和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

まがなすきがな。

2016-07-30 | 道しるべ
『間がな隙がな』
という言葉があるそうです。
私ははじめて出会った気がします(笑)。

さてっと、
ネットで古本を注文するようになって、
安いので辞典も思いつくと買っております。
たいてい、買っても使いません(笑)。

こういう機会にひらいてみます。
中学国語教科書に密着したという
うたい文句の「例解新国語辞典」(三省堂)には
『まがなすきがな』はありませんでした。

高校生を対象にしているようなのが
『角川必携国語辞典』ですが、こちらにもない。

『新明解国語辞典第二版』(三省堂)にはあります。
「いい機会が無いかと、いつも隙をねらっている様子」。

『三省堂国語辞典』には
「ひまさえあればそうしようと、
いつもすきをねらっているようす」。

『集英社国語辞典』には
「暇さえあれば。いつも。ひっきりなしに。
 『間がな隙がな本を読む』」。

『新明解国語辞典』(第七版)には
「わずかでも機会があれば逃すまいとして、
いつも隙をねらっている様子。
『間がな隙がな彼女に言い寄ろうとする』」。


『明鏡国語辞典』(大修館書店)
「【古風な言い方で】
ひまさえあればいつも。
『間がな隙がな入りびたる』」。

『新潮現代国語辞典』(新潮社版)
「少しの隙さえあれば。ひっきりなしに。
『ーー(間がな透がな)文三の傍へばツかし
往きたがるよ【浮雲】』」。
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蛇笏の夏見舞。

2016-07-29 | 詩歌
7月17日の毎日新聞「今週の本棚」で
荒川洋治氏が「飯田蛇笏全句集」(角川ソフィア文庫)の
書評をしておりました。印象に残ったので、
さっそくネット注文したのが
ようやく27日に届きました(笑)。

読もうとめくると、
漢字が辞書を片手じゃないと読めない。
うん。こういう場合は
パラパラと拾い読みに限ります(笑)。

夏を探してめくってみました。


 

うす箋に愁ひもつづり夏見舞

風鈴屋老の弱腰たてにけり

繭売つて骨身のゆるむ夫婦かな

暑中ただもろ乳垂りて母老いし



首なげて帰省子弱はる日中かな

送り火をはたはたとふむ妻子かな

子もなくて墓参いとへる夫婦かな

桐の葉に夕だちをきく書斎かな


あな痩せし耳のうしろよ夏女

水盤に行李とく妻や夏ごろも

風鈴の夜陰に鳴りて半夏かな

日も月も大雪渓の真夏空

夏来れば夏をちからにホ句の鬼

山ふかむほどに日鮮か夏来る

向日葵や炎夏死おもふいさぎよし

生き疲れてただ寝る犬や夏の月

炎天を槍のごとくに涼気すぐ


蝉しぐれもろ手を揚げて措きどなし

深山の月夜にあへる蝉しぐれ

世に古るは一峡一寺蝉のこゑ


雲四方に夏大いなる甲斐に棲む

夏旅や俄か鐘きく善光寺


  信州なにがしの郷をよぎりて

やまぎりにぬれて踊るや音頭取

紫陽花に八月の山たかからず


  大正八年六月二十六日家郷を発して
  日本アルプスの幽境白骨山中の温泉
  に向ふ。途中・・・

夏山や又大川にめぐりあふ

旅人に秋日のつよし東大寺


遠泳やむかひ浪うつ二三段

中年の家わすれねど海水着

   プール参観

水光にけたけた笑ふ裸かな


紫蘇の葉や裏ふく風の朝夕べ












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マタヨロコバシカラズヤ。

2016-07-26 | 本棚並べ
宮本常一の本をこの夏読もうと思った。
でも、私の興味もせいぜい2~3か月。
それを過ぎると、また違う方向へと
興味が移ります(笑)。

ということで、丁寧に読めない私は、
KAWADE道の手帖「宮本常一」の
最後の方にあった
木村哲也氏の「宮本常一ブックガイド」
を参考に本をそろえることにしました。
その最後の21番目は「宮本常一著作集」
とあるのですが、それは勘弁してもらって、
とりあえずは、とりあげられている中から
講談社学術文庫・岩波文庫・岩波現代文庫
のラインアップを何とか机に並べてみることに。
ということで、古本で揃えました(笑)。

さてっと、今まで読みはじめていると、
桑原武夫だったり、司馬遼太郎だったりと
思い浮かび、本棚からその本を出してきます。
そういえば、と今度出してきたのは
未読の穂積重遠著「新訳論語」。


そのはじまりをひらくと
祖父渋沢栄一
父 穂積陳重
母 穂積歌子
叔父阪谷芳郎

と四人の名前が並び
「・・の霊前に捧ぐ」
となっておりました。

私が読みたかったのは、
論語のはじまりでした。

子ノタマワク、学ンデ而シテ
時ニコレヲ習フ、
マタ説(ヨロコ)バシカラズヤ。
・・・・

この箇所の穂積氏の指摘は刺激的でした。
こうあります。


「・・・・・
もともと学問し修養するのも
自分の人物をみがくためで、
それがおのづから世のため人のため
になることはあらうとも、
けつして他人に認識してもらふための
学問修養ではない。そういふ気持ちで
『人知ラズシテイキドホラズ』
一心不乱に学問修養をつづける人があるならば、
それこそ本当の君子ではあるまいか。」


修養も君子も知らないけれど、
修養はあり。君子もいる。

will9月号が発売。
そのheadlineの先頭は
日下公人氏でした。
そこにこんな言葉が、

「子供があとを継いでくれないから
閉店するというが、子供に聞くと
親は客に商売するより役所に行って
優遇措置とかの陳情を熱心にしている。
その姿をみると、やる気が失せるという。」

ちなみに、HANADAとWILLとの
どちらの巻頭随筆にも顔を出しているのが
門田隆将氏でした。
そして9月号の雑誌の両方の書評欄に
門田隆将著「リーダーの本義」(日経BP社)
が取り上げられております。

うん。それが気になるけれど、
ガマンして、この夏は何とか
宮本常一の本で乱取り稽古なみの読書ができますように
さあ、七月も最終週となりました。
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鬼神をも、男女のなかをも、猛き武士の心をも。

2016-07-24 | 短文紹介
柳田國男の「ことわざの話」に、

「諺は言語といふものが出来てまもない頃から、
もうそろそろと始まつた古い技術であります。
そうして人間に『おしゃべり』といふものが
ある限り、どんなに形を変へても、続いて
行かなければならぬ技術であります。
・・・・・
演説や講演に演題といふものがあり、
詩でも小説でも皆似つかはしい題をつけて
ゐるのも、多くは以前に使つてゐた
諺の代りであります。」

この文章の最後を引用してみます。
こう書かれておりました。

「・・・しかし
苦労をする人の心を慰め、
沈んでゐる者に元気をつけ、
怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、
または退屈する者を笑はせる方法としては、
かつてわれわれの諺がしてゐただけの為事を、
代つてするものは他にないのであります。
軽口が粗末になつて、
日本の笑ひはそれこそ下品になりました。
それでも若い人たちは笑はずにはをられぬゆゑに、
今は実につまらないことで笑つてゐます。
かういふ人が少しも笑はずにゐられるやうになるか、
または別に新しい方法が見つかるまでは、
やはり諺のなるたけきれいなのを、
考へ出して行くより外はありません。
中昔のおどけ者が教へてくれたやうに、
自分たちのしてゐることの中にも、
まだ気のつかなかつたをかしなことがあります。
それをたとへにして話し合つて見ることは、
世間の人から笑はれぬ用心にもなり、
同時にまた日本の笑ひの改良になるかも知れません。
ただその前に諸君はまづ、
諺の善し悪しといふことを知らなければならぬのであります。」


ここに、
「苦労をする人の心を慰め、
沈んでゐる者に元気をつけ、
怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、
または退屈する者を笑はせる方法としては、
かつてわれわれの諺がしてゐただけの為事を、
代つてするものは他にないのであります。」

とある箇所を読んでいたら、
あれ、これ古今和歌集の「仮名序」の箇所
が思い浮かびます。

「力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女のなかをもやはらげ、
猛(たけ)き武士(もののふ)の
心をもなぐさむるは、歌なり。」


諺の善し悪しというのを知るには、
いそがばまわれで、仮名序まで
守備範囲に加えてみましょうか(笑)。

「花に鳴く鶯、
水に住むかはづの声を聞けば、
生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。」
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ラジオ時代までの、敦賀では。

2016-07-22 | 地域
宮本常一著作集別集2(未来社)が面白い。
といっても私が読んだのは
第四章「日本のことわざ」
その宮本常一氏の報告と
そのあとの座談会の記録。

ここでは、座談会から引用。

時実】 確かに、テレビ、ラジオ、週刊誌、
その他読むもの、見るものが非常に多くなって、
人間関係がどうも疎遠になってきましたね。
言葉を使うのはけんかするときぐらいでしてね。

宮本】確かに地方を歩いて痛感しますね。
私はずいぶん民家に泊りましたが、
ラジオ時代までは『今夜泊っていきなさい』
といわれて泊りましても、その家の主人公と
だけ話をするということはなかった。
客があるからといって近所の人を連れてくる。
ぞろぞろ皆さんやってくる。
そのことで一番ふしぎな感じがして、
いまでもしょっちゅう思い出すんですが、
敦賀の西に立石半島というのがある。
あの西側に原子力発電か何かできていますが、
あそこの丹生というところへ行ったとき、
いろり端で二~三人話しているんで、
上がり込んで私も話をした。
あいさつしたんですがどの人が主人だったか
わからない。かってにみんな、
お茶をのんだり漬物をたべたりしている。
そのうち別の人が、いろり端にすわって
話の仲間に加わる。
たいへん愉快に皆さんと話し合って、
夕方白木のほうへ越えていったんですが、
最後までどの人が主人だったかわからなかった。
そのときに『たいへん愉快で・・・』といったら
『ところ都だから・・・』といわれたんです。
つまり、そこに住む者にとって、
そこが都なんだという。

矢野】人生いたるところ都だということですね。

宮本】はい、そういわれましてね。
その人たちにとって、『ところ都』をつくること
だったんですよ。よその家へ行ったら、
また同じことだろうと思う。
自分らで自分の雰囲気をつくっていて、
そしてそこが一番いいものだという考え方が、
あの人たちにあったんですね。
白木へ行って、
白木ではお寺に泊めてもらったんだけれども、
『ここも丹生のようですか』ときいたら、
『このあたりはみんなそれなんだ、
とにかく不愉快な思いをしないように・・・』
というんですね。それぞれの家に主人公がいるに
違いない。しかし休みの日など、どこの家にでも
はいり込んできて、雑談を始める。
それに私が一枚加わってその話を聞いている。
それだけで楽しいんですね。
非常におもしろい話がたくさん聞けたんです。
(p236~237)

さてっと、
ここの箇所を読んで私に思い浮かんだのは
桑原武夫氏でした。
たとえば、「町一番の風呂」というエッセイは
こうはじまります。

「遠方(仙台)へ転任することになったので、
老母と久しぶりで郷里敦賀へ帰った。
早朝展墓の帰途、亡父の乳兄弟にあたる
S老人の家に寄ってみた。・・・」


「『老い』の価値転換」と題する文には
「私の母方の家でも、祖父が、今考えると
どこが偉かったのかわからないし、もっと
抵抗すればよかったと思うくらいだが、
大変威張っていた。朝から晩まで酒を飲んで、
一升飲んだというようなことを自慢して、
中風になって死んだ。地方都市敦賀の町長を
長いあいだつとめていたというものの、
社会的にはどれほど偉いか、
孫にわかるはずもないような祖父であった・・」

「思い出すこと忘れえぬ人」という文には
「結婚前後のころ、父は東京高等師範学校の教授で
あったが、春、夏、正月の休暇には、必らず
越前敦賀の実家に帰省している。・・・」
(「桑原武夫集8」p4~5)

「おやじ」と題する文には
「私の祖父は福井県の敦賀で越前紙を作っていた。
父はその次男である。長男は小間物屋、三男は
時計屋になったが、父は成績抜群だったのと、
虚弱で労働に適せぬと判定されたため、
なかば徒歩で出てきて京都の中学にはいった。」
(「桑原武夫集6」p554)

桑原武夫集9(岩波書店)には
「私の敦賀」と題する文がありました。
その文の最後を引用。

「切れ切れの思い出を綴り出せばきりがない。
私は中学へ入るとともに、父の書架にあった
山本元編『敦賀郡誌』(大正4年)などを読み出し、
敦賀に誇りをもった。そして、その気持が、
1943年、最初の評論集『事実と創作』の印税を
はたいて、『敦賀郡古文書』を三百部自費出版する
ことにもなったのである。この古文書の編者
山本元さんは私の父の親友で・・・
私は一度だけお目にかかったことがある。」
(p504)

うん。引用はこのくらいにして(笑)。
御存じ。桑原武夫は先駆的な共同研究システムで
業績を残しております。
その共同研究のニュアンスは
どのようなものだったのか?

宮本常一氏が語る
「そのことで一番ふしぎな感じがして、
いまでもしょっちゅう思い出すんですが」。


そういえば、
司馬遼太郎さんは桑原武夫氏について
こう指摘しておりました。
「人文科学の分野は成しがたいとされていた
共同研究というものを氏が一度きりでなく
幾度も成功させたという記録的な業績の秘訣
・・・・この才能は、登山家・探検家としての
氏の体験からうまれたというような後天的な
ものではなく、天賦のものである。
天賦の才能というのは、接してよくわかる。
それが表現の場をえないとき、その容器である
人間は生理的変調を来たすのではないかと
思われるほどにいらだつ。」

ここで、司馬さんが一つのエピソードを
取り上げておりました。

「桑原氏の異常さは――といったほうがいい――
対談がはじまる前に、場面構成をすることである。
いきなり始めればよさそうなものが、
諸役(編集者、速記者、そして話し手など)の
ざぶとんの位置を決めなければはじめられない。
共訳者である樋口謹一氏と多田道太郎氏がおられた。
『樋口サンはそこへすわってください』
『多田サンはそちらです』と、
編集部があらかじめきめた当初の位置ではない所へ
樋口氏と多田氏を誘導された。すると、
私と両氏とのあいだにひどく親密な感情が
流れる角度ができあがった。
『速記の方はそこ、編集部はあちらに』
と、氏は登山隊長のような表情になった。
さらに氏は小机の角度をすこし曲げ、
司馬サンはそこです、といった。
それによって氏と私との位置に、
適当な角度ができ、たがいに無用の
肉体的圧迫感をうけることが軽減され、
ひどく楽な気になった。」
(司馬遼太郎「明晰すぎるほどの大きな思想家」)


うん。これなんか、
宮本常一氏が指摘する「ところ都だから」
なんでしょうか。

なんてことが
あれこれと結びついて思い浮かんでくる
「宮本常一著作集別集2」なのです。

これを一回読んで終わりにするのは
もったいない(笑)。
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永六輔と宮本常一。

2016-07-21 | 地域
7月17日(日曜日)の
午後1時50分~2時の間
テレビでNHKアーカイブスを録画しておきました。
それを見直しておりました。
「追悼・永六輔さん特集・・・」

その最後の方に、
民俗学者・宮本常一の言葉を
ご自身が語っておられました。

そこを引用してみます。

「日本中どこへでも足を運び。
出会いを大切にする。
そして地域に目を向けづづける。
恩師の民俗学者・宮本常一に教えられた言葉でした。

スタジオで物を考えるなよ。と言われたんですね。
ラジオは電波だ。
電波はどんなところへも飛んでゆく。
君もどんなところでも飛んでいって、
電波が届いている先がどうなっているか
っていうことを見聞きしなさい。
話しを聞きなさい。
とどいている先を。
それを持って帰って
スタジオで話をする。」


この夏。
私が読もうとしている宮本常一は
永六輔さんに、そう語る人なのですね。
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夏に海のそよ風が吹いてくるような。

2016-07-20 | 本棚並べ
多田道太郎氏の
司馬遼太郎追悼文が印象に残っておりました。

その中に、テグスの話が出てきておりました。
そこを引用。

「それから、釣り糸のことをテグスと言いますが、
これも、福建省でクスノキに大きなイモムシがつくんです。
ヤママユ、天蚕という蛾の幼虫ですが、それが出す糸を
天蚕糸と言います。その福建省の音がテグスです。
・・・
ところで、このテグスという糸の漁業利用法は
中国には存在しないんです。西洋にもなかった。
なぜなら、中国では漁民は中国人の中に入らないからです。
あるいは人間の中に入らないと言ってもいいかもしれない。
海というのは遠いところのもの、価値の非常に低いものなんです。
我々は漁民の末裔みたいなところがあります。
・・・つまり、日本は海の民で、しかもある程度の
ある質の現代文明を持っている、世界でも珍しい地域なんですが、
そのため、中国で生薬を梱包するひもに使われていたテグスを
漁業に使ったわけです。中国の文化が日本に来て、
不思議な変化をとげた。このように文化を変えるところに
土着のもののよさがある。これは文化変容の学と呼んで
いいものと思いますが、歴史学にも地理学にも関係するものです。
ところが、歴史学者は地理のことをやらず、地理学者は
歴史のことをやらないという、ヨーロッパの学問の伝統を
明治以後受け継いだために、どちらも大変片寄った
学問になってしまいました。
明治末年、いっとき、10年ぐらい、歴史地理学という
学問ができて脚光を浴びたことがあります。
それをやったのは吉田東伍という人ですが、
司馬遼太郎はそれ以来です。
その意味で単なる文人とはいえない。文人学者ともいうべき、
不思議な系譜の仕事をここ20年はど、『街道をゆく』で
続けてこられたと思います。」


うん。引用が長すぎましたか?
ここに、テグスが登場していたのでした。

最近、河出書房新社の道の手帖の一冊「宮本常一」を
古本で購入してパラパラとひらいておりました。
そこに、特別対談「旅する民俗学者」と題して
佐野眞一氏と谷川健一氏が対談をしておりました。
そこから引用。

谷川】 そうですね。筑摩書房の『海を開いた人々』を
『風土記日本』をやるちょっと前に手に入れまして、
小学生向けに書いた本ですが、それを半日
抜書きしたんですが、実に楽しかったですね。
夏に海のそよ風が吹いてくるような楽しさがありました。
釣り糸のテグス、あれは中国から来ているんですね。
中国から送ってきた薬品の箱を巻くひもをテグスに使って、
あれが透明なものだから魚には見えなくて、
それで釣れ高が増えたということですが、
あの見方というのは本当に唯物的な見方だと思います。
そういう発想がすぐ社会に結びつけたがるコミュニズムの
人にはないんですよね。あれは本当に感動しました。


ここに、
「夏に海のそよ風が吹いてくるような楽しさ」
とあります。さっそく古本の文庫で「海を開いた人々」を
注文することにします(笑)。

それまで、関連しそうな蔵書をひっくり返すことに(笑)。

たとえば山野博史著「発掘司馬遼太郎」(文藝春秋)は
楽しく読んだ覚えがありましたので、あらためてひらく。

そのあとがきから引用。

「人生のほぼ半分にあたる文筆活動において、
仁王立ちをつらぬいていたかに見える司馬遼太郎ほど、
ひとりぼっちの悲哀をかみしめていた文士も珍しいのでは
ないか。だとすれば、その執筆活動を奥深いところで
支えていたものはなんであったのか。
つかずはなれず、そこはかとなくよろこばしげな
つきあいを大切にしたひとびととの精神の往還を点綴する
ことに関心を集中してみると、司馬遼太郎の重要な
一側面のあぶりだしに成功するのではないか。」

こうして海音寺潮五郎から田辺聖子さんまでの12章を
構成している「発掘司馬遼太郎」という本でした。
そこには宮本常一氏は残念登場してはおりませんでした。

もどってKAWADE道の手帖「宮本常一」をめくっていると
司馬遼太郎の「『宮本学』と私」と題した文があるのでした。

そのエッセイのはじまりは

「私事からいうと、私自身、宮本学に親しんだのは、
よほど古いつもりでいる。ただし、先生の文章を通してで、
面識を得たのは、先生の晩年になってからである。」

つぎには、こんな箇所

「昭和20年代のなかごろ、
日本共産党に山村工作という運動があって、
京都の学生がよく八瀬あたりの農村に出かけてゆく
のを見た。そのころ、『工作』にあたっている学生
たちが、日本の農村について観念的にしか知らず、
その概念も、中国共産党が農村をとらえきった
先例をごく無造作にふまえているだけのように
思われて、おどろいたことがある。
――せめて、宮本常一先生の文章でも読んだほうが
いいのではないか。と知りあいの学生に
言ってみたことがあるが、むろん、一笑に付された。」


この司馬さんのエッセイの最後も引用。

「人の世には、まず住民がいた。
つまり生産の中心とした人間の暮らしが最初にあって、
さまざまな形態の国家はあとからきた。
忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。
国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは
変らなかった。そのしんこそ
『日本』というものであったろう。
そのレベルの『日本』だけが、
世界中のどの一角にいるひとびととも、
じかに心を結びうるものであった。

そのしんが半ば以上ほろび、
あたらしいしんが
まだ芽生えぬままに、
日本社会という人間の棲む箱は、
こんにち混乱をつづけている。
しんは半ば亡んだが、
しかし宮本学は私どもに遺された。
それだけでも望外な幸運として、
私どもはよろこばねばならない。」


佐野眞一著「旅する巨人」(文藝春秋)にも
司馬遼太郎が登場する場面がありました。

「宮本と司馬は、
佐渡での宮本の常宿となっていた小木の称光寺で、
住職の林道明をまじえ、お互いがファンという
一遍について語り明かすような仲だった。
司馬はたずねてきた村崎(修二)に
今西さんと宮本さんか、
キミもすごい人にみこまれたもんやなあ、
日本の本当の学問はそのお二人の間にしか
あらへんのやで、といったあと・・・
こんな話をはじめた。
小説家というもんは細部にこだわるもんや、
大村益次郎が豆腐好きだったということは
誰でも知っとる。けれど、益次郎が
どんな着物を着て、どんなハシを使って
豆腐を食べていたかは誰も知らん。
とはいっても、いいかげんに書くことはできん。
それを全部知っとるのが、宮本常一という人や。
あの人はホンマに恐ろしい人や・・・。
宮本が戦前歩いてきた世界は、
着物やハシなどの日常品は幕末とあまり変わらない
世界だった。司馬が宮本常一という人は
ホンマに恐ろしいといった意味は、
そのことを指していた。」(p342~343)


ハイ。
「夏に海のそよ風が吹いてくるような」
そんな、今年の夏の読書が出来ますように(笑)。
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神輿渡御の夜。

2016-07-18 | 地域
今年の地区の神輿は7月16日でした。
その日の午前中は、神輿の組み立て。
午後に神輿の渡御。
ちなみに、私は交通当番(笑)。

はーい。トラックが後ろから来るよ。
なんて声をかけながら神輿の脇におりました。

夜になって神社にもどり、
午前中は神主が御魂を神輿に収め。
夜になって、神輿が神社にもどると
神主が御魂をもどしました。

午前中は大人だけだったのですが、
夜は、子供もいて、
神社の境内もにぎやかでした。

神社の中で、総代やら神主が
行事をおこなっている間、
境内では、がやがやとにぎやかで
神社内の行事が終わるのを皆で待ちます。

そういえば、と
今年思い浮かんだのは、
宮本常一著「絵巻物に見る日本庶民生活誌」
の一節でした。

帰ってから、その箇所を読み直しました(笑)。

では、引用。

「民衆を点景として描いた絵巻物には
共通してその明るさと天衣無縫さが見られる。
民衆は公家社会の秩序の外にあるものであり、
度はずれた無法でないかぎり、そして
公家社会の秩序を乱しさえしなければ、
どこで何をしてもよかったのである。
『年中行事絵巻』を見ると、宮廷の行事の
行なわれているとき、民衆は庭前や軒下にたむろし、
時には焚火して話しあっている。
門を守る衛士たちも、そうした民衆が宮廷の城内に
はいることをとがめだてはしなかったようである。」(p8)

そういえば、神輿をかつぐ若い衆は
休憩場所の駐車場などでは、
すぐに、コンクリ―の地面にあぐらをかいておりました。

「・・・・
土下座というと、きわめてみじめな姿を想像するけれど、
どこにでも坐るということは、それほど生活が自由闊達で
あったといってよかったかと思う。
身分の高い公家でないかぎり、
地下人といわれる者はほとんど大地の上に坐り、
また腰をおろしている。
京都付近は土質が砂壌土で、土の上に坐っても
着物がそれほどよごれなかったためかもしれないが、
大地にあぐらをかいてこそ人びとは
ある安心感を持つことができたのではなかろうか。
そのような姿勢は伝統として京都地方には長く残っていた。
今日、三条のあたりから加茂川に沿うて上流へ歩いてみると、
ベンチがほとんどおいてなく、人びとはみな草のあるところに
坐って休んでいる。地面に坐ると空缶などもそこに
捨てていくことは少なくて、
下加茂のあたりの河原を歩いても清潔感があふれている。
土下座をあたりまえと思う世界にはそれなりのマナーが
あったのである。・・・」(p9)

次の日の17日には、夕方隣の地区の山車が廻ってきました。
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ひぐらし。

2016-07-14 | 地域
13日にひぐらしを聞く。
今日も夕方、ひぐらしが聞こえる。

ハイビスカスの鉢植えを
近くの高校で売りにきて
購入してあったのですが、
蕾から花が開き、
一日でオシベとメシベを
出した格好で花弁を閉じる。
その鉢をテレビ脇において
眺めております。

左足の膝関節部が痛む感じ。
椅子に座っていると、
その痛みが気になる。
かえって立っている方がよい。

16日に神輿。
私は交通係。

日本絵巻大成8の
年中行事絵巻に神輿の箇所があり、
あらためて開く。

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夏の読書。

2016-07-12 | 古典
今年の夏は、
宮本常一です(笑)。

うん。
以前には、「忘れられた日本人」を読んでいた。
佐野眞一著「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」も
初版でもっていた。

でも、いったい、私は何をしていたのか(笑)。
今年の夏は、宮本常一。
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こういう優れた紀行文を読むことで。

2016-07-07 | 本棚並べ
宮本常一著「野田泉光院 旅人たちの歴史1」(未来社)
読了(笑)。
愉しく発見がある読書でした。

この一箇所を引用。

「やはりこれは生活や技術の問題になるのですが、
文化というものを見て行く場合に、幅広くそういう
ことに気をつけて見ていただきますと、
今まで見落とされているいろんな問題が解決つく。
今まで解ったように思いながら、実は私なんか、
そういうことがみんなわからなくてね。なぜだろう、
なぜだろうと思い続けておったことがたくさんあるんです。
それが藩の記録や庄屋文書には出てこないで、
こういう優れた紀行文を読むことで、いくつも不明な所を
明らかにするきっかけをつかむことができるんです。
ただ非常に記事が短いものだから、見落すんですけれど、
これは皆さんが旅をしておって、旅の中の疑問と、
こういうものとがうまくぶつかり合った時に
解決の糸口が出てくるんだと思うんです。
私はこの修行日記を読み出して、
さかんにこの書物を激賞しますけれど、
他の紀行文の中には、これがないんです。
なにゆえこれが泉光院のものの中に出てくるのかというと、
泉光院が自分で金を払って宿へ泊まるってことがなかった
ということだろうと思うんです。
頭を下げて泊めてもらわなきゃ泊まれない旅をしておった
こと、それが人の生活を裏側から見て行く機会を与えた
ってことにあるのじゃないかと思う。
文章は非常に短くっても、実に的確に大事な問題を
おさえておった。これはこの人のえらさにあると思う。
と、もう一つは、さっきいったように、
この人はどう見てもわれわれの考えられないような
旅を平気でやっているんですね。行きつ戻りつですね。
これは一見すると無駄なようだが、その中から
これだけ的確にものをつかめる旅が生まれて来た
んだろうと思う。
なにか折りがあれば、これだけ切り離して、
一冊にして単行本で出す。そして、これにつけられている
註ではなくて、今いったような註をつけて皆が
読める機会を作ったら、私は菅江真澄なんかより
はるかにレベルの高い資料のように思うんです。」
(p201~202)

うん。読めてよかった。感謝したくなります。
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すぐれた紀行文。

2016-07-02 | 古典
宮本常一著「旅人たちの歴史1 野田泉光院」(未来社)。
そのはじまりは「江戸の旅人たち」という
6ページほどの文でした。

はい。私の読書は遅々としてます(笑)

「芭蕉以前の日本の紀行文というのは、
およそおもしろくない。なぜかというと、
紀行文が文学として扱われているから
きれいごとに終ってしまう。
きれいごとというのは、そこに嘘が入るんです。
・・・そういう紀行文は本来ノンフィクションで
なければならないのに嘘が入って来る。
日本のものは、ほとんどがそうなんです。」(p10)

そして、最後には
「一遍聖絵」が登場しておりました。

「それから、紀行文は残さなかったが
死んだ後にその足跡を追ってまとめた『一遍聖絵』。
これは一遍上人が歩いた後を弟の聖戒が、
一遍がどんなに歩いたか、旅先で何をしたかを
見るために、円伊という絵師を連れて、
兄が死んで10年ほど経った後、
一遍の歩いた道を歩いて、舞台をちゃんと決定して、
そこにある建物などは、そっくりそのまま写生をして、
そこに兄が布教をした姿を描いたものです。
これは紀行文と見てよいと思うのです。
他のもののように作りごとではなくなって、
そういう場がそこにあったと見てよいと思う。
そういう点では、絵が描かれていることで、
これを紀行文の中に入れるなら、
これに過ぎるすぐれた紀行文はないわけです。
というのは、絵そのものが見事な写実で
描かれているんです。
日本の絵は写実が少ないのだが、
この絵だけはどの部分をとっても、
そのまま今日の学問の資料になるほど正確なのです。」


さあ、これからゆっくりですが、
読みはじめます。

数日前に、貰った鶏頭が
テレビの脇の花瓶に挿してあります。
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郷里へ帰るごとに。

2016-07-01 | 地域
森銑三・柴田宵曲「書物」(岩波文庫)に
「書巻の気」(p211~213)という箇所がありました。

「新刊書の売行きがよいということは慶賀すべき現象
としてよかろうが、それにしては書巻の気を有する人
がどの方面にも少な過ぎる。郷里へ帰るごとに訪問し
ていた人が減って、読書家の種子がだんだん田舎にも
絶えて行く。それが嘆かわしく思われる。・・・
私等としては、書物そのものに特別の趣味と愛著とを
有する人が存外少ないのではないかとも思われる。
書物に親しむことが楽しいのと同時に、
書物に親しんでいる人と語るのもまた楽しいことである。
その書物に親しんでいる人というのが容易には得がたい
のだから淋しい。」

この文庫解説は中村真一郎。
そこに

「この『書物』について書かれた、珍しい書物は、
まず昭和19年(1944年)3月に、柏揚社から刊行され、
昭和23年(1948年)1月に、同社から補定された新版が
刊行された。・・・」

うん。「容易に得がたい」をネットで
解消しているのが現在なのでしょうか?
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