和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

他の書にうつり。

2020-01-31 | 古典
さてっと、本の話(笑)。
本の値段が気になっておりました。
せっかく買っても、読みとおせない。
それが、最近はネット古本で、安く、
しかも、自宅に配達までしてくれる。

これは私のような、読みとおせない者に、
朗報以外のなにものでもありませんでした。

パラパラ読みから、次の本へと飛び乗る。
うん。その醍醐味(笑)。
何よりも、古本が安いので罪悪感がありません。
最後まで読まなきゃという、気持ちからの解放。

そういえば、と本棚から取り出したのは、
本居宣長の「うひ山ふみ」(岩波文庫)。
はい、何よりも薄いのが気にいります(笑)。
そこから、この箇所を引用。

「・・・いづれの書をよむとても、
初心のほどは、かたはしより
文義を解せんとはすべからず、
まづ大抵にさらさらと見て、
他の書にうつり、
これやかやと読ては、
又さきによみたる書へ立かへりつつ、
幾遍もよむうちには、
はじめ聞えざりし事も、
そろそろと聞こゆるやうになりゆくもの也。

さて件(くだん)の書どもを、
数遍よむ間には、
その外のよむべき書どものことも、
学びやうの法なども、だんだんに
自分の料簡のできるものなれば、
その末の事は、いちいちさとし教るに及ばず、

心にまかせて、力の及ばむかぎり、
古きをも後の書をも、
ひろくも見るべく、又簡約にして、
さのみ広くはわたらずしてもありぬべし。
・・・語釈は緊要にあらず・・・」(p19)

はい。

 坊(ぼん)さんが へをこいた
 においだら くさかった

と、口ずさんでいると、なにやら
ブクブクと、浮かんできた、
記憶に残る、本の数行なのでした(笑)。




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坊さんが へ・・・・。

2020-01-30 | 京都
高橋美智子著「京のわらべ歌 あんなのかぼちゃ」。
うん。汲めど尽きせぬ。そんな味わいの一冊なので、
もうちょっと、この本からの引用をしてみます(笑)。

三浦隆夫の文による「京都ことわざ散歩」も
「京のわらべ歌 あんなのかぼちゃ」と同じ
京都新聞社より出ておりました。
その「京都ことわざ」のなかに、
こんな箇所がありました。

「京のものに寺を見せると
講釈が多くてシラけてしまうものだ。
京都府のお寺はざっと三千、
愛知県の四千八百には及ばないが
京都は本山が多いのが特色。
国宝は全国の25%で一位
(以下東京、奈良、大阪、滋賀の順)。
特別名勝は全国28件のうち11件が京都。
・・・」(p66)

さて、そのお寺の京都の話を
「四季の京わらべ歌」から引用。
p26~27に「坊さんが へをこいた」
とあります。

 坊(ぼん)さんが へをこいた
 においだら くさかった
  (または)たいへんに くさかった

「遊びの中で、速く数を数えたい時、
わたしたちは『ぼんさんがへをこいた』を、
早口でとなえました。『においだらくさかった』を
つけ加えると、二十まで数えられます。・・・・」

さて、高橋美智子さんの、このわらべ歌への
解説を、あらためて紹介することにします。

「わらべ歌の主人公には、子どもたちの
暮らしの中で大へん身近な、しかも
興味のあるものが登場します。

京に多きものは寺。
なにしろ各宗派の本山がそろっている
のですから、当然と言えましょうし、
したがって坊さんの数も大へん多く、
坊さんは京わらべにとって、
見慣れた身近な存在でした。

お坊さんと呼ぶのは少し大きくなってからで、
小さいころはもっぱら『ぼんさん』でした。
もっとも京都のほかにも、坊さんをうたった
わらべ歌はあります。でも、
京都のわらべ歌に登場する『ぼんさん』が、
一ばん生き生きとしたイメージを、子どもたちの
頭に植えつけているように思います。」

うん。
生き生きとした『ぼんさん』のイメージ。
ここからなら、無味無臭の経本の活字が
生き生きとしてくるかもしれないなあ(笑)。

たとえば、仏教讃歌集・和讃などを
ここからなら、読みはじめられる気がします。

ということで、取り出したのは
武石彰夫著「精選 仏教讃歌集」(佼成出版社)。
その、「はじめに」には、こうありました。

「仏教が日本人の精神に受容されるとともに、
日本語の讃歌として讃嘆、和讃が生まれ、
法会の歌謡として教化、訓伽陀が生まれて、
仏教は完全に日本人の心の奥に育っていったのである。

とくに、和讃は、広く民衆信仰のなかに下降し、
芸能にも影響を与え、また、
念仏讃や民謡とも交わりながら、
国内各地に広まったが、とくに講と密着した。
・・・・巡礼に出て巡礼歌を耳にし、
みずから歌って仏に捧げる例も多い。・・・

だが残念なことは、広く一般の方々にとって、
これらの仏教讃歌は縁遠く、また
気軽に読める本も見当たらない。・・・・・

 ・・・・・

讃歌は、もともと歌謡(うた)であるから、
朗唱されるのもよく、また、
詩として味わうのもよい。・・・」

うん。この機会に、
この武石彰夫氏の入門書を、
最後まで、読んでみることに。
途中で、つまづいたら
そういう時こそ、とっておきの

 坊さんが へをこいた
 においだら くさかった

と、口ずさんでみることに(笑)。

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降れ降れ粉雪。

2020-01-29 | 京都
京都新聞社(1998年)の高橋美智子著
「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」。

うん。これを読めてよかった(笑)。

さて、この本のなかに「雪やこんこ」と題した
2頁の文(p34~35)があります。
まずは、そこから引用。

「京のわらべ歌は華やかで、
きれいに整いすぎているという
印象を人に与えるようですが、
これは、香り高い貴族文化を
先がけに生まれた歌だからといえましょう。

庶民たちの間にも、
おのずから都人としての感覚が、
さまざまな機会に磨き上げられた
のだと思います。

足もとからしんしんと冷える日は、
きまって強い風が通りを吹きぬけます。
『いや、雪おこしの風や。
今夜あたり雪になるのとちがうやろか』
そんな夜ふけには、きっと
白いものが京の町に舞います。」(p35)


さてさて(笑)。つぎは、吉田兼好。
「徒然草」のなかに童謡をとりあげた
箇所があります。ここは
沼波瓊音著「徒然草講話」から、
「評」と「訳」とを引用。

それは、徒然草の第181段です。
まずは、評釈を引用。

「この段を見ても、いかに兼好が、
日常の見聞にも注意を拂ったかがわかる。童謡、
なる程こういうものは兼好の好きそうなものだ。
解釈もし、考証もするのだ。
徳川時代は知らず、この時代に、
童謡の解釈などいう事は、珍しいものであろう。」

つぎに、徒然草第181段。
その沼波瓊音による訳。

「子供が雪の降る時に、
『降れ降れこ雪たんばのこ雪』とはやすが、
あの『こ雪』というのは、
米を搗いて篩(ふる)う時のように雪が降るので、
『粉雪』というのである。
『たんばのこ雪』というのは、
『溜まれ粉雪』というのが正しいのを、
訛(なま)って『たんばの』というのである。
或物知りが、そのあとは
『垣や木のまたに』という文句だといった。
この童謡は、昔からいったものと見えて、
鳥羽天皇が御幼少の時に、
雪が降った時、『降れ降れこ雪』と
おうたひになったということが、
讃岐典侍日記に出て居る。」

はい。
高橋美智子さんの、この本をひらいていると、
だんだんと、この人は、吉田兼好の直系の
お弟子さんじゃないかと思えてくる不思議(笑)。

うん。せっかくの機会なので
この第181段の原文も引用。

「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事、
米搗(よねつ)き篩ひたるに似たれば、粉雪といふ。

『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて
『たんばの』と言ふなり。
『垣や木の股に』と謡(うた)ふべし」と、
或物知り申しき。

昔より言ひける事にや。
鳥羽院幼くおはしまして、
雪の降るにかく仰せられける由、
讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記に書きたり。」

(岩波文庫「徒然草」より引用)





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ナベ、カマ、チャワン。

2020-01-28 | 京都
昨日。古本で
「平安王朝かわら版」(京都新聞社・1982年)が
手に入る。ハイ。200円。あとがきに執筆者として
高橋邦次とある。新聞社の方なのかもしれません。

空也上人についての箇所をひらく。
気になったので、引用しておきます。

「空也が諸国をあるいて京都入りしたころ、
ミヤコでは東西から迫る大乱(平将門、藤原純友の乱)
の危機におびえきっていた。・・・

こうした衆生を救うはずの革新宗教・天台や真言は、
すでに貴族の宗教と化していて、大衆の心から離れていた。

・・・空也式念仏・・・
彼のやり方は一風変わっていた。
これまでの坊さんは、お寺の本堂やアミダさまの前で、
一般人には外国語に等しいお経や念仏をダラダラと
つづける。それがホトケさまの権威であり、宗門の威信
と心得ていた。だが空也は仏教の街頭進出と
視聴覚教育をはかった。となえるお念仏も、
簡単な『ナモーだ(南無ー陀)』『ナモーだ』である。
もっぱら町の市場や路地裏に立って、
身ぶり手ぶりでホトケの道を説いたので、
『市(いち)の聖(ひじり)』と呼ばれるようになった。」

はい。私もはじめて知ることなので、
ちょっと詳しく引用を重ねます(笑)。

「空也はただ仏法を説くだけではない。
悪疫やキキンで毎日たくさんの市民が
死んでいくのを見ると、彼は毎日市内を歩き、
行きだおれの死体を葬っては卒塔婆を立て、
地蔵を祀った。とくに死体の多かったのが、
平安京のメーンストリート朱雀大路。・・・・・

空也は[大衆心理学]も身につけていた。・・・
彼は金色サン然たる観音さまをつくって車に乗せ、
京の町を引いてまわった。市民たちがゾロゾロ集まった
ところで彼は車にしばりつけた大茶ガマの湯をわかす。
これに結びコンブと梅干しをどっさり入れ、こんどは
太い青竹の先端を蓮の花型に割った大茶センで
茶をたてる。そして正面の観音さまに供えてから
大衆に飲ませた。

市民たちは街頭で観音さまをおがむのも、
その[お下がり]をいただくのもはじめてだ。
・・・・ウワサを聞いた病床の村上天皇も
試服されて全快し、お礼に六波羅蜜寺を
プレゼントされたという。いま同寺にある
本尊十一面観音菩薩が当時の観音さまで、
また同寺が『大福茶の元祖』を
看板にかかげるのもこのためだそうである。そして
京都市民には現代も、正月の元日に『大福茶』を飲んで
一年の無病息災を願う習慣がある。」(~p71)

武士が殺生を悔い、
仏弟子にしてほしいとたずねると

「空也は首をふった。
『頭をまるめても仏弟子にはなれぬ。それよりも、
せめて1ヵ月に6日でいいから[斎]の日をつくり、
無我の境地で[ナモーだ]をとなえなさい・・・・』

そこで武士は[斎]の日がくると、
ナベ、カマ、チャワンなんでもかんでも
夢中でたたきながら念仏をとなえ、
法悦境に達した。この武士が『平定盛』で、
その念仏協奏曲が後世の
『六斎念仏』といわれている。

これらのエピソードは
平安末期に天台僧が書いた
『元享(げんりょう)釈書』に出ているが、
いくぶん誇張もあるようである。」(p71)

p73には空也上人立像の肩から上の
白黒写真が載せてあって、顔の表情が
よくわかります。
せっかくなので、その立像について書かれた
箇所も、最後に引用しておきます。

「京の六波羅蜜寺で重文『空也上人立像』と
対面してみた。鎌倉期の名作で、身長1・17メートル。
エネルギッシュな坊さんではなかった。
伝承どおりにシカの角の杖をつき、
破れごろもにワラジばきで
全国を行脚する姿である。
口から手品師の旗みたいに飛び出した
六体のホトケさまも、実は空也がとなえる
南、無、阿、弥、陀、仏・・の一語ずつが、
すぐホトケさまに化身したという
伝説からである。・・・・・・・・・・・・」(p72)

あれれ。
ここも重要なので、引用。

「空也は衰退した平安仏教を回復し、
鎌倉宗教にタッチさせた中継ランナーである。
空也以前の平安仏教は、ほとんど寺院の外で
念仏の声に触れることはなかった。

空也以後、念仏は街頭にひろがり、
やがて法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら
『鎌倉の師祖』たちに引き継がれて行く。」

京のわらべ歌の
『カンカン坊主 カン坊主』と、
街頭の「市の聖」の空也上人とが、
地続きに時代を遡っていくようで。

まるで、京わらべ歌を、あらためて、
噛みしめているような、そんな気分。


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空也の痩(やせ)も寒の内

2020-01-27 | 京都
東京23区に積雪の予報。という、今日この頃。
京童(わらべ)たちと、京の冬を思い浮かべます。

高橋美智子さんの子どものころの、
京都の寒中托鉢が書かれた箇所がありました。

「寒(かん)に入ると、
あちこちで寒行事が始まります。

凍てつく朝、禅宗の坊さんたちが『ホーホー』と
行列していく寒中托鉢(たくはつ)は、
厳しい京の冬の街角に、何よりも
ぴったり似合う光景だと思います。

墨染めの衣に素足のわらじばき。
真っ赤になった指先を見るたびに、
子どもごころにわたしは
『修行てつらいもんやなあ、よう辛抱しやはる』
と感嘆する一方で、
その朗々と響く声、引き締まった顔つき、
シャンと背すじを伸ばして歩く青年僧たちの姿を、
『ええかっこうや』とも思いました。」
(p24「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」)

こうして、
「子どもたちが寄れば、あたりかまわず
大声をはり上げる愛唱歌」がありました。

  坊(ぼん)さん 坊さん どこいくの
  あの山越えて お使いに
  わたしもいっしょに 連れてんか
  お前が来ると じゃまになる

  カンカン坊主 カン坊主
  うしろの正面 どなた

「『カンカン坊主』のところでは、
ちょっと坊さんに悪いなあと、
うしろめたさを感じましたが、
そんな気持ちをはじきとばすように、
かえって一だんと声をはり上げたものでした。」

さてっと、高橋美智子さんの文の最後を引用。

「子どものころからわたしは、『カン坊主』のことを
単純に『寒坊主』と思っていましたが、これは
空也(くうや)上人に始まる『鉢たたき』のことを、
京童たちがうたったものなのでしょうか。
鉦(かね)をたたき、念仏を唱えて歩く、
空也堂の僧たち・・・・・
立春も過ぎると、身を切られるような
寒風の中の寒中托鉢も終わります。」(p25)

今でも、寒中托鉢は京の街角で
おこなわれているのでしょうか?

現在のことは、わからなくっても、
歴史上の空也なら、わかります。
ということで、以下に空也について。

さとう野火著「京都・湖南の芭蕉」が
古本で300円でした(笑)。そこから引用。

「若くから・・・諸国を布教、尾張の国分寺で
得度し入洛。天暦2年(948)、叡山座主の
延昌から受戒、光勝という大僧名を与えられた。
このまま延暦寺にとどまれば、天台宗の
超エリートとして名を残す立場にあった。

しかし・・・比叡山を下りてしまった。
そこで、弟子たちが探すと、下京の雑踏の中にいて、
・・・・・山に帰らなかったという。時に天慶元年(938)、
35歳。その後は、飢えや病気に苦しむ民衆を救済する
ことに尽力し、空也の行動するところ民衆がぞろぞろ
とついて来た。市の聖(ひじり)といわれるゆえんである。

既成の宗教はすでに形骸化し
一部の貴族の奉仕に明け暮れていたのである。
後に、叡山で修行し宗祖となった
法然、親鸞らも同じ思いであったろう。」
(p150~151)

このあとに、芭蕉の句
『から鮭も 空也の痩(やせ)も 寒の内』
を具体的に説明しております。
うん。こちらも引用することに。

「この句について芭蕉は、
『心の味をいひとらんと数日腸(はらわた)をしぼる』
(「三冊子」)と。
『から鮭』は鮭のはらわたを取り
塩をふらずに陰干しにしたもの。
『空也の痩』は六波羅蜜寺の
空也上人像が浮かぶ。
念仏を唱える口から六体の
阿弥陀が現れる写実的な立像である。

布教で集めた浄財は
飢えに苦しむ人々に与え、
自らはこの姿だった。

この句をくりかえし読んでみると、
快いリズムがある。
『から鮭』『空也』『寒の内』と、
すべて破裂音のK音で連なっており、
心に響く韻律を構成している。・・・」
(p151)

うん。
京のわらべ歌と芭蕉の句。
『カンカン坊主 カン坊主』と
『から鮭』『空也』『寒の内』と

どちらも、心に響く韻律として
ありました。







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でんでんむし でむし。

2020-01-26 | 古典
「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」(京都新聞社)
で、高橋美智子さんは、小学唱歌のかたつむりを引用し
そのあとに、こう記しておりました。

「この歌の通り、触覚の先の目玉をちょんとさわると、
すーっと殻の中へ入ってしまうのが面白くて、
でんでん虫には迷惑ないたずらをよくしたものです。

でんでん虫という名も、殻の中にひっこむと
なかなか出てこないから名づけられた、
と考えられています。

この『つの出せやり出せ』の歌の類例は、
日本各地にあるばかりでなく、中国や
ヨーロッパ諸国に及んでいます。
殻の中へ閉じこもってしまったでんでん虫に、
なんとかその角を出させようとうたうわけですが、

おどかす歌と、ごほうびをあげるという歌
との二通りがみられます。
マザアグウスに、『パンとおむぎをそれあげよ』
とあるのはごほうびの例でしょう。」(p74~75)

うん。二通り以外にもと、
ついつい、私は連想をひろげます。
思い浮かぶのは、新美南吉「デンデンムシノ カナシミ」。
それを読んだ美智子さまは
「子供時代の読書の思い出 橋をかける」(すえもりブックス)
に、その思い出を記しておられます。
その美智子さまの文から、引用

それを聞かせてもらったのは

「あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。
母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちが
本を読んだりお話をしてくれたのは、
私が小学校の二年くらいまででしたから、
四歳から七歳くらいまでの間であったと思います。」

と、聞いた年代を思いだしております。
では、美智子さまが紹介している箇所。


「新美南吉の『でんでん虫のかなしみ』に
そってお話いたします。そのでんでん虫は、
ある日突然、自分の背中の殻に、
悲しみが一杯つまっていることに気付き、
友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、
と自分の背負っている不幸を話します。

友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、
私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、
と答えます。

小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と
訪ねて行き、同じことを話すのですが、
どの友達からも返って来る答えは同じでした。

そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも
持っているのだ、ということに気付きます。

自分だけではないのだ。私は、私の悲しみを
こらえていかなければならない。

この話は、このでんでん虫が、もうなげくのを
やめたところで終っています。」


こうして、美智子さまは語ります。

「この話は、その後何度となく、
思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと、
ある日突然そのことに気付き、
もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、
私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。

少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、
『ああよかった』だけでは済まされなくなりました。
生きていくということは、楽なことではないのだという、
何とはない不安を感じることもありました。

それでも、私は、この話が決して嫌いでは
ありませんでした。」

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小学唱歌とカレッジ・フォーク。

2020-01-25 | 京都
「京都のフォークソング」のなかに、
豊田勇造さんへのインタビューがありました。
豊田勇造さんは、1949年生まれ。
京都、中京区の壬生が出身。
そこに、こんな箇所がありました。

豊田】 ・・・70年になったら交流も始まって、
それでも京都は京都の音楽を作ってた。
東京のほとんどは、マイク眞木に代表される、
スマートやけどあんまり現実味のない
カレッジ・フォークでしたよ。

ーーーそうですか。

豊田】 京都の人間って京都が好きやろ?
そやし京都で音楽やってたら、自然と京都の
オリジナルになってしまう。・・・・(p105)

ここに、
「東京のほとんどは、マイク眞木に代表される、スマート
やけどあんまり現実味のないカレッジ・フォークでしたよ」

とあるのでした。
うん。「あんまり現実味のない」という指摘から、
思い浮かんだのは、髙橋美智子著
「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」(京都新聞社)
でした。
そこに、「でんでんむし」という2頁の文がありました。
その文のはじまりは、京わらべ歌です。

  でんでんむし
  でむし
  出な 釜ぶちわろう

このあとに、小学唱歌が置かれています。

  でんでん虫々 かたつむり
  お前のあたまはどこにある
  角出せ 槍出せ 目玉出せ

このあとに、高橋さんは解説してゆくのですが、
その次の頁の最後にこうありました。

「京の子どもたちのでんでん虫の歌は、
平安時代の『梁塵秘抄』にさかのぼります。

  舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)
  舞はぬものならば
  馬の子や牛の子に
  蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん
  真(まこと)に美しく舞うたらば
  花の園まで遊ばせん

室町時代には千本閻魔堂狂言で
『でんでん虫々 でんでん虫 
  雨も風も吹かぬに 出な釜うちわろう』

とうたわれていました。」 (p75)

一方は
梁塵秘抄やら、千本閻魔堂狂言から、京わらべ歌。
もう一方は
小学唱歌と、「あんまり現実味のないカレッジ・フォーク」。

さきほどの豊田さんへのインタビューの
続きを引用して、今回はここまで(笑)。

豊田】 京都の人間って京都が好きやろ?
そやし京都で音楽やってたら、自然と京都の
オリジナルになってしまう。・・・・

暮らしている場所が、生きている場所が、
生きている時代が自然と反映される。そう、
あの頃は京都の中で京都の良い部分を熟成できた、

・・・それがいうたら『フォークル』が日本中に知られる
ようになる少し前までのことやないですかね。
全国的にモノが届いていってしまうと、やっぱり
薄まっていく、全国展開を考えると、やっぱり
オリジナルなものってのは薄れていく。
(~p106)


うん。じつは、私がたどろうとしているのは
全国展開された薄れた場所から、あらたに、
京都へたちもどろうとする楽しい試み(笑)。



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ボーイ・ソプラノで謡曲。

2020-01-24 | 京都
松田道雄著「京の町かどから」(昭和37年)。
この本に「わらべうた」と題する文がある。
そこから引用。

「高野辰之編『日本歌謡集成』の巻12には
俚謡があつめられ、京都の部には童謡として、
かなりたくさんの歌がのせられている。
 ・・・・・・
『日本歌謡集成』をみていると京都の童謡は
文学的にもほかにくらべて洗練されている。
その京都に民謡というものがない。
・・・・・・・
京都のおとなは、
15世紀にはもう猿楽能を知っていたのだ。
京都は、自己の民謡をもつ一地方ではなく、
全国の芸能がそこに集まって洗練される舞台であった。

各地の民謡にあたるものを京都でも
もとめるならば謡曲である。

農村の人たちが、自分の郷土の民謡をうたえるように、
中京の商人たちは、みんな謡曲がうたえた。

東国人の子である私が、
清さんだの長やんだのと
あそびはじめて気がついたのは、
彼らが、『16(いちろく)』だとか、
『38(さんぱち)』だとかいって、
そういう数字がつく日には、
あそびにやってこないことであった。

彼らは、その日は『うたい』のけいこに
いかなければならなかったのである。

私の家の4,5軒しもに床屋さんがあって、
その奥の二階に『うたい』の先生がいて、
午後によく朗々とうたっているのがきこえた。

それからずっとあとになってからだけれども、
隣家の裃(かみしも)屋さんの若主人も、
よく謡曲のけいこをしていた。

小学校へあがって、学芸会があると、
かならず謡曲と仕舞とがあった。
ボーイ・ソプラノでやる謡曲は、
なかなかいいものであった。」
(p104~106)

この松田道雄氏は、1908年茨城県生まれ。
ちなみに、
今西錦司は、1902年1月生まれ。
西堀榮三郎は、1903年1月生まれ。
どちらも、京都です。
さてっと、
1920年生まれの梅棹忠夫は、
ある京都弁で語る講演で

「京ことばも、やはり訓練のたまものやと
おもいます。発声法からはじまって、
どういうときには、どういうもののいいかたをするのか、
挨拶から応対までを、いちいちやかましくいわれたもんどした。

とくに中京(かなぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやと
バレてしまうわけどっさかい。
そもそも、京ことばは発音がむつかしゅうて、
ちょっとぐらいまねしても、よっぽどしっかりした
訓練をうけへなんだら、でけしまへん。
・・・・」
(p221・「梅棹忠夫の京都案内」)

ちなみに、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に
「書評 松田道雄著『京の町かどから』」
(p163~165)があるのでした。
その書評から、ここを引用。

「松田さんは・・・医院を開業する
小児科のお医者さんである。松田さんは、
きっすいの京都人かとおもっていたが
この本によると、ご両親とも茨城のひとで、
家庭では関東文化だったようだ。
松田さんはいわば帰化京都人で、
それだけに土着の京都人や
完全な他国人ではおもいもおよばぬような、
京都文化に関するおもしろい観察ないしは考察が、
この本にはたくさんふくまれている。

京都に関する本はずいぶんでたが、この本には、
京都の市民生活のずっと深部にまでふれている
という点で、たしかに特異な本である。

ありきたりの京都観とはずいぶんちがうかもしれないが、
京都市民の立場からいえば、松田さんは
ひじょうな正確さで真相をつたえている。」(p164)

『ひじょうな正確さ』といえば、
わたしには、
『ボーイ・ソプラノでやる謡曲は、
 かなかいいものであった。』
というのがいいなあ(笑)。
思わず、聞きたくなる。




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東京はね。

2020-01-22 | 京都
古本で意外と手に入らないのが、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書・1979年)。
今日のネット古本で2000円~3000円くらい。
まあ、手にすることはできます(笑)。
さてっと、今日の古本ネット検索で
見つけられなかったのが、山岡憲之著
「京都のフォークソング」(ユニオン・エー 2018年)。

手にはいらないとなると、貴重です(笑)。
その「京都のフォークソング」から引用。
本の帯には
「1960年代後半から
1970年代前半まで
京都はフォークの聖地だった」とある。

ところで、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」のなかに、
週刊誌(昭和52年11月1日号)に掲載された対談が
二回にわたって紹介されております。週刊誌の題は
『自由な空気としたたかな美意識がぼくらを育てた』。
対談者は、沢田研二と加藤和彦。
これが、印象に残っておりました。

それが気になっていたせいか、
「京都のフォークソング」が
古本で定価の半額で見つけた際に、
買っておきました。

うん。「暮らしの京ことば」の、
その対談から引用したいけれども、
「京都のフォークソング」は、
ちょっと手に入らなさそうなので、
こちらから、引用することに(笑)。

この本、いろいろな方にインタビューして
一冊となっております。その終りの方に、
松本隆氏へのインタビューがあります。
本人紹介にはこうあります。

「1949年生まれ。慶應義塾大学在学中に
細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と『はっぴいえんど』を結成、
作詞家とドラマーを担当した。『はっぴいえんど』では
岡林信康や高田渡らとセッションを重ねる。・・・・・・・」
(p216)

うん。このインタビューから、この箇所を引用


松本】 あのね。京都のいいところっていうのは、
古いものを大事にするっていうのがあるじゃない?
同じくらい、けっこうパンクな人たちがいたりとか、最先端なの。
ある意味東京より先に進んでるみたいな。
それはなぜだかはわからないんだけど・・・・・

・・・大事に守っているとさ、だんだん古典もさびれて来る。
で、どこかで新しい何かを入れないと古典も続かない。
それがなんかさ、京都って上手くいっているじゃない?

新しい血の入れ方。それは伝統を守るだけじゃなくてさ、
革命を起こしながら守っている。それが京都のあり方だと思う。
それがすごくね、文化にとって、日本の中で
一番バランスがいい形で存在していると思う。

東京はね、
文化が経済にむしばまれているから、
もう虫の息みたいな感じなのね。
テレビの力が強い時代はそれでも
成り立っていたんだけど、
テレビの力も今弱くなってるから、
ずっと迷走してるよね。

ーー当時は、むしろラジオがよく 
  聞かれていた時代ですか?

松本】 いや、京都に来ると
テレビもラジオもないのね。ライブがある。
それがいいんじゃないかな。あんまり
京都はメディアの支配を受けていないのね。
昔も今も。
だってメディアを利用した人は
東京に行っちゃったもんね。

ーーーすごい名言ですね。京都は
メディアの支配を受けていないんですね。

松本】 受けていないから京都である。
で、大阪はどっちつかずで、よくわからない。
どちらにもなれないから、とりあえず
吉本で笑って暮らそう、みたいなね。
(p228~229)

これを読んでからあらためて
寿岳章子著「暮らしの京ことば」に
登場していた
沢田研二と加藤和彦の対談を読み直す。
「東京に行っちゃった」。その二人の対談。
このインタビューから対談へと順に読むと、
ぐっと奥行きのある味わいを楽しめました。




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「お花置いときまひょか」

2020-01-21 | 京都
吉田直哉著「まなこつむれば・・・」(筑摩書房)。
その最後の章は「レクイエム」。そして、
本の最後は「武満さんの先駆的な旅」。
そこから、引用。

「『音の四季』の録音素材を聴いているときに、
彼(武満徹)が、京都の大原女(おおはらめ)の、

『花いりまへんかあ、
きょうはお花どうどすやろ、
花いりまへんかあ、・・・・・
きょうはお花置いときまひょか、
お花どうどすう、
きょうはお花よろしおすか、
花いりまへんかあ』

と売り歩く、老若ふたりの掛け合いの声に
こっちが驚くほど感動したことがあった。」(p256)

こうして
「自分にきかすような声で教え」てくれる武満さんに、
つぎに吉田直哉さんが聞きかえす場面がありました。

それはそうと、『大原女』。

宮本常一著「私の日本地図14 京都」に
『白川女(しらかわめ)』をとりあげた箇所があります。
ちなみに、この本は昭和50年1月5日に書き上げたと
あとがきにあります。

では『白川女』がでてくる箇所。

「・・詩仙堂のあたりから浄土寺町あたりの山麓地帯は、
ごく近い頃までは一面の田や畑であった。そして、
白川女(しらかわめ)たちの出たところである。

白川女というのは、その白川から京都の町へ
物売りに出た人たちであった。古い絵巻物を見ると、
昔の女たちは物をみな頭にのせて運んでいる。
しかしそういう風習は時代が下るにしたがって
次第にすたれてゆき、背負ったり荷なったりする
風習の方が盛んになり、今日では日本のところどころに
点々としてみられるにすぎなくなったが、
京都の周辺にはこの風習を残している村がいくつかあった。
白川、大原、畑(はた)、賀茂などがそれであるが、
物を頭にのせることは共通していても、
服装には少しずつの差があった。

白川の女たちは手拭を姉さんかぶりにかぶり、
紺の手甲(てっこう)をし、袂(たもと)付の着物を
タスキがけにし、三幅前垂(みはばまえだれ)をつけ、
着物の裾を端折り、その下から白い腰巻を出し、
白い脚絆をつけ、草履をはいていた。
そして自家で作った花などを頭にのせて
京都の町へ売りに来たのである。
 ・・・・・
洛北の大原から薪や柴を売りに来る女たちは、
カタソデという刺繍をした黒い布をかぶり、
三幅前垂をしていることは上賀茂とおなじだが、
着物を端折ることはなかった。
着物は鉄色の無地が多かった。
そして前垂は絣(かすり)を用いていて、
それがよく似合った。
 ・・・・・・
白川、上賀茂などは
もう何ほども畑がのこっておらず、
こういう風習もすたれてきたかと思われるが、
大原女はまだ京都の町をあるいているのを見かける、
京都の周囲の農村の女たちは、このようにして
京都の町にその生産したものを売りあるいて
生計のたしにしたのであった。」
(p53~55)

ここで、せっかくなので、
宮本常一の「あとがき」を紹介。
それは、こうはじまります。

「京都という町は
何回もおとずれたか思い出せぬほどである。
しかもできるだけ電車やバスにはのらないで
歩くようにしたのである。
つとめてあるいたというのではなく、
あるいているといろいろのものにぶつかる。
その一つ一つが考えさせられるようなことがあった。」

こうはじまる『あとがき』なのですが、
その最後の方に、こうあるのでした。

「・・・そして京都というところは
京都の中にいて京都を見るのではなく、
京都の外にいて京都を見ることも
重要ではないかと思う。」(p251)


これなど、関東の片隅で関連する
京都の古本を、ひらいてる私には、
ハッとさせられる心強い指摘です。


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生花の京都。

2020-01-19 | 京都
写真集「花ふたり」(婦人画報社)は、
生け花の写真だけではなく、文章もくわわって、
味わい深い一冊となっておりました。

うん。ふつう写真集というのは、いちど見れば、
そのまま本棚に眠ってしまいやすいものです
(あくまで、私の経験です)。

まえがきにあたる文に
桑原仙渓氏は『風土』と題して書いております。
日付は1991年11月とある。
文のはじまりは

「『花ふたり』は、昨年七月から今年の六月まで
一年間いけ続けた私達の鋏の記録である。
・・・・・・・
私達のいけ花は、京都という風土、
すなわち一つの社会とそれを取りまいている
空間と自然によって作り上げられてある。

私達は本も読むし、発達した情報機関の
お陰で多くの知識も得ている。
だがその知識もいけ花という形をとるときには、
必ず京都という風土に濾過されているようである。
花をいける者にとって、住む土地は大切なものである。
 ・・・・・・

この本を作りながら流祖冨春軒の
『立花時勢粧(りっかいまようすがた)』や
先代の『桑原専渓の立花』『専渓立花百事』を
読み通していると、そこには
まぎれもない京都が横たわっている。
  ・・・・
京都にも嫌な面はたくさんある。
だが私達は京都が好きなのである。
 ・・・・ 」

うん。立花の写真集のまえがきで
「京都にも嫌な面はたくさんある。」と
言葉で示すこと。そのあとに
解き放たれたようにして、生け花の写真が
並んでいる壮観(笑)。
その写真集にはさまれるようにして、
文が置かれているのですが、
私には、風土と花が喋り出すのを、
待って、書き留められているように、
そんなふうに、思えてくるから不思議。

ちなみに、「鋏(はさみ)の記録」という言葉が
私には面白かった。
鋏といえば、この頃、新聞を見ても
切り取ることがなくなりました。
今日日曜日の産経新聞は
産経抄に谷沢永一氏の名前が登場していたし、
門田隆将の連載「新聞という病」も、簡潔で鮮やか。
一面左上も読めてよかった。
でも、最近、新聞の切り抜きをしていない。

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ここをでても食えないよ。

2020-01-18 | 京都
ちょっと、家の中で探しものをしていると、
新聞連載の梅棹忠夫「私の履歴書」を、
スクラップブックに貼ったのが出てくる。

うん。ひらいてみると、
その⑩回目は『大学入学』という題。
気になるので読んでみる(笑)。
はじめから引用。

「1941年の春・・・大学を受験した。わたしは
はやくから動物学を専攻することにきめていた。
三高在学中の最後の一年は植物採集にはげんだ。
いずれ動物学をやるのだから、いまのうちは植物の
基礎知識を身につけておきたいとおもったのである。
胴乱をもって北山へゆき、野草をとって腊葉(さくよう)
標本をつくった。小学校以来の昆虫標本は全部すててしまった。」

はい。このあとに受験の記述があります(笑)。

「動物学専攻の募集人員は五名で、
入学志願者はわたしだけだった。
理学部の受験生は大部屋で待機していて、
学科ごとに呼びだされて試験場へゆく。
動物学の受験生として名をよばれたのは
わたしひとりであったので、ほかの受験生
たちはいっせいに大わらいした。

入学試験は口頭試問だった。試験官は
動物生態学の川村多実二教授だった。
学科については一言もふれずに、
家の経済状態だけをたずねられた。
そして『ここをでても食えないよ』といわれた。
わたしはもちろん覚悟のうえであった。」

はい。入学してからも気になるので
つづけて引用してゆきます(笑)。

「大学に入学してからは、わたしは
まことにたのしい日々をおくった。
どの学科もほんとうにおもしろかった。とくに
動物系統分類学や生態学はおもしろかった。
わたしは夢中で勉強した。
すきでえらんだ学科ではあったが、自発的な
勉強がこんなにたのしいものであるとは、
うまれてはじめての経験だった。

講義には選科生や他学部の学生もくわわったが、
ときには一対一のこともあった。学生は
各回生ともひとりないしふたりしかいないのに、
教官のほうは教授、助教授、講師、助手と
全部で十数名おられる。これは
まことにぜいたくな教育であった。」

はい。以下も引用したいのですが、
これくらいにします(笑)。

そういえば、今西錦司・西堀栄三郎の
大学受験が、気になります。
まずは、今西錦司の場合。
これは、梅棹忠夫の「ひとつの時代のおわり」
そのはじまりにありました。
うん。はじまりから引用。

「1992年6月15日、午後7時33分、今西錦司博士は
京都市北区の富田病院において息をひきとった。
死因は老衰であった。享年90歳。

今西は京都帝国大学理学部動物学教室で
理学博士の学位をえたが、出身は農学部
農林生物学科昆虫学教室である。かれが
理学部で動物学を専攻せずに、農学部で
昆虫学を専攻したことには理由がある。
理学部の動物学教室では夏やすみに
臨海実習が義務づけられていた。
南紀白浜にある京大理学部附属の
瀬戸臨海実験所で、海洋生物学の実習を
うけるのである。農学部の農林生物学科には
それがなかった。今西はこの理由から
農学部をえらんだのである。

今西は少年時代から山にのぼっていた。
・・・三高時代に、すでにさかんになりつつあった
学生登山界のかがやける星であった。・・・

当時、すでに未登攀の岩峰や岩壁は数がすくなく
なってきていた。学生登山界は、そののこされた
栄光をねらって猛烈な競争の時代にはいっていた。
夏やすみにはいるとすぐに未登のピークにとりつかないと、
よその学校の山岳部にやられてしまうのである。
臨海実習などで時間を空費することはできない。
こうしてかれは、夏やすみになるとすぐに行動にうつれる
農学部をえらんだのであった。

大学卒業後は理学部の動物学教室に移籍して、
そこでながく無給講師をつとめた。・・・・」


はい。引用がながくなりました。
つぎ、西堀榮三郎氏。
西堀榮三郎選集別巻(悠々社)の
「人生にロマンを求めて 西堀榮三郎追悼」。
そこに難波捷吾氏が書いておりました(p347)

「この時代の連中は楽しく勉強した。
学問を好きでやっているので、
立身出世の手段などという考え方は
毛頭存在しない。戦後何年かたって、
私は当時KDDに勤めていたが
ある時会社が西堀君を招聘して、
話をしてもらったことがある。
講演を終わって社員の一人が
『先生はどうして理学部化学科を選んだのですか』
という質問をしたところ、西堀先生曰く、

『実をいうと、南アルプスの白根山の北岳(3192メートル)
に冬期初登山をしたいのだが、大学の入学試験と日が重なる。
それで友人に、どの学科でもよいから入学試験のない
学科に願書を提出しておいてくれ、と頼んで登山に専念した。
幸いにして首尾よく登頂に成功して下山すると、
『あなたは理学部化学科に入学しています』という吉報で、
『ああ、そうか』という次第・・・・』

彼の面目躍如たるものがあり、
質問したKDD社員のほうは唖然として嘆息。
・・・」

うん。この西堀榮三郎追悼の本には、
ご自身の本「人生にロマンを求めて」から、
3ページほどの引用がされておりました。
京都に関連するので、最後はそこから引用。


「京都人は、よく新しいことをする人たちだと言われてきた。
・・・・・私は新しいことをする京都人と、
古い歴史を大切にする京都人とは、
どこかで結びついているような気がしてならない。

それはなぜかと問われると
『京都にはお寺がたくさんあるから』と言いたい。
京都は古くから信仰が盛んであった。
それが京都人のなかに知らず知らず
のうちに染み込んでいて、何か新しいことを
するときに大きな支えになっているのではないだろうか。

初めて南極に行くとき、
私は出発を前にして何か忘れ物をしているような気がして、
不安で不安でしかたがなかった。
しかし、ひとたび、神は必ずわれわれを護ってくださる
のだと信じると、今までの不安がすうっと消えていった。

創意工夫さえすれば、あるだけのものを使って
かならずや越冬をやりとげられるのだと、
自信のようなものが湧いてきた。
すなわち『人事を尽して天命を待つ』
という気持で臨んだのである。

ともあれ、青少年諸君には
大きなロマンをもって、その実現に向かって
進んでもらいたいものである。」(p24)













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京都と生け花。

2020-01-17 | 京都
安い古本で、京都と名がつけば、
自然と、触手が動きます(笑)。

さてっと、昨日届いた古本に
「花ふたり 京都いけばなの四季」(婦人画報社)
桑原山渓・桑原素子の写真集がありました。300円(笑)。

どこから、はじめましょう。私の
家の仏壇の飾りは、造花です。

それはそうと、宮本常一著
「私の日本地図14 京都」(未来社)に
六角堂をとりあげた箇所があります。
はじまりは

「京都の六角堂の話は、幼少の頃から
誰に聞くともなく多くの人から聞かされていた。
その一つはここが西国三十三番の第十八番の札所
だったことである。・・巡拝した経験のないものでも
その名を皆知っており、また寺々の詠歌をおぼえている
人も少なくなかった。・・・・」(p112)


うん。ここからはじめると長くなる(笑)。
その先に、こんな箇所がありました。

「六角堂は伝説によると聖徳太子が
創建したものであるという。この寺の
20世の住持専慶は山野をあるいて
立花(りっか)を愛し、立花の秘密を
本尊から霊夢によって授けられ、
26世専順はその奥義をきわめた。
堂のほとりに池があったので、
この流派を池坊(いけのぼう)とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという。
すなわち生花の池坊はこの寺からおこったのである。

もともと仏前への供花から花道は発展していった
もののようで、とくに7月7日の七夕には星に花を供える
儀礼が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ、
『都名所図会』には
『都鄙の門人万丈に集り、
立花の工をあらわすなり。
見物の諸人、群をなせり』とある。
このように立花は
後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。

しかし順礼としてこの寺にまいる人たちと
立花をたのしむ人たちの間には
大したつながりはなかったようで、
おばあさんの口からも立花の話は
あまり聞けなかった。

それよりも『へそ石はよく見ていきなさい』
と店を出るときも言われた。そのへそ石は
通用門を入った敷石道の真中にあった。
・・・・」(p118~119)

今回手にした写真集は、
その池坊から派生した流派の方のようです。
室内で撮られた生花もありますが、
私に興味深かったのは、
神社仏閣の中に置かれた立花の写真でした。

上賀茂神社立て砂の前の立花。
伏見稲荷大社の、吊り花。
南禅寺山門の、投入り二瓶飾り。
清水寺本堂の、立花。
 ・・・・・・
ひょっとすると、紅葉をめでながら、
神社仏閣を散策するよりも
心が研ぎ澄まされるような写真と
なっておりました。

そうそう、梶井基次郎が
本の上に、そっとレモンを置くような
そんな緊張感とでもいえばよいでしょうか(笑)。

さてっと、
この写真集については、まだまだ
紹介したいことがあるのでした。
それらは、次回に(笑)。


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われら。おれたちゃ。

2020-01-16 | 詩歌
雪山讃歌の名で知られている、「三高山岳部歌」。

梅棹忠夫「西堀さんにおける技術と冒険」に
『雪よ岩よ』という小見出しがありました。
そこから引用。

「三高山岳部員たちは山へゆくと、
夜は豪快なたき火をして、大声で歌をうたった。
その歌のなかでかならず登場するのが、
三高山岳部歌である。
その第一は、

  吹雪のする日はほんとにつらい
  アイゼンつけるに手がこごえるよ

ではじまる。第二節は、

  雪よ岩よわれらがやどり
  おれたちゃ町にはすめないからに

歌詞はえんえんとつづくが、一節ごとに
この第二節がくりかえしはさまれてゆく。
曲はアメリカの民謡『いとしのクレメンタイン』である。
この歌詞の作詞者が西堀(栄三郎)さんであることは、
わたしたち三高山岳部員たちはよくしっていた。
これをうたうたびに、西堀さんに対する
敬愛の念をふかめたのである。・・・」

これは、西堀栄三郎選集別巻
「人生にロマンを求めて 西堀栄三郎追悼」の
序章(p3~4)に出てきておりました。

追悼のエピソードでは、
失敗談は印象に残りますね。
ということで、そこを引用。

今西武奈太郎の「エテ叔父さん」という文に
それはありました。

「その西堀叔父には失敗談があってーーー
これは西堀夫人の妹、四手井千鶴子叔母から
聞いた話なのですがーーーある日のこと、
この三人で比叡山に行くのです。
てっぺんで何をしていたことやら、いざ帰らんと
ケーブルの駅に下りて来たところ、アラアラ、
最終のケーブルカーが出ちゃったではありませんか。

仕方なしに急坂の夜道を高度にして800メートルも下り、
さらに(ブツブツ言う)二人の女性を励ましながら
修学院、北白川とタンボ道(当時は)をつたって、
ようやく吉田山の家にたどり着いたのは夜半過ぎ・・・。
やれやれと家の中に入ってみれば重なる御難、
空巣に箪笥の中を引っ掻きまわされていた。
・・・」(p28)

うん。こういうエピソードを読むと、
なんとなく、思い浮かぶのは
「おれたちゃ町にはすめないからに」
だったりします(笑)。
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ぜいたくな、京ことば。

2020-01-15 | 京都
雑誌「言語生活」第55号(昭和31年4月)の
特集は「動物のことば・人間のことば」。
座談会『動物のことば・ニホンザルを中心に』は
司会・梅棹忠夫で、
今西錦司・上山春平・伊谷純一郎・川村俊蔵の各氏。

この座談で、つかわれている、京ことばで
印象深い箇所を引用することに。
途中からですが、サルの音声と言語に
一線をひくのを、「逃げはったんや」という
箇所から以降を引用してゆきます。

梅棹】 ありますな。そういうものは世界中
どこでも似た発声になる可能性がある。
ほんでに、比較言語学では擬声語やら擬態語は
比較材料には取りあつかわんことにしてますのやろ。
それでも、字びき見たら、『あっ』とか
『ゴロゴロ』とかいうのまで、ちゃんと
単語として書いてある。

上山】 ・・・・・・

今西】 『逃げている』と言うけれど、
逃げているのとちごうて、じつは野外での
研究ではそう単純には割り切れまへんのや。
だいたい、動物に言語があるかないかなどと言うても、
サルとサル以外の動物とでは、雲泥のちがいがあります。
鳥はまあともかくとして、ネズミやらウサギやら、
ほとんど音声を欠除してますわ。
ところが、サルはね、とにかくしょっちゅう
音声をはたらかしている。そしてそのサルと
人間とをくらべると、音声のはたらかせ方に、
また一段と開きがある、とまあ、
こういうふうに考えてもらいたいものですな。

梅棹】 言語学の方では、言語の起源について
論ずることは、ずっとタブーになっていた、
ということを聞いていますが、それは、
言語だけをとり出して議論していたら、
あかんのはあたりまえですわ。

社会生活の中における言語ないしは音声の
果している機能というような点から見て行ったら、
ずっと動物までさかのぼって、言語生活の進化史と
いうようなものをあとづけることができますやろ。

そういう、生活における言語の機能の
比較研究というようなものは、言語学の方で
やられていますか。

上山】 ・・・本来の言語学者には
そういう観点は薄かったでしょうな。

梅棹】 いま、ここでこうして議論しているときの
われわれのことばみたいなものと、サルのことばとを、
いきなり比較すると、いかにもひどく差があるようですけれども、
ふつうの日常生活の実際の場面では、
案外似ているのとちがいますか。

まえに、国語研究所でやられた白河での
言語生活の調査がありますな、あれ見ると、
家庭の主婦なんか、ずいぶん使う語いが少ないな。
どんなときでも、大てい『ハイ』の一言で
すんでしまいますのやがな。

今西】 シーリアスな状況におかれると、
ことばはかえって抑制されるということもありますな。
サルなんかは、とくに必要なことだけを音声で
やっているので、そのほかのこまごましたことは、
大てい黙ってやってしまうのやな。

梅棹】 われわれの豊富なことばなんて、
むしろ一種のぜいたくというものかもしれまへんな。

上山】 都会人ほど、言語化を行うことが多いでしょう。
いなかでは、ことばで表わさないですますことが多いですね。
東京の人なんか、道を教えるのが実にうまい。
非常にうまくことばで説明する。それが、いなかの人だと、
道をおしえるのに、そこまで一緒について行っちゃうんです。


はい。これは座談のとっかかりの場面を引用しました。
これから、座談はもりあがってゆきます(笑)。

ちなみに、田舎におります私は、近所が、
道路に面してマキの木が植えてある家が並び、
道を聞かれても、目印になる場所を特定するのが
めんどうで、誤解を生みやすいことしばしば、
どうしても、その近所で聞いてみてくださいと
ついつい、道を教えるのが下手くそになります(笑)。

まあ、それはそれ。
座談でもって議論を深堀してゆくための、
『ぜいたくな、京ことば』の一端を味わう。

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