和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『秋刀魚の味』と母親。

2023-12-31 | 地域
今年最後の日に思い浮かんだのは、
小津安二郎と母親とのことでした。

『秋刀魚の味』が封切られた昭和37年は、
小津安二郎が59歳。この年の2月4日母親死去。

2月5日 早朝帰宅。亡母86歳、喜屋妙見大姉。通夜。
2月7日 浄智寺にて告別式
2月10日 初七日。深川陽岳寺で読経、埋葬。
5月14日 亡母百ヵ日。
5月15日 シナリオ、人物の配置など大凡の見当をつける。
5月21日 亡母の夢をみる。
5月24日 シナリオ構成のカードを並べる。
6月8日 脚本依然難渋。
6月25日 『秋刀魚の味』脚本完成。
8月30日 「小料理屋・若松」のセットより撮影開始。
11月18日 『秋刀魚の味』封切。

12月2日 弟妹と共に、亡母の遺骨を高野山に納める旅行。

( 以上は、p680~685 蛮友社「小津安二郎 人と仕事」 )

この本のはじめに野田高梧『交遊四十年』という文がありました。
そこに母親と小津安二郎を語った箇所がありました。引用。

「小津君が北鎌倉に居を定めることになったのそのころのことで、
 僕も一緒にその家を見にいったのがだ、ひと目で気に入り、
 僕も賛成だった。そのころお母さんは妹さんや弟さんの
 いられる千葉県の野田に疎開したままでいられたのだが、
 それからは北鎌倉に、小津君と二人で住まわれることになった。

 理想的な、と言っていいほどのいいお母さんで、
 小津君は或る意味でのテレ屋だったから、

 僕等の前ではわざとお母さんをぞんざいに扱っているような顔をして、
『 ばばァは僕が飼育してるんですよ 』などと口では言っていても、
 芯は本当に親思いのいい息子だった。

 一緒に銀座へ出ると、殆ど必ずと言ってもいいほど
 小津君はお母さんに手土産を買って帰った。

『 まァまァ野田さん、折角来ていただいたのに、
  今日もまたあいにく安二郎の家内が留守でござんしてね、
  どうぞまァこんな婆さんで勘弁して下さいね 』

 そんな冗談がこだわりなくスラスラと出るお母さんだった。 」(p12)


さてっと、ここまで紹介したら、テレ屋の小津安二郎の
ゾンザイ言葉を引用してみたくなります。
それは色紙へと書かれたもののようです。

    『 高野行 』

  ばばあの骨を
  捨てばやと高野の山に
  来て見れば 折からちらちら風花が
  杉の並木のてつぺんの 青い空から降つてくる

  ・・・・・・・・
  ・・・・・・・・

  石童丸ぢやないけれど
  あはれはかない世のつねの うたかたに似た人の身を
  うわのうつつに感じつつ 今夜の宿の京四条
  顔見世月の鯛かぶら 早く食ひたや呑みたやと
  長居は無用そそくさと 高野の山を下りけり

  ちらほら灯る僧院の 夕闇せまる須弥壇に
  置いてけぼりの小さい壺 ばばあの骨も寒かろう




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地方的東京人。地方的文化人。

2023-12-30 | 前書・後書。
注文した扇谷正造著「諸君!名刺で仕事をするな」(PHP文庫)古本届く。

扇谷正造氏は、1913年(大正2年)宮城県生まれ。
巻末の著者紹介には、1935年朝日新聞入社~1968年退社。
この単行本は、1975年(昭和50年)に出版されておりました。

扇谷氏が退職されてからの講演などが掲載されているようです。
ここには、旧版の「序に代えて」を引用してみることに。

「肩書とか会社名などというものは、いわば風袋(ふうたい)で、
 風袋をとったところに、人間の真価がでてくる。
 ビジネスマンの勝負は、だから、ほんとうは
 『 定年で会社を辞めてから 』ともいえるかも知れない。」

退社しての扇谷正造氏の意気込みが吹き込まれているような一冊。
序に代えてには、こうもありました。

「『 名刺で仕事をするな 』というのは、
 今からちょうど40年前の昭和10年、私が朝日新聞に入社した時、
 いわれたことばである。編集局長は、あとで社長になった
 故美土路昌一氏で、このことばは、たしか、美土路さんの提言
 ということであった。以来、40年、私はいろいろな人に会い、
 さまざまな本を読んだが、ビジネスマンのことばとして、
 これにまさるものはない。と思っている。  」

パラリとひらくと、第三部『千年樫の下に』という半自伝的な箇所に
ひかれるものがありました。それについても「序に代えて」にあります。

「考えてみれば、私のような人間は、≪ 地方的東京人 ≫とか
 ≪ 地方的文化人 ≫というのだそうである。

 青少年時代を地方ですごし、長く東京生活をやっていても、
 その≪根≫は、生れ故郷にしっかり結びつけられている
 人間というわけである。すると、自分の人間形成というものは、
 いったい、どういうところから来ているのだろうか・・それもまた、
 いま地方からでてきて、東京や大阪などに働く若い人たちに
 何かの参考にならないだろうか、という思いが、第三部をまとめさせた。」


はい。私は題名のみ、昔から存じていたような気がします。
けれども、この本を手にとったのは、これがはじめてです。
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ボクモツイテル オヅヤスジロウ』

2023-12-29 | 絵・言葉
蛮友社の「小津安二郎 人と仕事」(昭和47年)。
この本は、弔辞などをふくむ追悼文集のようです。
いろいろな方の、追悼文が掲載されておりました。
せっかくひらいたのでパラリパラリとめくります。

笠智衆の名があるので、読んでみました。

「・・自他共に認められる『不器用』な俳優の私で、
 ・・それでも他の俳優さんのすることは、脇にいて見ていて、
 先生が『 もう一度 』と言うか、OKにするかがわかりました。
 しかし自分のこととなると、丸きりわからなくなるのでした。

 ・・・・・
 小津演出は、ハプニングは一切のぞまず、すべて先生の考えてある
 ものに従うわけで、完全な小津作品でした。そのかわり責任も
 先生が持ちました。
 ・・・小津先生の前だと、どうしても私は固くなってしまいました。
 手がふるえて、お銚子でお酌などするシバイの時、相手役の持つ盃
 にあたってカチャカチャと鳴って困りました。・・・ 」(p179)


うん。杉村春子も書いておりました。そちらも引用。

「・・一度先生に私をどうして使って下さったのですかと
 どうしてもききたくなって伺ってみました。そしたら
 稲垣先生の『手をつなぐ子等』をみて自然な芝居をする人
 だなと思ったからだとおっしゃいました。
 『晩春』『麦秋』『東京物語』とお仕事はつづいて、
 私は小津一家の一人のように言われて嬉しゅうございました。

 先生は私の生涯のいちばんつら時期、
 文学座再度の分裂があった頃お亡くなりになりました。

 その年のお正月、文学座に分裂があって約半数の退座が出た時、
 電報をいただきました。その電報には
『 オレガツイテル サトミトン ボクモツイテル オヅヤスジロウ 』
 とございました。・・それから間もなく御入院と、あとでききました。
 ・・・・     」(p229~230)

里見弴の弔辞(昭和38年12月16日)も載っています(p415)。

うん。ここには、今日出海の一回忌のスピーチの方が、内々の
気楽な親密さを語ってくれていて印象深いので引用してみます。

「佐田君の結婚式の日の話ですが、この仲人は小津君がやった。
 
 式後、私は赤坂の某所におりましたら、・・12時過ぎに
 別の座敷から『すぐ来て欲しい』と佐田君が電話をかけて来た。
 何事だろうと思ったら『小津さんが酔っぱらっている』という。

 ・・・行ってみますと、もうベロベロに酔っぱらってる。
 それをお酌しているのが佐田の新郎新婦だった。
 さっき結婚して、もう新婚旅行にでも行ったのかと思ったら、
 仲人のお酌をしている。そして仲人は
『 まあいいじゃねえか、いいじゃあねいか 』
 といいながら飲んでいる。

 ああいう独身の半端ものを仲人にすると、
 その間の事情がよく解らないものでこういう残酷なことをやるんだ。
 それで私が呼ばれた訳も解りまして、新郎新婦を無事にホテルに帰した。

 こういう風に、小津君は一筋の道を歩んだようですが、
 やはり一筋じゃ足りないんで、色々ご迷惑をかけていたに違いありません。
 ・・・・    」(p416)


うん。この引用で終わるのもなんですから、
やはり里見弴の弔辞を引用してしめくくることに。
小津君とはじまります。

「小津君。君は綺麗なもの、間違のないことしか相手にしなかったね。
 ねつい仕事ぶりで、自身納得がゆくまで押しまくった。
 
 ばばあは俺が飼育してゐるのだ、などと、
 始終ばばあ呼ばはりをしながら、こよなく母上を愛した。

 いつも滑稽諧謔の悠適を失はず、これを道化の精神と誇称した。
 ・・・・・・・・酔えばよく唄ひ、よく踊った。

  ・・・・・・・・・・・・

 俺は通俗作家だ、と自嘲めかして呟くことがあった。
 しかしこのことは、君にとってはもちろん、映画界はおろか、
 日本国にとっても、大層幸福(しあわせ)なことだった。
 さういふ作品がいつまでも残って行くのに、
 君自身は、急にこの地上から消え失せて了った。

 ・・・・毎回協同制作にあたってゐた野田高梧君の夫婦、
 親子同然の間柄なる佐田啓二君の一家、孫のやうに
 可愛いがった同家娘、貴恵ちゃん、君によって才能を伸ばされた
 幾多男女俳優諸君、叱言(こごと)と慈愛とを雨の如くに
 頭上から浴びせかけられた君のスタッフ・・の面々・・・

 そして最後に、一干支(ひとまわり)からも年齢の違ふ
 私まで置き去りにして・・・・・

 ひどい人だ。君は。ひとこと愚痴を零(こぼ)させて貰って、
 では、また会ふ日まで。小津君よ、さやうなら。      」(p415)

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不自然だと百も承知で。

2023-12-28 | 絵・言葉
BSで小津安二郎の「お早よう」と「秋刀魚の味」を
録画して観ました。

うん。今まで受けつけなかった小津映画が私に
ストンと腑に落ちる。年齢のせいかもしれない。
小津映画の鑑賞年齢にようやく近づいたのかも。

気になって、「小津安二郎 人と仕事」(蛮友社)をひらく。

映画「お早よう」について、ご本人の弁。

「『 芸術院賞を貰ったからマジメな映画を作った
   と言われるのもシャクだから・・・ 』
  とオナラの競争をする子供たちが登場する映画。

  しかし古くからあたためていた主題で、
  人間同士というものは、つまらないことをいつも言い合っているが、

  いざ大切なことを話し合おうとするとなかなか出来ない、
  そういうことを映画にしたかったのだと言う。  」(p636)

映画「お早よう」は、昭和34年封切り。小津安二郎56歳の作品。

昭和37年。小津59歳。「秋刀魚の味」封切。

「ここでも婚期の娘と、見送る父親の平凡な心情を、
 枯淡な芸風で描いて、そのたびに微妙な陰影のちがいを見せた。

 そして最後の作品となった。54作目である。
 そのうち27作の協力者であった野田高梧は
 『 これがオッちゃんの遺作では可哀そうだ 』と言った。」(p684~685)

学生時代の先生役で、戦後ラーメン屋をしているのが東野栄治郎で
今度見ると印象深かった。その娘を杉村春子。
岸田今日子も、岩下志麻も、スッと蓮が伸び咲いたようなすがすがしさ。

昭和38年。60歳。
    12月11日 容態悪化、すでに死相あらわれる。
    12月12日 満60歳誕生日、還暦の日、12時40分死去。腮源性癌腫。


「ぼくの信条」(「彼岸花」撮影中の座談会で)昭和33年

「 ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従がう。
  重大なことは道徳に従がう。芸術のことは自分に従がう。

  どうにもきらいなものは、どうにもならないんだ。
  これは不自然だと百も承知で、しかもぼくはきらいだ。
  そういうことはあるでしょう。

  理屈に合わないが、きらいだからやらない。
  こういうところからぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。
  理屈に合わなくとも、ぼくは、そうやる。  」(p628~629)


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ガンバレ産経新聞

2023-12-26 | 産経新聞
産経新聞を購読させてもらっております。
昔、家では朝日新聞をとっておりました。

いつ頃だったか、朝日新聞を読んでいると
何だかイライラしてきてしょうがなかった。
うん。それから毎日読売産経などあれこれ
取っておりました。毎日は丸谷才一氏が
読書欄を充実させていて、ファンでした。
読売は、この中では一番充実してました。
読売歌壇・俳壇は、そこだけでも楽しい。
それと比べると、産経は少し落ちる感じ。
けれど、一紙購読するとなって産経にしました。
そして、今も続いて購読しているのは産経新聞。

はい。こんなことを書いているのは、
産経新聞12月25日の正論欄・藤岡信勝氏の文を読んで
書いてみたくなりました。題は「ラムザイヤー教授の不屈の言論」。
ここには、その藤岡氏の文の最後を引用。

「・・・翌年(2021年)1月、英語発信メディアの『ジャパン・フォワード』
 が報じ、産経新聞が要旨を掲載すると、韓米両国でラムザイヤー教授に
 対する猛烈な非難と迫害、人格攻撃が起った。
 
 彼らにとって、ハーバード大学の教授が、
 『 日本軍慰安婦は売春婦であって性奴隷ではない 』という趣旨の
 学術論文を書くことは予想外のことであり、致命傷となる出来事だった。

 1日目に77通のヘイトレターが届いた。
 殺人を予告するものさえあった。攻撃は3ヵ月やまなかった。
 学問的反論ではなく論文の撤回を求める署名に
 参加した文系学者の数は3500に達した。

 しかし、教授は屈服しなかった。同年(2021年)4月、
 ラムザイヤー教授を支援する集会が日本で開催された。

 ビデオメッセージで教授は
 『 あんたはネットで言われているほどくだらない人間じゃないよ 』
 と言い続けてくれた友人がいなければ
 自分は絶対に生き残ることはできなかった。と述べた。

 この12月から来年の1月にかけて、日本語・韓国語・英語の3つの言語、
 3つの国でラムザイヤー教授の慰安婦論が単行本として出版される。

 日本語版には1991年の論文も翻訳掲載されている。
 吉田清治のつくり話の出版から40年、
 政治的に屈服した禍根の『河野談話』から30年にして、
 慰安婦をめぐる国際歴史論戦はやっと結末を迎えようとしている。」


「慰安婦性奴隷説をラムザイヤー教授が完全論破」(ハート出版)
は2023年12月13日発行されたばかり。

思い浮かんだのは、シェークスピアのソネット集でした。
その第90番の詩の最初と最後とを引用することに。

  いつでも 今でも ぼくがいやならさっさと見切りをつけたまえ
  いま 世間は一体になって ぼくのやることに邪魔をしている
  だから意地わるい運命に加担して ぼくに 参ったと言わせたまえ
  勝負がついてから のこのこ顔を出すのはよしてもらいたい

  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・

  いまは不幸と見える 数かずのなやみや苦しみも
  君を失う不幸にくらべたら ものの数ではないのだ

         ( 中西信太郎完訳「シェイクスピアソネット集」英宝社・昭和51年 )


はい。「産経新聞が読めなくなる不幸にくらべたら」としたくなりました。
ガンバレ 産経新聞。
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言論(意見)を売る職業。

2023-12-25 | 朝日新聞
扇谷正造著「夜郎自大 現代新聞批判」(TBSブリタニカ・1982)。
この本を持ち出したので、この機会にパラリとひらいた箇所を引用。

「『知る権利』ということが、戦後しばしば、
  ジャーナリストの間から高唱されている。

  いったい、だれの権利なのか?いうまでもなく、
  それは読者の、あるいは国民の権利であって、

  ジャーナリストは、単にそれを委任されているに過ぎない。
  ここのところが、どうも若い記者諸君にはよくのみこめていないようである。

  ・・・・・・・
  朝日の初代論説主幹は池辺三山といい・・・
  その主幹就任の弁に≪言職(げんしょく)≫
  ということばがでてくる。くだいていうと、それは

 『 自分たちの職業は、いわば言論(意見)を売る職業である。
   それは八百屋さんが野菜を売り、魚屋さんが魚を売るのと
   何等かわりはない。自分たちの書いたものが、

   八百屋さんの野菜、魚屋さんの魚のように、
   読者の生活の資として、何がしかの糧となれば、
   自分の喜び、これに過ぎるものはない 』

  と記している。言辞きわめて謙虚である。
  しかも、ズシリ、重たい。   」(p33~34)

このあとに、扇谷さんは、さらに嚙み砕いて語っています。

「 ・・三山のいわんとしていることは
 『 ミのあるニュース 』『 ミのある言論の提供 』
  ということなのであろう。

  そのニュースを読んで、読者は疑問なり、好奇心が満たされた、
  あるいは、その言説を読んでハッと目をひらかれたという思い
  を抱かせよ、ということをいっているのである。

  野菜を食べた、ああおいしかった。魚をたべた、ああ満足した。
  市民は、この場合、その一つ一つを自分の体験として実感する
  ことができる。しかし、ニュースは、通常、市民には一方的に
  与えられるだけで、はたして、それがどこまで事実か、あるいは
  その考え方が妥当であるかどうかはたしかめることができない。

  ・・・・それを伝える新聞記者も、実は、
  官庁なり警察なりからのまた聞きを記しているにすぎない。 」(p34)


歳末で読めなくてもいいや。と数冊の扇谷正造の古本を注文することに。
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50代以上女性向け。

2023-12-24 | 産経新聞
産経新聞12月24日(日曜日)をひらく、
読書欄の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」を見ると、

「 いちばん驚いたのは、ついに雑誌の王者
 『文芸春秋』が20万部を切ったこと。16万5794部。
  今も平台に山積みにしている書店が多いが、
  実売率は50%を切っているのではないか。残念だ。」

ちなみに、週刊誌の『AERA』は、3万4570。
来期から、公表をやめてしまいかねない部数。

「 今期も雑誌のなかで、最大部数は50代以上女性向け
  の実用誌『ハルメク』で、46万4717。 」

読書欄は、「令和5年私の3冊」という特集。
取りあえず、気になる2冊に線をひいてみる。


追記。きさらさんからコメントを頂いたので、
今日のブログの追加文を以下に。

『週刊朝日』は、もう朝日新聞で廃刊にしちゃったようですが、
『週刊朝日』といえば、私には編集長だった扇谷正造の名が思い浮かびます。

はい。浮かぶだけじゃしかたないので、
本からの紹介。昭和22年7月であったと扇谷さんは回想しております。

「ある日、私は、・・2人に呼ばれた。
 広いガランとした部屋には3人しかいなかった。
 2人は、何とかして『週刊朝日』を強い雑誌にしてほしいという。
 
 『・・・今や3万5000部。どうか30万部にして下さい。・・ 』」

「・・・ある日、私は大阪へ出かけた。
 販売店の人たちに集まってもらい、いったい、
 どういう雑誌をつくればいいか、ご意見をきくことになった。
 たしか北尾さんといった。大阪での有力販売店主の方である。

『 扇谷さん、あなた、人を訪問される時、どこからお入りになりますか 』

 ときく。『 ええ、玄関からです 』

『 そうですか。私たちは勝手口から入ります。
  そこで、新聞代金をいただく。・・パッとお金を払ってくださる。
  それに『週刊朝日』が20円ありますが・・・、といいかけると、
  パチンとひらいて、しばらく考えてから払ってくださる。

  その時間は3分か4分かも知れない。けれども、
  私たちには20分にも30分にも感じられる。

  どうか、扇谷さん、『週刊朝日』を
  パチン、パッという雑誌にしてください。 』

 ・・・・ さて、どうつくればいいか。
 このことばをめぐって、ずいぶん、私は考えた。

 ・・・・そのころから漠然とだが、
 ≪ 平均的読者像 ≫ということを考えた。
 それは

『  旧制女学校卒の読解力プラス人生経験10年  』ということで、
 私の『週刊朝日』の時代は、一貫して編集の骨子をそこにおいた。・・」

   ( p246~255 扇谷正造著「夜郎自大」TBSブリタニカ・1982年 )


はい。
「 今期も雑誌のなかで、最大部数は
  50代以上女性向けの実用誌『ハルメク』で、46万4717。 」

この言葉から、私に思い浮かんできたのが、扇谷正造さんでした。

扇谷さんの「 旧制女学校卒の読解力プラス人生経験10年 」を
ハルメクさんは「 50代以上女性向けの実用誌 」としたとしたら
現代的年齢判断で、これはこれで何とも分かりやすいと思いました。

 
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狭くする。広くしてくれる。

2023-12-23 | 道しるべ
田中泰延著「読みたいことを、書けばいい」(ダイヤモンド社・2019年)。
以前に古本で購入してありました。うん。題名にしてからが、いきなり直球。
その題名にひかれて買った一冊でした。

田中泰延氏は、1969年大阪生まれで、24年間コピーライター・CMプランナー
として活躍とあります。どうりで小見出しも、弾けるほどに、生きがいい。
目次から、その小見出しだけでも引用したくなります。

〇 だれかがもう書いているなら読み手でいよう

〇 他人の人生を生きてはいけない

〇 物書きは『調べる』が9割9分5厘6毛

〇 書くことはたった一人のベンチャー起業


うん。全球直球勝負といったところ。
今回読み直していたら、それでも微妙に個性的変化を混ぜて投げてくる。
いままでの経験を全力投球しているような一冊。
本棚に置いては、ときに手にとりたくなる一冊。
全力投球ならば、この箇所など引用したくなる。

「 書けば書くほど、その人の世界は狭くなっていく。・・・

  しかし、恐れることはない。なぜなら、
  書くのはまず、自分のためだからだ。

  あなたが触れた事象は、あなただけが知っている。
  あなたが抱いた心象は、あなただけが憶えている。

  あなたは世界のどこかに、小さな穴を掘るように、
  小さな旗を立てるように、書けばいい。

  すると、だれかがいつか、そこを通る。

  書くことは世界を狭くすることだ。
  しかし、その小さななにかが、あくまで結果として、
  あなたの世界を広くしてくれる。        」( p224~225 )


はい。あらためて読み直しても、それが、
コピーライター的用語なのかもしれないけれども、
鼻につかない。忘れなければ開こうと本棚へ戻す。



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消えた『インド太平洋』

2023-12-22 | 産経新聞
曽野綾子さんが、産経新聞紙上で健筆をふるっていた頃、
たとえば、産経抄の言葉などを受けて、曽野さんが紙上コラムで
その言葉をさらに展開させていたのでした。
そんな箇所を読めるのを、私は楽しみにしておりました。

はい。こんなことを思い浮かべたのは、
12月17日産経新聞一面左に谷口智彦氏が「日曜コラム」で、
「消えた『インド太平洋』」と題し書かれていたのでした。

すると、夕刊フジ12月21日に、高橋洋一氏の連載「『日本』の解き方」が、
その谷口氏の文を受けて引き続けて書いておりました。
高橋氏のはじまりはこうです。

「元内閣官房参与の谷口智彦氏が産経新聞への寄稿で、
 安倍晋三元首相が掲げた『自由で開かれたインド太平洋』
 という言葉が、岸田文雄政権で使われなくなっていると指摘した。」

ここには、高橋氏のこの連載を引用したくなりました。

「岸田政権における『自由で開かれたインド太平洋』と
 『自由で開かれた国際社会』の使い分けをみると、さすがに、

 日米豪印に関わる演説では『自由で開かれたインド太平洋』が使われているが、
 そのほかでは『自由で開かれた国際秩序』となっているようだ。

 この用法の使い分けで残念なのは、直近の12月16日のASEAN(東南アジア諸国連合)
 首脳会議での岸田首相のあいさつで・・・・・・・  」


うん。高橋氏のこの文の最後を引用したくなりました。

「谷口氏はコラムで岸田政権の用語の変化を中国は歓迎しているはずだという。
 外交は言葉の一つ一つを慎重に吟味して使い、
 外交文書上での言葉のバトルを行うので、
 この谷口氏の指摘は妥当のように著者には思えるがどうだろうか。・・・ 」

ちなみに、この高橋氏の文の見出しは
「 『自由で開かれたインド太平洋』
   岸田首相の使用頻度なぜ減った中国は用語の変化歓迎している 」とありました。

そういえば、月間Hanada2月号の対談「蒟蒻問答」のこの言葉が印象的でした。

堤堯】 だけど、岸田は改憲はやらないだろうね。
   『 私の任期中に憲法改正をやる 』と言ったけど、

    それを聞いた瞬間、こいつはやらないなと思った。
    やる気があるなら、いつの国会で、いつまでに国民投票を、
    などと時期を明示するはずだからね    (p125)




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京都の都市と年中行事

2023-12-21 | 京都
中央公論社の「日本絵巻大成」8は、「年中行事絵巻」。
その「年中行事絵巻」の巻末解説が、吉田光邦氏でした。

そこから引用したいのですが、そのまえに、
吉川英治著「宮本武蔵」の最初の方でした
(はい。私は最初の方しか読んでいません)。
うる覚えなのですが、武蔵が枝だか竹だかの切り口を手にとり、
この切り口は、ただ者ではないと指摘する場面があるのでした。

はい。切り口ということで、この吉田光邦氏の解説を読むまで、
私は、お祭りと年中行事との切り口を思ってもみませんでした。
ということで、引用をはじめます。

京都の年中行事を語る吉田光邦氏は、都市の指摘をしております。

「それはまた、中国の都城にならって人工的に設計され、
 建設された京都の市民においても同様であった。

 宮廷と政府という機関を中心として成立したこの都市は、
 純然たる消費都市であり、あるいは『延喜式』の語るように、
 官営手工業の都市であった。

 そこでは、農業を中核として成立した社会集団とは違って、
 四季は生業の基本たりえない。農業にあっては、いつも
 四季の動向が生産を左右する。そこで生産のプロセスの中に
 季節は存在し、生産を完全にするために、
 多種多様の呪術的儀礼、祭儀も生まれてくる。
 祭式はいつも生産を完成するために存在する。

 けれども、手工業の場合は、ほとんど四季に左右されることはない。
 生産は季節の条件を組み込まずとも、そのプロセスは成立する。

 この四季の変化を基礎としない生活様式が、
 じつは京都の市民たちのありかただったのである。

 ・・・・・しかも、都市という集団生活は、
 農村とは違った異質の災害をも生み出す。
 たちまちに多くの人家を灰にしてしまう火災、
 また多くの人命を奪っていく疫病の流行、
 地震・雷火などの損害は、すぐに増幅され拡大される。

 そこで、これらの災害のもととなる超越者、すなわち
 御霊(みたま)を鎮めて災害から逃れようとする行動が生まれてくる。
 いわゆる御霊会(ごりょうえ)の発生である。

 これらは・・・・きわめて人工的なものであり、人工的なドラマであった。
 年中行事が、宮廷人や官僚ばかりか、庶民の間にも強く意識されていたのは、
 こうした都市生活の性格からである。しかも、
 いきなり人工都市として生まれた京都において、それはことに強かった。

 この意識と性格は今も京都の伝統として残り続けている。
 京都では、季節の変化があって年中行事があるのではなく、
 年中行事が正確に行われてこそ、四季はめぐっていくのある。」(p131)


はい。なんだか見事な切り口を見せて頂けたようで、
ちょっと忘れられないだろうなあ。

ちなみに、切り口といえば思い出すのは、徒然草でした。

    徒然草 第229段

 良き細工は、少し鈍き刀を使ふ、と言ふ。
   妙観(めうくわん)が刀は、いたく立たず。

訳】 すぐれた細工師は、少し鈍い刀を使って細工すると言われている。
   妙観の刀は、それほど切れ味がよくはない。

ちなみに、島内裕子訳・校訂「徒然草」(ちくま学芸文庫)の
『評』は、こうでした。

「 小林秀雄のエッセイ『徒然草』で引用され、有名になった段である。
  切れ過ぎると、つい道具に頼って、じっくり自分の力で
  着実に行うことを怠ってしまう。兼好は、それを戒めたのだろう。」
                            (p436)


はい。吉田光邦氏は日本の職人を語っている中に、徒然草のこの段を
引用されていたので、すぐに思い浮かびました。

はい。こういう切り口につい味をしめて、
では、東京の年中行事は、などとスッパスッパと
つい、切ってみたくなることの戒めとして『すぐれた細工師』の職人の例。

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腰かけに坐りなほし。

2023-12-19 | 詩歌
吉田光邦の「茶の湯十二章」は雑誌に掲載されたもので、
どうやら四季の移り変わりを十二章にたとえているように読めます。
その最後に「一期一会」という3ページの文。

そのはじまりは

「歳末となる。人は誰しも流れてやまぬ時間、
 自分のうちに消えてゆく人生をふりかえる時であろう。」

こうして幕末の井伊直弼の言葉が紹介されてゆきます。
私に興味深かったのは、

「彼(直弼)にとっては茶は楽しむものであり、その楽しみは
 自分の現在のあり方をはっきりと見定めることによって
 生まれてくるものであった。」

短文に繰り返される『 自分のあり方 』という言葉が印象に残ります。

「だがその交流は同時に自分のあり方の自覚でなければならなかった。」

「茶は自己の認識の道でもあったのである。」

 ( p167~169 「吉田光邦評論集Ⅱ 文化の手法」思文閣出版 )


この箇所を、呪文のように繰り返していると、
井伏鱒二の詩の2行が、思い浮かぶのでした。

 『 われら万障くりあはせ
   よしの屋で独り酒をのむ 』

こちらも短い詩に、この箇所が最初と最後に繰り返し登場します。
うん。ここは井伏鱒二の詩「逸題」の全文を引用しておわります。

       逸題     井伏鱒二

  今宵は仲秋明月
  初恋を偲ぶ夜
  われら万障くりあはせ
  よしの屋で独り酒をのむ

  春さん蛸のぶつ切りをくれえ
  それも塩でくれえ
  酒はあついのがよい
  それから枝豆を一皿

  ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
  われら先づ腰かけに坐りなほし
  静かに酒をつぐ
  枝豆から湯気が立つ

  今宵は仲秋明月
  初恋を偲ぶ夜
  われら万障くりあはせ
  よしの屋で独り酒をのむ

      ( p20~21 井伏鱒二「厄除け詩集」講談社文芸文庫 )


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6人くらい読むかも

2023-12-18 | 産経新聞
ラムザイヤー氏の翻訳本がハート出版からでて注文。

8ページの論文を2020年に発表した時に、
友人から評された言葉からはじまっておりました。

「ある友人はこれを評して、
『 6人くらいの専門家と君のお母さんなら読むかも知れない論文 』
 と言った。

 その時は、それが当たっているように思えた。
 私が書いた論文のほとんどについて言えることだが、
 6人もの人が読んでくれれば上出来としなければならない。

 その上、母は今回の論文には興味を示さないだろう
 ことを私はわきまえていた。・・・・

 年が明けて1月31日、産経新聞が私の論文の
 見事な紹介記事を掲載した。・・・・     」(p22)
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庭いじり。美術館。

2023-12-17 | 先達たち
「足立美術館 日本庭園と近代美術」(山陰中央新報社・昭和55年)。
足立全康著「庭園日本一 足立美術館をくつった男」(日本経済新聞・2007年)

はい。「庭園日本一・・」から引用。

「美術館を造ることを決意したとき、
 日本画の美に最も似つかわしいものとして、日本人の
 美意識の深いところで関わる日本庭園をイメージに描いた。

 小学校六年のとき、近くの雲樹寺で見た庭園にいたく感動した
 ことがあったが、その時の印象が心の片隅に生き続けていたのかもしれない。

 雲樹寺は臨済宗の古刹で・・・枯山水の禅宗庭園で、春になると
 雲仙ツツジが境内一帯を埋め尽くすところからツツジ寺とも呼ばれ、
 地元の人たちに親しまれている。

 庭づくりを思い立ったのも、こうした故郷の美しい風景が
 あればこそと思うが、私の父がとにかく庭いじりが好きだったことが、
 あるいは直接の原因かもしれない。何かにつけて意見が衝突した父と
 私であったが、年をとるにつれて血はいよいよ争えないものとみえる。

 美術館の庭園は、大阪芸術大学の中根金作教授に設計いただいたもので、
 築山林泉式庭園と枯山水式庭園から成っている。・・・・

 昭和45年秋に開館して以来、毎年のように絶えずどこかを
 いじくりまわしてきたので、庭の風景はしょっちゅう変わり、
 設計時の面影はあまり残っていない。・・・・
 
 私の場合、収蔵品を喜んでいただくのはもちろん嬉しいが、
 庭を褒められると殊のほか嬉しい。・・・・

 庭からほんのちょっと目を上げると、そこには戦国時代の昔、
 毛利、尼子の両雄が戦い、毛利氏が戦勝を記念して名付けた
 という勝山が連なっている。その背後には、この地方で一番
 高い京羅木山(きょうらぎさん)がヌッと頂を突き出している。
 四季の変化をいち早く知らせてくれる、見張り山でもある。・・・」
                      ( p189~190 )


うん。以前に親しいご夫婦の家に食事に招かれたことがありました。
その際に、夫婦して足立美術館へと行った思い出を奥さんが語って
何だかわからないながら、気になっておりました。
それから古本で、その関連本が安く出た時に読まない癖して買って
置いてありました。今頃、ひょんなことで、この本をひらけました。

もちろん(笑)。私は行ったこともありません。
庭園と収蔵品とのカタログをひらくだけです。

コメント (2)
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『 美 』の2割増し。

2023-12-16 | 絵・言葉
「藤森照信の特選美術館三昧」(TOTO出版・2004年)。
はい。わたしは3ページほどの『まえがき』で満腹。

そのはじまりと、さいごとを引用。

「日本の美術館は、世界的にみると、きわめて特異である。
 質のことはひとまず置いといて、量がちょっと変わっている。
 多いのだ。とにかく美術館の数が多い。・・・    」

なかごろには
「富が大衆化すれば文化も大衆化し、そして美が大衆化したのである。」

そして、そそくさと最後を引用。

「大衆化した美術館のこの先にはなにが待ち受けているのか。
 ・・・・・マイ美術館の時代だろう。・・・・

 かつてしかるべき家には茶室がついていたように、
 しかるべき家には小さな美術館、というか美術室が、
 縮めれば美室が設けられるようになる。

 茶室が美室としてよみがえるのである。
  当たるも八卦、当たらぬも八卦。    」

こうして目次をみると、27の美術館が見取り図と写真入りで紹介されております。ちなみに、私が行った美術館は、3~4館。

う~ん。目次に従ってひらくと、この箇所も引用したくなりました。
「天竜市立秋野不矩美術館」のはじまりの言葉。

「 美術館は建物と展示品のふたつの美からなる、
  という宿命を負わされている。

  美術好きの人は展示品だけで十分と考えているかもしれないが、
  それはちがいます。

  人は、ひとつのものを見つめるとき、かならず
  周囲の環境を無意識に感じ取りながら、見ている。

  壁の様子、落ちてくる光、隣り合う作品、足の下の床、
  天井の高さ、そして背後の空気。獲物を前にしたネコ科の
  動物(ヒョウなど)と基本的に変わらない。

  作品の美は、展示の空間によってそうとう印象が変わる。
  体験でいうと、2割くらい変わるんじゃないかと思う。  」(p232)


そうすると、展覧会のカタログだけ見てる私は、
いったい何割引きの、『美』を見てるのだろう。


 
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庭掃除から思う露地。

2023-12-15 | 思いつき
70歳が近づくまで、庭の手入れなど考えたこともありませんでした。
はい。庭とは縁遠い家庭の育ちでした。けれど、妻の実家には庭がある。
そしてそれが、主なき家になったときに、庭の手入れがはじまりました。
はい。突然に庭を持った。ということになります。

とてものこと、庭師に手入れを依頼する甲斐性もなく、
コロナ禍で、出かけることも少ない折から庭の手入れ。

この水曜日(13日)も、そんな手入れ日和でした。
足元のツワブキが枯れたと思えば山茶花は満開です。

チンタラチンタラと雑草取りと枝払いをするのですが、
その日は、簡単な粉砕機で、刈り取った枝を砕く作業。

根が怠け者ですから、ボケっと庭を見ていたりします。
すると、作業中も、その後にもあれこれ思うのでした。

今日になって、「茶室を囲む露地(庭)」が思い浮びました。
そのまえに、古本で買ってあった未読本並べ。

「藤森照信の特選美術館三昧」(TOTO出版・2004年)
「足立美術館 日本庭園と近代美術」(山陰中央新報社・昭和55年)
「庭園日本一足立美術館をつくった男」(日本経済新聞出版・2007年)
白崎秀雄著「北大路魯山人」(文藝春秋・昭和46年)

以上4冊を、今月はひらけますように。
ここには、吉田光邦「茶の湯の工芸」(吉田光邦評論集Ⅱ)
から「茶室を囲む露地(庭)」について書かれた箇所を引用。

「この数寄屋としての茶室を囲む露地(庭)をつくるのは庭師、造園師である。
 露地には井泉、つくばい、飛石、燈籠など、
 茶の湯に必要な物が定まっている。
 しかしつくばいの形、燈籠の形、配置などは
 
 すべて自由なのだ。そこに造園の苦心がある。

 さらには庭はいつも手入れし、
 大自然の凝集である特質を保ちつづけねばならない。

 12月には霜よけや雪がこいをし、敷松葉をして苔を守る。
 冬の間には木に肥料を与え、3月、春も近づくと敷松葉などを
 とりのける仕事がある。

 垣根を結い、竹樋をかけ、刈りこみ、灌水などと、
 自然はいつも十分な管理をすることで、
 はじめてその生命は生かされてくる。・・・・ 」(p117)

うん。庭から脱線してゆきますが、
最後にはこちらも引用したくなります。

「これらのハードウェアばかりでなく、
 茶・菓子といったソフトウェア系のものにも、
 それぞれの工人の苦心が払われていることはいうまでもない。

 よい味の茶、そのためには品種の改良、栽培法などに、
 多くの研究と試みがつづけられてきた。

 さらにはほのかな甘さをたたえる菓子に対する
 さまざまのデザインと工夫。京菓子のもつ独自の美しさと味は、この
 茶の湯の世界できずきあげらたものが、ひろく拡散していったためである。

 生菓子はいきものである。そこで茶会の日、時間にまで合せて
 そのとき最もすぐれた味となる菓子も作られる。原料の配合、味ばかりか
 ながめたときの美しさをもたえず念頭において、
 菓子作りの人たちはデザインする。

 そのほか炉でたかれる炭もまた遠い山中の人びとの
 手で焼かれていることを忘れてはなるまい。・・・・・  」(p118)


はい。こんなことが思い浮かぶような仕事ぶりなので
いつまでたっても主なき家の庭の手入れは進みません。
さきの4冊も、どうひらてゆくのか、ひらかないままなのか。
庭の手入れ同様に、はかどらないかもしれないし。

とりあえず、主なき家の庭掃除は、今年はこれでおしまい。






コメント (3)
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