってしまった。

 本書の刊行が、こうした伝承者たちの期待に応え得るものであることを思うと、
 感慨もひとしおであり、同時に柳原書店の『日本わらべ歌全集』出版の企画が、
 この上なくありがたいものに思われるのである。
 柳原書店のスタッフの方々に深甚の敬意と謝意を表して筆を擱くことにしよう。

           昭和61年8月        加藤正人          」


ここには、手まり歌『 緒方のしゃんしゃんの 』から引用。
まずは、その解説から

「 大野郡緒方町には、寿永2年(1183)に緒方惟栄が創祀した
  一宮八幡社・二宮八幡社・三宮八幡社があり、
  緒方三社の名で親しまれている。この手まり歌は、
  旧暦10月14日、15日の三社祭で繰り広げられる御神幸行列の
  はなやかさを、数え歌にしてうたったものである。 」


      緒方のしゃんしゃんの

    緒方のしゃんしゃんの 祭礼に
    一では鉄砲 二では弓
    三ではしゃんしゃん大神輿(おおみこし)
    四では白旗猩々緋(しょうじょうひ)
    五では五人の団扇(うちわ)どり
    六つで六頭(むかしら)舞い立てて
    七つでなんにもお揃いで
    八つで屋敷を舞い立てて
    九つこれまで舞うてきて
    十でとんとこ舞い納め
     トコ イッキトセ
             ( 大野郡千歳村舟木 ) p54
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船は白金 艪(ろ)は黄金

2024-11-25 | 詩歌
土曜日の夜から熱が出て38.4。何にもする気がおこらず、
寝ていたら、腰が痛くなってくるし・・・。

「日本わらべ歌全集19上」は「広島のわらべ歌」です。
手まり歌に惹かれました。そこを引用。

        長吉でぶちに(でぶちは、出額で「おでこ」のこと)


     セッセのセ 
     長吉でぶちに 笹植えて
     その笹折んな 枝折んな
     上(かみ)へ参ろうと 出かけたら
     後(あと)からお小夜(さよ)が 泣いてくる
     泣く涙は どこへ行く
     泣く涙は 船に積む
     船は白銀(しらがね) 艪は黄金(こがね)
     ヤーレ押せ押せ 都まで
     都みやげに 何もろた
     都みやげに 帯もろた
     帯をもろがた まだ絎(く)けぬ
     絎けてたもれや 針三本 針三本

             ( 安芸郡音戸町・倉横町 )


「 おでこへ笹を植えるという奇抜な発想でうたい出す
  愉快な手まり歌。・・・・

  『 船は白銀、艪は黄金 』以下は、
  『 淋敷座之慰 』( 延宝4年成 )にある
  鞠もの歌から出たものらしく、
  東北地方から九州鹿児島まで、ほぼ類似の歌詞でうたわれている。
  
  江戸時代より伝承されてきた手まり歌の名歌として評価が高い。 」
                            ( p32 )


ここを読んだときに、私に思い浮かんだんのは、
西條八十の『 かなりや 』でした。
詩集『砂金』に載っているようです。

        かなりや   西條八十

     ――唄を忘れたカナリヤは、後の山に棄てましょか。
     ――いえ、いえ、それはなりませぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、背戸の小藪に埋けましょか。
     ――いえ、いえ、それもなりまぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、柳の鞭でぶちましょか。
     ――いえ、いえ、それはかはいそう。

     ――唄を忘れたカナリヤは、
       象牙の舟に、銀の櫂(かい)、
       月夜の海に浮かべれば、
       忘れた唄をおもひだす。

             (p55 「詩集西條八十」ハルキ文庫 ) 

私には、西條八十の『カナリヤ』の詩の中で、どうして
『 象牙の舟に、銀の櫂 』へと結びつくのだろうかと
今まで不思議に思っておりました。わらべ歌の文脈では、
各行での『 長吉でぶちに 』がごく自然に惹かれます。

コメント (2)
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信楽焼とわらべ歌

2024-11-23 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14下」(柳原書店)は、「滋賀のわらべ歌」でした。
全国同じようなわらべ歌があっても、各巻を開く楽しみは異なります。

この巻からは、『 雨のショボショボ 』を紹介するのですが、
まずは、その解説から引用。

「 狸が徳利さげたユーモラスな『 酒買い狸 』の土焼き人形は
  本県(滋賀県)の特産品。甲賀郡信楽町の信楽焼で
  全国的に知られており、飲み屋の店頭に置かれるほか、
  個人宅の庭や玄関にも飾られている。

  この人形は藤原銕造(てつぞう:初代、明治9~昭和41年)が
  明治末期に創作し、少しずつ姿勢を変えて大正期に現在のものに
  近いスタイルにまとめた、といわれている。  」( p118 )


      雨のショボショボ   ( 雨 )

     雨のショボショボ   降る晩に
     マメドが徳利持って  酒買いに  
                   ( 長浜市元浜町 )

「 雨が降り出したときや、いつまでも降り続いて
  外出できない退屈時に口ずさまれた歌で、
  
  同系のものが県下各地でうたわれた。
  ただし、大津市をはじめ湖南地方では
  『 マメダ 』と略称する豆狸(まめだぬき:小狸)が、
  湖北の長浜などでは『 マメド 』となる。  」(p118)

「 『 雨のショボショボ 』の歌は、
  滋賀県をふくむ関西各地でひろくうたわれているが、
  明治・大正期の民謡文献には見当たらず、
  比較的新しいものと観察される。

  恐らくは、人形がかなり出回るに至った大正期に、
  それを見た子供たちがうたい出したのだろう。

  雨と結びついたのは、人形がバッチョ笠をかぶっているだけでなく、
  『 マメダ 』と『 雨だ 』の押韻連想があった、と思われる。 」
                        ( p119 )  
   
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詩とわらべ歌。

2024-11-21 | 詩歌
町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」(岩波文庫)の
最後にある解説をめくったら、上田敏の名前が出ておりました。
そこを引用。

「・・上田敏が明治37年1月発行の『帝国文学』に掲載した 
 『楽話』(「文芸講話」所収)という文章の中で

『 一体、私は我邦音楽界の急務として、
  なるべく早く実行したいと思ふ事業がある。
  それは民謡楽の蒐集である。

  文明の普及と共に、山間僻地も自ら都会の俗悪なる諸分子を吸収して、
  醇朴なる気風の消滅すると共に、古来より歌ひ伝へたる民謡も
  全然滅亡しそうであるから、今のうち早く蒐めて保存することは、
  歴史家其他の人の急務であるが、私の目的は左様いふ考古学上の
  事に止まらず、実は他日国民音楽を大成する時に、
  一種の尚ぶべき材料と成るであろうといふ考だ云々 』
 
  と述べているのが早い。わが国の文学界にこの語が
  頻出するようになったのもこの頃から以後のことらしく・・・」(p402)


そういえば、永瀬清子著「すぎ去ればすべてなつかしい日々」(福武書店)
をひらいていたら、そこにも上田敏の名前が登場しておりました。
3ページほどの短文の題は『 詩を書き始めたころ 』とあります。
はじまりは

「 大正11年の秋、名古屋の電気局へ父の転任が決まり、一家
 (父母、私をかしらに3人の娘、4人目に初めて生れた男の子の誠一・・)
  が金沢を発つ事になった。・・・・・  」(p52)

それから真中を端折って後半を引用しておきます。

「 大正12年の2月半ばごろ、末の妹が激しい大腸カタルで入院し、
  私はつきそって1ヵ月ほど看病した。 ・・・・
  父母は私の親身の看病を感謝してくれて、
  何でも好きなものを買ってあげようと言ってくれた。
  その時私は新聞で『 上田敏詩集 』の広告を見ていたので
  躊躇なく『 この本を買って下さい 』と言った。

  そのころ、女の人はほとんど詩を書いてはいなかったし、
  まともな女性には用のないものだとも思われていた。

  男でも家や身を省みぬ道楽者、或は無頼の人間の仕事と
  思われていたので、父や母にはやや心配だったと思う。

  しかし私は今まで何一つほしがったり無理を言った事はなかったし、
  父母もいったん何でも買ってやると言った以上、嘘はつけぬと考え、
  『うつのみや』に注文し病室に早速とどけてくれた。

  早春の光のさしそめた妹の枕辺で、
  私はくり返しその本を読みふけり、
  私も詩人になるほかないと心に決めたのであった。
  それが私の詩の道に入る最初のきっかけとなったのであった。 」(~p54)


はい。ここで上田敏へと寄り道していると先にすすめそうもないので、
ここでは、民謡・上田敏・詩・永瀬清子の組み合わせのチェックのみ。
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『 離るるるるるるるる 』

2024-11-19 | 詩歌
昨日のブログでの引用箇所で、名前を
浅野健二氏と打ち込んでしまったのですが、
浅野建二氏が正解でした。つい、パッと見て引用すると
こんな間違いをおこします。ひとのことは言えませんね。

さてっと、その浅野建二氏というのは、どういう方かと、
検索していたら、なあんだ、自宅の未読本にありました。

岩波文庫の
『わらべうた 日本の伝承童謡』と 『日本民謡集』。
どちらも、編者のひとりとしてあります。
どちらも、町田嘉章・浅野建二編とあります。
どちらも、買っても、未読のままひらいてもなし。
はい。まだひらきません。

そのまえに、岩波文庫
『 新訂 閑吟集 』がありました。
こちらは、浅野建二校注とあります。


本棚から出して、とりあえず、パラパラとめくります。
ここでは、校注を読む楽しみ。ひとつ引用してみます。

 
『 ただ人には、馴れまじものぢゃ 馴れての後(のち)に
        離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの  』 


はい。このあとの校注は、どう書かれているか。

「 『 ただもう、あまり人に馴れ親しむものじゃないわ。
    一度馴染んでしまったら、離れる時が大変ですもの 』

  という意で、過度の馴染みをいましめる歌。

  『隆達』の『 胸の間に蛍あるらん、焦(こが)るるるるるる、
        いつもよなよな憧(あこが)るる 』などと同様、
  『離るる』意を強調するために、
  『 る 』を重ねた唱法が特色。
  『 大事ぢゃる 』は、大事である、の転。

  人に馴れることをいましめる歌は、『古今集』恋五の
  『 見ても又またも見まくのほしければ馴るるを人は厭ふべらなり 』
  をはじめ、『宴曲集』巻四の
  『 留余波(とどまるなごり) 』『 行余波(ゆくなごり) 』を経て  
  近世歌謡にまで及んでいる。直接の継承歌に
  『 たんだ人には馴れまいものよ、馴れての後は
     るるんるる、身が大事なるもの、離るるが憂いほどに 』
           ( 松の葉・第一・裏組「賤(しず)」 )。
  下句は
  『 あたりの野辺の白真弓(しらまゆみ)、・・・・
    馴れぬほどは何にせん、馴れての後はそるぞくやしき 』
             ( 義経記・今様 )と同調。     」
                        ( p103~104 )


はい。ここだけを引用しただけで、もう私は満腹です。
とりあえず、この岩波文庫3冊を身近に置いておきます。
たいていは、しばらくして読まずに本棚へともどします。

今月の目標は、他へ寄り道せずにパラパラでも、
『日本わらべ歌全集』を何とか各巻ひらくこと。

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この子のかわいさ。

2024-11-18 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23上」(柳原書店)は、「福岡のわらべ歌」。

子守り歌の箇所にある。解説から、まず引用してみます。

「 東北から九州まで、広く各県に分布する子守歌・・・
  可愛さの表現に、星の数、松葉の数、砂の数をうたうのは、
  『 閑吟集 』以来の常套だが、伝承は古く、限りなく
  こまやかな母親の愛情が忍ばれる。
  この系譜の歌で最もすぐれたものは、
  静岡県沼津のものという浅野健二博士の指摘がある。‥」(p216)


はい。では、福岡と静岡の歌を順にならべてみます。


        坊やはよい子だ    ( ねかせ歌 )

     坊やはよい子だ ねんねしな
      坊やのかわいさ かぎりない
     山では木の数 草の数
      草の数より まだかわい
     天にのぼれば 星の数
      星の数より まだかわい
     千本松原 小松原
      松葉の数より まだかわい
                   ( 行橋市行事 )
        ( p216 「日本わらべ歌全集23上・福岡のわらべ歌」 )



       この子のかわいさ    ( ねさせ歌 )

     坊やはよい子だ ねんねしな
     この子のかわいさ 限りなさ
     天にのぼれば星の数 七里ヶ浜では砂の数
     山では木の数 萱(かや)の数
     沼津へ下れば千本松 千本松原小松原
     松葉の数より まだかわい
     ねんねんころりよ おころりよ   ( 沼津市大岡 )

        ( p198 「日本わらべ歌全集11・静岡山梨のわらべ歌」 )


 子守歌では「 ねかせ歌 」以外に子守が歌う「 守り子歌 」があり、
 そちらも引用しておかなければバランスがとれないのでしょうね。
 ここには、宮崎県の「 守り子歌 」から2つ。

        いやだいやだよ   ( 守り子歌 )

     いやだいやだよ 泣く子の守りは
     子からせつかれ 親からがられ(叱られ)
     世間の人から にらまれる     ( 串間市笠祇 )


         雨の降る日と   ( 守り子歌 )

     雨の降る日と 日の暮れぐれにゃ
      親の在所が なつかしや ハーヨイヨイ
     この子(か)泣かんちゅて わしゃ守り来たが
      いつも泣きべす 泣き暮らす ハーヨイヨイ
     わしが死んだら 誰(だい)が泣いちぇくりゅか
      浜の松の下で せみが鳴く ハーヨイヨイ
     せみじゃござらん おっかさんでござる
      おっかさん泣きゃんだ わしゃ死なん ハーヨイヨイ
                   (  延岡市島野浦 )

  ( 以上はp424 「日本わらべ歌全集25・熊本宮崎のわらべ歌」 )  


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永瀬清子のわらべ歌。

2024-11-17 | 詩歌
「日本わらべ歌全集18下」(柳原書店)は、「岡山のわらべ歌」。
最初の「岡山わらべ歌風土記」(署名はなしでした)の文には、
最後の方に、永瀬清子の名前がでてきておりました。

「 赤磐熊山町出身の詩人、永瀬清子さんには、
  もう憶えている人が絶えてしまった歌を
  いくつかうたっていただいた。      」( p20 )


うん。『 詩人とわらべ歌 』というのは、気持ちのいいテーマです。
永瀬さんの詩はわからないけど、私が永瀬さんをはじめて知ったのは、

鶴見俊輔著「らんだむ・りいだあ」(潮出版社・1991年)でした。
この本のはじまりの文が『 ひろびろとした視野 永瀬清子・・ 』
となっていて、鶴見氏が京都の岩倉から大阪の箕面へ、
葬式にでかける場面から、はじまっておりました。

「 ・・お寺の庭はいっぱいだったが、私にとっては知り人はいなかった。
  やがて拡声器から、詩を読む声が流れてきた。せきこんだような、
  つっかけをはいて先をいそいで歩いてゆくような速さで、

     いつかあの世であったら
     あなたも私も、女の詩人として
     せいいっぱいのことをしたのだと
     肩をたたきあってわらいたい

  私のおぼえているままを記すと、そういうふうにつづいた。
  それは、私がそれまでにきいたことのない詩の読まれかたで、
  私の心をみたした。 ・・・・・    」( ~p8 )


ああ、そういえば、思いかえすと、もっと早くに私は知っておりました。
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書・1979年)でも、
永瀬清子の名前が登場していたことを思い出します。その目次を見ると、

『諸国の天女』(p188)と、
『悲しめる友よ』(p208)と、二カ所に引用がある。

まあ、それから私は永瀬清子という人を思い浮かべるようになったのですが、
まあ、私のことですから、それっきり、忘れておりました。

思潮社の現代詩文庫1039「永瀬清子詩集」の最後の方には、
飯島耕一・谷川俊太郎・大岡信の文が載り、そのあとには、
干刈あがたの『伝える、伝えられる』という文が載っておりました。
ここは、干刈さんの文から引用。

「 私は永瀬清子の詩を読みながら、もっと早く読んでいればよかった、
  と思う一方で、もし20代の時にこれらを読んでいたら、
  私にはこの明りは見えなかったかもしれない、とも思います。

  私は自分が生活経験を重ねてみて、
  女が家の中にいることや子育てで身動きできないこと
  自体が不幸なのではない、その中には考える種がいっぱいあり、
  命に近いところにある豊かさをいっぱい感じられる場所なのに、
  そのことに気がつかないことが不幸なのだ、と思うようになりました。

  そこからものごとを見つめたり考えたりしたい、と思うようになった
  私に、ようやく見えた明りだったのではないかと。
  私の永瀬清子の詩の読み方は、大ざっぱなもので、
  折々ぱらぱらと頁を繰って、わかりやすいものに取りつく、
  というようなものです。・・・・          」( p153 )

はい。こんな箇所は読んでいたので、
折あらば、永瀬清子の本があれば、古本なので買っておりました。
買ったはいいのですが、読まずにありました。そんな一冊に
永瀬清子著「光っている窓」(編集工房ノア・1984年)がありました。
今回この本の目次をめくってみると、『 消えてゆく子守唄 』がある。
はい。その5ページほどの文を紹介しておくことに。

年譜によると、永瀬清子は1906年に岡山県熊山町松木に生まれるとあり、
2歳の時父の勤務先金沢市へと一家赴く。とあります。
その金沢で妹が入院した際の、付き添いのおばさんが
ひょんなことに、永瀬さんの家に始終来るようになったそうです。
それが永瀬清子さんが11歳の頃とあります。

「 ・・・身よりのない人なので別に用事のない時でも
  坐りこんでキセルで煙草を吸っていた。・・・
 『 おばさんはここが一番の極楽や 』といい、   
  少しずつ何か手伝ってはお茶をのんでいた。
  ・・・昔はおんば日傘だったともいい、
  種々の唄など知っていて私たちに教えてくれた。・・・
  私たち姉妹はいつも唄って唄ってとせがみ、
  母も老女をあわれんで好きにさせておいた。

  子守唄は母も教えてくれたが母のは故郷の岡山地方のものであり、
  おばさんが教えてくれた地元の金沢地方のは、湿っぽい北陸の空気や、
  何ともいえぬ沈んだ色あいを含んでいて、
  私に忘られぬ印象を与えた。・・・  」( p70 )

 こうして、永瀬さんが覚えている歌が引用されておりました。


      うぐいすや うぐいすや
      一夜のお宿を借りかねて
      梅の木小枝に巣をかけて
      花の咲くのを夢にみて

      一本折っては腰にさし
      二本折っては振りかたね
      三本目に日がくれて ・・・


「 私がなぜそんなに長く記憶していられたのかと・・人が私にきいた。
  一つは金沢では私一家はよそ者で、土地の人ほどそれらの唄が
  自然そのものでなかった、という事がある。私自身の好奇心の
  強さもある。また若いながらにこの唄の美しさを失うまいと思い、
  意識的に長い間心の中でくり返して来たのでもあった。 」(p73)

うん。この指摘も引用しておきます。

「 私の考えでは子守唄は、
  五線紙にのる小学唱歌などがゆきわたる前には、
  娘や老母たちの愛唱の唄でもあったのではないかと思う。 」(p73)


やっと、私にとって永瀬清子詩の読み頃を迎えるのだ。
そんなワクワク感でもって今日ブログを綴っています。






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幼児口遊(クチスサミ)

2024-11-16 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14上」(柳原書店)は、「三重のわらべ歌」。

普段は4ページの、地域新聞をとっております。
わらべ歌の関連で、お手玉の記事が気になりました。
そこには、手作りのお手玉を贈ったとあります。

「 中学生の頃から、趣味で編み物や洋裁などをしている・・・
  現在も月に1回・・編み物サークルなどで活動しながら、
  手芸をたしなんでいる。

  お手玉は、洋服作りの過程で出る端切れを有効利用しようと
  作ったもので、『 いろんな人に昔の遊びに親しんでもらえたら 』
  という思いから、小学校や福祉施設への寄贈を思いついたという。

  今回は、地元の〇〇小学校と孫が通う学校、
  地域の老人ホームの3カ所に100個ずつ贈るため、
  計300個作った。・・・    」
             ( p4  2024年11月13日 房日新聞 )

三重のわらべ歌のなかに、お手玉の説明がありました。

「 お手玉は、手まりと共に女の子の遊びの双璧だが、
  そのルーツは『 いしなどり 』(擲石・投石)といって、
  数個の小石を撒き、その中の一個を上にあげている間に
  撒いた石二、三個をさらえ、落ちて来た石も一緒につかみ取る   
  遊びであった。

  この遊びの歴史は古く、赤染衛門の『 栄花物語 』にも
  見えるほか、江戸期には喜多川守貞の『 守貞漫稿 』にも
  『 いしなご 』として述べられている。

  現在のように布の小裁(こぎれ)を縫って作るようになったのは
  室町以降でその呼び名も、関東は『 お手玉 』、
  上方は『 おじゃみ 』『 おこんめ 』が一般的だが、
  『 石ナンゴ 』(東国)、『 ナナツゴ 』(越前)『 ヲノセ』(伊勢)
  などいろいろある。・・・  」
        ( p88 「日本わらべ歌全集14上・三重のわらべ歌」 )


せっかく、ひらいたので、引用をつづけます。

         子供は風の子   ( 寒気 )

    子供は風の子 じじばば火の子
      ( 繰り返す )   
                 ( 亀山市南崎町 )

  「 『 子供は風の子』の唱え文句は、
    天保2年序にある『 尾張童遊集 』(小寺玉晁著)の
    『 幼児口遊(クチスサミ) 』の項にも出ている。
    これもまた古い伝承をもっている。      」( p156 )

 
 この本のあとがきは服部勇次氏。この全集について語っております。

「  『日本わらべ歌全集』全27巻39冊の第1回配本は
   尾原昭夫氏の『 東京のわらべ歌 』と
   高橋美智子氏の『 京都のわらべ歌 』が
   昭和54年も押しつまった12月、同時に刊行された。

   あれから早くも13年になる。・・・・
   当初、全国47都道府県を網羅して伝承わらべ歌を採集調査し、
   しかも楽譜もつけるという計画に、果たして全巻無事に
   完成できるかどうかと危惧した・・・・

   今回刊行される『 三重のわらべ歌 』は第38回目の配本であり、
   あと完成まで『 山口のわらべ歌 』一冊になったという。
    ・・・・・・・・・・・

               平成3年11月    服部勇次   」

          つづれさせ    ( こおろぎ )


       つづれさせ つづれさせ
       ぼっこさせ ぼっこさせ  
              ( 安芸(あげ)郡芸濃(げいのう)町 )

   注:  つづれ = 綴れ。ぼろ着物。
       ぼっこ = ぼろ着物をいう方言。  

    「 こおろぎの鳴き声の聞きなしである。
      こおろぎが鳴き出すと秋も深まり冬も近い。
      綴れを刺して冬支度をする季節になったと
      教えているのだという。         」( p168 ) 


 
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大さむ小さむ。大寒小寒。

2024-11-14 | 詩歌
「日本わらべ歌全集12」(柳原書店)は、「愛知のわらべ歌」でした。

昨日は、主なき家の道路に面した箇所の雑草取りなどで。
はい。半日仕事。これから寒くなれば、雑草も生えない。
そう思っているのですが、年内にまた伸びてくるかもね。

寒くなるといえば、このわらべ歌が思い浮かびます。
ここには、愛知のわらべ歌から引用。

        大さむや小さむや   ( 寒気 )   

      大さむや 小さむや
      山へ頭巾(ずつきん) おいてきた
      とりに行(ゆ)こうか 戻ろか
      みかんの皮でも かぶれかぶれ   
                 ( 東海市名和町 )

「 『 大さむ小さむ 』とうたい出すわらべ歌は全国各地で見られる。
  『 尾張童遊集 』(天保2年)にも
  『 寒き時いふ詞 』として次のようになる。
  『 ををさむ小さむ猫の皮ひッかむれ、又山から小僧がないて来た 』。

 【類歌】   大寒小寒、山から小僧がとんできた、
       山は寒いと泣いてきた、泣いてきた。 ( 尾張西部 )
      
       大寒小寒、山から小僧がやってきた、
       何と言うてやってきた、寒いと言ってやってきた。
                     ( 東三河=蒲郡市 ) 」

        ( p160 「日本わらべ歌全集12・愛知のわらべ歌」 )


  
あれれ。相撲という言葉もでてくる、地口歌がありました。


        みかんきんかん   ( 地口歌 )

     みかん きんかん 酒のかん
     相撲取りャ はだかで 風邪ひかん  ( 刈谷市高須 )


 【類歌】  みかんきんかん、酒のかん、親のせっかん、子は聞かん、
      相撲取りはだかで、風邪ひかん、
      田舎の姉ちゃん、気がきかん。  ( 尾張東部 ) (p236)
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そうだ・ソーダ屋・村長さん。

2024-11-12 | 詩歌
そうだ。『日本わらべ歌全集』の中から、
『 そうだ。ソーダ 』を目次検索することに。
各冊子目次の「ことば遊び歌」項にありました。

    そうだ村の村長さん   ( 地口歌 )

  そうだ そうだ
  そうだ村の村長さんが
  ソーダ飲んで 死んだそうだ
  葬式まんじゅに あんがなかったそうだ  ( 米子市能党 )

    
【類歌】 そうだ、そうだ、ソーダ屋の宗助さんが、ソーダ飲んで、
     死んだそうだ、葬式まんじゅうは、うまかったそうだ。
                  ( 西伯郡淀江町九区 )

        ( p178 「日本わらべ歌全集20上・鳥取のわらべ歌」 )



こんな感じで、掲載されている県が、あるかどうかと各巻の目次をめくれば、
山形・千葉・愛知・埼玉・岐阜・熊本・愛知・山口
徳島・高知・香川・島根・新潟・茨城・北海道・群馬
と、載っておりました。ここはひとつ私が気になった歌と解説を引用

       ソーダ屋の   ( 地口歌 )

    ソーダ屋の ソーダ爺(じい)が
    ソーダ食って 死んだそうだ
    葬式ゃ 明日(あした)そうだ    ( 人吉市紺屋町 )

 「 『地口』とは、ありふれた成語と語呂の合う文句を作って、
   これを両様に聞きとらせる≪ しゃれことば ≫である。
   この歌は、『 ・・・だそうだ 』と言った者に、
   すかさずはやしたてる地口。・・・・       」
        ( p156 「日本わらべ歌全集25・熊本宮城のわらべ歌」 )


      そうじゃ そうじゃ   ( 地口歌 )

   そうじゃ そうじゃ
   総社(そうじゃ)村の 村長さんが
   ソーダ飲んで 死んだそうじゃ
   葬式まんじゅう でっけえそうじゃ
   おいらが行っても くんねえそうじゃ
   中のあんこは ねえそうじゃ     ( 北群馬郡榛東村 )

「 ・・・この歌が『そうじゃそうじゃ』とうたい出すのは、
 『そうだ』が訛ったものとも見られるが、前橋市の町名『総社町』に
 語呂を合わせたものと考えられる。 
 ここには、六百余の神を一ヶ所に集めて祀った総社神社があり、
 郷土を代表する格式ある神社として、・・郷土の誇りともなっている。」
        (p165~166 「日本わらべ歌全集5下 群馬のわらべ歌 )


       そうだそうだ

     そうだそうだ 桑田(そうだ)村の村長さんは
     ソーダ飲んで 死んだそうだ
     葬式まんじゅう ふとかったそうだ
     中には餡が なかったそうだ
     そっと山へ 棄てたそうだ    ( 高知市 )

      ( p266 「日本わらべ歌全集22 徳島高知のわらべ歌」 )



はい。こうした 地口歌を聞くとはなしに、聞き覚えていた者にとって、
山口のわらべ歌は、歌い継がれて幾多の変遷を加える前の、新鮮さを感じました。
ここからならば、意味がすんなりと辿れる。ソーダよりも古い原形を感じました。


          そうだ そうだ

       そうだ そうだ
       そうだ村の 村長さんの
       惣領息子が 死んだそうだ
       葬式まんじゅう 大きいそうだ
       中にはあんこが ないそうだ    ( 山口市 )

       ( p171 「日本わらべ歌全集19下 山口のわらべ歌」 )




こうして、『 そうだ そうだ 』を、引用していても、
各地で、さまざま、微妙な、違いが出てくるのでした。
その全部から引用したくなるのですが、ここは、ほれ、
本の帯にある小島美子さんの文句を引用して終ります。

「 わらべ歌はいつでもどこでも変わる。
  アメーバのように歌詞もメロディーも変わる。
  だからわらべ歌の記録は山のように必要だ。
  この全集はそれにこたえる大きな山になるだろう。 」



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食べ物の、わらべ歌。

2024-11-11 | 詩歌
「日本わらべ歌全集19下」(柳原書店)は、「山口のわらべ歌」でした。
本の帯には、この巻を語った、古田足日さんの短文が載っていました。

「 著者の一人内田伸氏は豊かな学識とともに、
  慶応生まれの祖母から聞き覚えたわらべ歌を、
  今でも150曲は歌えるという。
  この一冊は後世に伝えようという氏の成果であり、
  西の京山口の独自性を見事にとらえている。 」

はい。最初に載る『山口わらべ歌風土記』は、内田伸氏の文でした。

「 明治以降、中央政府に多くの大臣、大将を送った山口県は、
  文学、芸能的なものを文弱であるとしてさげすむ気風があり、
  それを温存し、育成しようとする気持ちを持つ者が少なかった。
  実際、現在の山口には、他県に比して遜色のない
  仕事歌や祝い歌の民謡、神事の芸能などがいくつも残っている。
  それに気付く者がいないわけで、
  良馬を見つける博労がいないのである。 」(p15)

はい。6ページの内田氏の文には、引用したい箇所がたくさん。
けれども、これだけにしときます(笑)。
それはそうと、食べ物に関する箇所を引用しておきます。

       一つ冷や飯   ( 数え歌 )

     一つ冷や飯 二つふくふく小豆飯
     三つ見てもうまそうな おすし飯
     四つよまし 五つ芋飯
     六つ麦飯 七つ菜飯
     八つ焼飯 九つこげ飯
     十で豆腐屋の おから飯    ( 山口市 )p166

       注:よまし = 麦を精白しただけのものは、     
               炊くのに長時間かかったので、
               前の晩に炊いておいた。
               これを『 よまし 』という。 


      そうだ そうだ   ( 地口歌 )

    そうだ そうだ
    そうだ村の 村長さんの
    惣領息子が 死んだそうだ
    葬式まんじゅう 大きいそうだ
    中にはあんこが ないそうだ    ( 山口市 )p177

   
      みかんきんかん    ( 地口歌 )
 
    みかん きんかん 酒のかん
    親の言うこと 子がきかん   ( 山口市 )p172

「 古くからよく言われる地口。
 『 親の言うこと 』を小野田地方では
 『 親の折檻 』という。この方が原形であろう。 」

【類歌】 蜜柑きんかん酒のかん、親父の喧嘩ハ私(わし)ア知らぬ。


ところで、内田伸氏の文に、真宗の教義に関連し
『 石川のわらべ歌 』の巻も見てほしいと指摘されておりました。
ということで、日本わらべ歌全集10上の『 石川のわらべ歌 』から、
食べ物に関する私の興味で引用したい箇所がありました。

「石川県は真宗大国といわれるとおり、とくにその開祖
 親鸞の徳を偲ぶ報恩講(ほうおんこう:ふつうは「ほんこさん」)
 が盛んである。・・・  」(p174・「日本わらべ歌全集10上」)

はい。最後は、石川のわらべ歌から、報恩講のわらべ歌を2つ。


        ねんねんとこに    ( 報恩講 )

     ねんねんとこに 報恩講
     ご坊様呼んで
     人参 牛蒡(ごぼう) シャキシャキなます
     紫炒菜(しいな)のお華足(きそく) ぎんなん 
                   ( 松任市徳光町 )

  注:「紫炒菜」は、松任から能美郡あたりかけ、欠かせない献立の一つ。
    紫蘇の実(しいな)を生かし、香んばしくいった荒挽きの大豆、
    ささかきの人参や牛蒡、こんにゃく、油揚げを加えた煮物。

    「お華足」は、仏前のお供えを盛る器具。
          ここではその供物、普通は餅。


 
         そこな方しの   ( 報恩講 )

     そこな方(かた)しの報恩講(ほんこ)さま
     大根(だいこ)の煮たがで勤まるそうな
     おっちゃの方しの報恩講さま
     人参 牛蒡に 山ね芋
     椎茸にかんぴょうさん
     穴の明いたの蓮根じゃ     ( 鹿島郡鹿島町 )

 注:『 そこな方しの 』= そっちの方の。
              『 し 』は強意の助詞。

   『 おっちゃ方しの 』= おのれ(自分)の方の。

   『 山ね芋 』= 山芋

そのあとに、こうあります。
「 報恩講においては、食べることが、いかに楽しみであったかがわかる 」

        ( 以上は p176 「日本わらべ歌全集10上」 )
     




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よう受けとりました。

2024-11-09 | 詩歌
「日本わらべ歌全集24」(柳原書店)は、「佐賀長崎のわらべ歌」でした。
各巻県ごとに、採集者・編者がおられて、佐賀は福岡博。
福岡氏は、はじめに「佐賀わらべ歌風土記」を書いておりました。
そこに出てくる指摘が印象深い。

「 ・・・子供の言葉は叫び声に近い。
  それで自然発情的な叫びやかけ声に類するものが目につく。
  ・・・呼んだり、呼びかけたりするものが多い。  」

その次でした。

「 手まり歌、羽根つき歌、お手玉歌はもちろん、
  年中行事の歌にしても、すべて動作と共にあるもので、
  この点、いわゆる童謡とはその趣を異にしている。
  つまり遊びの要素である行動や動作を除外しては
  成立しない要素をもっていることがわかる。・・・  」(p20~21)

こうして、採集・採譜されたわらべ歌が引用されてゆくのですが、
その歌への説明も具体的でわかりやすかったのでした。
まずは、「手まり歌」の説明からはじめてみます。

「 古いわらべ歌の中で、手まり歌はもっとも美しいリズムに満ち、
  いまうたっても生き生きとした魅力を持っている。

  明治の頃まで手まりといえば、たいてい自分の家で作ったもので、
  赤いおもとの実のシンを抜き、白い灯芯で巻き包み、
  木綿糸を巻きつけていき、さらに赤、青、黄などの色糸で、
  花や麻の葉形の模様をかかった。
  そのころは佐賀でも、木綿の布を織る家が多く、
  くず糸がたくさん出ていたせいもあった。

  遊び方は、いまでこそ土間や板の間でつくのが普通であるが、
  そのころはお手玉のように手のひらでうける遊び方(揚げまり)
  があり、歌にも、つき歌とあげ歌の二通りがあった。

  もっとむかしは、布袋に小豆などを入れたお手玉のことを 
  ≪ 手まり ≫と呼んだそうで、
  歴史的には あげ歌が古いとされている。・・  」(p26)

それでは、はじめに引用されてる「 手まり歌 」を引用しましょ。

       からうめからだけ  ( 手まり歌 )

     からうめ からだけ
     からすが一匹 とんで渡った
     この手まりゃ だれにあげましょ
     花のみちこさんに あーげましょ
     よう受けとんさいの
     よう受けとりました        ( 佐賀市 )

「 『 からうめからだけ 』は、手まりをつく人は一人で、
  最初はみんな合唱で『 ・・・だれにあげましょ 』
  までうたったあと、ついている人が、
  次につかせたい人の名をあげて、
  『 花の〇〇さんに、あーげましょ 』と
  一人でうたい、ポンと手まりを高く上げる。
  指名された人は、
  『 よう受けとりました 』と受けとり、
  また最初から繰り返す。          」(~p28)

はい。「日本わらべ歌全集」(柳原書店)は
ただ、わらべ歌を並べてあるだけでなく、
それにまつわる子供遊びが詳しく描写されています。
全国に同じわらべ歌はあるのですが、
各県の方の歌解説は人さまざまです。
そうした何気ない箇所に惹かれます。

ということで、今月中に残りの巻をひらいてゆくことに。
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だんだん=さよなら。

2024-11-08 | 詩歌
「日本わらべ歌全集25」(柳原書店)は、「熊本宮崎わらべ歌」です。
その熊本の箇所を読む。といってもパラパラ歌をめくるくらいです。
『 縄とび歌 』を引用してみます。

         大なみ 小なみ    ( 縄とび )
  
     大なみ小なみ ささなみ小なみ
     一 二 三 四 五       ( 菊池市赤星 )


         おはいり〈 1 〉

     花子さん おはいり 内緒でジャンケン致しましょ
     負けたお方は お逃げなさい   ( 菊池市赤星 )

         おはいり 〈 2 〉

     花子さん おはいり
     オッピリ ピリピリ オッパッパ
     ジャンケン ポン
     負けたお方は お逃げなさい   ( 菊池市赤星 )


        くまさん くまさん

      くまさん くまさん 後ろを向いて
      くまさん くまさん 両手をついて
      くまさん くまさん 片足あげて
      くまさん くまさん おわかれ  (菊池市赤星)p124  


『 遊びにさそわれて、家を出ることのできない子の断りことば 』
 というのが『 早口ことば 』に載っておりました(p166~167)

        でんでらるんなら   ( 早口ことば )

     でんでらるんなら でてくるばってん
     でんでられんけん でられられんけん
     でんけん こんけん
     こんこられんけん こんこん
             ( 玉名郡南関(かんなん)町東豊水 )

 訳:  出られるならば 出てくるけれども
     出られないから 出ることができないから 
     出ないから 来ないから
     来らない(行けない)から 来ない(行かない)よ



縄とび歌の『 お逃げなさい 』『 おわかれ 』が
聞いたこともなかったので、遊びの気持ちがなぜか伝わるようでした。
すこし先のページに(168~170)『 別れ 』と題する歌が3つ。
まずは、その説明を引用して、最後に3つの歌を引用します。

「 一日の遊びが終って別れるとき、
  これらの歌が誰からともなくうたい出される。

 『 だんだん団子汁・・・ 』とうたい、友だちの方をたたき、
  相手からたたきかえされないうちに急いで駆けだす。
 『 帰ろい帰ろい 』は子供たち全員が、
  合唱するようにうたいながら帰るときの歌である。 」

      だんだん団子汁   ( 別れ )

    だんだん団子汁(だごじゅッ) あしたの目さまし
                    ( 球磨郡上村永里 )
       注: だんだん=さよなら

       さよなら三角    ( 別れ )

    さよなら三角 また来て四角
                 ( 人吉市中青井町 )

         帰ろい帰ろい  ( 別れ )

      帰(かい)ろい 帰ろい
      柿ちぎろい
      戻(もど)ろい 戻ろい
      桃ちぎろい       ( 玉名市伊倉北方 )


  
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田舎じゃ菜種の花ざかり

2024-11-07 | 詩歌
「日本わらべ歌全集6下」(柳原書店)は「千葉のわらべ歌」でした。
わたしは、安房に住んでるので、安房のわらべ歌をまずはさがします。

すると、最初にある「房総わらべ歌風土記」の文にはこうありました。

「 ・・・安房の歌は、ここでは2曲しか収録できなかった。 」(p19)

あれれ、そうなんだ。残念。そんな気持ちで続きを読む。

「 しかし、『安房の子守歌』の跳躍の多い、それでいて
  しっとりと落ちついた、いうにいわれぬ温かみ、
  なつかしみを感じさせるその旋律は、まさに
  子守歌の絶品のひとつに数えられてもよいくらいである。
  
  ・・・関東地方では光彩を放つ貴重な子守歌といえよう。

      お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
      いなかじゃ菜種の 花ざかり
   
   南国安房の花畑の美しい風景が目に浮かぶ。・・・  」(p19)


はい。貴重な2曲を、最後に引用しておきます。

         ひとてきな   ( 羽根つき )

     ひとてきな ふたてきな
     見てきな よんできな
     いつきてみても
     ななこの帯を やの字にしめて
     ここのはで とまれ
                  ( 安房郡鋸南町佐久間 )p82


       ホラホラほうらい豆  ( 安房の子守歌 )

     ホラホラ ほうらい豆 十六ささげ
     ささげが嫁に行って 追い出された

     お留(とめ)が大きくなったら 江戸へやる
   
     お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
     お江戸じゃちりちり ちりめんづくし
     
     いなかじゃ菜種の 花ざかり   ( 安房郡千倉町 )p212  



追記: 「鋸南町史」(昭和44年)をひらいてみると、
    『 羽子突唄 』(p363)が載っておりました。

         羽子突唄

     一(ひと)てきな  二(ふた)てきな 三(み)てきな
     四(よ)ってきな  五(い)つ来て見ても
     娘(むすめ)達そろって 七(なな)子の帯を
     八(や)の字にしめて 九(ここ)のはで 十(とお)よ
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水清め。若水汲み。

2024-11-06 | 詩歌
「兵庫のわらべ歌」で、水の歌があるのでした。
「水清め」と「若水汲み」。それを順番に引用。

      濁りしゅめしゅめ    ( 水清め )

     濁(にご)り しゅめしゅめ
     丹後のおじの子が 水汲みきよる

       ( 宍粟(しそう)郡千種(ちくさ)町岩野辺 )


 注: しゅめしゅめ = 「 澄め澄め 」の訛り。

「 山深い村に住む人たちは、谷あいの水や湧き水の所を
  手で掘って水たまりを作り、その水を利用した。
  はじめ濁っていた水が、早くきれいになるように
  と唱えた『 水清め 』の歌である。   」 ( p148 )

「日本わらべ歌全集」は各巻の終りの方に県の地図と地名が載って
おります。宍粟郡千種町は、鳥取県と岡山県と両県との県境にある。


        福とんぶり    ( 若水汲み )

    福とんぶり 徳とんぶり   ( 養父(やぶ)郡養父町森 )


「 元旦に使う水は、年男が早朝に恵方から汲んでくる。
  この若水を汲むとき、豆がらを焚いてこの歌をとなえた。

  若水は、昔、宮中で立春の日の早朝天皇に奉った水をいったが、
  後世はもっぱら元旦に汲んで一年中の邪気を払うものとされた。

  万葉集に『 月読の変若(おち)水 』という言葉が出ていて、
  変若(おつ)は元へもどる。若返るの意。

  この水を飲み、浴びると、人も若返るという神聖な水で、
  若水もこの信仰から出たものであろうか。
  若水を汲む場所は、川・池・井戸などで、県下でも
  地域によって多様なやり方が行われている。   」

 【類歌】 
    〇 ふくとう。( 養父郡大屋町蔵垣 )
    〇 年徳さん、福おくれ。( 美方郡美方町広井 )
    〇 若とんぶり。( 美方郡浜坂町 )
    〇 とんぶりや、とんぶりや、若とんぶりや。( 養父郡関宮町 )

                        ( p162 )


ちょっと、気になって、兵庫県の近県のわらべ歌の目次をめくったのですが、
この『 若水汲み 』というのは出ておりませんでした。
若水汲みで、思い浮かぶのは、歌人岡野弘彦氏です。
岡野氏は、大正13年7月7日生まれで、神主を継ぐはずだったそうです。
今回の最後には、その岡野氏へのインタビューからの引用。

「 私のところは三重県の伊勢の西の端です。
  ちょっと北へ行くと伊賀、ちょと西へ行くと大和です。
  この三つの国のちょうど境になるわけです。・・・ 」( p24 )

「 小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
  お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
  白木の桶に若水を汲みに行くんです。

     今朝汲む水は福汲む、
     水汲む、宝汲む。
     命長くの水を汲むかな

   と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
   川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
   上流に向かって水を汲むわけです。

   うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
   母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。
   残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
   それを五つのときからさせられました。

   ちょうどその時間、夜中の一時くらいですが、
   上の神社の森のお社から、村の青年たちを手伝わせて
   元日のお祭りをしている父親の
   祝詞(のりと)の声が川音に交じって聞こえてくるのです。 」

    ( p20 「岡野弘彦 インタビュー集」本阿弥書店・2020年)
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