古典の音読。ということで三人の見識。
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文春文庫)の「学生時代の私の読書」。
田辺聖子著「古典の文箱」(世界文化社)の中の「古典と私・わが師の恩」。
「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)の第三章「伝統について考える」。
司馬遼太郎さんの言葉は、
「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの『歎異抄』を買って来て、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきがつたわってきます。それに、自分の日本語の文章力をきたえる上でも、じつによい方法です。
『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がしています。」(p39)
田辺聖子さんの言葉
「女学校の国語の時間が、これまた面白くもないものだった。やたら人生教訓的な文章ばかり載っていて、ここでも私は身を入れて勉強しなかった。二年生か三年生のころ、国語をⅠ先生に教わることになった。小柄だが動作のきびきびした、美貌で声の美しい先生、三十代に入っていられただろうか。きちんとした標準語、アクセントも関西のものではなかった。・・・ピッとからしのきいた授業ぶりで、私はいっぺんに、ねむけがふっとんでしまった。私はⅠ先生が好きになったから、国語が好きになったのである。古典の文法、などというものは見ただけでうんざり、というしろものだが、Ⅰ先生は、『耳になれるといいんです。耳からおぼえると、自然に身につきます』とおっしゃっていた。そして古典の暗記、というのを生徒に強いられた。『方丈記』の冒頭・・・『平家物語』の開巻冒頭に出てくる名文・・・などを暗誦させられた。それから『太平記』では、俊基朝臣(としもとあそん)の東(あずま)くだりの美しい文章・・・なども。
古典の名文は古来から人々に愛誦されてきただけあって、まことにリズムも詞(ことば)も美しく、若いみずみずしいあたまには、砂地に水のしみこむように入ってゆく。体で古典になじむ、という学習方法を、Ⅰ先生は考えていられたのかもしれない。耳で馴染み、声を出して口ずさむ古典は、いきいきと色彩を以ってもぶたに顕(た)ってくるのであった。決してひからびた古めかしい時代ものの骨董品ではないのであった。
もうひとつ、Ⅰ先生に教わったものに、短歌の朗詠がある。・・・・朗詠に向くうたと、向かないのがあり、いちばんぴったりしたのは啄木であった。・・・」(p289~290)
最後は、鼎談でのドナルド・キーンさんと瀬戸内寂聴さん。
【キーン】 ・・日本の高校生たちは、たしかに古典文学を部分的に読むんですけれども、それは文学の観賞のためではないんです。文法のためです。文語体を覚えるために、ここに係り結びがあるとか、そういうことを覚えるためです。しかし、多くの日本人は、いったん大学に無事に入ると、もう古典文学を読みません。私は、それなら、寂聴さんの現代語訳を読んだほうがはるかにいいと思います。そして、専門的に勉強したいと思ったら原文で読めばいいですね。さいごまで日本文学を読まない人は不幸だと思います。
【瀬戸内】 なんでもいいから訳を読んでくれて、面白いなあと思ったら、必ず原文を読みたくなるんですよ。
【キーン】 なります。
【瀬戸内】 そのために現代語訳があるんだと思います。決して、それで終らないの。『こんなに面白いんだったら、原文はどんなかしら?』と思ってほしいですね。そして、朗読すれば原文がわかるんですよ。あれは不思議ですね。 (p214~215)
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文春文庫)の「学生時代の私の読書」。
田辺聖子著「古典の文箱」(世界文化社)の中の「古典と私・わが師の恩」。
「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)の第三章「伝統について考える」。
司馬遼太郎さんの言葉は、
「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの『歎異抄』を買って来て、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきがつたわってきます。それに、自分の日本語の文章力をきたえる上でも、じつによい方法です。
『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がしています。」(p39)
田辺聖子さんの言葉
「女学校の国語の時間が、これまた面白くもないものだった。やたら人生教訓的な文章ばかり載っていて、ここでも私は身を入れて勉強しなかった。二年生か三年生のころ、国語をⅠ先生に教わることになった。小柄だが動作のきびきびした、美貌で声の美しい先生、三十代に入っていられただろうか。きちんとした標準語、アクセントも関西のものではなかった。・・・ピッとからしのきいた授業ぶりで、私はいっぺんに、ねむけがふっとんでしまった。私はⅠ先生が好きになったから、国語が好きになったのである。古典の文法、などというものは見ただけでうんざり、というしろものだが、Ⅰ先生は、『耳になれるといいんです。耳からおぼえると、自然に身につきます』とおっしゃっていた。そして古典の暗記、というのを生徒に強いられた。『方丈記』の冒頭・・・『平家物語』の開巻冒頭に出てくる名文・・・などを暗誦させられた。それから『太平記』では、俊基朝臣(としもとあそん)の東(あずま)くだりの美しい文章・・・なども。
古典の名文は古来から人々に愛誦されてきただけあって、まことにリズムも詞(ことば)も美しく、若いみずみずしいあたまには、砂地に水のしみこむように入ってゆく。体で古典になじむ、という学習方法を、Ⅰ先生は考えていられたのかもしれない。耳で馴染み、声を出して口ずさむ古典は、いきいきと色彩を以ってもぶたに顕(た)ってくるのであった。決してひからびた古めかしい時代ものの骨董品ではないのであった。
もうひとつ、Ⅰ先生に教わったものに、短歌の朗詠がある。・・・・朗詠に向くうたと、向かないのがあり、いちばんぴったりしたのは啄木であった。・・・」(p289~290)
最後は、鼎談でのドナルド・キーンさんと瀬戸内寂聴さん。
【キーン】 ・・日本の高校生たちは、たしかに古典文学を部分的に読むんですけれども、それは文学の観賞のためではないんです。文法のためです。文語体を覚えるために、ここに係り結びがあるとか、そういうことを覚えるためです。しかし、多くの日本人は、いったん大学に無事に入ると、もう古典文学を読みません。私は、それなら、寂聴さんの現代語訳を読んだほうがはるかにいいと思います。そして、専門的に勉強したいと思ったら原文で読めばいいですね。さいごまで日本文学を読まない人は不幸だと思います。
【瀬戸内】 なんでもいいから訳を読んでくれて、面白いなあと思ったら、必ず原文を読みたくなるんですよ。
【キーン】 なります。
【瀬戸内】 そのために現代語訳があるんだと思います。決して、それで終らないの。『こんなに面白いんだったら、原文はどんなかしら?』と思ってほしいですね。そして、朗読すれば原文がわかるんですよ。あれは不思議ですね。 (p214~215)