和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

この春、退職。

2015-03-31 | 短文紹介
古本で
佐々木瑞枝著「留学生と見た日本語」
(新潮社)を注文。それが今日届く。

200円+送料80円=280円。
帯つきでした。

まだ、読んでないのですが、
なぜ、この本を買ったのだろうなあ。
ということを思いました(笑)。

そういえば、と
本棚から持ってきたのが
外山滋比古著「国語は好きですか」
(大修館書店)でした。

そのあとがきが思い浮かんだのでした。
ということで、そのはじまりを引用。

「ある大学で外国人学生に日本語を教え
ていた知り合いが、この春、退職した。
定年だというから、退職金をもらっただろう、
ときくと、非常勤だったから何ももらって
いない、という。
32年だか勤めたが、ずっと非常勤講師で、
ボーナスをもらったこともない。定年だけは
専任と同じように適用されるが、退職金はおろか、
記念品ももらわなかった。くれる大学もあるよう
だが、この人の大学はなにもなかった。
すこし淋しそうだった。
名のある私立大学で、海外からの留学生も
七百名ちかくいる。年々ふえているそうだ。
その日本語教育を担当するのは、専任教授一名。
あと十数名は非常勤だという。専任はアラビア語
の専門だそうだが非常勤教員の学識は
はっきりしない。
話をきいていて義憤のようなものを感じた。
留学生もかわいそうだし、日本語もかわいそうだ。
日本のためにもならない。ほっておけないような
気がする。・・・・」

ということで、
「この春、退職した」という箇所が、
知らずのうちに印象に残っていたようです。
まず、280円を読むことに。
ちなみに、佐々木瑞枝さんは教授
のようでした。
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漢字は図形文字なので。

2015-03-30 | 短文紹介
ただいまは、漢字についての、
興味がわいているので、
本棚をさがす。
すると、
講談社の一海知義著
「知っているようで知らない漢字」
が出てくる(笑)。

昨年3月に
コミックハウス トワイライトから
古本を購入しておいたもの
納品の印刷物が挟み込んでありました。

100円+送料360円=460円
うん。送料の方が本より高い。
本は帯つきで新刊同様でした。
ちょうど、読み頃をむかえたので、
パラパラとめくっております。
そこにこんな引用箇所があるのでした。
   (p212~213)

「中国文字学者山田勝美氏は、
つぎのようにいっています。

 最近、台湾の新聞や雑誌で、話題になって
いる話がある。それは、ある日本人が輪禍に
遭って大脳が損傷を受けたため、仮名で書かれた
あらゆる文句は、見てもみなわからなくなったが、
ただ漢字だけは覚えており、またよくわかる、
という報道をめぐって、『漢字と大脳』の問題が、
改めて問いなおされているのである。わが国の
仮名は、中国の『注音符号』と同じく、漢字の
一部または全字を借用して作ったもので、
いわば一種の『音標文字』である。従って、
それらを結合してコトバを構成しないかぎり、
意味を表せない。ところが、漢字は図形文字
なので、それ自身が意味を表し、音声に頼らず、
コトバを離れて独立することができる。
いまこの患者が、脳のどの部分に損傷を被ったのか
は明らかでないが、大脳の構造からいえば、
視覚中枢は後頭部、その直上の右半球にコトバの
視覚的認識(読むこと)中枢があるので、その部分
さえ異常がなければ、図形文字たる漢字は、
十分に認識し得るはずである。
山鳥重医学博士の研究によれば、『人間の大脳は、
左半球が音系文字の記憶を専門につかさどり、
漢字は絵画と同じようなものだから、右半球が
その記憶をつかさどる』と。
筆者の推定と、一致するように思われる。
(「漢字入門」、大修館書店刊『言語』1977年
 7月号)  」


ハイ、本代100円分の引用はここまで(笑)。

漢字に興味を示しはじめた私には、各章ごとに
惹かれる内容で、ちょっとした疑問点が
氷解してゆく、その楽しさ。
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事実の安心感。

2015-03-29 | 朝日新聞
産経新聞3月29日
日曜日の書評欄に
ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士)
による書評が目をひきました。
とりあげられた本はというと、
櫻井よし子・花田紀凱著「『正義』の嘘
戦後日本の真実はなぜ歪められたか」(産経新聞出版)。

はじまりは、
「カリフォルニア州弁護士の肩書を名乗る
人間として、私は様々な場面で、常に
『ファクト(事実)』を重視する。」

後半には、こうありました。

「私は長年、いわゆる従軍慰安婦問題に
関心がなく、『なんとなく』信じていた。
現在は、ファクトを積極的に収集・検証
しなかった当時の自分の態度を反省している。
だから明確なファクトを数多く提示し、様々な
角度から朝日新聞の嘘と、欺瞞に満ちた歴史を
簡潔に教えてくれる本書は、資料として貴重な
だけでなく、読んでいて安心感と心地良さを
覚えた。」

うん。この本は、買わなきゃ。
今度まとめて購入する際の一冊(笑)。
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林香里委員の結論。

2015-03-28 | 朝日新聞
雑誌「WILL」5月号の鼎談。その3人は
櫻井よしこ・西岡力・島田洋一。

一箇所引用。

島田】 朝日の報道のあと、
国内で慰安婦報道が飛躍的に増加した
のと同様、海外、特に米国の主要紙でも
92年1月の報道の直後から慰安婦に関する
報道が始まりました。それ以前には、
慰安婦に関する記事は一本もありません。
慰安婦の英語である「comfort women」で
調べても、朝日の「92年1月強制連行
プロパガンダ」が結実する前は
「快適な(comfortable)女性用の靴が
発売になりました」というような記事のみで、
慰安婦に関するものはない。「sex slave」で
調べても出てこない。これらが紙面で使われ
始めるのは、92年1月の朝日「軍関与」報道
以降です。

島田】・・・・第三者委員会の林香里委員
・・・にもかかわらず、林委員の結論は
「誤解が広まったのは朝日のせいではない。
むしろ保守派が日本のイメージを低下させて
いる」。


う~ん。
林香里委員の個人の意見。
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思考力の四重奏。

2015-03-27 | 本棚並べ
3月になって新刊書7冊まとめ買い。

門田隆将著「原発事故に立ち向かった
吉田昌郎と福島フィフティ」(PHP)

福田恆存著「人間の生き方、
ものの考え方 学生たちへの特別講義」
(文藝春秋)

外山滋比古著「思考力の方法聴く力篇」
(さくら舎)

長野浩典著「生類供養と日本人」
(弦書房)

藤原正彦著「卑怯を映す鏡 管見妄語」
(新潮社)
これ平成24年11月発行初版。
うん。古本で見かけないわけだ。

佐藤淳一著「奇跡の中学校」
(ワニブックスPLUS新書)

長尾和宏・丸尾多重子著
「ばあちゃん、介護施設を間違えたら
もっとボケるで!」(ブックマン社)


目標。
買った本はきちんとひらく。
さて、
「思考力の方法 聴く力篇」
の本文の最後を、まずはひらく。

「ことばの力を信じる人は、
『聴く話す』ことばのかかえる考えが、
『読む書く』ことばの思考とはかなり
大きく異なっていることに気づくはずである。
聴く話すことばは、いかにも浅く、
情緒的なように考えられながら、
ものごとを考えることのできる人にとっては、
知的なするどさをもっていて、
読み書くことば、本の中のことばに、
すこしも後れをとらないのである。

聴くことば、話すことば、
読むことば、書くことば。
これをバラバラにしているために、
ことばの力がどれほど弱まっているかしれない。
これを、めいめいの生活のなかでしっかり
結びつけることができれば、
ことばは真に人間と同じくらい大きなものになる。
ことば自体も、それを求めているはずである。

四重奏は独奏と違った味がある。
思考力の源であるといってよい。
目と頭で考えるのではない。
耳で判断、口でまとめ、思考に結びつける
のが新しい知の方法である。」(p204~205)

昨日は、WILL5月号が届く。
さっそく蒟蒻問答と
坂崎重盛の連載をひらく。
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世の中で一番。

2015-03-26 | 道しるべ

壱万円札といえば福沢諭吉。

今年の私の読書は、
水先案内人・伊藤正雄を得て、
福沢諭吉をたどってゆく年。
それを、3月末に再確認。

すぐに、脇道や枝葉末節に迷い込む
行き止まり読書を反省しながら。

さてっと、目標を掲げるように、
福沢諭吉『心訓』の額を、
テレビの脇の壁に掛けました。
それが、3月24日。
お金には縁のない日々ですが、
福沢諭吉とは、縁のある読書へ。
(こんな風に語る時は、いつでも、
本を読まない時だと、ご推察下さい)

さて、その『心訓』。
『世の中で一番・・』とはじまる、7つの指摘。
テレビを見ながら、この額を
チラチラ見ては、反芻することに。

一本の太い幹になるような読書がしたい。
という願いがかないますように。

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本質を外しておいてくれる。

2015-03-25 | 地域
今日は、ひさしぶりに東京へ。
高速バスで行きます。
電車は使わなくなりました。
快晴で、富士山が見えました。
白い裾野がひろがっています。

藤原正彦著「大いなる暗愚」(新潮社)
を持っていきました。
読みませんでしたけれど(笑)。

まあ、その「はじめに」を引用。


「本書は週刊新潮の写真コラムに
連載したものを集めたものである。
この欄はもともと長年にわたって
山本夏彦氏が担当していたもので
私も愛読者の一人だった。・・・」

こうはじまっており、
最後も引用しておきます。

「・・・駄文を排するため、一篇を
書き上げるたびに愚妻に頭を下げて
読んでもらった。愚妻の『何これ』で
そのまま丸めた完成原稿もいくつかある。
もし本書に一篇でも駄文があれば専ら
それを見落した愚妻の節穴を証明する
ものである。
もし本書を貫く感覚がどことなく古臭い
としたら、『時代遅れの日本男児』と
看破した夏彦氏の慧眼を証明する
ものである。
もし本書に新しい視点が少しでもあった
としたら、それはいつも本質を外して
おいてくれるマスコミの親切のおかげである。」


うん。パラリパラリと
数篇を読んでは外の景色を見ている
という贅沢なバスの車中でした。
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割愛削除すべし。

2015-03-24 | 短文紹介
伊藤正雄著「福沢諭吉―警世の文学精神」
(春秋社)から引用。


「石河幹明が大正版『福沢全集』の最後に
付記した『福沢先生の文章』という一文などは、
その面目を躍如たらしめる。
『・・・・・さて文章に就て先生の教訓は、
文を書き終ったならば、二度三度は勿論、
五度も六度も読み返す可し、読み返す度ごとに
必ず余計の辞を発見する。之を発見したならば
思ひ切って割愛削除す可し、初学の文章には勿論、
辞の乏しくして言ひ廻はしの足らぬ所はあるが、
夫れよりも重複余計なる文句の多いのが通弊なれば、
思ひ切って之を削り、勉めて簡潔にすることに
心掛けねばならぬとて、大抵の文は一たび先生の
眼を経れば、墨くろぐろと塗抹さるるのが常である。』」
(p230~231)

今日は彼岸明け。
晴れのよい天気ですが、寒く感じます。

うん。文を書かなければ、
削除することもない、
というのも寂しいなあ(笑)。
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蓮如と諭吉。

2015-03-23 | 道しるべ
伊藤正雄に
「『福翁百話』の余禄」があり、
そこに蓮如と福澤諭吉のつながりが
指摘されておりました。

「福沢は、『百話』のやや後に執筆した
『福沢全集緒言』(明治30)の中で、
若い時から真宗の蓮如上人の御文章(お文さま)
を熟読し、その平易な仮名文を文章の模範に
したと語っている。しかし『学問のすすめ』や
『文明論』などの文体には、まだ漢文調の
名残りが強く、お文さまの影響などは
あまり認められない。福沢の文体に、
蓮如や親鸞などの法語の影響があるとすれば、
やはり主として晩年の『百話』などの文章で
あろう。晩年の福沢は、多くの僧侶を知友門弟
に持ち、なかんずくわが家の宗旨たる真宗の
僧徒には因縁が深かった。彼は宗祖親鸞上人を
わが仏教界の第一人者と称揚していたほど
だから(「福沢諭吉伝」四、八九等)、
老来ますます親鸞やその祖述者蓮如などの
文章に惹かれ、その思想とともに、
文体をも自家の薬籠中に摂取したものと
思われる。」(p132~133)

うん。こうして、
蓮如上人の御文章を
読むキッカケをつかめました(笑)。
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手に馴染んだ言葉。

2015-03-22 | 書評欄拝見
産経新聞書評欄(3月22日)に
浜崎洋介(文芸批評家)氏の書評で
福田恆存(つねあり)著
「人間の生き方、ものの考え方」
(文藝春秋・1500円+税)を
とりあげておりました。
そのはじまりを引用。

「福田恆存を読み始めるには何がいいか
という質問を受ける度に、しばしば私は
答えに窮してきた。が、『人間の生き方、
ものの考え方』を読んで、その迷いにも
ようやく決着がつけられそうだと思った。
九州各地を回りながら学生に向けて語られた、
『日本近代化論』から個人の『人生論』にまで
及ぶ議論は、具体例を多用した語り口の
易しさを含めて、福田恆存の思想の本質と
その魅力を伝えて間然するところがない。
近代化以降の日本の『混乱』を語って
福田は次のように言う。それは、私たちの
『生き方と言葉との間の溝』に原因がある
のだと。たとえば道具のことを考えてほしい。
物に心がピタリと重なって初めてそれは手に
馴染んだ道具たりうるが、その物との付き合い
方は、そのまま個人の生き方や文化をも形作って
いるだろう。そして、そんな馴染みの感覚は、
私たちがふだん道具として付き合っている
言葉において最も身近である。・・・」

あれ、もう書評半分を引用してしまった(笑)。
うん。買ってみたい一冊。
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諭吉・芭蕉の俗語俚言。

2015-03-21 | 古典
伊藤正雄著「福澤諭吉論考」(吉川弘文館)
の序に、

「私が、近年に至って、福沢研究に着手する
やうになったのは、青年時代に親炙した故
沼波瓊音先生の影響が大きいやうに思はれる。
先生は、明治大正時代の異色ある俳人として、
また鑑賞力のすぐれた国文学者として著名で
ある。私が東大において、はじめて俳諧史の
講師たる先生から、芭蕉の講義を受けたのは、
大正末年のことであった。直観力の鋭い、
個性に富んだその講義は・・・
もしも私が若き日に、沼波瓊音といふ指導者
との出会ひに恵まれなかったならば、あるいは
福沢諭吉といふ偉大な文学者とも生涯無縁で
終ったかも知れない。瓊音先生の慷慨の志は、
魯鈍私の如き者にすら、そこばくの薫化を
与へられたといへよう。たまたま私は、今年
福沢の没齢、数へ年六十八歳に達し、あれを
憶ひこれを想うて、感慨の一しほ切なるもの
がある。・・・」

気になるのは、
福沢諭吉と松尾芭蕉との接点でした。
「福沢諭吉と国語の問題」と題した
講演のなかに、芭蕉が登場しておりました。
そこを引用。


「芭蕉は、『俳諧の益は俗語を正すなり』
と言ったと伝へられる。つまり旧来の和歌
とか連歌とかいふ貴族的、古典的な詩歌が、
卑しんで用ひなかった俗語俚言などの価値を、
芭蕉はよく認識して、これを俳諧の世界に
詩語として活用した。そこにはいはゆる蕉風
の俳諧といふものが、これまでの詩歌にない、
語彙の豊富な、内容の多種多彩な庶民芸術、
平民文学として成功した大きな意義がある
のでありますが、福沢がそれまでの古臭い、
型苦しい漢文調の文章の型を破って、俗談
平話をふんだんに採り入れた、自由自在な
平民本位の散文形式を編み出したことも、
日本文章史上、たしかに一つの画期的な
業績であって、いはば詩歌における芭蕉の
功績に通ふところがあるとも言へるやうに
思はれるのであります。」(p47)


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寝転んで書いたかと。

2015-03-20 | 短文紹介
伊藤正雄氏に
「福沢諭吉と国語の問題」と題する
講演があります。
そこから引用。


「福沢が文章を平易に書くために
いかに苦心したかは、この
『福沢全集諸言』の中にいろいろ
具体的に語られていますが、
彼に親しかった門人の回顧録などを
見ても、そうした事実がよくわかる。
先生は、自分の文章を書く時は
もちろんであるが、弟子の文章を
直すにも非常に苦心された。
一字一句もおろそかにしない。
何時間もかかって、時にはウンウンと
掛け声をかけて、まるで真剣勝負でも
するかのような格好で机に向かって
ゐた。そうしてやっと出来あがった
文章を見ると、まるで寝転んで書いた
かと思はれるやうな、自然な無造作な
ものに見えた、といふことであります。
これがすなはち福沢の文章の人知れぬ
苦心の存するところだったのである。
もちろん時代が時代であったから、
福沢の文章はすべて文語体であるが、
当時としてはあんな読みやすい、
くだけた文語体はない。
明治初期の多くの啓蒙学者のうちで、
飛び抜けて福沢の名が民衆に親しまれ
たのも、ただその思想や人柄のせゐ
ばかりではない。彼独特の平易明快で、
しかもユーモアにあふれた文章の魅力
があづかって最も大きかったことは
疑へないと思ふ。」
(伊藤正雄著「福澤諭吉論考」p37)


うん。今日はよい天気。
すこし暑くなりそうだなあ。
そういえば、いつのまにか、
もう20日になっておりました。
一月往く。二月逃げる。三月去る。
まったく、すぎてしまえばその通り(笑)。
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諭吉と国語。

2015-03-19 | 短文紹介
伊藤正雄著「福澤諭吉論考」(吉川弘文館)の
古本は、除籍図書。
以前は大阪教育大学付属図書館にあったもので、
除籍済のシールが貼ってある。

 なにわ屋贅六(埼玉県草加市新里町)
4800円+送料350円=5150円でした。
鉛筆での印がところどころにあり、
注意して読まれた本なのだろうと、
いう感じが伝わってきます。
表紙も手垢感がありました(笑)。



最初の方を、パラリとひらくと
「福沢諭吉と国語の問題」のなかに、
こんな箇所


「・・これは『文字之教』よりずっと後年
の明治22年に書かれた『文明教育論』と
いふ文章の一節であるが、封建時代以来の
旧式な暗記中心の教育が、むづかしい古語
古文の詰めこみに終始して、最も大切な
国民の科学的思考力や、合理的判断力を
麻痺させてしまふことを憂へて、
文明の教育は、文字の知識よりも、
推理力や想像力、あるいは創造力などの
発育に重きをおかなければならないことを
論じたものであります。」(p41)

うん。
私はこれを読みながら、
ちょうど、漢字のことを
思っていたので、
イロハの片仮名から、
漢字の偏や旁へとつながる、
漢字の導入の道筋を思い描いておりました。
漢字は楽しまなければ(笑)。
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ことばをつかう。

2015-03-18 | 短文紹介
加藤秀俊著「なんのための日本語」(中公新書)
の最後の方にありました。
この箇所を引用。


「・・しからばどうするか。
解決方法は簡単だ。おかしいとおもう語法は
つかわないことにしたらいいのである。
ひとさまはいざ知らず、わたしは絶対に
つかわない。それだけのことである。
およそことばをつかう、ということは
語彙や語法を選択する、ということである。
その選択基準は個々人の信念あるいは、
ことばについての思想という以外の
なにものでもあるまい。その信念によって
くみたてられた文がそのひとの『個性』
というものなのではないのか。
みんながそういっているから、というので
それに同調する必要なんかありはしない。
  ・・・・・・
『ことばは生きもの』だから、と説明なさる
かたがおられる。いや、たいていのひとが
そうおもっている。たしかに、新語が
つぎつぎにあらわれ、かつてつかわれていた
ことばが『死語』になってゆくありさまを
みていると、ことばの世界は時々刻々
うごき、呼吸している『生きもの』の
ようにみえる。だが、このもっともらしい
『生きもの』説にまどわされてはいけない。
『生きて』いるのはことばをつかう『人間』
なのであって、けっして『ことば』
なのではない。・・・生命力をもっているのは
おたがい人間なのである。その人間たちが
どんなことばをえらび、どんなふうにつかうか、
によってことばは変化する。それだけのことだ。
われわれがことばに責任をもつ、というのは、
ひとりひとりの人間がみずからのことばを
つかって生きるということなのである。」
(p225~226)


以前にひらいたときには、
ここを読みとばしておりました。
この本は一度だけ読んだのでは、
読んだうちにはいらないようです。
私の場合はそうでした(笑)。
しばらくは、座右に置くことに。
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カオナシ文。

2015-03-17 | 好き嫌い
加藤秀俊著「自己表現」(中公新書)
から一箇所引用。


「『わたし』を濫発しすぎるのも、あんまり
感心できることではない。しかし一般的に
いって、日本人の文章には『わたし』が出る
ことがすくない。遠慮深いのであろうか。
遠慮だけではない。『わたし』を出さない
ことで、責任をぼやかすくふうをわれわれは
凝らす。たとえば
『・・・といわれている』
『・・・と見るむきも多い』
『いわゆる・・・』
これらの表現は、不特定の第三者を言外の主語
として使った表現で、われわれにはなじみ深い
構文だが、ここにあるのは、その文章の内容に
ついての責任が、どこにあるのかわからなくする
煙幕のようなものだ。わたしは、こういう構文の
文章は、おおむね信頼しないことにしている。
なにかしら、書き手のがわに、一種のいやらしさ
を感じるからだ。しかも、この方法を使うと、
擬似的客観性とでも呼ぶべき効果がうまれるから、
そのいやらしさは倍加する。うまい逃げ方には
ちがいないが、スッキリした文章ではない、
とわたしは思う。」(p110~111)


う~ん。ややもすると、
いやらしい構文を、使いたがる私は、
反省すること頻り。
それにしても、『倍加する、いやらしさ』の
包囲網をくぐりぬけるのに、
先頭は、やっぱり私からだな(笑)。

加藤秀俊氏の本は
『自己表現』の継続展開版として
『なんのための日本語』(中公新書)があり、
そこからも引用することに。

「・・こんなふうにかんがえてくると、
日本語があいまいだ、という説はまったく
根拠のないものであることがわかる。
もしもこの説にいささかの真理があると
するなら、日本人は日本語をつかうに
あたってあいまい表現を使用する傾向が
つよい、ということなのだろう。
『日本語はあいまいだ』というのは
まちがいである。あいまいなのは
日本語の性質に起因するのではなく、
この言語をつかうひとびとの使用法
なのである。このふたつははっきり
区別しておかなければならない。
もしもいまの日本語が『あいまい』だと
いうなら、それはあいまい表現をつかう
ひとがふえてきた、ということなのであろう。
『あいまい』はそれじたい悪ではない。
いろんないいまわしをつかって明晰にも
あいまいにも言語がつかえる、というのは
立派な言語技術なのである。
文明の言語というのはそういうことだ。」
(p108~109)

ということで、
しばらくは、本2冊
『自己表現』と『なんのための日本語』
とを座右に置くことにします(笑)。
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