和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

震災と会話。

2024-09-22 | 三題噺
震災と会話ということで、3冊の本が思い浮かびました。

 ① 清水幾太郎著「流言蜚語」
 ② 田尻久子著「橙書店にて」(ちくま文庫)
 ③ 「災害と人間行動」(東海大学出版会)


①に
「 会話は二重の意味に於いて人間に必要である。
  第一に生きるために必要であり、
  第二に生きることを自覚するために必要である。

  会話(一般に言語)の二つの側面の間の関係から
  恐らく多くの問題が生れるのであろう・・・ 」(p122・著作集2)

②の『ヤッホー』と題する文に
「 ご近所さんの顔が見えるということが、いちばんうれしく
  頼もしく感じたのは、地震のときだった。
  知っている顔が見えて、こんにちは、と挨拶を交わす。
  余震が来ると、大丈夫?と声をかけあう。
  そんなささいなことで、気持ちの揺れがおさまっていく。
  こわいね、こわかったね、一人でそう思っているより、
  誰かと言い合うと、こわさが少し淡くなる。・・  」(p233)

③は、1983年日本海中部地震の調査に基づく記録でした。
8章の「農村型災害と住民の対応ー激震時における人間行動」(田中二郎)

「揺れがおさまってから、2、3時間までの行動にみる特徴をみてみたい。
 聞き取り調査によれば、この時間、隣近所で外に集まって地震について
 話していたという人が少なくない。
『 揺れがおさまってから、外へ出てみて、
  近所の人と修理計画などについていろいろと話した 』(30代、女性)
『 家に帰らず隣近所で話をしていた 』(40代、女性)

 揺れの際、家の中にいた人でも、おさまってから外へ出たケースが多く、
 また、余震が続いていたため、かなりの人たちが、隣近所の人々と
 寄り集まって、この『話し合い』に加わっていた。

 こうした行動は、地震が生みだした緊張を緩和し、
 動揺を鎮め、さらには、今後の生活に関する情報を得ることにより、
 不安感をやわらげるためのものであったと考えられる。

 また、この時期は、次第に、外出中の家族との連絡もとれ、
 互いに安否を確認できるようになったころでもある。・・・」(p219~220)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3冊

2024-04-13 | 三題噺
① 「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)
② 竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社・1984年)
③ 「竹中郁詩集」(思潮社・現代詩文庫・1994年)

① せっかく、「編集者 齋藤十一」をひらいたので、
あらためて、パラパラめくりをしてみる。
この本は、追悼文集なので、さまざまな方の文があります。
石井昴氏の文に「次から次に熱い思いを我々若輩にかけられた。」とあります。
どんな言葉の断片だったのか?

『 俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ 』(p182)

そういえば、奥さんの齋藤美和さんの談話に

「 何か事件が起きるたびに、
 『 こういう切り口だったら読みたくなるね 』
  などと、言いつづけていました。 」 (p283)

その美和さんの談話に、写真週刊誌ブームのことが出て来ます。

「 昭和56年(1981)10月23日、日本初の写真週刊誌
 『 FOCUS 』が創刊されました。・・・・

  そして『FOCUS』は大ヒット。・・・
 『 これまでで一番の仕事だったなあ 』と本当に嬉しそうでした。

 ただ、それからしばらくして、誌面が齋藤の思っていたのとは
 別の方向へずれていったようです。
 もちろん雑誌は生き物です。
 後発のライバル誌が芸能スキャンダルに力を入れて
 部数を伸ばせばそちらもケアしなければならなかったでしょうし・・。
 晩年、ちょっとこぼしていましたね。

『 よい素質を持った雑誌だったのに、残念だ。
  もうちょっとタッチして、雑誌の方向性を
  しっかり根付かせておけばよかった。  』  」(p281~282)

そのあとに、何だろう、こんなことがでてきておりました。

「 ・・やっぱり教育だよ。教育というのは
  一度駄目になると元に戻すのに百年かかる。 」(p283)


② 竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」の目次をひらいたら、
  この詩集にも「三いろの星 組詩のこころみ」が入っていました。
  はい。この詩集でも詩「地上の星」を読むことができます。

 この詩集の最後には足立巻一の「竹中先生について」があります。
 そのはじまりを引用。

「竹中郁(たけなかいく)先生は、1982年3月7日、77歳でなくなられました。
 この詩集は、先生が日本の少年少女に贈り遺された、ただ一冊の詩集です。

 なくなられる10年ほど前、竹中先生はこの詩集の原稿を作っていられました。
 これまでに書いた詩のなかで、特に少年少女に読んでほしい作品ばかり
 を選び、むつかしい文字やことばは子どもでもわかるように書きなおし
 ていられました。・・・」


③ 現代詩文庫1044「竹中郁詩集」には、竹中氏の短文も掲載されてます。
  そこに「坂本遼 たんぽぽの詩人」がありました。そこからも引用。

 「 『 きりん 』に集まってくる小学生の詩と作文は、
   詩は私(竹中郁)が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、

   各々が3日くらいかかって選んだ。
   坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
   5キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。
   日本の子供のためなら、死んでもいいという気概をかんじた。
  『 きりん 』はいろいろな人の助力で200号を越える長命をした。 」
                              (p123) 
  



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一枚の紙切れ・デッサン・写真

2023-03-21 | 三題噺
重ね読みしたくなる3冊が思い浮かびました。

①「丸山薫全集3」角川書店・1976年
②「マティス展」カタログ・2004年
③「梅棹忠夫語る」日経プレミアシリーズ・2010年


はじめに、③からこの箇所。

小山】 ・・アメリカとかイギリスへ行って、
    アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
    パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
    きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。
(p80)


この箇所の雰囲気は、なにか分るようで、
やっぱり、私には分からなかったのです。
どう考えればよいのか?

①の、全集3解説の竹中郁氏の文のはじまりの方にこうあります。

「 絵画や彫刻の世界に於ては、デッサンやエスキースが
  多く残されてあるのが通例である・・・

  絵や彫刻に於ては、そのデッサンやエスキースをそれなりに
  又たのしみ眺めるという風習がある。しかし、文学に於ては、

  研究資料にこそなれ、それを独立したものとして観賞する風習は
  ごくごく少い。造形美術と文学との因子の相違がおのずと
  そんな風習の差を生んだのであろう。 」(p553)

『丸山薫全集3』の解説をはじめるにあたって竹中郁は、
この第3巻の特色を、あらかじめ読者に明示するのでした。
竹中解説のはじまりは、こうあります。

「丸山薫は詩集にまとめた詩作品以外にたくさんの
 エスキースとみられるものや児童向けの詩的作品を残した。
 その量はまったく予想以上に多く、ここに一巻をなしたほどである。

 中には詩集に収められた完成品と殆ど80パーセント同じようなものも混って
 いて、この詩人の業績の研究追跡をするのに好資料というようなものもある。」

はい。詩の完成品と、未完成品の見分けをどうつけるかもわかりませんが、
まあ、詩人さんがこう語っておられるのだから、そうに違いない(笑)。
そして、竹中郁氏は、こう念押ししておられます。

「 ここに編んだ未刊行のもろもろの作品は、一面
  気散じに丸山が書いたものとして読む必要があると思える。」(p554)


②は、『マティス展』カタログなのですが、そのなかに
天野知香の「マーグ画廊におけるマティス展覧会 1945年12月・・」。
その文のはじまりは、

「1945年12月7日、パリのテエラン街で1軒の画廊がオープンした。・・
 実際に開廊を飾ったのはマティスの作品による、一見風変わりとも
 いうべき個展であった。・・・・

 この展覧会にはマティスの油彩のほか・・挿絵のデッサン・・
 同じ壁面に並べられた、・・やや大きさを変えて引き伸ばされ、額装された、
 油彩画の制作過程を撮影した3~13(14)点の写真であった。・・・


 マティスが制作過程を写真に撮影させた例は早くから見いだされる・・
 マティスは制作が決定的な局面に達した、もしくは重要な段階に至った
 と感じると撮影させたが、翌日にはその作品の欠陥を見つけて
 その部分を消してしまうのだった。こうして制作は続けられ、
 多くの制作過程の写真が残されることになった。・・・・

 とはいえ、こうした写真の一部が、画家の意志によって、
 完成作とともに公に展示されることを中心に据えたマーグでの展覧会は、
 きわめて例外的な試みであった。それは一般的な展覧会の形式としても
 例外的なものであったといわなければならないだろう。・・・・

 それはあくまで彼自身の手になる油彩作品を理解するために必要な要素として、
 その補完物として、このように展示されることが試みられたと考えられる。」


『丸山薫全集3』の竹中郁の解説を読みはじめていると、
私は、このマーグ画廊のマティス展を結びつけたくなってくるのでした。

最後には、天野知香さんの文のこの箇所を引用しておきます。

「マティスは少なくともすでに1910年代末から、自らの作品があまりにも
 安易に制作されていると見なされるのをひじょうに警戒していた。

 マーグとマティスがともにこの展覧会を『教育的展覧会』と読んだのは、
『一見たやすく』描かれていると見なされがちなマティスの作品の
 制作過程における長期にわたる奮闘を示すことによって、

 とりわけ若い世代の画家たちのあいだで、自発性の名の元に安易な
 制作が肯定される傾向を正そうとしたことに由来する。」(p129)


アメリカの図書館のペロッとした一枚の紙切れ。
丸山薫の詩の未刊行のもろもろ。
マティスが制作過程を写真に撮影。


さて、この3冊からの引用。
あなたならどう料理します?




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ふるさと」の「中学生」。

2022-12-23 | 三題噺
3冊の本

① 大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)
② 岡康道・小田嶋隆「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)
③ 猪瀬直樹著「唱歌誕生」(中公文庫)
      この文庫の副題は「ふるさとを創った男」とあります。


はい。この順に、中学生の箇所を引用してゆきます。

① 戦後の昭和22年に、新制中学校が発足します。
  その際に、大村はまは、どうしたか?

「 戦前、私は・・都立八潮高校(当時、府立第八高女)におりました。
  十年も勤続しておりました・・・・・・

  そして昭和22年、新制中学校が発足しました。・・・・
  新しい時代の建設のために作られた六・三制の、
  海のものとも山のものともわからない中学校・・へ出ました。
  何か新しい時代を作る人を育てる仕事に身を投げいれて、
  どんな苦労もいとわないと思ったのです。・・最初から捨て身でした。」
                    ( p44~45 )

② 二人の対談なのですが、進行役が、こう語ります。

 ――・・岡さんも小田嶋さんも中二病だということが分かりましたね。

岡・小田嶋  え・・・そうですか?

 ―― 自分が中二病だという自覚はありました?

岡】 まあ、言われてみればそうですよね。
   いや、何となくありますよ。

小田嶋】 だから、だいたいあるところで成長が止まった部分って、
     それは本当に直らないよ。

岡】  直らないよね。

小田嶋】 ちゃんと組織で揉まれた人間は、そこのところは
     角が取れていくのかもしれないけど、

     そこを嫌だ、と言って俺も岡も組織から出ちゃった
     人なわけだから、その中二的な変な角がちょこちょこ、
     ちょこちょこ出るわけでしょう。

岡】   取れないですよ。

          ・・・・・        ( p98~99 )



③ この文庫の最後に、
  長野の中学校五十周年記念講演( 1996年10月12日 )が
  載っておりました。その最後を引用。

「たまたま僕の知り合いで、新潟県出身の新井満という作家がいますが、
 彼の娘さんがロンドンに留学したら、
 自分で一人で夜中に『故郷(ふるさと)』を歌ったというのです。

 これから皆さんも東京に行ったり、あるいは外国に行くかもしれませんが、
 この歌が大きな支えとなると思います。それはなぜかというと、

 『いつの日にか 帰らん』ということもそうですが、
 『夢は今もめぐりて』も大切です。その『夢』というのは何か。
 『ふるさと』というのは何か。

 それは場所ではないんです。
 長野はふるさとなんだけれども、
 結局ふるさとというのは、自分のふるさとというのは、
 
 中学生くらいのころのことなんです。
 小学校から中学、高校くらい。特に中学くらい。

 つまりそのころ考えた夢のありか。
 それがふるさとなんです。

 だから空間だけではないんです。空間もそうなんだけれど、
 時間の中にふるさとはあるんです。

 これからあと、十年、二十年、三十年と歳をとっていきます。
 その時どんなことを考えたか、どんな夢を抱いたかということです。

 その場所に必ず戻っていきますから、
 そういう意味でこの歌をもう一度思い出してみてください。
 たぶん高校に入ったらあまり歌わなくなると思いますが、
 いずれ外国に行ったり、遠くに行ったりしたときに、
 中学生の時にいったい何を考えていたんだろうなあ
 という時に歌うといいと思います。        」( p310 )


はい。この三冊から、中学生を取りだしてみました。 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『猟師の目』。

2019-07-12 | 三題噺
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)
「井上靖詩集」(旺文社文庫・新潮文庫)
「田村隆一詩集」

本3冊の断片が、つながるように思い浮かぶ。

はじめは、「日本探検」。
その「高崎山」の章から、引用。

「日本における
ナチュラル・ヒストリーの保持者は、日本の民衆であった。
とくに猟師は、ゆたかな資料の供給者であった。
猟師の自然観察は、まちがいもあるけれど、
しばしばひじょうに正確である。
学問のある都市的文化人よりも、むしろ
先入観がすくなく、自然科学者にちかい目をもっている。
  ・・・・・・・・・・・・
猟師などは、日本の思想史のうえでは、
問題にされたことはないけれど、わたしはやはり、
日本人の自然観についてかんがえるときには、このような
猟師的日本人というのをかんがえてみるべきだとおもう。
日本人の自然観といえば、すぐに
花鳥風月的詠嘆か、俳諧的四季感みたいなものがでてくる。
文献的・文学史的方法だけにたよるかぎり、
そういう都市文化人的見かたしかでてこないが、
民衆のあいだには、もっとドライな、
分析的な猟師の目があったのではいか。」(p313)

「猟師の目」といえば、私にまず思い浮かぶのが
井上靖の詩「猟銃」でした。
詩「猟銃」のはじまりは。

「なぜかその中年男は村人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、
彼に集る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。
ある冬の朝、
私は、その人がかたく銃弾の腰帯(バンド)をしめ、
コールテンの上衣の上に猟銃を重くくいこませ、
長靴で霜柱を踏みしだきながら、
天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと
分け登ってゆくのを見たことがある。

それから二十余年、
その人はとうに故人になったが、
その時のその人の背後姿は
今でも私の瞼から消えない。・・・
私はいまでも都会の雑踏の中にある時、
ふと、あの猟人(ひと)のように
歩きたいと思うことがある。
・・・・」

ところで、
梅棹忠夫は、2010年7月3日に90歳でなくなっております。
それから、9年して今年私は梅棹忠夫著作集を古本で購入。

さてっと、井上靖の詩「猟銃」のつぎは
田村隆一の詩「細い線」から、この箇所

    きみの盲目のイメジには
    この世は荒涼とした猟場であり
    きみはひとつの心をたえず追いつめる
    冬のハンターだ

「猟師の自然観察」から詩「猟銃」・「細い線」とならべてみました。
その足跡をたどるように、おもむろに、梅棹忠夫著作集をひらきます。

ちなみに、
梅棹氏の両眼の視力喪失が1986年3月12日。
梅棹忠夫著作集は1989年刊行~1994年完結。
そうして90歳、2010年7月3日自宅にて逝去。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しかし文章をお書きにならない。

2019-06-27 | 三題噺
西堀栄三郎に関する3冊。

「桑原武夫集5」(岩波書店)
「梅棹忠夫著作集第16巻」(中央公論)
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)

まずは、司馬遼太郎の講演から。
「週刊誌と日本語」という講演。

「西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。
探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。

桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
南極探検から帰ってきて名声とみに高し
という時期の話です。

西堀さんはすぐれた学者ですが、
しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。
自分の体験してきたことを
文章に書かないというのは、非常によくない』
 ・・・
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うから
すごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
 ・・・・・・

だれもが簡単に書いていることに
驚きを感じたらどうだろうか。
それができずに苦労していた時代もあったのですから。
この時代に共通の日本語ができつつあったのでは
ないかと桑原さんに言ったところ、
桑原さんは言いました。
『週刊誌時代がはじまってからと違うやろうか』
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと
言われるものですから、私も意外でした。
・・・・・
それから西堀さんは一年間で、
文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。」

はい。ここから
「桑原武夫集」の「西堀南極越冬隊長」を引用して、
「梅棹忠著作集」から「西堀栄三郎氏における技術と冒険」
のなかの「南極越冬記」を引用して、
最後に岩波新書「南極越冬記」の「あとがき」を引用。


桑原武夫の「西堀南極越冬隊長」のなかの、
この箇所を引用。

「彼(西堀)は戦後、推計学を勉強した。そして
日本へもよく来たアメリカ第一の推計学者、
デミング博士の一の弟子である。もっとも西堀は、
ものを書くことが何よりきらいで、著書は一つもないから、
すべて本がなければ信用せぬ日本の学界では、そんなに
評価されていない。しかしデミング博士に推計学者の
評価をきくと、日本では西堀が一番だと答える。
日本の学者はみな論理家的すぎる。
しかし肝腎なのは現実を推計しうるか否かにかかる。
西堀はこの理論、あの理論などということは一切いわぬが、
問題を解決するのが一ばん早くて正確だ、というのである。
彼はつねに実践家たらんとする。そして推計学をふまえた
品質管理において、彼は日本の工業界に大きな実際的貢献を
している。その一番有名なのが、旭化成の延岡ベンベルグ
工場での硬糸防止の仕事である。・・・」
(p30~31・1957年)

つぎの梅棹忠夫の文は以前に引用したので、
ここでは、カット(笑)。
そして、最後は、
西堀栄三郎著「南極越冬記」のあとがき。

「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。熱心な声援を送って下さったたくさん
の人たちに対して、わたしは自分の得てきた体験を
報告しなければならぬだろう。

しかし、いったいどうして本をつくるのか。わたしは生来、
字を書くことがとてもきらいである。この年になるまで、
本というものをほとんど書いたことがない。桑原君は
『南極越冬中にすこしずつ書きためればよい』といった。
わたしはそうする約束をした。

桑原君はわたしの日ごろを知っているから、
あぶないと思ったのだろう。越冬中に、
NHKの南極向け放送を通じて、
『原稿は書いているだろうね!』とダメをおしてきた。
しかし、そのときまではまだ、ざんねんながら
原稿らしきものは一字も書いていなかったのだ。
わたしは、電報で『努力する』と返事してやったが、
心に大きな負担を感じるばかりで、ちっとも実行は
できなかった。『帰ったら、あやまるまでだ』と、
おうちゃくな気もちにでもならなければ、
この心の重荷にたえられなかった。
・・・帰ってきたとき、
『西堀はやはりまとまった原稿は書いていなかった』
のだ。・・しかし、わたしがほんのメモがわりに
毎日つけていた越冬個人日記があった。また、
断片的に書きちらしたノートや原稿があった。
これに若干の私見を書き加えて一書にし、
国民に対する責をはたすべきだと力説した。
かれの意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君の
いうようなことができようはずがない。
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。
本つくりは進行をはじめた。

だが、ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、
わたしの本の完成のために、ひじょうな
努力をしてくれたのであった。
桑原・梅棹の両君の応援がなかたならば、
この本はとうてい世にあらわれることが
できなかったにちがいない。・・・」
(p267~268)


はい。司馬遼太郎の講演と、
そして、この3冊とで見えて来るものがある。

そういえば、
「梅棹忠夫語る」に
こんな箇所がありました。

小川】民博をつくるとき、
梅棹さんは一人ひとりの論文を読んで、
学会に行って発表を聞いて、これはいい
だろうと採ってきたと言わています。

梅棹】そうやった。当時は山椒大夫です。
人買い稼業。それで、これはっていうのを買ってくる。

 ・・・・

小川】ところが梅棹さんは、それだけ選びながら、
『おまえら新聞に書け』と連載か何かさせたでしょう。
そしたら、書けないやつがいっぱいいて、
『これはひどい』ってやめたって。

梅棹】そういうことがあったな。全然だめやった。

(p143~144)

はい。『これはひどい』引用を重ねております(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水の流れと、梅棹忠夫。

2019-06-25 | 三題噺
水の流れと、梅棹忠夫。
ということで、
三冊の本の、ある箇所をつないで引用。
こういう思いつきは、すぐに忘れるので、
忘れないうちブログへと記入しておこう。

「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)
「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館)
「知的生産の技術」(岩波新書)

この3冊を順をおって引用。
はい。水が印象に残ります。
そこから、補助線でつなぐ。

1冊目は

「・・・大きな川の写真があり、
続いて川面を映した写真があった。
よく見ると川面には小さな白い点々が
ゴミのように写っている。何だろう?
と思っていると谷(泰)先生はすかさず
『単語カードではないか』と言う。
そう言えば『実戦・世界言語紀行』(岩波新書)に
そんなエピソードがつづられていたっけ。

『ポー川の紙吹雪』というタイトルで、
イタリア調査で使っていた単語カードを
もう要らないからポー川をわたったときに捨てた、
という話がつづられている。・・・・」(p61)

2冊目は
元岩波書店編集者・小川壽夫氏の1頁の文。
岩波新書「知的生産の技術」を発売するまでの
経緯を書いておられます。途中から

「最初に、社全体の編集会議に企画提案したとき、
知的生産とはいったい何だ、ハウツー物じゃないか、
ときびしい批判を浴び・・・
そこから、いわばゼロからのスタートになる。・・
先生は『これはわたしの学問研究の一環です』
と強調されていた。
・・・・くりかえし話題になったのは、
秘書の重要性、日本語タイプライター、
個人研究の共有化、だったと思う。

対話しながら自問自答し、
迷ったり横道に入ったり、
だんだんと考えを煮つめていく。」

はい。ついつい余分な引用をしました。
水が出てくるのは、この次なのでした。

「原稿はあらたに書き下ろす形になったが、
なかなかスタートしない。お宅にうかがうと、
先生は、トイレの水の流しかたをどう書いたら
お客さんにわかってもらえるか、苦悶されている。
できるだけ短く、ひらがなで二行。何度も書き直す。
その日は、督促のしようもなかった。」
(p102)

はい。3冊目は、よくご存じの「知的生産の技術」から


「これはむしろ、精神衛生の問題なのだ。
つまり、人間を人間らしい状態につねにおいておくために、
何が必要かということである。かんたんにいうと、人間から、
いかにして いらつきをへらすか、というような問題なのだ。
整理や事務のシステムをととのえるのは、
『時間』がほしいからでなく、
生活の『秩序としずけさ』がほしいからである。


水がながれてゆくとき、
水路にいろいろなでっぱりがたくさんでている。
水はそれにぶつかり、そこにウズマキがおこる。
水全体がごうごうと音をたててながれ、泡だち、
波うち、渦をまいてながれてゆく。
こういう状態が、いわゆる乱流の状態である。
ところが、障害物がなにもない場合には、
大量の水が高速度でうごいても、音ひとつしない。
みていても、
水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。

知的生産の技術のひとつの要点は、
できるだけ障害物をとりのぞいて
なめらかな水路をつくることによって、
日常の知的活動にともなう情緒的乱流を
とりのぞくことだといっていいだろう。
精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。
努力によってえられるものは、精神の安静なのである。」
(p95~96)


ゆく河の「ポー川の紙吹雪」と
お宅の「トイレの水の流し方」と
そして「知的生産の技術」の水と。
この3枚のカードをならべてみました。

きっと、わたしが、
「知的生産の技術」の水の箇所を
いつか、読み直すことがあったら、
『情緒的乱流』のように、すぐに、
トイレが思い浮かぶのだろうなあ(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥の来て。

2019-05-23 | 三題噺
本棚から
「橘曙覧全歌集」(岩波文庫)をとりだす。
「独楽吟(どくらくぎん)」の箇所を開く。

一首引用(p180)。


 たのしみは 常にみなれぬ 鳥の来て
    軒(のき)遠からぬ 樹に鳴きしとき


鳥といえば、最近思い浮かぶ本二冊。

「中西進の万葉みらい塾」と「災害と生きる日本人」。

まずは、「みらい塾」から二か所引用。

「人間の言葉は、鳥の鳴き声を勉強して
考え出したというお話もあるのです。
鳥どうしはいろいろ会話をしていると考えて、
人間もあれと同じことをやろうと思った。
それぐらい人間は鳥の鳴き声に
耳を澄ましていました。・・・」(p146)


学校で生徒と質問をしている箇所には、
こんなやりとりがありました(p43~)。


中西】 ・・でも、人間が泣くのと、
千鳥が鳴くのとは同じですか、ちがいますか。

C君】 ちがう。

中西】 ちがうでしょう。
ところがそう思っているのは、現代の人たち。
昔の人たちは、いっしょだと考えていました。
『なく』って同じ言葉でしょ。

C君】 ・・でも漢字がちがう。

中西】 そうだね。漢字がちがう。
そう思う人、手を挙げて。うん、たくさんいるね。
だけど漢字は、中国から借りてきた文字です。
昔から日本にあったわけではない。
昔から日本にあったのは『なく』っていう言葉。
中国ではちがう漢字を使う。
中国人は鳥はこう、人間はこう、と考えた。
けれども、日本人は鳥が鳴くのと、
人間が泣くのとは同じだと思った。
『なく』のは全部いっしょ。
漢字を勉強して、それぞれがちがうと
考えるのことも大事だけれども、
もっと広いところで、鳥たちも人間も
同じだなって考えることも大事ですね。
(~p44)


もう一冊「災害と生きる日本人」では
中西進氏との対談で、磯田道史氏は

中西】 特に小鳥が鳴いているのは、
ほとんどが恋でしょうね。・・・・・

磯田】 最近はツイッターで、浅いさえずりを
する人がずいぶん増えました。
万葉集に歌われている歌は、人の心を
かなり深いところから汲みとっています。
鳥が空で生きよう、生きようと
一生懸命さえずっている。
空からこぼれ落ちてくる音を、
万葉集を通じて聴いている感すらありますよ。
・・・(p62)


三冊を並べてみると、なんだかなあ、
令和の宴で、楽しみを味わうような。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんにもなりません。

2018-10-21 | 三題噺
三冊を並べてみます。

〇「諸君!」2009年6月最終号。
〇河野与一編訳「イソップのお話」(岩波少年文庫)
〇「谷口智彦著「安倍晋三の真実」(悟空出版)

一冊目は、

「諸君!」最終号の曽野綾子さんの2ページほどの文のなかに

「沖縄県人自身が、あれは軍に命じられて
強制的に自決させられたもので、
自決した人々は被害者だと言う言い方をした。
私からみると、それは死者に対して
この上ない非礼であった。」(p166)

曽野綾子著「ある神話の背景」について
書かれているのでした。



二冊目は

イソップの話にある河野与一氏の訳、
短いのでそのまま引用しないとね。


「オオカミが、川で水をのんでいる子ヒツジを見て、
ないかもっともらしい理くつをつけてたべてしまおうと
おもいました。そこでじぶんは、川上のほうにいるのに、
子ヒツジがにごらせたものだから、水がのめなくななったと、
もんくをいいまいた。そこで子ヒツジは、じぶんは
口のさきだけでのむのだし、それに川下のほうにいるのだし、
川上の水をにごらせるはずはないといいますと、
オオカミは、はぐらかされたので、
『しかし、おまえは去年、おれのおやじのわるくちを
いったじゃないか。』と、いいました。子ヒツジが、
そのころは、まだ生まれていなかったといいますと、
オオカミは子ヒツジにいいました。
『いくらおまえがうまくいいぬけをしても、
やっぱりおまえをくうことにする。』

人をひどいめにあわすために理くつをつける人には、
いくらいいわけをしてもなんにもなりません。」
(p80~81)


三冊目は

谷口智彦著「安倍晋三の真実」。
本文の最後にありました。

「総理から一度、直話として聞いたことがあります。
戦前、戦中、父祖たちがなした行いに、いったい
今を生きる我々が、なんの資格あって謝ることが
できるというのか。父祖の行為をいつでも
謝れると考えるのは、歴史に対する傲慢である
―――と、正確な再現ではありませんが、
そんな趣旨でした。」

うん。最後まで引用しちゃいます。

「数十年も前の、父母や祖父母が感じた感情を、
罪障感であれ、苦痛であれ、はたまた怒りであれ、
私たちは同じように感じることなどできません。
できると思うこと自体、想像力の欠如であり、
確かに総理が言うように、今となっては
想像すらできない因果の輻輳に対する無神経です。
にもかかわらず謝って見せたなら、それは直ちに
政治的行為となります。
すぐさま誉めてやろうと、相撲の行司よろしく
待ち構えている人たちがいて、謝罪を口にした
彼または彼女は、国内外の政治の世界で株を上げるからで、
それを見越した行為となるからです。
謝罪は一種のカタルシスをもたらすことにも、注意が必要です。
対象となった罪自体は、自分が手を汚したものではありませんから、
彼、彼女における罪の意識は、あくまでも抽象的なものです。
隠したい気持ちとの葛藤などは、強く意識されません。
そこでの謝罪とは、結局のところおのれの
ナルシシズムを満足させる結果を生みます。
『謝る行為は美しく、美しい行為を実行できる自分は美しい』
というわけです。

安倍総理における潔癖は、
謝罪によって自分の政治的株価を上げることも、
内心の自己愛を満足させることも、
いずれも決してよしとしません。
これこそが、安倍総理が過去父祖たちの時代に
起きたことに謝らない、いえ、謝るという行為をなし得ない
と考えている理由なのです。
安倍晋三という人の真実は、
歴史に対するその謙虚さにある。
まさにその意味において、安倍総理は、
保守主義の真髄を身につけた人である。
私は、そう思います。」
(p271~272)


はい。三冊を並べてみました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学2年。中学3年。

2018-09-08 | 三題噺
地域の回覧板に、中学校の広報がありました。
表紙下に新しく来られた校長先生の挨拶。
といっても数えたら238文字の短文に、顔写真。
ご自身の中学生の頃を語ることから始められておりました。
短文なのに印象に残ります。

ということで、「中学生」ということで
思い浮かぶ言葉。
まずは、対談。
岡康道×小田嶋隆「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)

―――自分が中二病だという自覚はありました?

岡】  まあ、言われてみればそうですよね。
    いや、何となくありました。

小田嶋】だから、だいたいあるところで成長が止まった部分って、
    それは本当は直らないよ。

岡】  直らないよね。

小田嶋】ちゃんと組織で揉まれた人間は、そこのところは
    角が取れていくのかもしれないけど、そこを嫌だ、
    と言って俺も岡も組織から出ちゃた人なわけだから、
    その中二的な変な角がちょこちょこ、ちょこちょこ
    出るわけでしょう。

岡】  取れないですよ。

小田嶋】だって日本で中二病から離れたおじさんって、
    東電の社長とか、民主党の上の方のおじさんとか、
    ああなっちゃうんですからね。

岡】  あれか、中二病か、といったら、こっちしかない。
    選択肢が。(p99)


ちなみに、この対談本は2012年6月発行。

さてっと、谷口智彦著「安倍晋三の真実」を
めくっていたら、「中学2年生並み」という言葉がありました。
せっかくなので、その前から引用。


「『権力は腐敗する』のだそうです。
『絶対的権力は、絶対的に腐敗する』のだと。・・・
『絶対的権力が絶対的に腐敗』した、真に壮大な実例を、
私たちは中国を見て、その大躍進期や文化大革命期の様子で
知っています。大躍進のときは、まったくの人災として、
数千万人の餓死者が出ています。驚くべき規模、
もちろん人類史上最悪です。
 ・・・・・・・
私は、スターリンのソ連、毛沢東の中国のような絶対権力
などそれこそ絶対的に生じようのない現代日本で・・・
この言葉を用いたがる人たちは、インテリを装って
利口そうに見えるからつい使ってみたい人であるか
――その場合、中学2年生並みの稚気に満ちた人物だと
いうことになりますが―――、あるいは手にしたこと、
奮ったことのない権力なるものを一度は手中にし、
他人を操ってみたい人ではないかと想像するのです。

腐敗する一歩手前の、いちばんおいしい段階で、
分厚い肉を味わってみたいとばかり、
権力なるものに憧れを抱いている、
そういう類の人たちこそが、右(注:上)の警句を
発したがるのではあるまいか。
本当にそんな人に権力を握らせてしまったら、
何をするか知れたものではありません。
一度も権力にあずかったことのない勢力に、
やすやすと政権を渡すことに慎重でなくてはならない
理由は、ここに由来します。

それでは、権力者に見えている景色とは、どんなものなのか。
一口に言ってそれは、やりたいことに比べて、
できないことがあまりにも多い世界です。
日本の福祉支出は、何もかも合わせると120兆円あまりです。
後に再述しますが、これは
米国、中国、ロシア、サウジアラビア、フランスという
世界五大軍事支出大国それぞれの軍事予算を全部足したものと、
ほとんど同額なのです。

2017年、安倍総理は衆議院を解散し、総選挙に臨むに当たって、
福祉を『全世代』向けにするため、消費税増税分の使途を変える
と訴えました。お年を召した方の福祉を、取り上げることなど
できません。しかし長い目で見たとき、本当に支えるべきは、
次の世代を生み、育ててくれる若い男女です。
そこを婉曲に言ったのが、あの『全世代』向けという言い方でした。」
(p118~120)

はい。引用が多くなりました。
この谷口智彦氏の本には「中学3年生」というのも登場します。
最後に、その箇所。

「肉体的に多少きつかろうが、
やっただけの収穫が得られるなら、
それにまさる喜びはない。
といった気持ちが、
安倍総理には濃厚に漂っています。

若かったころ、まだ中学3年生のとき
初めて発症した例の病気のせいで、
おのが肉体を限界まで酷使し、
その成果を確かめるといった経験は、
還暦を過ぎた今になって、
やっと安倍総理には味わうことが
できるようになったのです。
忙しかろうが、どうだろうが、
安倍総理は音をあげず、
愚痴めいたことを微塵も口にしないで、
努力を惜しまないのは・・・・」
(p57)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏さまより、庭が好き?

2018-08-12 | 三題噺
庭の話ということで、
三冊の本を紹介することに。

 上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)
 篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社)
 「露伴全集」第三巻(岩波書店)


「庭と日本人」の「はじめに」は
こうはじまっておりました。

「ある年の暮の寒い日のこと、
一人のアメリカ人の友人を京都の寺に案内した。
大徳寺や龍安寺などのいくつかの寺をみたあとの
帰りの道すがら、かれはオーバーの襟をかきたてつつ、
わたしに質問してきた。
 『日本人は、仏さまより庭が好き?』
 『なぜ?』
と、問うわたしに、
『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ
仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている・・・』
 ・・・・・
いわれてみるとそのとおりだ。
奈良の寺へいくと人は仏像を見るが、
京都の寺ではたしかにみな庭ばかり見ている。
かんがえてみると、奈良の寺にはあまり庭がない
から仏像を見るのはわかる。しかし京都の寺には
仏像があるのに人は庭ばかり見ている。」

これから、新書は始まっているのでした。

つぎは、幸田露伴が明治33年7月に書いた
『太郎坊』という短編小説のはじまりを引用。

「見るさへまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて
夕方の空が青みわたると、真夏とはいひながら
お日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。
やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、
その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらと彼方此方へ飛んでいる。

主人は甲斐甲斐しくはだし尻端折で庭に下り立つて、
蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。
 ・・・・・・

主人は打水を了へてのち満足げに庭を見わたしたが、
やがて足を洗って下駄をはくかとおもふと
すぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて
湯へいってしまった。・・・
やがて主人はまくり手をしながら茹蛸のようになって
帰って来た。縁に花ござが敷いてある。・・・
ほどよい位置に吊るされた岐阜提灯は涼しげな光を放っている。

庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、
ひょろ松桧葉などに滴る水玉は夕立の後かと見紛うばかりで、
その濡色に夕月の光の薄く映ずるのは何ともいえぬ
すがすがしさを添へている。
主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂を吹かせながら、
おのれの労働がつくり出した快い結果を
極めて満足しながら味わっている。」(p253~254)



ここから、小説ははじまってゆくのですが、
私が紹介したかったのは、ここまで(笑)。
つづいて、篠田一士著「現代詩人帖」。
そこで、篠田氏は谷川俊太郎の前に、
高橋新吉をとりあげておりました。
そのなかから、高橋新吉の詩と
その篠田氏の解説とを紹介して終ります。

では詩から、

「   霧雨   高橋新吉

 霧雨の しづかにふる朝
 幻しの犬が匍ひ歩いてゐる

 茶を沸かし ひとり飲めば
 姿なき猫が 膝にかけ上る

 ひとときの 夢の露地に
 竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く

 雲走り 夕となれば
 うつつの窓を閉ぢ ねやにふす  」


この詩を、篠田一士氏は、こう解説しています。

「『幻しの犬』、『姿なき猫』、『夢の露地』の
三つの成句に着目し、これを幻想詩といってみてもはじまらない。
つまり、『うつつ』の場にはありえぬ幻想風景の謂である。
さればといって、霧雨の降りつづく一日、詩人そのひとでも、
だれでもいいが、任意の人物を想定し、そのひとの心中を
横切った幻想の断片を唱ったものと考えるのは、
いかにもみみっちくて、この傑作詩篇には、もとより無縁だろう。

言葉をそのまま率直に読み、また、読みかえしてゆくうちに、
言葉がまことに融通無碍、夢と現(うつつ)の間を往き来し、
その間に、なんの障りもないことに、読むものは、思わず、
おどろきの固唾をのむ。

いわゆる詩的言語がつくりあげる言語空間なるものは、
日常的な場に対して垂直に屹立することを旨とし、
また、それを、なによりの身上とするけれども、
『霧雨』における詩的言語は、決して、垂直には運動しない。
それならば、水平の運動かといえば、かならずしも、
そうだとも言い切れない。
一見、水平のごとくみえるが、
その空間が、四方八方、無限に拡がっているのを知れば、
垂直に対する水平の場のもつ、せせこましい日常風景の有限性など、
ここでは論外だということは、いうまでもない。

しかも、この詩篇を形づくる詩的言語は、
ある一点を指し、そこで、ゆるやかな運動をつづけるかと想わせながら、
瞬時のうちに、無限の彼方から、また、別の無限の彼方へと疾走し、
あるいは、また、その逆をくりかえしているのである。」
(p173~175)

次は、縁側に座ってお寺の庭を眺めながら、
この三題噺を、考えてみたくなるのでした。
坐禅もせず。庭掃除もせずの横着な発想(笑)。
しかたない、これが私です。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元のから手。

2017-12-08 | 三題噺
山折哲雄著「早朝坐禅」(祥伝社新書)
「人形 1 御所人形」(京都書院・昭和60年)
増谷文雄著「親鸞・道元・日蓮」(至文堂・日本歴史新書)


以上3冊から引用。
以下には、この3冊の順に引用してゆきます。

「雲水たちは、食器の上げ下げをするとき、
必ず両手を添えていたのだ。碗(わん)や皿を、
決して片手で扱おうとしない。
一口食べては両手でその器を静かにおき、
また別の器を両手で持ち上げている。
その往復運動は、見ていて快いリズムを
感じるほど楽しかった。・・・
そこで私は思ったのだ。
器に両手を添えるという身体作法が、
その無限の繰り返しのなかで、
いつのまにか『合掌』という
作法に結晶することになった
のではないだろうか、と。
食事の前後に合掌するのは、
この身体作法と決して無縁なもの
ではないに違いない。・・・」(p133~134)

うん。いつも茶碗を片手で扱っているので、
私の合掌は、いつもぎこちない。

思い浮かんだのは、御所人形。
稚子の可愛らしさを表現していて
写真で見たのは
霊鑑寺門跡の御人形のひとつでした。
木彫りに胡粉を塗り重ねた白い肌の
稚子人形が座っていて
丸顔の「水引手 紅の着衣」と
題された人形の写真でした。
すこし頭を上に向けて
両手をひらいて、そのままとじれば、
なんだか、拍手でもしそうな動作を
している人形でした。

以上で2冊引用。
3冊目は道元の「空手にして郷に還る」
という箇所を引用して終わります。

「道元は、1227年、28歳にして故国に帰ってきた。
・・・
これまでにも、海をわたってかの地にいたった
この国の仏僧はすくなくない。その中には、
この国の第一級の人々もおおい。そのとき、
彼らがかの国からもたらしたものは、
いまだこの国にしられていない経巻、仏像であった。
それらによって、この国の人々は、新しい仏教の
教法に接することを得た。また、新しい道具や
その他のものも、あわせて彼らによってもたらされた。
それらによって、この国の文化はゆたかにされた。
さらには、たとえば、茶の実をもたらして、
その栽培と喫茶の法を伝えるというようなこともあった。
それらの新しきものの招来は、人々の目をそばだたしめ、
心をおどらせたであろう。だがいま、道元が在宋五年にして、
新たにもたらしたものはなにか。それは
『眼横鼻直なることを認得した』ことだけであったという。
・・・・詮ずるところをいえば、
『空手にして郷に還る』、から手で帰って来たという。
これまでの留学僧はすべて、なにか新しいものをもって
帰ってきた。なんにも新しいものをもたずに帰ってきた。
だが、そのことこそ、まったく新しいものをもたらした
ことであり、そのことこそ、まことに瞠目し驚心すべき
ことであった。その意味をたずねてゆけば、そこに
道元の仏教把握のかなめが存していることが知られるのである。」
(p136~138)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災と本棚。

2017-04-25 | 三題噺
谷沢永一著「紙つぶて【完全版】」(PHP文庫・1999年)。
この解説を渡部昇一氏が書いておりまして、
久しぶりに読み直し、以前は何を読んでいたのだろうと
思いました。



「ノーサイド」1995年5月号は
特集「読書名人伝」表紙に小さく
「今月は、地震にも強い読書特集。」とあります。
谷沢永一の「阪神大震災わたしの書庫被災白書」が載っています。


「新潮45」2016年6月号に
高山文彦氏が「瓦礫の中から」を書いております。
題は「石牟礼さん、渡辺さん、ご無事でしたか」
題の脇には
「心配したのは、熊本市内に暮らす石牟礼道子さんと
渡辺京二さんのことだった。89歳の作家と
85歳の歴史思想家は、瓦礫の中で『文明と人間』を見ていた。」
ここに、渡辺京二さんの様子がリアル。


ここでは、渡部昇一氏の解説から引用。

「どんな鬱状態の時でも、谷沢は対談や口述になると、
光彩陸離たる話し手、いな噺家ともなるのだ。
ここに私は『光彩』という言葉を使った。
これは私には体験があるからである。」(p556)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梱包の話。

2016-10-16 | 三題噺
この頃、
段ボールの箱を見ると、
その大小にかかわらず、
これをどう使おうかと、
思うようになりました(笑)。


ということで、
思い浮かんだ三冊の本。

加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社)に
鶴見俊輔氏が登場する箇所があります。

「鶴見研究所のドアをはじめてあけたとき、
わたしはびっくりした。というのは、
鶴見さんの書棚には、靴の空箱がいくつも
ならべられており、その空箱にカードが
乱雑につめこまれていたからである。
本もいくらかはあったが、
本の占めるスペースより、はるかに多い
スペースを靴の箱が占領していたのだ。
鶴見さんは、あの、おだやかな微笑を浮かべ
ながら、どうです。いいでしょう、
B6判のカードは、ちょうど靴の箱にぴったり
入ります、値段はタダです、
カード入れはこれにかぎります、とおっしゃった。
なるほど・・・」(p78~)

私の最近のお気に入りは、梨の空箱。
ガムテープで閉じてから、おもむろに、
横にして真中からカット、二つの箱にする。
一つずつに、数冊の本をいれて立てておきます。
この箱だと、少し背の高い本も入る。
空箱のおかげで、本は寝かせずに、立たせます。
これだと、未読本でも配置換えが簡単。
サッと移動でき、読まずに滞っている本は、
すぐに本棚の隅に持ち運べて楽ちん(笑)。


これが三題噺の一番目。
二番目は、
外山滋比古著「消えるコトバ消えないコトバ」(PHP)。
そこに、こんな箇所。

「明治のはじめ、日本は固有の文化はすべて価値なし
と考えた。わけのわからない人間だけでなく、
国中が外国のもの、舶来のものはすぐれている。
在来のものはガラクタであると、知識人も一般も思いこんだ。
そんなとき、フランスへ陶器を輸出することになった。
陶器をそのままでは破損するおそれがあるので、
詰めものを入れた。適当なものがないので、
古い浮世絵を丸めて入れた。
浮世絵は紙くず同然、タダみたいだったらしいから、
陶器を送るときの詰めものにすれば、
もってこいである、と考えたのであろう。
買い入れたフランス側がおどろいた。陶器ではなく、
詰めものにされている浮世絵である。
ヨーロッパの人がまったく知らない美の世界がある。
しかも、すばらしい。荷物そっちのけで、
詰めものに用いられた浮世絵が評判になったという。」
(p32~33)

ネット「日本の古本屋」で本を注文すると、
いろいろな古本屋さんから届きます。
本を新聞紙に包んでから、
缶ビールの箱を裏返して梱包してあったりします。
興味をそそるのは、包んだ新聞紙が
書評欄だったり、地方新聞だったりする時(笑)。

うん。梱包の段ボール箱は
たとえば、スーパーのレジ脇に
タダで置いてあって、
私は、缶ビールを買う際に、
それに入れ、持ち帰ります(笑)。


三題噺の最後は、というと、
この箇所を引用。
三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」(講談社)

「釣り糸のことをテグスと言いますが、
これも、福建省でクスノキに大きなイモムシが
つくんです。ヤママユ、天蚕という蛾の幼虫ですが、
それが出す糸を天蚕糸と言います。
その福建の音がテグスです。・・・
ところで、このテグスという糸の
漁業利用法は中国には存在しないんです。
西洋にもなかった。なぜなら、中国では
漁民は中国人の中に入らないからです。
あるいは人間の中に入らないと言ってもいいかもしれない。
海というのは遠いところのもの、価値の非常に低いものなんです。
我々は漁民の末裔みたいなところがあります。・・・
つまり、日本は海の民で、しかもある程度の
ある質の現代文明を持っている、世界でも珍しい地域なんですが、
そのため、中国で生薬を梱包するひもに使われていた
テグスを漁業に使ったわけです。
中国の文化が日本に来て、不思議な変化をとげた。
このように文化を変えるところに土着のもののよさがある。」
(p163~164・多田道太郎「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」)


はい。現代のテグスはどこに?
ここしばらくは、飽きるまで、
梱包箱がたまることとなります。
来週の日曜日は、小学校の廃品回収。
児童の御両親が集めます。
こういう時に、段ボール箱は処分。

ということで、梱包の三題噺。


ちなみに、
10月9日は、地元では、祭礼でした。
午前中は雨。
軽トラの後ろにのせた
缶ビールや缶ジュースの箱が、
どしゃ降りの雨に濡れて
もう少しで、とけるような崩れ方。
それが印象に残ります。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする