テレビのワイドショーでは、朝青龍の話題でもちきり。
相撲協会が紹介した専門医からも「急性ストレス障害」「解離性障害」との診断。ということで、モンゴルへ帰国。
私に興味をひいたのは編集手帳(2007年8月14日)と、
産経新聞の「断」堀井憲一郎のコラム(8月29日。「断」ではもう一人いたのですが、ド忘れ)。
ところで、最近の大相撲。空席の多い観客席を、テレビが映し出します。その回数が、私には、だんだん多くなっているような気がします。
「断」の堀井さんのコラムでは地方巡業にふれられておりました。
そこを紹介。
「ここんところ、朝青龍の一件で大相撲の地方巡業をいくつかニュースで見た。」と始まっております。
「夏のあいだ東北、北海道、新潟、群馬あたりをまわってるようだ。こういうのを見てると大相撲は興行ものだとわかる。東京や大阪の固定の小屋だけではなく、あいまに地方もまわる。・・・四都市での固定興行と、地方巡業では内容が違う。年六場所の本場所の成績だけで、いろんなことが決まってるように見える。朝青龍も、だからサボってもいいとおもったのだろう。・・・そもそも地方巡業では、勝敗を競っていない。ふとおもうのは、大相撲の本当の姿は地方巡業のほうではないか、ということだ。足を運んでくれた人たちをきっちり楽しませるという、江戸時代から続く【見世物】としての誇りを持った仕事だ。・・・・」
これを読んでしばらくしたら、ジャイアント馬場を思い浮かべました。
ジャイアント馬場といえば、プロレスですが、やはり地方巡業はあります。
その死亡記事のことを思い浮かべたというわけです。
ここに引用したくなりました。
「還暦を超えた現役プロレスラーとして生涯を終えた。・・
バブル時代、所属選手たちに集団脱退されたことがあった。
残った選手に『自分たちにはファンがスポンサーだ』と言い・・
晩年は・・メーンイベントの前に行われる前座の試合に出続けた。
試合の前後に売店に立って、プロレスグッズを売ることもあった。・・
巡業先では試合のあとホテルに引きこもった。
『目立つのかな。外に出ると酔っぱらいがからんでくる。だから繁華街のことは何も知らない』と話していた。」
(朝日新聞1999年2月2日社会面)
読売新聞では経歴を知ることができました。
「1938年、新潟県三条市に生まれ、少年時代には野球に熱中した。
55年にはあこがれの読売巨人軍に投手としてスカウトされる。『夢のようだった』。
高校を中退して上京したが、一軍でほとんど活躍できないまま病気のため退団。
当時の大洋(現ベイスターズ)へテスト生として参加したが、キャンプ中にふろ場で転倒して腕をけがし、投手生命を絶たれた。一時は絶望して、六畳一間の下宿に閉じこもりアンパンばかり食べていたという・・・」
「一線を引いてからも六人タッグなどに出場し続け、3711試合連続出場を達成。
阪神大震災では被災地に行き、ファンクラブの会員の家を回って勇気づけたというが、自分からはそれを公言しなかった。」
読売新聞2月2日夕刊の山内則史さんの記事の最後には、忘れられない巡業の思い出が書かれておりました。
「ふるさとで初めての試合は、1964年7月23日。前年暮れ、力道山が不慮の死を遂げていた。気をもまされた雨は、当日からりと上がり、10年前、球児だった三条実業高の校庭でリングに立った。けが人が出るのでは、と心配になるほど多くの人が詰めかけていた。『ちょうど梅雨が明けたんですよ。おれの中では今でも、梅雨明けといえばこの日なんだ』。格闘家であるのみならず、読書家としても知られ、全日本プロレス社長という『経営者』の光栄と苦労をも味わったジャイアント馬場さん。」
「解離性障害」だという朝青龍が、飛行機に乗ってモンゴルへ向かう様子が、テレビで流れておりました。それとは、全然別なのでしょうが、六畳の下宿に閉じこもりアンパンばかり食べていたというジャイアント馬場を、私は思い浮かべたのでした。
相撲協会が紹介した専門医からも「急性ストレス障害」「解離性障害」との診断。ということで、モンゴルへ帰国。
私に興味をひいたのは編集手帳(2007年8月14日)と、
産経新聞の「断」堀井憲一郎のコラム(8月29日。「断」ではもう一人いたのですが、ド忘れ)。
ところで、最近の大相撲。空席の多い観客席を、テレビが映し出します。その回数が、私には、だんだん多くなっているような気がします。
「断」の堀井さんのコラムでは地方巡業にふれられておりました。
そこを紹介。
「ここんところ、朝青龍の一件で大相撲の地方巡業をいくつかニュースで見た。」と始まっております。
「夏のあいだ東北、北海道、新潟、群馬あたりをまわってるようだ。こういうのを見てると大相撲は興行ものだとわかる。東京や大阪の固定の小屋だけではなく、あいまに地方もまわる。・・・四都市での固定興行と、地方巡業では内容が違う。年六場所の本場所の成績だけで、いろんなことが決まってるように見える。朝青龍も、だからサボってもいいとおもったのだろう。・・・そもそも地方巡業では、勝敗を競っていない。ふとおもうのは、大相撲の本当の姿は地方巡業のほうではないか、ということだ。足を運んでくれた人たちをきっちり楽しませるという、江戸時代から続く【見世物】としての誇りを持った仕事だ。・・・・」
これを読んでしばらくしたら、ジャイアント馬場を思い浮かべました。
ジャイアント馬場といえば、プロレスですが、やはり地方巡業はあります。
その死亡記事のことを思い浮かべたというわけです。
ここに引用したくなりました。
「還暦を超えた現役プロレスラーとして生涯を終えた。・・
バブル時代、所属選手たちに集団脱退されたことがあった。
残った選手に『自分たちにはファンがスポンサーだ』と言い・・
晩年は・・メーンイベントの前に行われる前座の試合に出続けた。
試合の前後に売店に立って、プロレスグッズを売ることもあった。・・
巡業先では試合のあとホテルに引きこもった。
『目立つのかな。外に出ると酔っぱらいがからんでくる。だから繁華街のことは何も知らない』と話していた。」
(朝日新聞1999年2月2日社会面)
読売新聞では経歴を知ることができました。
「1938年、新潟県三条市に生まれ、少年時代には野球に熱中した。
55年にはあこがれの読売巨人軍に投手としてスカウトされる。『夢のようだった』。
高校を中退して上京したが、一軍でほとんど活躍できないまま病気のため退団。
当時の大洋(現ベイスターズ)へテスト生として参加したが、キャンプ中にふろ場で転倒して腕をけがし、投手生命を絶たれた。一時は絶望して、六畳一間の下宿に閉じこもりアンパンばかり食べていたという・・・」
「一線を引いてからも六人タッグなどに出場し続け、3711試合連続出場を達成。
阪神大震災では被災地に行き、ファンクラブの会員の家を回って勇気づけたというが、自分からはそれを公言しなかった。」
読売新聞2月2日夕刊の山内則史さんの記事の最後には、忘れられない巡業の思い出が書かれておりました。
「ふるさとで初めての試合は、1964年7月23日。前年暮れ、力道山が不慮の死を遂げていた。気をもまされた雨は、当日からりと上がり、10年前、球児だった三条実業高の校庭でリングに立った。けが人が出るのでは、と心配になるほど多くの人が詰めかけていた。『ちょうど梅雨が明けたんですよ。おれの中では今でも、梅雨明けといえばこの日なんだ』。格闘家であるのみならず、読書家としても知られ、全日本プロレス社長という『経営者』の光栄と苦労をも味わったジャイアント馬場さん。」
「解離性障害」だという朝青龍が、飛行機に乗ってモンゴルへ向かう様子が、テレビで流れておりました。それとは、全然別なのでしょうが、六畳の下宿に閉じこもりアンパンばかり食べていたというジャイアント馬場を、私は思い浮かべたのでした。