小沼丹に『庄野のこと』という4頁ほどの文があり、
そのなかに、
『 ・・・・・如何にも庄野らしいと思ふ。庄野も書いてゐるが、
庄野の家では客から土産を貰つたりするとピアノの上に載せる。
供へると云った方がいいかもしれない。それを見ると、矢張り
如何にも庄野の家らしいと思ふ。この感じは悪くない。 』
( p60 みすず書房『 小沼丹 小さな手袋 / 珈琲挽き 』 )
『 供へると云った方がいいかもしれない 』とありました。
『 如何にも庄野の家らしい 』ともありました。
庄野潤三著「ザボンの花」第15章に帰省してお墓参りをする箇所があります。
『 矢牧の父の墓は、市の南にある広大な墓地の中にあった。
そこには、父より2年早く死んだ長兄も眠っているのであった。
矢牧は夕方、ひとりでお墓まいりに出かけた。
時間は遅かったが、それでも小さなバケツをさげて
墓地の中の道を歩いている家族の姿が見られた。
こちらへ来ればすぐ次の朝、お墓まいりに行けばいいのに、
いつでも矢牧はぐずぐずしていて、結局帰る前の日になってしまう。
そして、時にはとうとうお墓まいりをしないで
東京へ帰ってしまうこともあったのだ。・・・・・
矢牧は、お墓まいりはのんきな気持で
する方がいいという考え方であった。行く方がいいが、
行かなくても気がとがめる必要はちっとも無い。
むしろ、気が向いた時に訪問する友人のように思いたいのである。
そこへ来れば、心が休まるし、やはり来てよかった
という気持ちで帰る、そういう場所だと思っていた。 」
はい。2~3冊しか読んでいない私なのですが、
おそらく庄野潤三がお墓のことを書くのは珍しいのではないか、
そう思えるので、もうすこし長く引用しておくことにします。
『 ・・矢牧は、墓地の入口のいつも寄る店でもらって来たバケツを
さげて、その中にお盆の花を入れて、道を歩いて行った。
倒れかかっている墓もあった。
地面にのめりかかったような墓もあった。
それらの墓は、もうバケツを持って
おまいりに来る人もないのだろうと思われた。
しかし、そんなふうな、崩れた墓をながめても、
矢牧の心には、不思議に無残な感じもいたましい感じも起らなかった。
・・・・・・・・
矢牧はバケツの中の水を汲んで、まだ新しい、
なめらかな光沢をもった墓石の上に注ぎかけた。
すると、墓石の頂きの部分にたまった水が、
夕べの空の色を映して、かがやいた。
そこには、雲のかたちも映っているのであった。
( わたしが死んだら、お墓の頭の上から酒を注ぎかけてくれ )
生きている時、父はよく冗談にそんなことをいった。
念仏など唱えなくともいいというのであった。
矢牧は、その言葉を思い出した。・・・ 』
まったくもって、お墓の手入れをしてる方には失礼なのですが、
私はといえば、つい、小沼丹氏の言葉につられて、
『 この感じは悪くない。 』と、つぶやきたくなります。