和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

くしゃくしゃに。

2012-02-29 | 朝日新聞
雑誌「WILL」4月号。
その最終ページにある「編集長から」は
「天皇陛下のお言葉を小誌に掲載するのは、昨年五月号、七月号に続いて三度目です。」とはじまっておりました。

産経新聞社の「東日本大震災 1年の全記録」が最近出ておりました。そこにも昨年の3月16日の「天皇陛下のお言葉」をp18~19と大きな文字で掲載されておりました。その「お言葉」をあらためて読みながら思い浮かんだことがあります。

「記者は何を見たのか 3・11東日本大震災」(中央公論新社)の「まえがき」に、こうあったのでした。「・・・これほどの悲劇に見舞われながら、避難所では被災者らが助け合い、励まし合って生きていた。ことさら明るく、気丈に振る舞う被災者の姿は、取材する記者たちの心を打った。・・避難所では、被災者が届いた新聞をむさぼるように読んでいた。くしゃくしゃになった新聞を何人かで回し読みしていた。」(p2)

うん。思い出すのは、朝日の当時の新聞でした。その「天皇陛下のお言葉」を取り上げた箇所でした。一面にはどこにもなく、目次にもなし。新聞の後半の、しかも、天声人語ぐらいのスペースで紹介し、要約したあとに、ネットで全文掲載しておりますので、そちらを検索してください。とあったのでした。ちなみに、その日の、読売や産経新聞は「お言葉」全文を引用しておりました。
うん。朝日新聞では、普段そのような取り扱いをしていたので、おそらく、そのままを踏襲したのでしょうが、被災者のことを、ここでは考慮することまで思いがいたらなかったのでしょう。
たとえば、もし今、大震災がおこったとします。さいわいにもぶじで私が、避難所で新聞をひろげているのなら、それは朝日より、他の新聞をさがして、読むでしょう。そこに天皇陛下のお言葉があるのなら、くしゃくしゃになった新聞を何度も読むでしょう。そして、その「言葉」を私は心のささえとするでしょう。震災一年の記録を見ながら、そう私は、思っておりました。
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何らかの形で。

2012-02-28 | 本棚並べ
読売の古新聞をもらってくる。
うん。他人が見れば、
廃品回収みたいに(笑)。
たまった新聞紙をゴソゴソと。
チラシその他をより分けて。

それでもって、
収穫は、というと、2月1日の紙面に
第63回読売文学賞を見れたのでした。
随筆・紀行賞に
星野博美著「コンニャク屋漂流記」。
これ、私は気になります。
選考委員の評者は池澤夏樹。
評論・伝記賞は、
鷲田清一著「『ぐずぐず』の理由」。
評者は山崎正和。
うん。『ぐずぐず』は、買ってあります。
数十ページ読んで、もういいやと、本棚へ。
それから、そのまま。
この機会に、再チャレンジ。

さてっと、星野博美といえば、
段ボール箱をさがすと、文春文庫の
星野博美著「銭湯の女神」が出てきました。
解説は中野翠。
うん。解説でも触れられている、この言葉を引用。

「私たちに今必要なのは、これまで自分がどんなプロセスをはしょって楽をしてきたのか、何との衝突を回避してきたのか、どこで手抜きを覚えたのかを、一つ一つ検証する作業だと思う。あらかじめ省かれたプロセスの中で育った世代に、それはできない。これだけは上の世代がやり、何らかの形で下の世代に伝えていくしかない。それをせずに若者を糾弾するのは、大人の怠慢でしかない。」(p267)

うん。私など、つい、話題の原子力の問題とからめて思ってしまいます。
さてっと、新刊の「コンニャク屋漂流記」は注文。
そして、古本も注文。

その古本が今日届く。
古本屋は
獅子ヶ谷書林(横浜市鶴見区)。
昨日の13時に注文して、もう手元に。
その嬉しさ。ありがたさ。
両方ともに文春文庫。
「転がる石に苔は生えない」472円(税込み)
「のりたまと煙突」367円(税込み)
ということで、
472+367+送料300(ゆうメール)=1139円なり。
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目を通す必要がある。

2012-02-27 | 短文紹介
東日本大震災も、もうすぐ一年になります。
まだ、これからも関連本が、出版されております
(この頃、それらを読んでいないのでした)。
そんなことを思っていたら、
思い出した言葉がありました。

それは養老孟司さんの言葉でした
(そういえば、この頃、養老さんの本を読んでいないなあ)。
以下引用。

「ときどき思うのだが、
日本人は総説が下手である。
そういったのは私ではない。
日本学術会議会長の伊藤正男先生である。
新聞雑誌を見ていると、山のように意見が出ている。
それをうまくまとめたら、
たいていの問題には、おそらくちゃんと
答えが出るのではないかと思う。
それがそうならないのは、
おそらくまとめるひとがいない、
まとめ方がわからない、
まとめる気がない、等々であろう。
まとめるには、
出ている意見をまず手にいれ、
目を通す必要がある。
すなわち情報を集める。
それから、問題がなにかを明確化する。
科学では、問題を立てることとその解答は、
暗黙のうちに連係している。
間違った問題を立てると、
その問題自体には答えがでない。」


これは雑誌「Ronza」創刊号1995年4月号にあった養老孟司氏の言葉なのでした。東日本大震災があって、新聞・雑誌・単行本・写真集と、さまざま出たのですが、これからも、まだまだ出るようです。「まず手にいれ、目を通す必要がある。」という養老氏の言葉を、あらためて思い浮かべるのでした。
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鬼軍曹の『現場の知恵』

2012-02-26 | 短文紹介
大前研一著「日本復興計画」(文藝春秋)の本が出たのは、2011年4月30日(第一刷)。
はじめにで、こうあります。

「私は、ちょうど福島第一原発の炉が設計・建設・稼動を始める1960年代の後半に、マサチューセッツ工科大学で原子力工学を学び、博士号を取得後、1970年に日立製作所に入社、原子炉の設計に携わった。そうした背景があったために、地震直後から、福島原発が、今日判明するような事態にまでいきつくことがすぐにわかった。
たとえば、地震発生直後、東京電力が、原子炉の格納容器の中の圧力が8気圧と発表したとき、すぐに、計器がまったく作動をしていないことがわかった。なぜならば、原子炉の格納容器が耐えられる気圧の限界は4で、それ以上は想定していないからだ。おそらく破壊実験でも6気圧くらいを想定しているのではないか?」(p6~7)

「今回だけの特殊事情というものもある。たとえば1号機、2号機、3号機、すべて米ジェネラル・エレクトリック社(GE)の設計だったこと。・・・・どういうことかといえば、原子炉の機器が440/6000ボルトで設計されていたのに対して、駆けつけた51台の日本製電源車は100/200ボルト。ふだん工事現場で使われる電源車は使いものにならなかったのだ。・・・」(p51)

この本で「鬼軍曹の『現場の智恵』」という箇所があったのでした。
そこをすこし引用しておきます。

「今回のケースで判明したもう一つは何かといえば、現場の知恵が不足していたことだ。MITや日本の学者連中が唱えてきた安全思想というものには誤りがあった。なぜなら、いま福島では、学者のつくり込んだ安全体系の外側で、この二週間、神に祈りながら宇宙遊泳のように作業をしているからだ。こういう場合では、『理屈はよく分からないけれど、あそこにこんなものがあれば』というような知恵が必要なのではないか。プラントを構築するときに現場を指揮する鬼軍曹みたいな人間が、経験的に分かっている知識、いわば『現場工学』ともいうべき現場の知恵である。・・・今回の福島第一に欠けていたのは、まさにこのような『現場の知恵』なのだ。保安院や原子力安全委員会などの要求だけ満たしてプラントを作ると、今回のような修羅場に立ち至る。・・・GEから出来上がった原子炉を渡され、マニュアルを勉強して四十年。・・・・原子力産業全体の問題であり、みんな知的怠慢だったというしかない。」(p86~89)


ながなが引用してきたのは、ここから、西堀栄三郎氏について語りたいためでした。
「西堀栄三郎選集1巻」(悠々社)は「人生は探検なり 西堀栄三郎自伝」となっております。そのなかに「新しい原子炉への情熱」という箇所がありました。

そこは「南極越冬中、私は茅先生から『日本原子力研究所の理事になれ』という電報をもらった。」とはじまっておりました。つぎに「南極での任務を終えた私は、一年半ぶりに帰国し、昭和33(1958)年4月、予定どおり原研の理事に就任した。・・私は理事のなかでは、いち早く家族を連れて東海村に赴任した。」これからが重要なのですが、私の手には負えませんので(ちょっと引用がむつかしい)、その次をみてゆきます。次は「原子力船『むつ』の建造」という箇所。こちらが引用しやすいのでした。そこに
「コストダウンを検討していたときに、外国のメーカーにつくらせたほうが安上がりだという意見が出てきたのには正直言ってがっかりしてしまった。私は、原子力船を国産で製造するなかで獲得する技術や、その副産物として開発される技術に、大きな期待をかけていた。それでこそ原子力船をつくる価値があるのだ。・・日本で研究開発し、独自の原子力船をつくってほしかった。」(p203)

この原子力船を語る最後は、こうでした。

「すべてを完了した『むつ』は出力上昇試験のため、定係港を離岸し太平洋へ向かった。原子炉に火を点して原子力発電を開始するということは、最高の技術のもとに、きわめて慎重な注意を払ってやらなければならないことである。そこではいささかのミスも許されない。しかしそれを太平洋のど真中でやらなければならなかった。漁業組合の反対で、波の静かな湾内でも実験が許されなかったのだ。世界中どこにもこんな例はなかった。
それを『むつ』の技術者たちは、振動する船の中で、りっぱにやり遂げたのである。臨界に達したとの報告を受けたとき私はほんとうに感心した。しかし、出力を上げていく途中で警報が鳴った。これは欠陥ではなく、原子炉に火入れするときには毎回起こることだ。人体になんの影響も及ぼさない程度の放射線漏れでも発見できるように、極端に感度を上げているから鳴るのであって、関係者はだれひとりとして事故とは考えなかった。冷静にホウ酸の入ったオカユを塗って応急処置をし、慎重に出力を上げていく実験を続けた。
ところが新聞が、『技術的欠陥を糊塗した』と報道したので大騒ぎとなり、反対運動をますます煽ることになった。とうとう『むつ』は母港に帰還することができなくなってしまった。警報機が鳴ること自体、当り前のことで私は少しも技術上の失敗だったとは思わない。技術とは悪いところを修正しながら、いわゆるトライ・アンド・エラーの心構えでやってこそ進歩するものだ。もし異常があったなら、異常が大きくならないうちに、ほんのわずかな異常でも感じ取るセンサーをつけておき、その警告によって欠陥箇所をいちはやく知り、大事に至らないうちに次の手を打つことが必要なのである。
これからの日本の技術開発を考えた場合、いささかの徴候をも見逃さず、一歩一歩完成に近づいていく姿勢こそが、もっとも合理的で、尊重されるべきものであり、それが未来への技術的成功への道であると、私は強く確信している。」(p206~208)



え~と。つぎに。2011年5月20日に、増補新版が出たところの、
古川和男著「原発安全革命」(文春新書)のあとがきを引用。

「終りに、最も大切な先輩西堀栄三郎先生(1903~89年)・・・
先生の大学講座後輩である私は、日本原子力研究所入所以来、多大のお世話になった。あの剛毅な先生も一時、体質に呆れて原子力界を去られたが、やがて戻ってくださり、晩年は我々の『トリウム溶融塩炉』を社会に生かそうと、命を縮めるほどの尽力をしてくださった。・・・」(p237)


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私は思うのであります。

2012-02-25 | 短文紹介
加藤秀俊著「わが師わが友」(C・BOOKS)に、
「京都文化のなかで」という章があり、
桑原武夫先生のことが語られております。

「そういうとき、ごくあたりまえのようにわれわれが司会者として見做すのは桑原先生であった。先生は、きわめて率直、明快に自説を展開なさるとともに、議論が白熱しすぎると、その調整をはかってくださるのである。その調整能力は抜群であって、しかも、ユーモアがみごとに織りまぜられてる。われわれの仲間には、ずいぶん頑固な人もいたけれども、だいたい、桑原先生の調整のまえにはカブトをぬぐのがふつうであった。人文科学研究所をあれほどに有名にした共同研究という方法を着実にすすめ、かつ、成功させることができたのは、ひとえに先生の人格と、たぐいまれな調整能力、ないしバランス感覚にあったのではないか、とわたしはひそかにかんがえている。」(p96~97)

という箇所があったのでした。
そういえば、司馬遼太郎による、桑原先生との対談とか、文には、桑原武夫氏の「抜群の調整能力」をあれこれと理解しようとする司馬さんがいるような気がします。


桑原武夫氏に「風俗学とその周辺」という文がありまして、
そのはじめの方に、一読、忘れられない箇所がありました。
こうです。

「或る人が『AはBである』と言うのを聞いたら、まずこの世界の現実、日本の現実にてらして、はたしてAはBであろうかと、そう考えた上で、『もっともだ』とか『AはBであり得ない』と思うのが正しい学問あるいは趣味をもった人間の反応の仕方でありますが、そういう時に、命題が正しいか正しくないかよりも、ああいう説はどこかで読んだ覚えがある、何の本だったかな、ということが気になったりするのは、もう学問の正道から外れているように私は思うのであります。学問は本の中にあると考えるのは間違いだということです。」
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好漢惜しむらくは。

2012-02-24 | 短文紹介
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)を読んでいるところ。
といっても、まだちょっとしか読んでおりません。

今日の新聞。2月24日産経新聞一面左上に曽野綾子氏の文は、自衛隊が南スーダンに到着したというNHKのテレビニュースを取り上げておりました。なるほどなるほどと読みました。ここでは、ちょっと別の面として最後の方をすこし引用。

「柴五郎は日清戦争の前、北京の日本公使館から、当時の漢城(ソウル)まで徒歩旅行した。福島安正は、自ら観光冒険旅行風にシベリアを横断した。これらが本当の兵要地誌(軍事地理学)というものであったろう。今は誰もがどんな分野でも『行ってみて実地に調査する』面を怠るか、その効果を重視しない。『インターネットで調べればわかります』というのが若い世代の恐るべき返答だ。」

うん。そういえば、
岩波新書「南極越冬記」の最後に第二次越冬隊についての言及があります。

「第二次越冬隊長は飛行機のほかにヘリコプターを一台かしてほしいという。ヘリコプターをつれていくとすれば、往復のガソリンは積めないから、飛行機でさきにヘリコプター用の帰りのガソリンを運んでおかねばならぬ。このせっぱつまった場合、それはやめた方がよいとわたしは思った。いったい、何のためにヘリコプターがいるのだ。それは、開水面から基地までの10キロを運ぶためだという。10キロくらい何でもない。歩いたらよいではないか。ところが、第二次越冬予定者の中には、雪の上を全然あるいたことのない人が三人もいるという。そして、本人が雪の上を10キロあるくのは自信がなく、いやだという。しかも、それが絶対必要な特殊技能者である。何ということだ。いったい、こういう人物を南極の越冬隊員の中に加えるとは何ごとだ。これは探検でなく、観測だから、雪の上を歩く必要はない、と考えたのだろうか。そもそも、今回の遠征隊は、昨年がうまくいったからとて、南極をあまく見すぎていたのではないかと思われる。・・・・」(p254)

この1ページ前には、こうあります。

「日本を出発するまえ、探検か観測かという議論があったが、意味のない議論だとおもう。現在の南極で、探検的要素をふくまない観測などは、あり得ない。条件は未知なのである。新しい状況を、一つ一つさぐりながら、それに対処していかねばならなぬ。そのためには、そういう準備がなければならぬ。最上の条件ばかりとはかぎらない。探検的なやり方というものはまず最悪の場合を考えて、その準備をし、その上にうまくいったときの準備を次第につみ重ねていくという、漸進主義を必ずとらなければならないものである。そうしなかった結果は、最上の条件だけをあてにするという、大へんな冒険をおかすことになったのだ。そして、冒険はいま、むくいをうけつつある。はじめからこれは、探検隊という考え方で用意すべきであったのだ。」


それでは、第一次越冬隊の人選は、どうであったのか。
桑原武夫著「西堀南極越冬隊長」に、興味深い記述がありました。


「全くお役所向きでなく、また好漢惜しむらくは兵法を知らず的な面をもつ彼を、一時にもせよ窮地に追いこむような目にあわせてまで、なぜ引っぱり出したのか。私の知るかぎり、南極について書き、または語るのでなく、南極で実践することにおいて、現代日本において彼以上の人物はないと信じたからである。日本隊がミソをつけぬためには、彼に出馬してもらわねばならない。だから私は彼にあらかじめ一言も相談することなく、茅会長に手紙を書いたのだった。そして後になって茅会長から感謝されたことを、もうかくす必要もない。」

こうして、当時の南極越冬最高齢の西堀越冬隊長が誕生してゆくのでした。


ちなみに、「南極越冬記」のあとがきで西堀栄三郎氏は、南極からの帰国後、この新書が出来るまでのいきさつを書いているなかに、こうありました。

「だが、ちょうど、みんなが忙しいときだった。桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、カラコラムへ向け出発してしまった。しかし、運のいいことには、ちょうどそのまえに、東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。そして、桑原君からバトンをひきついで、かれもまた帰国早々の忙しいなかを、わたしの本の完成のために、ひじょうな努力をしてくれたのであった。桑原・梅棹の両君の応援がなかったならば、この本はとうてい世にあらわれることができなかったにちがいない。」(p268)
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武人の希(ねが)へる。

2012-02-23 | 古典
講談社学芸文庫「学問の世界 碩学に聞く」に
原勝郎著「日本中世史」への言及がありました。

それは貝塚茂樹氏へのインタビューでした。

加藤】 それから原勝郎先生の『東山時代に於ける一縉紳の生活』、ああいう歴史学がありうるということは発見だった。
貝塚】 原先生は、帰納するばかりが歴史ではないと言っておられた。文章もうまかったですよ。
加藤】 あれは歴史書だけれども、やはり文学ですね。
貝塚】 『日本中世史』というのが最初に出された本です。原先生は『日本中世史』を出されて鎌倉時代からはじめられた。それにたいして内田銀蔵さんは、『日本近世史』からはじめられた。・・・原さんのほうはパッとやる。(p95~96)


そういえば、堀田善衛著「方丈記私記」の第二章に

「日本中世の乱世の底深さ、その災殃の激甚さ、本当に怖るべき実感というものは、たとえば原勝郎博士の名著『日本中世史』に見られるような・・・」

という箇所があるのでした。
うん。名著なら、ちゃんと読まなきゃと思いながら、ねっからの遅読のため、
とりあえず、パラパラめくり読みのでの一箇所引用。
そこは、「源氏の興隆は主として東国武人の力に依る」とあります。

「源氏の興隆せる所以は、上に述ぶるが如く、実に其武将等の自ら其勢力を覚りて活動せしが為ならずして、京師を羨み京師に不平を抱き京師に好遇せられずして、而かも其実力の駸々として加はり来りし東国の武人等が鼎(かなえ)の軽重を問ひ得て、其一たび京師の動かし難きにあらざることを知るに及びて、名家の将裔にして、曾て己等及び其祖先と縁故浅からざるものを奉じて事を発し、以て茲に至りしものなり。而して彼等武人の希(ねが)へるところは、必竟ずるに京師の抑制を免れむと欲するのみに存するなれば、事成るの後に及びて、其奉じたる武将を再び京師に帰へらしめて、之をして第二の平氏たらしめること是れ彼等の好むところにはあらず。故に頼朝は成功の後も遂に東国に留まらざる可らざる事となれるなり。」(p144~145・原勝郎著「日本中世史」東洋文庫)
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整理の問題。

2012-02-22 | 地域
1958年 西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)

1963年 加藤秀俊著「整理学 忙しさからの解放」(中公新書)

1969年 梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)

1975年 加藤秀俊著「独学のすすめ」(文芸春秋)


「南極越冬記」の本の作成に梅棹忠夫氏がかかわったとわかってみると、
次にどうしても、「知的生産の技術」を思い浮かべてしまいます。
その「知的生産の技術」に「『遺産』の山」という箇所がありました。

「わたしは子どものころから、ものもちのいいほうで、いろいろなものを保存するくせがあった。・・・・ただし、いっさい整理ということをしらないから、なんでもかでも、箱のなかに乱雑につめこんでいただけである。わたしはいまでも、すくなくとも高等学校時代からの、このような『遺産』の山を、なすすべもなくかかえこんでいる。
学生時代はためこむだけでよかった。いよいよ自分の仕事がはじまってみると、これではどうしようもなかった。まえにきた手紙が、必要なときにでてこなかったり、会の印刷物が、みようとおもうときにゆくえ不明だったりして、たいへんにこまった。どういう整理法をとればいいのか、そんなことをおしえてくれる人もなかった。わたしは、自分自身の文書を整理するために、いろいろなことをやってみた。なんべんも失敗したが、そのたびに、すこしずつかしこくなった。・・・・いまでは、加藤秀俊君の『整理学』というような本があって、現代社会における整理の問題を要領よくおしえてくれる。」(p79~80)


『整理学』の著者加藤秀俊氏は、
朝日選書「ベストセラー物語 下」で
「知的生産の技術」をとりあげて書いております。
そのはじめの方にこうあったのでした。

「・・・この本の奥付をみると、初版、1969年7月21日、とある。1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。いわゆる『学園紛争』である。わずかの例外をのぞいて、日本の大学では全共闘が結成され・・・かんがえてみると、全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、まったくおなじ教育への批判をこころみていた、というふうにもみえる。もちろん、全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、不定形な感情の発散をくりかえすことになり、あまり生産的な貢献をすることができなかった。それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥をこの本をつうじて指摘している。その点では、両者のあいだには大きなちがいがある。・・・・この本に書かれていることの大部分は、大学の一年生のときに、ひと月ほどでやっておくことのできることである。その、あたりまえの基礎ができていないから、やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。・・・」


ちなみに、ちくま文庫に、加藤秀俊著「独学のすすめ」が2009年再度文庫化されてはいった際に(以前は文春文庫)、文庫の解説を竹内洋氏が書いておりました。その最後の方にこうあります。
「著者(加藤秀俊)はわたしが京都大学大学院教育学研究科の院生だった1969年に同学部助教授として赴任してこられた。・・・」(p260)

そして加藤秀俊著「わが師わが友」には
「1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳、伊東光晴など、何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは四〇歳になっていた。・・」(p110)
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文章日本語の陣中見舞。

2012-02-21 | 他生の縁
岩波新書「南極越冬記」についてです。
それにまつわる話で、3冊の本に登場してもらいます。
なんだか、3冊が微妙に異なる。
ちょっと、その味わいを噛みしめてみたいと思うのでした。

○桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)
 この中の司馬さんとの対談。司馬遼太郎対談集にもあります。
○司馬遼太郎が語る日本 未公開講演愛蔵版Ⅱ(週刊朝日増刊)
 これは、司馬遼太郎全講演1964-1983(朝日新聞社)にもあり
 のちに文庫にもなっているはず。
○西堀栄三郎選集別巻「人生にロマンを求めて 西堀栄三郎追悼」(悠々社)
 そこにある、梅棹忠夫氏による追悼文。

西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)にまつわる、
上記3冊を並べてみたいと、思ったわけです。
最初は、桑原武夫・司馬遼太郎対談「『人工日本語』の功罪について」。
そこに、ちらりと、こんな箇所があったのでした。

司馬】 ところで、先生は以前どっかへゆく車のなかで、『ちかごろ週刊誌の文章と小説の文章と似てきた。これは由々しきことだ』ということを、それも肯定的な態度でおっしゃったことがありましたね。この現象は・・・やはり日本語としてはめでたきことです。
桑原】 ええ。・・・一例をあげると、私の知人のある若い科学者、彼はすばらしい業績をあげていたが、文章が下手で読むにたえないので、ぼくは『きみのネタはすばらしい。しかしこんな文章ではぜったい売り物にはならへん』といったんです。彼は反省しまして、学校に通う電車の中で毎日必ず週刊誌を読んだ。そのうちに文章がうまくなりましたよ。
司馬】 なるほど。型に参加できたわけですな。
桑原】 別に科学者として偉くなったわけではないが、彼の文章に商品価値が出て、それによって彼の学説も広まったわけです。


う~ん。はたして、ここでいうところの「ある若い科学者」とは、どなたなのでしょう。
つぎにいきます。
司馬遼太郎講演に「週刊誌と日本語」(1975年11月21日)というのがありました。
その講演に、西堀栄三郎氏が登場しておりました。
「・・西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。
西堀さんはすぐれた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない』
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
『おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ』
『文章に理系も文系もあるか』
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
  ・・・・・・
それから西堀さんは一年間で、文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。(笑い)」


私は、桑原武夫・司馬遼太郎の対談を思い出すたび、
この司馬さんの講演を思い浮かべるのでした。
どちらも昭和30年代の週刊誌ということに眼目をおいております。


さてっと、ここに、ちょっと毛色の変わったエピソードがつけ加わりました。
西堀栄三郎選集別巻にある梅棹忠夫氏の文がそれでした。
その追悼文に、「南極越冬記」という箇所があるのでした。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊にして出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、君がかわりにつくってやれ』という命令である。わたしは仰天した。
まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、いったい編集するだけの材料があるのだろうか。ゴーストライターとして、全部を代筆するなどということは、わたしにはとてもできない。
ところが、材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、さまざまなエッセイの原稿があった。このままのかたちではどうしようもないので、全部をたてがきの原稿用紙にかきなおしてもらった。200字づめ原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。
わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、要所要所にエピソードをはさみこみ、いくつもの山場をもりあげてゆくのである。大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとにクリップでとめた原稿用紙をならべて、それをつなぎながら冗長な部分をけずり、文章をなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、どうやらできあがった。この別荘に1週間以上もとまりこんだように記憶している。途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、『わしのかわりに本をつくるなんて、とてもできないとおもっていたが、なんとかなっているやないか』と、うれしそうな顔でいわれた。
岩波新書『南極越冬記』は1958年7月に刊行された。たいへん好評で、うれゆきは爆発的だったようである。」(p15~16)

う~ん。この「材料の山」「原稿の山」を踏み固めながら「とてもできないとおもっていた」登頂を果たしたときの達成感が、言外に伝わってくるようであります。
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写真と選集。

2012-02-20 | 他生の縁
今日、2月20日読売新聞の「編集手帳」は
こうはじまっておりました。

「関西弁には『どぎつい』イメージがついて回る。だが、ほっとさせてくれる言葉も少なくない。その一つに【やってみなはれ】がある。・・・
口癖にしていた人は多い。例えば第一次南極越冬隊長だった西堀栄三郎氏だ。TBS系列で昨年放送されたドラマ『南極大陸』では、越冬隊長を演じる香川照之さんが『とにかく、やってみなはれ』と幾度も隊員を励ましていた。・・・・」

え~。古本が届きました。
注文さきは三松堂書店(名古屋市中区)
西堀栄三郎選集全4冊
古本代21000+送料630=21630円なり。

うん。買ってみなはれ。
とにかく、読んでみなはれ。


私の最初は、「4人一緒の写真」からでした。(笑)
梅棹忠夫・桑原武夫・西堀栄三郎・今西錦司がご一緒の写真。
選集別巻「西堀栄三郎追悼」をひらくと、
まず、梅棹忠夫氏の「序章 西堀さんにおける技術と冒険」が掲載されております。
ああ、そうだ。と思い浮かべるのは、
梅棹忠夫による「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」(中央公論1992年8月号)でした。それと、梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫傳習録」(潮出版社・昭和56年)を加えると、梅棹忠夫氏が他の御三方と語りあっているような、何やら、それをそばで聞いているような気分になってきます。

ということで、梅棹氏による追悼文を読みながら、あらためて「4人一緒」の写真を見る。

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目利きの町。

2012-02-19 | 地域
講談社学術文庫「学問の世界 碩学に聞く」で、まずは、桑原武夫氏へのインタビューから掲載されておりました。そこに桑原さんから反対に質問される箇所がある。

桑原】 ・・これ話題からそれるけれども、小松(左京)さんあたりから教えてほしいんだけれども、なぜ京都からは文学者が出ないのか、これはぼくのテーゼの一つなんですがね。
小松】 文学者というのは小説書きという意味ですか。
桑原】 小説家と詩人。
小松】 そうですね。ありませんね。
・ ・・・・・
桑原】 ・・川端康成、大阪。宇野浩二、三好達治、織田作之助、そのほか、大阪にはいっぱいいやはります。・・高橋和巳、これも大阪です。
小松】 ぼくは小説家になってしまったんやけど、やってみてわかったんですけれども、小説、これはハングリー・アートですよ。ボクサーみたいなもんですね。京都からボクサー出ていますか。
桑原】 それは知らん。ただ、京都の人間は『あほ』を軽蔑するんです。ところが小説を書いたり、詩を書いたりするのは、あほやないとできまへん。(笑)
小松】 よくわかります。(笑)
加藤】 作者はいないけれども、批評家、目利きはたくさんいます。目利きの町ですよね、ここは。(p45~46)

まあ、話はこれから盛り上がるのですが、引用はここまで。(笑)
さてっと、ここに「批評家、目利きはたくさんいます。目利きの町ですよね」と加藤秀俊氏は語っておりました。

ここから、京都シンポジウムを一冊にした「未来技術と人間社会」(ダイヤモンド社)の最初の桑原武夫氏の挨拶を引用したくなります。そこにこんな箇所があったのでした。

「シンポジウムを始めるにあたって、・・
その第一として、ご来場の皆さんに、主体的参加を呼びかけたいと思います。まず、われわれは、現象を知らなければなりません。世界のあらゆる問題、また日本の、あるいは京都の問題、自分の従事している産業の問題、そういうことについて虚像をもってはいけない。その現象に賛成するにしても、あるいはそれを改めなければならないと思われるにしても、まず現象を認識することが必要であります。それを怠って、あるべき姿をかってに頭の中で描いていてはいけない。明確な現実認識の能力がなければ物事は何も進まないということです。認識した現象については、なぜ起こったか、どういう意味をもっているかを考える。それを考えるときにマスコミや学者の説を参考にするのはいいけれども、あまりそれにとらわれないほうがいい。主体的に自分の頭で考えなければならないということを申し上げたい。」

この次に、どういうわけか、東山魁夷の絵の話となるのでした。

「東山魁夷さんの絵を例に申しますと、自分の好ききらいは別にして、これがたいへん多くの人に愛好されているという現象は否定できない事実です。その結果、それにたいへん高い値がついて、複製もよく売れている。これは、たとえ東山魁夷さんの絵がきらいな方でも認識しなければならない現象です。ところが、それがなぜ流行しているか、尊重されているかという理由をきちんと説明した説は今までほとんどありません。私は日本の美術評論というのは怠慢だと思っております。それを解明することが、たとえば西陣の方なら西陣の織物のデザインと明確に結びつくはずです。商品生産をする場合には、まず売れたほうがいいわけでありますから。・・・」

まさに、「目利きの町」の面目躍如たる発言とお見受けいたしました。
なぜ、東山魁夷なんでしょうねえ。
思い浮かぶのは、
司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社)
この本は、産経新聞に連載されていた「風塵抄」を、担当記者・福島靖夫氏が原稿授受、校正刷りの往復のときに交わされた手紙なのだそうです。
その44「日本的感性」1990年1月8日掲載の風塵抄についての手紙のやりとりの中で、こんな司馬さんからの手紙の内容がありました。

「ただ、すべてにおいてダイナミズムに欠けます。これは【欠ける】という短所を長所にしてしまったほうがいいと思うのです。東山魁夷さんの杉の山の絵を、装飾的、平面的、非人間的ながら、これこそ絵画だという美術的創見が必要なのです。そういう評論家がいないというのが問題ですが。」(p64)

うん。司馬さんは、どうして東山魁夷を、登場させていたのだろうなあ、などと思ったことがあり、私は印象に残っていた箇所なのでした。
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おれがやるよ。

2012-02-18 | 地域
加藤秀俊・小松左京編「学問の世界 碩学に聞く」(講談社学術文庫)の、最初に桑原武夫氏が登場しておりました。
気になったのが「登山から学んだこと」(p48~)
これは引用しておきましょう。


桑原】 私の探検好きを自分で解釈すれば、私は人間が好きですから、たとえば、ある人が自民党であるか、共産党であるかというふうな分け方はあまりしません。いくらテーゼはいいことを言うていても、それを本気で言うているのかということがわりあい気になる。まず人間自身の興味のほうへ行く。だから、あるときに山登りの仲間に惚れたというか、好きになったんでしょうね。・・・・
学問だけしていたら、ぼくはこれだけ謙虚にわからなかったと思う。彼らが十分でおりるところをぼくは二十分かかる。これはどうしてもあかんと思う。・・・・
学問でも山登りでも、理論がなければもちろんあかんです。雨の降る日にテントをどう張るかを知ってなくちゃ。おれは雨のなかで寝てやるというたら、死んでしまう。死んだらおしまい。すべて死なんという方針でぼくは言っている。そうすると、テントの張り方のうまい人と下手な人とあって、私など下手なのです。雨が降っていて、ぼくなんか手も出ないというときに、おれがやるよと言って西堀(栄三郎)が出て行ってぴっちりと張り、雨の中で焚火(たきび)の火がつくやないか。それはぼくがダ・ビィンチの『最後の晩餐』を見て美しいなと思うときと同じように美しい。それを区別しているやつはあほやと思う。・・・

加藤】 その点、さっきいわれた鶴見俊輔さんとわりあい共通なところがあります。鶴見さんが梅棹さんをいちばん先に評価した理由というのは、梅棹さんは鉋(かんな)をかけることができる。それにびっくりした。
桑原】 ぼくは、実践者コンプレックスまではいきません。ぼくはすべてコンプレックスはないんです。アドミレーション(讃嘆)はあります。
小松】 ああそうか。
加藤】 なるほど、そうですね。(~p51)


さてっと、桑原武夫・小松左京・加藤秀俊監修「未来技術と人間社会」(ダイヤモンド社・昭和58年)の「はじめに」で全体議長・桑原武夫氏の5頁ほどの文が掲載されております。まるで俳句でいえば、発句のように読めるのでした。そのあとに続く記念講演は西堀栄三郎氏。「あとがき」によりますと、「本書は1982年10月12日、13日の両日、国立京都国際会館で開催された京都商工会議所創立百年記念シンポジウムの記録である」とあります。

たとえば、
「電電公社がINS(高度情報通信システム)を開発していますが、キャプテン・システムとか光ファイバーの通信メディアが、私のささやかなオフィスや自宅に入ってくるまでにどのくらいかかるでしょうか」という質問に白根禮吉氏が答えております。

「普及という面でいきますと、1990年代には全国に張りめぐらすという計画です。しかしこれはほかの国にはそういう計画がないわけで、日本がそういう意味ではじめて加入者宅、一般の個人のお宅まで光ケーブルを1990年代に全部やろうという話になっております。」(p48)

また最後の全体討論では、立石孝雄氏は、こう言っておりました。

「私どもが開発したシニック理論で未来予測をやってみると、情報化社会に入るのが1974年、終わるのが2005年ごろということになります。」

ちなみに、私は地方におりますが光通信は、通じており、知り合いはけっこう加入しております(私は未加入)。さてっと情報化社会に終りがあるとは思っても見ませんでした。

全体討論の最後は加藤秀俊氏でした。その終りはというと、
「事務局が調べたところでは、昨日も本日も出席人数変わらず500人、ほぼ満席の盛況でございます。ほんとうにありがとうございました。」
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という幼稚な人生観。

2012-02-17 | 短文紹介
2011年3月11日の東日本大震災について、
本を読んでいたはずなのに、あれこれと枝葉末節へとひろがってゆくようで、
ここらで、幹へとたどり直してみたくもなります。
とりあえずの、3冊といえば、
 吉村昭
 寺田寅彦
 鴨長明
の3人の本を丁寧に読もうと思っていたはずなのになあ。
まあいいか、とりあえず、忘れずにいれば。

さてっと、それはそれ、ほら、
本棚に西堀栄三郎著「石橋を叩けば渡れない」(生産性出版・1999年)というのがありました。黄色い線をひいてあるので、読んだ形跡があるのですが、まったく忘れておりました。黄色いカバーの本で、講演をテーマごとに出版社で整理した本のようで、それで記憶に残らなかったのかもしれないなあ。粉雪が道路に触れるか触れないかで、スッと消えてしまう。あんな要領で、まったく忘れておりました。でも本棚に置いてあるので、また読む気でいたのだと思います。まあ、それくらいの印象でした。
あれまあ、ここにも地震のことが、しかも最初に出てきておりました。

「私は学生時代に、安い費用で、行けるだけ遠くへ行ってみようと思いました。当時は、第一次世界大戦のあとで、ドイツが敗れ、日本が南洋のヤップとかサイパンとかを占領し、委任統治をしていました。」
こうして船に乗って行ったそうです。
「ところがその帰り、小笠原入港直前に、東京にものすごい地震がおこり(大正12年関東大震災)、東京全区が火災をおこしているという電信が入りました。横浜へついてみると、一面に焼け落ちた市街と死体の海です。
そのとき困ったことは、船の中に、サイパンから上智大学に留学しにきた現地の男の子五人と女の子三人がいたのです。何しろこんなありさまですから、上陸しても行くところがない。そこで私が『男の子は引き受けましょう』といったら、子供たちはとても喜びました。こうして京都の家に連れて行き、一月あまり面倒をみました。世話はやけましたが、いい子たちでした。・・・別に、私がそうしなければならない義務があったわけではありません。私は若いころから、人間というものは経験を積むために生れてきたのだ、という幼稚な人生観を持っています。だから、どんなつらいことであっても、それが自分の経験になると思ったら、貪欲にやってみるのです。どんなに人のいやがることでも、この考え方でいけば率先してやれるのです。」(p6~7)

話題が、南極のことになるとワクワクさせられます。
というか、拾い読みなのですが(笑)。
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人と栖(すみか)と。

2012-02-16 | 古典
加藤秀俊氏からコメントをいただいたのを好機とし、
以下に、思い浮かぶことを並べてみます。

方丈記のはじまりには
「・・久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」とあるのでした。「方丈記という文章は、一面住居についてのエッセイなのである」(堀田善衛)。

それでは、「方丈記」本文に出てくる栖(すみか)はというと、こうあったのでした。

「齢は歳々に高く、すみかは折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず、広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。所を定めざるが故に、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺(ふ)きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬ事あらば、やすく外へ移さむがためなり。・・」(ワイド版岩波文庫p28)

そういえば、講談社現代新書にある「学問の世界㊤」(聞き手=加藤秀俊+小松左京)の西堀栄三郎氏の箇所に、

西堀】 ・・たとえばラングミュアは、私がアメリカのGEに行って勉強しているときに、彼にはたいへん親しくさせていただいて、ひじょうに好きな人なんですけど、理論屋じゃないです。彼は実験物理屋で、山登りがとても好きなんです。土曜日から私を車に乗っけてキャンプに連れて行ってくれる。私もかなりマメに動くほうなんですが、彼もなかなかマメでしてね、もうチャカチャカと。ご承知のとおり、キャンプするといろんなことせななりません。それをじつに小マメにやる。だから実験物理屋というたぐいの者は、そういうマメくさいといいますか、おっくうにならないということが・・・。(p114 )


うん。キャンプではないけれど、鴨長明と「マメさ」。そんなテーマに、惹かれます。さっそく現代人のどなたに結び付けて思い浮かべたいような、身近な感じになっていきます。

それはそうと、加藤秀俊著「わが師わが友」(C・BOOKS)に、鶴見俊輔氏が加藤秀俊氏へ梅棹忠夫氏を紹介する話が出ておりました。

「鶴見さんによると、梅棹さんという人は、じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、あんな実践力のある人は、めったにいるものではない、というのであった。・・・」(p80・「社会人類学研究班」)

ここで、鶴見さんは、まるで鴨長明の「方丈」の家へ訪問して感想を述べているような(笑)。というのが、私の連想です。

「おれの家は言葉でできている」というのは
田村隆一の詩「人間の家」の一行なのですが、

加藤秀俊氏の文は、
鶴見俊輔氏の話を聞いたあとに、こう続いておりました。

「・・梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいということも、『アマチュア思想家宣言』を読んだことでわかった。」


ところで、
ネットでの古本検索すると、一冊だけあったところの
「未来技術と人間社会」(ダイヤモンド社)が届く。
京都シンポジウムとあり、
監修者は桑原武夫・小松左京・加藤秀俊。

杉波書林(青梅市)
古本1000+送料290=1290円なり。

いながらにして、本が手にはいるありがたさ。


追記。

加藤秀俊著「わが師わが友」は
ネット上の加藤秀俊データベースにて
どなたも、簡単に全文が読めるようになっております。
ありがたい。
ちなみに、
その加藤秀俊データベースにあるところの
「掲示板・電子会議室」に書き込みしようとすると
実行エラーと出てしまいます。残念。
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正体なのでは。

2012-02-15 | 短文紹介
小長谷有紀著「ウメサオタダオと出あう 文明学者・梅棹忠夫入門」(小学館)が楽しい。2010年3月10日より万博公園で開催された国立民族学博物館主催のウメサオタダオ展。その「はっけんカード」というアンケートに、小長谷有紀さんがまとめながら、あれこれ答えてゆくという一冊。もともと返事を期待したアンケートではないためか、その答えてゆく過程がそのままに民俗学博物館のこころざしを感じさせる、という読後感を味わえるようになっており、なんだか気持ちが厚みをもってふくらむような気がします。

ちなみに、まえがきで小長谷さんはこう書いておりました。

「開幕翌日、宮城県沖で大地震が発生した。未曾有の放射能被災を含む、東日本大震災に見舞われ、展示を企画した一人としてわたしは、そもそも混迷の時代にこそ梅棹忠夫を読み解く必要性を強く感じていたから、こうした艱難辛苦の時に至ってなおのこと、より多くの人びとにウメサオタダオと出あってもらいたいと望んだ。」

第一章「わたしの発見」は、こうはじまっております。

「2011年3月11日に発生した東日本大震災以降、『勇気をもらった』という表現をよく耳にするようになった。落ち込んだときに人が何を必要としているかが、ストンとよくわかる表現だ。・・・極端に簡単に言ってしまえば、わたしがわたしを認めること、それが『勇気をもらう』ことの正体なのではないだろうか。」(p10)


こうしてはじまる一冊。2011年12月17日初版とあります。

ちなみに、東京都江東区の日本科学未来館で開催されている「ウメサオタダオ展」は2月20日までとのこと。う~ん。行きたいけれど・・・・。私は、カタログと本とで我慢します。
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