今年最後の日に思い浮かんだのは、
小津安二郎と母親とのことでした。
『秋刀魚の味』が封切られた昭和37年は、
小津安二郎が59歳。この年の2月4日母親死去。
2月5日 早朝帰宅。亡母86歳、喜屋妙見大姉。通夜。
2月7日 浄智寺にて告別式
2月10日 初七日。深川陽岳寺で読経、埋葬。
5月14日 亡母百ヵ日。
5月15日 シナリオ、人物の配置など大凡の見当をつける。
5月21日 亡母の夢をみる。
5月24日 シナリオ構成のカードを並べる。
6月8日 脚本依然難渋。
6月25日 『秋刀魚の味』脚本完成。
8月30日 「小料理屋・若松」のセットより撮影開始。
11月18日 『秋刀魚の味』封切。
12月2日 弟妹と共に、亡母の遺骨を高野山に納める旅行。
( 以上は、p680~685 蛮友社「小津安二郎 人と仕事」 )
この本のはじめに野田高梧『交遊四十年』という文がありました。
そこに母親と小津安二郎を語った箇所がありました。引用。
「小津君が北鎌倉に居を定めることになったのそのころのことで、
僕も一緒にその家を見にいったのがだ、ひと目で気に入り、
僕も賛成だった。そのころお母さんは妹さんや弟さんの
いられる千葉県の野田に疎開したままでいられたのだが、
それからは北鎌倉に、小津君と二人で住まわれることになった。
理想的な、と言っていいほどのいいお母さんで、
小津君は或る意味でのテレ屋だったから、
僕等の前ではわざとお母さんをぞんざいに扱っているような顔をして、
『 ばばァは僕が飼育してるんですよ 』などと口では言っていても、
芯は本当に親思いのいい息子だった。
一緒に銀座へ出ると、殆ど必ずと言ってもいいほど
小津君はお母さんに手土産を買って帰った。
『 まァまァ野田さん、折角来ていただいたのに、
今日もまたあいにく安二郎の家内が留守でござんしてね、
どうぞまァこんな婆さんで勘弁して下さいね 』
そんな冗談がこだわりなくスラスラと出るお母さんだった。 」(p12)
さてっと、ここまで紹介したら、テレ屋の小津安二郎の
ゾンザイ言葉を引用してみたくなります。
それは色紙へと書かれたもののようです。
『 高野行 』
ばばあの骨を
捨てばやと高野の山に
来て見れば 折からちらちら風花が
杉の並木のてつぺんの 青い空から降つてくる
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・・・・・・・・
石童丸ぢやないけれど
あはれはかない世のつねの うたかたに似た人の身を
うわのうつつに感じつつ 今夜の宿の京四条
顔見世月の鯛かぶら 早く食ひたや呑みたやと
長居は無用そそくさと 高野の山を下りけり
ちらほら灯る僧院の 夕闇せまる須弥壇に
置いてけぼりの小さい壺 ばばあの骨も寒かろう