和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

門前の小僧。

2021-01-31 | 本棚並べ
おかしなもので、本を読まなければ読まないで、
以前に読んだ本の箇所が思い浮かんだりします。

新潮文庫の、新田次郎著「小説に書けなかった自伝」の最後に
藤原正彦「父 新田次郎と私」という文が掲載されております。

そこから引用。

「父の文体と私のものとは当初から似ていた。
『若き数学者のアメリカ』の原稿はすべて父に
読んで批評してもらったが、最初の一章を読んだ後、
父が『俺の文章と似ているよ、不思議だなあ』と
言ったのを覚えている。
 ・・・・・・

似るに至った理由は、私がしばしば、父のできたての
随筆原稿の批評を求められていたからだろう。
私の子供の頃はその役を母に頼んでいた。ところが母は
ことごとく『下手クソ』とか『全然つまらない』と酷評する。
三人の子育てが忙しい頃、母は十年間ほど休筆していたから、
せっせと書いては文名を高めて行く父に嫉妬を感じていたのだろう。

母の、ほとんど悪意のこもった痛烈な批評に腹を立てた父が、
『もうお前なんかに二度と読んでもらうもんか』と
怒鳴って席を立ったのを覚えている。
『お前はなかなか読める』などとおだてられ、
大学生の時分から父のものは大分読んだ。
批評するには精読しないとならない。時には読み直す。一人の文章を
何年にもわたって数多く精読していれば、自然に文体が似てくる。

これは私の文章の批評役を20年以上もしている女房が、
私と似た文章を書くようになったことからも確かと思う。
門前の小僧である。」(p277~278)

もうひとつ、引用したかった箇所があり(笑)、
この機会に、引用しておくことに。

新田次郎の、本文からまずは引用。
藤原正彦の、文をそのあとに引用。

「当時はそれほど苦心するようなこともなく筋立てができ、
筆の方も現在に比較するとスムーズに運んだ。若かったからであろう。
このころは役所から帰って来て、食事をして、7時にニュースを聞いて、
いざ二階への階段を登るとき、≪戦いだ、戦いだ≫とよく云ったものだ。

自分の気持を仕事に向けるために、自分自身にはげましの
言葉を掛けていたのだが、中学生の娘がこの言葉の調子を覚えこんで、
私が階段に足を掛けると、戦いだ、戦いだと私の口真似をするので、
それ以後は、黙って登ることにした。7時から11時までは
原稿用紙に向かったままで階下に降りて来ることはなかった。
・・・・」(p75~76)

はい。この場面を、藤原正彦氏も書いておりました。

「・・・夕食の後は、くつろいで家族と団欒、
ビールを飲みながらテレビ、というのが普通なのだろうが、
父のそんな姿はほとんど記憶にない。そのような欲求をすべて断ち、
夏には半袖シャツにステテコ姿で、それ以外の季節には丹前姿で、
毎日、二階の書斎へ続く13階段を上っていった。

役所仕事の疲労がたまっていたり風邪で体調の悪い時などは、
階段をよろよろと一歩一歩上りながら、『戦いだ、戦いだ』と
うめくように言った。こんな時、家族の皆が一瞬水を打ったように
静まり、間もなくそれぞれがそれぞれの持場に散るのだった。」
(p283~284)

はい。本もひらかず、ボケっとしていると、そこに、
プクプクと印象の断片が浮んでくることがあります。
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1月のグレン・グールド。

2021-01-30 | 本棚並べ
コロナ禍の1月は、今日と明日でおわります。

さてっと、古本でミシェル・シュネデール著、千葉文夫訳
『グレン・グールド 孤独のアリア」(筑摩書房・1991年)が
200円で手にはいる。
その本のはじまりは

「1964年のことだった。それまで輝かしい演奏家として
名を馳せていたカナダのピアニストのグレン・グールドは、
コンサート活動から完全に身をひいてしまった。
1982年に死去するまで、その後の彼はレコード録音、
ラジオおよびテレビ番組、・・・文章を書くなどの
仕事以外はやらなかった。・・・」(p5)

はい。1月の演奏会の様子も出てきます。

「1957年1月。その晩、グールドは
レナード・バーンスタイン指揮によるニューヨーク・フィルと
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番を演奏することになっていた。
協奏曲の演奏は9時半開始の予定だった。
 ・・・・・・・
午後はずっと眠って、7時半に起きると、部屋から外に出ることなく、
協奏曲を二度ばかりさらってみた。奇妙な演奏法だった。
ほとんど四六時中はめている手袋を脱ぐと、部屋にあった
ピアノには触らず、虚空に指先を動かして演奏した。室内を歩き回って、
顎でオーケストラを指揮し、ふたつのパートを声をはりあげて歌うと
いうありさまだった。8時半頃、腕から指先までを熱い湯にひたす
儀式をはじめ、それが1時間近くつづいた。

カーネギー・ホールに彼が到着したのは、
自分の出番の2分前のことだった。
極地探検にでも出かけるようないでたちだった。
毛皮のコートや服を三重か四重に着込んで・・
その下には太い毛糸で編んだぼってりしたセーターを着ていた。」
(p42~43)

以下も1月からの引用。

「1955年1月という時点において、すでに
グールドはカナダではスターだった。・・・・
アメリカ・デビューはワシントンのフィリップス・ギャラリー
が舞台となった。1955年1月2日の午後、グールド22歳のときである。
・・・・
この『デビュー』以来、彼が守り抜いてきた方針がある。
要するに演奏に悦びを感じる作品しかコンサートでとりあげない
ということ・・・・

1月11日の晩はニューヨークのタウン・ホールでのデビューとなった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙の批評家はこの新人の出現に触れて
『グールド氏の演奏のきわだった特徴は、
聴衆をして音楽を聞く気分にさせることにある』と書いている。
・・・・」(p46~47)

はい。1月のグレン・グールド。
「腕から指先までを熱い湯にひたす儀式を・・1時間近く」
というのが、忘れられない箇所となりました。

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あ、似てらしゃる。『顔面相似形』

2021-01-29 | 本棚並べ
月刊Hanada2012年3月号に、
新刊「2016年の週刊文春」を記念しての座談会が載ってる。

そこに、グラビアの顔面相似形写真についての語りがある。

西川清史】 ・・・くだらないことも限界までやったね。
顔面相似形なんていうのはその最たるもので、
あんなくらだないことを、あんなに一生懸命やった人は、
多分日本にいないんじゃない?

だって、グラビア班全員で資料室に籠り、百科事典をひっくり返して
メディチ家の誰それと仲代(なかだい)達矢が似てるとかさ。
   ・・・・・

柳澤健】 ・・・経済評論家の長谷川慶太郎さんと
作家の泡坂妻夫(あわさかつまお)さんを並べて特写した・・・
  ・・・
『ふむ、それで?企画の趣旨がいまひとつよくわからんのだがね。
その、先日直木賞をとられた泡坂先生と私が似ている、
ということだけで写真を撮るのだね。
対談とか、そういうことではないの?』
  と評論家の長谷川慶太郎氏。
 ・・・・
今もっともお忙しいお二人を、このためだけに
一緒にスタジオに立っていただく・・・・
『あの、もう少しお顔を寄せて・・・。
あ、似てらっしゃる、似てらっしゃしゃしゃる』
(p170)

西川】 昔はさ、会社に変人奇人がいっぱいいたよね。
柳澤】 はい。
花田】 俺は『異能力士』と言ってるわけ。昔の文春には、
岩風とか若浪とか陸奥嵐とか舞の海とか宇良(うら)みたいな
異能力士がいっぱいいたから、おもしろかった。
いまや、異能力士を飼っておける風土じゃなくなったからね


 こうして語り合う座談のしめくくりもいいのですが、
これを引用したんじゃ、買って読む方に申し訳ない。

さてっと、この座談を読んで、私が印象深かったのは
グラビア「顔面相似形」の箇所でした。
うん。わたしが、こうしてgoo ブログでの書き込みしてるのは、
活字の相似形をみつけて、あった、あったと言っているのでした。
あ。この文章の、この箇所と、あの文章の、あの箇所と
『あ、似てらしゃる、似てらっしゃしゃしゃる』。
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久保紘之81歳『僕は思うんです』。

2021-01-28 | 道しるべ
雑誌Hanada(2021年3月号)。
連載「蒟蒻問答」は、今回で175回。
久保紘之氏の退院のことから話がはじまります。

久保】 二カ月間にわたって、大変ご心配、
    ご迷惑をおかけしました。

堤堯】 入院して手術したんだって?

久保】 ガンが見つかって腹を切ったんですが、
経過良好で二週間で退院できた。ところがその二週間後、
上野駅で転倒して後頭部を強打、軽い脳出血が起きちゃって
救急車で病院に逆戻り。トンマな話だけど、おかげで看護師
からはすっかりボケ老人扱いで何とか大事にされましたよ(笑)。

堤】 コロナで病院が逼迫した状況なのに、よく入院できたね。

久保】 タイミングがよかったんですね。
しかも僕が退院した直後、その病院からコロナ感染者が出て
大騒ぎになったから、運がいいといえばいい。
コロナにまで追い打ちをかけられたら、
さすがの僕でもまいちゃう(笑)。 P116


はい。これが対談のはじまりでした。
今回は、無事帰還された久保紘之氏のお話を
以下に、引用。

久保】 今回のアメリカの混乱を見て、日本の新聞は
まるでアメリカ議会を民主主義の象徴として見ており、
『そのアメリカ議会がこんなことになるとは』といった
書き方をしているところばかりだけど、笑止千万。
 ・・・・・・・・
・・新聞(1月8日付)で政治学者の
ダニエル・ジブラットはこう言っています。

『だれもが投票できるという、今では当たり前と思われている
制度が米国で成立したのは1960年代に入ってからです。

逆にこの国でそれが完成する前の40年代に、米国は
西ドイツや日本の民主化を後押しし、だれもが投票できる
社会を実現させていたというのも興味深い事実です』

つまり、戦後日本人は発言の後半の部分の印象が強いから、
現実のアメリカの制度の立ち遅れという事実を見落として
しまっているんですよ。・・・・・・
 ・・・・・・
トランプという悪役は、アメリカの議会、そして民主主義の
矛盾をあぶり出し、再び活性化させるカンフル注射的な役回り
を担っていた、という見方が成立するんじゃないかと
僕は思うんですがね。
 p122~123

久保】ヨーロッパだけでなく、オーストラリアやインドだって、
バイデンを簡単に信用できないでしょう。

久保】・・調整役が必要となり、それをできるのは誰かと
世界中を見渡すと、僕は安倍しかいないんじゃないかと思います。
・・・・たとえば安倍の辞任表明について、リチャード・
アーミテージはこう言っています。

『安倍首相は、米国の(トランプ)大統領が自由世界の
指導者とみなされなくなった時に立ち上がり、
自由世界の指導者の役割を引き受けた。
西側諸国の指導者として、ドイツや米国など各地で期待された。
これは首相の最大のレガシー(政治遺産)だ。
私が知る限り、安倍首相ほどの度量の大きさや見識を備えた
日本の首相はかつていなかた』(2020年9月5日付読売新聞)

久保】その安倍はまたもや『桜を見る会』関連で痛めつけられている。
国会中継を見ていると、安部が痛ましいというより、
日本国家が痛ましいという印象を受けますよ。
P126~127


はい。堤堯氏との丁々発止のやりとりは
これは雑誌を読んでのお楽しみなのでした(笑)。

ここでは、病院から無事帰還された久保紘之氏の
語りのみを引用させてもらいました。
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大震災と「星の王子さま」。

2021-01-26 | 地域
関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日。
今年は2021年だから、震災後もうすぐ100年。

さて。九鬼周造著「『いき』の構造」(岩波文庫)の
最後の解説は、多田道太郎氏でした。そこを読む。
はい。本文はいまだ未読。
ひとつ気になった数字がありました。

「九鬼周造がヨーロッパにいたのは
1921年(大正10年)から1929年(昭和4年)までである。
 ・・・・・
甲南大学の九鬼文庫には『「いき」の構造』の、
かなり部厚い草稿が保管されている。これをみると、
九鬼周造がこの論文を書きおえたのは
1926年12月、すなわち大正15年、昭和のはじめのときであった。
書きはじめはさだかでないが、まずパリ留学中、それ後期から
書きはじめられたと推定するのが妥当であろう。
本書がパリで書かれた――ということは、強調しておいてよい。」
(p200~201)

はい。多田道太郎氏の解説には、とりたてて、
関東大震災に触れるような言葉はありません。
私といえば、そこに興味をそそられます。

本棚からとりだしたのは、
内藤初穂著「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房・2006年)。
「星の王子さま」を訳した父・内藤濯をテーマにした本でした。

そこに、内藤濯氏がパリに留学した箇所があります。
そのパリで、関東大震災の知らせをうける内藤氏。
初穂氏は、濯氏の日記を引用しております。

「9月4日――
『東京横浜大災害の知らせが益々険悪になる。
東京市街は二区を除く外悉く壊滅し、死傷者の数15万に及ぶといふ。
・・・被難者は食に窮して互に掠奪をはじめたともいふ。
新聞記事に誇張があるものとしても、何さま由々しき大事である。
家族親戚知己の上に事なかれかしと切に祈る』
9月5日――
『大災害の報、日を追うて確かになって行く。
大島及び江ノ島の消失が伝へられる。新聞をよむと、
涙がこぼれてならない。気が落ちつかないので、
何も手につかぬ』
9月6日――
『東京の恐ろしい出来事が伝はりだしてから
まだ凡そ3日ほどにしかならないが、
もう10日も経つたやうな気がする。
支那からの電報で、日本の避難民が続々と上海へ
やつてくるといふのがある。
支那人の偽善が見えすいてゐて、さもしく思ふ』

大震災の第一報いらい、父は道行く人々の視線に
暖かなものを実感していたが、この日、宿の主人夫婦が
旅から帰着するなり、固い握手をして、いろいろと日本の様子を
聞いてくれたのが格別に嬉しかった。・・・・」(p226~227)

このあとにも、画家のエピソードなどが続くのですが、
引用はここまで。
そういえば、柳田国男も、この時にヨーロッパにおり、
帰国して民俗学を立ち上げるのでした。
うん。それはどの本で読んだのか?

それはそうと、九鬼周造著「『いき』の構造」は
こういう時期に、パリで書かれたのでした。
はい。私はまだ本文を読んでおりません。
解説でもって、まずは脱線しております。
「『いき』の構造」を、何とか読めますように。

【注記】多田道太郎氏には
安田武氏との対談[「『いき』の構造」を読む](朝日選書)が
あるので、そちらに、関東大震災との関連が書かれているかも
しれないなあ。この本も未読。

うん。柳田国男と関東大震災との関連は、
こちらはテーマとしてよく取り上げられているようです。
興味ぶかいテーマなので、紹介できればいつか、
引用したいと思います。






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新田次郎・てい・正彦。

2021-01-25 | 本棚並べ
森功著「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」。
その第四章「週刊誌ブームの萌芽」のはじまりの頁に、
「週刊新潮創刊号」の表紙写真が載っています。
その裏ページに新田次郎の仕事机にむかう写真。

第四章は、新田次郎のことが語られてはじまっていました。
新田次郎著「小説に書けなかった自伝」からの引用もあり、
編集者と書き手との両方から浮き彫りにしてゆくのでした。

それはそうと、新潮文庫の「小説に書けなかった自伝」は、
パラパラ読みしただけでしたが、この機会に最後まで読む。

最後まで読むと、印象が違ってきます。
新田次郎が気象庁をやめてからのことでした。
家での妻・藤原ていとのやりとりが出てくる。
そして、この新潮文庫には、
本文の終りに年譜があって、さらに、
そのあとに2人の文が掲載されていたのでした。

藤原てい「わが夫 新田次郎」。
藤原正彦「父 新田次郎と私」。

はい。自伝の最後の方と、そして2人の文とを読む喜び。
3人の視点が、それぞれに交差する醍醐味がありました。
編集者による行き届いた配慮によって、文庫が光ります。

ここは、藤原ていさんの文のはじまりを引用することに。

「早春の光の中で、雪どけの水が小さな川になって流れていた。
その坂道を母の後について私は下っていった。

今日は見合いの日である。『今度こそは藤原さまだからね』と、
くりかえし母に云われていた。わざわざさまをつけるのは、
母が相手の家を尊敬していたからである。

それまでにも何回か見合いはしているのだが、
すべて失敗をしていたので、母は今度の見合いには
異常なほど熱を入れていた。
きめられた上諏訪駅前の旅館の玄関を入った。
背を丸めて階段を上る母の後姿を見た時に、
妙に母がいとおしくなって来た。
お前はうれ残りになると、なかば脅迫めいたことを
いつも云われていたけれども、その母の気持を
考えてやりたいような気持になっていた。・・」(p254~)

うん。藤原正彦による家族の切り取り方の妙もあり、
引用しようとするとキリがなさそうなのでここまで。
はい。わたしは、読めてよかった(笑)。

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「愚図の大いそがし」

2021-01-24 | 本棚並べ
すっかり、忘れていたけれど、
山本夏彦著「愚図の大いそがし」(文藝春秋・1993年)を
ひらくと、「最後のひと」と題した文がある。
そこで、これから出る本「最後のひと」をとりあげていました。

「この物語は九鬼周造の『「いき」の構造』にはじまって、あらぬ
ところを逍遥したあげく『「いき」の構造』にたどりついて終る。」
(p172)

単行本「愚図の大いそがし」自体は
雑誌「文藝春秋」と「諸君!」に連載していた随筆を
まとめたものです。
「最後のひと」(文藝春秋・1990年)も出ておりますが、
うん。私に愛着があるのは「愚図の大いそがし」の方です。
ということで、「愚図の大いそがし」から引用することに。

パラリとひらくと
「たれんと内海好江」という5ページの文。
平成3年5月のこと。
「丁度週刊新潮の『夏彦の写真コラム』が600回、
まる12年を迎えたとき」の集まりに、
芸人・内海好江さんを招いたこと。
そこで、夏彦は、内海さんを紹介したかったけれど、
できなかったようで、この随筆で
「かいつまんで言うと私はこんな口上を言いたかった」
として、紙上でもって、内海好江を紹介しているのでした。

まずは「・・この人はただの漫才ではない」と、
具体的な場面を紹介しながらはじまるのでした。

「彼女の言葉はすべて耳からおぼえた言葉で、
文字からおぼえたものではない。あってもそれは
外来語に似たものとして用いられている。

彼女は戦争中六つのときから舞台に出ている。
・・・・・・・・・

戦前の芸人は多く目に文字がない。
したがって楽屋で話す言葉は明治大正の、
いや江戸時代にさかのぼる言葉である。
彼女は今は滅びた言葉を知る最後のひと
の一人である。それは彼女の宝である。」

こうして紙上で山本夏彦が紹介する
口上の最後も引用しておくことに。

「ここに内海好江というタレント(才能)を得て
私は欣快(きんかい)にたえないが、まじめ雑誌の
まじめ記者はたぶん聞く耳持たないだろう。
この席の諸君は持つだろうから
これをもって紹介の辞とする。」

何年ぶりだろうか。「愚図の大いそがし」をひらいた。
この本には「私の文章作法(一)(二)」があってね、
すぐ忘れるけど気になって、そのたび見ておりました。
そうして、たまにはひらいていたのに、いつのまにか、
すっかり忘れてしまっておりました。

さあ、山本夏彦は、いまも色あせない語り口でしょうか。

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「これを読め」と。

2021-01-23 | 本棚並べ
森功著「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」(幻冬舎・2021年)。
その終章は、齋藤十一が亡くなってからの内容になってます。
そこに

「・・空洞化しているのは、新潮社や週刊新潮だけではない。
週刊誌に限らず、出版界、新聞、テレビにいたるまで、かつてのような
記者や編集者がいなくなり、伝える中身がスカスカになっている。
言論界全体が空洞化しているように感じるのは私だけではないだろう。」(p308)

はい。森功氏は、こう指摘をしたあとに、
あるエピソードをもってきておりました。


「齋藤の«息子»小川雄二はあるとき唐突に『これを読め』と
九鬼周造の「『いき』の構造」を手渡されたことがあるという。
  ・・・・
齋藤は京大哲学科の教授だった九鬼が1930(昭和5)年10月に
発表したこの短い哲学書を愛読してきた。齋藤自身、九鬼の
著書に感銘を受けてきた、と小川は考えている。

『九鬼周造の【「いき」の構造】・・
オジはそれを【読め】というだけで、答えは教えてくれませんでした。
ですけど、読んでみると、なんとなくわかるんです。
オジはあの生き様に共感している、と。
本人はけっして斜に構えている人生を送っているわけではなく、
もっと素直に人間をとらえていたように思います』 」(p308~309)


ここに「あるとき唐突に『これを読め』と・・・・
【読め】というだけで、答えは教えてくれませんでした。」とある。
読めといわれた、その本が、私は気になります。

そういえば。と京都を思い浮かべる(笑)。

入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)の
最後の方に「京都本の10冊」という題の文章が載ってる。
その10冊リストの前口上に、こんな箇所がありました。

「好きか嫌いかと言われたらもちろん大好きで何度も
読み返している本ばかりだけれど・・・・
『お勧めの京都本10選』ですらないかもしれない。
あくまでこの奇妙な都市を読み解く手引きとして
ページを開いていただきたい書物たちである。」(p214~215)

この10冊リストの、5冊目はというと、
⑤『九鬼周造随筆集』岩波文庫
「偶然論を語りながら無常を思う『青海波』など、
『「いき」の構造』で知られる哲学者の随筆集」(p216)


そうだ。九鬼周造を、読もう。
本を読もうというはじまりは、
そのキッカケはいつも楽しい。

はい。読み始めてからの頓挫は、
いつも何度も経験してるのにね。

ということで、さいごは
黒田三郎の詩「紙風船」。

  落ちて来たら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く
  何度でも
  打ち上げよう

  美しい
  願いごとのように
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「あたりまえじゃねえか」

2021-01-22 | 本棚並べ
齋藤美和編「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)は
私のなかでは、印象鮮やかな一冊でした。

新潮社の名編集者・齋藤十一氏が亡くなって、
その弔辞からはじまり、追悼文がまとめられている本です。

これを読んで、グレン・グールドを聴かなきゃ、と思った(笑)。
読んだときは、常に本棚のすぐ手にとれる箇所に置いておこう、
そう思っておりましたが、今は本棚の隅に移動しておりました。

さてっと、先ごろ、新聞広告で
森功著「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」(幻冬舎・2021年1月)を
知りました。うん。ちょっと気になるので、ちょっと買いました。
坐ってパイプをくゆらせている、晩年の横顔の写真が表紙でした。

追悼文集「編集人 齋藤十一」は、印象鮮やかなのですが、
こちらは、時系列に齋藤十一を追いながら、新潮社の事件を
取り込み、齋藤氏のセリフの楽屋裏が整理されておりました。

「齋藤さんは、編集者は絶対に表に出ちゃいけない、
黒子であるべきだという意識が強かった。」(p203)
こうして、また「黒子」に焦点が合わさった一冊が出ました。

うん。齋藤さんのセリフは「編集者齋藤十一」に満載なので、
ここでは、パラリとひらいたこの箇所だけ引用して終ります。

「齋藤十一は新潮社の幹部社員たちに向け、出版について
多くの警句を残してきた。その一つがこうだ。

『誰が書くかは問題じゃない。何を書くかだよ』
       ・・・・・・
『なに言ってるんだ、あたりまえじゃねえか。
  探すんだよ、書き手を』  」(p212~213)


はい。今度は、この2冊並べて本棚に。







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京都人の性質。

2021-01-21 | 京都
入江敦彦著「読む京都」に、こんな箇所。

「差し引きすれば仏様に貸しがある――
これほどまでに京都人の性質を表現した諺はない。

宗教都市と呼ばれる古社古刹が犇めく街の住人の本音がこれである。
お供えを欠かさず、事あるごとにお布施をはずんでも、
カミサマ・ホトケサマから返ってくる御利益や御功徳は僅かなものだ
・・・という現実主義。ゆえに期待してはならぬという自戒。
そんな気持ちを言葉にして見せる諧謔とシニシズム。

それでいておそらくはどこの都市よりも神仏への畏怖を忘れぬ崇敬心。
京都人の貸しは嵩むばかり。だが、それでいいと彼らは考えている。
借金から逃げ回る人生よりも余程マシ。」(p158)


昨日は、妻のお父さんの三回忌。
仏壇の前に、住職を入れて4人。
曹洞宗でした。皆で読んだのは、
「魔訶般若波羅蜜多心経」
「修証義 第一章総序」
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」
だったと思います。
最後は住職が、御詠歌のような節回しで
たしか『南無地蔵菩薩』という言葉がはいっておりました。

わたしは、修証義を住職の読経にしたがって、
久しぶりに声を出して読んでおりました。
その修証義第一章のさいごの方をすこし引用。

「今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず、
おおよそ因果の道理歴然として私なし、
造悪の者は堕ち、修善の者はのぼる、ごうりもたがわざるなり
 ・・・・・・  」

はい。第一章の最後はというと

「仏祖の道を修習するには・・・
業報の理をならいあきらむるなり
しかあらざれば 多くあやまりて邪見に堕つるなり、
ただ邪見に堕つるのみに非ず悪道に堕ちて長時の苦を受く。

まさに知るべし今生の我身二つ無し三つ無し、
いたずらに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん惜しからざらめや、

悪を造りながら悪にあらずと思い、
悪の報あるべからずと邪思惟するによりて
悪の報を感得せざるにはあらず。」
(注:引用はところどころ漢字をひらがなにしました)


ちなみに、
「読む京都」の先に引用した箇所は
「«貸しがある»人々の宗教本」と題する章の
はじめにありました。その題の文のなかに
気になる箇所がありました。

「しかし京都で本当に重要なのはやはり
偉人の生い立ちや足跡を辿ることではない。

名もなき人々、市井に生きて死んだ町衆たちの行動原理
から湧いてくるもののほうに、より濃厚な醍醐味がある。

救済のシステム論ともいえる眞鍋廣濟の『地蔵菩薩の研究』や
婆娑羅=異類異形の研究をまとめた網野善彦の『異形の王権』
といった隠れた名著は数多い。
京を京足らしめたのは秘仏や名僧ではなく、
日常を見守る路傍仏であり蔑まされてきた異端者なのだ。」(p162)

はい。つぎにひらいてみたい本が決まりました。



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気象庁の呼びかけ。

2021-01-19 | 本棚並べ
一昨年の台風19号での、気象庁の呼びかけが
印象に残っているのでした。

うん。それが何となく気になっておりました。気象庁については、
新田次郎著「小説に書けなかった自伝」(新潮文庫)にあります。
ちなみに、新田次郎は気象庁に勤めておりました。
その引用。

「気象庁は昭和50年で創立百年を迎えたが、
初代気象台長の元軍艦奉行荒井郁之助(いくのすけ)
以来気象台の長となった人は、例外なく文章家であり、
そして、部下を君と呼ばずにさんと呼んだ。

初代の台長荒井郁之助は、
(私は戦さ(西南戦争)が終ったときから、
  誰に対してもさんと呼ぶことにしている)
と云っていたそうである。その伝統は各台長によって
引き継がれ、私が気象庁に入った時(昭和7年)の
中央気象台長岡田武松さんもすべての台員をさんと呼んだ。
そしてなかなかの文人だった。その次の台長になった
私の伯父藤原咲平もその通りだった。佐貫(亦男)さんも
その後に来た吉武(素二)さんも、部下をさんと呼んだ。
君と呼ぶことは絶対になかった。だが、気象庁でこの
荒井郁之助以来の伝統を守っている人はそう多くはなかった。

私はよい伝統は守り続けるべきだと無条件に考えていた。
わざわざ破壊することはないし、そうやったところで、
ちっともいいことはないと思っている。

吉武さんも私と同じ考え方の人であった。
気象台のよい伝統は生かすべきだと、なにかにつけて
口にしていた。吉武さんを上司に迎えたことによって、
私は尚しばらく気象庁に居座ることにした。」(p102~103)

もどって、台風19号での気象庁からの呼びかけを
ここにあらためて引用します。そとは暗くなり、
暴風雨はますます激しくなり、場所により川は決壊したか、
まだだったか。そのような状況のなかだったと思います。

「周囲の状況を確認し、避難場所までの移動が危険な場合には
近くの頑丈な建物に移動したり、外に出るのがすでに危険な場合は
建物の二階以上で崖や斜面と反対側の部屋に移動するなど、
少しでも命が助かる可能性が高い行動をとるよう・・」

ちなみに、引用した気象庁の呼びかけは
渡辺利夫氏の巻末コラムからの引用です。
渡辺氏の文には、このあとがありました。

「実はこの引用、いまウェブを開いているのだが、
10月10日の20時28分の『大型特別警報』についての
ニュース(NHK)の最後である。
三、四分はつづいたであろうか。そこにいたるまで
さまざまな映像を背景に、大変だ大変だ、を繰り返して
最後にこういうのである。
重大な情報だというのであれば、
まずはこの引用文の警報から入って、
そのあとで理由についてあれやこれやを述べればいいと思う。」
(『Voice』令和2年12月号巻末コラム。題は「報道の日本語」)

うん。気象庁の呼びかけ。そしてNHKの報道でした。

新田次郎著「小説に書けなかった自伝」には
気象庁測器課の課長補佐であった新田氏が
課員の報告書を吟味している箇所がでてきます。

「課員の報告書は徹底的に吟味した。
各種の気象測器の指導書の作製も各課員に分担して書かせ、
私は総括的なものを書いた。課員は、私が文章について
細かいことを云うので一時は書くことをうるさがっていたが、
そのうちに書く要領を覚えこむと、たいして苦労もせずに
書けるようになった。他の部員や課員が、私の課で作った
ものを参考にするようになった。

私は気象庁を辞めて10年になるが、
今でもそのころの課員が尋ねて来る。そんなときは私が
起案文書や説明書や報告書などにきわめてうるさく、
はじめのうちは真赤に直されて自信を失ったなどという話が出る。」
(文庫p51~52)


はい。だいぶ時間はたちましたが、気象庁ということで
「気象庁の呼びかけ」と「気象庁の新田次郎」と結びつきました。
これはすぐ忘れる。忘れないうちに、当ブログに載せておきます。
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『京都を利用してやろう』

2021-01-18 | 京都
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)。
この本を、私は、テキストにして、今年読むのだ。

はい。遅くなりましたが、新年の抱負。

この本の「まえがきにかえて」のなかに
「・・・京都人ほど平気で京都の悪口をいうし、
お上にも逆らうし、『京都ぎらい』なんて本も書いちゃう。
だけれども、どんなにエライ先生でも・・作家でも、
その目的が金でも名誉でも自己承認欲求でも
『京都を利用してやろう』という性根がちらとでも覗くと、
とたんに牙を剥く性質があるのだ。
それが京都人の責任感の表れである。」(p16)

はい。関東圏に生れ、そこで住んでいると、それはもう、わたしなど、
『東京を利用してやろう』という発想が、前提として染みついている。
何で、それがイケないのかと、すぐに反応してしまうほど、
私など体臭としてプンプンさせて、歩いているようなものです。

「行政は『産めよ増やせよ』的に観光客を集めようと躍起。
有名社寺のライトアップや秘仏公開を寺院に要請している。
だが、そんな客寄せパンダ目当てより、
みうらじゅん、いとうせいこうの名著『見仏記』を読んで
普通に御開帳されている仏像を拝みにやってくる人たちの
ほうがよほどこの都市を涵養してくれる。
彼らはキョートランドに興味はないし、
それらを避けるアンテナもある。」(p18)

「まえがきにかえて」は、その最後を
こうしめくくります。

「本書を捲っていただけば京都に興味のある人たちが
手に取るべき百読が必ずや発見できる。
一冊一冊ではいかな名著であれ怪物のごとき身体を持った
千年の古都の、その一部を照射するにすぎない。
が、それらを複合的に熟読してゆけば必ずやなんらかの像を結ぶ。
ひとりひとり見えている像は異なるけれど、
それが≪あなたの京都≫なのである。」(p19)

はい。さいさきの良い本にめぐり合えました。
この本に、私はどれほどチャレンジできるのか。
なあに【棒ほど願えば、針ほど叶う】というじゃありませんか。
今年が楽しくなりますように。

うん。本文からも、パラリとひらいたこの箇所を引用。

「現役組だと写真集を得意とする『光村推古書院』や
茶道関係書籍の元締め『淡交社』、『京都書院』の志を
継いだようにアーティスティックな『青幻舎』などなど、
それぞれが良書と評してかまわない本を作っている。ただ残念
ながら、そこには京の失われた出版社が持っていた香気はない。
気概はあっても経済行為として出版を続けていこうとしたら、
やはりおもねる必要があるのだろう。きぐしねいです。

現在、在京都で京都についての書籍を最も多く手掛けているのは
『京都新聞出版センター』だ。地元の利を活かした緻密な本作りは、
ときに読者を想定(マーケティング)していないのではないかと
笑ってしまうくらいマイナーなネタも活字にしてしまう。
そういう観点からも京都らしい京都の出版社といえるだろう。」
(p125~126)

はい。行先を指さすように、
巻末に、6ページの「書名さくいん」。



はい。『注』として追記しておきます。
東京堂出版の「京都語辞典」(昭和50年)をひらくと

『きぐしねい』はありませんでしたが、
『キズツナイ』があります。以下そこを引用。

「キズツナイ(気術無い)≪形≫気づまりな。
『えらいキーツコー(気使っ)てモロて キズツナイことドスナ。』
大阪・大津・和歌山も。キガズツナイとも。
ズツナイ(術ない)はつらい、せつない意。」(p41)
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「絵も会話もない本なんて」

2021-01-17 | 本棚並べ
この機会に「不思議の国のアリス」を買うことに。
「不思議の国のアリス・オリジナル」(書籍情報社・2002年)。
これが古本で、244円+送料350=594円。
帯から引用すると
「『不思議の国のアリス』のオリジナル原本、
『地下の国のアリス』を完全復刻‼
ルイス・キャロルの直筆による、
大英図書館秘蔵の一冊を解説・全訳付きで‼」

わたしが確認したかったのは、
物語のはじまりの数行でした。

「アリスはだんだん退屈になってきました。
土手の上にお姉さんと並んですわっているのですが、
何もすることがないのです。一度、二度、
お姉さんの読んでいる本をのぞいてみたけれど、
その本には絵もなければ会話もありません。

『いったいなんの役に立つのかしら?』
         とアリスは思いました。
『絵も会話もない本なんて』          」

はい。ここを引用して、これでわたしは満足。
さて、今回の古本は函入で、一つの函に二冊。
一冊が、ルイス・キャロルの手書きの原本。
その絵も、ルイス・キャロルの手書きです。

ここは、帯の文を引用することに。

「『不思議の国のアリス』の始まりは、たった一人の
少女のために作られた手作りのプレゼントブックでした。
1864年のクリスマス、若き数学教師ルイス・キャロルは、実在の
少女アリス・リデルに、一冊のきれいに彩色した本を贈りました。
この本こそ、名作『不思議の国のアリス』の原型となった、
史上最高のプレゼントブック『地下の国のアリス』だったのです。」

はい。一冊は原型のままでした。
もう一冊は日本語版なのでした。
日本語版には、黒柳徹子さんが「はじめに」を書いてる。
そこから、この箇所を引用。

「アリスは、本当に美しい少女でした。・・・・
10歳の時にしかない美しさを。10歳の少女が持っている
不思議な魅力が、世界を魅了することになったのです。

10歳の少女の感受性やユーモアや色んなことの理解力が、
どれくらいのものか、私には、よくわかります。
それは、私が書いた『窓ぎわのトットちゃん』が、
その頃の年だからです。 ・・・・    」(p30)

さてっと、アリスのセリフに
『絵も会話もない本なんて』とありました。

不思議の国のアリスが、出版される際に、
ルイス・キャロルの絵は、当時評判の高かった『パンチ』
の画家のジョン・テニエルの絵にかえて出版されました。
本を読まないけれど、不思議の国のアリスといえば、
すぐにでも思い浮ぶ絵は、このジョン・テニエルのものです。
そのよく知られるジョン・テニエルの絵を見た時のわたしは、
その完璧な挿絵に、跳ね返されるような違和感がありました。
本も読まないわたしは、挿絵からもはねつけられたわけです。

いまになって、原型のアリスの本をひらくと、なんとも、
ルイス・キャロル自身の挿絵が、身近で馴染んで見えます。

さてっと、アリスです。

『いったいなんの役に立つのかしら?』
『絵も会話もない本なんて』

うん。これは実在のアリス・リデルが
語った言葉なのだろうなあ。そう、わたしは思います。

そしてね。『会話もない本』に嫌気がさした私は、
江戸ことば・京都ことば・大阪ことばへと、
いまごろになって、やっと、興味の触手が伸びるのでした。




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養生訓の晩年。

2021-01-16 | 本棚並べ
貝原益軒『養生訓』(松田道雄訳・中央公論・昭和48年)。
古本で300円。はい。買いました。函入で、装幀は田村義也。

では、300円分の要約をはじめます(笑)。

最後には松田道雄氏による「毅然とした晩年」と題した
18頁の文がありました。その締めくくりはというと、

「『養生訓』は、ただ長命を願うためにではなく、私たちの
祖先がおくった毅然とした晩年の姿を知るために読むべきである。」

とあるのでした。その18頁のなかから適宜引用。

「黒田藩のお抱えの学者として70歳までつとめ。
70歳から80歳までに20巻をこす著書をかき・・・」(p233)

うん。この箇所をもう少し引用。

「益軒の病理学は現代の病理学からみれば形態学をまったく
無視している点で信じる気になれないけれども、禁欲をすすめる
彼の結論は、いまの老人の衛生学に合致する。

『養生訓』が2世紀半を通じてロング・セラーでありえたのは、
老人たちの体験によってたしかめられたからであろう。

いまひとつは、著者益軒の80歳をこえておとろえをみせない
精神の偉容が、読者を圧倒したのだろう。・・・・・

『養生訓』にある個々の医学的な知識は、今日の水準からみれば
つたないものもあるだろう、しかし、それは晩年のなかに幸福を
とらえて動じない精神の姿を、いささかもゆるがすものでない。
精神の安定は、各時代の科学の知識とは無関係に達せられる
ということだろう。」(p232)


はい。本文からパラリとひらいた一箇所を引用しておきます。

「人生は五十にならないと、血気がまだ安定しないで、
知恵もまだ開けない。古今にうとく、社会の変化になれていない。
言うことに間違いが多く、行ないに悔いを残すことが多い。
人生の道理も楽しみも知らない。
五十にならないで死ぬのを夭という。
これもまた不幸短命といわねばならぬ。

長生きすれば、楽しみ多く益が多い。
日々いままで知らなかったことを知り、
月々いままでできなかったことができるようになる。

だから学問が進んだり、知識が開けたりするのは、
長生きしないとできない。こういうわけだから、
養生の術を行なって、何とでもして年を保って
五十歳をこえ、できればもっと長生きし、
六十以上の寿の世界に入っていくことだ。

昔の人は長生きの術があるといっていた。
『人の命は我にあり、天にあらず』ともいったから、
この術をやろうとふかく決心すれば、長生きは
人の力でどうにもできるわけである。疑ってはならぬ。
・・・・・」(p16)

うん。もう一箇所引用しちゃいます。

「老後は、若い時の十倍の早さで時が過ぎていく。
一日を十日とし、十日を百日とし、
一月を一年として楽しみ、

むだに日を暮らしてはいけない。
いつも時・日を惜しむべきである。・・・・

老後はただの一日でも楽しまずに過ごすのは惜しい。
老後の一日は千金に値する。人の子たるもの、
このことを心にかけずにいていいだろうか。」(p193)

はい。300円の古本の楽しみ。


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今西錦司でなければ。

2021-01-15 | 京都
私の京都の最初の案内本は、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書・昭和62年)でした。

こんど、入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)を
ひらくと、梅棹忠夫氏と並んで今西錦司氏が登場している。
うん。これなら今西錦司を読み始められるかもしれない。
そう思える箇所がありました。ちょこっと引用。

「・・・三人目の今西錦司。
梅棹忠夫のお師匠さん。生態学者、文化人類学者として
数々の金字塔的研究を打ち立ててきた学者だが、
わたしの知る限りでは京都についての著作はない。
・・・・・

けれど、やはりここは今西でなければならぬ。
なぜならば京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
命題を探る手段として今西錦司という知性は自然科学にも
社会科学にも人文科学にも均等に接することができた。
学問の世界でかくも京都人的であれたのは、
すんごいことである。

京の老舗は格式が高いほど、名代の改良改善に余念がないものだが、
変化を恐れず、自らの説に固執することなく学問する姿勢もまた
見事に京都人の作法と一致する。
『今西錦司全集』(講談社)の後半、十から十三あたりは
学術的だと敬遠せずに読んでみる価値は大あり。
はっきりいって杉本秀太郎よりも読みやすいと思うし。」
(p198~199)

そのすこし前に、入江氏は「梅棹忠夫の京都案内」をとりあげ、
こう記すのでした。こちらも引用。

「・・白眉は、それこそ京言葉についての省察。
たとえば京都人が誰に向かっても、それが年下や身内、ときには
敵や犬猫にさえ敬語表現を使うのは無階層的、市民対等意識という
基本原則があるからではないかとする推論には感動した。
ああ、この都市の言葉はそんなふうに考えていけばいいのか
という指針にもなった。」(p198)

はい。今西錦司を、わたしは読めずにおりました。
京言葉からの視点でなら、読み始められるかもしれない。
さっそく、今西錦司全集の指摘されている巻を古本注文。

今西錦司を、今年読み始められますように。
そんな、思いをこめて、本を注文しました。




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