和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本③

2024-07-08 | 安房
安房郡長大橋高四郎が、どこでいつ生まれたのかも
分からないままに、関東大震災の安房郡について
語っているのですが、大橋氏について見逃せない
そんな資料としての、貴島憲氏の回顧があります。

「 千葉県立安房農学校 創立五十周年記念誌 」 (昭和50年発行)

「学校創立の経過」に、安房郡長が登場しております。
それはそれとして、ここには 貴島憲の「五週年の回顧」を引用。

「 職員中一番はじめからゐるといので此題を課せられた。
  病中物を考へるに堪へない。聊か個人的思い出を物して責をふさぐ。

  大正11年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
  私ははじめて北条の郡役所にやって来た、
  そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。
  郡役所の玄関の前の大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
  3月の中旬の事であったであろう。

  そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
  何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
  五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、

  其期する処は・・・・・・・・・
  将来社会の中堅として役立つべき青年に直に基礎的な
  普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
  というべきものでなければならないという事であった。

  私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
  併し同時に大変大切な事で、もしそれが
  全国に普及しよく運用されたなら、
  かの豆粕程のデンマークをして世界に重きをなさしめた
  国民高等学校のような働き、此行き詰った貧乏国家を 
  一新せしめるような働きをなさないものでもない、

  吾々もまあ精々縁の下の力持を勤める事にしようと考へた。
  大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
  私自身も大に愉快になってきた。 ・・・・・    」(p76)


直接に、安房郡長大橋高四郎氏に呼ばれ、
学校の先生にと、勧誘されている箇所なのですが、
ここには、大橋氏の謦咳に接して、それに対して、
感応する貴島氏の心が、直接に伝わる気がします。

ちなみに、『豆粕程のデンマーク』という言葉から、
私は、内村鑑三著「後世への最大遺物 デンマルク国の話」(岩波文庫)
を思い浮かべました。

ちなみに、この電報で呼び出されたのが大正11年の春。
貴島憲氏が、安房農学校の教諭になり、大正12年9月の関東大震災を
農学校の校舎で経験するのでした。その年にうちに
貴島氏は『 復興の歌 』をつくり、学生と共に歌いはじめます。
その歌詞を読むと、私には『 清新溌溂たる精神 』が
その歌詞からほとばしってくるような気になるのでした。

ということで、最後に復興の歌のはじまりの3番までを引用
( ちなみに、歌詞は8番まであります )

1 黒潮香る東海に 旭日(あさひ)さやかに射し昇る
  ああ安房の国美(うま)し国 我等若きを歌わなん

2 大地振(ふる)いて新たなる 命四海に漲(みなぎり)ぬ
  厳(おごそ)かなれや土の色 いざ固くとれ鍬(くわ)の柄(つか)

3 豊受の神笑みまして 光は畑に田に満ちぬ
  大いなるかな農の徳 尊いかなや国の基

  
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講座参考本②

2024-07-07 | 安房
君塚文雄編「写真集 明治大正昭和 館山」(国書刊行会・昭和56年)。
正確な題名は「190・ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 館山」。

この本のp7に、大正11年8月発行の「北條館山市街図」が載っています。
はい。関東大震災の前年に出来ていた地図です。

写真を中心に構成されいるのですが、そこに付した君塚文雄氏の
短い解説文を読みながらだと、まるで館山の歴史絵巻をめくっている
ような気分になる不思議。

「関東大地震の災害と復興」(p102~p114)をひらき被害の写真を
見ていると、つい震災前の写真をもどってめくり直すことになります。
たとえば、震災で『倒壊した鶴ケ谷八幡神社の拝殿』(p110)と
その倒潰前の写真(p61)。
あるいは、『北条病院旧本館正面』(p43)の写真に付された解説は

「 北条病院の発祥は、北条村に払い下げられた郡立病院が、
  村立病院としてもたちいかず、角田佳一医師に払い下げらた
  ことに始まるといわれる。

  写真は明治44年に建てられた北条病院で、
  天然スレート葺きの瀟洒な建物であった。
  この建物は、大地震にも倒壊せず、
  昭和49年現在の鉄筋化の病院ができるまで
  使用されていた。 」

北條町では、震災当日倒潰しなかった北條病院に
負傷者が大勢運びこまれ、病院の庭にも重傷者や負傷者があふれたと
されております。そんな状況の中に建っていたのがこの写真だったのだと
あらためて見てしまいます。

p111には写真が3枚。
上から「倒壊した北条小学校校舎」。
中には「那古町における犠牲者の捜索活動」。
下には「曾呂村在郷軍人分会員の救援活動」。
ここは、一番下の写真解説を引用してみます。

「大震災の救援活動に、青年団、在郷軍人分会・消防団が
 果した奉仕活動は偉大なものがあった。
 9月1日の夜半、大橋郡長の要請に接して、
 平群・大山の青年団が2日未明、郡役所に駆けつけたに始まり、
 遂に全郡の町村青年団の総動員となった。
 写真は、在郷軍人分会旗を掲げた曾呂村在郷軍人及び青年団の
 救援活動で、場所は館山町である。 」

本書の最後にある君塚氏の文「館山市の近・現代を理解するために」 
には、館山市の砂丘列に対する歴史考察があって、地震との関連へと
つい思いを馳せることになります。

ちなみに、「安房災害史」(千葉県郷土史研究連絡協議会編・昭和59年)
に、君塚文雄氏の文が掲載されており、そこにはご自身の経験を記した
箇所がありました。そこも引用しておきます。

「 大正時代には、房総南部では11年(1922)4月26日の
  地震がやや大きいものであった。
  震源地は浦賀水道、規模はM6・9とされている。

  筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りで
  この地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。
  当時の北条町(館山市北条)では煉瓦造りの煙突が折れ、
  県下全体で全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。
  
  続いて翌大正12年(1923)9月1日の関東大震災があった。・・・」
                          ( p174 )


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講座参考本①

2024-07-06 | 安房
講座の題は、『安房郡の関東大震災』。
思いつく参考本を取り上げることに。

『館山市史』(昭和46年・編集は館山市編纂委員会)。ここにある
『関東大震災と館山』(p564~575)と10ページ程を参照。

「 当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
  郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって、
  県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
  今でも感謝の語り草となっている。 」(p565)

これに対する具体的な記述はないものの、
その内容は『 安房震災誌 』に詳しいのでした。
編纂者白鳥建氏は、「安房震災誌」の凡例に

「・・安房郡の被った災害と、之れに対して
   安房郡役所を始め全郡の官民が執った
   応急善後施設の概略を記録したものである。 」

とあり、「感謝の語り草となっている」その具体的な記述を
「安房震災誌」をひらくことでより理解を深めることができます。

もどって、「館山市史」には、10ページほどの短い記述のなかに、
他では読めない引用があります。
この際ですから、気になった箇所を少し引用。

〇 船形の地震と火災の思い出(船形醍醐篤さんの談話による)の文

 「  4,5日たって、ようやく生心地がついて、
   被害の少なかった親戚から、米や木材を運んで
   バラック小屋(トタン屋根)を建て、そこに
   家族一同落ちついた。その頃小学校庭では配給物資が渡された。 」
                            (p570)

〇 北条小学校全潰(当時北条小訓導であった小原時江氏の寄稿)の文

 「 ・・・長い揺れが静まったその時に見たものは、
   校舎という校舎が全部倒潰して三角の屋根が地面を這っていた。
   あたり一面広い原っぱになった様な感じだった。・・ 」(p571)

〇 富崎の津波( 嶋田石蔵議員の回想談 )、そのはじまりは

「 私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
  9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷が許されて、
  仲間数人と路線づたいに房州へ向かった。・・ 」(p573)

 真ん中を端折って(以前に紹介したので)、
 ここには、最後を引用しておきます。

 「 ・・・海の上には、草屋根だけがぷかりぷかりと浮いていた』
   と語ってくれた。
   しかし津波にさらわれた人は一人もいなく、
   地震も潰れた家は全潰15戸で、半潰が20戸前後であった。
   死んだ人も極わずかでたった一人であった。
   津波で家を失った人たちは、学校や寺院に収容し、
   救護の手を待った。  」(p574)
 
                 
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震災での死亡数の確認。

2024-07-05 | 地震
震災に際して、その地区の死亡者数を確認する場合に、
どうしても、地元の地区の人が確認する。ことになるのでしょうか?
震災の被害の当事者でありながら、現場の震災状況を把握するのに、
地元の当事者としての確認が、必要不可欠となります。

被災者の当事者であり、同時に現状の把握者とならなければならない。
そんなことを、つい思ってしまいました。

さて、そういう視点から『 安房震災誌 』を紐解いてみます。

安房郡長大橋高四郎の、9月3日のことが記されております。

「3日になると、東京の大地震殊に火災の詳細な情報が到着した。
 かくてはとても郡の外部の応援は望むべくもない、
 1日の震後直ちに計画してゐたことも、
 郡の外部に望を屬することはとても不可能である・・・
 と郡長はかたく自分の肚を極めた。そこで・・・

 ・・4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・・
 したがって会議の目的は、各町村の震災の実況、
 医薬、食料品の調査、青年団、軍人分会、其の他の応援が
 主たる問題であったことはいふまでもない。・・・   」(p277)


このすこしあとに『震災状況調査』とあります。そこを引用。

「 被害の状況が明白に調査されなければ、
  救助計画も出来ない順序であるから、
  被害調査は、第一着に手をつけたが、

  調査の中枢機関たる町村役場が、何れも全潰または半潰の
  悲惨な状態であるのと、道路も、交通機関も杜絶し、
  その上町村吏員もまた均しく罹災者であるので、
  その調査には大なる困難を感じた。

  しかし、こうした状態の中にも、各町村は最大の努力で
  時を移さず被害の状況をそれぞれ報告されたのである。
  郡当局は、それを基調として対応策を決定することが出来た。
   ・・・・・・・・・・・          」(p278~279)


『安房震災誌』には、第一編のはじまりに
「 『 震災状況調査表 』( 大正12年9月19日調 )安房郡 」 
 という一覧表があります。
 一覧表の横は、各町村名が並び、縦は区別として、
 総戸数・全潰戸数・半潰戸数・焼失戸数・流失戸数・・死亡数・負傷数・・
 と区分けしてあります。

この『調査表』については、こうも記述されております。
「 だが一度調査したものを更らに精査したり、
  又町村の応急施設指導の為めには、郡吏員は、
  しばしば各町村に出張して、町村吏員を督励したりして、
  調査の進捗を図ったのである。・・   」(p279)


なるほど、南三原村の『調査表』(大正12年9月19日調)の数値は、
一年後の大正13年9月1日に建立された石碑『震災記念碑』に
記載され彫られている数値と同じでありました。


話しはかわりますが、
大正12年9月1日が、関東大震災。
令和6年1月1日は、能登大地震。

ここに、読売の古新聞をもらってきてありました。
うん。ところどころ欠けている日にちがあるのですが、
それは、もらって来た古新聞だからであります(笑)。
その古新聞をめくってみます。

1月3日読売新聞一面「能登震度7 死者48人」と見出し。
「1日午後4時10分頃、石川県能登地方を震源とする地震があり・・」
一面の、これが左上で、右上は「日航機 海保機と衝突」。

1月8日「能登地震圧死多数か」発生1週間「死者128人 避難2.8万人」
1月9日「能登積雪捜査阻む」「死者168人安否不明323人」
1月11日「雨で土砂災害警戒」「死者206人安否不明52人」
1月12日「感染症警戒2次避難急ぐ バスなど5700人分確保」
1月13日「中学集団避難200人超希望」
1月14日「避難者情報を一元化 県がシステム的確支援狙う」
1月15日「耐震遅れ圧死拡大」(能登地震現場報告)
1月16日「能登地震死者名を公表」
1月20日「能登地震 孤立集落『実質解消』」
ちなみに、20日の各市町の数値一覧を見ると合計で
『 死者232人(14)・避難者1万3934人・家屋被害2万9885棟 』
そして、カッコ内( )は災害関連死。となっておりました。

私は、『 安房郡の関東大震災 』という講習をするのですが、
安房震災誌に載る『震災状況調査表』(大正12年9月19日調べ)の
各町村からの合計数を最後に、ここに記しておきます。

 総戸数   31,505
 全潰戸数  10,808
 半潰戸数  2,423
 焼失戸数  424
 流失戸数  71
 死亡数   1,206
 負傷数   2,954



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じゅうぶんに案の練って

2024-07-04 | 先達たち
昨日の水曜日は、久方ぶりに東京へ。
高速バス移動です。東京駅からは歩くのですが、
もう、汗だくだく。まあ、汗かきなのです。

バス移動では、ほとんど寝ています。
けれど、たまに起きているときのことを思って
文庫本を本棚からとりだして持ちました。
大村はま「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)。
はい。行きにすこし開きました。

大村はまさんは、戦後に中学校の国語の先生となります。
戦後すぐですから、教科書も満足にありません。

「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものを
  たくさんつくりました。約百ほどつくって、
  それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから百とおりの教材ができたわけです。

  翌日それを持って教室へでました。そして
  子どもを一人ずつつかまえては、
『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』
  と、一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう。
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強を始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・・・

  そして、子どもというものは、
『 与えられた教材が自分に合っていて、
  それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。
  それがない時には子どもは『 犬ころ 』
  みたいになることがわかりました。・・・・

  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。 」

さてっと、そのあとの方に、こんな箇所がありました。

「 じゅうぶんに案の練ってあるいい話には、不思議とよく聞いてくれます。
  ちょっと材料がユニークでないとか、構成が悪いと自分で思う話のときには、
  ろこつに子どもたちは反応して、ガサガサするとか、聞いていないとか、
  おしゃべりするとか、何かをやります。 」( ~p78 )


ああ、そうかと思いました。
私は7年前にお仲間の防災士の方に、思うことを書いたことがありました。
それらをまとめた「『安房震災誌』を読む」(平成29年4月)を数人の方に、
配布したことがあります。それはそれきりそのままになっていたのですが、
昨年のあるアンケートで

『  関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
    地域の受災状況をくわしく知りたかった。  』

というコメントをいただきました。そのコメントに惹かれて
あらためて『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』を
読み直したら、あら不思議いろいろなことがつながってゆきます。

たとえば、今年の1月1日に起きた能登半島地震の新聞記事をみていると、
百年前の関東大震災と、そして百年後の能登半島地震がつながってくる。
百年前の首都発の流言蜚語が、現代マスコミの饒舌さとつながってくる。

今年の8月28日(水曜日)に1年に1時間だけの講座をひらく手筈なのですが、
さてっと、構成が悪くて台無しになってしまうかどうか、
ユニークさを気取って、鼻持ちならない講座になるのか、
まあ、『 いい話 』は、はなから、期待はできなくとも、
『 じゅうぶんに案の練ってある 』話ができますように、
と今から心してゆくことにします。

 とまあ、そんなことをバスで思いながら居眠りしてました。
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「安房郡の関東大震災」余話③

2024-07-02 | 安房
宗教への言及は、宗派とかあり、講座での話は難しいかもしれないので、
このブログの余話でもって、言及しておくのがよいかもしれないですね。

「安房震災誌」の編纂は白鳥健氏。その白鳥氏の凡例をひらくと

「 本書は記述の興味よりは、事実の正確を期したので、
  第一編に掲げたる諸材料の如きは文章も、
  諸表の様式も敢て統一の形式をとらず、
  当時各町村が災害の現状そのものに就て作成した儘を
  なるべく保存することに注意した。          」

とあります。その第一編「地震と其の被害」をパラパラとめり
『 千歳村 』の箇所を引用してみます。

「 千歳村に於ける多くは倒壊した家の側に一族一団となって、
  念佛を唱へて身の安全を神佛に祈って居た。
  右往左往する老若男女の混乱は実に此の世ながらの
  地獄の責苦と思はれた。・・・・  」(p101)

他の町村の報告では、こうした「念佛を唱え」という報告自体がありませんでした。

 ちなみに、千歳村の死亡者は39人。負傷者13人。
 ちかくの、南三原村死亡者は22人。負傷者86人。 となっております。

安房郡の関東大震災で、死亡者が最も多かったのは、北條町でした。
北條町の死亡者は222人。負傷者は268人。

「 ・・・斯くまで死傷者の多かったのは、
  一面には北條町が地震の強烈であったことを物語り、
  他面には当時避暑旅客の入り込んでゐた為めであった・・ 」(p91)

「安房震災誌」の最後の方には、「震災死者の追悼会」が記されております。

「 ・・・北條町だけにしても200余人に達したが、
  之れが弔祭の途は、急速に行はれなかった。

  郡当局は、北條町日蓮宗法性寺住職西尾師と北條町と相謀り
  (大正12年)9月12日法性寺に於て、日宗僧侶18名を招き、
  死者の為に大法会を催ほした。・・・・・

  10月1日、天津町の清澄寺住職、北條町全台寺住職が幹部となって、
  安房郡各宗寺院聯合、北條小学校に於て、
  安房郡震災死亡者千餘人の為めの追悼会を開催した。

  郡内各町村長、遺族、北條町名誉職、同町小学校職員、生徒等 
  無慮千餘人の参列があった。

  又10月22日、千葉郡真言宗豊山派千葉第一號宗務支所員数名、
  郡内各町村に行脚弔問をされた。    」(p311~312)


と、ここまで引用してきたら、思い浮かんだ本がありました。
東日本大震災のあとに出た、石井光太著「遺体」(新潮社・2011年10月25日発行)。
この本の目次をみると、各小見出しの下には名前が書かれております。
目次には名前と役職とが並びます。ここには、その役職を引用しておきます。

  民生委員・釜石医師会会長・岩手県歯科医師会常務理事
  釜石市職員・消防団員・陸上自衛隊・海上保安部・歯科助手
  歯科医・サンファミリー・仙寿院住職・・・

ちなみに、はじめに名前があがるのは、千葉淳(民生委員)。
どういう方かというと、
「 千葉は70年前に大船渡にある寺院で生まれ育ったが、
  僧侶になることはなく、若かりし頃は日本各地を転々として
  いくつもの職を渡り歩いてきた。そして、40年ほど前に
  流れ着くように故郷の隣の釜石にもどり、地元の葬儀社に勤めだした。 」(p185)

仙寿院住職とある箇所も、すこし引用。

「 被災した大只越町の仙寿院で住職を務める芝﨑恵應だった。
  仙寿院は明治40年から釜石にある日蓮宗の寺院であり、
  
  千葉は葬儀社で働いていた頃からよく彼のことを知っており、
  町で会えば立ち話するぐらいの仲だった。

  千葉は彼が数珠を持って立っているのを見た瞬間、
  お経をあげに来てくれたのだと察した。
  気が抜けるように心が軽くなる。

  市の職員が手作りの祭壇をつくったり、
  みんなで持ち寄った線香を立てたりしたことはあったが、
  僧侶が遺体に向かって正式にお経を読んでくれたことは一度もなかった。

   思わず千葉は遺体の並んでいる方を向いて語りかけた。
   よかったなあ、みんな。ようやく供養してもらえるぞ。・・  」(p189)


「  遺体は人に声をかけられるだけで人間としての尊厳を取りもどす。
   千葉はそれを重ねることで安置所の無機質で絶望的に満ちた空気を
   少しでも和らげたかった。 ・・・     」(p185)


はい。たまたまひらいた箇所を引用してみました。






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『安房郡の関東大震災』余話②

2024-07-01 | 安房
『御真影』という言葉が「安房震災誌」に出てきます。
はい。戦後生まれの私には、それがわからない。

分からないながらも、余話ということなら
これはもう、お気楽にとりあげて話せます。
まずは、その『御真影』の箇所からの引用。

「・・・不安といへば、実に不安極まる。そこで恐れ多くも
  御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
 
 ――郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら
 出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。

 そして、能ふだけの深切な救護の途を立てることに腐心した。
 県への報告も、青年団に対する求援の事も、
 皆な此の樹下で計画したのであった。 ――     」
                ( p232~233 「安房震災誌」 )

この箇所はまだ続くのですが、ついつい引用が長くなるのでここまでにして、
あとは、思い浮かぶあれこれを順にとりあげます。

鍵屋一氏の震災関連の講演で、気になった言葉がありました。

『 想定外のことがおこると小学生以下の判断力になる 』

うん。確かに私などそうなりやすいタイプなので合点します。
田尻久子さんは、熊本地震のことで、こう語っておりました。

「 地震のときは、ものすごく落ち込んで内側に閉じこもる人と、
  動き回っていないと落ち着かなくて、休む間もなく動いているうちに
  テンションが上がってしまう人がいた。
  私は間違いなく後者で、動きを止めてしまうことが不安だった。
  どちらであろうと、平常心でないことに変わりはない。・・  」
         ( p234 田尻久子著「橙書店にて」ちくま文庫・2023年11月 )

うん。ここに何気に、『 平常心 』という言葉がでてきておりました。
東日本大震災についてで、曽野綾子さんはこう書いております。

「 泣きわめくような、付和雷同型の人は、被災地にはほとんどいなかった。
  感情的になっても、ことは全く解決しないことを日本人の多くは知っている。
  風評に走らされた人は、むしろ被災地から離れた大都市に見られた。」
      ( p30 曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行 )

 このあとに、平常心という言葉が出て来ておりました。

 「 私が地震の日以来たった一つ心がけていたのは、
   普通の暮らしの空気、つまり退屈で忙しくて、
   何ということもない平常心を失わないことだった。 」
                   ( p97 同上 )


『 普通の暮らしの空気 』といえば、
 防災士教本に、気になる箇所があります。

「ただ、組織を『防災』に特化したものと考えるのは適当ではない。
 一生に一度あるかどうかの大災害のためだけの組織を、
 そのために機能させるのはむずかしい。

 日常的にたとえば、地域のお祭りや盆踊り、餅つきなどの
 地域レクリエーション、清掃、子ども会活動などに生きるような
 組織として位置づけられていなければ、いざというときに動けない。 」

            ( p32 「防災士教本」平成23年11月第3版 )


地域のお祭りといえば7月14日に、地域の神輿渡御があります。
神主が御霊を神社から神輿に遷し、そして地域を練り歩きます。


最後には、この句 

     『  仮設へと 道順を変え 神輿くる  』

    ( 当ブログ・2021年3月8日の「神輿来た」より )
  



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