和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

俳句の活力。

2009-06-30 | 詩歌
2009年6月30日産経俳壇。
宮坂静生選の始まりの一句。

 老いてこそ凛(りん)と生きたや青嵐  京都市 岸田欣子

【評】誰もが願うことであろう。「青嵐」を配し、おのれを鼓舞するような元気が出る詠み方をしたのがいい。俳句を詠むことは生きる活力になる。一日一句は力。

そうそう。思い浮かぶのは高浜虚子の句。

 春風や闘志いだきて丘に立つ    ( 大正2年2月11日 )


うん。梅雨時に読むのは、俳句がよい具合です。
虚子の初期の俳句に雨を探したりします。


 雨に濡れ日に乾きたる幟(のぼり)かな  (明治33年)

 山寺の宝物(ほうもつ)見るや花の雨   (明治35年)

 門額の大字に点(とも)す蝸牛かな

 麻の上稲妻赤くかかりけり        (明治39年5月)

 稚児の手の墨ぞ涼しき松の寺       (明治39年6月)

 
 濡縁にいづくとも無き落花かな

 濡縁に雨の後なる一葉かな
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田中冬二・蜜柑。

2009-06-28 | 詩歌
蜜柑について、ちょっと田中冬二の詩にさがしてみました。

ちなみに参考にしたのは、田中冬二全集第一巻(筑摩書房)。

それでは、田中冬二の詩集あとがきより、引用してはじめます。

「詩を書いて二十有余年。
 私は田舎道をひとり淡々と歩いて来た。
 麦打ちをしてゐる村を、
 郭公がなき、椎茸をつくつてゐる山間の村を。
 煙草の干し葉に天候を気づかひ夜半も目ざめてゐるやうな村を。
 私は豆の花を信じた。
 やがて好い実を結ぶあの小さい質素な豆の花を。
 私は小暗いランプを信じた。
 夜半は芯を細目にするランプを。
 そして親しい彼等が恁うして私に詩を書かせて来たのである。」(p301)

詩「海の見える石段」は7行の詩。
そこから2行を引用(p108)

    夏みかんの木の間に あかるい初夏の海
    僕も眺める

詩集「花冷え」にある詩「雨」のはじまりの一行(p173)

    みかんの花がぷうんと匂ひ 暖い雨のけむつてゐる漁港


ちょうど今頃の詩でしょうか

    山国初夏  

 山の傾斜地の林檎園では袋かけをしてゐた

 ほととぎすがないた

 麦の穂波がひかり 桑の葉はあかるくしろくかへつた

 縁先近くの柿の花がこぼれて もう薄暑を感じた

 夜 善光寺の町には 蕨夏みかんさくらんぼ

 それから芍薬や菖蒲の剪花(きりばな)を売る露店が出た 
 槲(かしわ)の葉も売つてゐた

                 (p210~211)
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夏みかん。

2009-06-27 | 安房
読売俳壇2009年6月22日。その矢島渚男選の9番目でした。

 房総の風と太陽夏みかん     野田市 海老原順子

うん。房総の夏蜜柑という話をしましょう。
最近は、その夏みかんをけっこう食べております。
房総では、ちょっと広い庭があったりすると、
夏みかんの木が植えられていたりします。
たいてい鈴なりになっていて、そのまま取らずになっていたりします。
すっぱいのが特徴で、剥いて砂糖をまぶして食べたりします。
もちろん、好きな人は、そのままにムシャムシャと剥いてたべます。
以前引用した三瓶繁男氏の詩を思いうかべます。


     みかん   三瓶繁男

みかんが いっぱいに実っているのを見て
妻が感動して言った

  わー すごい みかんって
  こんなふうに なってるんだ

見慣れている僕は
こんなことで感動できる妻に感動した
その妻もすでになく十三回忌が過ぎた
ときどき このことを 思い出し
心の中で ふっと笑う


うん。こりゃ夏目漱石著「坊っちゃん」を引用したくなります。
そこにも蜜柑が登場するのでした。


「庭は十坪程の平庭で、是と云ふ植木もない。
只一本の蜜柑があつて、塀のそとから、目標(めじるし)になる程高い。
おれはうちへ帰ると、いつでも此蜜柑を眺める。
東京を出た事のないものには蜜柑の生(な)つてゐる所は頗る珍しいものだ。
・ ・・・」

「頗る珍しいものだ」というのは、地元にいるとピントこないものなのですが、
それについてもうすこし思い浮かぶことを引用してみましょう。

安房高の八十年史(昭和58年)に兵藤益男校長のことが出て来ます。

「兵藤先生は、太平洋戦争が破局になった昭和19年4月、本校第七代校長として着任された。・・・・食糧難の絶頂期であった昭和21年に、夏蜜柑の苗木数百本を校庭に植付けられ、それは当時いろいろの意味で反対の声も多かったが、30数年を経った今日、毎年豊かな実をみのらせている。他県からの来訪者の目には、この風物は余程奇異に映るらしく、感嘆の声を聞くことが多い。」(p297)

そうそう。三瓶繁男氏の詩画集には、いろいろな方が紹介がてら寄稿しておられるのですが、下田正行氏はこう書き出しておりました。

「初対面は大学入試、42年も前のことになる。小さな身体に伝統安房高剣道部魂がみなぎっていた君。守りの堅い、それはそれはしぶとい剣だった。・・・・
少し遅い結婚だったが、奥さんが好きなミカン畑を背にした新居。しかし、春風もつかの間、突然の暴風雨、乳飲み子を含む4人の子を残して最愛の人が・・・・男手ひとつで荒波を越えてきた。その辛苦想像にあまりある。それでいて愚痴らない、こぼさない。しかも、小さきもの、弱きもの、少なきものへ向けられる暖かな視線・・。『すごい奴』としか言いようがない。そんな君を誇りに思う。・・・」

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記事の発見。

2009-06-25 | Weblog
読売新聞は、私は月曜日だけ購読してます。
月曜日に、読売歌壇と読売俳壇とが載ってる。
それで、新聞屋さんへお願いして(それを許してくれる新聞屋さんがあるのです)
週一回、読売新聞を読んでおります。
さてっと、6月22日(月曜日)に全面広告が目に入りました。
「もっと、伝えたい。 創刊135周年読売新聞」とあります。
縁側にちょこっと腰掛けて、若い女性が板廊下に新聞をひろげ、片手に猫をなでながら読んでいるショット。そのわきに、言葉がありました。
「日曜日になると、父はこの縁側で一週間分の新聞を読む。毎日、目を通しているのに、また改めて読み返すのだ。そんなに面白いことが書いてあるのかな。・・・・」


そういえば、購読してる産経新聞の6月17日(水曜日)に
連載「曽野綾子の透明な歳月の光」がありました。

「どんどんたまる古い切り抜きを棄てる作業をしていたら、平成21年3月12日付という古い新聞記事を発見した。・・・」こうはじまっておりました。

この内容、あらためて読み直すと、興味深い内容でした。
「言葉のニュアンス」というのがテーマで、
こんな箇所があります。
「こういう言葉を文字通りに取るのは、このごろ本も読まず、長い手紙も書けない、つまり子供のような読解力しかない、日本語のできない大人たちが増えたせいかもしれない。」

あんまり内容を紹介すると、間延びしちゃうので、これくらいにして、
最後はこう終わっております。

「・・それが逆説的言葉の力なのだ。生きた言葉を使える人、理解できる大人を、もう少し増やしてほしいものだ。」

ということで、まだ読んだことのない方は、真ん中のエッセイの内容を、ご想像ください。
まあ、古新聞を探して読んだ方が手っ取り早いのですが(笑)。
古い新聞記事を発見するのも大変です。


さて。今週気になった記事は、6月22日産経新聞一面の下にありました。
安倍元首相動く。とありまして、安倍氏の言葉が引用してあります。
こういう言葉を新聞で反芻できるのは、ありがたい。
テレビの一瞬で消えてしまうのは、しのびない。
ということで、その引用されている言葉。

「(鳩山氏更迭の)首相の判断は間違ってない。民営化会社の人事に関し、政府はめったなことで口を出すべきじゃない。そもそも総務相が自分の首と社長の首をてんびんにかけて首相に決断を迫るのはおかしい」

何でも21日朝、「新報道2001」(フジテレビ系)に久々に出演した安倍氏は首相の援護射撃に徹した。とあります。
もうすこし安倍氏の言葉を書き残しておきましょう。
そうしましょう。

「総裁選前倒しでトップリーダーを代えることは考えるべきではない。・・首相のもとで結束し、いかに魅力的な政策を打ち出せるかに勝負がかかっている」

「北朝鮮に対しては友愛外交では全然ダメだ。しかも鳩山氏は『日本列島は日本人だけのものじゃない』と言っている。彼には国家の概念がない。主権意識がない」


うんうん。こういうのを聞きたかった。


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三瓶繁男。

2009-06-23 | Weblog
三瓶繁男氏の詩画集「富士山」を、ある人からいただきました。
今年教員を退職なさって、その記念に出されたもののようです。
2005年に地方紙に連載された時の詩が、あらためて載っております。
新聞に掲載されているときは、楽しみにして切り抜いておりました。
その詩を引用したいのですが、まずは、近頃読んだ短歌から
6月16日読売歌壇の栗木京子選の最初に

 蚕屋のつばくら無事に巣立ちし日赤飯炊きし母を思えり  
                  群馬県 野口瑞穂



  たけんこ    三瓶繁男

毎年春になると たけんこを掘りに行った
すると いつも母が言った

  おお いいたけんこが掘れたんね

この言葉が うれしくて
この言葉を 聞きたくて
また せっせとたけんこを掘りに行った
もう その母もすでになく七回忌が過ぎた
でも 毎年春になるとたけんこを掘りに行き
母の言葉を思い出す



   みかん      三瓶繁男

みかんが いっぱいに実っているのを見て
妻が感動して言った

   わー すごい みかんって
   こんなふうに なってるんだ

見慣れている僕は
こんなことで感動できる妻に感動した
その妻もすでになく十三回忌が過ぎた
ときどき このことを思い出し
心の中で ふっと笑う


詩が青春の文学というのは、よく使われる言葉ですが、
四十、五十の詩人は、鼻たれ小僧。
六十代の詩を読みたい。と思ってもバチはあたらないでしょう。
サイレントマジョリティが語り始める、その瞬間に立ち会っているような
そんな錯覚を受ける詩があります。

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矢次一夫。

2009-06-19 | Weblog
福田和也著「日本国怪物列伝」(角川春樹事務所)を読む。

27人が織りなす螺旋階段を降りてゆくと、昭和史の霞みが、読む者に立体的に浮かび上がるような、なんとも渾沌とした味わい。
それぞれの肖像的な写真がついているのが、ありがたい。 この本の文章は、絵でいえば、デッサン。 そう、肖像画家が、興味のおもむくままに色紙(一人が10ページほど)にデッサンを描いて並べて見せたような体裁となっております。

私は、何を言ってるんだか(笑)。
せめて、お一人のプロフィールでも紹介して、この本の書評としましょう。


福田和也氏は「岸信介の回想」を読んでいて、そこに矢次一夫氏が出て来るので意識しだしたと書いております。

「同書(「岸信介の回想」)は、今日、昭和史を研究する者にとって、基本図書に位置づけられているが、そこに矢次があらわれて、ほとんど岸と対等に、時には岸よりも偉そうに語っていて、しかもその姿勢がまったく殊更なものではなく、常態としての関係としか思えない・・」(p100)

そして経歴を語ります。
三歳で母を亡くし、15歳で家出、佐賀から東京へ行こうとして、人夫部屋に売り飛ばされ、脱走し別の刑務所並の人夫部屋へと売り飛ばされる。それを三度。
18歳までのタコ部屋人夫という苛烈さが、後年、さまざまな争議事件で、共産党の指導者たちとわたりあっても、動じない風格を生じる。
それにまつわるエピソードとして
共産党・渡辺政之輔との話が引用してあります。

「いつだったか、彼が地下に潜る直前だったろうが、私が酔いにまかせて、君たちの共産党は、いわゆる『春画』的共産党だね。なぜなら、日本の春画の特色は、ある一物だけを、とくに誇大に表現することによって、人の好奇心をひくことに成功しているが、本物は、そんなに大きいわけじゃない。それとちょっと似ているじゃないか、といったら、さすがに彼も苦笑して、そんな妙な言葉を流行さすなよ、といっていた姿が、いまも思い浮かぶ。」(「労働争議秘録」)

ちなみに、この本で紹介されている27人の怪物。そのうちの、文学者はというと、徳富蘆花・山本周五郎・中村草田男・菊池寛ぐらい。文学史なんてちっぽけなものだと、ガテンがゆく一冊になっております。
そのような、興味をもって怪物27人を読みおわる頃には、いつのまにか、あなたも昭和史の螺旋階段をおりてゆく自分に気づかされることになります(笑)。
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手渡されました。

2009-06-19 | Weblog
本を二冊頂きました。
長谷川昂著「風と道」(三五館)
三瓶繁男著「詩画集 富士山 追憶」(房州印刷所)
どちらも、いただいた本なのですが、といわれて、
以前お貸しした本を、返しにきながら、
ついでのようにして、
わざわざ持ってこられ、手渡してくださいました。

どちらも、読みたい本でした。
その一冊。長谷川昂氏は彫刻家。1909年生まれ。
2000年に出た本です。こういう言葉を読みたかったと、
渇きが満たされたような充実感がありました。
それは、言葉以前の姿勢を読める幸せのような気がします。
それが何なのか、もう一度読んでみようと思います。


手渡されて、あらためて詩を思い浮かべました。


    風を彫る       諌川正臣 

           長谷川昂先生に

いたたまれなくなったとき
少年はいつも裏山に登りました
独りになりたかったのです

裏山にはいつも風がありました
麓に風のない日でも少しはありました
風に吹かれていると心も静まります
そのうち涙も乾きます

目には見えない風ですが
目をつぶれば肌に感じます
そよぐ草木や雲の流れに風を見ます
萎んでいた胸のうちがふくらんでいくようで
山の峰を越えて行く雲は憧れでした

いつからか
目に見えない 風のようなものを
かたちにしたいと思うようになりました
ひたむきに 打ち込み 励み 腕を磨き
やがて大樹となって夢をひろげます

気といわれるものでしょうか
人のなかにもたえず風が吹いています
生きている証(あかし)のような
さまざまな思いの風も

木のなかに秘められた気を呼び起こそうと
刻んで 問いかけ 刻んで 問いかけ
木はふたたび生命をとりもどすのです
鉈彫りの楠の木肌から大地の風が吹いてきます

双手を突き出し
風に向かって元気いっぱいの童子の像
「風の子」
かつての少年がそこにいました
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怪物列伝。

2009-06-18 | Weblog
福田和也著「日本国怪物列伝」(角川春樹事務所)を読む。

前後左右善悪のハードルをスイスイと越えてゆく、怪物列伝。
名前だけ知っている人なら、よいのですが、
名前も知らない人が出てくるので、こういう列伝は参考になります。
ということで、27人の列伝で、私は名前も知らないという人を列挙。

木村東介
三浦義一
光村利藻
矢次一夫
八代六郎
三浦梧楼
九津見房子
森恪
小泉三申
五百木良三
南喜一

というような顔ぶれ。
人物論が織りなす螺旋階段を降りてゆくと、昭和史への手がかりが、読む者に立体的に浮かび上がるような気分。
それぞれの人物写真がついているのが、ありがたい。
文章は、絵でいえば、デッサン。あるいは水彩画。
この本では、一人が10ページほどで描かれております。
それでも、怪物の片鱗は、そのデッサンの、ちょっとした陰影に浮びあがってくるのでした。
何を言ってるんだか(笑)。

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蝸牛(かたつむり)。

2009-06-16 | 幸田文
6月にはいって、道路に蛇のペシャンコに轢かれた様子が目につく地方におります(笑)。
今日の読売俳壇をみていたら、正木ゆう子選の最初は青大将でした。

  ひさびさに会ふ青大将元気元気   別府市 河野靖朗

【評】元気なのは青大将なのだろうが、作者のようでもある。
山歩きでもしているのか、リズムに乗って思わず口を衝いたような下五が楽しい。まさに俳句は勢いこそ大事。


あじさいの季節には、カタツムリをよく見かけます。
宇多喜代子選の俳句の3番目にありました。

 でで虫の今発心の歩速かな   静岡市 広瀬弘

【評】のろのろと進む蝸牛。その蝸牛にも『発心』というものがある。
その時が『今』だというのだ。



青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)のはじめのほうにありました。


「小石川蝸牛庵は昭和二年に移ってきたんです。
祖父は『蝸牛庵というのは、家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ。昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ』と言いましたが、要するに祖父は自分の背中に殻を背負って、ヌーヌーどこへでも出ていこうという思いがあったんですね(笑)。その前にとりあえず住んだ向島蝸牛庵は、今、犬山の明治村へ行ってます。」(p13)


うん。ついでに、新美南吉の「でんでんむしの かなしみ」も思い浮かんできたりします。
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草剛「全裸で逮捕」

2009-06-12 | Weblog
草剛君の「全裸で逮捕」という件。
地デジのコマーシャルで、代表してるような顔を、
テレビに出していた草君でした。

ちょっと、他の件で、あらためて開いた
養老孟司著「死の壁」(新潮新書)に、こんな箇所がありました。

「同様に戦後消えていったものはたくさんあります。
お母さんが電車の中でお乳を子供に与える姿も見なくなって久しいように思います。肉体労働がフンドシ一丁で働かなくなったのはもっと前からのような気がします。かつては防空壕でも何でも夏の暑い時にはフンドシ一丁で穴を掘っていた。ところが今ではどんなに暑くても皆、ヘルメットと作業服を着ている。ピンクの派手なズボンを穿いている作業員もいる。
このへんのことには皆、共通の感覚があるのがおわかりでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
これは都市化とともに起こってきたことです。それも暗黙のうちに起こることです。世界中どこでも都市化すると法律で決めたわけでも何でもありません。それででもほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは傾向をもっているからです。
都市であるにもかかわらず、異質な存在だったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はアテネというあれだけの都市社会を作っておきながら、裸の場所を残していたのですから。彼らにとっては裸が非常に身近だった。
誰もが知っているのがオリンピックです。これはもともと全裸で行っていた大会です。マラソンだって何だって全裸です。マンガや絵本のようにイチジクの葉なんか付けていません。スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でも皆裸でした。もともとギムナジウムという言葉は『裸』を意味していたのです。・・・」(p36~37)

日本の裸といえば、渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)の第八章が裸をテーマに取り上げておりました。

すこしそこからも引用。

「明治14年に小田原付近を旅したクロウが描き出すある漁村の夜景は、ほほえましい自然な印象を私たちに与える。『あちこち、自分の家の前に、熱い湯につかったあとですがすがしくさっぱりした父親が、小さい子供をあやしながら立っていて、幸せと満足を絵にしたようである。多くの男や女や子供たちが木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり、大きな桶の中に、時には一家族が、自分たちが滑稽に見えることなどすっかり忘れて、幸せそうに入っている』。」

「ラファージが日光への旅で、ある茶店に休んだとき、『女の馬子たちは腰まで衣服を脱ぎ、男の眼もはがからずに胸や脇の下を拭いたりこすったり』した。・・・ラファージは馬子たちのはがかりのなさにはおどろいたかも知れないが、もともと画家であるから、裸体を怪しからぬものとは考えていなかった。『日本の道徳は着衣の簡単さによって一向損なわれないし、また芸術家からみるなら当然のことだが、法律にはいたって従順にできている民族に流れこんだ新しい観念が、これらの習慣(裸体をことさらに羞じぬ習慣)を変えて行くのは残念なことだ』と彼は述べている。」

ここも引用しておきましょう。


「徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる。久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではなく、女というものの魅力だった。徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれねばならない。アーノルドが『日本人は肉体をいささかも恥じていない』というように、彼らの大らかな身体意識は明治20年代まで、少なくとも庶民の間には保たれていた。・・・」
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『吾輩』と小学生。

2009-06-11 | 幸田文
朝日新聞の古新聞を読んでいたら、
日曜日の読書欄に筒井康隆氏が「漂流 本から本へ」と題して連載をしておりました。その5月31日は9回目。夏目漱石著「吾輩は猫である」が登場しておりました。ちょっと引用。

「小学生にはむずかしかったが、それだけに読み返すたび新たな発見があり、くり返して読む愉しさがあった。アンドレア・デル・サルトなどの固有名詞や、天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの・・・などの名フレーズも記憶してしまった。・・・
漱石の文章は読む者に影響を与える。特にこの『猫』と『坊っちゃん』の断定的な語り口は、同時代の読者にずいぶん影響を与えたらしく、全集を全巻読んだと思える父の文章も漱石そっくりだった。
『猫』と『坊っちゃん』を読んだぼくは、次に『三四郎』や『虞美人草』にも手を出したが、これは面白くなかった。今でもそうなのだが、恋愛がからんでくるととたんに面白くなくなる。途中で投げ出さなかったのは心理的社会主義リアリズムとして今のぼくがわりと高く評価している『坑夫』くらいのものであろうか。落語的な語り口でユーモアがちりばめられていたから、なんとか読めたのだろうと思っている。・・・・」

ちょっと私に興味深かったのは、「断定的な語り口」という箇所でした。
そういえば、筒井康隆氏は、以前に断筆宣言をしておりました。
語り口をとかく干渉させられる。それを拒否する姿勢が、記憶に新しいところであります。
とりあえずは、語り口。筒井康隆氏は大阪出身なのですが、(何でも特技が大阪弁)
こりゃ、江戸言葉、端的な落語的な語り口とつながってくるのじゃないか。
そりゃ、幸田文の語り口とも地続きな、気安さがありそうだと、つながりをそんたくしてみたくなるじゃありませんか。

ということで、なんでつながるのか、アイマイなままですが、
ここから青木玉へとつなげます。

青木玉は1929年生まれ。
筒井康隆は1934年生まれ。
ちなみに、
漱石と露伴はともに慶応3年(1867年)の生まれ。

青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)のなかの鼎談でした。
小田島雄志・村松友視・青木玉の三人での話の中でした。

【村松】お話の仕方、(幸田)文先生に似てるって言われませんか。
【青木】似てるんでしょうねぇ。
【村松】なつかしい感じしちゃいましたもの、いま。 (p117)

なんていう些細な話から、語られてゆくなかに『吾輩』が出てきたりするのでした。

【青木】祖父は若いころ『珍饌会』というへんな食べもののことばかり書いた本を出してるんです。いまで言うグルメを揶揄したものですね。夏目漱石の『吾輩は猫である』が天下一品楽しい本だと思って読んでたら、祖父が母に『玉子に、おれのものも読ませろ』と。『これはむずかしい本読ませられるんで、かなわないなあ』と思ってたら、読ませられたのが『珍饌会』でした。
【村松】おいくつぐらいのときですか。
【青木】小学校六年ぐらいだったと思います。


う~ん。露伴の孫が、家で漱石の本を読んでいるわけです。
ところで、『吾輩』は露伴の蔵書だったのでしょうか?
というのが、次の疑問。
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納棺夫日記。

2009-06-10 | Weblog
青木新門著「納棺夫日記 増補改訂版」(文春文庫)を読みました。
前半に印象的な箇所が、登場します。
そういえば、後半の第三章に親鸞が登場しておりました。
その親鸞の箇所で、こう指摘しておられます。

「親鸞の主著は、『教行信証』である。
今日では、浄土真宗の立教の根本思想となっている。
この書を開いて、まず気づくことは、最初の教えの巻が他の五巻と比べると極端に短いことである。それは、『教行信証』全体の結論から先に述べてあるからである。また他の五巻も、巻頭は裁判所の判決文のように一行の結論で済まし、後は判決理由を長々と述べるといった書き方である。・・・親鸞は常に、結論から先に述べている。」(p92~93)

この納棺夫日記で、最初に登場する印象的な箇所。
それは、葬祭業になって、あらてめて、地方の風習を語る箇所でした。


「今日までこの地方では、この湯灌・納棺をする人は、死者の従兄弟か叔父や甥がするのが習わしとなっている。選ばれた二、三人は、町内や村の長老や葬儀屋などの指示で、渋々行うのである。なぜか使い古しのエプロンか割烹着を裏返しに着て、荒縄などでたすきをしたり、腰をしばったりした異様ないで立ちで行う。そして始めるのかと思うと、コップ酒をあおり、わあわあと興奮しているだけで、一向に作業がはかどらない。一々口出しする船頭が多いせいもある。
湯灌というのは、長い間寝たきりの状態で死亡した死者を送り出すとき、せめてきれいな体にしてあげようと、全身を洗い清めた風習である。・・・・
船頭が多い上、やりたくないのにやらされた素人が酒をあおって行うわけで、死者を全裸にしたり、起こしたり横にしたりするものだから口や鼻や耳から血が出てきたり、不快は状況を現出させるわけで、取り巻く人々は死者への愛惜の念と死体への嫌悪感と死への恐怖などが入り混じり、いやがうえにも興奮状態が増幅されてゆく。」(p12~13)

現在では、それは、どなたがやっているのか?
というと、たとえば、養老孟司さんは語っておりました。

「理科系の僕からいわせると、文科系の人は、日本の世間というのはどういう原理で、どいうやって動いているんだということをきちんと調べてほしい。葬式の問題なんて、解剖学をやっているこっちのほうが詳しいんです。現につきあわざると得ないから(笑)。そうするといろんなトラブルが起こるから、一応、私なりに理屈をつくって、こうなっているんだなあと理解して、徐々に本筋が見えてくる。学問は本来そうやって育っていくものだと思います。
そしてやっぱりエリートは、そういう本筋を見なければいけない。予測にしても、現状把握にしても、イデオロギーを持ち出したらどこまでも議論が続いてしまいますが、『モノで見る』という部分をきちんと押さえておけば、きちんと把握できるし、間違えたときにはどこで間違えたかがわかる。意見の食い違いがあるのはいいですが、一方で、モノについては非常に冷たく把握しておく必要がある。」(p104)

これは渡部昇一・養老孟司対談「日本人ならこう考える」(PHP)にあります。

青木新門氏のいう「コップ酒をあおり、わあわあと興奮しているだけで、一向に作業がはかどらない。一々口出しする船頭が多い・・」
というのと、
養老氏のいう「文科系の人は、日本の世間というのはどういう原理で、どいうやって動いているんだということをきちんと調べてほしい。葬式の問題なんて、解剖学をやっているこっちのほうが詳しいんです」というのと、
二つを並べると面白く感じます。

ちなみに青木氏は早稲田大学中退で、富山市内の飲食店を経営し倒産。そして冠婚葬祭会社へと就職し、納棺を職業としてしたのでした。

医者との接点も何箇所が登場するのですが、
最初には、こんな箇所がありました。

「納棺を終え僧侶の控室へ案内され、僧侶と一緒にお茶を飲んでいると、『先刻より見せていただいていたのだが、あなたは偉いね、われわれ僧侶も見習わなければならない。ところで、あなたはどこの医学部を出られたのですか』と聞いた。
あまりに唐突な質問に戸惑っているところへ通夜の準備が整ったとの案内があって会話が中断した。なぜ医学部なのか分からなかった・・・」(p32)

ちなみに、青木氏は、旧満州で終戦を迎え、その時は、8歳とのこと。
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堤堯。

2009-06-09 | Weblog
自由社の「日本人の歴史教科書」は、
右ページから読み始めると、「日本を読み解く15の視座」という15人の文章が掲載されております。そこに堤堯氏の文があったわけです。
興味をもちまして、現在は新刊書店で手に入らない
堤堯著「昭和の三傑」(集英社インターナショナル・2004年4月第一刷)を古本屋へと注文し読みました。楽しかった。フィクションは読まない方なのですが、これがフィクションだとすれば、ワクワク・ゾクゾクしながら、楽しめます。

ところで、堤堯といえば、月刊雑誌「WiLL」に毎回対談が載っております。他には「ある編集者のオデッセイ」の連載も、この雑誌にしております。
この雑誌には毎回女優の写真が掲載されているのでした。
たとえば2009年7月号は淡島千景の写真が16ページほど掲載されてます。
その写真をめくっているうちに、堤堯・久保紘之対談「蒟蒻問答」(もう38回目)があります。毎回二人のむくつけき写真が載っている(笑)。
女優の写真と問答対談お二人対談者写真のギャップ(笑)。
どうして、この雑誌は、毎回、堤堯・久保紘之の写真を掲載するのだろうと、門外漢は疑問に思っておりました。
たとえば、司馬遼太郎などの対談で対談二人の写真が掲載されているのは絵になる。でもこのお二人の写真は、毎回いただけないなあ、と思っておりました。

その堤堯の本を今回はじめて読んだわけです。
「昭和の三傑」を読むと、雑誌の、むくつけき顔が何とも親しい顔にみえてくるのが不思議です。写真を見るのと、本を読むのとでは、これほど違うのか、という見本みたいなギャップがありました。

とりあえず「蒟蒻問答」7月号の堤堯氏の発言でも引用しておきましょう。

「麻生が政権をとってから解散解散、政権交代政権交代という言葉が乱舞した。けれど、解散してどうなる?交代してどうなる?解散して政権交代すれば世の中がよくなるなんて言うけれど、具体的にどう良くなるのか書いているやつは誰もいない。民主党はガセネタ国会で醜態を晒した。張本人の議員・永田某は自殺した。そんな民主党に政権担当能力があるのか、その検討もない。西松事件で冷水を浴びせられるや、『国策捜査』の合唱だ。そして今回、小沢が辞任するや『小沢の捨て身が自民党を追い詰める、これで交代だ』と煽り立てる。交代すれば後は野となれ山となれで、『交代』の合言葉の前に、あとはどうなるか、想像力を停止させているとしか思えない。仮に民主党が比較第一党になったとして、場合によっては社民、共産と束を結ばなきゃ政権運営できない。国の安全保障ひとつをとっても、意見はバラバラだ。憲法改正だって、ますます遠のく。それでいいのかね。・・・」(p60~)

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名残(なごり)。

2009-06-06 | 幸田文
幸田文晩年の作品に「木」「崩れ」があります。
たとえば、松山巌氏は、こう書きはじめておりました。

「瑞々しい眼、若々しい意欲。いかにも常套的な惹句だが、こう記せずにはいられない。幸田文が亡くなって早二年が経とうとしている。生前に発表しながらも、自身ではどこか不満があって、単行本としなかった文章が相次いで刊行された。『崩れ』と『木』である。・・・」(「手の孤独、手の力」中央公論新社。p99)

また、松村友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の最後の方には、こんな箇所もありました。

「・・・『崩れ』は、生前には上梓を見なかったが、この作品が陽の目を見て本当によかったと思う。それは、『崩れ』という作品こそ、幸田文が作家として残した、幸田文自身への真の意味での鎮魂歌だと思うからである。」(p261)


どうして、これが単行本として生前に出版されなかったのか?
まずは、そんな疑問を素人は安易にも思うわけです。
そういえば、と思い浮かぶのは、
「おくのほそ道」についてでした。
芭蕉は、「おくのほそ道」を、どうしたか?

「元禄七年四月のことでした。清書にかかったであろう時間を考え合わせますと、おそらく元禄六年の冬か七年の春の早いころではなかったでしょうか。こうしてできあがった素竜本は、芭蕉みずから題簽(だいせん)をしたためた上、その年五月の芭蕉の最後の旅の際、その頭陀袋(ずだぶくろ)の中に入れられて・・郷里伊賀の実兄松尾半左衛門に贈られました。何回かの推敲の果てに、やっと完成した作品を、出版しようと計画するでもなく、また他の門人たちに見せたりもせずに、別に文人というわけでもない兄に贈った芭蕉の胸中は、今日の常識からはちょっと理解しがたいところですが、この年正月、郷里の門人意専(いせん)に宛てた書簡の中でも、『利の名残も近づき候にや』と漏らしていたように、あるいは芭蕉はすでに死のそれほど遠くないことを予感するとともに、この作品をひそかに自分の生涯の総決算と考え、死後の形見とするつもりだったのではなかったでしょうか。」

こう語るのは、尾形仂氏(「芭蕉の世界」講談社学術文庫 p252)
尾形氏は、こう語ったあとに、
郷里伊賀の門人土芳(どほう)の書いた『三冊子(さんぞうし)』を引用しておりました。その箇所も孫引きしてみましょう。


「ある年の旅行、道の記すこし書けるよし、物語りあり。
 これを乞ひて見むとすれば、
 師いはく、さのみ見るところなし。
 死してのち見はべらば、これとてもまたあはれにて、
 見るところあるべし、となり。
 感心なることばなり、見ざれどもあはれ深し。」


これを引用したあとに、尾形氏は語ります。


「とありますのは、この紀行文をさしての問答ではなかったか、と思われないではありません。兄に贈られた素竜本が、門人去来の手によって京都の井筒屋庄兵衛方から出版されたのは、芭蕉が亡くなってから八年を経た、元禄十五年のことでした。」
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俳諧評釈口述。

2009-06-04 | 幸田文
幸田文という入口から、いろいろな、繋がりの広がりを思い浮かべるのでした。
たとえば、俳諧。
たしか、松尾芭蕉は、おくの細道のはじまりに、深川から千住へと行くところからはじまっていました。幸田露伴の向島をすぐに思い浮かべます。

ちょっと話をかえて、
幸田文対話に、関口隆克氏との「おさななじみ」という対談が載っております。
それは、何と、幸田文の向島時代を知っている方が、二人で思い出を語っているものでした。まさか、こんな話を聞けるなんて。というのがでてくるのでした。

【関口】・・雷門のところで電車をおりて、吾妻橋で一銭蒸汽に乗ろうとしたら、あの舟板っていうのか、板があって、あれを渡ろうとしたときですよ、落ちた、落ちたって・・・・。
【幸田】あれ、あたくしよ。

それから、その時の様子が話されているのでした。
まあ、それはそれとして、
幸田露伴と幸田文と芭蕉との接点。
ということで、幸田文対話から、ひろってみます。


【幸田】私のところはね、何回も何回も新陳代謝しているものですから。貧乏になると売りますんで(笑)。もっとも大きかったのは大水が出たとき棚がひっくりかえって、書物が水びたしになりました。その時、父がいいました、『おれはもう頼らない、これからは腹の中に書いちゃうから」って。私、子供心に覚えておりますけれど、その濡れた本を、丁寧に一枚一枚、象牙のヘラではがしたものです。唐紙ですから破れやすいし、どっちの字か判らなくなりますしね、しかも早くしないとカビが出ますし、あれは大変な仕事でした。それから貧乏で売りますし、引越しの度に少くなりますし。この戦争の時には、自分の着るものや寝るものを疎開して父の本を焼いたといわれたのでは、ひとりっ子ですから相すまぬと思いましてね、一部をトラックで埼玉県に疎開しました。その時、父がしみじみしまして、あの残ったものが、・・・

【山縣】それは残っておりますか。
【幸田】はい。その時、父がしていたのは俳諧の仕事、評釈でしたが、その関係のものだけは、身のまわりにおき残しました。ですからこの関係のものは焼けました。
・・・・
【幸田】古い俳諧の注釈をすることは、書物がどっさり要ることです。俳諧ですから、生活百般にわたりますから、ずい分材料が要るわけです。人に物を調べさせるわけですが、あんな難しいことはありませんね。ちょっと知識が足らないと手が届かないんでございます。そのちょっと手が届かないところがくやしいのです。ですから寝ておりましてね、なぜお前はそこを一歩突っ込まないって怒っているんでざんすよ。しかもこの助手は人様の息子さんでしょ。・・・・
父が仰向けに寝ている、いっぱいにむくみながら文語体の口述をする。私もやりましたが、寝ながら文語体の口述というのは大変でざんすね。これを仰向けになったままするんです。そうしてこれで治定したから、これを明日清書して、もう一回読んで、文章の悪いところをなおして、これで決定だとなりますと、私も、私の娘も当時十六だったんですが、涙がこぼれましたね。一生懸命仕事しているのは男でございましょ。男の世界ですよ。感情はそこにないんですから。だけど襖一重のこっちでは女二人が感情がいぱいになってきているんでざんすよ。そこに空襲でございましょ。父も年とっておりましたし・・・・。

【幸田】あれをやるのを傍らで手伝いながら、感情を動かしながら聞いていたことが、やっぱり、こうして雑文を書くようになってから、大変為になったと思っています。何しろ季節が非常にあるものでございますから、それにたいする厳しい批判がある、おもしろうございました。しかしこうして何か書くようになるなら、もと一生懸命に聞いておけばよかったと思うのですけれど。


                      番茶清談(山縣勝見)

この対談もまだまだ面白い。それに、
他の人との対談でも、この場面の回想が出てきます。
もうすこし列挙してゆくと面白いのでしょうが、これくらいで。
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