和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

お求めあれ。

2011-02-28 | Weblog
ネット古本の「ふるほん 上海ラヂオ」に
「丸谷才一と17人の90年代ジャーナリズム大批判」を注文。
今日届きました。200円+送料80円。
受信トレイにあった「上海ラヂオ新着情報」から選びました。
この本持っていなかったので、つい。

その280円の古本の最初にある丸谷さんの口上。

「『東京人』の座談会で自社のものが取上げられると、そのコピーがじつにたくさん社内に配られるんだそうです。どんな大会社でもさうらしい。あれが困るんだなあ。コピーを取るのはやめて、『東京人』を買つてくれよ。本になつてからもさうです。一人が買つて、あとは自社のところだけコピーなんてケチな真似はしないで、めいめい一冊づつ買つたらどうだ。いや、乱暴な口調はいけない。お願ひします。お求めあれ。・・・・」


さてっと。
雑誌WILL4月号が出ております。そこに独占手記。
「一色正春・元海上保安官が尖閣ビデオを徹底分析」。
次に田母神俊雄・一色正春緊急対談。

それを読んで、
ネット検索すると、
一色正春著「何かのために sengoku38の告白」(朝日新聞出版)が、もう出版されておりました。ということで「お求めあれ」。

一色正春氏の経歴が掲載されておりました。

「1967年京都市生まれ。国立富山商船高等専門学校卒業。民間商船会社勤務中、オイルタンカーやLPGタンカーに乗船し東南アジア、ペルシャ湾、北米、ヨーロッパ、アフリカ航路に従事する。その後、民間金融会社、広告業を経て、1998年より海上保安庁勤務。2004年韓国語語学研修終了、以降、国際捜査官として勤務。2007年放送大学校卒業。2010年12月退官。在任中、長官表彰3回、本部長表彰4回受賞。」

「お求めあれ」
私も、今度買う本に入れておきます。
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名セリフ。

2011-02-27 | 手紙
新刊の竹内政明著「名セリフどろぼう」(文春新書)。
う~ん。この新書を一言で紹介するなら、2011年版「お楽しみはこれからだ」(笑)。
この新書では、テレビドラマのセリフをすくい上げております。
「テレビドラマのセリフも命は短い」。
あとがきには
「心に残るセリフを一つひとつ丁寧に布でぬぐい、手製の宝石箱に並べてみたい。そんな思いから、この1冊を編んだ。・・・ひとさまが心血をそそいで編み出した言葉に寄りかかり、余談と蛇足を継ぎ足してエッセイを僭称するのは・・・二冊目である。」(p206~207)

二冊目なので、肩の荷がおりた感じで書いております。前作「名文どろぼう」より、私は気楽に入り込めました。ちなみに、あいうえお順の目次となっており、最初の「あ」が挨拶で、「ん」があとがき。

今ぱらぱらと読んでいるところなので、最初の「あ」だけ紹介しときます(笑)。
一項目が4頁。余談と蛇足がひかります。
最初の1ページをつかって倉本聰『前略おふくろ様』から9行の会話。
一行づつの短いやりとりを引用しておりました。
つぎのページから、竹内政明氏の料理。
料理の素材は、野村克也著「野村ノート」(小学館)
谷沢永一著「文豪たちの大喧嘩」(新潮社)
村山吉廣著「評伝・中島敦」(中央公論新社)
この3冊から適宜素材をもってきて組み合せての3ページ。
年賀状・手紙の返事という内容なのです、
私、そこからはじめることに、まず感心しちゃいました。

すこし引用しましょ。

「評論家、谷沢永一さんの『文豪たちの大喧嘩』によれば、荻生徂徠は若いころ、尊敬する伊藤仁斎に教えを乞う書簡を出した。返事が来なかったので、仁斎を一生憎み通したという。大儒学者にして、かくのごとし。たかが手紙一本、年賀状ひとつと片づけられないところが人交わりのむずかしさである。」

「『山月記』などで知られる作家、中島敦もかなりの筆不精だったらしい。旧制一高に通っていたとき、両親は満州にいたので、敦は東京・本郷にひとり下宿していた。わが子を不憫に思ってだろう、満州からは季節季節に衣類やら何やら、心のこもった小包が届く。敦はいつも返事を書かない。たまりかねてか父親が小包に手紙を添え、『これからは必ず、荷物が着いたかどうかを知らせろ』と叱りつけてきた。
ある日、一高の友人が敦の下宿を訪ねると、投函するつもりの葉書が机の上に置いてあり、文面にはただ一文字『着』と大きく書かれてあった。この返事のために父親からいっそう厳しく叱られた・・・」


う~ん。手紙の返事を書かなかった例を出してくるという余談が、何より返事を書かない私の肩の荷をおろさせ、しかも書かなければいけないと思わせる(笑)。
「前略おふくろ様」のセリフは、え~と、読んでのお楽しみ。
名コラムニストによる、これからはじまるお楽しみ。
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漢詩の豊か。

2011-02-26 | 詩歌
場当たり読書をしていると、ふいに、それがつながるときがあったりして、よろこびを感じるのでした。

たとえば、橘曙覧と漢詩というテーマなどは、ぞくぞくします。
山口仲美著「日本語の古典」(岩波新書)で古典ということを思い。
平凡社「漢詩を読む」1・2で、漢詩のことを思い。
一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)で、史記へと興味がひろがり。
さて、それでは日本の古典である橘曙覧と漢詩がつながっていれば、
これはこれで、読書の彷徨には、もってこい。好都合です。
それがつながっていれば、こそ再読のたのしみが増えるというもの。

ありました。ありました。
その補助線となる言葉。

窪田空穂全集10巻「古典文学論Ⅱ」の橘曙覧に関する箇所でした。
以下その引用。

「『橘曙覧全集』の中には、彼の随筆も収めてある。分量としては多くはないが、内容としては貧しいものではない。その中の歌話の一則に、歌をして漢詩に劣らない物にしなくてはならないといふことを、熱意をもつて言つてゐるものがある。彼のそれを言つてゐるのは、漢詩にはさまざまの風体があつて、内容も複雑であるが、歌は単調で、変化がない。内容も単純に過ぎると、嘆息をもつて言つてゐるのである。事実、彼の歌には、漢詩の影響が濃厚で、これは新古今などの比ではない。そしてその傾向は、晩年になる程その度を高めて来てゐる。明治時代となつても、その初期においては、漢詩と和歌とは社会的地位は比較にはならなかつた。無論漢詩の方が遥かに高いものと思はれてゐた。まして徳川時代にあつては、その差は一層に甚しく、殊に地方にあつては更に甚しいものであつたであらう。それに困つたことには、彼自身もその性分として、漢詩の面白みは十分に理解してゐたものと思はれる。しかし結局、彼は何よりも歌が好きであつたので、歌をもつて漢詩に打克ち得るもの、よりよき物としなければ虫が納まらなかつたと見える。それには積極的に、敵の武器を奪つて我が武器とし、それを揮つて敵を倒すより外には法はない。彼はそれをしたのである。万葉の強さ、新古今の複雑さも、思ふに彼の此の一念によつて捉へられたものではないかとも思はれる。
人に対しては思ひ切つて我儘だつた彼は、芸術的にも同じく主我的であつて、他のあらゆる美を面白いとは思ふものの、そのいづれにも屈服することが出来ず、その総てを我が部分として、それを踏み、その上に立たなければ承知が出来なかつたものと思はれる。」(p432~433)



うん、この言葉によって、「日本の古典」と「橘曙覧」と「漢詩」。さらには「史記」への眺望がひろがる高台に立てた。そういう気分です。
これで、一貫した流れとして、本を読めれば、これまた楽しみ(笑)。
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少女漫画「あとがき」。

2011-02-25 | 前書・後書。
内田樹氏の「私の身体は頭がいい」を読んだら、
きっかけがつかめたような感じがして、
つぎに開いたのが内田樹著「ためらいの倫理学」(角川文庫)。
その「まえがき」のはじまりは

「『ためらいの倫理学』は私の最初の単著であり、いわば『デビュー作』である。・・・この本に収録されたエッセイ類は、もとはインターネットのホームページに、せいぜい百人程度の『身内』の読者を想定して書いたものである。・・・」

うんうん。こういう始まりの本を読めるのはありがたいなあ。
それも、ネット上の書き込みというのだから、
この書き込みの土俵が、わかって理解を助けます。
そういえば、雑誌へ書くのと、ネット上での書き込みとでは、
やはり、書く気構えが違うんでしょうね(私しゃわからない)。
その違いがなんであるのか。
それを読めるのは、これまた愉しみ。

ということで、「まえがき」だけで私は満腹。
ということで、もうすこし「まえがき」を引用。

「そもそもTVが伝える『街の生の声』や、新聞投稿欄にひしめく投書や、ワイドショーの『おばさん・おじさん』コメンテーターの騒がしい毒舌は果たして『生活者の実感』を伝える肉声なのであろうか。私はいささか懐疑的である。それはむしろ『街の声』や『市井の人々の声』とはこのようなものであろうというメディアの期待にすり寄ってくる『作り声』なのではないか。・・・・いずれにせよ、『生活者のリアルな実感』というものがメディアの『定型への囲い込み』によって限りなく痩せ細っているのは事実である。それにもかかわらず、私たちは、そのようなステレオタイプ化された『生活者の声』を『世界の現実』に対置することにいくばくかの批評性があるかのような錯覚のうちにいまだに安んじている。」

「『生活者の実感』のステレオタイプにも、『専門的知見』のステレオタイプにも回収されない、『ふつうの人の、ふつうの生活実感』に基礎づけられた平明な批評の語法を私は見出したかったのである(たぶん)。」


う~ん。私はこの「まえがき」で、じゅうぶん満腹。
ということで、本文は読まずに(笑)。
「あとがき」へ。

「この本がちょっと変わっているのは、収録されたテクストのほとんどがウェブ・サイトで発表されたものだということである。私は大学の教師であり、ときどき学術誌に論文を発表するが、読んでくれる人はあまりいない(大学で出している紀要論文の場合『読者は五人』と言われている。『抜き刷り』というのを五十部ほどもらうが、送る相手はそれほどいないので、大半はそのまま部屋の隅で埃をかぶている)。・・・
最初は『身内』にだけ読んでもらうつもりで書いていたが、そのうち見知らぬ人々からも『面白く読んでます』というメールをいただくようになる。こういう『読者からの励ましのお便り』が作者の創作意欲を激しく刺激するということは、少女漫画の『あとがき』には必ず書いてあるが、これはほんとうである。」

うん。角川文庫には、単行本の際の附録として増田聡・山本浩二の文があり、さらには、文庫解説として高橋源一郎の「ずっとずっと待っていた」という文もあるのでした。その源一郎さんの解説には

「内田さんが『思想家』というカテゴリーに入るのかどうかわたしにはわからない。『思索家』という方が正確なのかもしれない。あるいは『思索コンサルタント』?『思索コーディネーター』?『思索療法師』?」(p370)

さてっと、本文は読まなくてもいいような満腹感(笑)。
今年は、あれも読むぞ、これも読むぞと、もう言ってしまっているので(もう何を読むんだったか忘れてます)、内田樹を読むぞとは言わないぞ。
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内田流話術の文。

2011-02-24 | 短文紹介
ということで、内田樹著「私の身体は頭がいい」(新曜社)を読みました。
内田氏の本は1冊だけしか読んでなかったのです。
それが「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)。
たしか雑誌に掲載されている時に拾い読みしていたと思います。
なんだか、魚がスイスイ岩を避けて泳いでいるようすを思い浮かべました。ちかごろ、こういう視点の書きぶりにお目に掛ったことがないので、そのときはあ然。いまは、こういう視点が社会から消えてしまったので、需要が高まっているのかもしれませんなあ。などと妙に納得。
さてっと、「私の身体は頭がいい」から、楽しい箇所を列挙。


「私には人に優れた身体能力もないし、不屈のガッツもない。運動神経はゼロだし、なにより人と勝ち負けを争うことが大嫌いである。」(p15)
とご自身の紹介。

ここは、最初の文「武運の人」ですから、もうすこし引用を重ねましょう。

「子どものころから武道に憧れていた。・・・」とはじまります。
中頃に
「25歳になったとき、当時下宿のあった自由が丘の街を歩いていて、部屋から五分ほどのところに古びた柔道場があり、そこで『合気道』という武道が教授されていることを知った。空手の稽古をやめて二年ほど何もしていなかったので、とにかくまた道衣が着たくてたまらなくなっていた。もう何でもよかった。だから、合気道の何であるかも知らずに私は迷わず扉を押し開き、多田宏先生(合気道九段・合気会師範・イタリア合気会最高師範)の直弟子となったのである。この出会いは、喩えていえば、初心者がゴルフを始めようと思い立って、とりあえず最寄りの練習場に行ったら、そこではタイガー・ウッズがボランティアでレッスン・プロをしていた、というような状況に近い。」(p15)

この喩えが、一冊を読ませるという、物語のはじまりの語りを思わせられるのでした。その物語については
「ご縁の人・甲野先生」という文に鮮やか。

「甲野先生は人も知る座談の名手である。とくに伝説的武術家の逸話を語るときの間(ま)の巧みさ・・・・ 『こんな話でよかったら、朝までしますよ』と先生は笑われるが、実は、こういう『逸話』を一節通して語るというのは、『ほんとうにたいせつなこと』を教える上で非常に効果的な『教育』方法なのである。ある概念が『何を意味するか』を初学者に教えようとしたら、ただそれを厳密に定義してみたり、別の言葉に言い換えてみても、ほとんど効果がない・・・。ある概念を『持っていない』人間に、その概念を『分からせる』ためには、『お話を一つ』しなければいけない。」(p30)

「いつまでも『消化されない』で身体の奥底にとどまるような『お話』、熟成するまでに長い歳月を要する『お話』が『ほんとうにたいせつなこと』を語るお話なのである。」(p31)

どうりで、本書にある
「非中枢的身体論」「木人花鳥 武道的身体論」という、多少論文的なのは、つまらないなあ。随筆風お話風が生き生き読めました。

そういう中で、「医療に出会う ・・・ナースのミッション」というインタビュー記事が本書に入っているのも、読めば納得の内田流話術なのでした。

また「あとがき」にもある、話術を最後にひとつ。

「稽古に行くために研究を放り出したことは何度もあるが、研究に打ち込んで稽古に行くのを忘れたことは一度もない。」(p210)

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極意にかぶれる。

2011-02-23 | 地域
2011年元旦の読売新聞に
内田樹が「能楽 中世への浮遊」という文が掲載されておりました。
1ページの上半分が「翁」の稽古風景。
下半分の3分の1の内田氏の文、その下はシネマの広告。
まあ、そのくらいの文なのですが、ちょいと引用。

「・・・武道を長く稽古しているうちに、武道的な身体運用を日常動作で行っていたはずの中世の日本人がどんなふうに身体を使っていたのか、それが知りたくて能楽を学ぶことにしたのである。遠い昔の人の身体の使い方を学ぶのは外国語を学ぶことに似ている。外国語を学ぶためには、自分のものとは違う世界像の中に身を置き、違う度量衡で価値を考量し、違う美意識に基づいて風景や人事を記述しなければならない。そこに見えるのは、私たちが見知った世界とは違う世界である。・・・」

ふ~ん。
というので、筑摩選書の内田樹著「武道的思考」を買ったのでした。
すると、「まえがき」に
「・・・武道論をまとめるのはこれで二度目で、前に『私の身体は頭がいい』(2003年新曜社/2007年文春文庫)という本を上梓しています。本書はそれ以後に書かれたものを中心に・・・」とあります。

それじゃあ。
というので「武道的思考」を読むのはヤメにして、
というか、まだ読まずに(笑)。
古本屋へと「私の身体は頭がいい」を注文。
まあ、その古本を今日パラパラとひらいたわけです。
うん。読んでなくて、ただひらいただけ。
たとえば、
「木人花鳥 武道的身体論」は、こうはじまっておりました。



「武道の修行者はあまり伝書の類を読まないほうがいい、
と合気道の師である多田宏先生に注意されたことがある。
初心者が伝書を読み耽って、満足に基本の技術も身に付かないうちに悟り澄ましたようなことを揚言するのを、『極意にかぶれる』と言って武道家は嫌うのである。」(新曜社p108)


うん。本を読んで、それを書く
私はいつも『極意にかぶれる』者でござる。
きっと、毎日ブログを更新していると、
それすら忘れるのだろうなあ。
そういえば、昨年など、それを思うと、
毎日更新が阻まれたのでした。
うん。今年は、そうは考えないようにしよう。

ちなみに、古本の内田樹著「私の身体は頭がいい」(新曜社)は
京都の竹岡書店で購入。
線引き本で500円。プラス送料290円。
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湯島聖堂。

2011-02-22 | 地域
本をめくっていて、
ああ、行ってみたいなあ、
という場所が、ときどきあります。
まあ、とりあえず、行けそうな場所なんですが。
以前に、静岡にある秋野不矩美術館に行きたいなあと
思っておりまして、行ったことがあります。
絵もそうですが、美術館自体も見てみたかったのでした。

こんかいも、行きたいなあという場所があります。
「『史記』と日本人」で安野光雅氏が余談として語っておりました。

安野】 余談だけど、雑誌社のアンケートで『東京で一番気が休まる場所はどこか』という回答に、私は湯島聖堂を挙げました。別に信仰しているわけじゃなくて、あそこは都会の喧騒からぽこっと離れたとんでもない世界というか、まさにエアポケットなんです。
半藤】 ああ、まったく下界とは違う雰囲気ですね。
安藤】 用事もないから行く人も少ないし、ちょろちょろっと草が生えて、木の間からぱぁっと漏れた光があたって、静かに蝉が鳴いていたり・・・・。東京にはまずそんな所はない。なんだか中国の田舎に来た感じがする、まるで漢詩の世界です。
        ( 平凡社「『史記』と日本人」p169~170 )


う~ん。湯島聖堂かあ。いつか、行ってみたいなあ。
案外、こういうところから、東京が一枚めくれたり。
と、そこへ行くまでの日々をカウントしはじめたり。

うん。まずは、史記を読んじゃったらネ(笑)。
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本届く。

2011-02-21 | Weblog
司馬遷「史記」全7巻+別巻(徳間書店・単行本・中国の思想第二期改定新版)が届く。
古本屋は書麓・高田書店。
足立区栗原とあります。
月報は、ほとんどないのですが、
5500円+送料600円=6100円
とりあえず、ぱらぱらと開いてみる。
ありがたい。本文はとてもきれい。

例言に
「段落ごとに小見出しをつけ、訳文の参考として、原文、読み下し文、訳注、寸評を付した」とあります。最初に現代語訳があるので、それだけ拾って読んでいけばよいようです。
別巻には、「史記」小事典がついているので、別巻だけで、ことわざ集みたいにして読める一冊となっておりました。別巻だけでも楽しめそうです。各巻の最初に解題がついていて、第七巻には司馬遷自伝も。

うん。これを買った直接の動機は
平凡社の新刊鼎談「『史記』と日本人」を読んだから。

その鼎談で取り上げられた気になる箇所を、ひろいながら
とりあえず、ぱらぱらと、思うのでした。
まあ、とりあえず、身近に置いときます。


今日は、もう一冊届きました。
野村俊の詩集「うどん送別会」(コールサック社)とあります。
著者の野村俊氏には、一度もお会いしたこともありませんが、
贈呈として、送ってくださいました。

以前に野村俊の詩集「四季の詩 あのねのワルツ」(文芸社)の
感想を書き込みしたことがあります。
それを覚えてくださってのことかと、思います。
感想は書いとくものですね。
でも、今回は書けるかどうか。
前回の「あのねのワルツ」は素敵でした。
私のなかで鮮やかな印象が残っております。
思うのですが、詩集というのは、
果物のような気がします。
メロンやマンゴウみたいに、
食べ頃があるのじゃないか。
それにあわせて、読めますように。
ということで、とりあえず、身近に置いときます。
そういうわけで、机の周りに、また本が(笑)。

じつは、今日21日は視察というバス旅行。
たのしかったのですが、なんだか座ってばかりいたせいか疲れたなあ。




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ブログ更新。

2011-02-21 | 短文紹介
今年は、毎日ブログを更新するぞ。
と思って、とにかくも三日坊主にならずに、
つぎは、三か月が目標。
でもね、一年は長いからなあ。
と、あれこれ方策を考えるようになったのは、
ひとえに、つづけることを念頭においたため。
すると、なにげない言葉が目につくのでした。
ということで、
内田樹氏のブログ2011年2月16日。
そのはじまりの箇所

「長いことブログを更新していない。
『演説』のネタがなくなったわけではなくて、ブログの更新は時間が決まっていて、朝起きてから仕事に出かけるまでの隙間に書くのだが、その時間が取れなかったのである。
朝起きてそのまま仕事に出かけないと間に合わないか、朝起きてから郵便物に目をとしてメールに返信しているだけでタイムアップという日々が二週間ほど続いたせいである。
ブログの更新は私にとって『できごと』の意味をゆっくり時間をかけて吟味するたいせつなプロセスであるので、これができないとほんとうに人生が「薄っぺら」なものになったような気がしてくる。」

うん。私はといえば、薄っぺらな人生の一枚一枚に、書き込みをはじめたばかり。
それにしても、こうして毎日更新できる環境に感謝して、
今年は、毎日ブログを更新するぞ。
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芭蕉直筆?

2011-02-20 | 他生の縁
探し物をしていて、当のものが見つからないのに、それ以前に探していたものが、ひょいと見つかる。このことをセレンディピティと教わったのでした(笑)。
さてっと、新聞の切抜きは、いざ探そうとしても見つからず。たいていは切り抜く自己満足で、時がたてば、捨てたと同然とあいなります。
でもね。それが出てくれば、うれしさ人一倍。
昨夜は、その人一倍をコタツであれこれ味わっておりました。
それは、「芭蕉直筆奥の細道」に関しての記事。

朝日新聞平成8(1996)年12月1日の「ひと」欄に
「奥の細道」自筆本を所蔵していた古書店主・中尾堅一郎氏のインタビュー記事。
朝日新聞の次の日夕刊には「芭蕉『真筆』貫く爽快さ」と題して
上野洋三氏の文。
毎日新聞の同じ日の夕刊には櫻井武次郎氏「出現した『おくの細道』」という文。

私は、この記事を切り抜いて、それから、つぎに出版された
岩波書店「芭蕉自筆奥の細道」(1997年)を購入したのでした。
ちなみに、新刊の値段は3296円。現在、ネットの古本屋で調べると
その半額ぐらいが相場のようです。その本の解説にも
櫻井武次郎・上野洋三のお二人が一人15~19ページをついやして経緯を説明しておりました。

さてっと、学者に対しては、学者同士では、あんまり名指しでの反論はご法度のようなのであります。というのも、谷沢永一氏の言葉に、こんな箇所があるのでした。

「僕の本には、僕の人生のドラマの登場人物が、全部、実名で出てきますが、それは他の人の本にはあんまり見ないことです。それは、軍隊で、『塹壕のなかでのことはいっさい、出てから言うな』というルールがある。同じように、学内のそういうことは、いっさい外に言わない。僕だけが、例外なんです。僕は、いわゆる学者街道から外れて、もの書きになりましたから、そこで自由に書けるわけです。いわゆる学者の世界にずっと僕がおれば、これは書けないですよ。いわんや、自分の学位が却下されたというようなことを書いた人は、明治以来、ひとりもありません。却下された例は、いくらでもあるはずですけれども、しかしそれはもう、絶対に表に出ません。・・・」(「運を引き寄せる十の心得」ベスト新書・p114)

なぜ、谷沢永一かといいますと、
谷沢永一著「完本 巻末御免」(PHP研究所)に
2回にわたって、この「芭蕉の自筆本」についてが取り上げられていたからなのでした。
ちなみに、巻末御免は月刊雑誌Voiceの連載で、その平成9年7月号と8月号につづけて取り上げられていたのでした。

さてっと、どこから引用していきましょう(笑)。
たとえば、谷沢氏のこんな箇所はどうでしょう。

「新出本を新聞が報じるに至る前夜、某紙から感想を求められた私は、全面否定の見解を語ったため、既に自筆本であると謳いあげる方向に走ると決めている編集方針に反するので、私の推論は握り潰された。ただ一紙『日本経済新聞』だけが原信夫による懐疑的論評(コメント)をも掲げた、その慎重な姿勢が記憶に残る。我が国の新聞はどうしてこれ程までに揃って軽率に一方的な速断に走るのであろうか。」(p182)

谷沢氏のコメントが新聞に載れば、新刊など買わなかったのに(プンプン)。
なんとも困った新聞社があるものです。

さてっと、つぎは、どこから引用しましょう。
上野洋三氏の夕刊の文にします。

「・・・筆者はこの一年余、もっぱら筆蹟(ひっせき)判定の上から本点の調査にあたり、最終的に99%の確率で芭蕉の真筆と結論を出した・・・」

途中を端折っていきます。

「とりわけ『芭蕉全図譜』は、作品、書簡、俳書につき、その時点で存在を確認できた476点を収載して、これを年代順に配列したものであり、その成果は、正確に現在の芭蕉研究の状況を示したものであった。・・・・現在、芭蕉の書いた文字を眺めるわたくしたちの眼力は、この数年間の以上のような急激なレベルアップの中にある。以前ならば、誰もが尻ごみして判定の場で口を濁していたようなものでも、ただちに意見が飛び交い、議論が始まり、結論に傾いてゆく。・・・・」

おいおい政治の議論みたいに語っている箇所です。
ここで、芭蕉の書き癖を、上野洋三氏はとりあげていくのですが、
ここで、また谷沢永一氏の文へともどりましょう。

「果せる哉その道の専門家によって、実証的な検討が開始された(『日本古書通信』5月)。口火を切った増田孝は『日本近世書跡成立史の研究』(文献出版)本文六百余頁別冊史料図録百三十余頁の著者である。書の黎明期から幕末維新期に至る書跡の真偽を永年にわたって凝視してきた綿密な吟味の結晶であり、その慎重と控え目な筆致は清爽の気が漲っている。」

「『芭蕉の書き癖』という、本来なら容易に断定できない筈の重要問題が、いとも安直に公理の如く振り廻されてきたが、この粗忽な態度は真贋の見分け方を知らぬ者の一方的な思い込みに過ぎない。そもそも『似せ物』を作ろうとする者が最も意識的に真似ようと努めるのが書き癖であるのだから、偽物は必ず書き癖が酷似する。故にもし芭蕉の書き癖なるものが明確に判明していると仮定しても、癖が同一であるからとて真物でるとは断定できない。鑑定に際しては、他人が真似ることのできる書き癖などという表層的な部分ではなく、書のかたちや線の質や筆脈などが書の上に看てとれる姿、つまり書風こそ吟味の核心となる。増田孝は新出本に用いられている草体の『は』を19箇所にわたって取り出し、比較検討を明示した結果、この本の筆者は自分本来の書を自然に書いているのではなく、何か別の書きものを写そうとしており、それが書体の一貫性を欠いた不安定な運筆の揺れとなって現われている実状を詳しく指摘した。そして権威あるかの如く利用されている『芭蕉全図譜』(岩波書店)は、実はどれが真物か判明しない擬似的な作品の無定見な寄せ蒐めに過ぎぬと見て、編者の無責任を嘆いている。」


ここらで、ちょっと話題をかえます。
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)では、中村幸彦と谷沢永一の関係が丁寧に書かれております。静かな大人という中村幸彦先生についての言及が心に残ります。
さて、また芭蕉の鑑定へともどって、その谷沢氏の文にもちらりと中村幸彦氏が登場しておりました。そこを引用。

「このような真偽の問題を判定する為には、単に俳諧の研究者というだけでは不十分であり、近世の書跡をよほど広く丹念に検討した経験豊富な人でなければならぬ。幸い打ってつけの候補者が少くとも二人いる。そのひとりは、嘗て小高敏郎が、博学宏識一世に鳴る中村博士、と賛嘆した中村幸彦である。もうひとりは、天理図書館の蒐書を司ること多年、真偽の鑑定に精魂を傾けた木村三四吾である。・・・」

「取材に訪れた記者に中村幸彦はこう答えた。いわく、私は芭蕉自筆の真偽を鑑定できるほどエライ学者ではありません。」

ちなみに、中村幸彦(1911~1988)
     谷沢永一(1929~ )
     櫻井武次郎(1939~2007)
     上野洋三(1943~ )


ついでに、中村幸彦氏がこう語ったのなら、
中村幸彦に、天理図書館で研究の際のコメントをいただいたという板坂元氏ならいったいどう語るのだろうと私は思うのでした。
その板坂氏のコメントと思しき箇所がありました。
ありました。

板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)は1998年に出たのでした。岩波書店の「芭蕉自筆奥の細道」は、その一年前の1997年に出ておりました。当然に板坂氏は、この経緯を御存知だったと思われます。
この「発想の智恵表現の智恵」の一番最後の文を引用しておきます。

「私たちが学生のころ、俳諧を勉強していて、芭蕉やら蕪村やらの真蹟というものを調べるとき、先輩から本物ばかりをたくさん見るようにとよくいわれた。芭蕉の書いたと称されるものは、おそらく99%はニセモノだろう。そのニセモノを見慣れるとカンが鈍ってしまう。絶対本物というのを、しょっちゅう見ていると、一目でパッと真偽がわかるようになる。骨董屋さんが小僧さんを訓練するとき、やはり本物ばかり見せて、目を肥えさせる、あれと同じことをやれねば、という注意だった。・・・・
多分に精神主義になるけれど、本物主義というものは、生活感覚として非常に大切なものだし、また、本来人間は、潔癖であるべきなのだ。」(p202)

この言葉で、板坂元氏は新書をしめくくっておられました。
あ。そうそう。 板坂元(1922~ )
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挿絵を覚えていて。

2011-02-19 | 短文紹介
関容子著「日本の鶯」(岩波現代文庫)に

「詩人には絵のうまい人が多くて、佐藤(春夫)も西脇(順三郎)も、ある時期は画家になろうかと思ったくらいのものでしょう。ボードレールやヴェルレーヌやジャン・コクトーも皆絵が上手だったし、逆に画家のマリー・ローランサンは詩もよくした人です。」(p127)


そういえば、詩人と画家との共通点はなんでしょう。
ということで、この引用。

「ある画家が『絵を描く秘訣は、何を描かないかを知ることだ』と言った。キャンバスの上に、あれもこれもと並べ立てるのではいけない。不要なものを切り捨てて、必要なものだけに絞ることが大事な要領なのだ。
このように仕事というものは『何をするか』よりも、『何をしないか』を決めることのほうが大事な場合が多い。文章を書くときも、実際に書くのは、全部の時間の10分の1であるということを目安に『しないこと』『できないこと』をハッキリ決めていくことが大事である。」(p119板坂元著「発想の智恵表現の智恵」)


詩人も、どちらかといえば言葉を削っていくような気がします。
ところで、平凡社の鼎談「『史記』と日本人」では、私は安野光雅さんの語りが印象にのこっております。ここでは安野光雅さんの画家の着眼点ということで鼎談からひろっておきます。

「修身はすべてを兼ねるんです。思い出すのは、修身の教科書に、紋付袴を着て山高帽を被った男と、行き倒れみたいに地べたに寝そべっている男の絵が描いてあったんです。昔、二人は同級生だったけれど、勉強をした人はこうなって、しなかった人はこうなる、という話で、『勉強をしましょう』という教訓となる。・・・司馬遼太郎さんにその話をしたら、『バカなことを言っちゃいけない、津和野みたいに教育熱心な土地ならともかく、大阪では決してそういうことは教えない』『と言うんです。でもあの頃は国定教科書だから、皆がそのはずだと反論したんだけど、実際問題としてはまあ司馬さんの言うほうがたぶん正しくて、論争すれば負けてしまう。・・・それで自信を失ったんだけど、私は挿絵を覚えていて、間違いなくあったと信じていました。それをただ一人信用してくれた弟が『よし、そんなに言われたのなら調べてくる』と教科書図書館へ行って調べたら、小学二年の修身の教科書に載っていたんです。』(p163~164)

おっと、脱線してゆくなあ。
つぎ引用

「マッターホルンに最初に登ったウィンパーという男がいて、自慢じゃないけど絵描きなんです(笑)。」(p213)

「現代は世知辛くなってきましたからね。アメリカでターシャ・テューダーという絵を描く女性の家に行ったことがあるのですが、悔しいくらいにきれいな、世界で一番の自然の中に住んでいるような人なんです。立派な家のあちこちに花を植えて、それも西洋庭園のような植え方ではなくて、まったく自然な植え方をしている。絵を描く人なので、『あなたは絵を描いてどうするんですか』と聞いた人がありましてね、すると彼女は答えたんです、『お金を儲けるのよ』(笑)。絵を描いて金を儲けると言ったのは、私とあの人ぐらいですよ。」(p114)

「余談になりますが、肖像画というのは通念として、写真がない場合、本人が生きていた時代のもっとも古いものが一番似ているという前提に立つほかないですね。いつも思うのは、それがどんどん古くなると、当てにならないのですが、似ていようがいまいが、ともかく一番古いものが原典で、あとはその真似をしているとしか言いようがない。」(p269)

ほかに彫刻家の佐藤忠良さんの話(p182・p235)とか、
「史記」の話でも、全身で語る安野光雅氏にとっては、しぜんと絵の話への言及があるのでした。それにしても、この鼎談で、安野さんの語りは鮮やかな余韻が残り、それはまるで、絵を観たような印象に近いのかもしれないなあ。などと思ってみたりするのでした。

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読むと乗っていく。

2011-02-18 | 短文紹介
安野光雅・半藤一利・中村愿の鼎談「『史記』と日本人」(平凡社)の、第二章「『遊侠列伝』『刺客列伝』」のなかで、安野さんが語っておりました。


「日本には侠客がいないのかという話で、ふと、中村哲さんの存在を思い出しました。アフガニスタンに行ってから25年ぐらいたち、一人減り、二人減りして、最近は一人になって残っていて、これからも帰らないと言っているんです。
アフガニスタンの状況の真相を伝えられるのはあの人しかいないのに、日本の代議士たちは彼を国会にまで呼んで話をさせながら、100パーセント聞く耳をもたない。中村さんは、それでも仕方がないと言ってやって来る。澤地久枝さんとの対談の本(「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る ―― アフガンとの約束」2010年)を読んで、やはりあの人は侠客だと思いました」(p108)

最後の安藤さんのあとがき「金もいらなきゃ名もいらぬ」にも中村さんのことが登場しておりました。さて、こういうとき、ネットの古本屋で「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」が、あったりすると、やっぱり買ってしまいます。
ということで、その本が届きました。


あとですね。

半藤】 今われわれが手軽に読める『史記』の訳に、岩波文庫と徳間文庫がある・・・

中村】 現代人には徳間の訳の方が、『史記』そのものに近づきやすいということでしょうが・・・・

安野】 ・・・ただ私は、徳間の訳し方はうまいと思いました。ふつう、原文をそのまま訳すとおかしくなるケースが多いけど、これは読むと乗っていくんです。

                以上(p68~69)

う~ん。ネットの古本屋で、今日になって、徳間書店の『史記』を注文。
うん。棒ほど願えば針ほどかなう。
全集を買って、一冊でも読むぞ。
掛け声かけ声。 
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皇居周辺の銭湯。

2011-02-17 | 地域
久繁哲之介著「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?」(ちくま新書)を読む。スラスラ読めました。

最後の方にこうあり、印象に残るのでした。

「東京皇居周辺の銭湯は数年前から、利用客が増えている。スーパー銭湯化したわけではない。なのに、なぜ顧客が倍近くも増えたのだろうか。その秘密は3つのキーワードで説明できる。ジョギングブーム、口コミ、同好の士による交流である。
増えた顧客のほとんどは、皇居周辺を走るランナーたちだ。皇居周辺はジョギングコースとして、以前から東京駅周辺に勤める者には利用されていた。ところが、東京マラソン開始以降は、電車に乗ってやって来るランナーが急増した。ランナーたちは『同好の士』とすぐに顔見しりになり、ジョギングサークルをつくるなど活発な交流が行われている。
ジョギングコースは、スポーツクラブではないので、更衣室もシャワーもない。もちろん、サロンや喫茶室など交流の場もない。このことに、電車に乗ってやって来るようになったランナーたちは内心、不満を感じていた。そんな折、顔見しりとなった以前から皇居周辺を走っていたランナーが、皇居周辺の銭湯を『更衣室とシャワーの代替施設』と位置づけて利用していることを教えてもらう。これを機にランナーの銭湯利用は急増し始めた。
皇居の周りを走ってから銭湯で汗を流して着替えた後、ランナーたちは周辺の飲食店で食事をする。そうした飲食店が『交流の場』と位置づけられて、ランナー同士の交流が促進する。・・・今ではすっかり定番になっている。」(p222~223)

その様子があざやかに浮ぶようだなあ。
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チッチッと笹鳴き。

2011-02-16 | 詩歌
関容子著「日本の鶯」について、書いておきます。

この本には堀口大學氏の「序」があります。
そこには、聞き書きは、月々の雑誌連載で15回。
連載を終了したのが昭和54年7月。
ちなみに、その昭和54(1979)年は堀口大學87歳。
2年後の昭和56(1981年)3月に、89歳で堀口氏は亡くなっております。
詩集「消えがての虹」(昭和53年)の「あとがき」にはこうあります。

「・・・昭和50年秋口以来、今日までに成った詩のうち、47篇を蒐めてこの集『消えがての虹』を編んでみました。昭和45年3月、筑摩書房発行の大冊『堀口大學全詩集』の後、同46年8月、同書房発行の『月かげの虹』、同49年12月、吾八プレスの『沖に立つ虹』、51年5月彌生書房からの『東天の虹』と、矢つぎ早に詩の集をお目にかけてきましたが、以前にはなかったこのあわただしさの理由は到って簡単、それまで久しく米塩の資としてはげんで来た翻訳の仕事に、年々365日のうち、360日をふり向け、残る5日ばかりを詩作に充てて来た半世紀不変のプログラムを、10年ほど前、思うところがあって、米塩の食をあきらめ、かすみを食(くら)って生きるのが運命(さだめ)の、詩生の本然に立ちかえり、年々365日のうち、360日を詩作に充て、残る5日を翻訳の業にふり向けるという、どんでん返しを実行に移したその結果が、以前には見られなかった、詩の量産をもたらしたという次第です。
粗製と濫造のご批判は、読者諸賢にお任せすると致し、当の僕としては、命の続く限りなお暫く、かすみを食(くら)って痩せながら、詩を吐き続けて行きたい所存でおります。・・・」

そうすると、
関容子さんが聞書きをする連載の「日本の鶯」の時期は
ちょうど、堀口氏が
「命の続く限りなお暫く、かすみを食って痩せながら、詩を吐き続けて行きたい」と書いたころと重なるようにして連載がはじまっていたことになります。

それなら、この丸谷才一氏が名づけたという題名の「日本の鶯」について、
私があらためて書いておくのも、まんざら無駄ではなさそうな気がしてきました。

さて、マリー・ローランサンの詩の訳「日本の鶯」は
「新編月下の一群」に入っているようです。それが1928年。
この年は堀口大學36歳。

その36歳の堀口訳「日本の鶯」は、こうでした。

  彼は御飯を食べる
  彼は歌を歌ふ
  彼は鳥です
  彼は勝手な気まぐれから
  わざとさびしい歌を歌ふ

それでは、87歳の堀口訳「日本の鶯」はというと、

  この鶯 餌(えさ)はお米です
  歌好きは生れつきです
  でもやはり小鳥です
  わがままな気紛れから
  わざとさびしく歌います


この87歳での新訳は、第9章「子供のときから作文が得意」に出てきます。
ちなみに、この新訳のすこし前の語りも、引用するに足りるのでした。


「 『しかし口語にせよ、文語にせよ、文学の楽しさはやはり文章の張りにあると思うのですけれど、近頃のものはどうも・・・』と少しお淋しそうに、ちょっぴり現代文学批判をなさった。

 ――― 僕は鶯が好きでね。ここ(葉山)でも近くの山から下りて来るのか、毎年12月に入るともう、チッチッという笹鳴きの声が聞こえますが、これが遅くとも2月までには高音を張ってアリアを歌い始めますよ。僕のベッドの枕に近いところに、お隣りの珊瑚樹の生垣があって、毎朝そこが鶯の第一声らしいのだが、葉山の人は朝が遅いから、これは僕のための優雅な目ざましという気がして仕方ない。王侯貴族になったようなぜいたくな気分ですよ。そこで、いつかの話に出たローランサンの『日本の鶯』ね。気になったので訳し直しました。・・・どう?昔は、字句にしがみついて、『この鶯 餌はお米・・・』と、上下をひっくり返すことを考えつかなかったのね。『彼は御飯を食べる・・・』なんて、そのまま訳していたわけだからね。」(岩波現代文庫・p216~218)


関容子著「日本の鶯」は、まだまだ読み足りないのですが、
そろそろ、本棚にしまう頃だろうなあ。
とりあえず、私の読書印象の賞味期限はこのくらい。
あ。そうそう。まだ長谷川郁夫著「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)を読んでおりません(笑)。

さてっと、
板坂元著「発想の智恵 表現の智恵」(PHP)に
こんな箇所あり。

「気が多いほうなので、私は普通の人より余計に本を買うのだが、買った本の中で、実際何か書くとき利用するのは10冊に1冊ぐらいしかない。よくいって2冊どまりだ。だからといって、使えるほうの1冊ばかりねらって本を買えばいいというわけではない。本というものは、買って手許に置いてみないと、使えるか使えないかわからないものだ。使える1冊を見出すまでには、およそ10冊の本を読む必要があるわけだ。・・・・」(p119)


ここに、「買って手許に置いてみないと」なんて、言葉があると困るんだよなあ。
ついつい買ってしまいたくなる。10冊も私は読まないのは分かっている癖して。


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余談鼎談史記雑談。

2011-02-15 | 古典
平凡社新刊。
鼎談本「『史記』と日本人」を読みました。

この鼎談、きちんと「史記」を料理してゆくわけでもなく。
たとえてみれば、「史記」というまな板の上で、様々な材料をもちよって、3人ワイワイと調理をはじめる。そんな1冊。全310ページ。その料理を順番に食べてゆけば、満腹で、一回ではとても読みとおせなくなります(笑)。
まずは、好きそうな所をめがけて拾い食いがお薦め。
べつに、3人ともが読者をはなから楽しませようなどと、思ってなどいないようで。近頃珍しく、ご自分が楽しくて楽しくてならないという語り。ですから、最後までつきあえば、あらためて3人の愉しみに飲み込まれる感があります。

さてっと、
カバー折返しの3人紹介は写真入り。80代が2人、安野光雅(1926年生れ)半藤一利(1930年)。60代が1人、中村愿(すなお)・1947年)。ちと考えてみればわかるのですが、安野さんも半藤さんも司馬遼太郎氏の謦咳(けいがい)に接しておられた。ですから余談へとかわる、その呼吸は、司馬さん直伝(うん、免許皆伝とまではいかないのでしょうが)。聞いてると浮んでくるのは、草原で焚火にあたりながら座談に打ち興じてでもいるような雰囲気。

それにしても、鼎談は、『史記』から「遊侠列伝」「刺客列伝」「酷吏列伝」といろいろ。

中村】 こういう項目を作っただけでも、司馬遷の透徹した世界観を感じます(p151)


こういうところの、本文の流れを紹介してしまうと、もったいない(笑)。
ここでは、司馬さんについて触れた箇所をすこし引用。

半藤】 旅といえば、司馬遷と同じ紀元前、西洋で『歴史』を書いたギリシャのヘロドトスがいますが、各地を旅して歴史を書いたという点では似ていても、『史記』とは全然違いますね。なかなかすごい本ですが、とにかく雑談が多い、枝葉に大変な情熱を傾けるんです。どこそこの産物はどうの、地形はどうのと。ああいった書き方は、もしかしたら司馬遼太郎さんが真似したかもしれない、『余談ながら・・』とよくやるでしょ(笑)。
安野】 以下、無用のことながら、とか(笑)
中村】 司馬遼太郎というペンネームは、司馬遷にちなんだんですよね。
半藤】 『司馬遷にはるか(遼)に及ばない』と。
安野】 『凌駕する』の『凌(りょう)』だと言う人もいるから世の中はやりにくいですよ(笑)
半藤】 それにしても司馬遷はおそらく宮刑に遭ってから文章が速くなりましたね。余計なことを書いている時間が自分には残されていないから枝葉は捨てた、そんな気がします。(p60)


私などは、最年長の安野光雅氏の語り口が、本文を通じて、鮮やかな飛行機雲のようなスジを残るのでした。そうそう、その安野さんのあとがき・「金もいらなきゃ名もいらぬ」の、この言葉も最後に引用しておかなきゃ。

「編集の山本明子女史は、わたしよりはるかに深く史記に精通していた。つねに控えめだったがこの人のおかげで本ができた。このたびの談義はいつまでも続けたいほど心豊かな時間であった。わたしとしての史記はまだ勉強の途中なのに、おかげで得がたい時をすごせたことを有難く思っている。」(p297)

それでは、「いつまでも続けたいほど心豊かな時間」というが
どのような鼎談だったのか。もちろん、読んでのお楽しみであります(笑)。
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