和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『安房郡の関東大震災』余話

2024-06-30 | 安房
「安房郡の関東大震災」の題で1時間のお話をするのですが、
1時間という枠の中へ納まらないそんな話があります。
拡散してゆくあれこれを、集中して枠に入れ込むには、
ここはどうも、削らなければならないあれこれがあり、
けれど、そのまま削り消してしまうのはどうも惜しい。

当ブログは、そんな削りかすで収まりきれない思いを、
存分に載せて記しておけることの、楽しさありがたさ。

ということで『 「安房郡の関東大震災」余話 』として、
枠に収まらない話しを『余話』ということで記しおきます。

 かりに『房総の海と牛』と題しておきます。

「安房震災誌」に、私に気になる2つの言葉がありました。

   『 海の時代 』 ( p276 「安房震災誌」 )
   『 牛乳の国 』 ( p256 「安房震災誌」 )

この震災誌では、震災にまつわる『海の時代』と『牛乳の国』とが
語られ展開してゆくのですが、ここから、私に思い浮かんで来たのは、
海と牛との2つの絵でした。

『海の時代』から浮んできたのが、青木繁の絵『 海の幸 』でした。
『牛乳の国』から次に浮んだのが、坂本繁二郎の絵『うすれ日』です。

明治37(1904)年に、青木繁・坂本繁二郎らが千葉県布良海岸へ行きます。
そこで青木繁は『海の幸』を描き、9月の白馬会に出品しております。

ちなみに、日露戦争は1904~1905年です。
1902年に、青木繁は徴兵検査のため帰郷、近視性乱視のため不合格。
そうして、坂本繁二郎も徴兵検査で身長が足りず不合格でした。

明治37年(1904)8月22日に青木繁は、布良海岸から、
福岡県八女郡三河村の友人へと手紙を送っております。
その書き出しは、こうでした。

「 其後は御無沙汰失礼候、もー此處に来て一ヶ月余になる、
  この残暑に健康はどうか? 僕は海水浴で黒んぼーだよ、

  定めて君は知って居られるであろうがここは萬葉にある
 『 女良 』だ、すぐ近所に安房神社といふがある、官幣大社で、
  天豊美命をまつったものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で
  上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相異ない、

  漁場として有名な荒っぽい處だ、冬になると四十里も五十里も
  黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ・・・    」

こうして、布良で青木繁は『海の幸』を描きました。
その青木繁は、明治44年3月25日に29歳で亡くなっております。

明治45年7月30日、明治天皇がなくなられました。
大正と改元されたその秋の第6回文展に坂本繁二郎の『うすれ日』が出品されます。

大正元年(1912)坂本繁二郎(30)は房州御宿地方に赴いております。
その年の作品は、『うすれ日』『御宿村の一部』『海藻とりの女』。
次の年の作品は、『魚を持って来た海女』『海草採りの女』『犬のいる風景』。
翌々年の作品は、『人参畑 房州波太漁村』『海岸の牛』『早春』『漁村』。

夏目漱石は、坂本繁二郎の『 うすれ日 』の
絵の評文を新聞に載せており、そこを引用してみます。

「 『 うすれ日 』は小幅である。
  牛が一匹立っているだけである。・・・

  この牛は自分の嫌いな黒と白の斑(ぶち)である。
  その傍には松の木か何か見すぼらしいものが一本立っているだけである。

  地面には色の悪い夏草が、しかも漸(やっ)との思いで
  少しばかり生えているだけである。 ・・・・・・

  それでもこの絵には奥行きがあるのである。
  そしてその奥行きはおよそ一匹の牛の寂寞として
  野原に立っている態度から出るものである。 ・・・・  」

坂本繁二郎著「 私の絵 私のこころ 』(日経新聞社・昭和44年)には、
はじめの写真入りページにこの絵が掲載されておりました。
本には、坂本繁二郎の文がありますので、そこから引用。

「 うれしかったのは夏目漱石の評文を新聞で見たことです。
  切り抜きを保存しているのですが・・・・

  牛は好きな動物です。自然の中に自然のままでおり、
  動物の中でいちばん人間を感じさせません。
  大正時代の私は、まるで牛のように、牛を描き続けたものです。 」

大正元年に、坂本繁二郎の絵を展覧会で見た夏目漱石は
大正5年12月に亡くなります。その大正5年の最後の夏に
漱石は、芥川龍之介らに手紙を二回にわけて送っております。
その手紙のなかにも、牛がでてくるのでした。
最後に、2つ漱石の手紙から牛がでてくる箇所を引用しておわります。


8月21には、芥川龍之介・久米正雄が、
千葉県一ノ宮から葉書をよこしたのに対して返事を書いております。

「・・・・・何か書きますか。・・・無暗にあせっては不可ません。
  ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。・・・・・ 」

つづいて、8月24日にも漱石は手紙を書いております。

「 此手紙をもう一本君等に上げます。
  君等の手紙があまりに溌溂としてゐるので、
  無精の僕ももう一度君等に向って何か云ひたくなったのです。・・・   」


「  ・・・・牛になる事はどうしても必要です。
  吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。

  ・・・・あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。・・・

  決して相手を拵らへてそれを押しちゃ不可せん。
  相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。

  牛は超然として押して行くのです。
  何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。

           ・・・・ 是から湯に入ります。

       8月24日       夏目金之助        」





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「安房郡の関東大震災」のはじめに。

2024-06-28 | 安房
『安房郡の関東大震災』という題の出だしは、
首都直下地震とは? の定義からはじめたい。

『 首都直下地震とは関東地方の南部の
  神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、茨城県南部で
  起こるM7級の大地震を指す総称である。 』(p24)

上記は、武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書・2023年)から
引用しました。武村氏の本は題名にあるとおり東京の話が中心になります。

私がこれから話してゆくのは『安房郡の関東大震災』と題して、
大正12年9月1日の大震災を、安房郡に焦点をあわせてゆくものです。

たとえば、吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)には、
千葉県への言及があるのでした。

「千葉県の被害も、驚くべき数字をしめしている。・・・
 殊に相模湾をのぞむ房総半島南西部の沿岸各地の被害はすさまじかった。」

はい。この文庫のp58に指摘されている箇所なのですが、
その次のページ(p59)からは「東京の家屋倒壊」へと移ってゆきます。

安房の地に住んで、地元の大震災について知りたいと思っても、
こと関東大震災に関しては東京が中心に語られてゆくのでした。

昨年、「関東大震災と『復興の歌』」と題して講習した際に、
それは、安房農学校で震災後に歌われていた復興の歌を
テーマに語り、歌ったのでした。
その最後に、アンケートをとった際に
『郷土歴史』への興味の項目に、全員が〇をつけていました。
又、コメント欄に、御一人の方が
『 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
   地域の受災状況をくわしく知りたかった。 』と
書いてくれておりました。

はい。『地域の受災状況をくわしく知りたかった。』
というのは私も知りたい一人でしたので、
そういう講習があれば聞いてみたいと思っておりました。
一般に、関東大震災の講演となると、当然のように東京がテーマとなります。

うん。安房郡の関東大震災の状況を聞けないのなら、
自分でそれを語って、そういう地元の講座の嚆矢としたい。
とまあ成り行きとしては当然の帰結なのですが思いました。

幸いに安房の関東大震災については、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』(上下巻)が
資料としてあります。ちなみに吉村昭著「関東大震災」の最後の
参考文献には、これらの本が一覧からはずれて載っておりません。
うん。ここはひとつ安房の人が真っ先に語ってもよいのでしょう。

はい。こんな風にして講習のはじまりを語ってみたいと思います。

はい。これを講習の語りの始めにするとして、
後は、どのような内容から順番に語ってゆけばよいかを
次には、その順番をシャフルしてゆくことにします(笑)。

はい。当ブログでは、8月の最終水曜日に行う講座の講習録を、
以後ブログ内でこのように、あれこれと組み立ててゆきます。
楽しんで日々録ブログに上げますのでよろしくお願いします。

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こそ泥棒

2024-06-27 | 地域
主なき家へと、1カ月ぶりに2人して家と庭掃除に出掛けた際に、
玄関の戸は閉まっており、そのままに入ると、
『 あれ、探し物でもした 』という声。
居間の飾り棚の箱類があけられてソファーにひろげられている。
ポイントをしぼって狙っているらしく、家を見回すと、
引き出しとか戸袋とか、洋服ダンスとか、小物入れとかが開いたままに。
ようやくコソ泥に入られたとわかる。
居間の出窓の留め金のすぐ上のガラスが数センチ割られている。
それも閉めて、カーテンも閉めて引き揚げたらしく
ちょっと見には誰かが入ったのかもわからなかったのでした。

派出所の巡査に来て頂き、見てもらう。
靴を脱いではいったらしいこと、
手袋をしていたらしく、ガラスに指紋のあともないこと、
それらを巡査の方が説明してくれる。

普段使っていない家なので、お金は置いておりませんが、
箱に入ってモンブランとかのペンが抜き取られていたら、
それはペン先が金だと持ってゆくのだそうです。
贈り物の金杯は、メッキなのでそのまま裏返して残ってる。

ちっともこちらで確認もしなかった、たとえば
ネクタイピンとかの金属類もまとめてなくなっており、
こちらにしたら、何がなくなったのかもわからない始末。

古くて使っていなかった部屋も物色されておりました。
仏壇も本棚も、写真類も荒らされていなかったので、
来た時には、気づかなかったのでした。

こういうのは、又しても入られる心配があるのですが、
心配もほどほどに茂って来た雑草や庭掃除に汗を流す。

はい。そんなことがありました。
土足で入り込んで、あちこち部屋を滅茶苦茶にして
いったわけではないので、それが不幸中の幸いでした。

さいわい、ガラス屋さんがその日のうちに来て、
修理もその日のうちに終えることが出来ました。

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いいこともある。

2024-06-25 | 前書・後書。
産経新聞を購読してます。といっても、パラパラとめくるだけ。
この頃、原英史×高橋洋一の新書がこの新聞の3面下広告に載っていて、
気になっていたので昨日注文したら、今日のお昼に届きました。
「利権のトライアングル」(産経セレクト・令和6年6月24日発行)。

はい。高橋洋一氏が7ページほどの『はじめに』を書いています。
うん。その『はじめに』の最後を引用しておきます。

「 ・・・マスコミと国会議員がつるむと違う。
  火のないところにも火をつけて火事にできるのだ。

  まったくおそろしい時代になったが、いいこともある。

  今やSNSを使って、個人でも巨大組織のマスコミや
  巨大権力の国会議員とも闘える。
  原さんの勝訴はその闘いの結果でもある。  」 ( p9 )


はい。私は『はじめに』を読めただけで、もう満足しています。
何をいっているのやら。うん。世の中には『いいこともある』。

ということで、あとがきにあたる、原英史氏の『おわりに』の
出だしの箇所を最後に引用しておくことに。

「毎日新聞のデタラメな記事が出たのは2019年6月11日でした。
 その後も毎日新聞は連日、一面トップで私の『悪事』を報じました。
 
 数日後に森ゆうこ・前議員らにより野党合同のヒアリングが結成され、
 国会での誹謗中傷も始まりました。・・本当にひどい目にありました。

 それからもう5年が経ちました。
 長い時間がかかりましたが、毎日新聞と国会議員を相手取った
 訴訟は、ようやくすべて勝訴で終えることができました。  」(p203)

「 これは私自身のためではなく、日本の未来のための戦いなのです。 」
                             (p209)


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そんなことより私はいつも

2024-06-24 | 地震
あれれ、山本夏彦著「『室内』40年」(文藝春秋・平成9年)をひらくと
東京都知事選という箇所がありました。
それははじめの方にありました。小見出しが『 地震は票にならない 』。
この本は、インタビューに夏彦氏が答えている一冊でした。

―― 清水(幾太郎)さんが近く大地震が来るぞと
   説いているのをご存じだったんですね。

山本】 ああ聞いていた。けれども地震は票にならない。
    秦野章が地震は票になると誤解して、  
    東京都知事選を美濃部亮吉と争った。

    そして失敗した。地震の話はね聞きたくないんです。
    いずれはあるに決まってるんだから。
    当時は60年に1度あると信じられていた。・・・・   (p43)


―― 地震は票にならないっていうのはどういうことですか。

山本】 地震で壊滅するのはいつも本所深川です。
    次もそうに決まっているから、そこへ行って選挙演説したんです。
    
    ところが誰も聞いてくれない。
    地震の話は聞きたくない、あれは天災だ、運だ、
    猫の額みたいな、あんな『火よけ地』で助かるはずがないと
    知っているから耳をかさない。

―― 今度の阪神大震災で関心が高まってます。

山本】 一年たったら忘れます。人間はそういう存在です。
    ・・・・・・・・・・・・・・         (p44)


建築雑誌に関する箇所も印象深い。

山本】 ・・・でもねえ建築家ならまた違った心がけがなければいけないな。
    建築雑誌は地震をとりあげない。見ててごらん地震の特集をするか
    しないか。

    日建設計の林昌二さんに
    『JIA』(新日本建築家協会が出す月刊の機関紙)
    で扱いますかって聞いたら、扱わないでしょう、って言ってました。

    なぜ扱わないかって聞いたら
    専門家としてやろうとするからでしょうと答えた。
    専門家ならいいかげんなことはできない、
    データが揃うのを待っていたら何年かかるかわかりません。
    揃う頃にはもう地震のことなんか忘れている。    (p45)


はい。この箇所は以前読んだのですが、すっかり忘れておりました。
それよりも、私が覚えていたのは、懐中電灯を取り上げた箇所です。
さりげないのですが、何だか印象に残り、懐中電灯を買いました。
最後にその箇所を引用しておわります。


山本】 ・・そんなことより私はいつも懐中電燈持ってる。
    妻に死なれて一人になって『 雨が降る日はいやだなあ 』
    って書いたことがある。

    片手に傘、片手に鞄を持って両手がふさがっている。
    夜家に帰ると暗くて勝手口の鍵があけられなくて、
    だから懐中電燈を持ってるの、二つも。

    ひとつは万年筆みたいなの、それからちゃんとしたのと。
    手さぐりでつかめる。

    もし地下道が真暗になったとき、
    それがどのくらい人助けになるかわからない。
    住友系の大手町不動産の元社長『室内室外』の執筆者
    臼井武夫さんから教えられた。

―― 臼井さん、用意周到な方ですよ。
   実は私も山本さんから聞いて持ってるんです。

山本】  自分より人助けだと思ってる。
    まっくらになるとパニックが起こる。
    だからあんなちっぽけな灯でも助かる。    (p44~45)
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クリップでとめ、題つけ。

2024-06-23 | 地震
山本夏彦対談集「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社・2009年)。
この本に、清水幾太郎さんとの対談「誰も聞いてくれない地震の話」がある。
はい。そこから、この箇所を引用

山本】 清水さんは本所でも被服廠跡には逃げておられませんね。
清水】 ええ、遠かったので逃げておりません。

山本】 あそこへ逃げこんで死んだ人がたくさんいますね。
清水】 私はあそこで従弟を含めて親戚10何人かをなくしています。
    叔父と叔母は死体の山の中に埋もれて、2日目でしたか、
    ザーッと雨が降り、それで息をふき返しました。

山本】 話には聞きましたが、本当にあったんですね。
清水】 はい、非常に稀な例でございましょう。
    その時の経験が江東ゼロメートル地帯には残っております。
    被服廠跡へ逃げろって言ったのは警察なんです。
    そこへ逃げたのが4万人で、3万8千人が死にました。
    折れ重なった死骸の山の高さは1メートル以上もありました。

山本】 そういう経験をしながら、なぜ近くあるはずの
   地震の警告を聞かないんでしょう。
清水】 聞きたくないんでしょうね。      ( p61~62 )


今年は当ブログで『安房郡の関東大震災』についての日々録をしており。
さてっと、これらをまとめ、1時間の講習録をつくろうと思うのでした。
とりあえず、ブログの日々録をプリントしてみて、
項目別に分けるという作業をしてみることに。
はい。トランプ並べをしているような気分で。

 首都直下地震  余震  安政地震 房州陥没
 能登地震   記録を残す

 北條町 安房郡長大橋高四郎 青年団の力 郡制とは
 1日から3日まで 山間部への急使 地涌菩薩
 
 正木清一郎 山田鹿太郎 摂政官 後藤新平 水田三喜男
 山階宮殿下 震災後の復興

 曽野綾子の云う天賦の才能 安房郡長の呼びかけ 腹をきめた
 感謝の語り草 安房震災の救護

 地震よりも恐れ戦いた 流言蜚語 人の言葉の散りやすさ
 米騒動 女の集団 臨機応変

 落ち込む人 テンションが上がる人 平常心
 防災士教本の教え 曽野綾子の平常心

 海の時代 牛乳の国 郡長と農学校 人間力と団体力
 参考文献へのひとこと


とりあえず、クリップで止めて、項目としての題をふってみる。
うん。これだけじゃなかったような気がするのですが、まあいいか。
これだけでも、1時間以内に語れるように削ってゆくのは
何ともめんどうそうです。
けれども、何とか聞いてもらえるように話します。
そうそう、聞きたい方が来てくださるのですから。
 

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『房州小湊』の大旗を立て。

2024-06-22 | 安房
関東大震災の当時、千葉にいた嶋田石蔵氏は、
安房に歩いて帰郷しております。その途中で

「・・・仲間数人と路線づたいに房州へ向った。
 途中曲りくねった路線の上を、余震におびえながら
 とぼとぼと歩いた。五井駅付近に来た時、
 
 道往く人に、大島が海の中に沈んで、
 房州も陥没して海びたりになってしまったと聞かされた。

 でも、まあとに角、
 家に帰ろうと勇気をふるい起こして歩きつづけた。
 上総湊付近まで来た時、房州は大地震だったが、
 海には沈んでいない事が分かった。
 途端に腹がへってきて・・・・       」
          ( p573~574 「館山市史」昭和46年 )


『房州も陥没して・・』とあるのですが、
『房州は海底に沈んで終って全滅だ・・』と、
こちらは、『ビラ』にあったという箇所がありますので、
こちらも、引用してみます。

「救護船に乗って罹災民捜索隊が『房州小湊』といふ大旗を立て
 東京に行き、各避難所を訪問した時、

 房州に関係ある避難者に直ぐ尋ねられた。

『 房州は無事でせうか。飛行機の撒いた≪ ビラ ≫によると、
 房州は海底に沈んで終って全滅だと書いてあった房州が海底に
 沈んで終っては父母兄弟も無事で居ない死んで終ったろうから
 何とかして東京で食べて行かなければならないとあきらめて居た 』
 と云ったので

 房州は海底に沈まない、つぶれた家もあるが無事だ
 と話したら、関係者は嬉しなきに泣いた。         」

   ( p964~965 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

これに関して、他のページに罹災民捜索隊の具体的な記述がありました。
そちらには、小湊町から東京へ出ていた人数もでておりますので、
丁寧に引用しておきます。

「 『 東京横浜等の震災地に住居する本村出身及出稼者、奉公人等
    の生死をたしかむる為捜査隊出発するにより同地に関係者
    ある者は直に其の住所氏名を申出ずる様   』通知せしに

  申込殺到し捜査人百八十名を算するに至れり、
  震動未だ止まざるを以て、村長助役は野外にて之が処理を為したり、

  折から何時海嘯襲来するやも知れず船を出すは危険なり
  と云ふ者ありたるも村長は決行することとなり、
  総噸数12噸の発動機船若宮丸、田中丸を借受け茲に
  決死的乗組員を募集し26名を決定し
  米15俵其の他副食物、飲料水を積込4日午後3時
  小湊を出帆せしめたり。

  船は5日午前10時東京霊岸島に到着、
  1班を4名とし5班を組織し乗組員は弁当を腰にして
 『 房州小湊 』と大書せる旗を先頭に
 『 小湊救護団 』と書きたる輪けさをかけ
  丸の内、上野、品川其の他の避難所を訪問し
  生存せるものには米其の他副食物を与へ
  不明の者は震災当時の住所に赴き建札あるや否やを
  調査し建札あるものは其の避難所を訪問して
  家族の生死を確め米其の他副食物を救与したり

  帰村に際し東京より便乗者50余名あり、
  横浜に寄港12名を便乗せしめ横浜を出港
  一路小湊に向け8日午後4時海上無事小湊港に帰港したり。 」

         ( p945~946 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
  

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とてもようしよらん

2024-06-21 | 思いつき
曽野綾子著「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」
( 扶桑社・2011年9月10日発行 )に
スイス連邦法務警察省発行『 民間防衛 』という本が紹介されていました。

その紹介しながら、
「備品の中に聖書があるというのもスイスらしい。 
 日本だったらもちろんお経文を持ち込む人もいるだろう。
 両親や妻子の写真が代わって、人を勇気づけることもあるだろう。
 何でもいいのだ。人間は敬い、愛するものを持たねばならない。 」
                        ( p113~114 )

ところで、このすこし前に「 南極越冬隊の装備 」という言葉があって、
あれっと、おもいました。

「 人間の性格はそれが世間通りの
  いいものであれ悪いものであれ、
  使いようということはあるのである。
  だから私は一度、南極越冬隊の装備を
  手がけてみたいとさえ思ったことがある。 」(p113)

ここに『 南極越冬隊 』という言葉がある。
そうだ、と思い浮かぶのは西堀栄三郎著「南極越冬記」でした。
梅棹忠夫氏が、その本ができるまでを書いていたのが印象的でした。
そこを引用。南極越冬から帰ってきた西堀氏の様子からでした。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。
 講演や座談会などにひっぱりだこだった。
 越冬中の記録を一冊の本にして出版するという約束が、
 岩波書店とのあいだにできていた。

 ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
 桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、

『 西堀は自分で本をくつったりは、とてもようしよらんから、
  君がかわりにつくってやれ  』という命令である。・・・

 まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、
 いったい編集するだけの材料があるのだろうか。
 ゴーストライターとして、全部を代筆するなど
 ということは、わたしにはとてもできない。

 ところが、材料は山のようにあった。
 大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
 西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
 そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
 さまざまなエッセイの原稿があった。

 このままのかたちではどうしようもないので、
 全部をたてがきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
 200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
 岩波新書1冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。

 わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある
 岩波書店の別荘にこもった。全体としては、
 越冬中のできごとの経過をたどりながら、
 要所要所にエピソードをはさみこみ、
 いくつもの山場をもりあげてゆくのである。

 大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
 クリップでとめた原稿用紙をならべて、
 それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
 文章をなおしてゆくのである。

 ・・・どうやらできあがった。この別荘に
 一週間以上もとまりこんだように記憶している。・・ 」
        
    ( p15~16 「 西堀栄三郎選集 別巻 西堀栄三郎追悼 」 ) 


はい。私はたまたま『 安房郡の関東大震災 』と題して
1時間ほどの講習をするのですが、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』の2冊だけで
その内容の材料は山ほどありました。 
そこから、それこそ曽野綾子さんも登場させながら、
冗長な部分を削りながら、時間内に語る内容を編集吟味する。
「クリップでとめた原稿用紙をならべて」なおしてゆく。
講習録を作るとして、それまでに、あと2ヶ月。         
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お鉢が廻って来た。

2024-06-20 | 安房
昭和8年に編纂された本の編纂者あとがきに

「・・・電車で本所の被服廠前を通るにも、
  私は心中に黙祷することを忘れないのである。 」

という箇所がありました。
この本の題名は『 大正大震災の回顧と其の復興 』
そのあとに、千葉県庁社会課内・千葉県罹災救護会とあります。

編者の安田亀一氏の「編纂を終へて」のはじまりは

「 千葉県に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
  而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)・・・・・

  ・・・このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。
  あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
  社会事業関係の仕事に従事してゐた。

  而も救護の最前線に立って、
  一ヶ月程といふものは、夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
  玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
  朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。

  頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った
  垢まみれの破れ衣の人々が、右往左往する有様や、
  路傍や溝渠の中に転がってゐる焼死体の臭気が、
  今でも鼻先にチラついてゐる。

  電車で本所の被服廠前を通るにも、
  私は心中に黙祷することを忘れないのである。

  そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
  何か私に課せられてゐる或る義務の一部を
  履行するやうな気がしてならない。     」(p978~979上巻)


このあとに、こうあります。

「 一体、本県で震災誌編纂のことは震災直後に定った方針であるらしい。
  が、種々の支障から今日まで之を完成してゐなかった。
  
  既に県の書類なども保存期間が切れて廃棄処分をしたものもあり、
  又やがてその期間に達するものもあって、時の経つと共に、
  だんだん資料が散逸し、折角貴重な文献が喪はれて行く処があるので、
 
  誰も早く記録を取纏めて置き度いとは思ひつつも
  知らず知らず時期を逸した態であった。・・・・・

  ・・・さうした事情の推移から岡社会課長の時代に
  震災義捐金の残で罹災救護会なる組織が出来、
  その団体の一事業として震災誌を編纂することとなった。

  ・・・・永野社会課長の時代になって、
  いつ迄も延々にすることも出来ないので、
  結局私にお鉢が廻って来た。・・・・
  それは昭和6年の9月、秋風の立ち初むる頃であった。 」
                ( p979~980 上巻 )

うん。最後にここも引用しておくことに

「 昭和6年10月、私が本冊子の編纂に指を染めてから
  早や1箇年10ヶ月になる。
  ・・・内容も亦増加して、千頁の予想が2千5百頁になった。
  ・・・やれやれこれで私の心に負はされた義務の一部が解かれたのだ。」
                   ( p984 上巻 )


この資料と『安房震災誌』とで、8月に語る『安房郡の関東大震災』は、
語りは心許なくっても、だんぜん厚みのある資料内容の紹介となります。

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本所被服廠(ほんじょひふくしょう)跡

2024-06-18 | 重ね読み
関東大震災の、本所被服廠跡について。

小沢信男著「俳句世がたり」(岩波新書・2016年)の一部が
印象深くあらためて、そこから引用。

「 9月1日が震災忌。・・・・
  火災が多発して東京の下町は一面の焼け野原。
  死者10万余人のうち約4万人ほどが本所被服廠跡で焼死した。

  跡地の一部を公園にして慰霊の震災記念堂を建立した。

  その22年後に、東京大空襲によって、より広大な焼け野原。
  ただし震災記念堂の一帯は、同愛病院から両国駅までぶじに残った。

  そこで無量の焼死の遺骨をここに納めて、
  東京都慰霊堂と改称した。以来、3月10日と9月1日の、
  春秋に大祭が催されております。

  春の大祭は賑わう。空襲の生きのこりたちが孫子をつれてくるからね。
  くらべて秋は、ややさびしい。もはや88年も昔のことだもの。
  しかしこちらこそが本家ではないか。  」

このあとも、引用しておかなければ。

「 そうです。本家の面目をいまにたもつ集いが、
  本堂のほかに二カ所あります。
  一つは慈光院。横綱町公園の南隣りのお寺です。

  震災時に、築地本願寺も全焼しながら、
  酸鼻の被服廠跡へ僧侶たちは駆けつけて、
  死者供養と、生きのこりたちへの説教所、託児所もひらいた。

  さすがは大衆のただなかの浄土真宗。
  その説教所が寺となって『震災記念 慈光院』と、
  現に門柱に掲げる。

  そして9月1日には『 すいとん接待 』の看板が立つ。
  境内は付属幼稚園の母子たちで大賑わい・・・・

  平成の童子たちが、大正12年の非業の死者たちとともに
  たのしむ施餓鬼(せがき)供養でした。
  ゆきずりの者にも気前よくふるまうので、
  折々に私も一椀ご相伴にあずかっております。・・・・ 」
                     ( p46~47 )

はい。まだつづいているのですが、引用はここまで。
この引用に『 築地本願寺も全焼しながら・・僧侶たちは駆けつけ 』
とありました。

はい。全然知らなかった私としては、この文ではじめて知りました。
まったく知らないことばかりです。

ところで、方丈記のなかに仁和寺の隆暁法印という名が出てくる
箇所がありました。
 浅見和彦校訂・訳「方丈記」(ちくま学芸文庫・2011年11月発行)
から、適宜引用してみることに。

「 さて隆暁法印(りゅうげうほふいん)であるが、
  『 隆暁 』は『方丈記』全体の中で、同時代人としては
  唯一名前の明記された人物である。・・  」(p114)

はい。まずは原文を引用。

「 仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数も知らず、
  死ぬる事をかなしみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、
  額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。
 
  人数を知らむとて、四、五両月をかぞえたりければ、
  京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、
  朱雀よりは東の、路のほとりなる頭(かしら)、
  すべて4万2300余りなんありける。・・・・   」(p110)

浅見氏の評を最後に引用しておきます。

「 飢饉の餓死者が京中に溢れ、仁和寺の隆暁法印という人は
  その死を悼み、路傍に死者のあるごとに額に阿字を書いて
  弔ったというのである。

  なんとその数、4万2300余り。当時の平安京の人口が  
  10万前後と推測されていることからすると、
  京都市民の約半数が犠牲になったことになる。

  『方丈記』の記述に従えば、それを隆暁法印が一人で
  書いて回ったというのである。いくら何でも一人では
  無理であろうということなのだろうか、
  さきほどふれた嵯峨本『方丈記』では、

    仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつかずしらず
    死ぬる事を悲みて、聖を余多(あまた)かたらひつつ、
    其死首の見ゆる毎に阿字を書きて、
    縁に結ばしむるわざをなせられける。

  と『余多(あまた)』、大勢の聖たちの協力を得て
  死者の供養を行ったというのである。・・・・・   」(p113)


注も引用しておきます。

  仁和寺  京都市右京区御室(おむろ)にある寺。
       真言宗御室派の総本山。

  隆暁法印 ・・・・・元久3年(1206)没。72~3歳。
       この飢饉のころは48~9歳。

  阿字   梵語の第一母音〇。万物の象徴として神聖視される。


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『 オリッサの寺院 』

2024-06-17 | 絵・言葉
静岡県天竜市の秋野不矩美術館へ行ったことがあります。
すっかり忘れてしまっていたのですが、おもいだすのに、
「藤森照信の特選美術館三昧」(TOTO出版・2004年)をひらく。

そこに秋野不矩美術館も出ておりました。
設計の段階でのやりとりが載っています。

「・・『裸で絵と向き合うような美術館にしたい』・・
 せめて裸足に。で、『展示室には靴を脱いで上る』と説明したら、
 委員の皆さんは困惑の表情を浮かべられた。・・・・・・・

 しばしの沈黙の後、私は言った。
『 日本画を土足で見るのはいかがなものか 』
 みなさん笑った。笑いはすべてを許す。
 で、世界初の裸足の美術館が実現したわけである。 」(p234)

「 素足にしたおかげで生まれた思わぬ良いことを
  もうひとつあげておこう。これはオープンしてから
  明らかになったことだが、メンテナンスが楽なのだ。

  靴と一緒に入る土ボコリがないから、
  絵の表面に土ボコリが付着しない。
  日本画は岩絵の具を使い、
  かつ油絵のように洗い直しができないから、
  絵の具の間の微細なツブツブの間に
  土ボコリが入ると除去することができない。

  土ボコリや靴の汚れがないから、
  掃除の回数がいちじるしく減る。
  管理する側にとって掃除の回数が減るのは助かるらしい。 」(~p240)

秋野不矩美術館で一番大きな展示室に
『オリッサの寺院』が展示されていて、
『オリッサの寺院』が印象的なように、
秋野不矩美術館自体もけっして負けておりませんでした。


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京都いきあたりばったり

2024-06-16 | 絵・言葉
淡交社に
「ほんやら洞と歩く京都いきあたりばったり」
中村勝(文)・甲斐扶佐義(写真)・2000年。
という写真集に文章をつた体裁の本がありまして、
何となく気になる写真がならんでいます。

ふだんの京都で出くわした町の人たちが写っています。
ときには、通行人の中に、
「 自宅近くの今出川寺町付近を散歩する桑原武夫 」(p106)
「 出町付近、秋野不矩さん 」(p107)
というのが混じっていたりします。

この本をひらくと、今でもそこに居るような息づかいが感じられる。
そんな写真が並んでいるので、いつでも文は読まずに写真を見ます。

気になるので古本で甲斐扶佐義の写真集があれば、
そうして、それが安ければ買うことにしています。
今回は、甲斐扶佐義著「ほんやら洞日乗」(風媒社・2015年)を
手にしました。こちらは、ブログの文章を集めたような一冊です。
そしてオマケのように写真が載っているのでした。
そのなかに、秋野不矩さんの息子さんの写真が載っている。
その下の解説を引用。

「 2005年3月 アキノイサム展
  母・秋野不矩さんは50歳代からインドに魅せられ、
  晩年はインド、アフリカと描いた。60歳代に
  2度火事にあったが、それからの仕事が凄いのだという。 

  亥左牟さんは不矩さんについてインドに渡り、
  以後、10数年世界各地を放浪しながら絵を描いた。
  90年代から我が家によく泊まり、ほんやら洞でも
  何度か個展(弟の子弦さんも)を開き、
  不矩さんも観に来た。・・・   」

はい。写真はその個展の会場のようで、
テーブルに巻物のような絵をひろげていて、
それを眺めている人の中央に、身長が高くて、
ほっそりしていて、白いあごひげが胸までとどいている人が
説明はないけれども、イサムさんのようです。
はい。まわりの方が巻物のような絵をのぞき込んでいるのを
まるで、自分の内面を覗きこまれているような縮こまった姿です。

ここで、私はどうしたか(笑)。
そういえば、藤森照信著「建築探偵、本を伐る」(晶文社・2001年)
というのが読みたくなったのでした。この本は書評集でした。
発売当時の価格は2600円+税となっております。

うん。高価なので買わずにそのままになっておりました。
ネットで検索すると、送料込みで785円。
この機会に買うことにしました。

この本の中に、秋野不矩さんの2冊の本の書評が載っている。
というのを知っておりました。本で4ページほどの文です。
今回は、それを引用したかったのでした。
藤森さんの書評のはじまりは

「秋野不矩さんの絵について、司馬遼太郎は、
『 いきものがもつよごれを、心の目のフィルターで漉(こ)しに漉し、
  ようやく得られたひと雫(しずく) 』と、
 『秋野不矩 インド』の中で解説しているが、そのとおりだと思う。」

はい。ここから藤森さんの書評がはじまっておりました。

「どうして不矩さんの絵は『いきものがもつ よごれ』から
 自由なのかを考えた。」

「この謎の手掛かりは、『画文集 パウルの歌』に集められた
 文章の中に読みとることができる。昭和6年、弱冠23歳で
 帝展に初出品・初入選を果たし、そして翌年に出した絵は、

『 野良犬が荒野を彷徨(さまよ)って歩く図であったが、
  これは見事に落選し、私は失意の底に沈んだ。

  ・・・あばらも透けて見える野良犬は美の対象には
  認められなかったようだ。翌年は
  白萩の陰に湯浴みする少女で入選、
  その後落ちることはなかった。
  しかし『野良犬』が入選したならば、
  もっと自分の世界を追求してゆけたであろう。
  やはり落選せぬような絵を描くこととなり、
  残念に思ったことである 』

  どうも昭和6年の時点で、花鳥風月とは別の世界に引かれながら、
  しかし、踏み出すことは出来ず、戦後になって
  50歳を過ぎてからインドと出合い、ついに本当の
  我が道を発見した、ということなのだろう。・・・・・・

  実際に秋野不矩の日本画の前に立つと、
  インドの乾いた空気とよごれなき大地が
  紙の上にあやまたず定着しているのが分かる。
  絵の表面が、まるで風に流れる砂漠の砂のように
  サラサラしているのだ。・・・・   」(p144~147)

はい。このあとに日本画の『岩絵の具』を持ち出して、
藤森さんの書評は盛り上がってゆくのですが・・

『 日本画とは紙の上に広がる砂漠である  』

ということを書評の結論へと結びつけてゆくのでした。
何気なく、ここだけでも読めてよかった。この箇所は、
新刊の時に買ったとして味読できなかったに相違ない。




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自然力と人間力に団体力。

2024-06-15 | 安房
新潟日報事業社発行の
稲川明雄著「山本五十六のことば」(2011年)が
短い言葉に、解説を付してパラパラ読みの私みたいな者には有難かった。
ということで、同じ発行所で、同じ著者の
「河井継之助のことば」(2010年)を古本で取り寄せる。
さっそく、パラリとひらけば、こんな言葉がありました。

  『 漫然多読するも、何の益かあらん。
     読書の功は細心精読するに在り。 』 (p30)

うん。今年は年のはじめから、『安房震災誌』を読もうと決めておりました。
そして、こうして半年間かけて『安房震災誌』をパラパラとめくっています。

そうすると、あらためて分かることがありました。
最初は、震災の被災状況に目がゆく。被害の数値化の理解も分かりやすい。
ところが、繰り返しめくっていると、その次があることに気づくのでした。

『安房震災誌』で、あらためて注目したのは第二編でした。
そのはじまりは

「 前編に於ては、地震の惨害を事実の儘に叙述するが
  その目的であったが、本編はその惨害を如何に処理救護したか。
  即ち自然力に対する人間力の対抗的状態を詳記するが目的である。 」
                     ( p219 )
その次には、こうもありました。

「 勿論、突如たる天災で、其處に何等の用意も準備もあらう筈がない。
  殊に今回の大地震は、『 前古無比の天殃 』と詔書に仰せられた程で、
  実に人間想像の外であった。
  従て、平時の条規によって事を処するなどは、
  迚ても出来得べきことでなかった。 」 ( p219 )


はい。『 自然力 』と『 人間力 』とありますが、
p284~285には『 青年団の力 』という言葉が出てきます。
そして『 団体力 』という箇所もありました。
最後に『 団体力 』の箇所を引用しておきます。

「 鈴木社会教育主事は、
  青年団が今次の大震災にあれだけの功績を挙げた
  その根本指導の任に当ってゐたので、
  青年団に就ての感想は独特のものがある。・・・

『 今度の地震には、青年団の共存共栄の同胞愛を
  本当に実現することが出来ました。
  天災も斯うした大天災になると、
  団体力でなければ迚ても救はれません。・・・・

  要するに、吾々罹災者は、青年団から
  精神的にも物質的にも、大なる社会的債務を負ってゐるのです。
  それは郡民の永久に忘れてはならない公の債務です。 』  」
                       ( p320~321 )


はい。一時間の講座では、あれもこれもと網羅的だと取り留めなくなる。
ここでは、被災状況とともに、安房郡長大橋高四郎と青年団の活躍とに
焦点を集中して、一時間内容を吟味してゆけばよいのかもしれないなあ。


      
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講座予定日は、8月28日(水曜日)。

2024-06-14 | 思いつき
昨日は、近所の高校へ公民館講座のお願いにゆく。
公民館の方と、推進員の方と、私とで。
昨年の関係された先生方は移動になり、
新しい先生に挨拶。とりあえず、主旨と予定日とを
推進員の方が用意されて挨拶して帰る。

さてっと、今年は当ブログで思いつくことを書いてきましたが、
これを振返って、ほぼ1時間の講座へとまとめるようにします。

とりあえずは、目次よろしく項目をたてて、
その項目にあたる箇所をうめてゆくことにして、
最後に、その順番を決めてゆけばよいかなと思っております。
ということで、項目を順不同にまずは並べてみる。

〇 参考文献一覧
   できたならば、その本に簡単なコメントいれて
   参考文献だけをみながらでも読めるようにしたい。

〇 関東大震災当日の鏡ケ浦沿岸の被災状況を、引用で埋めてゆく。

〇 当日の北條病院への怪我人搬入の様子を、浮かび上がらせ
  さらに、隣接していた安房郡役所後での吏員の立ち回りを示して、
  その中に、安房郡長大橋高四郎を置いてみる。

〇 当日から2日、3日、4日までを、断片的に時系列においかける。

〇 4日以降の安房郡外からの救援活動の様子を紹介する。
  まず、銚子青年団の一番乗りの道筋をたどってみる。

〇 安房郡長の言葉を紹介してゆく。
   指揮、指示、通達、訓示、表彰状の文面を列挙して
   大橋高四郎の人物像を、おのずと浮き彫りになるようにする。

〇 流言蜚語の拡がりを、各町村の文書のなかからひろってゆく。

〇 米騒動・日露戦争を、その時代背景から歴史的な流れの中で把握。

〇 安房の酪農を、鉄道の開通を示しながら産業としての
  震災前の状況を示して、そのあとに、震災直後の牛乳の無料配布へ及ぶ。

〇 資材調達のための段取り、資金調達と交渉の流れをたどる。

〇 資材、応援物資の陸揚げにかかわる救援活動の紹介。

〇 郡制の意味合いと、郡制の廃止時期を示しておく。

〇 勅使及び山階宮殿下の御慰問への言及


以上の項目別に、これまでの当ブログを読み直し、
それを各当箇所をふりわけてみる。

最後に全体の流れをつなげられれば、一応の完了として、
どなたかに、たとえば推進員の方に読んでもらって、感想を聞く。

はい。そこまでいければ、当日の私が語るシナリオの完成とします。
問題は、いつも、そこまでいけるかどうかなのですが(笑)。
まあ、まだ時間に余裕があるので、早いうちに目鼻をつけます。
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秘訣のようであります。

2024-06-13 | 正法眼蔵
新潟日報事業社から出ていた
稲川明雄著「山本五十六のことば」(2011年初版発行)を古本で取寄せる。
短い言葉を右ページに、左ページにその解説を付した簡潔な一冊。

はい。さっそく探したのは『 やって見せ 』の格言でした。

   やって見せ 説(と)いて聞かせて やらせてみ
         讃(ほ)めてやらねば 人は動かぬ。

どうやら、この言葉自体は、直接の山本五十六ではないようです。
この後に、「 橋本禅巖講話『正法眼蔵四摂法之巻摸壁』 」とある(p70)。

左の解説のはじまりは

「 長岡市の悠久山にある曹洞宗堅正寺の住職橋本禅巖和尚は講話の中で、
  仏教における『 愛語 』について語っている。
  その講話集のひとつ『正法眼蔵四摂法之巻摸壁』で
  人を讃めることは愛語だと説明している。・・・・ 」

この解説の最後に、こうありました。

「 そして、山本五十六の言葉を紹介している。
『 仕事を教えるのでも、讃めてやると云うことが、
  秘訣のようであります、讃めると云うことは
  馬鹿な奴をおだてると云うことではなく、
  共に喜ぶことなのであります 』     」(p71)


うん。どうやら福沢諭吉の「心訓」のように、
山本五十六の、この格言も、直接語られたものではないようでした。

それでも、ありがたいことには、
『正法眼蔵』へ繋がっていると確認ができました。

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