和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柳田国男は、考えこんでいる。

2022-03-31 | 道しるべ
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ・新書・平成18年)。
はい。この本を本棚からだしてくる。

52冊の本が紹介されている1冊。
この本が紹介する、最初の本が柳田国男著「木綿以前の事」でした。
谷沢さんは『木綿以前の事』を、どのように紹介されているのか?

「柳田国男は、学問とは何か、と根本から問いかけ、
 人は何の為に勉強するのか、と考えこんでいる。

 この広い世の中に暮らす多数者を助ける気持ちで、
 本を読み努めるのでなければ、我が国の次の代、
 またはその次の代は、今より幸福にはならぬのである。
 と記した。」(p15)

こうも書いております。

 「少数の、運よく成功した人に拍手を贈るよりも、
  多数者の幸福を僅かでも増すために、何をどうしたら
  よいかの工夫に真心をこめて、じっくりと思案する
  のが人間本来の路ではないか。」(p14)

この本は編集者の意向で、年齢別におすすめ本を列挙してゆく
形をとって、15歳・20歳・30歳・40歳・50歳・60歳・70歳と
その年齢に合わせての配列となっておりますが、私はどれも
読んではいないので、あんまりピンとはきませんでした。
最初の章『15歳』のはじまりに『木綿以前の事』があった。
最後の章『70歳』でとりあげられている
安東次男著『定本風狂始末芭蕉連句評釈』のはじまりは、こうでした。

「世界に類例を見ない我が国のみに成立した独自の文芸様式である
 俳諧の特色をなす視座の優しみを的確に指摘し、なかんずく
 『芭蕉七部集』の、他に替えがたい魅力を、心の底からの
 共感に基づいて記した評論の代表は柳田国男(「木綿以前の事」)
 である・・・」(p220)

このあとに、『木綿以前の事』の自序を引用しております。
その引用のあとには

「柳田国男が史上ほとんどはじめて強調したように、
 俳諧に唱われた女性の映像(イメージ)は、一読して
 忘れ得ぬほどひときわ艶(あで)やかである。・・・」(p221)

このあとに、『冬の日』の俳諧を引用して、そのあとでした。

「残念ながら、俳諧表現の陰影(ニュアンス)を解き明かすのに
 成功した注釈は少ない。私は教職にある時数年かけて七部集を講じ、
 近世期以来の夥しい注解を比較対照したが、そのほとんどは
 些事に拘わる近世学問に共通する通弊のため、題材に選ばれた
 事象の故事来歴と出典の考証に傾き、句から句への移りに込められた
 連想の感得力に乏しいのが常である。・・・」(p222)

はい。これから俳諧がなんであるかを読み始めるには
打って付けのエールが聞こえてくる一冊のような気がしてきます。
いよいよ、私に読み頃をむかえたのでした。

はい。谷沢永一著「いつ何を読むか」をひらくと、
いつも何も読んでいなかった自分が映し出される。
これほど、読んでもいない本が並ぶのは困惑迷惑。

などと、パラパラひらくと『20歳』の章に、
西堀栄三郎著『ものづくりの道』があって、
それについて谷沢さんは、どう書いていたか。
最後にそこから引用しておきます。

「・・明朗な叡智と人を大切にする温情との結晶である。
 生涯を日本国民の幸福増進を願うのみ、
 画期的な成果を挙げながら
 名声を求めなかった豪傑の語録に盛られた声を聞かないで、
 一体何のための読書であり学問であろうかと訝しむ。」(p47)


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そこのお坊様は。

2022-03-30 | 本棚並べ
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社・2008年)。
この最後の方に、「母の晩年」として痴呆の母親のことが出てきます。
そのはじまりは

「70代の後半には母の痴呆が進んで、
 もう娘達の見分けがつかなくなっていた。」(p176)

とあります。うん。それはそれとして、
「母の晩年」のつぎは「別れ」でした。
年譜には

1983(昭和58)年 まり子と町子、用賀の新築の家へ引越し。
1985(昭和60)年 洋子、彩古書房設立
1987(昭和62)年 母・貞子、死去(享年91歳)

とあります。年譜の三姉妹のなかの、
洋子さんの「別れ」をとりあげた章なのでした。
町子・まり子の2人して新築の家へと引越しする場面です。

「この段階でも、私はまだ引っ越していくことをためらっていた。
 このまま串だんごとして一生を終わっていいのかと
 自問自答する毎日だったのだ。

 生まれたときから末っ子の味噌っかすで、
 機関車に引かれる貨物列車同様、
 姉達の引いたレールの上を走ってきた。
 おもしろこと、楽しいこと、心強いこともたくさんあった。
 
 でも、自分で考えて自分で決めて、自分の足で歩いて
 こその人生ではないだろうか。
 私は自分の自主性のなさに改めて呆れていたのだ。」(p188)

はい。この箇所が何だか身にしみます。
私は、というと、四人兄弟の末っ子でした。
うん。自分では、あまり気にしなかったのですが、
孫ができるような年齢となりますと、
孫たちの、その兄弟のつき合い方といいますか、
自然と譲ったり、しゃしゃり出たりの兄弟関係に
思い至ることがあります。すると何だか、
子供の頃だった自分がどのような立ち位置でいたのか
ボンヤリしていた私に、ダブって浮きあがってくるのでした。

はい。引用をつづけます。

「些細なことでも自分の一存で決められるのは新鮮な驚きだった。
 六十歳に近くなってひとり立ちもおかしいが、これが
 ひとり立ちできるチャンスではないだろうか。
 いろいろ考えているうちに決心が固まってきた。
  ・・・・・・・

 姉達は、おとなしかった妹の突然の独立宣言に驚き、
 なかなか理解しがたく不快だったようだ。
 それでも無理やり押し切って、串だんごの末っ子は、
 遅いひとり立ちを果たしたのだった。
 姉達との間に溝ができたのも、いたし方ないことだった。」(~p190)

このあとが「一人あるき」と題した章になります。
うん。こちらも印象深い箇所があるので最後に引用しておきます。
彩古書房を、洋子さんは立ち上げます。

「・・育児出版は、誰のためでもない
 私自身のために大変勉強になった。
 ある精神分析の先生は、

 『長年この仕事をしていますが、
  結論を言えば人は人を救えないということね。
  マイナス地点にいる人をゼロ地点にまで引き戻すことはできても、
  それから先は人にはできません。
 
  人を救えるのは宗教だと思いますよ。
  人を超えた大きな力が人を救うのです』

 と言われた。この先生に連れられて一度、
 禅宗のお寺にお説法を聞きにいった。
 そこのお坊様は、あぐらをかいて団扇(うちわ)を
 バタバタ使いながら、べらんめえ口調で説法をされる
 型やぶりな方なので面白かった。
  ・・・・・
 『 大体、悟りを開こうの救われようのという量見が欲ですぜ 』
  ・・
 私にも忘れられない言葉として残っている。この頃から
 私は少しずつフロイト先生からもユング先生からも離れていった。」
                  ( p198~199 )









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生来の無口。闘争心ゼロ。

2022-03-29 | 本棚並べ
「サザエさん うちあけ話」に妹の長谷川洋子さんを
とりあげた箇所がありました。

『 生来の無口。・・・
  闘争心ゼロ。一週間に一度はデンシャに乗りはぐれて
  スゴスゴ帰ってきます。人をつきとばして乗れないタチ。
  ため息つきつき、持って出たべんとうを、うちで食べるしまつです。
  かなりすいたエイガ館でも座ってみたことが無いという要領の悪さ。 』
                   ( p23 姉妹社 )

 まり子・洋子。この二人の前にさっそうと
 救命ボートで菊池寛が登場しておりました。ということで、
 『サザエさん うちあけ話』に出てくる菊池寛。

東京へ出てきて、しばらくして、母親から突然
空の預金通帳を見せられます。
長谷川まり子さんは、どうしたか?

「 明日の糧のために、姉は、手っとり早いさし絵の注文とりです。
 サンプルの大きな画帳をかかえて、講談社や小学館、主婦の友など
 かけずり回るのですが、骨おり損のくたびれもうけ。
  ・・・
 その頃私は、ぼつぼつ、マンガで収入はありましたが、
 それとて、たかがしれています。
 長谷川丸は世の荒波のまっただ中に、沈没かとみえました。
  ・・・
 ところが思いがけない方角から、突如、
 救命ボートが現れたのです。知人の紹介で絵を見て下さった。
 菊池寛先生が『ボクのさし絵を描かしてあげよう』
 つるの一声です。『女性の戦い』という連載小説です。・・・ 」
               ( p16~17 姉妹社 )

以上は、まり子さん。
以下には、洋子さん。

母が、妹・洋子の作文をひろい集め、
姉が菊池寛先生に持参することになります。

寛『いま、どこにいってるの?』
姉『ハ、東京女子大でございます』
寛『やめさせなさい、ボクが育ててあげる』

妹は、すぐ退学届けを出して、ご近所の先生宅にかよいだしました。
名もない女学生のために、西鶴『諸国ばなし』の講義をして下さる
・・・・任侠昭和一代男です。 」( p24 姉妹社 )


はい。『生来の無口』の妹が、晩年になって
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社・2008年)
を書いておりました。
洋子さんが書いている同じ場面を引用。

「先生は作文に目を通して、

『女子大なんかに行くのはつまらないよ。
 ボクが育ててあげるから連れて来なさい』

と言われ、時々ご自宅に呼ばれて
古典の解釈をしていただくことになった。

『ボクも大学にはほとんど行かないで図書館で毎日、
 本ばかり読んでいたんだよ。大学で学んだこと 
 なんか何の役にも立たないよ』

『それに社会勉強が大事だ。
 大学なんかやめてボクの社に来なさい』

と言われ、この一言で女子大をやめ、・・・」(p45)

この洋子さんに、肺浸潤の診断が下るのでした。

「・・・ご恩は今も忘れない。
 にもかかわらず私の足はまた、重かった。・・・
 途中で度々、眩暈(めまい)がしたり貧血を起こしたりして
 電車を途中下車するようになった。
 女子大に通っていた頃から微熱を出して母が心配していたが、
 文芸春秋社に通いだしてからも治る様子がないので
 病院に連れて行かれた。診断は『肺浸潤(はいしんじゅん)』
 であった。肺浸潤といえば少しは聞こえはいいが結核の
 兄弟分であることは確かで、当時、死亡率は大変高かった。
 思わず涙がこぼれ落ちた。

 豪放磊落な先生は
 『なに、初期だから一年も静養していれば治るさ。
  何も泣くほどのことじゃないよ』
 と慰めてくださったが、

 母には『十七、八という年頃が悪い。
     大事にしないと進行が速いですからね』
  と脅かされたそうだ。・・・・」      ( p47~48 )

思い浮かぶのは、この洋子さんの本のはじまりでした。

「長女・まり子、次女・町子の姉達二人の間にもう一人、
 美恵子という姉がいたが、数え年七歳で亡くなった。

 可愛い盛りだったので母は嘆き、悲しみのあまり
 鬱状態になったそうだ。・・・・・・・

 その翌年、私が生まれたので、両親は、
 『美恵子の生まれ変わりだ』と大変喜んだらしい。」


さて、「肺浸潤」の箇所は『サザエさん うちあけ話』に
どのように書かれていたかを、最後に引用しておくことに。

「・・まもなく、ろくまくで、ねついてしまいました。
 『洋子は いいこだから 早死にするかもしれない』と、
 私に当てつけがましく、母が口ぐせのようにいっていましたので、
 てっきり死ぬかと思い、毎日泣きのナミダでした。・・・」
                     ( p25~26 姉妹社 )

ちなみに、朝ドラ「マー姉ちゃん」では
フランキー堺が扮する菊池寛で、何だか
その配役の妙で、笑えてしまうのでした。
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手紙でも書いてやってくださいナ。

2022-03-28 | 手紙
長谷川家の三姉妹。マー姉ちゃん長女の長谷川まり子さん。
「サザエさん うちあけ話」の最初の方に登場する箇所は、
福岡出身アズマ マナブさんとの交際が描かれております。

『足しげくかよってきては、姉をそとにつれ出していました。
 出るのはいいが彼女、食べものに目がなく、
 決してえんりょも、しないタチ。

 彼はしだいに
「ウチ(長谷川家)でいっしょに話しましょうや」と、
 すわりこんで、うごこうとしません。
 サイフも、底をついたとみえます。・・・』

『さて、先方の親も上京して、婚約のはこびと、なりましたが、
 まもなく応召。久留米の連隊。そして中支からラブレターが
 とどきます。といっても、軍りつきびしいから、
 内容は、暑中見まいと、さしてかわりません。

 「早く、へんじをあげなさい」と律儀な母は、
 うるさく姉をせっつきます。

 ところが、無類のフデぶしょうで、ため息と共に、
 やたらと びんせんのかき損じの山をきずくだけで
 一日のばしです。

 ついに見かねて、ヒットラー(母親)が代返を決行。
 アズマと母との間に、ラブレターが、せわしく往復し、
 やがて彼は、ヒシと母のレターの束をむねにビルマに
 発って行くこととなります。

 小隊長として出陣が決まりますと、姉はモンペ姿で、
 彼のウチに、とんでゆきました。・・・
 わずか一週間の花よめでした。・・・・・      」

はい。絵と文字とで、読者としては、何気に読むすすみます。
そういえばサザエさんの四コママンガに、こんなのがあった。

①夜コタツで晩酌をしておそい夕食をとる浪平。
 舟さんが座るわきには電気釜?
 襖ごしには、寝ている子供たち

 舟 『 コドモにあえないときはチョット
     てがみでもかいてやってくださいナ 』
 浪平『 ウン 』

② フトンに起きて座っているカツオ
  そばによってくるワカメ。
  ふたりして、てがみをうれしそうに読んでいる。

 ふたり『 おとうさんからだ!! 』

 フトンのわきには、舟さんがすわっている。

③朝ご飯を、お膳でたべている。カツオとワカメ。
 カツオは通学カバンを背中にしょいながら。
 舟さんが白のカッポウ着で立っている。

舟『 コドモたちからも ごへんじだしたら? 』
二人『 ウン 』


④ 文机で、便箋にむかう、お舟さん。
  付近には丸めた便箋がアチコチに。

舟『 みんな、あたしに代筆させるんだョ 』
     吹き出しのなかの「みんな」には
     浪平・カツオ・ワカメの顔が描かれている。

 そばに立って、あきれた顔をしているサザエさん。

   (p118 長谷川町子全集33「よりぬきサザエさん」 )


はい。この四コマの配役を
長谷川家で割りふるならば、

舟さんは、お母さん。
カツオは、長谷川まり子。
ワカメは、長谷川洋子。
サザエは、長谷川町子。

という組み合わせが、どうも
ピッタリとはまる気がします。






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町子さん、何が好き?

2022-03-27 | 柳田国男を読む
BS再放送の朝ドラ「マー姉ちゃん」が先週でおわりました。
最後の方に、愛川欽也扮する田河水泡氏も出てました。

講談社学術文庫に田河水泡著「滑稽の研究」がある。
そのあとがきに

「始めは自分の勉強のための研究だったので、
 急ぐこともなく、気の向いたときの調べごとにして、
 何年も空白に過ごしたこともありました。
 
 資料が溜って研究の形がついてくると、
 これを勉強の報告書として出版したい
 欲が起こってきたのですが、
 ぐずぐずしているうちに
 今年は88歳になりました。
 ここらで本にしておかないと、
 もう先がないというわけで、
 これを米寿を記念する出版としました。
            昭和62年7月    著者   」

この田河水泡氏の本には、『サザエさん』の四コマが、
6作品引用されておりました。

「長谷川町子 思い出記念館」(朝日新聞社)の
最後に載っている長谷川町子年譜をひらいてみる
(カッコ内は、長谷川町子の年齢)。

1987年 (67歳) 「サザエさん旅あるき」を連載。
     6月13日 母貞子、死去。享年91。

1989年 (69歳)
    1月      昭和天皇崩御
    12月    田河水泡、死去。享年90。

1992年 (72歳) 冠動脈硬化症による心不全のため死去。

とありました。
もどって、『滑稽の研究』には、連歌や俳諧も出てきますし、
『サザエさん』の四コマ漫画も、田河水泡の漫画もあります。

うん。たのしく『俳諧』と『漫画』とを結んでみます。
最初に、ちょこっと俳諧について
講談社学術文庫の尾形仂著「歌仙の世界」の最後に
那珂太郎氏が書いており、こんな箇所があります。

「連句が想像力の遊び、連想くらべの遊びだとするなら、
 その鑑賞もまた想像力と『知』による・・・・創造、
 解読くらべの高度の遊びだと言っていいかもしれない。」
                       (p282)

はい。この『想像力の遊び、連想くらべの遊び』なら、
容易に漫画へとつながりそうです。

ここは、食べ物の連想ということで、
思い浮かぶ2箇所を引用。

筑摩書房の、「新編 柳田国男集」第八巻。
その解説は、長谷川四郎氏でした。
その解説の、はじまりから引用。

「プールサイドに夏が来りゃ、と始まるワンサカ節があって、
 この、もうけ(コマーシャル)ソングが私はわりと好きだが、
 その作曲家の小林亜星さんがこのあいだ、
 ぴったしカンカンというテレビ番組に登場して来て、

 この亜星は戦時中、疎開していた学童でしたが、その頃、
 学友たちから、やってくれとよく頼まれたことがありました。
 いったい、なにを頼まれたのでしょうか。

 とクイズを出したが、正解は
 『亜星ちゃん、ごちそうの絵をかいて。』
 と頼まれたと言うのであった。

 そこで亜星少年はバナナ、コロッケなどの
 いろんな食品の画像をえがいて、それに
 それぞれの名称を書きそえて配給し、
 学友たちはみなそれを保管していて
 腹が減ると(腹はいつも減っていた)
 取り出してじっと眺めたという。      」

ここから、長谷川四郎氏は、柳田国男を論じてゆくのでした。
さいごに、『サザエさん うちあけ話』の、この個所を引用。
それは、田河水泡氏の家での出来事を、絵と文とで描く箇所。

「また、先生は弟子どもを全部招いて、
 パーティーを、開かれたことがあります。
 じゅん備のお手伝いをしました。

 『モギ店が出るんだ。町子さん、何が好き?』
 『おすしです』

 先生はタンザクに『おすし』と書かれました。
 色とりどりのタンザクに、
 『ライスカレー』『おでん』『みつ豆』『やき鳥』『お好み焼き』
 みるみる15種類ほどの品名を書いてゆかれます。

 『そんなに出るんですか!!』
 私はおどろき浮かれました。
 先生はニヤニヤして、品名の下に 
 『売り切れ』と、赤えのぐで入れてゆかれるのです。
 半分以上もです。

 そして、私に命じて、その紙を全部カモイにつるされました。
 来た人たちは、にぎやかな色彩に一応ワーッとはずみます。
 ・・・・・・                     」
            (p8~9・姉妹社)






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笈:オイ・オヒ(書籍を入れて負い運ぶ箱)

2022-03-26 | 柳田国男を読む
『芭蕉』という人は、恥ずかしながら、覚えやすく、
教科書の断片ほどの知識以上に知らずにおりました。
それでも、エピソードに気になることがありました。

たとえば、『三冊子』。その師・芭蕉の教えに
『文台引きおろせば即反故(ほご)也』とあり、

これなど、印象には残っておりましたが、
何も分からないままに忘れておりました。
この謎解きのチャンスとなりそうな3冊。

①森田峠 「三冊子を読む」(本阿弥書店)
②尾形仂・大岡信「芭蕉の時代」(朝日新聞社)
③柳田国男「病める俳人への手紙」

はい。ここは、まどろっこしいけど、順序どおりに引用。

① ここに文台(ぶんだい)が出てきます。
  「はじめに」には、こうあります。

「芭蕉は考えるところがあって、
 みずから筆を執って俳論や俳諧の作法書を著述することをしなかった。
 そこで、弟子たちは芭蕉からの聞き書きをしたり、
 芭蕉の考えを忖度(そんたく)したりして蕉門の俳論書を書いた。
 『三冊子』もその種の著述の一つである。公刊を意図せず・・・・」
                      (p2)

それでは、気になる箇所を、原文と口語訳の箇所を並べて引用。
まずは原文から

『師のいはく、学ぶ事はつねに有(あり)。席に望(のぞみ)て・・・
 思ふ事速(すみやか)言出(いひいで)て、ここに至りて迷ふ念なし。

 文台引きおろせば即(すなはち)反故(ほご)也と、
 きびしく示さるる詞(ことば)もあり。
 或時は大木倒すごとし。
 鍔本(つばもと)に切込意得(きりこむこころえ)、
 西瓜(すいくわ)切る如し、
 梨子(なし)くふ口つき。

 三十六句皆やり句などと、
 いろいろにせめられ侍(はべ)るも皆
 功者の私意を思ひやぶらせんとの詞也。 」(p98)

ちなみに、『やり句』には注がありました。

「やり句=遣句と書くことが多い。
 付句が付けにくくて渋滞したときや凝った句が続いたときなどに
 気分を転ずるために軽くあっさりとした句を付ける、その句のこと。」

口語訳
「先生が言われるには、
 『(俳諧上達のために)学ぶことは常日ごろに(いくらでも)ある。
  (日ごろよく学んでおいて)席に臨んだときは、
  文台と自分とのあいだに一本の髪の毛もはさまないように、
  思うことを即座に詠み出して、その場になって
  迷う気持ちがないようにしなければならない。

  (会が終わって)文台から(記録の懐紙を)引き下ろしたなら、
  その記録は紙くずと同様である』と、
   ・・・・・・・・・・・・・・          」(p98)


はい。長い引用になりました。
②は、『笈』がでてきます。
   尾形氏と大岡氏との対談になっております。

尾形】 『おくのほそ道』は芭蕉が最後の旅に発足する
   元禄7年の4月に清書が終ります。推敲に推敲をかさねてきて、
   これで完成と自身認め、それを能書家の素龍に浄書させたものですが、
   芭蕉はこの作品を板本として世に出すことはまるで考えない。

   最後の旅の笈のなかに入れていって、郷里の兄に贈る。
   その兄は俳人でもなんでもない。その芭蕉の心のなかには、
   この作品を生涯の形見、生涯の総決算とするつもりが
   あったのじゃないか。そうだとすれば、この作品にはやはり、
   芭蕉の俳諧なるものの全体がさまざまな形で
   焼きつけられているということになる。     (p148)



①では、『文台から引き下ろしたなら、その記録は紙くずと同様である』
②では、『芭蕉はこの作品を板本として世に出すことはまるで考えない』

はい。この二つの引用をしても、どうしても現代の私から見ると、
ピンとこなくって、うまく咀嚼できない気持ちがぬぐえないのでした。
これを、どう考えたらよいのか? と漠然と思っておりました。


③で、柳田国男は、こう指摘していたのでした。
はい。最後はその箇所を引用しておきます。

「発句には他になほ人も有らうが、
 附合(つけあい)は我が風骨と自讃せられたにも拘わらず、
 或ひは寧(むし)ろ其為に、翁の発表慾は驚くべく微弱でありました。
  ・・・・・・
 それよりも斯ういった芸術の記録を、片端から公開するやうな風習が、
 日本には元来存在しなかったのであります。

 歌仙と呼ばるる三十六句の読歌を、
 普通の形とせられたのは改革でありまして、
 一つには人の根気、一夜の席上で百韻を纏(まと)め上げさせることは、
 概して無理であらうと考へられた結果かと思ひますが、
 又一つには斯うでもすれば、
 ちっとでも人に示しやすい形で、それが永い世の
 記念に残ると思はれた為でありませう。

 茶会の記録とか会席料理の献立とか、
 ああいふ純然たる楽しみの糟(かす)ですらも、

 何かの拍子には不朽を獲得して居ります。
 もともと我々は不朽が嫌ひではなかったのであります。」


はい。3冊から引用しました。

①では、『文台から引き下ろしたなら、その記録は紙くずと同様である』
②では、『芭蕉はこの作品を板本として世に出すことはまるで考えない』
③では、『茶会の記録とか会席料理の献立とか、
     ああいふ純然たる楽しみの糟ですらも、何かの拍子には・・』


こうして並べながら、芭蕉の『軽み』というのを思い描きます。
ただの俳句だけでは理解不能な『軽み』の領分へと導かれます。 



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柳田国男と清談文学。

2022-03-25 | 柳田国男を読む
桑原武夫氏は83歳(1988年4月)で亡くなります。
78~79歳の頃に『柳田さんと私』という話をしております。
そこに
『私はきのうも「木綿以前の事」を読み返して
 いろいろ感動するところがあったのです・・・』

とある。それじゃあと『木綿以前の事』をひらくと
そこでは、柳田さんが、こう書いている。

「七部集は三十何年来の私の愛読書であります。」(自序)

「この議論をあまり詳しくすると、退屈せられる人があっても困るから、
 方面を転じて少しく実例をもって説明する。
 七部集は私がことに愛読しているので、この中からは例が引きやすい。」
                  ( 生活の俳諧 )

はい。桑原武夫の『いろいろ感動する』と
柳田國男の『私の愛読書』と、これだけあれば、私は満腹。
その都度、「木綿以前の事」と「七部集」とを開くことに。


さて、『木綿以前の事』のなかの、「生活の俳諧」に、
年齢のことがでてきておりました。

「・・・この俳諧というものの入用な時勢、境涯年齢のあることである。
 諸君も多分年を取るにつれて、この説に同感せられることが多くなって
 来るだろう。

 歴史にいわゆる世捨人または隠者というものには、
 存外に人世に冷淡な者は少なかった。気分態度からいうと
 今日の浪人、ないしは不平家という者とやや似ている。

 正面から時代と闘うことはもちろん、大きな声では批評もできず、
 風刺も僅かに匿名の落首をもって我慢する人々、
 たいていは中途で挫折して、酒や放埓に身をほうらかす人々が、

 以前にはこんなおかしな片隅に入って、
 文芸によって静かに性情を養って、一生を送っていたのである。
   ・・・・・・・

 今とてもやや形をかえて、この種局外者の
 清談文学はなお要求せられている。

 それがもう元禄の俳諧のように、
 温雅にして同情に充ちたるものでなくなったことは、
 この日本のために一つの大きな不幸であるように私は考えている。」
 

はい。『木綿以前の事』という経験豊かな水先案内人を得て、
いざ。『七部集』をひらく。うん。なんだか道がひらけそう。
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成し遂げずに終ったことを。

2022-03-24 | 柳田国男を読む
柳田国男の俳諧を読みはじめると、芭蕉が登場するのですが、
柳田国男は、芭蕉を終着駅とはみなしていないことがわかります。
その例を二か所。

「 ただ何かといふと芭蕉に返れなどと呼号しながら、
  芭蕉が企てて51歳までに、成し遂げずに終わったことを、
  ちっとも考へて見ようとせぬのは不当であります。   」
                ( 病める俳人への手紙 )

「 俳諧はつまりその単調に堪え切れずして起ったのであるが、
  芭蕉翁に到達しても、実はまだ完全にはこれを打破したとは
  言えない。我々はむしろ非常に愉快なる革新傾向の、中途に
  して停頓している姿を見るのである。           」
                    ( 生活の俳諧 )


はい。単なる芭蕉読みではない、俳諧全体への
柳田国男のまなざしを、感じる箇所なのですが、
それはそうと、文を読んでわからない言葉には
辞書をひくように、ここは芭蕉をひらくことに。

芭蕉は、どの本を読んでよいのか分からないので、
まあいいや、柴田宵曲の『芭蕉』をひらいてみる。

気になったのは、芭蕉は51歳で亡くなっていること。
それを気にかけると、こんな箇所がありました。

「元禄7年(51歳)に3年ぶりで旅に出た芭蕉は、
 東海道の諸所を経て故郷に帰った。それより京に上り、
 近江に入り、7月に入って再び故郷に帰った。
 この時には盆会を営む為であったらしく、
 
   家はみな杖に白髪の墓参り
 
 の句がある。この時芭蕉の老兄が猶健在であった・・・」


「 ・・・・・・・・・・
    菊の香やならには古き佛達
    菊の香やならはいく代の男ぶり
    ぴいと啼尻聲悲しよるの鹿
 
  元禄7年9月10日、亡くなる1月ちょっと前に、
  江戸の杉風に与へた手紙の一節である。
   ・・・・・・・・
  この手紙は大阪に著いた翌日のものらしいが、
  大阪を一歩も踏出さぬうちに病みついて、
  遂に不帰の客となろうとは、夢にも思はなかったであろう。
  奈良の三句は最近の作を記したので、まだ未定稿だから
  人には見せないでもらひたい、といふところに例の
  一句も苟(いやしく)もせぬ芭蕉の性質が見える。・・・」


はい。あとは柴田宵曲さんの『芭蕉』の最後の方から引用

「 芭蕉の作品はその境涯から生まれたものである。
  少くとも俳諧といふ文学を大成してからの芭蕉の面目は、
  その作品によって窺ふことが出来る。

  この点は芭蕉の愛読した杜甫の詩が、その一生を伝へて
  ゐるのと趣を同じうしてゐる。芭蕉の一生は杜甫ほど
  波瀾に富んでゐないけれども、数次の旅行によって
  単調を補ひ得た観がある。

  一見何でもないやうな句にまで、芭蕉その人の影が
  にじみ出てゐる微妙な味に至っては、境涯の産物と
  いふより外に適切な言葉を見出し得ない。

  芭蕉の作品として
  発句以外に多くの分量を占めてゐるものは連句である。
  連句は共同作業であるだけに、芭蕉のみを切離して
  考へることは困難であるが、芭蕉自身も

  『発句は門人にも巧者あり、附合いは老吟の骨』
  と云った位に、力を用ゐたことは云ふまでもない。
  この方面に於ても、芭蕉は貞門、談林の徒の興り知らぬ
  新な世界を開拓した。芭蕉の言葉として門人の伝へて
  ゐるものの中に、連句の附合の問題が多いのを見れば、
  古人の用意が那辺に在ったかを想察し得るだろう。
  発句は芭蕉の世界の全部を窺ふに足るものではない。
   ・・・・・                  」


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俳諧の兄の『笑い』。

2022-03-22 | 柳田国男を読む
敗戦の翌年の
1946年(昭和21)11月に、桑原武夫の『第二芸術』。
1947年(昭和22)12月に、柳田国男の『病める俳人への手紙』。

『病める俳人への手紙』(以下に略して『手紙』)のはじまりは、

『  人を楽しませるものが芸術だといふことを、
   思ひ出さずには居られない時世になりました。

  ・・・時のはずみとは言ひながら、その芸術さへ
   闘諍(とうじょう)の種、恨みと憎しみの目標
   にしなければならぬといふことは、何としても
   忍び難いことであります。          』

そのあとに『芸術を楽しむのに二つの道があって・・』とあり、

『・・・ 時の順序を目安に取るならば、
     作者が自ら楽しむ芸術が兄なのであります。 』

『手紙』には、こんな箇所もありました。

『 翁(芭蕉)にも現代風な野心といふものがあったろうか
  といふあなたの疑問は、疑問にするねうちも無いやうです。

  人には生きて居れば必ず願ひはありますが、
  翁の願ひはそれが成就するならば、俳諧が
  もっと楽しいものになるやうな願ひでありました。 』

うん。ここを引用していると、そういえば柳田国男に
『笑の本願』と題する文があったと、思い浮かびます。

締めくくりなら、ここかなあ。

『 俳諧を復興しようとするならば、
  先づ作者を楽しましめ、次には
  是を傍観する我々に、楽しい同情を
  抱かしめるやうにしなければなりません。

  ・・・すぐれた文学を世に留めることが、
  俳諧の目的であったやうに解するのが、
  病の原(もと)であったかと思ひます・・・  』

はい。『芸術』という言葉がある、この箇所も引用。

『 連歌は始めから、
  仲間以外の者には退屈なものと相場がきまって居りました。
  
  それがどうして又当事者ばかりには、あの様に身を忘れるほど
  楽しかったのかといふことが、寧ろこの芸術の深秘であります。

  ・・・・とにかくに中途に誰かが才能を閃かせて、
  更に一段とをかしいことを言ひ出して、笑はせてくれる
  だろうといふ予期のもとに、一同が句を附け続けて行かう
  とする所に、楽しみがあったのであります。

  ・・・・私どもから見ますれば、
  俳諧に一貫性を欠くといふことの発見ほど、
  わかり切った平凡な発見は他にありません。

  変化が目的で寄り集まった催しであるからには、
  もし統一して居たら寧ろ興ざめであります。

  やり句が絶対に必要であったといふ以上に、
  時々はヘマや附けそこなひのある方が、
  却って全巻の楽しみを深くして居たのです。・・・」


はい。はじめて読むことばかりなので、
つい、引用が長くなりました。これくらいにします。



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柳田国男の三十何年来の愛読書。

2022-03-21 | 柳田国男を読む
依然俳諧はわからないながら、
俳諧を読みたいと思いますが、
ではどれから読めばよいのか。

柳田国男著「木綿以前の事」の自序に、
こうあるのが手がかりになりそうです。

「・・私がこの意外なる知識を掲げて、
 人を新たなる好奇心へ誘い込む計略も、
 白状すればまた俳諧からこれを学びました。

 七部集は三十何年来の私の愛読書であります。
 これを道案内に頼んでこの時代の俳諧の・・・・

 その折々の心覚えを書き留めておいたのを、
 近頃取出して並べてみますと、大部分は
 女性の問題であったことが、
 自分にも興味を感じられます。・・・・

 俳諧に残っているのは小さな人生かも知れませんが、
 とにかく今までは顧られなかったものでありました。
 ・・・・・・
 これからの日本に活きて行こうとする人々に、
 おふるでないものをさし上げたいと、
 私だけは思っているのであります。

           昭和14年4月         」

はい。方角を指し示してくれていました。
柳田国男を読みながら、芭蕉の七部集も。


それはそれとして、俳句と俳諧の相違が気になる。
俳諧を読み始める前に、『俳句と俳諧』について、
今思い浮かぶことを書き留めておくのもありかな。

私が今、思い浮かべるイメージは、
『俳句』というのは、本でいえば題名。
『俳諧』というのは、本でいえが本文。

題名がそのままに俳句だとすならば、その
題名に『芸術』という言葉を使うとすると、
柳田国男と、桑原武夫ならどう工夫するか?

柳田国男の『不幸なる芸術』は、昭和2年に掲載されました。
単行本になったときは、その題の文に他の文がくわわります。

 不幸なる芸術 昭和2年9月
 ウソと子供  昭和3年8月
 ウソと文学との関係 昭和7年4月
 たくらた考  昭和15年1月
 馬鹿考異説  昭和16年2月
 鳴滸の文学  昭和22年4月
 涕泣史談   昭和16年6月

以上の文をまとめて単行本『不幸なる芸術』となっておりました。
『芸術』という言葉と、『不幸なる』という言葉とのドッキング。

次いきます。
桑原武夫は、1946(昭和21)年に『第二芸術』を雑誌発表(11月号)。
こちらは、『芸術』という言葉と、『第二』という言葉のドッキング。

ドッキングといえば、桑原武夫著「文章作法」にこうあります。

「物を書くときに、事実だけ積み重ねたらかけるというのは科学の立場です。
 しかし、文章を書くという作業は、事実を並べるが、事実と事実との間は
 自分の責任でつなぐということです。」(p70)

はい。題名にも、俳句的なドッキング処理がお二人にはありました。
よい機会なので、『文章作法』から、こちらも引用しておきます。

「できるだけ字づかいは平凡にする。平凡だと思わせておいて、
 ピリッとした思想、着眼があるということが現代のすぐれた
 文章ということになるわけです。」(p36)

こう指摘したあとに、桑原さんは、中国の杜甫の作詩の心得を
引用して杜甫の覚悟をつたえるようにして語っておりました。

「自分は詩を書いている。その詩の一つ一つが人を驚かし、
 ハッとさせるようでなければいけないという覚悟です。」(p37)

戦後すぐに書かれたこの『第二芸術』は、
俳句界に波紋をなげかけたといわれています。


第二芸術の本文から引用をすることにします。
こんな箇所がありました。

「そもそも俳句が、付合いの発句であることをやめて
 独立したところに、ジャンルとしての無理があったのであろうが・・」

本の題名だけが独立して、本文がないような無理さ加減?

これは、戦後すぐに掲載された文なので、こんな箇所もあります。

「たとえば戦争中の・・・文学報国会ができたとき、
 俳句部会のみ異常に入会申込みが多く、本部は
 この部会にかぎって入会を強力に制限したことを
 私は思い出す。」


さてっと、ここらあたりが桑原氏が指摘したかった箇所
かもしれないと以下を引用してみます。

「しかも俳諧たる以上、俗化は防がねばならぬ。
 芭蕉は西行、杜甫など古典的伝統的文芸をそれに用いた。  
 ・・・・
 正しく理解しているにせよ、いないにせよ、世人の憧れは
 西洋近代芸術にある。その精神を句に取入れるということは、
 一つの賢明な道であるように見える。

 しかし、それは決して成功しない。
 西行、杜甫は時代をへだてていても、
 芭蕉とひとしく上にのびる花ではなく、
 地に咲く花であったのに対し、

 西洋近代芸術は大地に根はあっても
 理想の空高く花咲こうとする巨樹である。

 ともに美しい花とはいえ、草と木の区別は
 いかんともしがたい。もしもそれが俳句の
 うちに正しく移植されたならば、
 この植木鉢は破れざるを得まい。
 今日まだ破れないでいるのは、さし芽だからである。・・・」


「俳句と俳諧」を私は「題名と本文」の違いとイメージしました。
では、これから、歯が立たなくとも、身近に七部集を置くことに。
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柳田国男の『俳諧』レッスン。

2022-03-20 | 柳田国男を読む
柳田国男著「木綿以前の事」の、目次の中に「生活の俳諧」がある。

「生活の俳諧」の中に『私の講演の主たる目的は』とある。
うん。講演ならばと思って、お気楽に読み出しました。
といっても、内容は豊富。はじまりには、こんな箇所。

「私は熱心においては何人にも譲らざる
 俳諧の研究者、ことに芭蕉翁の、今の言葉でいうファンであるが、
 
 自分ではこれまで俳句なんかやってみようとしたことがない。
 多分できないからだろうと思うが、
 事実また作ってみようともしなかったので、

 一言でいうならば発句(ほっく)はきらいである。
 むしろ発句の極度なる流行が、かえって俳諧の真の味を
 埋没させているのではないかを、疑いかつ憂いつつある一人なのである。」

はい。こんな調子で、この文を引用してゆきます。

「俳句という言葉は、明治以来の新語かと思われる。
 日本では第一高等学校を一高という類の略語が通用しているから、

 『俳諧の連歌の発句』を略して俳句というのも気が利いている。

 しかしそのためにわが芭蕉翁の生涯を捧げた俳諧が、一段と
 不可解なものになろうとしていることだけは争われない。 」


こうして、柳田国男は、俳句と俳諧の違いを味わってゆきます。

「たとえば俳諧の主題としては、俗事俗情に重きを置くことが、
 初期以来の暗黙の約束であるが、これがかなり忠実に守られ
 ていたお蔭に、単なる民衆生活の描写としても、彼の文芸は
 なお我々を感謝せしめるのである。・・・

 しからばどの点が芭蕉の出色であったかと申せば、
 一言でいうと俳諧をその本然の用途、笑いに対する
 我々の要望に応ずるようにしたことであろうと思う。 」

こうして、『笑い』ということで、俳句と俳諧との違いを
明瞭に説いて聞かせます。

「発句からまず人を笑わせようとするような
 連俳というものも一つだってないのである。

 これはいかなる突拍子もない話し家でも、高座に上った
 早々からおかしいことをいう者がないと同じで、

 むしろ最初はさりげなく、やがて高調して来る滑稽を、
 予想せしめただけでよいのであった。

 だから発句ばかりを引離して見れば、いずれも生真面目で
 格別笑いたくもないのが当り前で・・・・

 今日のいわゆる俳句は、それだけでは
 俳諧でないということになるのである。   」


このあとに、『七部集』をとりあげてゆきます。
『七部集は私がことに愛読しているので‥』とあります。
このあとに、『笑い』を扱っているのですが

『この議論をあまり詳しくすると、退屈せられる人があっても困るから』
とあるので、私なりに端折ります。

俳諧師の学問という箇所がありました。
その旅行法が印象深い。

「俳諧師の学問というものは・・・・

 旅行は近世人もよくしているけれども、
 この人たちの旅行法はよほど行脚(あんぎゃ)僧に近く、
 日限も旅程もいたって悠長で、かつかなりの困苦に堪え、
 素朴な生活に親しんでいたらしいのである。

 そういう類似の経験をもつ者だけが、相交わって
 互に心理を理解し共鳴した上に、時として
 詩の興味は昂揚し、感覚が尖鋭化していたのである。」

あとは、具体的な俳諧の引用をしてゆくのですが、
ここに、一か所だけ引用しておくことに

「  泥打ちかはす早乙女のざれ   芭蕉

 田植の日は娘たちまでが昂奮して、よく路を行く人に
 泥苗などを投げる悪戯(いたずら)をした。それを
 御祝儀とも苗祝とも名づけて、慣例にしていた土地も
 遠国にはあるが、芭門の人たちの熟知した京江戸中間
 の田舎には、近世はもうあまり聞かなかったのである。
 これもこの一句によって元禄にはあったことがわかって来る。」


うん。最後に引用しておきたいのは、
柳田国男氏の、その心構えでした。

「自分などの俳諧の味わい方は、
 何か面白そうでまだはっきりと趣旨の呑み込めぬ句は、
 折々思い出して口ずさんでいるのである。

 そうしているうちにはふいと思い当ることがある。
 それがまた一方には文化史のいろいろの方面を考察する際に、
 役に立つことも何度かある・・・・」

はい。あとは柳田国男が芭蕉の俳諧から
『ふいと思い当る』ことの考察を拾って
私なりに読んでいけばよいのだなと思う。



 
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まず何よりも。

2022-03-19 | 柳田国男を読む
桑原武夫の本を本棚からとりだし、2つの文を読む。

①「『遠野物語』から」
②「柳田さんと私」

①は、1937年7月「文学界」に掲載されたものでした。
そこで、桑原さんは、指摘しております。

「『遠野物語』はまず何よりも、一個の優れた文学書である。
しかるに一人の芥川竜之介をのぞき、わが国の文学者にして、
この物語の美を認めたもののないのは私の不思議とするところであった。」

はい。今だったら、気にせずに通り過ぎる言葉かもしれないのですが、
これが書かれたのは昭和12年。当時はどなたも取り上げる方がいない
そんな時代なのでした。ましてや、どなたも文学とは思わなかった。

桑原武夫著「文章作法」に、こんな箇所があります。

「 あとになったらふつうに見えることが、
  書かれたそのときにはドキッとさす。
  これがいい文章、いい評論というものの特色です。・・・」(p64)

この①で、桑原武夫は、柳田国男の文を引用しながら、
折口博士を登場させております。その箇所も引用。

「折口博士は、東北には神道のはいることがおそく、
 ために中部地方などでは当然神社の行なうべきことを
 おのおのの家が行なった。

 『オシラサマ』『獅子踊』などみなそれであるといわれたが、
 じじつ遠野には神社ははなはだ少ない。仏寺もまた寥々たること、
 『東北にては人口2千にして1寺あり、近畿にては2百にて1寺なり』
 (山崎直方)というとおりである。

 神仏両道とも十分に原始的なものを押えきってはいなかったのであろう。
 経学は元文の末(吉宗将軍のころ)に初めてこの地に伝わったといわれるが
 
 物語の世界には儒教的要素など全く見当らない。
 歴史家は時代を区別して、鎌倉の仏教とか、江戸の儒教とかいうが、
 それは中央のことであって、僻地では明治のつい向うまで
 太古が来ていたのではないかと思われたりする。
 
 そして文書のみにたよったものだけが歴史なのではない。
  ・・・・・
 これらの作品を読んで、その豊かな感銘のうちに、
 柳田さんの方法を感得しえないのは情けないことだと思う」

うん。まだ続くのですが、ここまでにして②へ。
②は、桑原武夫著「日本文化の活性化」(岩波書店・1988年)
に掲載されております。この本のあとがきは河野健二氏。桑原さんは、
この年(昭和63年)4月10日に亡くなったことが記されておりました。

さて②の内容なのですが、直接の対面したことが語られております。

「先生のところへはときどき伺っていたのですが、
 民俗学の話を習いにいったというのではありません。
 優れた日本人がそこにいるという感じ、
 先生のことをいろいろ観察もしておったわけです。」(p8)

「先生は人を試験したり、冷やかしたり、かなり意地の悪い
 ところがありましたが、これは考えようによっては一種の
 愛情の表現だったのかもわからないのです。
 私などはしょっちゅう無学を冷やかされました。・・・」

こうして、きちょうな柳田国男の姿を語っております。
それはそれとして、最後は、この個所を引用。

「柳田さんは83歳になって『故郷七十年』という一種の自叙伝を
 口述筆記でお書きになっております。・・・・・

 私は・・あの本を読んでみたのですが、あの文章は
 曖昧模糊としてちっともわかりません。・・・・
 先生の文章はどうしてああいうふうなのか。

 あいまいという言葉もあたらないのかもしれない。
 『車懸(くるまがか)りの戦法』とでもいうのでしょうか、
 こういうふうに回っていって、最後は

 『きみ、どう思う?』
 『東京都がはだしで歩いてはいけないという
  禁令を出したのはいつか知ってるか?』

 『知りません』

 『明治三十・・たぶん四年。
  そういうこともご存じなしに』
というようなことになる。

読んでいると、私などはもう相当年のいった人間ですから、
そこから自分の幼いときのことがいろいろ思い浮かびます。

友だちのことをツレと言うとか、お茶の子さいさいとか、
女の人が好きな男の人にお酒を差すことを思い差しというとか、
このごろは消えてしまったが越中や信州の山登りで、
物を持つのをボッカと呼ぶとか、

そういう私どもが幼いときに使っていた言葉がつづってあって、
そこから一つの世界が出てくるのですけれども、しかし、
それではどういうことを相手に訴えようとなさっているのか、
それが必ずしも全般的にはわからないところがあるのです。」(p16)

このあとに、桑原さんはつづけます。

「 私はきのうも『木綿以前の事』を読み返して
  いろいろ感動するところがあったのですが・・・ 」


はい。つぎに読む本を、指示された気がしました。
 
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二兎を追う者は。

2022-03-18 | 本棚並べ
筑摩書房の現代日本文学大系20『柳田國男集』。
そのはじまりは、『病める俳人への手紙』(昭和22年12月)でした。

その1ページ目の下段に『桑原君で無くとも』と、姓が出てくる。
うん。これは桑原武夫なのだろうなあ。と思う。

ここから、桑原武夫へ舵をきると、いけません。
ことわざの『二兎追う者は、一兎をも得ず』がチラつく。

はい。私の今までの読書は、いつもこんな感じで、
どっちつかずで『一兎も得ず』の読書をしておりました。
はい。やっとそのことに気づく、そんな年齢になります。

待てよ。情報化社会というのは、二兎も三兎も追うことは
日常茶飯事となっているのかもしれないと改めて思います。
その情報化社会とやらの影に、踊らされていた自分がいる。

さいわい、本棚をみると『二度あることは三度ある』で
ここで挫折したという『一兎も得ず』の形跡をたどれる。
『一兎も得ず』が並ぶ未読本は、ダメさ加減の記念碑。
本棚には、気分屋の姿が、一目瞭然。

と、そんなことを思いながら、本棚から
桑原武夫著「文章作法」(潮出版社・昭和55年)をとりだしてくる。
はい。今回はこの本です。
この本は、受講者15人に制限して、毎回作文を提出してもらって
添削、講評した際の、その記録なのでした。
うん。この『添削』『講評』がおもしろい。
この機会にあらためて、パラパラ拾い読み。

まずは、受講生にこう語っております。

「文章を書くということはひとりごと、つぶやき、
 あるいは叫びではない。それは独語ではなく、
 相手のある言葉、すなわち対話です。
  ・・・・
 つまり、メッセージであって、思うこと、
 知っていること、考えたことを伝えることです。」(p20)

「一つの文章を書くということはたいへん大事なことであって、
 それがもし書かれなかったならば、この世に見過ごされ、
 気づかれずにおわったことが生じる、というふうでなければならない。
  ・・・・・
 そしてその文章を書いた人にとっては、書かない前よりか、
 書いたあとのほうが真実に近づいているようなもの、
 それがいい文章だというわけです。」(p29)

はい。これが導入部に語られておりまして。
講評しながら細部へとおりてゆきます。

ゴチャゴチャと我流で書きなぐる場合、
何度でも取り出してひらきたくなる本。

さてっと、ちゃんと柳田国男へ、もどれるかどうか?


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それにもかかわらず。

2022-03-17 | 詩歌
岩波文庫の『寺田寅彦随筆集』全5巻(小宮豊隆編)の
第1巻のはじまりは「どんぐり」という6ページの文。

うん。思いうかんだので読んでみました。暮れに
咳をして血を吐いた妻のことが語られていきます。
それをこわがって、下女が暇乞いをして去ります。

次の住込みのお手伝いを、急にたのみます。その箇所

「なんでもよいからと・・連れてきてもらったのが
美代という女であった。仕合せとこれが気立てのやさしい
正直もので、もっとも少しぼんやりしていて、

たぬきは人に化けるものだというような事を信じていたが、
とにかく忠実に病人の看護もし、しかられても腹も立てず、
そして時にしくじりもやった。

手水鉢(ちょうずばち)を座敷のまん中で取り落として
洪水を起こしたり、火燵(こたつ)のお下がりを入れて
寝て蒲団から畳まで径一尺ほど焼け穴をこしらえた事もあった。

それにもかかわらず余は今に至るまで
この美代に対する感謝の念は薄らがぬ。  」


はい。このお手伝いさんのことが
気になりました。もうすこし続けます。

「病人の容体はよいとも悪いともつかぬうちに
 年は容赦なく暮れてしまう。新年を迎える用意も
 しなければならぬが、何を買ってどうするものやらわからぬ。

 それでも美代が病人のさしずを聞いて
 それに自分の意見を交ぜて一日忙しそうに働いていた。
 大晦日の夜の12時過ぎ、障子のあんまりひどく破れている
 のに気がついて、外套の頭巾をひっかぶり、皿一枚をさげて
 森川町へ5厘の糊を買いに行ったりした。
 美代はこの夜3時過ぎまで結びこんにゃくをこしらえていた。

 世間はめでたいお正月になって、暖かい天気が続く。
 病人も少しずつよくなる。・・・・・・

 そして時々心細い愚痴っぽい事を言っては
 余と美代を困らせる。妻はそのころ身重になっていたので、
 この5月には初産という女の大難をひかえている。
 ・・・・・・・・                」

そして、2月でしょうか。夫婦で植物園へと出かける帰り道
どんぐりを妻が拾い集めるのでした。
その回想のあとでした。

「どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。・・・
 ことしの2月、あけて六つになる忘れ形見のみつ坊をつれて、
 この植物園へ遊びに来て、昔ながらのどんぐりを拾わせた。
 ・・・・みつ坊は非常におもしろがった。・・・・」
           ( 明治38年4月、ホトトギス )

この第1巻の『後語』を、小宮豊隆氏が書いておりました。

「寅彦の書くものが『枕草子』や『徒然草』の伝統を承け、
 俳諧の精神を続いで、日本の随筆文学の中でユニイクな
 位置を占めるものである事は、周知の事実である。
  ・・・・・・・・・・・

 寅彦は科学も芸術もともに人生の記録であり予言で
 あるところに、その本質を同じくすると言っている。

 自分で体験した事を整理して記録し、そこから出て来る
 理法を発見して将来に備えようとするのが、
 科学であり芸術であるとすれば・・・・・

 何らかの点で予言の名に値しないものもまた
 芸術ではなかったはずである。・・・・・   」

うん。『後語』からの引用はここまで。


『どんぐりを拾って喜んだ妻も』を読むと、
きまって、私に思い浮かぶ詩がありました。

      みかん    三瓶繁男

 みかんが いっぱいに実っているのを見て
 妻が感動して言った

    わー すごい みかんって
    こんなふうに なってるんだ

 見慣れている僕は
 こんなことで感動できる妻に感動した
 その妻もすでになく十三回忌が過ぎた
 ときどき このことを 思い出し
 心の中で ふっと笑う

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柳田国男の、おふるでないもの。

2022-03-16 | 柳田国男を読む
うん。うん。いつかは読もうと思っていた柳田国男。
さて、それならこのブログではじめましょう。
そう、思ったわけです。
柳田国男の関連本は何冊か本棚に鎮座します。
ページもめくらないきれいな本が並んだまま。
せめて、前書きでも。後書きでも。解説でも。
ひらいてゆこうという試みを、このブログで。

柳田国男という大海の波打ち際に、
うちあげられる、漂着物を拾って、
それをブログという標本箱に展示。

これならば、私にもできそうです。
この大海原にも海水浴場があって、
そこには、俳諧海水浴場との表示。
折よくば、俳諧の砂浜で甲羅干し。
という好機が訪れてくれる楽しみ。

はじまりは『木綿以前の事』の自序。
そこの最後には昭和14年4月とある。

さてっと、自序のなかにも俳諧が拾えました。

『七部集は30何年来の私の愛読書であります。』

ちなみに、この『木綿以前の事』には、
さまざまな文章からなっておりました。
こうあります。

「・・関係ある文章を取添えて、一冊の本にすることにしたのであります。
たいていは人に語りまたは何かの集まりに話をしたものの手控えのままな
ので、聴手の種類や年齢に応じて、表現の形が少しずつかわり、
文章も大分不揃いであります。・・・・」

この自序には、柳田国男氏の家族のことが出てきます。

「・・実は私には女の子が4人あり、孫も4人あって4人とも女です。
彼らとともに、またはその立場から、次の時代を考えてみなければならぬ
必要が、前にもあり今もしばしばあります。」

はい。自序の最後を柳田さんは、こう締めくくります。

「自分自分の疑惑から出発する研究を、
すこしも手前勝手とは考えておらぬのみか、

むしろ手前には何の用もないことを、人だけに説いて
聴かせようとする職業を軽蔑しているのであります。

現在の日本に自国の学問がなければならぬということを、
私などはこういう風に解しております。

俳諧に残っているのは小さな人生かも知れませんが、
とにかく今までは顧みられないものでありました。

事は過去に属しつつも、依然として新しい知識であります。

そうしてまた現在の疑惑の種子であります。
これからの日本に活きて行こうとする人々に、
おふるでないものをさし上げたいと、
私だけは思っているのであります。

      昭和14年4月             」


うん。そういえば、柳田国男氏の家族構成で思い浮かんだのは、
長谷川町子さんでした。母親と三人姉妹。鞠子・町子・洋子。
そして、洋子さんには娘さんが二人。

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