清水幾太郎著「流言蜚語」に、こんな箇所がありました。
「だが報道や流言蜚語の生命は大抵或る時間の間しか存続しない。
報道と流言蜚語とが対立して生きるのは、一定の期間だけのことである。
その時間を過ぎてから事実との比較が行はれたにしても、そして
その結果報道の虚偽が明らかになったとしても、・・・・・
・・・・ 一定の時間が経ってからでは、
比較を試みようとする熱情が何人の胸にも湧いて来ないであらう。 」
(清水幾太郎著作集2・p46)
うん。「安房震災誌」に、この賞味期限内の判断への言及があります。
「 要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、
形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、
地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。
郡長が細心の用意は、実に此處にあったのである。 」(p222~223)
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
安房郡長のような指導者がいなかった地域の話が載っておりましたので
引用しておくことに。
『裸体のまま』 飯野村 竹内伊之吉 p856~857
「・・・ちょうど昼食をしやうとした我家では激しい動揺に打驚され
『 それっ 』と裸体のまま外に飛び出した。飛び出して表をふらふら
してゐる中に主家が崩壊した、パッと上る砂煙揺り返して来る余震、
瓦の落ちる音、人の叫び・・・・
七転八起、近所の竹藪に飛び込んでほっとした、
箸を手にしてゐる人、裸体の人、子をおぶった女、
土まみれの子供、竹藪は不安な人々で満ちた、道は裂け山は崩れる・・・
不安な夜は来たが余震はなお続いた、北方の空は真紅に染り、帝都は
火を発した、夕食をし様とする人もなく不安気な夜は沈々と更けていった。
蚊群に攻められつつ余震におびやかされながら落着かぬ心にて
まどろむのだった。明るくなれば2日の太陽が上った、
何時もの赫々たる光は無く只無気味に真赤だ、誰もの顔に
生色はない魂の抜けた人の様にうつろな眼をして天を眺め沈黙して居る。
午前10時頃余震は少なくなったと言ふものの
未だ人々の胸からは不安は去らず、徒に心配するのみ
新聞紙の燃え残りノートの燃え残り等飛来し
そぞろ帝都の惨状を思はせる、
不逞の徒が某方面へ百人上陸した、
某方面へ五十人此方へ向って来るそうだ、
流言は飛んで蜚語を生み、
村中は蜂の巣をつついた様其の騒ぎは一通りでは無い、
刀を持出す人、竹槍を造る人等、
女子や子供は地震よりも恐れ戦いた。
一人の正しき指揮者も無く村は全く無警察状態だった。
思ひ起せば十年前当時の模様が走馬燈の様に私の頭に行き来する、
その事も後で聞けば全然流言だったそうだ、
此の事では如何に多くの村人が心配した事だらう。
思へば馬鹿馬鹿しくも悲しい事である。・・・・ 」