尾形仂(つとむ・1920年1月28日~2009年3月26日)の
「俳句往来」(富士見書房・平成14年)を古本で取り寄せる。
そのなかに、講演要旨とある「連句の鑑賞法」を読む。
座に連なる連句の作者が最初のページに語られてます。
「・・連句の場合、作者と読者の関係は・・・
連句は作り手が同時に読者でもあります。
座に連なる連句の作者は、前句の最初の読者なのです。
しかも前句の作者の意図とは違った解釈を施し、
あえて好意ある誤解を加えることによって自分の句を付け、
それによって・・新しい意味を帯びることになるわけです。」(p131)
この講演要旨に『最も思い出に残ったことが、二つあります』とある。
うん。この個所を引用しておきます。
「一つは、私の勤務先、東京教育大では昭和30年代末から40年代末にかけて
筑波移転をめぐる学園紛争が続きました。そんな中でも学問の火を消しては
ならぬと教官有志といっしょに芭蕉連句を読む会を始め、月一回、十年間で
ほぼ読み終えました。・・・・専門が異なると、発想と論理も変わります。
ですから常に一つの解釈に落ち着くということがありません。
ああも言え、こうも言え、いろんな説が成り立つのです。・・・・
それまで国文教師としての私は、おびただしい学説を種々に分類していき、
これこそがただ一つの正解であるというところまでたどり着くことに
腐心してきたのですが、実はその態度は文学に携わる者として
まちがいであったことに気づきました。いろんな解釈があってよい。
連句も、まさにそれなのです。・・・・・
そういうことを教わったのもこの会のおかげでした。
連句は作るほうも共同なら、読むほうも複数のほうがよいと、
そのとき思いました。・・・・・・・
もう一つはこの会の少し後になりますが、
裏千家で俳諧を読む会が始められ、そこでも仲間に入れてもらいました。
・・・・
最初はそれを知るために古文書を読む会が持たれたのですが、
そのうちに古俳諧に着目されたのです。
俳諧は文書に比べれば、より直接的に
風俗・人情を映しているからでしょう。
柳田国男先生も、そういう立場から
民俗学の資料として俳諧を材料にしておられます。
・・・・参会者には、多田侑史、芳賀幸四郎、小西甚一、
鈴木棠三、角川源義らの碩学がおり、こういう碩学との
集いに加わり俳諧を読むことは、すこぶる有益でした。・・」(~p135)
こうして、尾形仂氏の二つの会を引用して
≪ あえて好意ある誤解を加えること ≫という言葉を反芻していると、
あの、第二芸術を戦後すぐに書いた桑原武夫氏のことが思い浮かびます。
「一連の京大人文研究の共同研究がずーっとシリーズであります。
桑原さんがいる時は、みんなが生き生きとしてるんです。
つまり桑原さんにはみんなをインスパイアする力があった。
桑原さんが定年退職してから、目もあてられない。
なんと人文研というのは頭の悪い連中の集まりか、
ということになり、日文研に引き抜かれるわけです。
だから、日文研ができた時から、京都では
人文研から日文研に引き抜かれたやつと、
引き抜かれなかったやつという二つの階層ができたわけです。」
( p106~107 )
はい。この辛口の視点が語られているのは、
谷沢永一著「人の器量(うつわ)を考える」(PHP研究所・1998年)。
もどって、尾形仂さんの講演要旨には、こうあったのでした。
「連句は、このような意味での作者・読者によって
構成された一次的な座の文学であります。
そこでは執筆(しゅひつ)の読み上げる音声を通して
作品が鑑賞、制作され、進行してゆく、
その緊張した時間こそ連句の命である、
というところから芭蕉は
『文台下せば即ち反古也』という・・言葉を残しています。
・・よく連句の本質をついた至言といえるでしょう。 」(p132)
芭蕉のファンだという柳田国男さんは、『生活の俳諧』のなかで
「もともと俳諧の連歌は、ただ俳諧をまじえた連歌でよかったのである。
それを心得ちがいして・・どこまでも駄洒落と警句との
連発でなければならぬと、思っている人ばかり多かった際に、
わが芭蕉翁だけが立ち止まった、もう一度静かに考えられたのである。
それが今我々を感動せしめる正風の俳諧であったように、
私たちは思っている。」
「宗匠(芭蕉のこと)は意外に早く世を去り、
旧式の教育を受けた俳諧師はなお国内に充ち溢れていて、
いずれも自分自身の器量だけにしか、これを
解説し敷衍することができなかったのである。
これが一つの未完成交響楽、余韻はなお伝わって嗣いで起る者なく、
あたかも花やかな花火の後の闇のように、
淋しいものとなった原因のようである。
この議論をあまり詳しくすると、退屈せられる人があっても困るから、
方面を転じて少しく実例をもって説明する。
七部集は私がことに愛読しているので、この中から例が引きやすい。
・・・・以前はいわゆる一波万波で、ちょうど子供がふざけ始めると、
止めどもなく昂奮して行くのとよく似ていた。
これに反して七部集の歌仙などは、句ごとに聯絡にポウズ(停止)があり、
また苦吟がある。それを一概に小味という名で片付けられぬわけは、
後代の復興期などと言われる天明の俳諧と比べてみても、
なお元禄だけの特徴ははっきりとしているからで、
つまり芭蕉翁の企図していたものは、
前のものとも後のものとも違っていた。
完全に成功しなかったかも知らぬが、
とにかく全体としての調和を志していたように思われる。
同じ滑稽でも幾つかの階段を認めて、そのもっとも高調したものは、
かえってそのあと先を静かな淋しいもので包もうとしている。
変化を主とすることは古今同じでも、
毎(つね)に均整に注意し偏倚(へんい)を避けていた。
起伏高低が大きいだけでなく、波動の中をできるだけ広い区域に、
数多く設けようとした。それゆえにまた
その波紋の綾がまたなく美しかったのである。・・・」