和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

しょうちょく。

2011-03-31 | 地震
産経新聞を購読しています。
今日3月31日の一面には、天皇、皇后両陛下が被災者のいる東京武道館を訪問されたことが写真入で紹介されておりました(一面と二面に)。

3月17日の産経新聞一面には天皇陛下の写真がありました。
「天皇陛下は16日、東日本大震災の被災者や国民に向けたビデオメッセージを発表された。」として3面にそのメッセージ全文が掲載されておりました。

これについて、3月31日号週刊新潮のp136に、
「『朝日』は天皇陛下『お見舞い』全文をなぜ載せない?」という文。
「・・・・陛下のメッセージ全文を紙面に掲載しなかったところがある朝日新聞だ。・・かいつまんで掲載。記事の末尾に〈 アサヒ・コムに全文 〉と、インターネットでしか読めないという体裁なのである。・・・・各紙面を見比べて、こう嘆息を洩らす。『特に被災地の方が、全文をインターネットで見るなんて不可能に近い。陛下のおことばを熟読したい人も多いはずなのに、回し読みもできない。特別態勢で報道をしているのはわかりますが、陛下のおことばも震災報道のひとつなのでは』これが見識というものだろう。」


うん。気になる箇所でした。
さて、「WILL」五月号が先週でたのでした。昨日の夜に、その雑誌を手にしました。最後の編集部からの「編集長から」は「地震の第一報は北京で聞きました。」とはじまり、最後はこうでした「それにしても、陛下のお言葉をきちんと報じない朝日新聞や毎日新聞、テレビ各局には腹が立ちました。」

そのうちに、
福島原発の情報を、全文報道せずに、インタネットで読めますよ。
と、報道放棄する新聞があるかもしれませんね。
どうも、特定の報道機関が、陛下のお言葉を、きちんと報道しない。
どうにも、きちんと教えてくれない報道機関というのは、
けっして、お友達になりたくないものです。

この「WILL」五月号には水島総氏の文に(p112)、こうも指摘されております。


「もう一点挙げよう。メディアの反日姿勢は、3月16日の天皇陛下の『御言葉』報道にも表れていた。テレビメディアは午後三時頃、一斉に御言葉を放映した。しかしそれ以降、夜のプライムタイムに陛下の御言葉を全編放映したテレビ局はなかった。水曜日の日中は、ほとんどの国民がテレビを見ることができない時間だ。何か意図があるのかと勘繰らざるを得ない。戦後六十六年、未曾有の国家的『有事』に、初めて天皇陛下が御詔勅(御言葉)を発したのである。この重要さをメディアは知っていたはずだ。つまり、国民をわが子のように御心配をされ、励まされる天皇陛下の御存在を知らせたくないのである。国民の心の支えである皇室を報道したくないのである。・・・・
今回の各テレビ局の災害報道は、五百年に一度と言われる『大災害』の有事に対して、彼等がどんな姿勢であるかをくっきりと国民の前に示した。・・・
『有事』におけるテレビメディアのあり方を考えることは、有事における国民のあり方を考えることだ。・・・・」


ちなみに、詔勅(しょうちょく)を辞書でひくと、

「詔書と勅書。みことのり。」

では「みことのり」を辞書でひくと、

「天皇が正式にのべたことば。」








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じつと観て居た。

2011-03-30 | 地震
柳田國男の「不幸なる藝術」を読み直したいと思ったわけです。
そこにある「涕泣史談」をね。
そしたら、そこにこうあるのでした。


「・・やや消極的ではあるが、今迄の国の史料の蓄積が、甚だ不完全且つ不精確なものだつたといふことを気づかしめる点にある。さうして其欠陥を補ふべく、翻つて是からさきの五十年乃至百年の為に、もう少し良い『故老』を作ること、即ちさういふ心持を以て、この眼前の人生を観察して置いてくれるやうな若い人を、今から養成して行くといふことの必要が認められる点も大切である。・・・・平家物語や太平記といふ類の古い世の語りものが、事件があつて間も無く、もう行はれて居たといふことを、我々はやや不思議にも感ずるのであるが、誤解や誇張が有るにもせよ無いにもせよ、やがて語り伝へてやろうと思つてじつと観て居た者が、とにかくあの時代には有つたのである。もう一度さういふ人を養成するとすれば、私は歴史の問題も、ただ政治や戦闘だけには限らぬことにしたいものだと思ふ。」
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火災予防。

2011-03-30 | 地域
3月29日午後6時ごろ、同地区にて、材木業の資材置き場から火災。しっかりと、扉が閉まっており、電線も入ってはいない場所なのでした。3~4月は意外と火災がある時期なのですが、まさか近場(歩いて15~20分ほど)であると気になります。時間が時間だったので、消防団・消防分遣。消防署員・消防団員とおおぜい集まる。

ブログの更新を怠る。毎日更新が、一日頓挫。
うん。あとは、お気楽にいきましょう(笑)。
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週刊誌。

2011-03-28 | 短文紹介
気になるので、
週刊現代と週刊ポストを購入。
まだ。未読。

昨夜あつまって、4月にある「花見」の予約をキャンセル。

ブログ「花森安治の装釘世界」に、
「戦争中の暮しの記録 保存版」の紹介あり、
茨木のり子の文の引用もあり、気になるので、
ネットの古本屋へと予約。
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他人事のように。

2011-03-27 | 短文紹介
司馬遼太郎著「『昭和』という国家」(NHK出版)に、
第一線の最高責任者・小松原道太郎中将の言葉が引用されておりました。
そこが思い浮かびました。

何といったのか

「『もうこれはどうしようもない。しかしながら、日本の兵隊さんは強いと聞いているから、なんとかなるだろう』こんな無責任なことを、最高責任者が言うわけであります。」(p30~31)
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政治ショー。

2011-03-26 | 短文紹介
週刊誌から、櫻井よしこ氏と石原慎太郎氏の文を引用。
まずは週刊新潮の櫻井よしこ氏から、


「・・・地震発生から丸11日が過ぎた3月22日現在も、菅首相は安全保障会議も中央防災会議も開いていない。安保会議を開催し、警察法71条及び72条に基づいて緊急事態を布告すべきときに、日本国最大の危機に対処する基本的枠組みが作られていないのだ。

非常時に首相に大権を与える法律は三つある。
第一は前述の安保会議と警察法である。
第二が自衛隊法76条による防衛出動、
第三が災害対策基本法28条による緊急災害対策本部の設置である。
・ ・・・・・・・・
菅首相はたしかに国家の総力をあげて取り組むと言った。
が、そのための体制は作らなかった。
結果、およそ全ての対策が後手にまわった。」(11・3・31号、p140)

「たとえば原子炉圧力容器や格納容器内の温度を下げるために死活的に必要な海水の注入である。自衛隊によるヘリコプターからの注水はうまくいかず、警察庁による放水は確実に届かず、消防隊の放水も当初は効果が大きいとはいえなかった。東京都のハイパーレスキュー隊を中心とした緊急消防援助隊を投入し、彼らの決死の働きで漸く、最大の危機を緩和出来たのは周知のとおりだ。
これは総務省の所管だが、ハイパーレスキュー隊の投入は3月19日、事故から8日後だ。安全会議を招集していれば、こうした日本の持てる全手段が早期に活用され、原発の危機も緩和されていた可能性は大きい。
今回、首相は前述の第三の緊急災害対策本部を設置した。そのことは評価するが、首相が災害対策基本法の意味も意義も理解出来ていないために、全く結果を出し得ていない。経済戒厳令とも呼ばれる同法は、物流の統制権を首相に与えるものだ。レンホウ大臣が国民に買い溜め自制を呼びかける前に、首相がなぜ、全国の物流を割り振り、被災地への物資輸送を最優先しないのか。」


ここからは、週刊文春の石原慎太郎氏の言葉(p44~46)

「・・政府がイニシアティブをとり、強制力を持つ政令を出して、合理的な電力制限をおこなうべきです。街のネオンを深夜は禁止する、コンビニなどの営業時間の短縮や、夜間の自動販売機の停止など、なすべきことはたくさんあるはずですが、一向に拘束力の強い政令を発して、そうした措置を取る気配がない。つまり『私』を抑えて『公』を生かす、という国家として当然の決断を下せない。」

「14日、節電啓発担当大臣に任命されたレンホウさんが都庁に来たので、『節電を命じる政令を出しなさいよ』と進言したところ、『上に取り次ぎます』と答えるのがやっとでした。『上』って誰ですか。政令というのは所管大臣が決めて、総理に了解をもらって行なうものだ。つまりご自分が権限者なのに、そういう仕組みすら全くわかっていない。口で『節電をお願いします』というのでは『政治ショー』を演じているだけだ。これで『政治主導』とは、何をかいわんや、基本的な対策さえ自分たちで決められずに・・・」

櫻井氏が指摘していた原子炉の指摘は、石原氏が、こう具体的に語っております。

「ここでいっておきたいのは、こうした深刻な事態の折にこそ、互いに落ちついて正確な情報を流し、複合的・効果的な手立てを講じる必要があります。
一夜突然、菅直人総理から電話がかかって、尻込みしている東京の消防庁の部隊を早く出してくれという。そこで消防総監に電話したら、すでに部隊を送ったが、現地との連絡がとれず、途中から引き返してきたという。バカな話だ。総理も後になって知り反省していましたが。一事が万事では国民もまどわされて困る。」

そして、こうある。

「菅総理はさかんに現地視察に行きたがっているが、市民運動家というのは、やはり御用聞きなんですな。『何かお困りのことはありませんか』と町内を回るだけで、大所高所からのリーダーシップや構想力を持ち合わせていない。」
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書評の選択。

2011-03-25 | 他生の縁
今日は、亡くなった伯母さんの49日の法事。
今回は姉と二人で出かけました。
昼真から、ビールを飲んで、帰ってきてから、頭痛。
うん。帰りは姉の運転。

曹洞宗のお坊さんが、修証義の読本を配って、
皆さんいっしょに。といわれる。
ほかの法事でも読みに参加させていただいていたので、
今回も声だして、読んでおりました。
案外にスラスラと読めるものです。
というか、間違えても、気にせず、臆せず読むようになりました。

さてっと、夜になってパソコンを開くと、
BK1からのメール。
「書評の鉄人列伝」第270回へと登場とのこと。
ああ、今日だったのだ。
この列伝に選ばれると、以前私が書評したなかから、
10冊をBK1でピックアップして紹介くれるのでした。
どんなのを選んでくださるのか、楽しみにしてたんです(笑)。
まるで、自分の自動車免許写真みたいに、なんか、
そりゃ私じゃないでしょう。とついつっこみたくなるような。
あるいは、こういうふうに写っているのかなあと思うショット。
たのしく、拝見させていただきました。
ありがとうBK1さん。
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本日発売。

2011-03-24 | 短文紹介
週刊新潮・週刊文春が今日発売。
さっそく、とりよせて読んでおります。

追悼文集「編集者 齋藤十一」(冬花社)に、週刊誌のタイトルについて語った箇所がありました。

「齋藤さんがタイトルを大切になさっていたことは、あまり知られてはいないことかもしれない。『週刊新潮』の編集長が野平健一になっても、そのあとの山田彦彌になっても、毎週の特集のタイトル四本か五本は、すべて齋藤さんがご自身で付けられていた。特集だけはゲラもお読みになっていたと思う。そして、すべての作業が終ったあとの三十分間ぐらいを使ってタイトルをつくられた。うまかった。読んでみたいと思わせるタイトルだった。『週刊文春』だったと思うが、『週刊新潮』のタイトルを特集で書いたことがある。・・・・」(p86)

「うまかった。読んでみたいと思わせるタイトルだった」というのは、今回も「週刊新潮」にあてはまりました。

 「『暴走原発』最奥部に留まった人々の死闘」
 「首相官邸『240時間』の機能不全」

それにたいして、「週刊文春」は

 「東京電力の『大罪』」
 「日本人の底力『原発は気にしない。今日を生き抜くんだ!』

これじゃ、週刊新潮を買います。
ですが、2冊とも買いました。

週刊文春を引用してみましょう。米政府関係者が話す。とあります。

「『地震発生直後、米国の第七艦隊は、いつでも救援に動けるよう、洋上で待機に入りました。法律上、日本政府の要請がないと、彼らは動けない。グレッグソン国防次官補は、『米国は我々の友人日本を大変心配している。日米でこの苦難を乗り切ろう!』というメッセージも出したが、官邸が混乱していたせいか、要請が来たのは翌日になってからでした』
ワシントンのホワイトハウスと国務省は、次第に日本政府の動きを不安視するようになった。なぜなら、米政府関係者が日本政府に送り込まれると、『心配ない』という情報ばかりが報告されてきたからだ。また、『米国の原子力規制委員会が、調査団を派遣。計十一人が来日しました。ところが、彼らは調査どころか、放置されたままになった。彼らが見せつけられたのは、政府のドタバタぶりばかりだったのです』
この時、米政府が下した判断は、
『日本政府はこの悪状況を回避できない』というものだった。
日本で吸い上げた情報が、ほとんど推測をもとにしたものばかりだったからだ。そんな最中の3月17日午前1時、米国防総省の中枢部に東電の仲介者から連絡が入る。こうして第七艦隊で原子力災害に対応するスペシャルチームと、彼らが所有する特別装置が貸し出されたという。『東電側が直接米軍に依頼したのは、官邸は米国側に伝えないのではないか、と不安を感じたからです。菅政権は、災害発生直後に【災害対策基本法に基づく災害緊急事態】を布告していない。これはいずれ、国際的に非難を浴びると思います。・・・政府は先にやるべき手順を踏まず、事態を悪化させている。不手際が続く東電でさえ、政府には不信感を抱いているのです』」(p26)

さてっと、週刊新潮の「首相官邸「240時間」の機能不全」によりますと、
地震当日の16時54分には「『国民の皆様の安全を確保し、被害を最小限に抑えるため、政府として総力を挙げて取り組んで参ります』という国民へのメッセージを発信した。」

週刊新潮はそのあとに「それは官邸にとって、いや我々国民にとって悪夢の始まりだった。」と続くのでした。

「翌12日午前、陸上自衛隊ヘリで福島第一原発、宮城県沿岸部の被災地を視察した菅首相は、15時から官邸で開かれた『与野党党首会談』で福島第一原発は危機的状況になく、『最悪でも放射能が漏れることはない』と説明した。・・・」(p24)

15日未明の異例の『東電本社』訪問にも、触れられていきます。

「5時35分、菅さんが東電の総合対策本部に入る・・・
15分にも亘って東電幹部らを恫喝したんです。菅さんは、結局3時間以上も東電に居座り、官邸に戻ってからも、【東電のバカ野郎が!】と怒鳴り散らしていた」
この一連の行動に対して・・そもそも最高指揮官が長時間、官邸を空けるなどもってのほか、という批判が党内外から巻き起こるのだが・・・・」(p25)

「時計を少し戻して3月13日夜、首都圏に大混乱を引き起こした、突然の『計画停電』発表も、あまりにお粗末な一幕だった。
『元々、計画停電については同日18時過ぎに東電の清水正孝社長が発表することになっていた。ところが、【まず首相から国民に説明したい】という官邸の意向で待ったがかかったのです。』
政治記者が振り返る。19時49分に始まった首相会見に続き、枝野官房長官、海江田経産相、さらにはこの日任命されたばかりの蓮ホウ・節電啓発担当相が次々に会見に臨み、
『結局、東電が具体的な計画を発表したのは、20時20分過ぎ。自治体や企業が降って湧いた事態への対応に追われる中、一連の【政治ショー】が貴重な時間を奪い、混乱に拍車をかけた形です』
民主党の川内博史代議士も、
『総理は、政治主導、官邸主導をことさら強調されますが、今回の未曾有の大災害に際しては、それが機能しているとは思えません。
こうした災害時には、災害救助法など過去の事例に基づいた関係法令に則って、自治体や各省庁と連携しながら迅速、確実に対応する必要がある。ところが総理は、自衛隊の増派にしても防衛省との打ちあわせなしに自らの腹案を発表してしまい、調整がつかずに朝令暮改の事態を生みました』」(p26)

まだ、読まずにある箇所もあるのですが、このへんで。
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管理危機。

2011-03-23 | 短文紹介
佐々淳行氏の本を読んでから、
あらためて、3月16日産経新聞「正論」欄の佐々淳行氏の文を読み返しております。
はしょって、引用します。
最初の指摘は

「今進行している状況は、『危機管理』に非ず。『管理危機』である。」


ここも、引用しておきましょう。

「民主党は、マニフェスト(政権公約)に治安・防衛・外交全般にわたるまともな安全保障政策を盛っておらず、国家危機管理に無関心だ。護民官精神も国家観もない首相・閣僚の資格条件を欠く市民運動家が政権にあたることは、日本国民にとって不運だった。・・・
何が『自衛隊、警察、消防(ちょっと間を置いて)、海上保安庁の活動に心から感謝』だ。菅首相は全国放映のテレビで空々しい賛辞を口にする前に・・・特に仙谷前官房長官の『自衛隊は暴力装置』『海上保安庁は武器を持った集団』という発言は甚だ不当な失言で、仙谷氏に撤回させ、謝罪させます』と国民に謝ってからの自衛隊10万動員と言え。
それも、不見識にも2万→5万→10万と、たった2日の間に危機管理の禁忌である『兵力の逐次投入』の愚を演じ、さらに、戦後初めて予備自衛官の非常招集を行うとは、手の平を返したように何から何まで自衛隊、である。・・・」


「『政治主導』も誤りだった。政務三役で国家危機管理ができるのか?・・・・東京電力と首相官邸の『計画停電』の二転三転、七転八倒はその典型で、目を覆いたくなる醜態だ。国民は懐中電灯、電池、ロウソク、保存食をスーパーの棚を空にして備え、被統治能力(ガバナビリティー)の高さを示したのに、政府側はまさに統治能力(ガバナンス)の低さを天下にさらした。・・・」




最後の箇所。


「・・・・今の側近は、未熟、未経験、不勉強で、危機管理の補佐官はいない。今、大事なことは、予備自衛官を招集するより阪神大震災や東海村原発事故を処理した各省の官僚OBを非常招集して地震と原発の諮問委員会を速やかに立ち上げることだ。名指しすれば、元官房副長官の的場順三、外交評論家の岡本行夫、元警察庁長官の国松幸次、元運輸相官房長の棚橋泰、元陸将の志方俊之の各氏らを三顧の礼をもって官邸に非常召集、OBの諮問委員会を設置すべきだ。枝野幸男官房長官は、内閣広報大臣としては適任だが、『安全保障会議設置法』では、今回のような大災害の統一的指揮権と責任は官房長官にあり、補佐役は経済産業省原子力安全・保安院ではなく内閣危機管理監であることを思い出してほしい。国内外のボランティアを国が受け入れて、奉仕団を組織するのも国の仕事である。」
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『護民官』へと変身。

2011-03-22 | 短文紹介
佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬社)の終章に、護民官・石原慎太郎への言及がありました。それは、同時多発テロの最中に、アメリカにいた佐々氏と石原氏のことが書かれているのでした。

「・・サンフランシスコ平和条約調印五十周年式典があり、米国には閣僚を含む35人の国会議員が押し寄せていた。テロ発生の9月11日にも・・・24人の国会議員が滞在していた。ところが、この国会議員たちは、いつ日本に帰れるかと自分たちのことばかり考えていて、同盟国としての弔意の表明や今後の協力についての米国側との協議などは、一切行わなかった。五十周年の記念行事になど招かれていない、地方自治体首長の石原慎太郎知事と私、いわば『遊軍』がアメリカと日本の関係を取り持ったのだ。・・・・
石原都知事のもとを訪ねると、知事は直ちに『東京人からニューヨーカーへ』という敬弔広告をニューヨークタイムズに掲載し、弔慰金を寄付するよう指示していた。・・・・折から前立腺癌治療のため入院していたルドルフ・ジュリアーニ・ニューヨーク市長が、骸骨のようにやせた顔にヘルメットをかぶって、世界貿易センタービルに向け出動する消防車の先頭で『フォロー・ミー』と叫んでいる姿を見て、『もし東京がこうなったら、オレがジュリアーニの役を果たさなければ』と真剣に語っていた。私はこのとき、作家・石原慎太郎が護民官に変身するのを見た。・・・
そして、帰国後、彼は本当に首都圏3300万人を守る『首都圏FEMA構想』を作らせたのである。東京・神奈川・埼玉・千葉の四都県に川崎・横浜・千葉の三政令指定都市を加えた七都市(のちにさいたま市が加わり八都県市)で、災害対策基本法の相互援助条項に基づいて自治体の枠を取り払い、八万の警察、二万の自衛隊、一万五千の消防という実力部隊を統合運用するのだ。その後、首都圏FEMAは私が起草した原案をもとに、現実のものとなった。」(p221~223)

夜半のテレビで、福島原発での東京消防庁の活躍と、消防活動した隊員の長による会見の詳細にわたるその報告。その規律正しい態度。私は時間を忘れて見いっておりました。

さてっと、3月22日今日の産経新聞の2面「主張」のすぐわきに
こんな記事がありました。その全文。

「東京都の石原慎太郎知事は21日、首相官邸を訪ね、菅直人首相に対し、東京電力福島第一原子力発電所3号機への東京消防庁の放水作業をめぐり、政府内から消防隊員に恫喝(どうかつ)まがいの発言があったと強く抗議した。会談後の説明によると、政府側の人物から放水準備作業中の消防隊員に対し『言う通りやらないと処分する』との発言があった。石原氏は、首相に『みんな命がけで行い、許容以上の放射能を浴びた。そういう事情も知らずに、離れたところにいる指揮官か誰か知らないが、そんなばかなことを言うのがいたら戦いにならない。絶対そんなこと言わさないでくれ』と注文、首相は『大変申し訳ない』と陳謝した。石原氏は記者団に『処分するという言葉が出て、隊員は皆、愕然とした。(現場の)指揮官は、それが一番不本意だったと言っていた』と述べた。都関係者によると、『処分』と発言したのは、海江田万里経済産業相だという。・・・」


産経新聞3月22日の防災システム研・山村武彦所長へのインタビューで、山村氏は「原発事故はどう受け止めるべきか」という問いに答えて。

「今は推移を見守ること。一定の距離を取れば健康被害は防げる。チェルノブイリとは全く違う。今は正しい知識を身につけ、責任や原因追求ではなく、決死の消火作業をたたえながら見守ることだ。命をかけて戦っている人がいるのに大騒ぎするのは決して良いことではない」
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四列目の男。

2011-03-21 | 短文紹介
東日本大震災は2011年3月11日午後2時におこりました。

佐々淳行著「彼らが日本を滅ぼす」(幻冬舎)の「あとがきにかえて」は平成23年1月に書かれておりました。そのなかに

「一月中は、民主党執行部がすべてを先送りしたため、小沢氏の政倫審出席も証人喚問も、仙石・馬淵両氏の問責決議の事後処理も、国会開催予定日も検察審査会の小沢氏の強制起訴も離党勧告も、ビデオ流出の海上保安官への地検の決定も、一切合切ごちゃまぜになってしまった。原因は全共闘・団塊の世代特有の『みんなで渡れば怖くない』方式の『連帯共同無責任』、さらにそれをつきつめていけば『菅内閣総理大臣の不決断』に集約されてしまう。こうして2011年は、『不決断の年』として幕開けした。
こんなときに重大緊急事態が発生したら、いったいどうなるのだろうか。
この状態が続けば、彼らは日本を滅ぼしてしまう。・・・・・」(p231)


佐々淳行氏の本文をみてゆけば、菅直人へのこういう言及がありました。

「私は、学生時代の菅直人氏をよく知っている。
菅直人総理も、あの第二次反安保闘争の学園紛争花盛りの当時、バリケード封鎖された東京工業大学の輝ける闘争委員長だった。
三派系セクトには属していなかったようだが、東工大学生たちを反安保闘争にかり立てる名アジテーターであったことは間違いない。当時、警視庁警備第一課長で機動隊運用の責任者だった私は、学長・加藤六美(むつみ)氏の要請で同大学付近に出動・待機していた間に、ラウンドスピーカーを通じて流れてくる彼のアジ演説を耳にしたものである。
加藤学長は、『あの菅という学生には手を焼いております。彼がアジ演説をすると、すぐ500人くらい集まって騒ぐので困っております』と、窮状を私に訴えていた。
東京工業大学のバリケード封鎖解除警備は、前後三回にわたって行われ、私はその現場指揮にあたった。当然ゲバ棒や投石による全共闘の抵抗があって検挙者も出たが、その中に菅闘争委員長の姿はなかった。
現場で警視庁の警備公安の幹部たちが、
『我々は、菅のことを【四列目の男】と呼んでいるんです』
と言う。・・・
『どういう意味?』
『機動隊が検挙活動に入ると、横隊だと三列目までは手が届くんですが、四列目となると手が届きません。彼はいつも四列目より後ろにいて、逃げ足が速いんで捕まえられないのです』なるほど、三回にわたる検挙活動で菅委員長を捕まえることができなかったわけがわかった。」(p140~141)

「2010(平成22)年12月16日、仙谷官房長官は菅総理がどんな場面でリーダーシップを発揮したかという具体例を『鳥インフルエンザ対策』『口蹄疫対策』『硫黄島での遺骨収集』など、なんと14分間、約30項目にわたって列挙した、『総理が決断した』『総理のリーダーシップで国の形まで変えることができつつある』と褒めちぎった。
前日の記者会見で、菅総理が指導力を発揮した例を質問されて答えられず、『明日までに思い出しておく』と保留していたことへの回答だった。」(p142)


この1月に出た本は、3月の東日本大震災を予言しているような箇所が後にあるのでした。


「どういうわけか、日本に国家危機管理上の大事件・大事故が起きるときには、平和主義者(パシフィスト)で、市民派で、弱くて、不決断で、ときとして無為無策で無能な、左翼かリベラルな内閣総理大臣が官邸にいるのだ。・・・
1995(平成7)年、阪神大震災、オウム真理教地下鉄サリン事件が起きたときには、なぜ好々爺で人柄はよいが社会党の村山富市氏が内閣総理大臣なのか。
・ ・・・
そして今、この日本沈没の危機に、元極左過激派で総括を済ませていない全共闘の市民派で、治安・防衛・外交を後回しにする、およそ危機管理に向かない菅直人が総理大臣である。さらに、2010年、一連の尖閣・ビデオ流出事件でおよそ日本の国益に反する言動ばかり取り続けた中心人物が東大安田講堂攻防戦に後方支援部隊として参加して、極左過激派学生たちの守護神として辣腕を振るった人権派弁護士である仙谷由人前官房長官である。
アジテーターではあってもリーダーシップに欠ける総理と、権力主義者の官房長官という組み合わせであった。・・・」(p208)

「『権力欲』だけの政治家は、もうこりごりだ。」(p224)
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苦い側面。

2011-03-20 | 地震
潮出版社「人間万事塞翁が馬」は、谷沢永一対談集なのでした。
その最初が会田雄次氏との対談。
題して「阪神大震災でわかった日本人の苦い側面」。
そこに登場しているのが村山富市首相。

谷沢】 ・・・村山首相は何をしていたか。たとえば翌日に予定されていた、ホテルオークラでの財界の方々との会食などをのんびりやったというではないですか。
会田】 被災地へ来たのは、その後、三日目のことでした。
谷沢】 どこかの新聞が「なぜ行かないんだ」と訊いたら、「スケジュールの調整がつかないので」と答えました。なんという偉大なる平常心の持ち主でしょう(笑)・・・
谷沢】 ようやく現地に行ったときでも、何の政策も用意せず、ただ、機械的に体を運んだだけ。政治家が何かの現場視察に行くときは、すぐにその場で「こういうことをいたします」という対策と約束を用意して行くべきです。・・・・
谷沢】 さらに、呆れ果てたのは、1月23日の衆議院本会議で、村山首相は、「今回の震災について私は最善を尽くしました」といったんですね。この世に最善というものがあるもんですか。ことに不幸な出来事があったときに、もっとああすればよかった、こうもしたらよかったという、そういう後悔の念がまず先に立つはずです。それを、あれだけの災害のあとで最善を尽くしたといえる、これは尋常じゃありませんよ。・・・・
谷沢】 それから、どこかの記者が河野外務大臣に「ODAを削減して、国内向けに急遽カネを動かすべきじゃないか」といったら、即座に河野さんは「そんなことはできません」と答えましたね。
会田】 あの人も呆れるほどダメな人ですなあ。ただでさえODAは多すぎる。外務官僚などが多きな顔をするために、国民の血税を無駄遣いしすぎているのだから、それを減らすのに絶好のチャンスだった。「これは半減せざるをえない。こんなときですから、ご了承願います」と、宣言すべきだった。・・・・結局、村山首相も河野外務大臣も政治家ではないんです。・・・
会田】 ・・・政治家がいない。一生懸命になって能力を発揮しているのは、行政官、それも末端の行政官です。戦争のときでも、いちばんよかったのは熟練した下士官です。・・・ところが、上へ行くほど・・・

谷沢】 ・・・結局、政府が機能しない状態というのも、政治家が悪いんじゃない。そういう状態にもっていった日本国民が未成熟であり、悪いのだと思います。政治家というのは、今回のような一種の戒厳令が必要な事態に際して、非常措置、一時はやった言葉でいうならば超法規的措置を断固としてやる。そういう決断力と度胸、そして最後は自分が責任をとる断固たる決意があれば、それでいい。

 さてっと、最後の方にこうあります。

谷沢】 こんなことをいうと語弊があるけれども、今回の震災は小規模すぎた。被災者には非常に申しわけないんですが、しかし、日本の覚醒のために、あえていわせていただきたい。思いのほかうまく復興したりすれば、政治家たちを安心させ、のさばらせること必定です。・・・・・(~p25)


谷沢】 私が不満でたまらないのは、「村山首相やめろコール」が、国民のあいだでまったく起こらないことです。日本人には為政者に怒るという神経がない。・・・・(p27)
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テレビをみながら。

2011-03-19 | 詩歌
東北関東大震災がおこった際に、これは1000年に一度の震災である、という指摘がありました。千年というと、とほうもない向こうという気がします。

ついては詩について。
3月18日の産経新聞に柴田トヨ(99歳)に詩が掲載されておりました。


   被災者の皆様に

 あぁ なんという
 ことでしょう
 テレビをみながら
 唯(ただ) 手をあわすばかりです

 皆様の心の中は
 今も余震がきて
 傷痕がさらに
 深くなっていると思います
 その傷痕に
 薬を塗ってあげたい
 人間誰しもの気持ちです
 私もできることは
 ないだろうか? 考えます
 もうすぐ百歳になる私
 天国に行く日も
 近いでしょう
 その時は 日射しとなり
 そよ風となって
 皆様を応援します

 これから 辛い日々が
 続くでしょうが
 朝はかならず やってきます
 くじけないで!


千年と百歳。
たしか、柴田トヨさんは90歳になってから、
詩を書き始めたのだそうです。詩がやわらかく、ういういしく。
90歳から生まれでたような言葉の芯が通った初々しさ。

話はかわるのですが、詩人の北村太郎が亡くなった際に、
北川透氏が書いていた文が思い浮かびます。

「・・北村さんなどの晩年の詩業を見ていると・・ようやく詩は老年の文学になったという、感慨にもとらわれる。・・近代詩百年を経て、詩はようやく青春の文学から解放されかかっているのかも知れない。」(1993年1月22日朝日新聞夕刊「出あいの風景」)

高齢化と「詩は老年の文学」とどう違うのか?

それはそうと、思い浮かんだのは、高橋新吉の三行の詩「るす」。


   るす

 留守と言え
 ここには誰も居らぬと言え
 五億年経ったら帰って来る




五億年とはなあ。それでも、千年たってやってきた地震津波。


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やれるのは。

2011-03-18 | 他生の縁
注文してあった池部良著「天丼はまぐり鮨ぎょうざ」(幻戯書房)が手に入りました。うん。そのあとがきを読んでよかった。最初をちらりと読んだら、もう3~4ページで満腹。それ以上は、まあ、ゆっくりと読むことにします。

ところで、
今年は、岡本太郎(1911~1996年)の誕生100年なのだそうです。
そういえば、池部良の母親・篁子(こうこ)は岡本一平の妹なのだそうでした。池部良著「そよ風ときにはつむじ風」(毎日新聞社・帯には「江戸っ子のおやじと僕の物語」)をひらいたら、こうあります。


「従兄(いとこ)の岡本太郎に言わせれば『お前のおふくろは俺のハンサムなおやじの妹だが似ても似つかぬ醜女だな。でも京橋小町なんて騒がれていたから俺のおやじと美校の同級生だったお前のおやじがおこうちゃんにすっかりその気になって嫁さんに、とせっついて貰ったんじゃないのか』、である。」(p11)


岡本太郎といえば、「太陽の塔」。
つぎのエピソードは、「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社)。
すこし前からの引用。

「東京オリンピックころ、当時、経済企画庁経済研究所長の林雄二郎、建築評論家の川添登、のちの学習院大学教授となった加藤秀俊、SF作家として売り出し中の小松左京との五人で『万国博をかんがえる会』を作りました。・・・日本の興隆期にあってわたしたちの関心は『未来』でした。空想ではなく合理的、論理的発想で『未来学』を盛んに議論しました。・・・・・」(p198)

つぎのページに大阪万博のことがでてきます。

「アメリカの『月の石』などパビリオンでは各国自慢のものを見せていて、はなやかな、文明のお祭りやったな。じつに衝撃的な体験でした。開会式では歌手の三波春夫が『コンニチハ、コンニチハ』と歌い、舞台には振り袖のお嬢さんが次から次に出てきた。お客さんが『夢みたいや』とつぶやいたのを覚えています。
万博開催には反対運動もありましたが、わたしは早くから、面白いことができるぞと小松左京ら五人で作った『万国博をかんがえる会』で議論をかさねていた。わたしはいくつも宣言文の草案を書き、佐藤栄作総理の演説と万国博協会の石坂泰三会長のあいさつ文も調子を変えて書きわけました。
テーマ館のチーフ・プロデューサーには岡本太郎さんを推薦した。破天荒なことがやれるのはこの人しかいないと。『太陽の塔』みたいな途方もない造形は、ちょっとほかの人ではできません。・・・」(p199~200)


どういうわけか、梅棹忠夫と岡本太郎と池部良とがつながりました(笑)。


 岡本太郎 1911(明治44)年2月26日 ~ 1996年1月7日
 池部良  1918(大正7)年2月11日 ~ 2010年10月8日
 梅棹忠夫 1920(大正9)年6月13日 ~ 2010年7月3日 

コメント (2)
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最後の防御。

2011-03-17 | テレビ
産経新聞2011年3月17日の国際欄(p6)に米メディアの記事が取り上げられております。
見出しが「自己犠牲『50人』最後の防御」とあり、「米メディア原発作業員を称賛」。
すこし記事にふれます。

「米メディアのあいだで、相次ぐ爆発と深刻な放射性物質(放射能)漏れに苦しむ福島第1原発に残って作業を続けている50人の作業員への注目が急激に高まっている。16日付米紙ニューヨーク・タイムズは『最後の防御』と題して50人を特集したが、驚くべき自己犠牲の精神に対する称賛の裏側には、この国家的危機に際しても他の電力会社や国際社会の総力を結集できずに手厚い作業体制を敷くことができない日本の対応への疑問やいらだちも透けてみえる。 【ニューヨーク=松尾理也】」

具体的な記事のはじまりには、こうもあります。

「『日本の核の大惨事から救う最後の頼みの綱』。ニューヨーク・タイムズは50人をこう表現した上で、『彼らは迷宮のように機器が入り組み、停電で真っ暗になった施設内を、懐中電灯だけを頼りに、防護服とマスクに身を包んではいずり回り、海水注入などの作業にあたっている』と・・・・」

「日本時間の16日に枝野幸男官房長官が会見で作業員の一時退避を発表した際には、米CNNのコメンテーターが『通訳ミスであってほしい。現場から立ち去るなどあってはならない』と取り乱した様子をみせるなど、すでに世界が息をのんで見守る対象になっている。だが、『50人』の自己犠牲に限界があるのは明らかだ。・・・」

記事の最後は、

「米CBSテレビは『死をも恐れぬ50人』と勇気をたたえつつも、『作業が長引けば、現在の50人に代わってリスクに向き合う覚悟を持った次のチームを見つけるのはきわめて難しくなる』と指摘している。」


こういう彼ら50人への注視が、テレビを見ている限り、日本ではおざなりになっているような気がしてくるのでした。産経新聞のこの記事の縦て見出しは
『総力結集できぬ日本には疑問符』とあります。

毎日刻々と変わる、福島第一原発についてのテレビ報道から、目がはなせない私です。けれども国際欄の視点は、どうも日本のテレビにはない発想のようです。こういうテレビに視線をうばわれる近視眼的な恐ろしさ。というのがあります。

昨日の福島原発の発表では、消防や自治体への連絡をしている、との言葉がありました。どうも、国や自衛隊では直通連絡は受け付けておらなかったようでもあります。今日になって、自衛隊のヘリコプターも作業開始し、警察からのポンプ車も活動しはじめてたようです。この危険を乗り越えていただきたいと祈るばかり。
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