講談社学術文庫
増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻。
この本は、
正法眼蔵の各巻のはじめに
「開題」がありました。
「開題」とは何か?
「一巻の大意の存するところを語り、
問題の所在を語り、あるいは、注目すべき
重点がいずこにあるかを語った」
と増谷文雄氏ご自身が書いておりました。
開題のあとには、
各巻を細かく分けながら、その原文。
そして現代語訳。注解。
と読みやすい心配りがありました。
読みやすいのですが、
私には難儀(笑)。
そこで、私はまず
全八冊の「開題」だけをパラパラと読むことに。
うん。これだけでも読んだという達成感があります。
増谷氏につれられて、
正法眼蔵の全体像を俯瞰できたような
気分になります。
もっとも、凡例で指摘されているように
「かならず原文を読んでいただきたい。
朗々と吟誦すべき生命のことばは、
あくまでも原文のものであることを、
わたしは声を大にして言わねばならない。」
ということで、これから
「正法眼蔵」の現代語訳と原文とにチャレンジ。
そうそう。単行本と違って、
この文庫本には、第一冊目に息子さんの増谷松樹氏が
「学術文庫版刊行に当たって」(2004年一月カナダにて)
と題して6頁の文を巻頭に載せております。
これから現代語訳を読んでゆく、
そのまえに、この松樹氏の文が気になりました。
その文のはじまりを引用。
「四半世紀ほど前のことである。
父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、
はるばる訪ねてきた。私は驚いた。
父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
机の前に正座して原稿を書いているもの。
そして、それは絶対に犯しがたいもの、
と思っていたからである。
その時、父は七十六歳、畢生の力をふりしぼった
『現代語訳 正法眼蔵』を完成したところであった。
父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
多くの解説書や研究書があるが、
最後の仕事は現代語訳であった。
仏教を現代人のものとすることを、
課題としていたからである。
『この後、阿含経典の現代語訳をやれば、
それで、もう終わりになるだろう』と、
繰り返していたが、そのとおりになった。
まださかんに熱っぽく道元の話をしていた。
散歩にいくと、母とふたりで颯爽と歩いた。
私はカナダ人の妻と長女のストローラーを押しながら、
後ろからついていった。・・・
父は心身ともに充実しきっているように見えた。
さかんにアクメという言葉を使った。
人生の最盛期という意味であるという。
人には、それぞれあって、
若いときにアクメを迎えるものも、
老いてからアクメを迎えるものもいると、
しきりに話した。・・・・」(p4)
この文を読んでから、私は寝て起きたら、
正座している増谷文雄氏の姿を思い浮かべていました。
ということで、つぎに
齋藤孝著「坐る力」(文春新書)をパラパラとひらく。
まず、目についたのは、この新書の中頃
「齋藤孝が選ぶ名作イスギャラリー」とあり、
写真入りで椅子たちが紹介されておりました。
パラパラめくっていると、本文のなかに、
「森信三先生講述 立腰教育入門」からの
引用があり、
気になったので、さっそく古本で注文
寺田清一編「森信三先生講述 親子教育叢書」全六冊を
注文(古本で1980円・送料含む)。それが昨日届く。
立腰(りつよう)とは何か、
ここからなら、「正法眼蔵」の原文へチャレンジ
できるような気がしてきました(笑)。
ちなみに、
齋藤孝さんのこの新書のあとがきに
詩が引用されておりました。
「坐ることは、心のあり方と直結している。
没頭するという精神のあり方は、机にはまり
こんで坐ることで感覚としてつかみやすい、と考えた。
詩人の八木重吉は、かつて、こう書いた。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
『草にすわる』ことと自分のあやまちを率直に認めること。
この二つが結びつくことに、私たちは共感する。
そんな経験がなくとも、なんとなく感覚として
わかる気がする。」(p188)
この新書にある
「名作イスギャラリー」の椅子を見ていたら、
私も、引用したい詩が思い浮かびました(笑)。
てがみ 岸田衿子
どうしていますか
こちらは まひるの星が出ています
つかれましたか
もうじき 新しい椅子が届きますよ
いま 南に向いた岬では
さやえんどうの出荷です
午后は 雨です
なに色の傘さして でかけますか
夕かた 林の道の奥で
オーボエがなるのを聞くでしょう
もうじき、立腰の姿勢で、
椅子に座って「正法眼蔵」を読む。
そんな私が想像できます(笑)。
増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻。
この本は、
正法眼蔵の各巻のはじめに
「開題」がありました。
「開題」とは何か?
「一巻の大意の存するところを語り、
問題の所在を語り、あるいは、注目すべき
重点がいずこにあるかを語った」
と増谷文雄氏ご自身が書いておりました。
開題のあとには、
各巻を細かく分けながら、その原文。
そして現代語訳。注解。
と読みやすい心配りがありました。
読みやすいのですが、
私には難儀(笑)。
そこで、私はまず
全八冊の「開題」だけをパラパラと読むことに。
うん。これだけでも読んだという達成感があります。
増谷氏につれられて、
正法眼蔵の全体像を俯瞰できたような
気分になります。
もっとも、凡例で指摘されているように
「かならず原文を読んでいただきたい。
朗々と吟誦すべき生命のことばは、
あくまでも原文のものであることを、
わたしは声を大にして言わねばならない。」
ということで、これから
「正法眼蔵」の現代語訳と原文とにチャレンジ。
そうそう。単行本と違って、
この文庫本には、第一冊目に息子さんの増谷松樹氏が
「学術文庫版刊行に当たって」(2004年一月カナダにて)
と題して6頁の文を巻頭に載せております。
これから現代語訳を読んでゆく、
そのまえに、この松樹氏の文が気になりました。
その文のはじまりを引用。
「四半世紀ほど前のことである。
父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、
はるばる訪ねてきた。私は驚いた。
父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
机の前に正座して原稿を書いているもの。
そして、それは絶対に犯しがたいもの、
と思っていたからである。
その時、父は七十六歳、畢生の力をふりしぼった
『現代語訳 正法眼蔵』を完成したところであった。
父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
多くの解説書や研究書があるが、
最後の仕事は現代語訳であった。
仏教を現代人のものとすることを、
課題としていたからである。
『この後、阿含経典の現代語訳をやれば、
それで、もう終わりになるだろう』と、
繰り返していたが、そのとおりになった。
まださかんに熱っぽく道元の話をしていた。
散歩にいくと、母とふたりで颯爽と歩いた。
私はカナダ人の妻と長女のストローラーを押しながら、
後ろからついていった。・・・
父は心身ともに充実しきっているように見えた。
さかんにアクメという言葉を使った。
人生の最盛期という意味であるという。
人には、それぞれあって、
若いときにアクメを迎えるものも、
老いてからアクメを迎えるものもいると、
しきりに話した。・・・・」(p4)
この文を読んでから、私は寝て起きたら、
正座している増谷文雄氏の姿を思い浮かべていました。
ということで、つぎに
齋藤孝著「坐る力」(文春新書)をパラパラとひらく。
まず、目についたのは、この新書の中頃
「齋藤孝が選ぶ名作イスギャラリー」とあり、
写真入りで椅子たちが紹介されておりました。
パラパラめくっていると、本文のなかに、
「森信三先生講述 立腰教育入門」からの
引用があり、
気になったので、さっそく古本で注文
寺田清一編「森信三先生講述 親子教育叢書」全六冊を
注文(古本で1980円・送料含む)。それが昨日届く。
立腰(りつよう)とは何か、
ここからなら、「正法眼蔵」の原文へチャレンジ
できるような気がしてきました(笑)。
ちなみに、
齋藤孝さんのこの新書のあとがきに
詩が引用されておりました。
「坐ることは、心のあり方と直結している。
没頭するという精神のあり方は、机にはまり
こんで坐ることで感覚としてつかみやすい、と考えた。
詩人の八木重吉は、かつて、こう書いた。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
『草にすわる』ことと自分のあやまちを率直に認めること。
この二つが結びつくことに、私たちは共感する。
そんな経験がなくとも、なんとなく感覚として
わかる気がする。」(p188)
この新書にある
「名作イスギャラリー」の椅子を見ていたら、
私も、引用したい詩が思い浮かびました(笑)。
てがみ 岸田衿子
どうしていますか
こちらは まひるの星が出ています
つかれましたか
もうじき 新しい椅子が届きますよ
いま 南に向いた岬では
さやえんどうの出荷です
午后は 雨です
なに色の傘さして でかけますか
夕かた 林の道の奥で
オーボエがなるのを聞くでしょう
もうじき、立腰の姿勢で、
椅子に座って「正法眼蔵」を読む。
そんな私が想像できます(笑)。