和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

なんじゃ、これは?

2023-10-30 | 幸田文
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)を
途中からひらき、最後まで読んでしまう。

あとがきの一行目は、

「 齢をとれば人間はかならずおとろえる。 」

あとがきの7行目は、

「 ――なんじゃ、これは? 」


俳優・斎藤晴彦さんを語った文の最後は、

「 『 せっかく生きてるんだから、ときどき会って話しましょうよ 』

 ところが、こんどはこちらが入院したこともあって、
 とうとういちども会えないままに斎藤さんは死んだ。

 したがって、これが私の最後にきいたかれのことばということになる。

 人はひとりで死ぬのではない。
 おなじ時代をいっしょに生きた友だちとともに、
 ひとかたまりになって、順々に、サッサと消えてゆくのだ。

 現に私たちはそうだし、みなさんもかならずそうなる。
 友だちは大切にしなければ。  」(p229)


ああ、この本は読書がテーマでした。
そこからも引用しておかなければね。

「 私は幸田文の随筆にえがかれた露伴像が好きで・・ 」(p235)

とあります。それに関連した箇所がp153に拾えました。
幸田文対談集にふれた箇所です。

「 山本健吉との対談で、文さんが、父は日ごろ
 
『 一つのことに時間をとって、まごまごしていては損だ 』

 とよく口にしていました。と語っている。
 それが『父』こと幸田露伴の読書法、もしくは勉強法だった・・

『・・・一つのところばかりに専念するのでなく、
 八方にひろがって、ぐっと押し出す。・・・・

 知識というのはそういうもので、一本一本いってもうまくいかない。
 ・・八方にひろがって出て、それがあるときふっと引き合って結ぶと、
 
 その間の空間が埋まるので、それが知識というものだという。 』

 本を読んでいて、これこそ、まさしく私はこういう文章が読みたかった
 のだと、感じることがよくある。このときがそうだった。そうか、

 露伴先生の読書は八方にひろがってパッと凍るのか。すごいね。

 もちろん露伴もだが、むかし父親が語ったことを、
 かくもキリリとひきしまったコトバで思いだせてしまう娘もすごいや 」
                    ( p153~154 )


はい。この本自体が、八方にひろがっていって、パッとつながっている。
そんな惹かれるものがありました。最後まで読めてよかった。
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ギャグとオノマトペと『おそ松くん』

2023-07-19 | 幸田文
藤子不二雄著「二人で少年漫画ばかり描いてきた」(毎日新聞社・1977年)
に『シェー』が登場する箇所がありました。

「・・『シェー』というのである。ただいうだけではない。
 左手を頭の上に小手をかざすようにし、
 右手を胸のへんに、手のひらを上にかまえる。そして
 左足を内側に曲げれば満点。・・   」 ( p226~227 )

はい。本ではもうすこし詳しく書かれておりました。

「昭和37年から『週刊少年サンデー』に連載をはじめた
 『おそ松くん』で、赤塚不二夫はギャグ漫画家の地位を不動にした。

 『おそ松くん』にでてくるおフランス帰りの紳士イヤミの発する
 『 シェーッ! 』という奇声は流行語にまでなった

 ピキー、ショエー、トヒヨー、ホエホエ、ビローン、
 ダヨーン、ガバチョ、コキコキカパチョ、ウヒヨー、
 ムヒッ、ハヒッ、ワショー、ゴニヤー、ピヤポ、プンスカ・・・。

 『おそ松くん』に氾濫した奇妙な言葉(?)の軍団は、
 読者の脳髄をかきまわし、不思議な生理的快感をあたえた。 」(p226)


うん。あらためて、
山口仲美編「暮らしのことば擬音・擬態語辞典」(講談社・2003年)
をひらいてみる。数頁をめくるたびに、ページ下に漫画のワンカット
が引用されております。そこに引用されている漫画のカットの中でも
とくに『おそ松くん』のカットが無駄がなくって、あらためて見ると、
まるで擬音・擬態語を効果的に引きだす背景にマンガのカットがある、
というように思えてくるから不思議です。

さて、この本は、編著者・山口仲美さん。それに13名の執筆者で
できあがった辞典なのでした。
「はしがき」は山口仲美さん。その小見出しはというと、
はじめが、「国語辞典にに載らない言葉」
そのつぎ、「日本語を学ぶ外国人と翻訳者を悩ませる」・・・なのでした。

辞書のページにところどころ、はさまるように
「山口仲美の擬音語・擬態語コラム」が⑳もあります。
はい。私はまずはそこしか読まないのでした(笑)。

そして最後には特集として、
『 擬音・擬態語で詠む 俳句傑作選 』
『 擬音・擬態語で詠む 短歌傑作選 』
まで付録のように載っております。
もちろん最後には、索引もありました。

「 オノマトペ(=擬音語・擬態語)を多用する詩人は、
  北原白秋・宮沢賢治・草野心平・萩原朔太郎など。・・・ 」 
        ( p399 山口仲美の擬音語・擬態語コラム⑮ )

私に興味深かったのは山口仲美さんのコラム⑰でした、
題は「 幸田文さんの文章 小説と擬音語・擬態語 」( p457 )

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それでは勇気を出して参りましょう。

2022-01-22 | 幸田文
長谷川伸著「我が『足許提灯』の記」(時事通信社・昭和38年)の
第一話「娘観音の話」は
「近松物や源氏物語、枕草子などに就いての著書のある
 小林栄子という老女が・・・」とはじまります。

次のページに「このことは『露伴清談』(小林栄子)にある」
とあります。うれしいことに、今はネットで古本が簡単に検索できて、
しかも購入できる。以下には『露伴清談』(昭和24年)について
感想を書いてみます。

「・・何回かの先生との対談は、私が参上のたびのお咄を
 反芻して帰り、忘れない中にすぐ書きとめて置いたものです」(p20)
それぞれの書きとめた年月日も記載されておりました。
それが昭和10年から昭和17年とつづきます。

まえがきは幸田文が書いております。まえがきのその題は、
いささか長く
「この御本をお読みになる方々へ、つたないことばをもって
 おとりつぎをさせていただきます」と題してあります。

『父逝いてすでに一年有半、ひとさまの写してくださる
 父の姿にあふことは、感慨無量でございます・・・』(p4)

ちなみに、幸田文の年譜をひらきますと、
 昭和4年に女児を出産、玉と命名。
 昭和13年に、玉をつれて実家にもどる。
 昭和14年に、夕飯のとき、父から芭蕉七部集『炭俵』の講義を受け始める。

はい。小林栄子さんが露伴家へ出かけていたころは
幸田文もたいへんな時期と重なっていたようです。

この「露伴清談」にも、そのことに関連する箇所があります。
ありますが、カットして、小林さんが聞いている雰囲気を
ちょこっと紹介。

「俳諧も、芭蕉が季吟の弟子ですから、あの頃の俳人は
 源氏なども読んで居るので、それを言った句が中々あるけれども、
 後の人は源氏の類を読んで居ないから、
 分からない句が沢山あるんで御座んすね。
 蕪村あたりになると、古典の匂ひは全然なくなってしまって居る。」
 (p57~58)

こう語る露伴について、小林栄子さんは小文字にて
その様子を書きこんでおります。

  ( 『御座んす』といふお詞が実に多い。 )

 ( 叩いても容易に音の出ない方もあるが、
  露伴様は叩かなくとも、よく語って下さる。
  殆どお咄しつづけ。悪罵などはなく極めてにこやかに、
  いや味という処の少しもないお咄しぶりである。 )

うん。この古本を購入したのは、気になる箇所があったからでした。
その箇所は、小林さんがご自身で書かれている箇所なので引用します。

「近江の石山寺に今年の満月を見る。
 昼の中に源氏の間や月見堂を見、夜、又宿を出て瀬田川べりをゆく。
 大阪から来るといふ月見客の群集の中を、石の多い路を、
 足許も暗いにのぼって見ずともと思案して佇む処に、
 下りて来た品のよい娘さんがひょいと立ちどまった。
 
 『上るのも大へん、どうしませうかと思って』
 と問はず語りをすると、ご一緒しませう。
 もう一度お詣りしてもよろし『おす』は口の中で、
 つと身を反してもとへ戻る。

 『まあ、いって下さいますか、御深切に。
  それでは勇気を出して参りましょう』
 とついてゆく。

 しばらくながめて、下りるにも ふとつまづきそうになると
 『おあぶなう』と手をさしのべて、支へそうにする
 優しさ、又つつましさ。

 宿の傍で別れる間際に、家をきけば京都といふ。
 京都はどちらときけば、こればかりの事を恩がましく、
 とでも言ふように『ほ』と微笑したらしく、
 『御所のそばで御座います』といふ。

 その返事がまたたまらなくよさに、それ切りに別れた。
 昼のような月の下を、人ごみに紛れてゆく後ろ姿、
 物は何か非常につやつやした銀鼠地の、しやんとしたのに、
 墨絵で一面のすすき其の他の秋草もやうが大きく、
 赤地の糸錦ででもあるような帯を、窮屈げでなく結んで、
 中肉のおしたちのよいのが、振り返りなどしずに、
 すんなりとゆくのを飽かずながめて、
 何か此処の観音様ででもあるやうに貴く思はれた。

 『観音の化身かもしは式部かや、ともに月見し石山をとめ』
 とあとまで忘れられない。

 宿へ入るは惜しくて、瀬田川べりを逍遥して居ると、
 から船が三四艘もやつてあつて、一つのには船頭が居る。
 船で月を御覧なさい。のせてもらふと、
 『昔はこの川は大阪あたりからの月見客で賑やかいものでした。
  酒もりだの笛太鼓で』と話して、戦以来は、ただ月見堂だけで
  みんな帰り、宿もとらないといふ。その二つのお咄をしたらば、」

 このあとに露伴の言葉が二行ありました。

「その船頭は何ですが・・・・娘がおもしろいですね。
 そんなのを昔の人は、観音様にしてしまふんですね」(~p141)


はい。私は、これを読めて満足。
関連して、小林勇著「蝸牛庵訪問記」が思い浮かびました。

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私の机の前。

2017-06-10 | 幸田文
新刊購入。
渡部昇一著「知の湧水(ゆうすい)」(WAC)。
この本は雑誌WILL2014年3月~2016年12月号まで
連載された『遅の井の湧水』を改題したものだそうです。

うん。渡部氏が亡くならなければ買わなかったと思う。
雑誌のバックナンバーをそろえていたし
(読んでいなかったのですが)いつでも読めると思っていました。

あらためて、読めてよかった。
その「座談の愉しみ」に露伴が語られています。

「その後は、新制高校でも露伴に触れることはなかった。
大学でも教養課程の頃は無関心だった。ところが、
大学三年生の時に神藤克彦教授の授業に出たことで
一変したのである。神藤先生はスムーズに大学を
出られた方でなかった。旧制中学を出られてから、
しばらく家業についておられたが、向学の志やみがたく、
学費の要らない広島高師、広島文理大学に進まれたのであった。
学校から離れざるを得ない事情がありながら、
学問を憧れる気持ちが強く、ついにまた高等教育の場に
戻られた方には一つの特徴があると思う。
それは修養、立志伝中に出てくるタイプの
修養の期間があったということである。・・
学校のコースから離れざるを得なかった人で
向学心のある人は、自分の内省、修養によって
その志を育てるより仕方がない。
それは露伴も同じことで、彼がしばしば
修養の本・努力の本を書いたのは、
そういう体験を経ていたからである。
ある大学教授で露伴の研究家と称する人が、
露伴が小説や詩などの文学に専心せず、
修養書の多いことを嘆く主旨の文章を書いた人がある。
私は『この人は露伴の本当のところが分かっていないナ』
と思わざるを得なかった。
このように私が考えるようになったのは、
神藤先生のご自宅にほとんど日参するように
なったからである。・・・・先生はこう言われた。
『露伴の偉さが分かるためには、彼がどういう修養を
した人間であるかを知らなければならない。
そのためには、まず『努力論』を読むことだ。
『修養論』(私注:これは「修省論」でしょう)もよい
・・・・』というわけで、まず『努力論』を
薦めてくださった。大学の授業で挙げられる参考文献と異なり、
ご自宅で茶卓を前にして薦められる本は
先生自身の人格、あるいは人生が籠められているように感ずるものだ。
そして『努力論』は私の最も重要な愛読書となり、
あれから六十年ほど経ついまでも、
私の机の前、三、四十センチ離れたところ、
つまり手の届くところにある。」(~p114)

関連でp160~161も読ませます。


うん。いつか『努力論』をパラパラとめくったことが
あったけれど、ちっとも、私には理解できませんでした。
今年の夏。あらためて開いてみます。
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『私立探偵』的な立ち位置。

2012-08-26 | 幸田文
注文してあった岩波現代文庫「増補 幸田文対話(上)」から
とりあえず、解説(堀江敏幸)を読んでみる。
そういえば、
オリンピックの際に、NHKBSプレミアムで、
シャーロックホームズ2をやっていたのでした。
主人公が、相手のちょっとした服や指の汚れなどから、
即座に、その周辺のことを言い当てる場面が、
今回のテーマに重なってゆくのでした。
うん。そんなこんなが面白かったのでした。

さてっと、堀江敏幸さんの解説を読んでいたら、
こんな箇所があるのでした。

「専門の書にあたり、研究の成果を吸収しながらも、露伴は全身全霊で素人たらんとした。将棋の名人の木村義雄が断言したとおり、露伴は『素人の天才』であって、ものを見る眼を、警部や刑事ではなく『私立探偵』的な立ち位置で養ってきたのである。父と娘の逸話のひとつに、一種の推理ゲームがあったとの証言は、その意味で無視することができない。十七、八歳の頃、幸田文は露伴と列車に乗るたびに、乗客がどういう人間かを、身なりやたたずまいから類推していた。卓越した観察眼は、最初から備わっていたわけではなく、反復によって磨き上げられたのである。彼女は来客の履き物を見て、どの道を歩いてきたかを当ててみせた。ついていた花粉から正解を導き出して、褒められたこともあるという。」(p328)

え~と。
幸田露伴・幸田文親子を思うと、
「地震雷火事オヤジ」という言葉が、思い浮かぶのでした。

まあ、そんなことを思っていたら、
今日の産経新聞読書欄に
日下公人氏が書評を寄せておられる。

「父、坂井三郎」(産経新聞出版)の書評。
日下氏はこう紹介されております。

「・・・・お嬢さんの道子さんが書いた戦後の坂井三郎である。
戦後の生活苦と戦う姿はリストラされた大企業の社員と重なり、
米軍将兵との交際は迷走する民主党の政治家や外務省の人に
読ませたい日本人の根本精神を見せている。
お嬢さんに対する教育も『常在戦場』の精神で、
しかも戦闘機パイロットは空中に浮んで
何もかも自分一人でするから
子供教育もすべてが具体的で、
日頃から準備しておけ、ということばかりである。
よくお嬢さんがついていったものだと
そちらの方に感嘆するが、
ともかく坂井三郎は戦後も戦い続けていたのだと
頭が下がる思いである。・・・」

そして、こうも指摘しておりました。

「読者は本気で読み、
本気でついていかないと
64機撃墜の天才的偉人に
学ぶことはできない。」

う~ん。
推理もへったくれもなく。
さっそく注文(笑)。
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幸田文「崩れ」。

2011-05-15 | 幸田文
この前、東京新聞の歌壇をひらいたら、隣のページのコラム「大波小波」に「婦人之友」五月号に青木玉と青木奈緒の対談が掲載されているという情報あり。さっそく雑誌注文。発売からだいぶたち、近くの本屋さんになく、取り寄せなので日数がかかりました。その母娘対談の最初には、
「震災から1週間。まだ余震の続く中、東京小石川の青木奈緒さんのお宅を訪ね、幸田文さんから三代にわたり日本の『崩れ』の場を見つめてきたお二人にお話しいただきました。」

そうだ。幸田文の「崩れ」のことをすっかり忘れておりました。

対談には「祖母(幸田文)の『崩れ』の後をたどって綴ったのが、『動くとき、動くもの』 でした。」と青木奈緒さんが語っております。それじゃ、というので、さっそくネット古本屋の検索をしてみると、ありました。

   青木奈緒著「動くとき、動くもの」(講談社・2002年)

注文。本代300円送料300円で600円なり。
その本が届き。昨日パラパラと最初の方をひろげておりました。
今日になったら、そうだ幸田文著「崩れ」と比べながら、たどれば、ただ読み流していた『崩れ』の文の重さが味わえるのじゃないかと思ったしだいです。
ということで、幸田文の『崩れ』を読み直したいと思うのでした。
もちろん(笑)。まだ読み直してません。

ここでは、そのまえに、本並べ。

  「婦人之友」2011年五月号
  青木奈緒著「動くとき、動くもの」(講談社)
  幸田文著「崩れ」(講談社文庫)
    この「あとがき」は青木玉(平成6年9月)
    文庫解説は、川本三郎。
  長谷川三千子「幸田文の彷徨」
    2004年「正論」12月号・2005年「正論」1月号・2月号連載
  新潮日本文学アルバム「幸田文」
  「幸田文の世界」(翰林書房)
  文芸別冊「総特集幸田文没後10年」(河出書房新社)

 こうして、幸田文著「崩れ」再読。
普通に読んでいた「崩れ」と、大災害がおきてから読む「崩れ」とは、同じ本なのに、読む方の姿勢が違ってきます。はたして、どう読めるのだろう。

コメント (4)
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貧乏の説。

2010-09-05 | 幸田文
朝のドラマ「ゲゲゲの女房」では、現在放映時点で、好調だった連載マンガが途絶え、月間予定表が白紙となって、暇になった水木プロの様子が描かれております。この機会に妖怪事典を作ろうという指針が生まれたところでした。さて、同時に水木氏個人を振り返った自伝めいたものを文章として依頼されていることが、ちらっと語られておりました。その貧乏時代を、という依頼のようです。

編集者の依頼の眼目は「貧乏」というところにあるようなので、へ~。貧乏を依頼されるなんて。という水木家の反応とともに、さりげなく、自伝をひきうけるところで、今日の土曜日の朝ドラは終わっておりました。

水木しげる家の貧乏暮らしも、連続ドラマが進むにつれて、もうすっかり視聴者の思考からは忘れられておりました。というかつぎの展開へと興味はうつっておりました。


さて、貧乏。ということで、
山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)には、こんな箇所

「貧乏話には、人情話も絡んでいて、人生の機微とでもいうべき泣き笑いの世界がそこにあるように思う。落語の古今亭志ん生は、『びんぼう自慢』のなかで、修業時代のころを回想しているが、その貧乏ぶりはなかなか見事なもので、他人事だという気楽さも手伝って、何回読んでも、大笑いしたり、じーんときたりする。
それでは文学界で志ん生に対抗できるのは、と考えると、すぐに内田百という貧乏話の大看板がいるのに思い付く。百にも、『大貧帳』という傑作があって、大いに苦笑いさせてくれるが、その貧乏の味わい方は、志ん生と共通のものがあるように思う。
・ ・・・・語っているそのときが、貧乏真っ最中であれば、聞くほうも笑ってばかりはいられない。」(p101~102)

ここを読んで、私は、『びんぼう自慢』と『大貧帳』と、どちらも読んでいないため、さっそく古本屋へと注文(笑)。

ついでに、思い浮かんだのは、幸田露伴著「雲の影 貧乏の説」(講談社文芸文庫)でした。こちらは、手元にありましたので、ひらいてみますと、文庫で13㌻ほどの「貧乏の説」がありますので、読み返しておりました。その文の最後の方
「さて最後に申したいことは貧乏の功用であります。貧乏は冷たい水であります。・・・」
とはじまる箇所は、つい朗読したくなる箇所となっております。

あとは、宮崎市定の「素朴主義」への文章があるらしく、未読ながら興味を惹かれます。

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夏の夕べ。

2010-08-29 | 幸田文
本は読むよりも、どれを注文しようかとか、いつ本が届くだろうかとか、待っている時間の方が私は好きなような気がします(笑)。とりあえず、私は本を読まない。わけで、本が届くとそのままにして読まなかったりします。

いま楽しみに注文本を待っているのは、
半田喜久美著「寛永七年刊 和歌食物本草現代語訳 江戸時代に学ぶ食養生」(源草社・3150円)。届いてしまえば。なあんだという本なのか、うんうんと楽しめる本なのか、はっきりするのでしょうが、届くまでは、あれこれ定まらない本の内容を思い浮かべていたりします。
もう届いた古本がありました。村井弦斎著・村井米子編訳「台所重宝記」(新人物往来社)。せっかくですから、すこし引用。

 第十五 野菜問答

下女「奥様、野菜にはいろいろの効能がございますね」
奥君「アァ、野菜は人の体の一日もなくてならないものです。
   第一に、血を澄ませるし、通じをつけるし、
   滋養分になるし、
   それから野菜によってはお薬の代わりにもなります」
下女「どんなお薬の代わりになりますか」
奥君「野菜のうちで一番効能の多いのは大根でしょうね。
   大根おろしや大根の絞り汁は、たいそう消化剤になって、
   この頃は大根からジアスターゼという消化薬が取れるくらいです。
   餅は大根で消化されるからカラビ餅にして食べるし、
   ご飯のあとで沢庵を食べる消化がよくて
   通じもつきます」


こうして、大根のほかに、ホウレン草、アスパラガス、うど、トマト、ぜんまい、あずき、八重あずき、セロリー、玉葱・・・と会話体で紹介されております。


戦争中に捕虜に草の根っ子を食べさせたといって、捕虜虐待を語っていたのに、
最近は、ゴボウなどが胃腸などの消化をたすけると、外国でも認識されはじめている。
というのを、どこかで読んだ気がして、探したのですが見あたらない。
見あたらないのですが、セレンディピティというのですか、思わぬ文と出会いました。
それは、徳岡孝夫著「舌づくし」にある「夏の夕べの『太郎坊』」(p124~)
これが書かれたのは2000年とあります。徳岡氏はそこで幸田露伴の短編を紹介しておりました。そこから、

「・・・いまから百年ほど前の夏の夕方、男は仕事から帰るとまず着替え、尻端折りして裸足で庭に出、木に打ち水をした。暮れてゆく空に、蝙蝠がひらひら舞っていた。ここに出てくる『主人(あるじ)』は『丈夫づくりの薄禿(うすつぱげ)』と書いてあるから、体は頑丈だが年は四十か五十か、まあ当時なら初老の男である。・・昼の暑さもこの時間になると、少し凌ぎやすくなった・・・という情景で、幸田露伴の短篇『太郎坊』は始まる。・・・台所からはコトコトと音がする。『細君』が夕食の支度をしている。・・・『下女』は大きなお尻を振り立てながら、縁側の雑巾がけをしている。やがて打ち水が終わった。主人は足を洗って下駄をはく。ひとわたり生気の甦った庭を眺めてから下女を呼び、手拭とシャボンと湯銭を持って来させる。・・長湯はしない。彼はじきに茹で蛸になって帰ってくる。・・掃除の済んだ縁側には、花ござが敷いてある。腰かけて煙草に火をつけ、一服する。まだ一般の家庭には電気やガスが来ていなかった時代の話で、主な明かりは座敷の中に置いたランプから来る。それとは別に、縁側のほどよい位置に吊るした岐阜提灯が、やわらかい光を投げている。夏の夕方は、ゆっくり暮れてゆく。庭の桐の木やヒバの葉からは、さっき打った水が滴り落ちている。微風が庭を渡る。・・・お膳を持って出て、夫の前に置く。出雲焼の燗徳利と猪口が一つ、肴はありふれた鯵の塩焼・・・細君は酌をしながら言う。『さぞお疲労(くたびれ)でしたろう』明治時代の女房は夫に向かってこんな上品な挨拶をしたのかと、私は驚く。だが、まあ、それは時代時代の言葉遣いというものなんだろう。いまの女房は、こういうセリフで夫の労働をねぎらわない。せいぜい『やっぱり水を撒いたお庭はせいせいするわね』と言う程度だろう。べつに無愛想になったわけではない。『お疲れでしたろう』と言うのと同じことを言っているのだから、咎めるにあたらない。」

うん。私は幸田露伴の「太郎坊」を読むよりも、それを反芻してる徳岡氏の文に惹かれます。まあ、まだ幸田露伴までは、とどかないわけです。


そういえば、徳岡孝夫氏。
WILL10月号で石井英夫氏が徳岡孝夫氏の新刊「お礼まいり」(清流出版)を紹介しておりました。
さっそく注文。帯には
「悪性リンパ腫を克服、奇跡の完治を果たした著者の復帰第一作エッセイ集。・・・」
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牛タン。

2010-08-19 | 幸田文
暑いときは焼肉屋。
というので、久しぶりに、昨日の夕方、4人で出かけました。
さてっと、
黒岩比佐子著「食育のススメ」(文春新書)に、こんな箇所がありました。

「・・お登和は小山に『西洋料理は才覚次第で安くも高くもどうでも出来ます』と語り、魚が高い時期に牛肉の安い部位を使えば、はるかに安上がりだ、とも言っています。その安い部位としてブリスケを挙げていましたが、ここではお買い得な牛肉として牛タン、すなわち牛の舌についても語っています。
明治の日本人の多くは、牛の舌を食べるなんて気味が悪い、と思っていたことでしょう。けれども、牛の舌は上等のものでも一本六十銭くらいで買え、それが一本あれば二十人前のお弁当に間に合う、とお登和は舌を勧めています。ただし、これも料理するのは手間がかかり、四時間ほど水からゆでたあと、表面のザラザラした皮をむく、という下ごしらえが必要です。その手間さえ惜しまなければ、安い費用で美味しい料理をつくれるというわけです。」(p187~188)

ここにでてくる「お登和」「小山」というのは、
「明治のベストセラー作家であり、ジャーナリストだった村井弦斎(1863~1927)」が書いた代表作小説『食道楽』に登場する人物名です。『食道楽』は1903(明治36)年に新聞に連載され、単行本としても刊行されました。

ここでは、牛タン。
「幸田文対話」(岩波書店)に、幸田文と矢口純氏との対談が掲載されておりまして、そこにこんな箇所がありました。

【矢口】露伴先生が不思議なら、お母さまも不思議です。幾美子さんておっしゃるんですか。露伴先生が西洋料理を外で食べて帰られて、こんなのだったと言われると、殆んどそれに近いものを作ってしまう。これはいったい何でしょう。
【幸田】一所懸命なんですよ、やっぱり。母は特別な人じゃないから、一所懸命になっちゃったんでしょ。
【矢口】明治の終わりから大正の初めに、肉屋に例えばタンを注文する家なんて、そうザラにないと思うんですよ。
【幸田】そうですね。タンなんて聞くと、もうブルッちゃって(笑)。あの牛の舌のブチブチがついてるの見ると、嫌になっちゃいますものね(笑)
【矢口】お母さまは外で召し上がらずに作ってしまう。そして驚いたことに、こうした料理は、結局はかけものですねと言われる。つまりフランス料理はソースが決め手と喝破して、さすがの露伴先生もびっくりするわけです。見もしないものが出来ちゃうっていうのは、基本でしょうかしら。  


「食育のススメ」には弦斎の妻・多嘉子さんの写真がp28・p49と掲載されております。そういえば新潮日本文学アルバム「幸田文」には幸田文の母幾美の写真が掲載されております。その脇にはこんな言葉が添えられており「幾美は樋口一葉に似ていたとも、当時評判の芸者ポン太に似ていたとも言われるが、それは容貌のことであるよりもむしろ雰囲気のことらしい。地味で控え目だが聡明で、家事に秀で・・・」とありました。


え~と。ちなみに、昨日、焼肉屋で注文したとき、タン塩だけが品切れでした。残念。
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夏と秋の台所。

2010-08-15 | 幸田文
Tsubuteさんのブログ「読書で日暮し」。
その2010年8月14日は『村井弦斎の「料理の心得」』と題して、
終りに料理の歌を引用しておりました。
それが、私に興味深かったのです。
なお、その日のブログには、Hisacoさんのコメントもありまして、
なるほど、なるほど、と読まさせていただきました。

それを読んでから、私が思い浮かべたのは幸田文でした。
以下はそれについて。

青木玉編「幸田文台所帖」(平凡社)に「鮭の子」という文があります。
そこに、「口づきのいい言葉」という箇所がありました。途中から引用。

「   はららごは羅ゴ羅(らごら)に似たる名なるかな
    あれはしゃけの子これは釈迦の子

たしかこんな歌だったとおぼえていますが、なんによらず口調よくしておぼえると覚え易い、といって若い時父親が教えてくれたのです。うお身、鳥かわなどというのです。魚は身から焼き、鳥をやくのは皮からするのがいい、というわけですが、口づきのいい言葉で教えると、一度で忘れなくなるというのです。むかしから伝わる生活の智恵です。はららごの歌は父の歌だったとおもいますが、つまり父親からしてが鮭の子を愛していたのです。そして、はららごと呼べというのです。ですから私はかなりいつまでも、はららごとは鮭の子のことを上品にいうのだ、とおもっていました。字引をひくと、魚類の産出まえの卵塊をさしていうとありますから、鮭にかぎることはないかもしれません・・・」(p189~190)

 今の時期に、ふさわしいようなのが「幸田文台所帖」の「夏の台所」でした。そこに、こんな箇所があります。

「・・・それから夏は人の舌が飽きっぽくなってくることも、台所人をあえて『つとめ』させることになっている。炎天の庭へ七輪を持ち出して粉炭をおこす。粉炭といっても、炭を切るときに出るあらい欠け炭である。霜ふりの薄切り肉を好みに五分か十分、醤油にひたしておいて、その粉炭の火勢のたった上で一気に焼いて、まっ黄色なからしを添える。炎天下で焼いている人はもちろん汗だくだし、縁側へ出した食卓でたべている人も汗である。しかし、これだと暑さにうんざりした人もきっと一度はたべる。だが二度三度目からは飽きる。そういうふうに台所人の努力など、にべもなく平気で飽きられてしまうのが夏である。」(p135)

ここに肉に「まっ黄色なからしを添える」とあります。
ブログ「読書で日暮し」で引用されていた、
弦斎の「料理心得の歌」にこんなのがありました。

  合ひ物は大豆に昆布
        芋にバタ
        肉にはからし
        魚には酢



さて、「幸田文台所帖」では、夏から秋へとつながっています。
「活気」という文でした。そのはじまり。

「涼風がたつと、バテ気味だった食欲が盛りかえしてきます。それにこたえるために、主婦は食事ごしらえに心を配ります。秋は食べる人も、こしらえる人も、なにかおいしいものをと思う季節です。・・・・・
料理の材料にしゅんがあるように、味にも最もうまいという時間があります。焼きざましがまずいのは、時間が外れているからです。ですから、ささやかな食卓でもせめて精一杯おいしく食べようというには、許せる範囲の行儀わるさなら目をつぶって、食べ時を逃がさないほうが、私は好きです。これからの季節もの、さんまや鯖の塩焼など、一番おいしい食べかたは七輪のそばで、ちょんつくばいにしゃがんで、焼きたてをすぐ食べることです。・・・・」(p146~147)
 

 弦斎の「料理心得の歌」から、もうひとつ。

   弱き火に焼かば魚の味抜けむ
     強き遠火に限るとぞ知れ

これが、幸田文さんの対談では、いかにも歯切れがよくて伝わってくるのでした。どこにあったかというと、「幸田文対話」(岩波書店)。

「今は、もう炭がなくなったでしょ。あたし、鯖が出て来る時期になると、しみじみ子供の時が懐かしくなるんです。父がね、鯖って下魚(げうお)だけれど、旬には塩焼きにして、柚子の絞りしるをかけると旨いと言うんですね。焼く時には、庭とかお勝手の外へ、七輪を出すでしょ。あれ、トロトロした火で焼いていると旨くないんですよね。炭がうんとおこったところでやんなくちゃいけない。それで、パーッと粗塩をふって焼く。そして、ジブジブジブジブッてまだ脂がはじけているうちを、大いそぎで父のお膳にもっていく。庭に柑橘がいろいろあるでしょ。それを二つに切って添えて行く。そうすると父は書物を読んでいても、さっとやめて食べてくれた。鯖の塩焼きは焼きあげたそのいっときの熱いうちが勝負なんです。
まだ若くて子供みたいなもんでしたけど、一生懸命に鯖を焼いて、駆け出して父のところへ持っていくと、父がすぐ食べてくれた。・・・・あれはやっぱり、台所する者のひとつの喜びだったんでしょうね。焼いている間じゅう神経集中して、わあって飛んで持ってって、片方が食べてくれる。それが、季節というものであり、旨さというものじゃないでしょうかね。それを今はサービスしたなんて言うんですってね。」(p346~347)


まずは、Tsubuteさんのブログ「読書で日暮し」。
そして、コメントされたhisakoさん。
それに、つられて、引用させていただきました。
ここで、未読の黒岩比佐子著「『食道楽』の人村井弦斎」を注文。
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あの木が私だ。

2010-04-27 | 幸田文
読売俳壇2010年4月26日の矢島渚男選の最初の句。

  老残の身を寄す施設木々芽吹く   石川県 田保与一

とありました。
そういえば、鶴見和子氏の養護施設に入ってからの短歌が思い浮かぶのでした。
それについて鶴見俊輔は、こう語っております。

「彼女の最後の十年というのは、同じ社会学でもまったく違うんです。・・
倒れてから後は、遠慮なく自分を導入するようなものだといって、日記のように和歌を書いているので、和歌と論文とはつねに交流する。倒れてからそれまでの仕事を藤原書店ですべて本にして出してくださったわけですが、どの巻にもあとがきだけは自分で入れるでしょう。あとがきで、一つ一つのだるまに目を入れるように、別のものになってく。ここに自分が入ってきて、いまの実感からものをいう。だから彼女の学問全部が全部新しい様相を見せるようになる。」(鶴見俊輔著「言い残しておくこと」p160~161)

ちょいと、寄り道しました。
読売俳壇の句を読んで、最初に思いうかべたのは、
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)の、この箇所だったのです。

「・・・トーテム・ポールで、自分を何かの動物部族の末として、地球の上に位置づける。宇宙史の中で、動物、植物、鉱物のどれかの系統に自分を位置づける方法もあり、ことさらにその血を引いているなどと考えるまでもなく、その何かの友だちとして自分を置く方法もある。俳諧歳時記は、その方法で、何かのそばに自分を置いてみるという、さりげない身ぶりと言える。そういう想像力の動きの中に自分を置くということだろう。」(p77)

そして、つぎのページに、こんな箇所があったのでした。

「これは『夜と霧』にある話だが、アウシュヴィッツの強制収容所に閉じこめられてフランクルは、おなじ仲間の老女がいきいきと毎日をすごしているので、どうしてかとたずねた。すると、彼女は道に見える一本の樹を指して、『あの木が私だ』と言う。・・」(p78)
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幸田文の季節。

2010-03-08 | 幸田文
幸田文の新刊。
平凡社から「幸田文 季節の手帖」(青木玉編)が、この2月に出ていたようです。読んでいないけれども、気になるなあ。
ということで、思い出したコラムがありましたので、
以前書いたものをここに掲載。
それにしても、幸田文は、読もうと思っているのに、
ちっとも読まない私であります。
では、だいぶ以前に書いていた文を、以下に引用。



幸田文さんに、一読忘れられない言葉があります。

「季節の移りかわりを見るのが、私は好きです」とはじまります。「心にしみ入るような、素晴しい季節の情趣に出逢ったときは、ほんとうにうれしゅうございます。けれども、それよりもっとうれしいのは、人の話をきくときです。誰かが時にふっと、すぐれた季節感を話してくれることがあります。そういう話をきいたときは、手を取って一歩ひきあげてもらったような喜びがあります。・・・」(「季節の楽しみ」の出だし。)


じつは、新聞のコラムを紹介しようと思っていたら幸田さんの言葉を思い浮かべました。それでは産経抄2003年3月31日から。

「『朝の詩』の投稿者である東京・杉並の女性Hさんから手紙が届いた。『いよいよ咲きました。でも今年の桜は、なにか重い気持ちでしか眺めることができません』とある。似たような思いの方は少なくないかもしれない。年々歳々、咲く花の色は同じだろうに、日を透かした花びらが遠い国の砂嵐や閃光をのぞかせている。重苦しいくもりガラスの向こうで咲いている印象なのである。・・・
そういえば昔から、満開の桜に、生命の賛歌とは逆の、『死』のイメージを抱いた日本人は多い。古今集の読み人知らずは


『春ごとに花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり』


 と詠み、藤原俊成は


『またや見む交野(かたの)のみ野の桜がり 花の雪ちる春のあけぼの』


 とうたった。どちらも真っさかりの桜を目の前にして、また来年もこの花を見ることができるだろうか、いや多分見られないと見極めている。・・
確かに、今年の桜は【重い気持ち】で眺めるほかなさそうである。
あの戦争で散っていった英霊のことを重い浮かべている人もいよう。
ぺリリュー島玉砕の守備隊の最後の暗号電文は
『サクラ、サクラ』だったという。」



じつは、私は長い間。日々のコラムにこういう言葉が載るのを知らないでいました。ふつう新聞のコラムと言えば。たとえば朝日新聞2003年3月28日「天声人語」の最後ぐらいのまとめ方なのだと、たかをくくっていたように思います。

ではその引用。

「東京都心で桜が開花した。皇居沿いの柳も柔らかな緑を見せ始めた。うららかな天気の中、街を歩いていると、砂漠の戦闘があまりにも遠く、あまりにも不毛な戦いに思えてくる。」


こういうようなまとめで、自身をよしとして来たコラム。
言葉を探さないで、ただ言葉を並べかえてるような。
傍観者的で、他人みたいな言葉に安住した時間の長さ。
その「あまりにも不毛な」詠嘆。

こんな天声人語の、しらべを知らないうちに真似ていることへの恐怖。
おかげで、そんな言葉の殻から抜け出せなかった時間の長さ。
怠惰で甘い誘惑。それは天の声を、虎の衣を着るようにして、語るキツネのお喋り。


いっぽう。イラク戦争での「産経抄」は、日々のコラムに、いっそうの緊張の糸がはりつめている感を抱きます。


幸田文さんは書かれたのでした。

「誰かが時にふっと、すぐれた季節感を話してくれることがあります」。

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小石川植物園。

2009-11-27 | 幸田文
柴田宵曲著「漱石覚え書」(中公文庫)に植物園と題する見開き2ページほどの文があります。こうはじまります。

「寺田寅彦の名は科学者としてよりも先ず文学上に現れた。『ホトトギス』の百号(明治38年4月)に出た『団栗』が最初の作品で、三重吉の『千鳥』ほど華々しくはなかったけれども、寅彦の特色は已にこの一篇に遺憾なく発揮された観があった。病余の細君と一緒に小石川の植物園に遊ぶところが全篇の山であり、細君の歿後六つになる遺児を連れて同じ場所に遊ぶ一条を以て之を結んでいる。母の面白がって拾った団栗を遺児も亦面白がって拾う、それがこの題名の生れる所以であるが、植物園を題材として作品で、これほど短い中に無限の情味を湛えたものは、前にも後にも無いかも知れぬ。この作者は当時小石川の原町に住んでいた。植物園とは地理的にも因縁がある。・・・・」

というのが、短文の前半であります。
小石川の植物園といえば、「幸田文対話」(岩波書店)に、
山中寅文氏との対談があるんです。
思い浮かぶので、ひっぱりだして引用しておきます。


【山中】はじめてお目にかかったのは、もう二十年前になりますか。お一人で植物園にいらしたでしたね。
【幸田】そう、私が六十になった頃でしたか・・・。娘が結婚し、子どももうまれ、順調に育ち、まずは一段落でホッとしたのですが、さてこれからさき何へ心をよせていこうかと思ったときに、住居のすぐ近くに小石川植物園があったことは幸いでした。・・・・・
ふと思いついて植物園に出かけたのです。ところが園の中は広いし、植物は何もしゃべらないし、まことにどうも、面白くない。ベンチに腰かけていたら、白衣を着た人が通りかかった。『植物園の方ですか』って声をかけると『そうだ』と言う。ベンチの後ろにスーッと何本かのもみじが並んで折柄実がなっていました。『あれ、幾つくらいなってるんでしょうね?』ってその人に聞いたら、言下に『まあ、五千だね』って。たまげましたね。おっかぶせて『どうしてわかるんです?』そう聞いちまうところは、我ながら憎たらしいけど、憎たらしいのも、物を聞く機縁の一つでしょうかねぇ。『そりゃ、数えたことがあるからさ』といわれて、こりゃいけないと思いました。あれから、もう二十年になるのですね。

  ・・・・・・・・・

【山中】たとえばランの種子は、一果に十万ぐらい入っていますが、まれにしか生えてきません。種子の多い植物は弱いのです。一番強い種子は何かというとドングリです。ドングリは、一つしか実がなりませんが、どこに落ちても必ず芽が出る。種子の多い、一本に何十万も種子のなる木はまことに弱いけれども、神様がもしたくさんの実をつけて下されば、千に一つは生えるので、それで充分ということになるんですね。


伝法な口をきく幸田文さんとのやりとりが何ともいえません。
「千に一つ」といえば、漱石が虚子に返事を書いた明治39年7月2日付の手紙が思い浮かびます。


「啓上其後御無沙汰小生漸く点数しらべ結了のうのう致し候。昨日ホトトギスを拝見したる処今度の号には猫のつづきを依頼したくと存候とかあり候。思はず微笑を催したる次第に候。実は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒くらいづつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちに物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千万粒のうち一つ位が生育するものに候。・・・・・
小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が楽しみに候。
又喧嘩が何年出来るか夫が楽に候。
人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分からぬものに候。
握力杯は一分でためす事が出来候へども
自分の忍耐力や文学上の力や強情の度合いやなんかは
やれる丈やつて見ないと自分で自分に見当のつかぬものに候。
古来の人間は大概自己を充分に発揮する機会がなくて
死んだろうと思われ候。惜しい事に候。
機会は何でも避けないで、
其儘に自分の力量を試験するのが一番かと存候。・・・・」

まだこれから興味深い言葉がつづくのですが、このくらいで切り上げます。
ちなみに、漱石はこの手紙を書いた明治39年の4月に『坊つちやん』をホトトギスに発表しておりました。9月には『草枕』を発表します。

え~と。寺田寅彦・幸田文・夏目漱石でした。
ところで、漱石と小石川植物園との関係は、
どなたか、ご存知の方いますでしょうか?


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すっ飛んで。

2009-11-16 | 幸田文
ドナルド・キーンの新聞インタビュー記事で思い出したのですが
ドナルド・キーン著「声の残り」(朝日新聞社)に、
一度だけ訪問した永井荷風の家の様子を描いた箇所があります。

「とにかく家を見付けて、入って行った。私はそれまで、日本人の家に初めて入った時、家の人が、『きたないところですが』と、へりくだって言うのを、よく聞いたことがあった。しかし言葉どおり、本当にきたないことを実感させられたのは、実はこの荷風の家が、初めてであった。例えば私たちが畳の上に座った時、もうもうたる埃の煙が、たちのぼったものだ。」

と、ここまで引用していたら、橋本治の新刊「巡礼」(新潮社)が思い浮かびました。私は読んでいないし、読まないだろうけれども何でも「ひとりゴミ屋敷に暮らし、周囲の住人たちの非難の目にさらされる老いた男」を主人公にしてあるのだそうです。話がそれました。続きを引用。

「間もなく荷風が、姿を見せた。荷風という人は、まことに風采の上がらぬ人物だった。着ている服は、これといって特徴のない服で、ズボンの前ボタンが、全部外れていた。彼が話し出すと、上の前歯がほとんど抜けているのが分かった。しかし彼の話すのを聴いているうちに、そうしたマイナスの印象なぞ、いつの間にか、どこかへ、すっ飛んで行ってしまった。彼の話す日本語は、私がかつて聴いたことがないくらい、美しかったのだ。第一私は、日本語が、これほど美しく響き得ることさえ、知らなかった。その時彼が話したことの正確な内容、せめて発音の特徴だけでも、憶えておけたらよかったのに、と悔やまれる。ところがその日は、前の晩の飲みすぎで、私はひどい二日酔い、荷風がなにをしゃべったか、記憶がまったく定かではないのだ。それにしても、彼の話し言葉の美しさだけは、あまりにも印象深くて、忘れようにも忘れられない。」

う~ん。日本語の美しさ。どなたもある時、そんな経験をするかもしれませんね。
ちなみに、私が思い浮かぶのは、テレビのインタビュー番組でした。
青木玉さんがしゃべっていた。その語り方の抑揚というかテンポがステキだった。
内容はすっかり忘れてもその声というのは、残るものですね。
そうそう。岩波書店の「幸田文全集」の第二十二巻付録には幸田文の講演カセットがついておりました。その声を聞いていると、幸田文の文章と、息づかいが自然と地続きなことがよくわかる。
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円楽落語。

2009-11-05 | 幸田文
古新聞をひらいていたら、朝日新聞の10月31日文化欄に、矢野誠一(演芸・演劇評論家)が「三遊亭円楽さんを悼む」という文を寄せておりました。
最後の方にこうあります。

「実は、円楽は私の初の噺家の友人。・・・
彼がいなかったら、私はこれほど落語の世界に入り込まなかったと思う。
50年ほど前の若い時分、よく語り合った。文学、映画、演劇・・・。円楽は米西部劇映画が好きで『日本に入ってきたもので、みていないのは2本だけ』などと言っていた。・・・
円楽にとって、落語は、これら夢中になったものの一つに過ぎなかったのかもしれない。」

こう締めくくっておりました。談話とあります。
テレビで顔ばかり見て知ったつもりになっていた私など、円楽落語など聴いたこともなかったので、矢野誠一氏の円楽落語評価というのは、どうだったのかと、気になるわけです。

この追悼文のはじめにあります。

「演じるより、伝える――。
亡くなった落語家の三遊亭円楽が、他と比べてひときわ違うところは、特別にクールで叙事的ともいえる落語だった点だ。演じるのではなく、噺を伝える、と言った方がしっくりくる。落語や芸に対して、一歩引く感じだった。
・ ・・・芸人らしくない噺家だった。
本人は『淀五郎』『百年目』など大ネタの人情噺を十八番にしたかったのかもしれない。が、
私は、寄席にふさわしい『汲みたて』など、軽やかな噺が好きだった。
古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽。
この3人が出てから『落語に身を落とす』感覚で、落語の世界に入ってくる若者はほとんどいなくなったのではないか。寄席だけの閉鎖的社会を壊した功績は、特筆すべきだろう。・・・」


う~ん。これを読んでいると、円楽落語というのは、落語うんぬんよりも、「落語を多くの人に伝えたいという姿勢」におもむきがあったのかもしれません。
一度も、寄席で円楽落語を聞いたこともない私にとっては、矢野誠一氏の文がたよりなわけですが、まあ、「悼む」文に的確な内容を盛っているのだと思います。

思い浮かべるのは、大佛次郎氏の安藤鶴夫を評する文でした。
それは、昭和21年11月~29年7月の間つづいた雑誌『苦楽』を語っている中にあります。

「少し雑誌の調子が硬くなったから、柔くしようと云うので、私は落語を連載することを思立った。これも、実際に滅亡しようとしていたのだし、江戸から明治にかけての口語文、特に下町の言葉として、早く正確に保存の道を考えたいとの頭もあった。現代のような落語の繁昌を考えられず、また今日のようにまだ落語が悪く崩れない時代だったので・・・・」
(誕生100年記念特集「安藤鶴夫」河出書房新社。p59)

ちなみに、「今のようにまだ落語が悪く崩れない時代だった」
と大佛氏が書き込んだ時代は1970年。

う~ん。送料込みで6840円だった、安藤鶴夫作品集全6巻が、未だに読まれるのを待っている(笑)。
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