長谷川町子さんは、マンガばっかりじゃなかった。
『サザエさんうちあけ話』で、絵に添えられ語られている、
その文章を読めば、そんなことは一目瞭然のはずなのにね。
ということで、おそまきながら『長谷川町子 思い出記念館』
(長谷川町子全集別巻)を昨日になって取りよせたのでした。
その帯には『作者が語る、笑いの美学と舞台裏』とあります。その
脇に小さく『エッセイ、対談、インタビューから秘蔵アルバムまで』
とあります(ちなみに、文庫にもなっており古本ならどちらも安い)。
とりあえず、パラパラとひらく。秘蔵アルバムには当然
長谷川家の家族集合写真がある。お父さんとお母さんと
子供たちと写っている。それだけでもう満腹なのですが
ここでは、もうすこし踏み込んで、
なにしろ、はじめて開いた一冊なので、
はじめて思い浮かべることがあります。
私の場合、そうした泡のような思いは、
すぐに忘れて気にもとめずに消えます。
はい。その泡が大切なこともあります。
ということで、今回最初に、
思い浮かぶ事をたどります。
『サザエさん うちあけ話』のはじまり①は、
「生い立ち」からでした。ふつう文章というのは、
平仮名と、漢字の交じり文なのに、漢字の箇所を
絵におきかえて、文を読む辻褄の帳尻が子供にも、
楽しめるように配慮されておりました。
つぎに、②③④と絵日記よろしくページの半分が絵で
後の半分が文です( この文の端正なこころよさ )。
この②③④にいろいろ登場する方がいます。
ここでは、私が気になった3人。
『のらくろ』漫画の、田河水泡先生。菊池寛。草柳大蔵。
はい。この3人ならば、三題噺ができそうな気がします。
まずは、田河水泡先生。内弟子に入った町子さんが、
ホームシック。一年で、お暇をする場面があります。
「お別れのときに先生は
『漫画は大人にならなければ描けません。
町子さんはただ、大人になるのをじっと待っていればよい』
と言われました。」( p12「長谷川町子思い出記念館」 )
ふ~ん。『大人』ですか。
年齢ばかり大人びて、子供から見れば爺になっても、
ちっとも大人にならない自分を恥ずかしく顧みます。
それはそうと、次は『大人』のバトンを、菊池寛さんへと渡します。
菊池寛『小説家たらんとする青年に與ふ』という短文がありました。
はい。短いので読んでみました。そのはじまりは
「僕は先づ、『25歳未満の者、小説を書くべからず』という
規則を拵(こしら)へたい。まったく17、18乃至20歳で、
小説を書いたって、しゃうがないと思ふ。
とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、
そんなものよりも、ある程度、生活を知るということと、
ある程度に、人生に対する考へ、いわゆる人生観といふ
べきものを、きちんと持つといふことが必要である。
・・・・それが出来るまでは、
小説を書いたって、ただの遊戯に過ぎないと思ふ。だから、
20歳前後の青年が、小説を持ってきて、『見てくれ』と
云ふものがあっても、実際、挨拶のしゃうがないのだ。
で、とにかく、人生といふものに対しての
自分自身の考へを持つようになれば、
それが小説を書く準備としては第一であって、
それより以上、注意することはない。
小説を実際に書くなどといふことは、
ずっと末の末だと思ふ。
実際、小説を書く練習といふことには、
人生といふものに対して、これをどんな風に見るかといふこと、
――つまり、人生を見る眼を、段々にはっきりさせてゆく、
それが一番大切なのである。」
はい。こんなことをコンコンと語ってくださる方は、
今頃どこにおられるのかも分からないでしょうから、
ここは、長くなりますがもうすこし引用してみます。
私みたいな爺にも、何だか身に染みる文なのでした。
「われわれが小説を書くにしても、頭の中で、
材料を考へてゐるのに3,4ケ月もかかり、いざ
書くとなると2日3日で出来上がってしまふが、
それと同じく、小説を書く修業も、
色々なことを考へたり、あるいは世の中を見たりすることに
7,8年もかかって、いざ紙に向って書くのは、
一番最後の半年か一年でいいと思ふ。・・・・・」
はい。まだまだつづき、深まるのですが、ここまでにします。
うん。ちなみに私は小説を読まないけれども、
これはエッセイなので読んだのでした。うん。まったく、
菊池寛の小説は、読んだことないのを白状しておきます。
さて、菊池寛のつぎは、草柳大蔵です。たまたま
『サザエさん うちあけ話』にちょいと名前が出てきます。
それででしょうか。思い浮かんだことがありました。
だいぶ古いのですが、週刊誌の切り抜きがあります(「週刊朝日」‘92.4.24)。
そこに、草柳大蔵が『扇谷正造氏を悼む』という追悼文を載せていました。
79歳で心筋梗塞で亡くなった、元「週刊朝日」の編集長扇谷正造氏でした。
そこで、扇谷さんが草柳さんへポツリと言った。
その言葉が紹介されております。
「『・・キミ、平均的読者像を
≪ 旧制高女プラス生活経験10年 ≫においたんだ。
企画も文章もグラビアも全部だよ』
と扇谷さんはポツリと言った。
週刊誌はもともとストリート・ジャーナルである。それを
扇谷さんは見事にホーム・ジャーナルに転換させた。
主婦がガマグチの口金にあてる手に扇谷さんの目線があった。」
はい。とりあえず3人の文を引用し、『大人』の三題噺はここまで。
余談になりますが、泡のように私に思い浮かんだことがありました。
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」に、
扇谷さんが長谷川家へ訪ねてこられる場面があります。
「当時、朝日新聞の名編集長として有名だった
扇谷正造氏が訪ねてこられたとき、
『町子さん、電送になると原稿の細かい線が潰れてしまうのよね。
もう少し余裕を持って原稿もらえないかな』
と言われた。・・・・・」(p70・単行本)
はい。長谷川町子さんと、扇谷正造さんは
気楽に、話せる間柄だったようですね。
扇谷さんは、長谷川町子さんの年譜を、
職業柄よく存じていたかもしれません。
1936年16歳 山脇高等女学校卒業と同時に、
田河水泡の内弟子となる。11カ月後に自宅に戻る。
( そして、ピタリ10年後でした。 )
1946年26歳 夕刊フクニチに『サザエさん』の連載をはじめる。
はい。扇谷さんは、長谷川家へゆきながら、そして、
朝日新聞の四コマ漫画のことを、念頭におきながら、
週刊朝日編集長になる際に、サザエさんの読者層を想定して
いたのじゃないか。こういうのが、私の泡のような推測です。
『平均的読者像を≪ 旧制高女 + 生活経験10年 ≫においたんだ。』
こう草柳さんにつぶやいた扇谷さんの姿が町子さんと共に思い浮かびます。