和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本⑮

2024-07-30 | 安房
『 安房震災誌 』は、まず

大正15年3月31日発行。編纂兼発行者 千葉県安房郡役所。
こちらは、非売品として各町村や各小学校などへ配布されたようです。

安房郡役所については、郡制廃止の経緯をすこし記しておきます。

  1921年(大正10年)4月12日に
          『郡制廃止ニ関スル法律案』が可決され、
  1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止された。
         郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
         郡長および郡役所は残務処理のため
  1926年(大正15年)7月1日まで存置された。


この郡制が廃止され、残務処理のために存置された年の9月1日に、
関東大震災が発生します。そして、それを記録に残すために
震災誌を編纂することとなります。それが大正15年3月31日発行されました。
そこに『安房震災誌の初めに』と題する挨拶文を大橋高四郎が記しております。そこから引用すると

「・・・なほ一つ特記して置くべきは、かかる未曾有の大天災に際して、
 安房郡民の態度が如何にも立派で、少しも常軌を失わなかったことである。」

「震災誌編纂の計画は、これ等県の内外の同情者の誠悃を紀念すると
 同時に、震災の跡を後日に伝へて、いささか今後の計に資するところ
 あらんとの微意に外ならない。

 震後復興の事は、当時大綱を建てて之れを国県の施設に俟つと共に、
 又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであった。

 が、本書の編纂は、もっぱら震災直後の有りの儘の状況を
 記するが主眼で、資料もまた其處に一段落を劃したものである。

 そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
 挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにした・・ 」


うん。推測を逞しくするならば、
「震災の跡を後日に伝へて、いささか今後の計に資するところ
 あらんとの微意に外ならない。」と記してある
『 微意 』とは、ほかならぬ安房郡長大橋高四郎の意向だと思えてきます。
そして、劇忙の最中に白鳥健氏に嘱した配慮も大正15年までに完成させる
という同じく配慮を感じさせます。


さて、大正15年発行の『安房震災誌』は、ページの本文を読むよりも
ページとページが割れてしまいかねない状態で、そちらに注意が入ります。

それが昭和62年10月10日に復刻版として発行されており、
今でも古本で簡単に入手可能で、装丁も活字も読みやすい。
発行元は株式会社臨川書店(京都市左京区今出川通川端東入ル)。
私は、この復刻版をパラパラとひらいております。

されに今では簡単に読むことができます。
ネット検索で、安房震災誌を調べると、

津波ディジタルライブラリィに『安房震災誌』があり、
安房震災誌の掲載された写真もすぐに見ることができます。
( ちなみに、このライブラリィには、再版の序もありました )

また、国立国会図書館デジタルコレクションならば、
実際の本の写真版をページをめくりながら見ることもできます。






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「下から来る地震はこわいよ」

2024-07-29 | 地震
「安房震災誌」をパラパラめくっていたら、
富浦村の「人の被害」という箇所に

「 富浦村は曾て安政の大地震にも可なりの
  災害を被りしと伝へらるるも確然たる記録は勿論、
  是れといふ言ひ伝へもないが・・・  」(p97)

うん。安政の大地震の内容については語られていないのですが、
ここに『安政の大地震』という言葉が出て来ておりました。

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にも、安政の大地震に
触れた箇所がありましたので、短いから全文引用(p878~879)。
富津尋常高等小学校 八田知栄という方の追憶談でした。

「大正12年9月1日・・・児童を帰して職員大部分は職員室に
 集まってゐた。私は広尾訓導に認印を押して貰ふ用事があったので、
 高等科の教室に行って見ると3人ばかりの児童が残ってゐた。

 やがて下から持ち上げられる様な気持でドーンと来た、
 私は『地震だ。出ろ』と思はず叫んだ。
 広尾訓導は『大丈夫だ』と云った
 ( 其の大丈夫だと言ったのは倒潰することはない、
   夏休中に教室の柱を修理したからの意味で有った )

 私は『何に出ろ』と言って外へ出た。
 ころころと転げて畑の中まで転げ落ちた。
 頭を上げて見ると『ガラガラ』と砂煙りを上げて
 東側の校舎が倒れるのを見た。
 私も広尾訓導も命を拾った、児童も早く逃げ出して居った。

 私の父母は江戸で生れて安政の大地震のとき恐ろしい目に遭った。
 母は常に『下から来る地震はこはいよ』と教えてくれた。
 今更に母の言葉の有難味を覚える、
 下から来る地震東京湾沿岸、三、四尺も隆起した
 ところを見ると下からまくし上げたに違ひない。  」

そういえば、寺田寅彦のエッセイに安政地震のことが出てくる
箇所がありますので、最後にそこも引用して終ります。

「・・困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。
 地震や津波は新思想の流行などには委細かまわず、がんこに、
 保守的に執念深くやって来るのである。

 紀元前20世紀にあったことが紀元20世紀にも
 まったく同じように行われるのである。科学の法則とは
 畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。

 自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、20世紀の文明という空虚な名をたのんで、
 安政の昔の経験を馬鹿にした東京は、
 大正12年の地震で焼き払われたのである。

 こういう災害を防ぐには・・・・しかしそれができない
 相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し
 過去の記録を忘れないように努力するよりほかはないのであろう。 」

(p184~185 寺田寅彦エッセイ集「科学と科学者のはなし」岩波少年文庫)

はい。8月28日(水曜日)に「安房郡の関東大震災」という題で
1時間の講座を語るのですが、これを導入部としましょうか。
安政の大地震と比べ、ありがたいことには関東大震災は過去の記録が
きちんと残されております。そして、その安房の記録を紐解いてゆく。

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講座参考本⑭

2024-07-28 | 安房
安田耕一著「舎久と道久保」(昭和51年・非売品)。
明治35年12月14日千葉県安房郡和田町和田生まれ。
東京慈恵会医科大学卒業とあります。
この本に「関東大震災」と題した4ページほどの文がありました。
そのはじまりは

「入学して次の夏休みに房州に帰っていて震災にあった。
 東京へ帰る人達とお別れのお昼を食べようと言って、
 鶏なぞつぶして焜炉に鍋をかけはじめた時に、
 上下動の凄まじいのが来た。 」(p68)

このあとに、余震の描写があります。

「・・・みんな驚いて顔色がなかった。
 余震の大きいのがくる度に、
 みんな世の中の終末かと思って蒼ざめていた。

 ただ一途に桑原々々を唱える人もあれば、
 腰を抜かして全然動けない人もあった。
 腰が抜けるとは全く面白いもので、
 驚愕の極、腰がへたへたと床に落ちて、
 足の運動が無力となって、一過性の麻痺状態となる。

 こんな二人の女につかまって私は往生した。
 余震の大揺れが来るたびに天井を見ればうねっていて、
 何時落ちてくるかと生きた心地がしなかった。

 余震が段々弱くなって来たが、何時また大きいのが来るかと
 家の中には入って寝ることが出来ないから、
 みんな野外に蚊帳を吊って野宿した。

 3日間は余震が劇しくて飯もろくに食えなかった。
 こんな生活が10日間も続いて、漸く余震も薄れて
 家の中に居られるようになった」

このあとに、東京の姉の家へと行くことになります。

「余震も全然とはいえないが、静かになってから14日くらいして
 姉の家のことが心配になったので、友人5人と朝早く、
 歩いて館山へ1日分の握り飯と白米少量を持って出発した。

 私の町は地盤がいいので、一、二軒の倒壊家屋が
 あっただけだったが、両隣の村はひどかった。

 北条町の方へ近づくに従って建っている家が少なくなって来た。
 北条、館山両町にいたっては全家屋が崩壊して、
 残っている家は二軒だけだった。道路上には大きい亀裂があって、
 歩くのに大変だった。
 和田町から館山湾の桟橋まで約18粁(キロメートル)あったが、
 4時間ぐらいで着いて東京行きの切符を買った。・・・ 」(~p69)

うん。余震に関係しそうな箇所は、もうすこし注意して
『安房震災誌』などからも引用をしていきたいと思います。
 

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講座参考本⑬

2024-07-27 | 安房
千葉県立安房南高等学校(女子高)の
「創立百年史」(平成20年2月29日発行)から、

大正13年3月島崎靖(高女14回卒)の回想文
「ああ震災」を引用してみます。

「その瞬間・・家屋の下敷となった一家五人の者は、
 九死に一生を得て我先にと小さな穴を破り、
 危ふい足取りで漸く安全地帯へと逃れ出たのは、
 それから間もない時であった。 」(p79)

当日の余震回数の、正確な記録などは知り得ないわけですが、
それに当日天候などを気にしながら文をたどることにします。

「しかし、今といふ今は如何ともする術さへもなく
 それからそれへと絶え間なく響く物すごい地鳴、それにつづく大震動!
 ただ私共の恐怖の念をより以上濃厚にさせるのみであった。

 午後の熱し切った太陽は一層の熱を加へて、
 哀れな避難民をいやが上にも照り付ける。

 三時と思はれる頃、余震もやや弱くその数も少し減じて
 来たのを見定めて、もろくも破壊された家の中にもぐり込んで
 重要な書類、家具など拾ひ集め漸く少しづつ運び出したのである。」(p80)

周囲の人たちの様子も描写されておりました。

「とやかくする中太陽は無情にも没し去って
 四辺はたそがれの気に装はれた。

 急に人々は避難所をもとめて帰って行く。
 往来は急に人通りが多くなった。
 そこにはかめの中に入れた死人を運ぶ車も通った。
 哀れにも苦悶しつつある怪我人も通った。
 母親に死に別れた悲しさに人前もはばからず
 狂わんばかりに泣き叫ぶ青年も通った。・・・・

 方々見舞や手伝ひに奔走された父も帰られて、
 やがて一つのおむすびに空腹を凌ぎ
 取敢へず小屋を立てる事となった。
 庭の一隅に筵(むしろ)を敷き
 四壁と天井とは有合せの筵を張ったのみの簡単な小屋であった。
 一同は詮なくそこで雨露を凌がねばならなかった。」

このあとに、夜になる心境を語った箇所や、蚊に攻められる様子。
いまなら、広報が余震ごとに津浪への注意を呼び掛けるのですが、
当時は、どのような状況であったのか具体的に語られていきます。

「 不安の中に夜は訪れて次第に更けて行く。
 はるか那古の空は盛んに燃え上がる焔の為に淡紅色の層をなして
 暗黒の夜の空を色どって居た時は、
 言ひ知れぬ物すごさを感ぜずに居られなかった。

 今日午前中まで存在して居た歓楽の住家が、
 今は自分の眼の前に敗残の大きな黒い影となって
 横たへられて居るのを見た時、又も言ひ知れぬ
 涙ぐましさにしばらく茫然として、
 大自然に対しては如何に人力が微弱なものであるかを
 嘆息せずには居られなかった。 」


「 『 つなみつなみ 』人々はかう叫びながら高台の方へ急ぐ。

 気付いて見ると波の音は異様なひびきをつたへて居る。
 しばらくたつと下の通りまで切迫したかの様にひびいて来た。

 隣の人は食料を持って逃げ支度をして居る。
 自分達はぢっとして居られず危機一髪の用意を整へて待ち構へた。

 幸ひそれは流言に過ぎなかった。
 人々は漸く安心したらしく、それから後は騒々しい人声も
 絶え細いともしびも消されて全くの静寂となった。

 群をなして迫って来る蚊に攻められ、
 常ならばあけやすき夏の夜を足りなく感ぜられるのに、
 その夜は一刻千秋の思ひにただ夜の明けるを待って居たのであった。」

はい。このあとの締め括りもあるのですが、
私はここで、引用を置きたいと思います。
なお、この文は、大正14年4月『交友会雑誌』第6号に掲載されたとあります。
 


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講座参考本⑫

2024-07-26 | 安房
千葉県立安房高等学校の
「創立八十年史」(昭和58年3月発行)と
「創立百年史」(平成14年11月発行)の
2冊に載っている関東大震災の回想。

まずは、創立百年史に載る和田金次氏の回想に
関東大震災の館山の隆起を物語る箇所があります。

「私が安房中学(当時の)に入学したのは、
 大正11年であった。翌12年・・関東大震災があった。
 木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。・・・・

 ・・北条海岸に出て見て驚いた。昔の安房中学では、
 たしか5月だったと思うが、創立記念日の行事として、
 海での学年毎のクラス対抗の7人乗りのボートレースが
 行われたが、そのボートを保管しておく艇庫(ボートをしまっておく倉庫)
 があった。それが何と、はるか丘の上の方に飛び上がっている
 ように見えるではないか。もちろん
 艇庫自体が飛び上がる筈はない。・・・・

 館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の三級(白帽)を
 もらうべく、頑張って沖の島往復をやったが、
 その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、
 殆ど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。」
                    ( p592 「創立百年史」 )

ちなみに、君塚文雄編の「写真集 館山」(国書刊行会・昭和56年)に
館山公園から望む鷹ノ島の写真が載っております。そこに添えられた
君塚氏の文章も、引用しておきます。

「房総里見氏の居城であった城山の北にあった小丘が、
 いわゆる北下台で、鏡ケ浦の岸辺にある景勝の地であったので、
 館山公園と呼ばれる公園となっていた。
 写真は関東大震災前の、館山公園からの鷹ノ島の眺望で、
 島の東側の海面が、現在と同様、船舶の碇泊地であった。
 鷹ノ島が、房州名物の西風を遮ったからであろう。
 関東大震災で約1メートル半隆起する前は、
 公園のすぐ下まで海であった。  」

    ( p72 「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 館山」 )


「創立八十年史」には、当時の一年生清水巌(北条)の作文が
掲載されておりました。そこから一部を引用。

「・・・学校から家へ帰って食事を済し、むし暑かったので
 裸で新聞を読んでゐたその時、あの地震が来たのです。

 最初家がどんとはね上ったやうな音がしたと思ふと、
 急に揺れたので、バネにはじかれたやうに立ち上がって
 外へ出ようとしたが、狼狽しまいと玄関の敷居に乗って
 鴨居につかまってゐた。

 その時隣家の叔父さんが、算盤を右手に持って
 真青な顔をして飛び出したので、私も無意識に外へ飛び出した。

 とその時、二三軒先でドンと大きな音がしたと思った時、
 ぱっと砂煙りが上った。これはと思って無意識に田圃の方へ駆け出した。

 もう方々で、ドンドンと家が倒れると同時に砂煙りがぱーっと上る。
 と思ふと、女子供の泣き叫ぶ声が手にとる如く聞えた。
 暫くすると、音も止み地震も静まった。

 町を見渡すと、どこの家もあらまし倒れてゐた。
 全くぴしゃり潰れてしまったのや、
 一方が地に落ちて一方が持ち上がってゐたり、色々様々である。

 その間を人々が右往左往し、親は子を尋ね、子は親を呼んだり、
 阿鼻叫喚とはかういふものだろうと思った。

 ・・・・地震後、学校で誰かが生きてゐるのは自分一人と思った
 と言ったが、全くその通りであった。   」
                 ( p199 「創立八十年史」 )


はい。当時の北條町の震災が実感を交えて記録されておりました。




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講座参考本⑪

2024-07-25 | 安房
武村雅之著「関東大震災」(鹿島出版会・2003年)をひらいて
気になった本が引用されていたので(p133~134)、この際古本で注文。

貝塚爽平著「富士山はなぜそこにあるのか」(丸善株式会社・平成2年)。
いろいろな短い文をまとめた一冊なので、気楽にひらきました。
題名にもなった文(p91~101)を、ひらいてみました。

そこの地図が印象深かった。
東北から西は淡路までが描かれた日本地図に、
日本海溝・伊豆小笠原海溝・相模トラフ・駿河トラフ
そしてフォッサマグナの線がひかれております。

一見印象深かったのが、
相模トラフ線の北側に帯状に塗りつぶされていたことです。
説明を見ると、「プレート境界の褶曲帯」とあります。

はい。その相模トラフの褶曲帯で塗りつぶされている箇所に、
安房が入っていること。それが印象的でした。

いそいで、「褶曲帯(しゅうきょくたい)」を検索しました。
褶曲は、「 地層の側方から大きな力が掛かった際に、
地層が曲がりくねるように変形する現象のこと 」とありました。

わかりやすい。つまりですね。
その相模トラフの褶曲帯の上に私は住んでいるのでした。

はい。相模トラフの線だけを知るのと、
相模トラフの褶曲帯の範囲を理解するのとは、私みたいな素人には、
直下型地震の理解の大いなる助けとなります。ただただありがたい。

「相模トラフ」と「駿河トラフ」については、こう説明されております。

「 この二つのトラフとそれにつづく南海トラフは
  深さが4000メートル前後以下であるから、
  日本海溝や伊豆小笠原海溝の深さにくらべると半ば以下しかない。

  しかし、これらのトラフ沿いでは、
  1946年南海地震、1923年関東地震など、
  いわゆる巨大地震が繰り返しおこっている。

  ・・・・・これらのトラフは、浅いけれど
  プレートの境界だと考えられる。      」(p95)

こうして、語り起されて、富士山に及ぶのですが、
もうすこし引用して終ります。

「こうみてくると、富士山は、
 地球表層における最大級の境界であるプレートの境と、
 島弧で最大級の弱線である火山フロントの交点に位置している。
 このため、ここは、おそらく地下深くでできたマグマが
 容易に地上に達しやすいのであろう。  」(p99~100)

よい地図と、よい説明をして頂いた気がしてきます。
はい。本はひらいてみるものですね。



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「安房郡の関東大震災」余話⑧

2024-07-23 | 安房
保田町の鋸山。

「 保田町に於ては鋸山の崩壊は・・・
  関東随一の眺望と景勝と五百羅漢の奇とを誇る日本寺の被害は、
  何ものを以ってしても賠(つぐな)ふことの出来ないものであった。
  五百羅漢の大部分は、倒潰して殆ど原形を留めざるまでに
  破壊されて了った。境内の風致もそれが為めに痛く損はれた。 」
                    ( p197 「安房震災誌」 )  

関東大震災に際して、鋸山の鉄道用トンネルが陸路県北とつながる道と
なってつながっておりました。
このトンネルに関しては、3人の回想がありましたので、並べておきます。

前田宣明氏は、「保田震災記」の注に、こう記しております。

「 汽車の隧道(ずいどう)・・
  鋸山を南北に貫通する鉄道用のトンネルの事。
  全長は約1200メートル。・・・・  」(p86)

震災当日の安房郡役所にて、重田嘉一は、千葉県庁への急使をかってでます。
住いは保田町大帷子で、大正12年7月まで保田町役場書記勤務をしており、 
安房郡役所に来たばかりの時でした。その人に急使の手記がありました。
そこから、鋸山のトンネルを抜ける箇所を引用しておきます。

「・・保田町役場でロウソクの補給をなし・・鋸山へ差しかかるのであった。
  保田駅構内には鋸山を超す能はず余儀なく野宿と決めた10数人の者が
  居たが、私が千葉に行くことを聞いて扈従し来り、総勢19名となった。

  鋸山山中の地形は自分として知り盡してゐるが
  他の10数名の悉くは其の地理を知らぬ。
  若し過てあの断崖より一人の墜落者を出しても支障を来す、
  さりとて道路墜落崩壊せる明鐘岬の磯伝ひは猶更危険が多い
  而も海嘯の恐れあるを以て聊か思案に暮れた。

  其の時線路伝ひに鋸山隧道を今来た者があると聞いたので、
  よし、岩山をくり貫いた隧道だ崩壊する気遣はない。・・・
  ・・隧道口に差掛ると皆強き不安にかられた様子であったが、
  62鎖の長い隧道だ。急いでも駄目だ、死なば諸共だと、
  真暗な路線を提灯一つ便りに進むこととなった。

  併し、思ったより被害も少なく僅かに40立方尺のコンクリートが
  三ヶ所計り崩壊して居たのは何より幸福であった。・・・・・  」
       ( p248~249 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

次には、「保田震災誌」から引用

「比較的遠方から情報を齎(もたら)した最初の人は恐らく
 昨夜半(一日夜)上総の青堀から戻って来た人でした。
 この人は1日の午前11時にこの町を発して帰京の途についた 
 とのことでしたが、汽車が青堀へ着くと地震に出逢って
 列車の窓からとび出したそうです。

 もう先へはゆかなくなったので、ここ(保田町)に残した
 女連れのことが気づかわれ、すぐに歩いて帰り・・・

 途中もかなり被害が多く海岸に沿うた崖が崩れて
 道路を埋没してしまったため、路もない山をこえたり
 迂回したりして・・来たと云うことです。・・・・

 最後に鋸山へ着いたときは疲れてもいるし、
 時刻は遅くなっているし、それに海岸の県道は
 巨岩の崩壊でとても通れぬと云われ、これで
 汽車の隧道が通り抜けられなかったらどうしようかと
 心配したそうですが、一心に隧道を入ると、
 入口付近や内部に諸処崩れた処があったり、
 真中で二度ばかり強い余震に遭って提灯を消してしまったときは、
 全く観念して突っ立っていたと話されました。
 25分かかって漸く隧道を出るまでは生きた心もなかったと・・・ 」
      ( p62~63 「石原純が残した記録 保田震災記」 )


最後には、「館山市史」(昭和46年)に掲載されていた
嶋田石蔵議員の回想から

「私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
 9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷を許されて、
 仲間数人と路線づたいに房州へ向かった。・・・・・・

 ・・・上総と房州の境の鋸山トンネルを通り抜ける時は、
 胆を冷やした。入口で売っている、ろうそくをともして
 長い長いトンネルを歩いていくと、中程に大きな石塊が 
 ごろごろしていて、気味が悪かった。どうやら
 30分位かかって通り抜けることができた。    」
                    ( p573 )       
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講座参考本⑩

2024-07-22 | 安房
前田宣明編・著「石原純が残した記録 保田震災記」(保田文庫・2018年)

解説に
「保田震災記は、石原が保田で関東大震災を被災した時の様子や、
 ・・・を記したものである。原稿用紙に手書きされたまま残る
 この文章は、石原の令孫森裕美子氏が館長を務める神奈川県
 逗子市の私設科学館『理科ハウス』に保存されている。
 ・・震災後2か月以上を経た大正12年の11月の末ごろまでに
 記されたものと思われる。 」(p48)

この石原純氏の『保田震災記』は、この本で31ページほどありました。
当時の安房郡保田町での被災の状況をその文から読むことができます。

「3日目からポツポツと町の壊れ家の片付けが始まり、
 道路の通行に差支のない程度になりました。・・・・
 
 食糧品などの不足が懸念されましたが、
 白米は幸に町役場の臨機の処置で不自由なく供給されましたし、
 又農家からは牛乳の処分に困って之を町に寄附しましたので、
 私たちもその配分を受けることが出来たのは有り難いわけでした。」(p67)

などと、いろいろ興味深い箇所が随所にありました。
次の機会に、他の箇所からの引用をしてみたいと思います。

ちなみに、石原純については、こうあります。

「石原純(1881~1947)は、大正から昭和初期にかけて
 理論物理学者・大学教授・歌人・科学ジャーナリストとして
 多面的に活躍した人物である。
 名前は いしわらあつし(じゅん)という。 」(p9)
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講座参考本⑨

2024-07-21 | 詩歌
震災関連で、思い出しては数年ごとに本棚から取り出す本に
長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月25日発行)があります。

短歌なので、その都度別なことを思い浮かべたりします。
たとえば、
  
  避難所に久々にして足湯して
    『 こんなときに笑っていいのかしら 』    (p126)

この短歌から、『ひょっこりひょうたん島』の主題歌の

      泣くのはイヤだ笑っちゃお

という言葉が、思い浮かんだりします。
この歌集の最後から二番目に、こんな歌がありました。

 ピーポーと救急車ゆくとある街のとある日常さへ今はなつかし (p143)


今回は、この短歌と、後藤新平の提議とが重なって思い浮かびました。

「  何を措いても、民心の安定を図る事と、
   罹災者の救護を完了する事が、絶対要件だと思って、
   閣員に命じて警察、憲兵、海軍、陸軍及び各省をして
   善処せしむる様に措置せしめたが、
   皆よく其の任を竭(つく)して呉れた。

   民心安定の為めの一方法として、後藤(新平)内相は、
   兵に市中を喇叭(ラッパ)を吹き歩かせて貰いたい
   という提議をしたのも、此の時だ。

   恰(あたか)も海軍に於いて、
   サーチライトを照らさせた事が、国民に、
   どれ程よい感じを持たせたか判らないことであったから、
   
   平凡ではあるが、大変良い考えと思って、
   早速田中陸相に命じて実行させた。

   此等はホンの一挿話に過ぎざる様の事であるが、
   余程市民の心を和げた様に思う。

   其の他各機関共に、よく働いて呉れ、又凡(すべ)ての人が、
   実によく、呼吸を合わせて働いて呉れた。
   国軍の倉を開き、軍艦の食糧を罹災民に提供した事の如き、
   たしかに記録すべき事である。   (「帝都復興秘録」)   」

   ( p159 鶴見祐輔著「決定版正伝 後藤新平」8 藤原書店2006年)
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講座参考本⑧

2024-07-20 | 地震
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版会・2003年)。
この本のカバーにある著者略歴を見ると
1952年 京都生まれ
1976年 東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)
1981年 鹿島建設株式会社技術研究所入所
 ・・・・・

という経歴の持ち主で、大学の地震学研究者とは一味違うようです。
ということで、この本の最後の方に、気になった箇所がありました。

「・・・日本の教育が『ローカル』を排除し、『グローバル』を崇拝する
 方向に進んでいる現実があるのではないだろうか。

 例えば、高校で力を入れて教えている教科は、
 英語、数学、社会科では世界史、理科では化学と物理である。
 一方、影が薄くなりつつあるのが、国語、地理、生物、地学である。

 前者はすべて世界中どこで勉強しても同じ内容のものばかり、
 つまり『 グローバル 』、
 後者は日本でしか学ぶことができない内容を含むもの、
 つまり『 ローカル 』である。

 ・・・確かに国際化時代といわれ、世界の流れに遅れまいとして
 あせる気持ちはわかるが、こと地震防災に関しては、日本の自然環境を
 背景に自らの住む地域の地震環境や地盤環境を理解することが
 何より大切で、『 グローバル 』な知識のみでは歯が立たない。 」
                    ( p133 )

もう一ヵ所。これは引用しておきたいと思う箇所があります。

「私が、関東地震の調査を開始して感じたことは、
 過去の地震に関するデータは、確かに探せばあるにはあるのだが、
 それにかかる労力たるや大変なものである。

 研究者でさえ目先の成果ばかりを
 要求される現状では手が出しにくい。

 いわば『 好き者 』以外入り込めない世界である。
 さらに、たとえ『 好き者 』が現れたとしても、
 その人が発掘収集したデータは、その後、持っていく場がない。
 つまり一代限りでまた闇の世界へ戻らざるを得ない。
 これが現状である。 」(p135)

『安房郡の関東大震災』というテーマは、それ自体が『ローカル』なんだ。
どうも関東大震災に関しては今まで学者は、安房郡へ手を出しにくいようだと
そんな背景が、よく分かった気にさせてくれます。
はい。いろいろと読み方を触発させてくれる一冊です。
もうすこし、座右に置いておくことにします。


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講座参考本⑦

2024-07-19 | 地震
いろいろな地図を広げてみる。

武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中央公論新社・2023年5月)に
首都直下地震の範囲を書いておりました。

「 首都直下地震とは関東地方の南部の
  神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、茨城県南部
  で起こるM7級の大地震を指す総称である。 」(p24)

さてっと、地図です。p21にある地図は
千葉県・神奈川県・東京都・埼玉県・茨城県・静岡県・山梨県
を含む範囲の地図に、震度分布を濃淡で描きこまれてあります。
この地図は、武村雅之氏の本をひらくと同じみの地図なのです。

武村雅之著「関東大震災」(鹿島出版会・2003年)には、p25にあります。
カタログ「関東大震災80年THE地震展」(読売新聞東京本社・2003年)には
その同じ範囲地図に、震度7が赤、震度6が橙色、震度6弱が黄色の色分けで
載せてあります。同じスケールで大阪湾近辺の震度分布図も並べてあります。
見ると関東大震災と阪神・淡路大震災との強い揺れの範囲がすぐわかります。
カタログには「兵庫県南部地震との比較(作成鹿島建設小堀研究所武村・・)」
からの引用とあります。
同じ地図は、武村雅之氏の他の本にも登場します。

 武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院・2005年)
 武村雅之著「地震と防災」(中公新書・2008年)
 武村雅之著「未曾有の大災害と地震学」(古今書院・2009年)

はい。地図は一目瞭然で印象鮮やか。
それでは、安房郡の地図はどうか?

「安房震災誌」には、最初にある写真ページの終りの箇所に
「安房郡震災被害状況図」が載っております。
安房郡の各町村名が載っているなかを赤い線で三ヶ所にわけております。
赤の格子柄が「九割以上の激震区域を示す」
赤の横の線が「激震区域を示す」
赤の斜め線が「軽微区域を示す」となっております。
その地域地図を囲むように東京湾・太平洋・君津郡・夷隅郡と書かれている。

はい。武村雅之氏の地図では、
「九割以上の激震地区」と「激震地区」をまとめいっしょにしておりました。武村氏の地図には、そこにM7と表示しております。

この「安房郡震災被害状況図」は、赤で色分けしてあってよいのですが、
各町村名も手書きなので、赤の格子図とで何だか読みにくいなあと
思っておりました。

すると、「三芳村史」(昭和59年9月発行)の震災の箇所をひらくと、
p926に、安房郡役所調査の「安房郡震災被害状況図」が載せてありました。
こちらは、各町村名を活字に置き換えてあり、さらには
黒一色の図なのですが、「9割以上の激震地区」を横線にして
「激震地区」を点々の砂模様。「軽微地区」を斜め横線としありました。
うん。こちらの方が、それなりに分かりやすいと思ってよく見ると、
村名に明らかな間違いがありました。

千歳村を、千才村と活字表記してある。これはいただけません。
白浜(濵)村を、白溪村としてある。これじゃわからない。
太海村は、大海村となっておりました。

三芳村史の、この図はわかりやすくて使わせてもらいたいと思うのですが、
村名を間違えているのが、何とももったいないなあ。

まあ、そんなことを思いながら、あれこれと地図をひらいて見る楽しみ。
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講座参考本⑥

2024-07-18 | 安房
武村雅之氏の本を数冊、参考文献としてあげておくことに。

たとえば、武村雅之著
「シリーズ日本の歴史災害5 手記で読む関東大震災」(古今書院・2005年)
には、こんな箇所があったのでした。

「・・10年前の阪神・淡路大震災の後に、神戸の人達が語った言葉、
『 関西には地震がないと思っていた。 』と耳にした時のことである。

 神戸の人達の山といえば六甲山である。
 神戸の美しい自然は六甲山を抜きには語れない。

 でも一方で、六甲山は震災を引き起こした地震の
 震源と同根の活断層が、何度も何度も繰り返し活動し、
 その度に高くなってきた山である。つまり
 地震が創った山なのである。
 そんなことは、神戸に限ったことではない。

 千葉県の房総半島のように、
 平らで多くの人々が暮す土地の多くが、
 関東大震災をはじめとする巨大地震が起こる度に、
 海底が隆起してきたという所もある。・・・・・・

 我々が愛する日本の自然の多くが、
 地震によって創られてきていることをみんなが
 きちんと理解しない限り地震防災は成功しない。

 つまり、地震は排除する敵ではなく、長い年月の間に
 我々が暮す場所を創ってきた共存すべき対象だ。
 我々の祖先が何度も地震の被害に遭いながらも、
 その土地に住み続けられてこられたのは
 自分達の故郷の自然を心から愛してきたからだ。

 その力を地震防災に振り向ける原動力が
 自然現象である地震への理解であり、
 地震学はそれを支えるべき学問でなければならない。 」(p66~67)


ここでは、もう一冊引用。
武村雅之著「地震と防災」(中公新書・2008年)から

「房総半島南部は空からみると、どこでも同じように
 海から段々畑のように平らな土地が続いている。

 図30はその一つ館山市見物(けんぶつ)の海岸で、
 元禄地震でできた平坦地から関東地震でできた岩棚を写した写真である。
 人がいるところが関東地震でできた岩棚で、そこでは
 人間が造ったとみられる窪みをいくつもみつけることができる。

 関東地震前には海岸すれすれにあったところで、磯釣りをする人が
 釣った魚の生簀(いけす)として掘った窪みだそうである。

 その向こうに波で見え隠れする岩棚がみえる。
 まるで次の地震で陸になる準備をしているようである。

 このように南房総では、道路や鉄道、お花畑、さらには
 人々の住む家など、暮らしのすべてが地震の際に海から
 顔を出した土地にある。 ・・・・・

 我々一人一人の歴史は、幾度となく繰り返される地震の歴史に
 比べて、はるかに短く、ときにはそのうちの一サイクルにも満たない。
 ・・・昔の人々は、そのような自然の営みを感知し、
 生活の場や美しいふるさとの風景を与えてくれる自然に
 畏敬(いけい)の念を忘れてはいなかった。

 明治、大正、昭和、平成と生活が近代化するにつれて、
 そのような意識が次第に薄れてきたようである。・・」(p219~220)


ちなみに、館山市の見物海岸といえば、
4~5年前に、ブラタモリの番組で、房総に来て寄った箇所でした。
その際に、海岸の隆起を説明の方が語ってくれており印象に残りました。





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講座参考本⑤

2024-07-16 | 安房
7月1日の産経新聞。10~11ページ見開きは、
『能登半島地震半年』の特集となっておりました。
令和6年1月1日午後4時10分、石川県能登地方にマグニチュード7.6の地震。
そこに掲載されている写真が印象深い。
石川県輪島市黒島漁港の上空からの2枚の写真。震災前と震災後の写真。
一目瞭然で、漁港を囲む堤防の港の中が隆起して陸地になっております。
それに続く海上の波消しブロックも、現在は陸地からそこまで隆起して、
テトラポッドまでが陸地になっております。

もう一枚の写真は、輪島市の国道249号の一部の写真。
山が海へと迫っているところの国道が、地震の山崩れで
つぶれたようになっております。そこを改修することなく、
「隆起した海岸に道路が応急的に造られている」とあります。

隆起した海岸に道路ができている。
ということで、思い浮かぶ本がありました。

「房総災害史 元禄の大地震と津波を中心に」
( 千葉県郷土史研究連絡協議会編 昭和59年 )。

この本には地図が載っていて、分かりやすい。
たとえば、九十九里の海岸線を説明した箇所に
汀線という言葉があります。汀線は波打ち際のこと。

「 長生郡白子町内山家の古地図、及び
  横浜国大、太田陽子氏の学説等を総合するに、
  元禄汀線更に降って天保汀線は次の図に示すよう推定できる。

  元禄汀線は現在の一宮飯岡県道、
  天保汀線は現九十九里センターと漁港を結ぶ
  産業道路でその間隔は275メートルで、
  元禄期と天保期(1703~1843)百四十年間の
  海退現象で年間平均して2メートル前後の海退になる。‥」(p54)


安房に関する地図も載っており、現在の地図に元禄の頃の汀線が
黒線でひかれております。
ひとつは、館山平野北部(p227)。
つぎには、館山平野南部(p238)。
それらによると、現在の館山駅の東側ロータリー。
その郵便局の前までが元禄の汀線で、
その頃の波打ち際だったらしいのです。
なるほど、それならば、今は枯れてしまった
六軒町のサイカチの木に登って津波から助かったという
言い伝えも、身近に実感をもって感じられます。


安房の津波被害を想定する際には、能登半島地震のような
海岸隆起をも加味しないといけないのだと思えてきます。
東日本大震災の津波被害との関連では、単純に結びつけることなく、
丁寧に結び目をひもといていって安易な回答は禁物のようです。
それへの参考となる一冊だと思えます。




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「安房郡の関東大震災」余話⑦

2024-07-15 | 地震
気になったので、鶴見祐輔著「正伝 後藤新平」(藤原書店・2006年7月)の
第8巻「・・1923~29年」を古本で買いました。この巻のみ購入。
この巻に関東大震災での後藤新平が語られております。
パラリとひらけば、こんな箇所がありましたので引用。

「 事実において、当時ややもすれば挙措に迷い、
  消沈せんとした人心を激励したのは、
  颯爽たる伯(後藤新平)の態度であった。
  その沖天(ちゅうてん・天にも達する)の意気であった。
  これも伯に激励されて、奮い起った一人、
  すなわち当時東京市の庶務課長、文書課長ならびに
  土木局総務課長たりし荒木孟は、次のごとく語った。

    震災の直後、初めて内務大臣としての後藤子爵にお目にかかった
    時の印象、之はたしか3日の朝でありました。
    市役所の状況の報告に内務大臣の官邸に参りました所が、
    偉い元気で激励して下さって、いや心配することはない、

    組織をしっかりしてやって行きさえすれば大丈夫だ、
    何事も組織が大事だ、と言われた事を記憶して居ります。

    平生から調査とか組織とか云うことを能く言われる方で、
    こんな時でも矢張り後藤さんは後藤さんらしことを
    言われると思いました。   ( 「帝都復興秘録」 )   」(p160~161)


この箇所を引用しながら、思い浮かべるのが
安房の関東大震災からの復興でした。
たとえば、千葉県の他郡の青年団等の救援が次々と来る。
その方々は、どちらも、ご自身の食料は、救護活動中自前で持ってきている。
そして、数日して次の救護活動へとバトンを託して、帰路につく。
医師や看護婦等も医薬品等がなくなればつぎへと託することになるようでした。

それらを塩梅してスムーズに活動を援助してゆくのも組織の力が必要でした。
さまざまな救援物資を搬入する手はずも、搬出する手はずも欠かせず、
各地区への伝達要因も必要でした。
それを、倒潰家屋からの救出や、被害家屋のかたずけと同時におこなってゆくわけです。
意思疎通の必要性もあったでしょう。

『安房震災誌』の凡例は、こうはじまっておりました。

「 本書は大正12年9月の大震災によって、
  千葉県安房郡の被った災害と、之れに対して
  安房郡役所を始め全郡の官民が執った応急善後施設の
  概略を記録したものである。  」

では、その組織を指揮した安房郡長・大橋高四郎を吏員はどう思っていたのか
その一例を『安房震災誌』から引用しておきます。

「吉井郡書記、能重郡書記はこういってゐる。・・・・・
 震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、
『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』
 には何人も感激しないものはなかった。
 庁員一同が不眠不休、撓(たわ)むことなく
 よく救護の事務を遂行し得たのは、全く此の一語に励まされたものである。
 ・・・・・・・・
『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉でぁる。
 言葉といふより血を流した体験である。 
 地震が心の肉碑に刻したものである。   」(p319~320)

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「安房郡の関東大震災」余話⑥

2024-07-13 | 地震
内村鑑三が、関東大震災に遭遇したのは62歳でした。
政池仁著「内村鑑三伝」(教文館・1977年)に

「・・・大手町の衛生会講堂も焼け落ちて、
 内村はその働き場所を失った。東京市民はぼう然自失、
 不安におびえながらも右往左往しそのなす所を知らなかった。

 内村は一枚の紙に左のごとく書いて玄関口にはり出した。

   今は悲惨を語るべき時ではありません。
   希望を語るべき時であります。・・・・・・   」(p567)


「 10月5日の内村の日記に、

    昨夜順番に当り、自警団の夜番を努めた。・・・・
    老先生拍子木を鳴らしながらその後に従う。・・・・

  と書いた。これについて、ベンダサンは、
 『内村鑑三のような、キリスト教徒の非戦論者・平和主義者までが、
  木刀をもって家のまわりを警戒に当たったのは事実であり・・』
  と書いた(「日本人とユダヤ人」)。

 内村は木刀を持って歩いたのではなく、拍子木を鳴らしながら
 歩いたので、拍子木というものはカチン、カチンという
 遠くまできこえる音によって、悪る者が逃げるようにするものである。
 息子の持っていた金剛杖というもの鉄棒だと誤解している人もあるが、
 これは樫の木で作ったもので、この夏息子祐之が富士登山に使った 
 ものである。・・・・      」 (p572~573)


はい。ここに、
『 内村は一枚の紙に左のごとく書いて玄関口にはり出した。
     今は悲惨を語るべき時ではありません。
     希望を語るべき時であります。・・・・・・    』

という箇所があったのでした。そこから思い浮かべた本が、
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日)の
このパウロが引用されている箇所でした。

「新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、
 ところどころに実に特殊な、『 喜べ! 』という
 命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『 喜べ! 』と
 命令されることはない。・・・・・・

 聖パウロの言葉は、人間が命令されれば心から喜ぶ
 ことを期待しているのではないだろう。

 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、
 人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには
 天賦(てんぷ)の才能が与えられている。

 しかし今手にしているわずかな幸福を
 発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。  」(p29)


え~と。
内村鑑三著「後世への最大遺物 デンマルク国の話」(岩波文庫)
これをパラリとひらいてみたら、パウロと二宮尊徳とのページが
目にはいりました。その両方を最後に引用しておきます。

「・・・パウロの書簡は実に有益な書簡でありますけれども、
 しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値の
 はなはだ少ないかと思う。パウロ彼自身は
 このパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書簡よりも
 エライ者であると思います。・・・  」(p54)

「あなたがたもこの人(二宮尊徳)の伝を読んでごらんなさい。
『少年文学』に中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、
 あれはつまらない本です。

 私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました。
 五百ページばかりの『 報徳記 』という本です。
 この本を諸君が読まれんことを切に希望します。

 この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。
 実にキリスト教の『 バイブル 』を読むような考えがいたします。」(p63)


ということで、はい。私はさっそく『報徳記』をネット注文することに。
そこに出てくるであろう、『希望』とめぐりあえますように。





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