和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『流言蜚語』の賞味期限。

2024-09-16 | 先達たち
清水幾太郎著「流言蜚語」に、こんな箇所がありました。

「だが報道や流言蜚語の生命は大抵或る時間の間しか存続しない。
 報道と流言蜚語とが対立して生きるのは、一定の期間だけのことである。
 その時間を過ぎてから事実との比較が行はれたにしても、そして
 その結果報道の虚偽が明らかになったとしても、・・・・・
  ・・・・ 一定の時間が経ってからでは、
 比較を試みようとする熱情が何人の胸にも湧いて来ないであらう。 」
                     (清水幾太郎著作集2・p46)


うん。「安房震災誌」に、この賞味期限内の判断への言及があります。

「 要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、
  形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、
  地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。
  郡長が細心の用意は、実に此處にあったのである。 」(p222~223)

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
安房郡長のような指導者がいなかった地域の話が載っておりましたので
引用しておくことに。

  『裸体のまま』    飯野村 竹内伊之吉   p856~857

「・・・ちょうど昼食をしやうとした我家では激しい動揺に打驚され
 『 それっ 』と裸体のまま外に飛び出した。飛び出して表をふらふら
 してゐる中に主家が崩壊した、パッと上る砂煙揺り返して来る余震、
 瓦の落ちる音、人の叫び・・・・
 七転八起、近所の竹藪に飛び込んでほっとした、
 箸を手にしてゐる人、裸体の人、子をおぶった女、
 土まみれの子供、竹藪は不安な人々で満ちた、道は裂け山は崩れる・・・

 不安な夜は来たが余震はなお続いた、北方の空は真紅に染り、帝都は
 火を発した、夕食をし様とする人もなく不安気な夜は沈々と更けていった。
 蚊群に攻められつつ余震におびやかされながら落着かぬ心にて
 まどろむのだった。明るくなれば2日の太陽が上った、
 何時もの赫々たる光は無く只無気味に真赤だ、誰もの顔に
 生色はない魂の抜けた人の様にうつろな眼をして天を眺め沈黙して居る。

 午前10時頃余震は少なくなったと言ふものの
 未だ人々の胸からは不安は去らず、徒に心配するのみ
 新聞紙の燃え残りノートの燃え残り等飛来し
 そぞろ帝都の惨状を思はせる、

 不逞の徒が某方面へ百人上陸した、
 某方面へ五十人此方へ向って来るそうだ、
 流言は飛んで蜚語を生み、
 村中は蜂の巣をつついた様其の騒ぎは一通りでは無い、
 刀を持出す人、竹槍を造る人等、

 女子や子供は地震よりも恐れ戦いた。
 一人の正しき指揮者も無く村は全く無警察状態だった。

 思ひ起せば十年前当時の模様が走馬燈の様に私の頭に行き来する、
 その事も後で聞けば全然流言だったそうだ、
 此の事では如何に多くの村人が心配した事だらう。
 思へば馬鹿馬鹿しくも悲しい事である。・・・・    」
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じゅうぶんに案の練って

2024-07-04 | 先達たち
昨日の水曜日は、久方ぶりに東京へ。
高速バス移動です。東京駅からは歩くのですが、
もう、汗だくだく。まあ、汗かきなのです。

バス移動では、ほとんど寝ています。
けれど、たまに起きているときのことを思って
文庫本を本棚からとりだして持ちました。
大村はま「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)。
はい。行きにすこし開きました。

大村はまさんは、戦後に中学校の国語の先生となります。
戦後すぐですから、教科書も満足にありません。

「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものを
  たくさんつくりました。約百ほどつくって、
  それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから百とおりの教材ができたわけです。

  翌日それを持って教室へでました。そして
  子どもを一人ずつつかまえては、
『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』
  と、一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう。
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強を始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・・・

  そして、子どもというものは、
『 与えられた教材が自分に合っていて、
  それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。
  それがない時には子どもは『 犬ころ 』
  みたいになることがわかりました。・・・・

  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。 」

さてっと、そのあとの方に、こんな箇所がありました。

「 じゅうぶんに案の練ってあるいい話には、不思議とよく聞いてくれます。
  ちょっと材料がユニークでないとか、構成が悪いと自分で思う話のときには、
  ろこつに子どもたちは反応して、ガサガサするとか、聞いていないとか、
  おしゃべりするとか、何かをやります。 」( ~p78 )


ああ、そうかと思いました。
私は7年前にお仲間の防災士の方に、思うことを書いたことがありました。
それらをまとめた「『安房震災誌』を読む」(平成29年4月)を数人の方に、
配布したことがあります。それはそれきりそのままになっていたのですが、
昨年のあるアンケートで

『  関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
    地域の受災状況をくわしく知りたかった。  』

というコメントをいただきました。そのコメントに惹かれて
あらためて『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』を
読み直したら、あら不思議いろいろなことがつながってゆきます。

たとえば、今年の1月1日に起きた能登半島地震の新聞記事をみていると、
百年前の関東大震災と、そして百年後の能登半島地震がつながってくる。
百年前の首都発の流言蜚語が、現代マスコミの饒舌さとつながってくる。

今年の8月28日(水曜日)に1年に1時間だけの講座をひらく手筈なのですが、
さてっと、構成が悪くて台無しになってしまうかどうか、
ユニークさを気取って、鼻持ちならない講座になるのか、
まあ、『 いい話 』は、はなから、期待はできなくとも、
『 じゅうぶんに案の練ってある 』話ができますように、
と今から心してゆくことにします。

 とまあ、そんなことをバスで思いながら居眠りしてました。
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庭いじり。美術館。

2023-12-17 | 先達たち
「足立美術館 日本庭園と近代美術」(山陰中央新報社・昭和55年)。
足立全康著「庭園日本一 足立美術館をくつった男」(日本経済新聞・2007年)

はい。「庭園日本一・・」から引用。

「美術館を造ることを決意したとき、
 日本画の美に最も似つかわしいものとして、日本人の
 美意識の深いところで関わる日本庭園をイメージに描いた。

 小学校六年のとき、近くの雲樹寺で見た庭園にいたく感動した
 ことがあったが、その時の印象が心の片隅に生き続けていたのかもしれない。

 雲樹寺は臨済宗の古刹で・・・枯山水の禅宗庭園で、春になると
 雲仙ツツジが境内一帯を埋め尽くすところからツツジ寺とも呼ばれ、
 地元の人たちに親しまれている。

 庭づくりを思い立ったのも、こうした故郷の美しい風景が
 あればこそと思うが、私の父がとにかく庭いじりが好きだったことが、
 あるいは直接の原因かもしれない。何かにつけて意見が衝突した父と
 私であったが、年をとるにつれて血はいよいよ争えないものとみえる。

 美術館の庭園は、大阪芸術大学の中根金作教授に設計いただいたもので、
 築山林泉式庭園と枯山水式庭園から成っている。・・・・

 昭和45年秋に開館して以来、毎年のように絶えずどこかを
 いじくりまわしてきたので、庭の風景はしょっちゅう変わり、
 設計時の面影はあまり残っていない。・・・・
 
 私の場合、収蔵品を喜んでいただくのはもちろん嬉しいが、
 庭を褒められると殊のほか嬉しい。・・・・

 庭からほんのちょっと目を上げると、そこには戦国時代の昔、
 毛利、尼子の両雄が戦い、毛利氏が戦勝を記念して名付けた
 という勝山が連なっている。その背後には、この地方で一番
 高い京羅木山(きょうらぎさん)がヌッと頂を突き出している。
 四季の変化をいち早く知らせてくれる、見張り山でもある。・・・」
                      ( p189~190 )


うん。以前に親しいご夫婦の家に食事に招かれたことがありました。
その際に、夫婦して足立美術館へと行った思い出を奥さんが語って
何だかわからないながら、気になっておりました。
それから古本で、その関連本が安く出た時に読まない癖して買って
置いてありました。今頃、ひょんなことで、この本をひらけました。

もちろん(笑)。私は行ったこともありません。
庭園と収蔵品とのカタログをひらくだけです。

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つつましく決意に満ちた

2023-06-28 | 先達たち
注文してあった新刊が今日届いている。
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬社新書)。

「あとがき」から、この箇所を引用してはじめます。

「・・私は、その後大腸がんを患い手術。
 それから4年後には今度は膵臓がんになってしまい、手術。

 ようやく健康を取り戻しつつあった時、それまでの自分の
 日本語学関連の研究をまとめておく必要を感じ・・刊行しました。

 刊行し終わっても、まだ寿命が残っているようでした。

 せっかく生かしていただいているのだから、
 ずっと気になっていた日本語の危機についてきちんと考えてみよう。
 ・・・     」(p280)

ちなみに、山口仲美さんは1943年生まれ。
こうして、新刊を手にできるありがたさ。

え~い。ここはいっきに、この新書の
本文最後の箇所を引用しておくことに。

「 最後に、私の心に残り続けるジョン・グーレさんの詩の
  一部を引用して結びにしたいと思います。

    死にゆく言葉はそっと崩れ落ちる
    あの村でもこの村でも
    静かに倒れていく――叫ぶこともなく
    泣きわめくこともない
    さらりと、ふいにいなくなる
    鋭い目を持たなければ
    その静かな破滅に気づかない
    そしてつつましく、決意に満ちた心がなければ
    それを止めることはできない

  鋭い目を持たなければ、世界言語から見ると、
  一地方語にすぎない日本語に静かに忍び寄る破滅に気づかないのです。
  それを未然に防ぐのは、つつましく決意に満ちた日本人の心なのです。」

                 ( p277~278 )



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こういう自由は捨てた方がよい。

2023-06-12 | 先達たち
論文を読むにはどうすればいいんだろうなあ?
などと、ガラにもなく思っていたら、そういえばと、
清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書・1959年)が思い浮かぶ。

はい。その第一章は『 短文から始めよう 』でした。
うん。第一章だけでも読みかえしてみる。
「文章の修業」なんて言葉が登場します。

「 自由な感想を自由な長さで書くという方法は、
  あまり文章の修業には役立たない。

  むしろ、初めは、こういう自由は捨てた方がよい。

  要するに、文章の修業は、
  書物という相手のある短文から始めた方がよい。
  というのが私の考えである。

  自由な感想ではなく、書物という相手があるということ、
  それから、自由な長さではなく、5枚とか、10枚とかいう
  程度の短文であるということ、この2つが大切である。  」(p9)


ちなみに、岩波新書といえば、
清水幾太郎著「論文の書き方」が1959年で、その10年後
梅棹忠夫著「知的生産の技術」が1969年に出版されていました。

うん。10年後の『技術』と関係のありそうな箇所が気になります。

「ブローダー・クリスティアンセンの『散文入門』の本文は、
 ゲーテの言葉で始まっている。

 『 すべての芸術に先立って手仕事がなければならない。 』

 この言葉は文章の修業にも当て嵌まる、
 とブローダー・クリスティアンセンは考える。

 芸術は他人に教えることが出来ないであろう。
 しかし、手仕事のルールは、他人に教えることが出来るし、
 誰でも学ぶことが出来る。

 ・・・手仕事のルールは教えることも、学ぶことも出来るであろう。
 そして、こういう手仕事なら、学校教育に含ませることが可能でもあり、
 必要でもあろう。私はそう欲の深いことを言っているつもりはないのだ。」
                        ( p91 )

清水幾太郎が『手仕事のルール』と語った10年後に
梅棹忠夫が、『知的生産の技術』を岩波新書で出したのでした。

うん。『ルール』と『技術』。
10年前に、『知的生産の技術』への道筋が語られていたわけです。

ということで、すっかり忘れていた清水幾太郎著「論文の書き方」を
初読のようにして読みかえす頃合いになった気がしてきました。





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『 私はその日 』

2023-02-26 | 先達たち
竹中郁の詩集「動物磁気」(昭和23年7月尾崎書房刊行)の
詩「開聞岳」のなかに、「焼野原の町の」という言葉がありました。

それでは、東京での焼野原は、どうだったのか?
大村はま先生に語っていただきます。

「 昭和22年中学が創設されました・・・

  私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
  校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。

  ご存じのとおり大戦災地でしたから、一面の焼野原で、
  朝、学校に行くにも、私は秋葉原という駅で教頭先生をお待ちしていて、
  いっしょに行きました。朝早くからでも女性一人で歩くのはむずかしか
  たのです。

  見渡す限りの焼野原、ところどころに、防空壕のあとがあります。
  まだ、そこに人の住んでいる壕もありましたから、足もとがパッと
  あいて人が出てくる。どこから人が出てくるかわからないのです。

  そこを通ってゆくと、焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校が
  あります。その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校と
  いうのは出発しました。

  あのころ、雨が降って傘をさして授業をしているところや、
  大きな算盤(そろばん)がどうしたわけか焼け残っていて、
  その大きな算盤に腰掛けて、子どもが勉強している・・・・

  みんな私の教室でした。
  床があるわけでなく、ガラス戸があるわけでなし。
  本があるわけでなし、ノートがあるわけでない、
  紙はなし、鉛筆はなし・・そこへ赴任したわけです。

  一年生は四クラスで、一クラス50人でしたが、
 『 教室がないから二クラス100人いっしょにやってください 』
  と、こういうわけです。その100人の子どもは
  中学校の開校まで3月から一か月以上野放しになっていた子どもたちです。

  ウワンウワンと騒いでいて・・・・
  私は・・しばらく教室の隅に立ちつくしていました。・・

  ワァワァ騒いでいる中を、少しずつ動いて何か少し教えたりして、
  なんとか授業のかっこうをつけていました、
  とても一斉授業なんてできませんから。    」

こうして、大村はまは、西尾実先生のお宅へ伺います。

「 西尾先生は高笑いなさって、
  『 なかなかいいかっこうじゃないか、
    経験20年というベテランが、教室で立ち往生なんて・・ 』
  とおっしゃり、
  『 そういう時にこそ人間というもはほんものになるのだから、
    病気になったり、死んじゃったら困るけれども・・・    』
  と取り合ってくださいません。 ・・・・   」


うん。ここまでも長く引用しちゃいましたが、このあとでした。
大村はま先生はこのあとに『 私はその日 』と続けるのです。


「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものをたくさんつくりました。
  約100ほどつくって、それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから100とおりの教材ができたわけです。
  翌日それを持って教室へ出ました。

  そして、子どもを一人ずつつかまえては、
  『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』と、
  一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう、
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強し始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・

  そして、子どもというものは、
  『 与えられた教材が自分に合っていて、
    それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。それがない時には
  子どもは『犬ころ』みたいになることがわかりました。

  私は、みんながしいーんとなって床の上でじっとうずくまったり、
  窓わくの所へよりかかったり、壁の所へへばりついて書いたり、

  いろんなかっこうで勉強をしているのを見ながら、
  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。・・・・

  私はそれ以後いかなる場合にも、子どもたちに騒がれることがあっても、
  子どもを責める気持ちにはどうしてもなれなくなりました。
  ・・・・・

  今でもときどきどうかした拍子に、子どもがよくやらないことがあります。
  もちろん、中学生なんてキカン坊盛りですから、私は今も
  『 静かにしなさい 』と言うことがあります。
  ありますけれども・・・慙愧(ざんき)にたえぬ思いなのです。

  能力がなくてこの子たちを静かにする案も持てなかったし、
  対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で
  『 静かにしなさい 』という文句を言うのだということを、
  私はかたく胸に体しています。・・・・・・          」


(  p72~77 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫  )


  
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とても豊かな感じがする。

2022-12-30 | 先達たち
雑誌で、印象深い対談があったりします。
うん。雑誌は、すぐに忘れてしまいがち。

季刊『本とコンピュータ』1999年冬号。
ここに、鶴見俊輔と多田道太郎の対談
『 カードシステム事始 廃墟の共同研究 』が載ってる。

対談のはじまりには、二人して夜道を歩いている写真。
鶴見さんが笑っています。多田さんが少し後ろから、
まあまあというように鶴見さんの二の腕を押さえています。

対談は、1949年(昭和24年)の桑原武夫さんが中心となった、
共同研究が語られてゆきます。

ちゃんと、カードシステムについてふれながらの対談なのでした。
うん。二箇所引用。

「 皆の論文が集まってきたときに、桑原さんが
 
  『 いまとても豊かな感じがする 』

  と言ったのを覚えてるね。そういうものが
  共同研究の気分なんですよ。カードを共有する
  という発想もそこから生まれたんです。   」( p202 )


それから、対談の最後も引用しなくちゃ。

「 それとね、私たちの共同研究には、
  コーヒー一杯で何時間も雑談できるような
  自由な感覚がありました。

  桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
  一日中でも話している。

  アイデアが飛び交っていって、
  その場でアイデアが伸びてくるんだよ。

  ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

  梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
  原稿をもらうときに、京大前の進々堂という
  コーヒー屋で雑談するんです。

  原稿料なんてわずかなものです。私は

  『 おもしろい、おもしろい 』

  って聞いてるから、それだけが彼の報酬なんだよ。
  何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)

  雑談の中でアイデアが飛び交い、
  互いにやり取りすることで、その
  アイデアが伸びていったんです。・・   」 ( p207 )


はい。2023年になって、

  『 おもしろい、おもしろい 』

  『 いまとても豊かな感じがする 』

なんてセリフが飛び出し、伸びてゆきますように。
  

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98歳の冬。

2022-10-18 | 先達たち
苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)
はい。いつもはパラパラ読みの私ですが最後まで読みました。

最後には詩について語られている場面がありました。
大村はまの98歳の冬が無事過ぎたころのこと。

文部科学省の特殊教育関係の雑誌のインタビューを受け

「後日、インタビューをまとめた記事のゲラが届いた。
 それを読んだ大村は、どうも放っておけない違和感を感じたらしい。

 趣旨は正しく書かれていた。どこに誤りはない。しかし、
 文章の調子に、もっと引き締まった、厳しさ、切実さが欲しい
 と思った。・・・・

 それは記事全体の調子の問題であって、一つ二つ、
 注文を出したからといって変わることではなかった。
 また、そこまでまとめてくださった方に、そんなところまで
 要求できるはずもなく、その仕事を無にするようなこともしたくなかった。

 しかし、違和感はどうしても拭いさることができない。・・・

 丸一日、大村はじっと沈黙を守って、どうしたものかと考えていたらしい。                                      そして、突然、明るいさっぱりとした声で電話がかかってきた。
『インタビューの記事の最後に、詩みたいなものをね、
 載せてもらうことにしたの。・・・・・』
 
 それがこの『優劣のかなたに』なのだ。    
 ・・・・決定稿にまでもっていきたい。
 話し相手になってほしいから、ちょっと来てちょうだい、
 という約束の日の、その二日前に死がやってきた。  p255~257


この文の前に詩「優劣のかなたに」が、p251~255に引用されておりました。
詩の最後には注としてこうありました。
「この詩は、著者が亡くなるまで推敲を続けたので、遺されたメモ、
 下書き、校正稿をもとに、関係者らによって一部を補完した。」


うん。その詩から、一部分を私は引用したくなりました。

   今は、できるできないを
   気にしすぎて、
   持っているものが
   出し切れていないのではないか。
   授かっているものが
   生かし切れていないのではないか。     p254



はい。読めてよかった。


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『ええ、まだあります』と

2022-06-14 | 先達たち
徒然草を読むのに、シロウトの私には文庫一冊あればよし。
島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)。

島内裕子さんが、徒然草へ旅のツアーコンダクター。
くだけて言うなら、修学旅行のバスガイド(古い)。

はい。どんなガイドさんなのか?
ガイドさんの自己紹介が聞きたい。

はい。そんな我儘を聞き届けてくれました。
島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」
(ミネルヴァ書房・2005年)日本評伝選の一冊。
その本の「あとがき」での自己紹介。

「多くの人がそうであるように、
 徒然草との最初の出会いは、中学の終わりか高校の始め
 頃の国語の授業だった。

 その時、この作品の清新さに、まず心打たれた。
 これが六百年以上も前の時代に書かれたものとは、思えなかった。
  ・・・・
 それ以前の『若草物語』や『赤毛のアン』や『秘密の花園』の
 世界から、いつのまにか読書の好みも変化していた。

 教科書に出てくる徒然草は、簡潔で多彩ないくつもの短い章段からなり、
 『パンセ』や『侏儒の言葉』のような断章形式が何とも魅力的だった。

 『この作品を、一生研究してゆきたい』と、
  十代の半ばで思い定めたのは、今振り返れば不思議な気もする。

 けれども幸いこの気持ちは揺らぐことなく、こうして兼好の評伝を
 書き終えるまでの長い歳月を、いつも徒然草は私の傍らにあった。 」


はい。この後も肝心な場面がありますので、
もう1ページ分を引用してしまうことに。

「だから、十代の終わり頃から読み始めた小林秀雄経由で、
 モーツァルトやランボオに出会い、大学生になってから
 美術展や音楽会に出掛けて、ヴァトーやショパンを好きになっても、
 それらのすべてが、時代も場所も越えて徒然草の世界と響き合い、
 徒然草はますますみずみずしい姿で絶え間なく生成してゆく、
 一つの生命体であった。」

うん。この次には、大学院の口頭試問がひかえておりました。
そこも引用しなくちゃ終わりにできません(笑)。

「ところが、いざ専門的な研究に取り組み始めると、
 徒然草と兼好がかなり固定化した捉え方をされていることに、
 違和感を感じずにはいられなかった。・・・・・・・

 それならどのような観点と方法で徒然草の研究をすればよいのか。
 
 忘れることができないのは、大学院の口頭試問で、秋山虔先生が、
 『研究者として、ずっとやってゆく決心はありますか』とお聞きになり、
 
 それを承ける形で今は亡き三好行雄先生が、
 『徒然草って、まだ研究することがあるの』と質問なさったことだ。
 
 一瞬、『不合格かしら』という不安が心をよぎり、
 返答に窮していた時、

 『ええ、まだあります』と久保田淳先生が一言おっしゃって、
 急にその場の雰囲気が和らいだ。

 ほんの一、二分の出来事だったが、この時の先生方の、
 厳しくも暖かい励ましが、ずっと研究の支えとなっている。 」
 
                   ( p299~300 )

はい。こうして格別の案内人を得たのですから、
ここでは旅をガイドさんと一緒に楽しまなきゃ。


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福汲む、水汲む、宝汲む。

2022-01-24 | 先達たち
「岡野弘彦インタビュー集」(本阿弥書店・2020年)
というのが検索していたらあった。読みたくなり注文。
インタビューの聞き手は小島ゆかり。それが昨日届く。
「インタビューを終えて」で、小島さんは、
『一年間にわたってお話をうかがう機会を得られ・・』(p389)
『申し訳ないほど心をひらいておつきあいくださった』(p388)
とあります。
私が読んだのは、第一回「私の生い立ち・少年編」(p5~35)。
はい。これだけで、私は満腹。
はい。満腹の腹ごなしにブログに書きこみます。
小見出し「神主の家の子どもの役目」(p20)は
こうはじまっておりました。

「小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
白木の桶に若水を汲みに行くんです。

『今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水をくむかな』

と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
上流に向かって水を汲むわけです。

うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。

残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
それを五つのときからさせられました。

ちょうどその時間、夜中の一時くらいですが、
上の神社の森のお社から、村の青年たちを手伝わせて
元日のお祭りをしている父親の祝詞(のりと)の声が
川音に交じって聞こえてくるんです。」

場所はどこかというと

「私のところは三重県の伊勢の西の端です。
ちょっと北へ行くと伊賀、ちょっと西へ行くと大和です。
三つの国のちょうど境になるわけです。
そういうところへ荒い心霊を祭って、
国境の外から来る悪霊を追っ払う守り神にしたんだと思うのです。
伊賀や大和からの参拝者も多かった。・・・」(p24)

小学校の五年生とあります。

「僕は小学校の五年のときにすでに大峰山へ修行に行かされたんです。
 ・・・・ワラジで五十何㌔、一日歩きました。
朝の三時ごろ、洞川(どろがわ)の龍泉寺という寺の冷たい泉に浸かって、
御詠歌をうたう。それが行の始まりで、それらか行場行場を勤めて行く。

でも小学校の五年生なんて、わりあいに筋力がついているし、
身は軽いですから、大人とけっこう一緒に歩けた。
『東の覗き、西の覗き』もそう怖いと思わなかった。

中学五年のときは一人で吉野へ行って、
やさしそうな、兵庫県から来た先達に
『ご指導を願います』と言って、連れていってもらって、
二遍、行をしました。・・・」(p28~29)

はい。第一話の30ページを読むだけでも、
もう私は胸も腹も一杯になるようで、もうここまでにします。

そういえば、方丈記の鴨長明が思い浮かびます。鴨長明は
『久寿2年(1155)ごろ、京都、下鴨神社の神職の家に生まれ』
ということで、本棚からとりだすのは

ちくま学芸文庫の『方丈記』(浅見和彦校訂・訳)。
その年譜を見ると、
 1155(久寿2)年 長明生まれるか。・・・
 1172(承安2)年 父長継、この頃没か。

うん。浅見和彦氏の解説から引用することに。

「長明が生い育った下鴨神社は平安京の北東辺に位置する。
賀茂川と高野川の合流地点にあり、古くから平安京の≪水≫を
司祭する由緒ある神社であった。・・・・・

長明の父は鴨長継とった。長継は若くして有能な人物であったらしく、
早いころから下鴨神社の摂社(付属社)の河合神社の禰宜(ねぎ)を、
そして下鴨神社の最高責任者である正禰宜惣官という地位に昇って
いった人であった。・・・この優秀な父親が若くして突然、他界して
しまったのである。享年33、4歳。・・・」(p241~243)

浅見和彦氏は、この文庫の解説を
方丈記のはじまりの言葉から、はじめております。
そして次にこうありました。

「古来、古典文学の冒頭文には名文が多いが、
 『方丈記』の書き出しほどの美しさは他にない。
 美しさということでいえば、随一の美しさを
 持っているといえるかもしれない。

 この世にとどまるものはない。
 川の流れに浮かぶ『うたかた(泡)』がそうであるし、
 人間も住居も、すべていつかは消え果てるものである
 というのである。いつまでもとどまり続ける
 常住のものは何一つとしてない。
 すべてのものは無常であるのだという認識は、
 日本の中世に広く深く浸透していた。・・・」(p235)

はい。ここまで。それでは浅見氏の解説のはじまりを
引用しながら終わることに。

  ゆく河のながれは絶えずして、
  しかも、もとの水にあらず。
  よどみに浮かぶうたかたは、
  かつ消え、かつむすびて、
  久しくとどまりたるためしなし。


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私は田舎者だから。

2021-12-27 | 先達たち
古本に「私の中の日本人・続」(新潮社・1977年)があった。
単行本200円なので買っておきました。

このなかに、河上徹太郎による「福原麟太郎」と題する
5頁ほどの文が入っています。うん。私はこの箇所だけを
30~40年ほど前に読んだことがありました。
「私の中の日本人 福原麟太郎」と題して、
何かのエッセイ集にはいっていたものでした。

(ちなみに、この特集は、『波』に各界の方々にこのテーマで、
  書いてもらったものを本にまとめられたものでした。)

この短文の中に今でも印象に残っている箇所がありました。
先生を語っているのですが、こんな箇所なのでした。

「芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、
先生を作るのはお弟子である。
今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。

さういへば吉田松陰が良師であったのは、
彼の資質もさることながら、久坂や高杉、
殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつた
からだともいへよう。」
 (「私の中の日本人・福原麟太郎」)

はい。この箇所は、分かったようで、分からない。
でも、印象にだけは残っていて、気になっておりました。
なぜ、こんなことを思い出したかというと、
うん。これが手掛かりになるかもしれない、
そう思える言葉と、最近であったのでした。

それは、モーリス・パンゲの本が
ちくま学芸文庫にはいった際に、
解説を書いた平川祐弘氏の文にありました。
ちょっと、その箇所を引用してみます。

「モーリス・パンゲさんは1929年フランスの中部モンリュソンで生れた。
エコール・ノルマン・シュペリュールの出身で1958年に来日した。

東京大学で教えたほか東京日仏学院長も勤めた。
その種のキャリヤーの人の中には早く本国の大学教授の
ポストに就きたい、という焦りにかられる人も見かけるが、
パンゲさんにはそうした人にありがちな日本蔑視や知的倨傲
がおよそ無かった。『私は田舎者だから』などと言った。

1968年に帰国し一旦パリ大学のフランス文学の専任講師となったが、
東大駒場の教養学科フランス分科の英才に教えた時の方が面白かった、
と感じた。それで1979年、人も羨むパリ大学の職を捨ててまた戻って来た。
 ・・・・・・・・

パンゲさんは日本文をほとんど読まない。ところがそのパンゲさんの
日本に関する英文や仏文の資料の取捨選択、そしてテクストの読みが
抜群に鮮やかなのである。歴史的事実のチェックも正確だが、
心理的特質の解釈はさらに秀逸なのである。

長年、日本の学生に接したことにより日本的オイディプスの
正体がはっきり浮かびあがって見えたのだろう。
本書を読んで、
日本文が読めずとも日本人の心理を正確に把握することは、
ラフカディオ・ハーンやパンゲさんのように
日本の学生と親しく接した人には可能なのだ、
ということを私は遅蒔きながら悟った。・・・・」

(p664 モーリス・パンゲ『自死の日本史』ちくま学芸文庫 )

うん。
「先生を作るのはお弟子である。
今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。」

という、河上徹太郎氏の言葉が、今頃になって、
その理解の糸口が掴めてきた気がするのでした。
そうか、これを『遅蒔きながら・』というのだ。
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『あなたもそう思いますか』

2021-12-16 | 先達たち
Hanada2022年1月号。平川祐弘氏の自伝連載のなかに、
粕谷一希座談「書物への愛」(藤原書店・2011年)について
触れられている。なんでも、小谷野敦が名誉毀損で
粕谷・平川の座談に関連して、告訴をしたというのでした。

「敗訴でも宣伝になると思っているのだろうか。
事実、彼(小谷野)の敗訴に終わったが、それでも
勝訴したとブログの上で一旦は言い張った。

浮き沈みの激しい男であった。
野球選手の生涯打率三割維持は難しい、著作家も
学者も第一線でいつまでも筆陣を張れる人は稀である。

だが世間には小谷野に味方する若者もいた。
ネット上で、・・・平川の本を出すのはけしからん、
『平川は神道だ』『天皇崇拝だ』などとレッテルを貼る。
・・・」(P349)


はい。このあと『書物への愛』を紹介しながら、
「今度読み直し実のある対談だったと思った。
公平を期したい方は、そちらもお読み願いたい。」

はい。さっそく古本で注文し、それが昨日届く。
8名との座談が掲載されており、平川氏との対談は
65ページもあり、よみ甲斐があり、楽しめました。

いろいろなことが語られており、
こんど受賞された正論賞での受賞挨拶の内容を
もっと具体的に話されているような重量感があります。
はい。読めてよかった。

ここでは、神道についてが、対談のところどころに
出てくるので、ひろってみます。
佐伯彰一氏のことを語る箇所にもありました。

平川】 ・・佐伯さんは独自の広い世界も持っています。
海軍に行き、日米戦争の体験もある。神道の家なので
神道のこともわかっている。それから物凄い博識。
文章は、ある意味、饒舌なところもあるけれど、
それもそれで非常な魅力を持っている。(P147)

平川】 ・・・・佐伯彰一先生も、東大定年直前に、
神道のことを言い出したのですが、それまでは、
神道などタブーで、口になどしてはいけな風潮でした。

このあとに竹山道雄氏への言及がつづきます。

平川】 ・・・昭和57(1982)年のことだったと思いますが、
一緒に京都へ旅をした。竹山道雄氏は、『京都の一級品 東山遍歴』
という本を出しているくらい、京都に詳しかったのですが、
最後に下鴨神社に行って、
『やはり神社に来るとほっとしますね』と言うと、
『あなたもそう思いますか、私もそうなんです』といわれた。
要する日本人の底辺の感性は、こういう神道的なもので
できているような気がします。・・・」(P154~155)


平川】それで僕がアメリカでハーンを取り上げようとした時、
ロナルド・モースという柳田国男の研究者から、
『マリウス・ジャンセンは、宣教師の家庭の出だから、
神道や民俗学などというと、必ず嫌われるぞ』と予言されました。
・・・ハーンを研究してから本当に仲が悪くなった。・・・・

ハーンは、『宣教師というのは、神道を一番理解できない人間だ』と
書いているが、ハーンは多くの宣教師の家では禁書扱いだったらしい。

・・・明治以来、来日した西洋人学者にも、宣教師系統と、
モース、フェノロサ、ハーンといった非宣教師系統がいる。
それで、やはりいい仕事をしてるのは、どう見ても非宣教師系統です。
キリスト教以外の文明の理解という点で違うわけですね。(P175)

うん。イタリアでの体験も語っておられました。

平川】 差別というより、日本人の遠慮が大きいと思う。・・・
 
・・・イタリアに講演をしに行ったら、キリスト教が
日本に広まったのは善だと決めてかかっているのが大勢いて、
とりわけイエズス会の連中はたちが悪く、儒教の天とキリスト教の天は
同じだと言って宣教した。中村正直も、それならいいと思って改宗した
わけですが、『だからこそ、本当のことがわかった時、中村正直は、
最後は神道で葬式をしたんだ』と私が講演の最後でイタリア語で言った
とたんにシーンとなってしまった。『冷い風が講堂を吹き抜けた』と
在イタリアの中山悦子さんがその時の感じを伝えてくれました。

ところが活字になると、その最後の『神道で葬式をした』という
箇所が消してあったので、校正の際、
『これは大事ですから、復活してくれ』と要求したんです。

すると、ある日本人の学者から『イタリアのイエズス会のところで、
そんなことまで言っていいんですか』と言われました。
そういう遠慮があるんですね。

しかし、学問というのは、そういうところを
はっきり言うことこそ大事でしょう。・・・」(P186~188)


はい。なんだか、外国でも日本人の遠慮の陰にかくれて
神道は、活字にもならないような状況でいたようです。
いまも、そうなのかなあ。


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外山滋比古『失敗談』

2021-11-25 | 先達たち
ネットの古本を注文するのですが、
この頃は、新刊同様の本を手にすることが多くなりました。

外山滋比古著「失敗談」(東京書籍・2013年)が、
きれいで帯付き200円。はい。外山氏の著作は好きなので、
手元になくって古本で安ければつい買います。

はい。私には好きな落語家の噺を聞いているような、
そんな気分を味わわせてくださる方なのでした。

ああ、これも以前聞いたことがあるなあ。
そんなことを思いながら、パラパラとめくる楽しみ。
同じ話を聞いているのに、またしても頷いてしまう。
はい。今回もありました。そんな箇所を引用します。

「つくづくよく忘れる。
書いたこともすぐ忘れる。
5分前に書いたことも忘れ、
思いつくと、新しい考えのように思ってまた書く。
くりかえすつもりはなくてくりかえしている。

そういう原稿を集めて、本にして出版したことがある。
それを意地の悪い匿名書評家がおもしろがってとり上げて、
ケチョンケチョンにやられた。

酔っ払いがクダをまいているみたい、
くだらぬことをくりかえして、読んでいると、
ハラが立つという痛快な書評である。・・・」

はい。それについて、すこし続けたあとに、
こうありました。

「記憶のいいひとは、年をとると、
頭がいっぱいになって、はたらかなくなる。
すくなくとも新しいことを考える力を失ってしまう。
頭のいい学者は40歳ぐらいで学者バカになることが多いのは、
忘却力が弱いからである。

あまり勉強しないで、しかも、どんどん忘れて頭の掃除をすれば、
40や50で半ボケになったりする心配はない。年をとるにつれて、
もの忘れが多くなるのは、自然が頭の老化を防いでくれている
ようなものだと考えると、人生はいつも新鮮である。」

はい。まったく勉強をしなかった私などは
『あまり勉強しないで』などと語られると、
これをきっかけにして、つい笑いだします。
まだ、つづきますので引用をつづけます。

「忘れっぽい人間は、若いときには、
まわりからバカにされるが、年をとると、
地力を発揮しはじめる。若いときには、
よけいな知識がじゃまして見えなかったことが、
見えてくる。新しい知識なんかいらない。

自分の頭で考えを生みだしたい。
ひとのこしらえたものを借りたり盗んで、
わがもの顔をするのは知的欺瞞ではないか、
とふそぶくことができる。」


はい。そうだそうだと『うそぶく』私がおります。
えい。最後まで引用しちゃいましょう。

「ひとのまねをするのは、記憶がよすぎるのである。
忘れっぽければ、まねるものがないから安心である。
労せずして、オリジナルになれる。

そう考えるのが忘却型人間である。
忘却型人間の強味は、年も忘れることである。

何歳になっても、青年のように溌剌としていることができる。
ひょっとすると、年も忘れ、死ぬことも忘れかねない。」
(p153~156)

うん。寄席など入ることはない私ですが。
ついつい笑って、この箇所を読んだことも忘れてしまう私がいて、
きっとまた、新鮮な気分で読み直すだろうなあと思う読後感あり。

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力微なりといえども我々の学問は。

2021-11-21 | 先達たち
「臼井吉見を編集長とする思想文芸誌『展望』が筑摩書房から
創刊されたのは、終戦の年もおしつまった12月25日である。」
(p80・「編集者三十年」野原一夫著)

その創刊号には、三木清の絶筆に、永井荷風に、柳田国男が
目次にならんでおりました。
永井荷風の『踊子』については、こうありました。

「承諾を得たのは20年2月で、そのなかの一篇が『踊子』だった。
発表されるあてもない小説の執筆に、この老文豪はいのちを燃やし
ていたのである。しかし、戦時下の日本でこの・・原稿が日の目を
みるはずはなかった。・・・それがかえって『展望』のためには
さいわいした。・・・・

臼井が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは10月12日である。
・・尊敬の念を抱いていたこの民俗学の泰斗に、できれば原稿を書いて
もらいたいと臼井は考えていた。」(P85~86)

その『展望』という雑誌とは異なるのですが、
柳田国男著『先祖の話』という本があります。
ちなみに、柳田国男略年譜をみると

1945年(昭和20)70歳 戦死していった若人のために
『先祖の話』を執筆(翌年刊)

とあります。その『先祖の話』には自序があり、
自序の最後の日付はというと、昭和20年10月22日。

その自序のはじまりは、こうでした。

「ことし昭和20年の4月上旬に筆を起し、5月の終りまでに
これだけのものを書いてみたが、印刷の方にいろいろの支障があって、
今頃ようやく世の中へは出て行くことになった。

もちろん始めから戦後の読者を予期し、平和になってからの
利用を心掛けていたのではあるが、まさかこれほどまでに
社会の実情が、改まってしまおうとは思わなかった。

  ・・・・・・・・・・・・

強いて現実に眼をおおい、ないしは最初からこれを見くびってかかり、
ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今までひとつとして
成功していないことも、また我々は体験しているのである。
 ・・・・・
力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て
大いに働くべきで、空しき咏嘆をもってこの貴重なる過渡期を、
見送っていることはできないのである。

先祖の話というような平易な読み本が・・・・・
まず多数少壮の読書子の、今まで世の習いに引かれて
知識が一方に偏し、ついぞこういう題目に触れなかった人たちに、
新たなる興味が持たせたいのである。

・・・・事実の記述を目的としたこの一冊の書物が、
時々まわりくどくまたは理窟っぽくなっているのは、
必ずしも文章の拙なためばかりではない。
一つにはそれを平易に説き尽すことができるまでに、
安全な証拠がまだ出揃っておらぬ結果である。

このたびの超非常時局によって、国民の生活は
底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、
悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。
・・・・・」
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ペロッとした一枚の紙切れ。

2021-11-21 | 先達たち
「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三)日経プレミアシリーズ。
はい。新書でした。そこで
小山さんが、アメリカやイギリスの図書館の様子を指摘しておりました。

小山】・・・アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
大事な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。

 少しカットして、その次に

梅棹】 ・・・ほんとにおどろくべき話やけれど、わたしが
始めるまで、自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。
発表したものが全部どこかへいってしまうんやな。

もう古い話やけど、わたしが還暦のときに自分の著作目録という
ものをこしらえて、それを桑原武夫先生のところへ持っていった。
そしたら桑原さんは、『こんなもんつくって、大迷惑だ』って
言いながら『場外大ホームランや』って。・・・・・・・・・

・・・桑原先生は
『みんな真似しよう思っても、もういまさらでけへんやろ』って。
ほんとに信じられない話だけど、みな自分が書いたものを残して
なかったわけです。

自分でやらなければ、だれも残してくれない。
わたしは中学校のときのものから残っている。
ガリ版やけど、中学校のときのもあります。・・・・(p80~82)


ここに『ガリ版』が登場しておりました。

川喜田二郎著作集別巻には
「ある小集団の発生――梅棹忠夫君との交友から」(p64~67)
がありました。この別巻にはまたこんな箇所があるのでした。

「1964年に愚著『パーティー学』で、
次いである仲間の集会で暫定的に『紙キレ法』と称して説明したら、
同席の友人梅棹忠夫さんが、私の用意したガリ版刷り資料の
一隅に自筆した『KJ法』という一語を指さし、『これにせよ』と
すすめてくれたのである。それに端を発し、
翌年1月にこの名を正式に定めた次第だった。・・・」(p252)

はい。ガリ版についてはこれまでにして、最後に、
川喜田二郎氏による梅棹忠夫について、引用しておくことに。

「梅棹君と私とは、お互いに対照的なほどちがっていた。
中学時代の登山では、彼はチームワークがうまく、私はへただった。
・・・梅棹君は文学青年で私は哲学青年だった。
彼は万事スッキリ好みなのに反し、私や後輩の川村俊蔵君などは
万事ゴツゴツと野暮ったかった。
彼は気分の高揚するときと落ちこむときとの波の上下が極端だった。
・・・・・・・・

しかしその彼が、国立民族学博物館の仕事にかかり出してからは、
高揚したレベルのまま安定しているようである。
それに、時おり話しあっていると、ずいぶん人間的成長が感じられる。

やはり人間は誰しも、自分が真剣に取り組んでいる仕事を通じて
成長するものだと思わずにはいられない。・・・」(別巻・p66)
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