和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

蚊の鳴くこえや蝉しぐれ。

2012-07-31 | 詩歌
家のなかの電話回線周辺を片づけたあとでした。
「地下鉄のオルフェ」が出てきました。
17.5センチ×12センチで厚み1センチ。
すぐに隠れて忘れてしまう一冊。

飯島耕一が、まえがきを書いております。
そのはじまりは
「旧知の楢崎汪子さんから、地下鉄プラットホームの壁面に詩を掲げてみたいがどうだろうか、と相談を受けたのは、たしか1979年のはじめのことだったと思う。」

「企画から半年後の79年6月に第一期がはじまって8月末まで展示された。」

「実際に壁面の六つの額(縦が約130センチ、横が165センチ)を歩きながら見終わったとき、わたしは深く安堵していた。思ったよりずっといい。」

こうして、第二期(79年9月から11月)
第三期(79年12月から80年2月まで)
第四期(80年3月から5月まで)
第五期(80年6月から8月まで)

「出品を依頼した全員が心よく応じてくれたことも忘れられない。」


うん。地下鉄のプラットホームにある詩なんだと
思いながら、この一冊をひらいてみます。

こんかいは
渋沢孝輔と三好豊一郎の詩が印象深くおもえました。

ということで、
本は読まないけれども、
詩は見れる、
地下鉄で電車を待ちながら
今頃の時期に、ぼんやりと詩を反芻してみる。
という、そんな気持ちになって

  日々の花   渋沢孝輔

 支えもなくてなお立っている
 不思議といえば不思議なことだ
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 ――わたしはついに
 孤独というものを知らないだろう
 深みに転がるその声を
 串刺しにして咲く日々の花
 やあこんにちわ
 今日も涼やかに風が通ればいいが




  幻の昼  三好豊一郎

 亡きひとを棲まわせる空虚が
 人のこころにはあって 炎天に
 樹はものうい日陰をつくっていて
   ・・・・・・・・
   ・・・・・・・・
 学校の廊下は乾いた塗布油(あぶら)の匂いがして
 とうきび畑を風がわたって
 蚊の鳴くこえや蝉しぐれ
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光回線工事。

2012-07-30 | Weblog
暑いですね。今日
光回線の工事の方が来ました。

今日は2軒目ということで、
遅くなりましたと、12時ごろに来る。
家の中での配線作業では、
汗がボタボタと出ております。
ヘルメットをかぶったままなので、
家では、とればどうですか?
と、つい話しかけてしまいました。
すると、
外工事と内工事を
交互にしていると、
どうしても、外工事では、
ヘルメット着用が義務づけられているので、
といいながら、すまなそうに、とっておりました。
外では、高いところでの作業。
電信柱での光回線接続は、時間がかかるのだそうです。

あと、2~3軒あるんですと
工事車で、つぎに行ったのでした。
蝉がよく聞こえる午後でした。
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海にひたりつつ。

2012-07-29 | 詩歌
「定本古泉千樫全歌集」を、すこしひらいておりました。

海の歌があります。(p58~59)


ふるさとの海に浸れり青海のかがやく海にじつと浸れり

しみじみとまひるの海にひたりつつ身はやはらかにうち揺られ居り

たかだかに寄せくる波を待ちゐつつうねりに乗りてゆくこころかな

澄みとほる海にひたりて潮ながらとこぶし食(は)めり岩をかきかき



本をひらいて、こうして引用していたら、小さな虫がページにぽとり、はらおうとしたら、汚れちゃった。
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風呂は浴みつつ。

2012-07-28 | 詩歌
読書通信社から、暑中見舞本として注文してあったのが届く。
なかでも、石川書房の「定本古泉千樫全歌集」がありがたい。
5,000円の品が1617円なり。
こう暑いと、和歌を読むのに、ちょうどいい気がしています。
そう暑中の歌集一冊。

え~と。私は千葉県の房総半島に住んでおります。
そして、古泉千樫は鴨川市の生まれ。同じ県民ということで
読んだことがないのに、注文したというわけです。
この全歌集には年譜もついております。
そこをみると、明治19年(1886年)生まれ。
千葉県安房郡吉尾村(現長狭町)に生まれるとあり。
昭和2年(1927)に42歳で亡くなっております。

19歳の短歌が

「みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも」


最初のほうをパラリとめくると、
こんな歌がありました(p12~13)。

暑き日の夕かたまけて草とると土踏むうれしこの庭にして

よき友にたより吾がせむこの庭の野菊の花ははや咲きにけり

夕庭に草とり終へて風呂に入りすがしこころは都ともなし

ここにして風呂は浴みつつ牛小屋の牛の匂ひもわれに親しき

むし熱き市路さまよひなりはひのたづき求むと日にやけにけり


晩夏と題した歌に

街の上のゆゆしきひかり刺(とげ)のごと身ぬちにいたしへやに居れども (p39)


うん。暑いので、あとはポチポチ読んでみます。

今日は古本が届く。

井筒屋古書部(福岡市城南区)より

新潮日本古典集成 伊勢物語
古本値300円+送料210円=510円なり。
これが箱入新刊同様です。ありがたい。

新潮日本古典集成は原文わきに振り仮名式に現代語が赤字でところどころ示してあるので、(わかってもわからなくても)原文を読もうとするには、ありがたいので、注文。
ちなみに、梅原猛の授業「能を観る」には、伊勢物語が新潮日本古典集成からの引用だったのでした。
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鼻たれ小僧。

2012-07-27 | 詩歌
朝日新聞夕刊1993年1月22日。
その切り抜きを持っております。
文化欄のコラム「出あいの風景」を
北川透氏が書いておりました。
その回の題が「詩は老年の文学」。

そこには、こうありました。

「・・あの北原白秋や萩原朔太郎だって、五十歳代で亡くなっている。しかし、現在、四十、五十の詩人など、まだ、鼻たれ小僧である。なぜなら、六十歳代やそれより上の年輩の詩人が、ひとつの層をなしていているからだ。・・」

このコラムの最後は

「近代詩百年を経て、詩はようやく青春の文学から解放されかかっているのかもしれない。」


西田繁詩集「天を仰いで」を読んでから、
このコラムを思い浮かべたのでした。
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能入門。

2012-07-26 | 古典
「梅原猛の授業 能を観る」(朝日新聞出版)は、
能入門のありがたい一冊。

ただ能を読むだけでは、
わからない、時代の息づかいを呼吸できるような気がしてきます。

最初は自然居士(じねんこじ)から紹介されます。
「観阿弥の劇能の最大傑作が『自然居士』です。」とはじまり、
「室町時代は鎌倉時代に立てられた浄土宗、禅宗、法華宗などの教えが民衆まで浸透した時代です。こういう時代に生み出された見事な救済劇・宗教劇、それが『自然居士』であると言えます。」(p19)

こうして、山の裾野を語るように、能の時代背景を浮き彫りにしている点、読みながらワクワクさせてもらえます。

つぎに『高砂』の箇所に

「『高砂』は貴人の長寿を祈る能であることは間違いありません。・・・・気になることがあります。それは、なぜ後場に嫗が出ず、翁だけが登場するのか、という点です。その理由は翁が実はその御正体、住吉大明神というところにあります。住吉大明神は言わずと知れた歌の神であります。歌神・住吉大明神が歌という呪物によって貴人の御代を讃えるという祝言が後場の一つの意味であろうと私は考えます。」(p55)

「歌神・住吉大明神は、『古今集』『伊勢物語』と深く関係します・・」(p56)

この次にページには、
こんな箇所が出てくるのでした。

「能には植物や動物や鉱物が人間として現われてくる例が多くあります。これは『草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)』といって、植物や動物や鉱物、気象もみな人間と同じく仏性を持つという天台本覚思想の具体的表われです。この思想は観阿弥の能にはありませんが、世阿弥の能にはよく見られ・・・・
このように、和歌は生きとし生けるものすべてが詠うものであり、ここが中国の詩などと異なる点であると世阿弥は考えています。先にも述べた世阿弥の曲『白楽天』では、この詩と歌の違いがはっきりと語られ、人間のみが詠う詩に対して、草木国土までが詠う和歌の方がより優れたものだと主張されています。・・・」(p57)


ここまでで、まだ50㌻ぐらいのところです。最後は293ページ。
あと一箇所引用しておきます。

「『太平記』を読んでみると、その戦いは、初めは王朝政治を復活させようとする京都の後醍醐天皇と、鎌倉幕府即ち執権北条氏との戦いでありました。しかし後醍醐天皇の『建武の中興』は失敗し、やがて後醍醐天皇と北条氏に取って代わった足利氏との戦いになります。さらにその後、皇室も南朝、北朝に分かれ足利氏も内部分裂して何ら大義名分のない残酷な大量殺戮の戦いになります。
このような大義名分なき戦いを描く『太平記』には『平家物語』のような滅びゆく者を弔う哀悼のリリシズムはなく、ただ馬鹿げた殺し合いをする人間を笑うのみです。『太平記』は狂歌をたくさん載せます。これはこの非合理な時代をただ笑いとばすより仕方がなかったからでしょう。
観阿弥や世阿弥はこのような『南北朝』の時代を生きてきたので、当然、南北朝の武将たちをシテとする能を作ってもよいと思われるのですが、そういう能を二人はほとんど作っていません。同時代を描くことは足利将軍にたてつくことになると考えたからに違いありません。・・・」(p67~68)


ありがたい。ここに、
能の水先案内人をみつけました。
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暑中見舞い。

2012-07-25 | 地域
えっへん。
昨日は、ブログの更新をおこたりました。

暑中お見舞い申し上げます。

昨日から読んでいた、
「梅原猛の授業 能を観る」(朝日新聞社)読了。
といっても、とりあえず読んだのでした(笑)。

今日、新しいパソコンが到着。
今回、HPを購入。


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遺体。

2012-07-23 | 本棚並べ
尼崎安四の詩「死体」を読んでから、
石井光太著「遺体」(新潮社)を読みました。

「遺体」の最後には「取材を終えて」という4ページほどの文がありました。
そこから引用。


「釜石市を舞台にしたのは、町の半分が被災を免れて残っていたことが大きい。陸前高田など町ごと壊滅した場所では、遺体捜索や安置所の管理は市外から派遣された人々が行っていることが多く、彼らはその土地の地理や方言すらわからないことがある。だが、釜石では死者・行方不明者千人以上を出したにもかかわらず、町の機能の半分が津波の直接的な被害を受けずに残ったことにより、同じ市内に暮らす人々が隣人たちの遺体を発見し、運び、調べ、保管することになった。私はそこにこそ、震災によって故郷が死骸だらけとなったという事実を背負って生きていこうとする人間の姿があるのではないかと考えた。遺体という生身のものを扱うことでそれはもっとはっきりしてくる。」(p262)



「遺体」は釜石市の遺体処理を丁寧に時系列で追っておられ、圧倒されるものがあります。
ここでは、話題をかえて、
岩手県陸前高田の佐藤フミ子さんのことを書きます。
その著書「つなみ 風花(かざはな)胡桃の花穂(はなほ)」(凱風社)の和歌が思い浮かぶのでした。


  大波に呑まれて消えし息(こ)の為に
  白隠禅師の和讃誦(ず)すかな


  遺体確認に一人で行くと
  男孫 辛い役目は自分丈(だけ)がと

  父発見の場所に花束供えおる
  孫の背中のこきざみにふるう



  花巻避難所で    

 二百番目の遺体整(ととの)へ
 死化粧ほどこせしとふ 納棺師若し三十八才

 納棺師笹原瑠似子(ささはらるいこ)氏こそ尊けれ
 四百体もの 事をなし終へりと


佐藤フミ子さんは昭和3年生まれ、83歳。
編集部による、フミ子さんの紹介文にこうあります。
「3月11日の地震のときは、浜辺で若い人たちとワカメの芯抜き作業をしていたが、夫が軽トラックで迎えにきてくれた。一人ではとても逃げ切れなかったと思う。二人一緒に避難したが、夫は息子が自分たちを捜しに家へ戻って流されたことを苦にしており、息子の位牌を見ては涙を流していた。そして避難所暮らしの間に体調を崩し、2011年11月1日12時に他界した。」(p91)



「息子が自分たちを捜しに家へ戻って流された」
という箇所を読むと、親子が逆になりますが、
方丈記の一節を、思い浮かべます。

「・・・・必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又母の命つきたるを不知(しらず)して、いとけなき子の、なほ乳をすひつつ臥せるなどもありけり。仁和寺(にんわじ)に隆暁法印(りゅうげうほふいん)といふ人、かくしつつ数も不知死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。」


石井光太著「遺体」も最後の方に、住職が出てしめくくられてゆくのでした。
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遺体の詩。

2012-07-22 | 詩歌
マーティン・ファクラー著「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」(双葉新書)に「遺体の写真」をとりあげた箇所がありました。

そこを引用してはじめます。

「ニューヨーク・タイムズは、佐々木康(こう)さんや深田志穂さんをはじめとするプロのカメラマンと一緒に被災地取材に入り、震災被害のすさまじさや被災者の悲しみを伝える多くの写真を掲載した。そのなかには、被災地のさまざまな現場で撮影した遺体の写真も含まれている。日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、『1万人死亡』と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているのか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた。
こうした写真に対し、日本人からネット上で批判の声が上がったことは承知している。当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めようという意図などまったくない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、『人間の死』から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない。
私は被災地で数知れない遺体を見た。それは津波に流されたのだろう、鉄の屋根の上からぶら下がっていたりと、どれもがおよそ想像もつかないシチュエーションにおける悲しい遭遇だった。自分で選んだジャーナリストという仕事とはいえ、そうした光景を目にするたび、胸に、何か苦く重いものがずしりとのしかかった。つい数日前まで東京の平和な光景に見慣れていた私にとって、これが同じ国の出来事とはとても思えなかった。」(p31~32)

ここで、
「日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。」とあります。そうなんだ、テレビドラマの刑事物や検死官物などで、ドラマの中での死体は、毎回のように出てくる。あれは、その反動なのかと、思いつきます。

さて、「遺体の写真」ではないのですが、
私は、「遺体の詩」を引用させていただきます。


        死人      尼崎安四

 死人は石のやうに静かである
 月の光が外まで来てとまつてゐる
 もうそこからは透射できない別の領域があるかのやうに

 白い顔は歯を噛んで空の寂寥をみつめ
 尖つた鼻をいよいよ細く尖らしてゐる
 月に照らされて応へようともせぬ眼窠
 近づくほど闇を奥に拡げてゐるうつろ

 私たちが死の中まで持ち込まうとした愛、信仰、歓び
 生の日の美しいそれら一切のものは
 今、死とどんなつながりを持つてゐるのか

 死人はもはや私たちの問に答へようとはしない
 私たちの愛の呼声にさへ答へようとはしない
 埋もれた泥の中から静に手足を抜き出して
 頑に 外からの月の光を拒んでゐる



これは、「定本尼崎安四詩集」(彌生書房)から引用。
この詩集には「尼崎安四年譜」があり、それによると詩人は
大正2(1913)年生まれ昭和27(1952)年死去。満38歳。
戦争に行っております。

昭和16年に野戦高射砲四十四大隊に二等兵として入営。
満州牡丹江・海浪(ハイロン)。南洋パラオ。フィリピンのダバオ。ボルネオのタラカン、バリクパパン。ジャワ本島。チモール島クーパン。西部ニューギニアのカイマナ。オーストラリア北部ケイ群島のワリリル、ラングール。
昭和20年32歳ラングールにて終戦。



この詩は、おそらく戦争中の死体を詩にしたものでしょうね。
戦後世代の私には、以前に、この詩を読んでも、理解できませんでした。
3・11の後に読んで、はじめて、この詩をおぼろげながら分かるような気がします。
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日本の新聞。

2012-07-21 | 短文紹介
マーティン・ファクラー著
「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」(双葉新書)を読む。

マーティン・ファクラー氏は、
ニューヨーク・タイムズ東京支局長。

まずは、こんな箇所を引用しておきます。

「個人差があるとはいえ、ニューヨーク・タイムズの記者の給料は朝日新聞や読売新聞よりもずっと安い。だが・・・・お金よりも取材者としての自由度が高いほうにもっと大きな価値がある。ただし、仕事は非常に忙しいし、責任は重い。・・・ニューヨーク・タイムズには、私と田淵広子記者の2人しか記者がいない。私は国際部の記者として、政治や社会のテーマを中心に扱う。3・11のような地震や津波が起きたときには、被災地の取材に奔走する。田淵記者はビジネス、経済のテーマを中心に忙しく飛び回っている。」(p159)

さてっと、
この新書で、私が一箇所引用するとすれば、ここかなあ。

「南相馬市に入ってみると、すぐに被害のすさまじさがわかった。地震と津波に襲われたうえ、福島第一原発の事故のせいで物資も燃料も入ってこない。そんななか、2万5000人もの市民が孤立して取り残されていた。
南相馬市役所へは、事前にアポイントを取らずに向かった。役所に着くなり、職員から『ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞなかへ!』と大歓迎され、桜井市長自らが『よく来てくれました』と迎え入れてくれた。なぜこんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。
南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。『日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!』
市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げてしまったという。もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。
どちらにせよ、メディアの人間がいなくなり、有益な情報がまったく入ってこない状況で、職員たちは一様に強い不安を抱えていた。『南相馬はどのくらい危険な状態なのですか』とアメリカ人記者である私に質問をしてきたほどだった。」(p41~42)


うん。日本の新聞をひらいても、こういう様子までは、書かれていないなあ。外国の記者に南相馬市のことを教わる。この新書はその日本のジャーナリズムを、わかりやすく指摘しておられるのでした。

う~ん。「おわりに」からも引用しておきます。

「私は通訳を使わず、日本語を使って日本人に取材する。」(p218)

「SPEEDIデータの隠蔽のような調査記事を書くためには、ジャーナリスト個人の経験の蓄積が求められる。日本という国の仕組みや国民性まで理解していなければ、外国人記者にはなかなか踏みこんだ記事は書けないと思う。」(p219)


地方紙についての指摘もひかります。

「福島第一原発の収束までには、今後数十年もの時間を要する。世界中の人々にとって福島第一原発に関する報道はニュースバリューがある。おおよその状況については自国のメディアを通じて知ることはできるだろう。だが、日本の東北の住民たちがどんな悩みや心配事を抱えて暮しているかまでは伝わってこない。そこから収束作業に関する思わぬ問題があぶり出されることもあるかもしれない。地方紙の記者たちが地元に住む自分たちの問題と思っていたものが、実は世界の関心事にもなりうる。メディアのグローバル化は、大きなニュースばかりもてはやされるのではなく、これまで埋もれてしまっていた小さくとも良質なニュースが世界に広がる可能性も秘めている。」(p204~205)

ついつい。一箇所引用のはずが、長くなりました。
ことほど左様に、この新書は読み甲斐がありました。
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姿勢そのものが。

2012-07-20 | 地域
東日本大震災のあとに、
それ以前と、それ以後という区分を
どうしても、しがちな自分がおりました。
3・11をまたいで、持続しておられる方が
おられる。それが片田敏孝氏なのでした。

ということで、
片田敏孝氏の3冊をつづけて読んでみました。
触発されることが多々ありました。

ということで、
3冊を発売順にならべてみます。

「子どもたちに『生き抜く力』を」(フレーベル館)
初版は2012年2月1日。
その帯には、小学校の3階に自動車が突き刺さった箇所と
国道らしきところに、他の破壊された家とか車にまじって
消防車が2台、一緒に流されたようにして瓦礫の上に乗り上げているのでした。どちらもカラー写真。こういう帯もある。


次は
「命を守る教育 3・11釜石からの教訓」(PHP)
初版2012年3月13日。
私は、この本を最初に読みました。

そして3冊目は

「人が死なない防災」(集英社新書)
初版2012年3月21日。
講演を中心に編まれた新書一冊。
2011年10月2日、沼田市防災講演会での講演。
2010年7月2日、釜石高校講演録
2005年12月7日、防災シンポジウムでの講演。
2010年8月27日、茨城県砂防協会講演会。
とならびます。

ここでは、講演から一箇所だけ引用。
2010年釜石高校講演録にある、この箇所。

「今回の2010年のチリ地震津波では、大津波警報3メートルと発表されたわけですから、確かにその可能性があって、ただしそれがどこで起こるかわからなかった。たまたま今回、釜石は外れた。その前も外れている。ですが、やはり大津波が来る可能性はあった。そのとき、そうした情報に対してどのように対応するべきか。その姿勢そのものが問われます。
一生の間に津波の避難を何度やるのか。週に一回でも、月に一回でもない。一年に一回でもなく、何十年か何百年かに一回。大きい津波というのはそれぐらいの間隔でしかないわけですが、可能性がある限り、『その時』ぐらいは逃げるべきではないか、というのが私の思いです。」(p149)


片田敏孝氏のどれか一冊をすすめるとすると、
私なら、「子どもたちに『生き抜く力』を」(フレーベル館)が、わかりやすく読みやすく感じられました。

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暑中見舞本。

2012-07-19 | 本棚並べ
読書通信社より
「新本特価情報」が送られて来ておりました。
つい、ひらいてしまった(笑)。

う~ん。注文。

馬淵和雄著「鎌倉大仏の中世史」861円
熊倉功夫編「井伊直弼の茶の湯」1071円
「定本古泉千樫全歌集」1617円
北原白秋著「日本童謡ものがたり」693円

ちなみに、送料はというと、
注文合計金額が5250円以下で500円
となっているようです。


さてっと、
どれも、この値段ならと
つい手が出てしまいました。
自分で暑中見舞い用の
本を注文したような、
そんな気分です。
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よろしくたのむ。

2012-07-18 | 短文紹介
雑誌「新潮45」8月号が、今日発売でした。

あれ、小田嶋隆氏の文が載ってる。
特集の記事のお一人。
題して「民主党は学級会以下であった」。
うん。
文章よりも題名の言葉が、ひかっておりました。
特集としては、
先月号のほうが、読みごたえがありました。
とりあえずは、
小田嶋氏の文から引用

「しかしながら、その新しい政権の新しいプリンシプルは、つまるところ、どうにもならない混乱だった。学級会政党と言っても良い。いや、気のきいた小学校のホールルームならもう少しマトモな議論をしているはずだ。それほど、民主党内のディスカッションは、党内の対論からして、議論の体を為していなかった。震災を経て、事態はさらに悪化した。」

うん。もうすこし、
ということで、最後の引用。

「6月の19日に開催された消費増税法案をめぐる合同会議の折のドタバタ劇を見て、私は、最終的にこの政党を見限った。結果としては、小沢元代表に近い議員から異論が噴出して調整がつかず、前原政調会長が一任を求めて討議を打ち切ったわけだが、これは、もはや学級崩壊と評価するほかに表現のしようがない。・・・・党内の会議でこんな横暴がまかり通るのは、冷戦時代の共産党国家か、でなければ戦前のファシズム政党だけだ。民主党は、大切な教訓を残してくれた。国民は、政府に失敗を期待してはいけないということだ。考えてみれば極めて常識的な教訓だが、私は、そのことを彼らに思い知らされた。次の総選挙の暁に樹立される新しい政府には、ぜひ成功をしてほしい。民主党は、せめて良い肥料の役割を果たしてくれるとありがたい。よろしくたのむ。」
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地元の古老が大声で。

2012-07-17 | 短文紹介
片田敏孝著「命を守る教育」(PHP)を読む。

命を守るための三原則が読みどころです。
ここでは、
ひとつだけ引用。

「人間は危険を知らせる情報がもたらされるとき、ひとつめの情報は無視して様子見をしますが、ふたつめの情報がもたらされると危険を察知します。非常ベルが鳴ったとき、誰かが『逃げろ!』と叫んだことをきっかけに全員が一斉に非常口に向かうというケースがあります。」(p78)

「唐丹小学校のケースもあります。唐丹小学校は、唐丹湾に面した防潮堤のすぐ横にある文字通り海抜ゼロメートルの学校です。地震が起こったとき、学校では、まず子どもたちを校庭に集合させ、点呼を取ろうとしました。学校としてはどこかで児童全員が避難できているか点呼を取る必要があるからです。先生方がこの時点で持っている情報は、予想高さ三メートルの津波というものでした。三メートルなら、防潮堤を越えることはありません。しかし、点呼を取ろうとしたとき、地元の古老が大声で、『何をやっているんだ! 津波がくるぞ、早く逃げろ』と叫んだそうです。その声に、先生方が触発されて、すぐに小学校六年生を先頭に、急な斜面を登って高台の道路に避難し、全員助かりました。ここで特筆すべきは、古老の一声が避難を誘導するきっかけとなったこと、先生方が日ごろの訓練により、緊急時には、小さな子どもからではなく、足の速い高学年から避難させたことです。」(p80~81)

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コラム道。

2012-07-16 | 短文紹介
新刊「小田嶋隆のコラム道」(ミシマ社)を買って読む。
読後、はじめて読んだ小田嶋隆を、ネットの古本で検索すると、
獅子ヶ谷書林で、この「小田嶋隆のコラム道」が735円でもう出てる。
あれまあ。こんなこともあります。ちなみに新刊では1575円。

「コラム道」から、私が一箇所だけ引用するとするなら、
この箇所でしょうか。それは30年以上前の、司馬遼太郎のエッセイを思い浮かべたことから始まる文なのでした。

「こういう記憶がコラムの種になるから油断ならない。
記憶は、輪郭が薄れて、ほかの記憶とまぜこぜになった頃になってはじめて、利用可能なネタになる場合が多い。ということはつまり、若い頃の読書が収穫期を迎えるのは、40歳を過ぎて以降なわけで・・・読書の記憶は、20年の熟成期間を経て、まったく別の文脈の中によみがえる。よみがえるのは、必ずしも正確な記憶ではない。が、かまうことはない。記憶の混濁は、別の見方をすれば、オリジナリティーだからだ。」(p191~192)

あとがきでは、五年がかりで、この一冊を本にした「どんなときに訪れても都立高校の放課後みたいな空気で迎えてくれた」ミシマ社の面々をたたえておりました。

そうそう。
最後には特別対談(小田嶋隆×内田樹)が載っておりました。
その対談の最後は、内田さんのヨイショでした。
いわく

「日本に小田嶋さんのような文体と思考をする書き手は他にいません。小田嶋隆は日本の宝です。」

それにしても、このお宝、
獅子ヶ谷書林で、735円。
先着一名のお買得。
ちなみに、
初版2012年6月3日です。
コメント
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