文春文庫「吉村昭が伝えたかったこと」に
「津村節子ロング・インタビュー」という箇所があり、
そこで、「新潮社の重役のSさん」が話題にあがっておりました。
「『戦艦武蔵』については猛烈に悩んでいましたね。
新潮社の重役のSさんが、小冊子に連載した
『戦艦武蔵ノート』を読まれて、これを小説に、
と何度も強く要望されたのですが、断り続けていました。
小説って人間を描くものなのに、なにしろ相手は艦(ふね)ですからね。
でも、取り掛かってみると、艦が次第に人間に思えてきたといいます。
艦首を振りながら進むなんて、人間みたいに描いている。
完成間近くなって、工員に
『お誕生が近いぞ』といわせていますね。
人間に思えてきたのでしょうね。
八月発売の九月号に間に合せるために、
最後は精根が尽きて、立てなくなって
笑いながら這っていましたよ。
脱稿したあとまる一日寝続けました。
あのころは文芸誌に長編の一挙掲載などありえなかった。
それも新人の原稿四百二十枚ですよ。
重役の指示とはいいながら、
直接の『新潮』誌の担当編集者であるTさんは、
あの作品は嫌いだったでしょうね。だって、
Tさんは私小説しか認めないという人だったんですから、
実にいやそうに来ていた(笑)。
あの作品について『堕落しましたね』と
新宿のバーで酒ぐせの悪い編集者に吉村が
絡まれるのを私は目撃しています。
でも、本は売れました。
三千とか五千部を考えていた私たちは、
万という部数に驚いたんです。
初版二万が翌日三万に訂正され、
十月には十一万六千ですって・・・・。
なにしろその前の一年間の吉村の収入は、
PR誌に書いた原稿用紙四枚分の四千円、
税金分引かれて三千六百円だけだったんですから。
―――賛否が真っ二つに分かれたそうですね。
それでむしろ安心したと吉村さんはいっています。
ああいう調べて書いたものが小説として
認知される風土がまだなかった。 」(p238~239)
「津村節子ロング・インタビュー」という箇所があり、
そこで、「新潮社の重役のSさん」が話題にあがっておりました。
「『戦艦武蔵』については猛烈に悩んでいましたね。
新潮社の重役のSさんが、小冊子に連載した
『戦艦武蔵ノート』を読まれて、これを小説に、
と何度も強く要望されたのですが、断り続けていました。
小説って人間を描くものなのに、なにしろ相手は艦(ふね)ですからね。
でも、取り掛かってみると、艦が次第に人間に思えてきたといいます。
艦首を振りながら進むなんて、人間みたいに描いている。
完成間近くなって、工員に
『お誕生が近いぞ』といわせていますね。
人間に思えてきたのでしょうね。
八月発売の九月号に間に合せるために、
最後は精根が尽きて、立てなくなって
笑いながら這っていましたよ。
脱稿したあとまる一日寝続けました。
あのころは文芸誌に長編の一挙掲載などありえなかった。
それも新人の原稿四百二十枚ですよ。
重役の指示とはいいながら、
直接の『新潮』誌の担当編集者であるTさんは、
あの作品は嫌いだったでしょうね。だって、
Tさんは私小説しか認めないという人だったんですから、
実にいやそうに来ていた(笑)。
あの作品について『堕落しましたね』と
新宿のバーで酒ぐせの悪い編集者に吉村が
絡まれるのを私は目撃しています。
でも、本は売れました。
三千とか五千部を考えていた私たちは、
万という部数に驚いたんです。
初版二万が翌日三万に訂正され、
十月には十一万六千ですって・・・・。
なにしろその前の一年間の吉村の収入は、
PR誌に書いた原稿用紙四枚分の四千円、
税金分引かれて三千六百円だけだったんですから。
―――賛否が真っ二つに分かれたそうですね。
それでむしろ安心したと吉村さんはいっています。
ああいう調べて書いたものが小説として
認知される風土がまだなかった。 」(p238~239)