重ね読みしたくなる3冊が思い浮かびました。
①「丸山薫全集3」角川書店・1976年
②「マティス展」カタログ・2004年
③「梅棹忠夫語る」日経プレミアシリーズ・2010年
はじめに、③からこの箇所。
小山】 ・・アメリカとかイギリスへ行って、
アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
きちっと集めていくんですよね。
梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。
(p80)
この箇所の雰囲気は、なにか分るようで、
やっぱり、私には分からなかったのです。
どう考えればよいのか?
①の、全集3解説の竹中郁氏の文のはじまりの方にこうあります。
「 絵画や彫刻の世界に於ては、デッサンやエスキースが
多く残されてあるのが通例である・・・
絵や彫刻に於ては、そのデッサンやエスキースをそれなりに
又たのしみ眺めるという風習がある。しかし、文学に於ては、
研究資料にこそなれ、それを独立したものとして観賞する風習は
ごくごく少い。造形美術と文学との因子の相違がおのずと
そんな風習の差を生んだのであろう。 」(p553)
『丸山薫全集3』の解説をはじめるにあたって竹中郁は、
この第3巻の特色を、あらかじめ読者に明示するのでした。
竹中解説のはじまりは、こうあります。
「丸山薫は詩集にまとめた詩作品以外にたくさんの
エスキースとみられるものや児童向けの詩的作品を残した。
その量はまったく予想以上に多く、ここに一巻をなしたほどである。
中には詩集に収められた完成品と殆ど80パーセント同じようなものも混って
いて、この詩人の業績の研究追跡をするのに好資料というようなものもある。」
はい。詩の完成品と、未完成品の見分けをどうつけるかもわかりませんが、
まあ、詩人さんがこう語っておられるのだから、そうに違いない(笑)。
そして、竹中郁氏は、こう念押ししておられます。
「 ここに編んだ未刊行のもろもろの作品は、一面
気散じに丸山が書いたものとして読む必要があると思える。」(p554)
②は、『マティス展』カタログなのですが、そのなかに
天野知香の「マーグ画廊におけるマティス展覧会 1945年12月・・」。
その文のはじまりは、
「1945年12月7日、パリのテエラン街で1軒の画廊がオープンした。・・
実際に開廊を飾ったのはマティスの作品による、一見風変わりとも
いうべき個展であった。・・・・
この展覧会にはマティスの油彩のほか・・挿絵のデッサン・・
同じ壁面に並べられた、・・やや大きさを変えて引き伸ばされ、額装された、
油彩画の制作過程を撮影した3~13(14)点の写真であった。・・・
マティスが制作過程を写真に撮影させた例は早くから見いだされる・・
マティスは制作が決定的な局面に達した、もしくは重要な段階に至った
と感じると撮影させたが、翌日にはその作品の欠陥を見つけて
その部分を消してしまうのだった。こうして制作は続けられ、
多くの制作過程の写真が残されることになった。・・・・
とはいえ、こうした写真の一部が、画家の意志によって、
完成作とともに公に展示されることを中心に据えたマーグでの展覧会は、
きわめて例外的な試みであった。それは一般的な展覧会の形式としても
例外的なものであったといわなければならないだろう。・・・・
それはあくまで彼自身の手になる油彩作品を理解するために必要な要素として、
その補完物として、このように展示されることが試みられたと考えられる。」
『丸山薫全集3』の竹中郁の解説を読みはじめていると、
私は、このマーグ画廊のマティス展を結びつけたくなってくるのでした。
最後には、天野知香さんの文のこの箇所を引用しておきます。
「マティスは少なくともすでに1910年代末から、自らの作品があまりにも
安易に制作されていると見なされるのをひじょうに警戒していた。
マーグとマティスがともにこの展覧会を『教育的展覧会』と読んだのは、
『一見たやすく』描かれていると見なされがちなマティスの作品の
制作過程における長期にわたる奮闘を示すことによって、
とりわけ若い世代の画家たちのあいだで、自発性の名の元に安易な
制作が肯定される傾向を正そうとしたことに由来する。」(p129)
アメリカの図書館のペロッとした一枚の紙切れ。
丸山薫の詩の未刊行のもろもろ。
マティスが制作過程を写真に撮影。
さて、この3冊からの引用。
あなたならどう料理します?