和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

テニヲハ。筆圧。そんきょ。

2021-06-08 | 枝葉末節
尻切れとんぼになってしまいかねないけれど、
枝葉末節に話がひろがるのは、楽しみですね。

goo ブログを拝見させてもらっていると、
花や風景や、食事や調理やと様々楽しめ、
それだけで満腹感があります(笑)。

さてっと今読みかえしているのは
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」(2004年)
なのですが、エピソードを読むのはたのしい。

どれもが、編集者と著者とのやりとりになります。
ここでは、3つのエピソード。

「大河内一男さんの原稿で・・・
ワープロ、パソコンのない時代である。
入稿練習ということで、200字詰めのくしゃくしゃの束を、
先輩のAさんから渡された。・・・
社会政策の大権威、かつ元東大総長である大河内一男さんの
原稿はどこかテニヲハがあやしい。はじめはおそるおそる、
直してもいいですかといっていたが、あとは脱兎のごとく
リライトしてしまった。大家でも、文章のうまくない先生は
いるということをはじめて知った。」(p208~209)

ここでは、元東大総長の肩書をもってきておりますが、
なあに、一般の方々の文章は、どれもテニヲハがあやしいのだと
言っているように読めます(笑)。
はい。ほかならぬ私自身、自分のブログを読み直すと、
間違いだらけのテニヲハをまず直すことから始めます。

2つ目のエピソードは、向井敏さん

「本といえば谷沢永一さんの書庫もすごかった。・・
結局、谷沢さんとは一冊も仕事をしなかった。
その代わりというのもおかしなはなしだが、
谷沢さんと学生時代からの友人である向井敏さんとは
長く仕事をさせていただいた。・・・・
おそらく谷沢さんのご紹介だったと思う。・・・
すぐさまPR雑誌『本』の連載エッセイをお願いした。・・

ただ困ったのは、声がとても小さかったことだ。
電話には苦労した。また筆圧がよわいため、
鉛筆での原稿がFAXでは読みとれないということがままあった。
原稿はあまり早くなかった。というより遅かった・・・」(p219)

うん。遅筆の方は短命なのかもしれません。

3つ目のエピソードは安岡章太郎。

「・・・その後、安岡さんは『群像』で『果てもない道中記』を
連載した。その取材にも同行したのだが、いつもメモなど一切とらない。
カンヅメになっていただくこともあった。・・・・

調子にのると、安岡さんはおかしな格好になる。
相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて書くのである。
そうなったらしめたもので脱稿も間近い。・・・」(p229)


はい。けっきょく、エピソードの力はすごいと思います。
この鷲尾さんの本を、すっかり忘れてしまったとしても、
安岡さんの相撲の蹲踞の姿だけは、思い浮かびそうです。
はい。夢にも出てきそうな気がしてくるのでした(笑)。


最後に料理の話。
わたしは自分で調理しなくって、もっぱら食べる方。
そういうのが、ブログで人の調理を見ている。
なんだかなあ、と思うこともありますが、
それでも美味しそうな料理を見ると満足しています。
それでもって、文章作法と調理方法とがダブる記述があると
なんとかく、気になるのでした。
今回は、こんな箇所。

「だいたい原稿のことを、編集者は『生(なま)原稿』という。
生なのである。生のまま刺身で食卓に上げるのがよいのか、
それとも酢で締めたほうがいいのか、あるいは焼いたり、
煮たりしたほうがいいか、読むというのは、
その判断を総合的に下すことなのである。」(p114)

うん。そういえば長田弘の詩集に『食卓一期一会』がありました。
また、いつか引用できますように。ということで、今回は
枝葉末節でも、光るエピソードを引用してみました。





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目次。メニュー。色紙。

2021-05-08 | 枝葉末節
古本を買う楽しみは。安くてしかも早い。
ネットで注文する古本は最近はキレイですね。
それに簡単に注文できて、選べて、早く届く。
うん。ついつい買ってしまいます。
新刊書を一冊買う値段だと、古本は数冊から十冊も
手にはいると思ってしまうと、もういけません(笑)。

さて、この頃は、杉本秀太郎氏の古本を、
しかも安い本をめがけて買っております。
その本が並ぶと、その目次をひらく。
料理屋で、メニューをひらくように。
そのメニューというか目次から読みたい箇所を選ぶ。
小説類はダメでもエッセイ類は目次を選べる楽しみ。

たとえば、杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)の
目次と、それに、本の後にある「収録論文初出一覧」をひらく。

目次と初出一覧とを見比べると、「文学の紋帖」の目次にある
「伊東静雄の詩」は、1960年6月号に掲載されたもので。
「伊東静雄の地図」は、1975年10月に掲載のものとわかる。
ちなみに、
杉本秀太郎著「伊東静雄」(筑摩書房)は1985年7月に本が出ております。
テーマが決まった本が木ならば。幹が太く、枝が伸びて、葉が茂るような
ものだとして、この「文学の紋帖」に書かれた短文は、その木が成長する
その発芽まえの固い種のような感じでよめる。

たとえば、目次にある「太田垣蓮月」は1972年2月1日に書かれていて、
淡交選書にはいった杉本秀太郎著「太田垣蓮月」は1975年5月に刊行。
さらに補訂が加わって小沢書店から出たのが、1982年8月なのでした。

どちらも『文学の紋帖』では、木に育つ前の種のような感じで読める。
けれども『文学の紋帖』には、発芽しなかったと思ぼしき種もある。
そんな気持ちで目次を読めるのも、安い古本が並ぶおかげです。

うん。そんなことを思いながら目次をみているのでした。
さてっと、最後はこの箇所を引用。

『文学の紋帖』の目次のはじめには
「植物的なもの」(桑原武夫編『文学理論の研究』1967年)が載ってる。
杉本秀太郎氏は、2015年に亡くなっておられますが、
杉本秀太郎著「見る悦び」(中央公論新社・2014年)の目次は
「宗達のこと」と「宗達経験」とからはじまっておりました。
その「宗達経験」は「ベルリン色紙」に関することからはじまります。
そのなかに

「1966年5月のことだが、『植物的なもの――文学と文様』と題する
試論を書いた。・・・冒頭部分で草花文様図案を取り上げ、
『植物的なもの』というカテゴリーと宗達との接点をめぐって
一つの論を組み立てた。・・

ここからあと暫くはその冒頭部分を自己添削し文脈をととのえて、
新しい読者の供覧に呈してみようと思う。
そうまでするのは、いまなおこの小文に対して些かの惻隠(そくいん)の
情をみずから禁じ得ないからで、未練がましいことである。」

はい。『文学の紋帖』にはじまりに置かれ試論は、どうやら、
発芽したけれども、そのままに成長しなかった種のようです。
では、ベルリン色紙とは、どのようなものだったのか。
それを引用して、今回はおしまいにします。

「・・明治41年に国外に流出しベルリン東洋美術館の所蔵に帰した
色紙群、いわゆる『ベルリン色紙』があった。
宗達およびその工房の職人の手になる下絵に
36首いずれも『新古今和歌集』中の四季の歌を光悦が散らし書きした
36枚一組の色紙である。

我が国の祭儀的な含みをもった言い慣わしによれば、
松籟(しょうらい)の聞かれる日、よくととのえた琴一面を
軒端に立てかけておくと、弦は風に和して妙音を発するという。
『ベルリン色紙』には、めぐまれた時間のあいだ共鳴し、即興の
快楽を分かち合うかのように文字と彩画が幸運に偶合していた。
しかも色紙36枚はいずれも仕上っているという印象を強く与えた。
・・・・」(「見る悦び」p35)


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始まりの翁(おきな)。

2021-05-07 | 枝葉末節
「大倉源次郎の能楽談義」(淡交社・2017年)を手にしました。
あとがきで

「近年の自然災害の中で、能楽の鎮魂の役目も大きな要素
として見直されたことは、素晴らしいことと思っています。」(p269)

本文のはじまりは、「翁(おきな)」からでした。

「かつては、一日の一番始めに上演する演目は
『翁』と決められていました。今でも、
新しい舞台を初めて使う時や、正月などの節目には
『翁』を上演します。・・・・
この本もまた、『翁』の話しから始めてみたいと思います。」(p10)

「目の前に能舞台があると思ってください。・・・
舞台の上には、何も置かれていません。
そこへ、一人ずつ、役者が登場します。
総勢28人。全員が座に着くや否や、
笛が吹きはじめられ、小鼓が打ち出されます。・・・

この『翁』というのは、一般的にいう演劇のような
ストーリーが展開するというものではないのです。
人間ドラマのようなストーリーが始まる以前の、
『世界の始まり』を表しているといったほうがよさそうです。
   ・・・・
神々に模した役者が揃い、風である笛が鳴り、
小鼓が『陰陽』を打ち分けることで、
天地が分かれることを象徴します。」(~p13)

「翁では、他の能の演目にはない、大変特殊な演出が行われます。
それは、大夫(たゆう)が素顔(直面・ひためん)で登場し、
舞台上で面(おもて)を掛けるという演出です。その面は、
『翁』という老人がにこやかに微笑む面なのです。・・・」(p15)

「『翁』は囃子(はやし・音楽)の技術面からみても、
『能にして能にあらず』といえると思います。
他の能楽の曲目とは異なる点として、

一つのリズム体系の中で、謡(うたい)の詞章と囃子とが、
拍子(ひょうし)に合わせて合奏する場面が全くないことが
挙げられるでしょう。

謡は謡で力一杯謡い進め、
囃子も原初的なリズムパターンを間断なく演奏して、
結果的に逆に全てが同期していくような、
『アシラウ』という演奏形態です。

小鼓は、この曲に限り三人で演奏し・・・
地謡(じうたい)のリーダーである『地頭(じがしら)』とともに、
阿吽(あうん)の呼吸で要所要所を同期させ、
段落を決めていきます。」

はい。もうすこし引用を、続けさせてください。

「そして、若さと可能性を想起させる『千歳(せんざい)』の
舞に引き続き、翁は『天地人』を定めた祈りの舞を舞い納め、
面を外して退場します。

『翁』が終わると、続いて、三番叟(さんばそう)が
『揉(もみ)出し』という大鼓(おおつづみ)の入った
賑やかな演奏で登場し、大地踏みの『揉之段』、
苗が芽を出して穂が実るまでを祈念する『鈴之段』が続きます。
  ・・・・・・・・
『揉之段』『鈴之段』という、舞にあたる部分は、
陰陽の鼓が整った器楽曲で、謡は入りませんが、
舞手は掛け声をそこに被(かぶ)せます。
舞手の呼吸のリズムが、囃子のリズムと相まって、
躍動感、生命力が、そこに同座する観客の息と同調し、
不思議な一体感が生まれます。・・」(p17)

はい。これが本文のはじまりの箇所になります。大切な
水先案内人にめぐりあったという手応えを感じさせます。
はい。私の引用はここまで。



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民謡と謡曲。

2021-05-06 | 枝葉末節
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)。
この本の「芸事」とあるページに

「だいたい京都のひとは、芸事がすきである。
結婚前に、女ならお茶にお花に舞、男なら謡を
ひととおりはならっておくというのが、町屋(まちや)では
まずふつうのことである。・・・」(p71)

「梅棹忠夫の京都案内」の、この本には
ところどころ本の書評がはさまっております。
松田道雄著「京の町かどから」の書評もある。
はい。「京の町かどから」には「わらべうた」
と題する文があったのでした。そこから引用。

「高野辰之編『日本歌謡集成』の巻十二には俚謡があつめられ・・・
みていると京都の童謡は文学的にほかにくらべて洗練されている。
その京都に民謡というものがない。
これは京都が文化的に先進地帯であったということだろう。

京都のおとなは、15世紀にはもう猿楽能を知っていたのだ。
京都は、自己の民謡をもつ一地方ではなく、
全国の芸能がそこに集まって洗練される舞台であった。

各地の民謡にあたるものを京都でもとめるならば謡曲である。
農村の人たちが、自分の郷土の民謡をうたえるように、
中京の商人たちは、みんな謡曲がうたえた。」
  ( p94~95・「京の町かどから」筑摩叢書 )

このあとに、松田道雄氏は、中京の子どもたちへと
言及しておりました。

「東国人の子である私が、
清さんだの長やんだのとあそびはじめて気がついたのは、彼らが、
『一六(いちろく)』だとか『三八(さんぱち)』だとかいって、
そういう数字がつく日には、あそびにやってこないことであった。
彼らは、
その日は『うたい』のけいこにいかなければならなかったのである。

私の家の四、五軒しもに床屋さんがあって、
その奥の二階に『うたい』の先生がいて、
午後によく朗々とうたっているのがきこえた。
それからずっとあとになってからだけれども、
隣家の裃(かみしも)屋さんの若主人も、
よく謡曲のけいこをしていた。

小学校へあがって、学芸会があると、かならず謡曲と仕舞とがあった。
ボーイ・ソプラノでやる謡曲は、なかなかいいものであった。」
  (p95~96)

もどって「梅棹忠夫の京都案内」には、
昭和29(1954)年に大学の国語研究グループからの講演依頼があり、
そこでの依頼が「はなしことばについて」であったこともあり、
「わたしはこの際、ひとつの実験をおこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。そのつもりで草案を
つくった。その草案がのこっていたので、ここに収録した。」(p210)

その講演の一部を紹介

「京ことばも、やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、どういうものの
いいかたをするのか、挨拶から応対までを、いちいちやかましく
いわれたもんどした。とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生(おうじょう)しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやとバレてしまうわけどっさかい。

そもそも、京ことばは発音がむつかしゅうて、
ちょっとぐらいまねしても、よっぽどしっかりした
訓練をうけへなんだら、でけしまへん。
完全な、京都の人間になろおもたら、三代かかるといわれております。

そのながい伝統に、つちかわれてきた京ことばが、
近年になってくずれてきました。・・・・」(p221~222)

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さらりとした人間素描。

2021-05-05 | 枝葉末節
新刊書店にはなく、古本でよかったと思うのは、
私家版の「追悼文集」が身近に手にはいること。
そうだと私は、思います。
今回、紹介するのは2冊。

「和田恒 追悼文集野分」(私家版・昭和56年)
桑原武夫著「人間素描」(筑摩叢書・1976年)

まず、私家版をあとにして、
ここは、筑摩叢書「人間素描」から、
筑摩叢書には、二つのはしがきがあります。
「初版はしがき」(文藝春秋新社・1965年)と
「増補新版はしがき」(筑摩書房・1976年)
その初版はしがきから、

「17世紀のフランスには、ポルトレという文学の1ジャンルがあった。
それは文字をもってする肖像という意味で、対象とする人間の風貌
だけでなく、その気質さらに行為までも描き出そうとする。しかし、
本格的な伝記ないし学問的な人間研究といったしかつめらしく長々
しいものではなく、いわばさらりとした人間素描である。・・・」

「外的瑣末事と見えることが、
学問や芸術の本質と深くかかわりうるというのが私の考えである。」

久しぶりに、この本を本棚からとりだして、パラパラとめくる。
今回あらためて読み直したのは「森外三郎先生のこと」でした。
はじまりを引用。

「湯川秀樹君がノーベル賞をもらったとき、
自分の学問の基礎に京都一中の自由主義的な校風がある、
という意味の談話を発表したことがあるように記憶する。
 ・・・・・
あの時代の校風と関係があり、その校風は森外三郎校長の
人柄がつくり出したものだろうと話し合った。そして、
森さんのことを一ぺん書いて下さいな、と湯川君に頼まれた。
同君は忘れたかもしれないが、ふともらした文春子は地獄耳であった。」

そのあとに
「私は大正6年に京都一中に入学した。・・・・」と、
このように桑原氏は、森外三郎先生を書きはじめておりました。
16ページに及ぶ文は文藝春秋の1956年12月に発表されております。

うん。この本の紹介はここまでにして、
つぎ、私家版「和田恒 追悼文集野分」。
その最後には、和田恒年譜がありました。
昭和6年(1931)生まれ。そして昭和55年(1980)49歳で死去。
27歳で中央公論に入社。中央公論のシリーズで
「日本の名著」「世界の名著」「日本語の世界」を手がける。
杉本秀太郎氏も追悼文を寄せております。
杉本氏は「世界の名著」と「日本語の世界」での和田恒氏と
の関係に触れた追悼文でした。ですが、ここでは
松田道雄氏の追悼文を引用することに。

「中央公論社で『日本の名著』というシリーズをだすらしい
と聞いたのは、昭和43年(1968)の中ごろだったかと思う。
日本の古典を現代語に訳してだしてもらえたら大いにたすかる。
『世界の名著』とおなじに、そろえて身辺におきたいと思っていた。

10月の始めに和田さんが、
『貝原益軒全集』の八巻をもって訪ねてこられたときはおどろいた。
私に益軒を訳すようにという話だったからである。それまでに
和田さんにおあいしたことは、なかったように思う。・・・・

・・・・『訳』がうまくできるかどうかあやしい。そういって
ことわりつづけたが、和田さんは終始にこにこ笑って、
きっとできますから、本をおいていきますといって帰っていかれた。
おいていかれた全集をぱらぱらみているうちに・・・・
10日ほどして和田さんが再度こられたときは、押し切られてしまった。

・・・べつに強引というのでなく、何となく
承知しないといけないような気にさせられてしまったのである。
その後にもそういうことはなかったから、
やはり和田さんのうでというものだったろう。

・・・私は900枚を年内にかくことになった。強行軍であったが、
テープレコーダーをつかって、自分の訳と平行して、家内に速記
してもらったので12月にはできてしまった。

和田さんがしょっちゅうこれられるようになったのは翌年の2月から
3月にかけて、ゲラがあがってくるようになってからだった。
口述のリズムが手伝って、現代的にすぎる訳が少なくなかったが、
和田さんは実に的確にそういうところをみつけてこられて、
原文に忠実であるように注意してくださった。今になってみると、
和田さんのいうことをきいておいてよかったと思う。

・・・・・和田さんは京都にこられるたびに、
『京都新聞』の夕刊を精読されたようだ。そこで
『現代のことば』という欄に私がときどきかいていたのを発見されて、
あれを本にしましょうよと何度もいってくださった。
『現代のことば』は地方紙の随筆であったので、私もリラックスし、
実学から逸脱するところもあった。和田さんはそこが好きだったようだ。
昭和47年になって『洛中洛外』として中央公論社からでたのが、
それである。・・・・」(p113~p115)


うん。外山滋比古氏も『編集者の山芋』と題して書かれていて、
印象に残るので、最後にこちらも引用しておきます。

「『うちの裏の山でじねんじょがとれましてネ。…』」とはじまります。

「・・・『・・・山芋をきのう堀りましたので少しおもちしました。』
・・・・まあまあ、お上がりくださいということになって、
山芋を折らずに堀りあげるのがいかに難しいかというような話を聞いた。
・・・そういう山芋をもらって、こちらも胸が熱くなるようだった。
・・・よほど本作り、編集が好きであったに違いない。
仕事もじねんじょのようなものであったかもしれない。
折れないように、折れないように、なんとかして、みごとな芋を
そっくり掘り出そうとしていて、つい、自分を折ってしまったのである。

8年前にふとしたきっかけで和田さんを知るようになった。
初対面のときに、何か本を出してみませんか、とすすめてくださった。
すき通るような好意を感じた。喜んでその気になってはみたものの
なかなか思うにまかせない。そんなとき、和田さんは山芋を掘り上げる
ようにそっとやわらかくはげましてくれる。それから1年してやっと
私の『日本語の論理』は出た。考えてみると、私も和田さんに
掘り出してもらったごく貧弱な山芋の一本であるような気がする。
和田さんとは、中央公論社の和田恒氏のことである。
まだ若いのに、11月はじめに急逝された。・・・」(p86~87)

う~ん。これは、私家版でしか味わえないのかも。




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あなたの、読みました。

2021-05-04 | 枝葉末節
齋藤孝に「実語教(じつごきょう)」(致知出版社)がありました。
はじめにを読むと、
「この『実語教』という本は、平安時代のおわりにできたと
いわれています。・・・子どもたちの教育に使われ・・・・
江戸時代になると寺子屋の教科書となりました。
明治時代になっても、しばらく使われていたようです。」(p4)

パラパラとひらいていると、そのなかにこんな箇所。

『師に会うといえども学ばざれば、
徒(いたずら)に市人(いちびと)に向うが如(ごと)し』

うん。『師に会う』といっても『学ぶ』ことがなければね。
そう戒めておられるのですが、江戸時代の寺子屋では
こんな言葉を、子どもたちが、繰り返していたのですね。

さて、杉本秀太郎です。桑原武夫の七回忌の集まりでの語りに、
大学の卒論試問の場面で、杉本氏は『桑原先生という方に
私が初めてほんとうに触れた、最初の出来事でした。』
という場面を語っておられました。
ここでは、集会での語りなのですが、
卒論試問での桑原先生の話したことを
きちんと書いてある文も杉本氏は残しておりました。

うん。先生に『ほんとうに触れた』という箇所なので、
以前のと重複しますが、あらためて引用しておきます。

「試問の日も、とうとうきた。
文学部図書室の真下にあたる演習室には、
ダルマストーブをかこんで、3人の審査教授が待ちうけていた。
  ・・・・・・
『では桑原君、何か』
と伊吹教授が催促した。おだやかに、ゆっくり桑原さんは言った。

『あなたの、読みました。
読みましたけど、おもしろなかった。
鉛筆で書いたということ、まあそれは、よろし。

おもしろかったらそんなこと忘れて読んだでしょう。
それと、もう一つ、君はこれのさいごに
《 説明することは簡単である 》と書いてますね。

狩野直喜先生は、これくらいある
( と指で一寸くらいの厚さを示して )
本を書いてね、説明だけなら簡単なことだと
おしまいに書いてられる。

けど、君のん、たった三十枚や。
こんなこと、いうたらあきまへん。』

 ・・・・・・・
大学を卒業した。・・・・
大学を出た昭和28年の7月、創元選書版の
『伊東静雄詩集』が出た。・・伊東静雄をまったく知らなかった。
彼が本屋でこの詩集を手にとったのは、その卒業論文の試問のときに、
彼がむさぼるように飲んだ慈愛の言をかけてくれた(と彼の信じた)
桑原武夫の名が、編者にあったからである。立ち読みした
『わがひとに與ふる哀歌』の数篇に、彼はたちまち感染した。
・・・・聖母女学院の高校生にフランス語の初等文法を教えながら、
彼自身の初等文法の知識を、やっと身につけつつあった。
家庭教師だけでは納得してくれない家人を安心させるために、
彼は日仏会館にもかよいはじめた。・・・」

大学を卒業して二年ほどたってから
二人して桑原武夫氏の家にでかける機会があります。

「桑原さんには、あの試問のとき以来、
いちども会ったことがなかった。・・・・」

「口下手である。けれども、かしこまっていても仕方がないので
・・・『先生、伊東静雄と柳田国男について、何かお話しください』
といった。桑原さんは快よく応じた。・・・
桑原さんのたのしそうなおしゃべりに時を忘れた。・・・
十時半になっていた。・・・・・
玄関に素足でつっ立った桑原さんは、お辞儀するふたりに、

『またいらっしゃい、えっ、えっ』
といってあっちに向き、屏風のかげに入ってしまった。」

    (p214~225。杉本秀太郎著「文学の紋帖」)




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若き杉本秀太郎と、小林秀雄。

2021-05-03 | 枝葉末節
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に「年中行事」を
とりあげた1ページがあるのでした。そこを引用。

「京都の生活はじつにたくさんの年中行事でかためられている。たとえば8月。
8月はお盆である。上(かみ)は閻魔堂、下(しも)は六道さんへ
お精霊(しょうらい)をむかえにいく。16日は大文字。
地蔵盆に六地蔵まわりに六斎(ろくさい)念仏とくる。
すべて、いつ、どこで、なにをするかがきちんときまっている。
お上りさん用の観光地はしらんでも、こんなことならみなしっている。

いちいち何百年の伝統をもつ。おそろしい文化である。
わかい世代は、こういうものに反発して、一時とおざかるが、
やがてまたもどってくる。そして伝統の継承者となる。」(p80)

はい。この最後の2行は、気になる箇所でした。
そこで思い浮かんできたのは、
若い頃の杉本秀太郎と、小林秀雄。
杉本氏の数冊の本で、その道筋をたどれそうです。

①杉本秀太郎編「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・1996年)
②杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)
③杉本秀太郎著「パリの電球」(岩波書店・1990年)
④杉本秀太郎著「青い兎」(岩波書店・2004年)

まず①から、この本は桑原武夫七回忌の集まりの記録で、
いろいろな方に混じって、杉本氏の話しも活字になっておりました。
そこでの杉本氏は、大学に入った頃を語って
『当時、僕は小林秀雄という人に夢中になっていた・・』(p76)とある。

②には、「柘榴(ざくろ)塾瑣事」という文がありました。
綾傘繕太郎という名からはじまっている文なのですが、
読みすすむと、七回忌での杉本秀太郎氏の回想と重なり、
この綾傘というのが、杉本氏なのだとわかります。
大学にはいった頃の場面からはじまります。
出町大橋を歩いていた時に、不意に語りかけられます。

「ね、君、どうして日本にあんなえらい男があらわれたんだろう。
じつにふしぎだな。ああいうふうに批評を書ける男が、
突然あらわれたのはなぜか。いまぼくのもっとも知りたいのは、
そのことだ。君は『Xへの手紙』を読んだろ。あれはすごいもんだぜ」

「読んだ。小林秀雄の文章はええな。こう、きゅうとしてて、鋼みたいで」

繕太郎は、そう応酬しながら「鋼みたいで」といったのにこだわった。
 ・・・・・鉈川はすぐに応じた。
「まったくだな、ランボー論、ああ、どうしてあんなすごいものが
書けたんだろうな」・・・・

東京弁の鉈川と京都弁の綾傘は、こうしてお互いが小林秀雄に
心酔し、ひとつの世界のこまかい地図に通じていることを確認しあうと、
急速にしたしくなった。・・・」(p210~211)

つぎは④です。この本に2001年4月『新潮』臨時増刊
『小林秀雄 百年のヒント』に掲載された杉本秀太郎の追悼文が
載っておりました。題して「小林秀雄 架空の古手紙」(p136~141)
手紙の形式となっているので、最後に日付と署名がありました。
「 1984年3月10日 綾取思庵拝書」。ここからも引用。

「17歳のとき、創元選書に収められたばかりの『ランボー詩集』を
読んで、それから21歳までの5年間、私はあなた様の忠実な僕でありました。
・・・・・文章というものは気合で書くものだと・・教え込まれ・・・

当時、私は父に反抗し、脛かじりの身で父の一切を嫌っていました。
父と同じ明治35年生れだったあなた様(小林秀雄のこと)・・・

折しも・・・文章は気合の前に学問がなくては書けたものではない
ことに気付いて、私はどうやらあなた様の桎梏を脱するを得たのでした。
25歳に達した私には、父に対する無理な反抗心は消えておりました。
小林秀雄は私の父に代ることができなかった。
当り前の話でした。どうかご安心下さい。

文章は気合で書くものだというあなた様の文章から
まなんだ教えは、それとして生き延びておりますから、
これもご安心下さい。・・・・

いま読み返しても愛着あるいは愛惜をみずから禁じがたいだろうと
いま想像しておりますご本は『真贋』と、それより前の『無常といふ事』
の二冊です。・・・『真贋』に収められた十数篇を
創刊から連載した『芸術新潮』は毎月待ち兼ねたものでした。・・・・
小林秀雄という一精神がいわば日本列島の近代形成期に働いた地殻変動を
みずから断層と化して目に見えるものにして示した作品群のように思います。

・・・・『無常といふ事』は、あそこで扱われている日本の古い書物に
あなた様とは別様の読み解きを試みたいという欲望をかき立ててくれました。
・・・・」

最後は③を紹介。ここに「土蜘蛛」(p96~99)があり、
正味3ページの文です。初出一覧には
「保田與重郎全集第21巻」の月報(1987年7月)とあります。

「壬生狂言の『土蜘蛛』は、今も毎年の番組にかならず再三にわたって
組み込まれ、能にも歌舞伎にもそれが大いによろこばれるあの糸吐きの
芸によって、見物衆の喝采を博している。けれども、本来が土くさい
民衆的な芸能である壬生狂言の『土蜘蛛』が、お面の風情と言い、
装束の渋い色と言い、無言の仕草と言い、いちばん土蜘蛛らしくて
私にはおもしろい。」

うん。保田與重郎全集の月報なので、この土蜘蛛と保田與重郎とを
最後にむすびつけているらしいのですが、よく私にはわからないのでした。
けれども、この文のとっぱなに、小林秀雄が登場しておりました。
そのはじまりの2行はというと

「小林秀雄は晩年のある日、訪ねてきた一青年が
フランス語を勉強したいというと突然、甲高い声で
『バカ。フランス語なんてやる必要はない。漢文を勉強しろ』
と叱責したそうである。」

う~ん。杉本秀太郎氏は、この短文を
気合のエピソードではじめるのでした。

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季節感と、掛け軸と。

2021-05-02 | 枝葉末節
本をひらきながら、ときどきこの箇所は、
忘れたくないなあと思うことがあります。

しばらくは、それでもどこにあったのか、
思い出せるのですが、しばらくを過ぎて、
本がどこにあったのかも覚束なくなる頃、
その時には、きれいさっぱり忘れてます。
うん。そういう際に備忘録はありがたい。
道案内の道標みたいで、嬉しくなります。

はい。この箇所も道標を立てておきたくなりました。
青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店・1997年)
対談の最後は、杉本秀太郎氏とでした(1997年)。
題して「西の育ち、東の育ち」。
青木玉は幸田露伴のお孫さん。
東京と京都との住まいのことが出てきます。

杉本】 ・・・・青木さんのお家でも、・・
  住まいにまつわる季節感とか、約束ごととかを
  大切に暮らしていらっしゃるでしょう。

青木】 私どもは戦災でそうしたものを一切、失いましたので、
   結構なものは何一つございません。専ら生活用品の
   夏冬の座布団、お手拭き、お茶碗、花は和花・洋花、
   その時どきでございます。 (p238)


この会話のまえなのですが、京町屋の有形文化財に指定された
杉本家のことが話題になっておりました。
ああ、この箇所は忘れたくないなあ。と思った箇所です
以下に引用しておきます。

青木】 ・・・・掛軸も暦に合わせておかえになりますでしょう。

杉本】 月に合わせてかえますね。・・・・
   春夏秋冬を大きく分けますと、四つですが、
   葵祭りだとか、祇園祭りとか、お節句だとか、
   折り目節目に床にかける軸があります。

   京都は、『古今集』の昔からそういう年中行事は
   ずっとつづいているように思います。
   床の間の掛け物で季節感がこちらに刻まれますしね。

青木】 季節と決まりがぴたっと合っているその快さでございますね。
   あの時にはあの掛け物があったから、あの方はいついらしたとか、
   繋がってまいりますでしょう。また、
   それに合わせて何の花を生けようとか。

杉本】 五月になって卯の花が咲く頃になると
    ほととぎすの鳴き声も一度か二度は聞きますけれど
    ・・・・・

   その頃になると、ほととぎすの軸がかかりますね。
   卯の花といえばほととぎす、ほととぎすといえば卯の花
   というような関係を作ったのは『古今集』の次の歌です。

   ほととぎす我とはなしに卯の花の
        憂き世の中になきわたるらむ

   まあ、季節に合わせて軸をかえるのも一種の楽しみ
   という部分はありますけれど、手間はかかります。
   不便を楽しむ気持がなければ成り立たないことですね。


こうして、最初に引用した会話へとつながってゆきます。
その箇所、もう一度、繰り返しておくことに。

   青木さんのお家でも、そうした住まいにまつわる季節感とか、
   約束ごととかを大切に暮らしていらっしゃるでしょう。


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こんなもの書きよるね。

2021-05-01 | 枝葉末節
そういえば、山本善行著「古本泣き笑い日記」(青弓社・2002年)に
加藤一雄氏をとりあげた箇所(p128~137)があり印象に残ってます。

杉本秀太郎著「パリの電球」(岩波書店・1990年)
杉本秀太郎著「絵草子」(創樹社・1986年)

この2冊の目次を見たら、その加藤一雄の名前がありました。
ここでは、「パリの電球」から「西国記 富士正晴と加藤一雄」を
とりあげてみます。

ちなみに、富士正晴は、伊東静雄との接点がありました。
「苛烈な夢 伊藤静雄の詩の世界と生涯」は、
林富士馬と富士正晴共著で教養文庫(昭和47年)から出ており、
文庫の最後に年譜が載っておりまして、
その年譜をめくっていると、富士と伊東の関係がわかります。

昭和10年『わがひとに与ふる哀歌』を刊行。
11月20日前後。富士正晴を訪問、相識る。
詩稿「孔雀の哀しみ」を富士に献ずる。以後生涯に渉る交遊始まる。

とあるので、富士正晴氏が年譜にかかわっていたのでしょうね。
後ちょっと、この文庫の年譜から引用すると

昭和19年5月17日。三島由紀夫、伊東を住吉中学に訪問。
折から入隊中の富士正晴も休暇で帰省。
伊東と「花ざかりの森」をめぐって歓談。

昭和21年5月。富士正晴、復員。突然住中に伊東を訪問、
伊東を喜ばせる。

昭和28年3月12日午後7時42分逝く。享年46歳。

そういえば、富士正晴に「数え五十三になった」と
はじまりる詩があります。そのなかに
「数え五十三になった
 知っている詩人は もっと早くて死んだ
 死に競争で負けてしまった」
という箇所があったのでした。
うん。「知っている詩人」とは、
富士正晴氏には、竹内勝太郎はじめ、
いろいろとおられたのかもなあと思います。


はい。これくらいにして、加藤一雄と富士正晴はというと、
加藤一雄著作集「京都画壇周辺」(用美社・1984年)の
本のはじまりに、富士正晴が書いておりました。
そのはじまりは、

「わたしが加藤一雄さんと知り合ったのは、
多分昭和16年、加藤さんが数え年37歳、わたしが29歳であり、
彼は著者、わたしは弘文堂書房の編集者であった。・・・」

うん。ここまでにして、杉本秀太郎氏の随想へともどります。
杉本氏は、加藤一雄について語るのに、ご自身を語ってます。

「私は加藤一雄という人に会ったことがない。
富士さんに頼めば、簡単に紹介してもらえたはずだが、
私は頼まなかった。作品を読み、文章に感心していてのち、
その人に会って面くらったり、鼻白んだりして、
いっそ会わねばよかったに、と思うことがある。

そんな思いをするかせぬかは、会ってみないと
わからないことである。私にはこの面の冒険心が
とぼしい。・・・陰々滅々、呵々。」
(p87「パリの電球」)

さて、この文で富士さんがスクラップブックの棚から
取り出し杉本氏へと渡す場面が印象に残ります。

「渡されたものを何かと見れば、雑誌から切り取って
とじ合わせたものに富士さん手製の表紙が付き、
太い字で墨黒々と『加藤一雄・無名の南画家』と
しるした題箋が貼りつけられていた。

『これは、お前が読んだら、きっとおもしろいわ。
加藤一雄いうたらな、へいちゃらでこんなもの書きよるね。
これだけ冴えた小説書けるやつ、ほかにおらへんで』

 ・・・・・・・

困ったことに、いや、うれしいことに、
『無名の南画家』には京都という町の紛れもない刻印が
染みとおっている。任意の場所と挿しかえるわけには行かぬ
京都の地理と気候風土と人文が、このロマネスクを支えている。
まがい物などとは、とんでもない。」(p84~85)

うん。最後は加藤一雄氏の、こんなはじまり方の文の
出だしを引用。

「明治維新の混乱を京都画壇はすんなり通りぬけることができました。
東京のほうはそうは行かず・・・・

そこへいきますと京都は平穏無事で、廻り舞台は静かに廻りました。
と言いますのも京都は田舎だったからで、なにも明治元年に公家や
西国侍が大挙して新東京へ行ってしまったので、それで急に田舎に
なったのではありません。もうずっと以前から京は田舎になっています。
二鐘亭半山という江戸の俳諧師が18世紀の終り頃京見物にやってきまして、
その印象記を残しているのですが、京の景色は江戸にくらべて
余程古典的な田舎として描かれています。

『花の都は二百年の昔にて、今は花の田舎なり。
田舎にしては花残れり、きれいなれども、どこやら寂し』。

花爛漫で寂しいとは実にぜいたくな話で、これと言うのも
政治経済の中心から外れていたお陰でありましょう。」
(p204・加藤一雄著「雪月花の近代」京都新聞社)

話しは、ここからが肝心なのですが、引用をつづけすぎました。
ここまでにします。

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ことばの場を洗う。

2021-04-30 | 枝葉末節
今回は、杉本秀太郎氏による追悼文をふたつ。

杉本秀太郎著『品定め』(展望社・2001年)
杉本秀太郎著『パリの電球』(岩波書店・1990年)

『品定め』に「司馬遼太郎一周忌に」がありました。
そこから、引用。

「五十代半ばに『ひとびとの跫音(あしおと)』という長編がある。
司馬さんの作品中で私はこれがいちばん好きだ。」

「司馬遼太郎の作中にはめったにないことだが、
ここには作者が友として親密に交わった人びとが
相つらなってあらわれる。・・・・・

作者はこれまためずらしいことに、
自分の日常についてしるしていう――
『私事だが、私は大阪の東郊に住んでいる。
一種のっぺらぼうの暮らしで、日記はつけず、
人なかに出ず、友人の数はすくなく、書斎には
五年前にかけわすれた古ごよみがそのままかかっていて、
自分自身のなかを過ぎてゆく歳月については、
感覚が薄ぼんやりとしている』と。

また、この人たちのことを書くのに、曇っていて
『重い湿気が頸すじにかぶさってくるような日』はふさわしくない、
晴れた日を待ち、この連載原稿にとりかかる、と打ち明ける。
もって思い入れの深さを察することができる。」
 (p227~228)


ここに、『この人たちのことを書くのに、曇っていて
・・はふさわしくない、晴れた日を待ち・・』とありました。

司馬遼太郎で、私に思い浮かぶのは「この国のかたち 五」です。
そこに神道が語られておりました。はじまりは

「神道(しんとう)に、教祖も教養もない。
たとえばこの島々にいた古代人たちは、
地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも
底(そこ)つ磐根(いわね)の大きさをおもい、
奇異を感じた。
畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、
みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。
それが、神道だった。

むろん、社殿は必要としない。
社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、
それを見習ってできた風である。・・・」


もどって、『パリの電球』に「追悼・石川淳」がありました。
そこにどういうわけか『神の矛先』という言葉がでてきます。

「・・ちっとも古びていないのはその内容である。
茫としていて何もないあたまのなかに、
ことばを一つ投げこむ。そこから事がはじまる。

神の矛先からしたたり落ちた泥土が島のかたちをなしたように、
あたまのなかが宇宙のはじまりと同じさまを呈する。
うごき出したものをたしかめているうちに、
こちらも位置を更めなければ、見ているものが見えなくなる。
はじめにことばありき。それをこういうふうに合点させてくれた人は、
石川さんよりほかにはなかった。・・・・・

はじめのことばが問題である。あわてながら思い直した。
ことばの場を清潔に洗うことが、まずは大事な条件にちがいない。
ことばでことばを洗う・・・・」(p68)


あれ。2冊引用するつもりで、
3冊、引用してしまいました。



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彼のフィールドノート。

2021-04-29 | 枝葉末節
塚本珪一氏は、杉本秀太郎を評して

「・・・『これは彼(杉本)のフィールドノートだ!』と思う。
いわゆる科学者だけのものではなく、文学者、芸術家も
フィールドノートをそれぞれに持っている・・・・・

このようなことは当たり前であるが、博物学とか『自然学』を
背負っているものは自分だけのものと考えがちである。・・」
   (p198「フンコロガシ先生の京都昆虫記」青土社)

この正味4ページほどの、塚本氏が指摘する杉本秀太郎氏への
文が、私のなかに火がともっているような気がしております。
その火が消えないうち、杉本秀太郎へのフィールドノートを
私なりに、このブログで書いておきたいと思います。

杉本氏の本を読んでいると、いろいろな方が登場します。
なんといっても、京都がホームベースとなっております。
気になることは、いろいろと出てきますから、忘れない
うちにブログフィールドノートに何とか書きこめればと。

まず、この人はどのような人なのか。
ここいらから、焦点をあててみます。

杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)の帯に
菅野昭正氏による「感受の人」と題する文がありました。
うん。これも忘れやすいので全文引用。

「杉本秀太郎氏は感受の人である。
加うるに、よき趣味の人でもある。

好みに合わぬ対象には、一歩も近寄ろうとしないが、
嗜好の針がいったん動きだすと、
感受の窓を惜しみなく開けはなそうとする。
たとえば宗達の、あるいは荷風の、
こまやかな魅惑の襞まで分けいって、
物のかたちを精妙に究めようとする。
さらに作品という物のかたちを通して、
それをつくりだした芸術家の心のかたちを
見定めようとする。これこそ文学・芸術に
接する心得の基本である。

杉本氏ほど初心をみごとに磨きあげた人に、
私はあまり出会ったことがない。」

ちなみに、蛇足になりますが、発行元の
構想社というのは、坂本一亀氏が発行者。
坂本一亀というのは、坂本龍一氏の父親。

杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)
篠田一士著「読書の楽しみ」(構想社・1978年)

篠田一士の本のあとがきでは、篠田氏が
こう書きこんでおりました。

「こういう本ができるなどとは、ついぞ考えたこともなかたけれど、
読みかえしてみて、なにがしかの脈絡があるのは、われながら不思議である。
これも、ひとえに坂本さんの努力の賜物で、スクラップの山から、
あれこれの旧稿をえらびだし、苦心の配列をしてくれた手際は、
感謝のほかない。

坂本一亀と知合いになって、もう、四分の一世紀になるだろうか。
長いと言えば、長い時間だったが、今度、はじめて、ぼくの本が
彼の手づくりでできあがったのは、なによりも、ぼくには、
うれしいことである。しかつめらしい文学論もいいけれども、
こういうアンティークな本をつくってくれたことが、また、一層うれしい。」

どっちらかというなら、杉本秀太郎氏の単行本というのは、
「アンティークな本」と呼べる本が多いような気がします。
というか私にとっては、そういう本を読めるのがたのしみ。




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詩『数え53になった』

2021-04-28 | 枝葉末節
杉本秀太郎氏の単行本を、古本で購入してます。
すぐに枝葉末節に行きつき、袋小路に迷うので、
65歳を過ぎたら時点で、備忘録は欠かせません。
今回は、富士正晴の名前にひっかかりました。

杉本秀太郎著「パリの電球」(岩波書店・1990年)
杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)
もう一冊どこかにあったような気がするのですが、
もう見つからない(笑)。 まあ、いいや。

本棚からとりだしたのは、
「富士正晴詩集 1932~1978」(泰流社・1979年)。
この栞には、4人の方が書いておりました。

 桑原武夫・杉本秀太郎・清水哲男・原田憲雄 

ここには、桑原氏の言葉を引用することに

「・・これが19歳のときの作品だから、天分は疑いを容れない。
めったに夜を歌わぬ富士が、夜を処女作としてもつのはおもしろが、
ここには静かな水底のような景色があるだけで、夜の連想させる
悲しみ、絶望、罪といったものは全くない。

日本の詩人として恐らく異例だが、
富士は打ちしおれた愁嘆をきっぱり遠ざける。
いや初めから持っていない。彼の好きなのは
青年と自然、青空、風、太陽――それも天中した太陽で、
それらはしばしば擬人化されて詩人と協力するが、
人の心を悲しくする月光や星々の歌われることはない。
ただ小川が音をたてて光り流れる。」

 はい。せっかく詩集を出してきたのですから、
一篇を引用したいのですが、ここでは19歳の詩じゃなくて
もう少し年をくった詩「小信」

      小信    富士正晴(1965年4月)

 数え五十三になった
 なってみれば、さほど爺とも思えず
 思えぬところが爺になった証拠だろう

 他の爺ぶりを見て胸くそ悪くてかなわず
 他の青春を見て生臭くてかなわず
 二十にならぬ娘たちをながめて気心知れぬ思いを抱く
 爺ぶるのが厭で しかも爺ぶってるのだろう   

 やり残している仕事が目につく
 日暮れて道遠しか
 ばたついて 仕事はかどらず
 気づいてみれば ぼおっと物思いだ

 数え五十三になった
 知っている詩人は もっと早くて死んだ
 死に競争で負けてしまった
 もう ゲーテをみよ ヴァレリを見よと
 長命詩人をほめる方へ廻るか
 詩人の平均年齢も上がった
 全くロマンチィックでなくなった

 数え五十三になった 白髪と虫歯と いぼ と しみ・・・・

(詩は、一行空白というのがなく、つづいておりましたが、
 ここでは、とりあえず、ところどころ区切ってみました。あしからず)

え~とですね。
富士正晴氏は、1987年(昭和62年)74歳で亡くなっております。
年譜には「7月15日午前7時、急性心不全のため死去」。
誕生は、1913年(大正2年)10月30日徳島県三好郡生まれ。

ちなみに、「富士正晴作品集」全5巻(岩波書店・1988年)があります。
その編集委員が、杉本秀太郎・廣重聰・山田稔の3名。
はい。私は読んでおりません。
              
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草花の語り草・仕草。

2021-04-26 | 枝葉末節
岸田衿子の詩「古い絵」は、こうはじまります。

   木の実の重たさをしるまえに
   話をはじめてはいけません

   実のそとを すべる陽
   実のなかに やどる夜

   人の言葉の散りやすさ
   へびと風との逃げやすさ

こうはじまり、途中省略して、最後の二行はというと、

   かすかな音をきくまえに
   話をはじめてはいけません


うん。この詩が印象に残っているのでした。
それじゃ、話をはじめるのは、いつなのか。

この疑問のバトンは杉本秀太郎(1931年~2015年)へつながります。
「見る悦び 形の生態誌」(2014年・中央公論新社)のはじまりに
「宗達のこと」(16ページ)の文を、杉本氏はもってきております。

その文を読んで、私が思ったのは、岸田衿子のこの詩でした。
『かすかな音をきくまえに 話をはじめてはいけません』
亡くなる一年前の杉本氏は、ご自身の本を
『かすかな音をきく・・』話からはじめておりました。

はい。ということで、まあ、杉本氏の話を聞いてください。


「・・きのうも、京都国立博物館の常設室に出ていた
伊年印『草花図』襖四面を、しばらくぶりにながめ

翳(かげ)りの少しもない金一色の、風さえ絶えて、
息詰まる緊張に包まれた、これはひとつの閉ざされた庭である。

十種にあまる植物が寄りつどっているが、一見、
秋草ばかりにみえて、そうではない。・・・・・・・・

庭の中央に、一むれの芥子(ケシ)の花が場を占め、他を圧して
色あざやかに、華やかに咲き誇り、右からも左からも、
前からも、他の植物が芥子をめがけて傾き、のび出し、
這い寄る気配を見せながら、芥子の晴れ姿を祝ってか、
妬んでか、口ぐちに人語(じんご)を発している。

左の隅から上半身を乗り出すようにして傾いている稗の紫がかった、
つぶつぶした花穂の一団が、他を圧する大声で祝言を唱えている。

遠くから稗と向かい合って、右の奥には、ひょろりとした細竹二本が
立ちあがり、いまにも芥子の花に駈け寄らんばかりの動勢を示しているが、
内心では『芥子なんて、近ごろの外来の西洋だねが、いばりくさって
おるのは片腹痛いわい』と思いつつも、口先では
『やあ、おめでとうござる』と言っている。

この細竹と、当座の中心たる芥子とのあいだに挟まれた薊(アザミ)の花が、
細竹の内心を見抜いてくすくす笑いたいのをこらえ、口元に片袖を
当てて控える。」

うん。このあとに野薔薇・秋海棠(シュウカイドウ)
山帰来(サンキライ)・立葵(タチアオイ)・鶏頭(ケイトウ)
菫(スミレ)の花と続いてゆくのですが、
ここは、私の一存でカット(笑)。

そのつぎを引用してゆきます。

「この襖絵の『草花図』をながめるたびに、私はいま書いたような
植物たちの言い草、仕草を聞いたり見たりして娯しみ、
自分の心のさわがしさに、われながらあきれ、笑いをこらえきれなく
なるまでその場を離れない。

そして立ち去りがてらに思うことはいつも決まっている。
それは大体、次のようなことである。

この襖の中央、芥子の根元に取り付けられている美麗な
一対の金色の引手にゆびをかけ、襖を左右にあけ放てば、
奥の部屋の壁には、如拙(じょせつ)の有名な
『瓢鮎(ひょうねん)図』がぶらさがっているはずだ。

つまり、宗達はこの『草花図』を描くにあたって、
妙心寺退蔵院に古くより伝わる室町時代のあの禅画から
まなび取るところがあったと、私は見込んでいる。

『瓢鮎図』全体に紛れもない滑稽の気味、度外れな諧謔の趣は、
宗達のこの襖絵に脈々として流れている。

右端のあの細竹のあわてている恰好などは、
ことに如拙作中の竹に似かよっている。・・・・」(~p18)


はい。詩と随筆とが、私の中でむすびつく。
その嬉しさ。



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「久しぶりね」屏風。

2021-04-25 | 枝葉末節
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社)。
はい。楽しめます。どんな風に楽しめるのか?
うん。その雰囲気は引用するに限ります。

屏風絵で、喜多川相説『芙蓉・菊』をとりあげた箇所を引用。

「・・・古くさい草花図や円山四条派のおっとりした、
至極おだやかな風景がかかっていることはめったにない。・・・

そもそも床の間というものに注意することがない。まして、
紙も黄ばんだ、なんだかうすぎたない草花図の枕屏風ごときに
気をうばわれるいわれがあるだろうか。・・・」(p82)

「・・・かわいそうに、と思いながら屏風をながめている気分は、
こういう世であればこそはじめて許されるふしぎな気分である。」

こうして、短文の最後に屏風を説明しておりました。

「この屏風には、左扇に芙蓉、白菊、芒、
右扇に白菊、萩、芒が描かれているが、
左右を交互にながめていると、草花が互いに
左右から中央の空地にむかって手をさしのべ、
久しぶりね、とまず言いかわし、心の奥では
密語をたくらんでいるように思えてくる。

こういう花々の願望を形にあらわすのに、
画家は芒の葉を巧みに用いている。

琳派を装飾的と形容するのはいいが、
装飾とは心の表現であることを忘れてはいけない。」
(p84)

はい。この屏風に呼び名をつけたくなってきました。
『「久しぶりね」屏風』と、名づけてはどうでしょう。
そうすると、紙も黄ばんだ屏風の、芒の葉が
こころなし揺れるような、そんな気がしてくる(笑)。

はい。この短文の途中には、こうもありました。

「屏風というものが日常生活の道具、調度品として、
われわれの感情生活にかかわっていた時代は、
この枕屏風が渋紙に包まれたまま暗所で長い眠りに
就いていたあいだに、すっかり過ぎ去ってしまった。」

その屏風の眠りを、目覚めさせてくれる感性が、
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」にあります。
うん。そんなことを思って、楽しんでおります。
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薬用植物画の小磯良平。

2021-04-23 | 枝葉末節
時には、古本で、楽しい物が手にはいります。

薬用植物画(複製)3点プレゼント。そのプレゼント品でした。
武田薬品のアリナミンを記念してのもののようです。
もうすこし詳しく。

「このアリナミン発売30年を記念し、過般新聞紙上で
小磯良平画伯による薬用植物画(複製)プレゼントを発表しました
ところ、早々とお申込みいただき有難うございました。・・・
このたび、厳正な抽せんを行いました結果、あなた様が当せん
されましたので、同封お届け申しあげます。」

「本薬用植物画は、弊社のPR誌『武田薬報』の表紙に
昭和31年から12年余にわたり掲載されたもので、
その作品150点が『薬用植物画譜』として刊行されましたが、
芸術作品としては勿論のこと、植物学的にも高い評価を得た
ものでございます。ここもとお届けの3点は、その中から
特に選びだしたものでございます。
ご鑑賞賜りますれば幸いでございます。・・・」

とあり、3点は
「はぜのき」「くちなし」「れんぎょう」が1枚ずつありました。

それはそうと、
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社・1988年)に
『告白』と題してはじまる5ページの文があります。
はじまりは

「京都の修学院に曼珠院というお寺がある。・・・

もう二十数年も昔になるが、3月のある晴れた日、
曼珠院の土塀ぞいの小道から木戸を押し開けて斜面のほうに
入ってみたことがあった。たよりない木戸に打ちつけられていた
門札によって、これが武田薬品の薬草園だと気づいたので
 ・・・・・・・
去年の春、まったくひさしぶりに修学院に行って、
古なじみの薬草園のあたりを歩いた。いまは整備も警固も行きとどき、
昔のように無断で出入りはもう出来そうもなかった。・・・・」

まあ、こんな風にはじまり、小磯良平画の『薬用植物画譜』へと
言及されていきます。ここでは短文の最後から引用。

「私は正直なところ、『新制作』の大長老である
この洋画家の油彩画を見て感動したおぼえがない。
冒険を好まぬ、温良従順なひとりの画工であればこそ、
この人は植物図譜の描き手に適していたのかと思われる。

武田薬品の薬草園からアトリエに持ちこまれる植物を写生しながら、
この人は画工たるの快楽と画工たるの痛恨とを、百五十点の
精細な水彩画にこめたのではなかったか。・・・・」(~p94)

ちなみに、この本には、植物図譜のなかの『葛』(p93)が
掲載されておりました。それについては

「薬用植物の図譜のために描かれた植物図には、
普通の植物図鑑の図とはちがうところがある。
薬用に供される部分が特に目立つように描かれ
なければならないからである。・・・・・

小磯良平が薬用植物として葛を描いたとき、
ふてぶてしいばかりの葛の根を特に入念に
描いているのは、もっともな処置ということになる。」

杉本氏は、小磯画伯について
『油彩画を見て感動したおぼえがない』と、正直に書いておりました。
そんな視点から見れば、画伯が描いた女性よりも、ここの植物の方が
ひとりの個性として眺められるのかもしれない。

女性と植物といえば、『絵 隠された意味』に
京都国立博物館所蔵の絵襖を見に行く場面がありました。
最後にそこを引用。

「今年の夏も例年どおり、
吉日をえらんで屏風を見に出かけると、ひとりの先客があった。
絵の勉強で京都に滞在しているオーストラリアの女性。

『この草花の絵は、好きですか』

『ええ、とってもキレイ』日本語が話せる。

『私はこの屏風に描かれている草花は、一つ一つがみな、
女のひとの肖像として描かれていると思ってながめるのですが、
あなたは』とたずねてみた。

『それは、わたしには分からない。
どうしてこれが女のひとなの。これ、ハギでしょう。
これは何。ああそうね、シューカイドー。そして・・・・』

『フジバカマ、クズ、オバナ、キキョウ、オミナエシ。
キクもあるし、ナナカマド、サルトリイバラもある』

『どうしてこれがみな、女のひとですか。
やっぱり分からない』

私は古今集の歌を一首、教えてあげた――

『宮城野のもとあらの小萩つゆを重み風を待つごと
 君をこそ待て。まさにこれ、屏風の萩の風情ですね』

小首をかしげて
『やっぱり分からない』 ・・・・・」(p19~p21)

うん。わたしにも分らないのですが、
それでも、小磯良平の女性画よりも、
薬用植物画の方へ、より惹かれるものがあります。
ということで、このプレゼント品を、
飽きるまで、壁に貼っておこうかなあ。
コメント (2)
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